PR
Calendar
Category
Comments
Freepage List
空白の一日(連載第3 回)
ここで少しさかのぼって、江川サイドに立って「空白の一日」に至ったいきさつを考えてみる。
作新学院3年生だった1973年、巨人入りを夢見る江川は、表向きには進学を宣言する。それでもドラフト会議では阪急ブレーブス(現オリックス)に1位指名されてしまった。入団を拒否して法政大学に進んだのは本人の選択の自由で、これをダーティということはできない。しかし、「怪物」と言われた江川がプロの舞台で投げる姿を一刻も早く見たい勝手な世論は、プロ入りを拒む江川にもどかしさを感じていた。
高校時代にプロレベルの力を持っていた江川である。東京6大学野球での4年間は就職浪人していたに等しい。江川本人にとっても、プロ野球関係者やプロ野球ファンにとっても長い年月だった。1977年秋、江川は 「読売以外に指名された場合は拒否する」 と宣言して、2度目のドラフト会議を迎えることになる。
運命の11月22日。日本中が固唾をのんで見守るなか、1番くじを引いたクラウンライター・ライオンズは迷うことなく江川を指名する。当時は 「完全ウェーバー方式」 が採用されており、競合なしで選択が確定してしまった。江川はクラウンとの入団交渉を拒否すると、社会人野球にも進まず、作新学院職員に籍を置き、「野球留学」と称してアメリカへ旅立ってしまう。
世論は沸き立ち、江川に対する風当たりが強まったが、同時にドラフト制度の抱える欠点についての議論も巻き起こり、ついに国会にまで飛び火した。「ドラフト制度は職業選択の自由に抵触」、「民法90条違反」、「独占禁止法違反」などが指摘され、人権問題にも発展したのである。
1978年2月16日の衆院法務委員会には、井原宏プロ野球コミッショナー事務局長、鈴木龍二セリーグ野球連盟会長、三原修パリーグ野球連盟会長、野球評論家の川上哲治、同じく荒川堯が参考人として招致され、意見を述べている。とにかく 妙にネチネチした質疑が行なわれているので興味ある方は 次アドレス を参照のこと。
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/084/1080/08402161080002a.html
1978年11月のドラフト会議から 「完全ウェーバー方式」 が廃止され、重複指名の場合は抽選を実施するという制度改正が行われたが、この国会議論の影響を受けてのものと考えて間違いないだろう。その裏で、読売、江川らを取り巻く関係者が政治的に暗躍したのではないかという疑いはぬぐいきれない。
しかし、ここまで手を打っても、江川が確実に巨人入りするには、依然として「複数指名による抽選」というハードルが残っている。もはや 「空白の一日」 だけが単独で獲得するために残された最後の手段だった。江川が社会人野球に所属せず、「野球留学」を選んだことも、野球協約を研究したうえでドラフトの対象にならないように細心の注意が働いていたと推測できるのである。
こうして一連の経緯を見てくると、政治力なくしてはありえない展開であり、もはや江川一人のわがままというには事が大きすぎる。本人は言い訳していないが、江川自身も周囲の大きな渦の中で翻弄されていた一人だったのかもしれない。
さて、話を戻して・・・
契約を盾に開き直る読売!
ドラフトで獲得した交渉権を有効とする阪神!
板挟みとなったコミッショナーはどうする?
本題が何も進みませんでした・・・続きは後日。
悲劇の日本シリーズ 1964年 2023年02月24日
タイガースの記憶その5 2016年01月07日 コメント(5)
タイガースの記憶その4 2016年01月06日