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2020年10月22日にオープンした岐阜関ケ原古戦場記念館に行ってきました。岐阜県立の施設です。 今年は関ヶ原合戦420年ということだったんですが、実際はオリンピック・パラリンピックや大河ドラマなどでの集客を想定して6月後半に開館する予定だったようです。 ところが、コロナウィルスの影響でオリンピックは延期。インバウンド観光客もシャットアウトされ、濃密な接触もダメ。すべて当てが外れてしまいました。 GoToトラベルやGoToイートが開始されてようやく旅行客も動き出してきたのに合わせてのオープンですね。 中に入ると障壁画がありますが、岐阜県出身の左官職人・挟土秀平(はさどしゅうへい)氏が手掛けたもので、国の史跡になっている徳川家康本陣と石田三成本陣の土を練り込んで描かれた貴重なものです。 入館後の順路は、最初にシアターで10分弱の映画を観ることになります。これは座席が振動したり風が起こったりして臨場感があります。内容はドラマ仕立てで時間の経過に沿って解説されるので、とても分かりやすいです。 その後は展示室に進みます。関ヶ原は町全体が合戦場のようなものですから、当時から残っているものや出土品も豊富で、「本物」が多く展示されています。次の写真はレプリカですが・・・ 最上階の5階は360度の展望室になっていて、合戦の舞台のほぼ全域が見渡せるんですよ。 足元は航空写真の地図になっているので、周囲の風景と見比べながら、各部隊の布陣を確認することができます。この日は天気が良くて、じっくり観ることができました。 隣にある別棟にはミュージアムショップがあって、お土産も豊富に揃っていますから立ち寄ってみるのもいいですね。ここにはカフェ兼レストランもございます。 県立の施設なので入館料は大人500円と大変お安くなっています。東海方面にお出かけの機会があれば一度行ってみてください。 関ヶ原探訪のカテゴリーがしばらく途絶えてしまっているので、これをきっかけに再開したいです。 ではまた! 岐阜関ケ原古戦場記念館 〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原894-55 TEL: 0584-47-6070 開館時間/9:30~17:00(入館は16:30まで) 休館日/毎週月曜日(祝日の場合は翌日)、12/29~1/3)
2020年11月04日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。参加意欲を喪失した島津隊 Vol.04徳川家康陣地その2の冒頭で触れましたが、赤坂岡山に着陣した家康をその夜のうちに襲撃しようと進言したのが島津義弘でした。 東軍の陣営が整う前に戦を仕掛け、大垣城にこもる西軍本陣を攻めさせて長期戦に引きずり込んで、大阪城からの援軍を待つ・・・というような戦略だったのではないかと想像されます。 しかし、三成は動かず、逆に東軍側の誘いに乗って、翌日関ケ原での野戦に応じてしまったため、義弘は戦意喪失して関ケ原に向かったというのが通説です。(注:ただしこれらの話は一次史料としては残っておらず、二次的な「落穂集」という編纂物にしか記載されていないそうです。)島津義弘陣地へ 合戦のために薩摩から大軍を送るのは大変な経費と日数もかかるため、義弘は大阪などにいた人員を率いて参陣しています。記録によると2500~3000人程度の兵数ですから、大した戦力にはならなかったかもしれません。 島津隊陣地の近くには10台程度の駐車場があります。周囲は林のような場所です。ここに車を止めて少し歩くだけで陣地跡につきます。 夏でも涼しそうなところです。 島津義弘の陣地跡は、関ケ原町大字小池の神明神社の裏手にあり、大きな石碑が建っています。土台を含めると5メートルくらいある大きな碑です。 合戦の中での島津義弘は「今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候(それぞれが勝手に手柄を立てられるよう戦う)」と宣言し、どちらにつくともなく、島津隊に近づくものを追い払うだけの動きしか見せません。 業を煮やした石田三成が直接陣地を訪れて参戦を促しても、追い返されてしまいます。このあたりのくだりは昨年公開の映画「関ヶ原」でも出てきましたね。次の解説プレートにも記載されています。 そうこうしているうちに、小早川秀秋らの寝返りによって戦いの様相は一気に西軍に不利な状況になりました。 勢いに乗った小早川らの軍勢が南から大谷隊、小西隊に襲い掛かり、その北に位置する島津隊に迫ってきます。東からは井伊直政、福島正則、松平忠吉、藤堂高虎などの猛将や東軍本隊が寄せてきています。 島津隊は、あっという間に東軍に押し包まれてしまいました。このころには西軍本陣も雲散霧消して三成も逃走し、島津だけが敵中に孤立無援の状態で取り残され、徐々に兵力を削り取られていきます。島津の引き口島津豊久決死の「捨てがまり」 ここに至って、義弘は自刃の決断をするのですが、それを止めたのが義弘の甥にあたる島津豊久でした。豊久は「戦後の島津存続のためには義弘が必要だ。自分はここで戦死してでも食い止めるから、脱出して薩摩へ帰還してほしい。」と自らを犠牲にして義弘を生還させようと説得したのですね。 豊久の説得に意を決した義弘は、上の図にあるように意表をついて真正面の家康本隊へ突撃するかに見せかけ、かすめるように脇をすり抜けて伊勢街道方面へ脱出する作戦を取りました。どうせ一旦は死を覚悟したわけですから、捨て身の判断は早かったみたいですね。 ここで豊久がとった戦法が「捨てがまり」と呼ばれるものでした。 一般的な殿(しんがり)とは違い、本体から離れた小隊規模で、まず鉄砲で足止めし、玉がなくなれば槍に持ち替えて敵中に突っ込んで死ぬまで戦う。 これを波状的に次々に繰り出すことで、味方主力を逃がすというものです。この死が確実という壮絶な戦法を指揮し、豊久は関ケ原町と上石津町の境にある烏頭坂(うとうざか)までたどり着きます。 下の写真が烏頭坂。奥方向、山の向こうが関ケ原です。 ちゃんとバス停もありますよ。 烏頭坂まで、あまりの抵抗に福島正則が追うのをあきらめても、井伊直政と本田忠勝の隊が執拗に追撃してきました。死を覚悟で戦う豊久隊の前に、井伊直政は重傷を負いますが、ここで豊久を仕留めたと言われています。 この体験から島津氏の恐ろしさを実感したのでしょうか、戦後、直政は徳川と島津の和平の仲立ちをしています。また、烏頭坂での負傷が思いのほか影響し、2年後の1602年に亡くなっています。 烏頭坂には島津豊久に関して墓もあり碑が建てられていますが、一応「戦死處」となっています。 これが「戦死處」の碑です。 立派な墓があります。 下の解説では異説について触れていますよ。 もう一説とは、三度も槍で突かれて瀕死になりながらも、義弘を無事に逃がすことに成功した豊久は、上石津町の瑠璃光寺あたりまでたどり着いて、そこで自刃したというもので、そこにも墓があります。その墓所については写真等、のちに加筆したいと思います。 それにしても、関ケ原合戦における島津隊はまったく独自の判断で独自の動きをしており、直接合戦に影響があったのか無かったのか??なんとも説明がしにくい存在だったようですね。 戦後、「島津は参戦したのではない。長兄で当主の義久は何ら命令しておらず、関ケ原における義弘の行動は全く個人的判断だった。とくに徳川に敵対したわけでもない。」ということとなり、徳川と島津は和解したのです。実に不思議ですね!
2018年01月04日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。毛利輝元の思惑 関ヶ原の戦いでの毛利の動きを見ると、そもそも家康と戦う気はなく、戦後の領地安堵のほうが優先されていたのではないかと感じます。さらにこの合戦前後には混乱に乗じて自領周辺に軍事行動を起こし、領地の拡大を図っています。 西軍の総大将となったものの、自分は大阪城を動かず家康と戦うことはありませんでした。名代として前線に出張った毛利秀元にも南宮山を動かさず、戦力を損ねないように努めさせておいて、戦後はうまく和睦して自領は拡大する。こうした戦略で関ケ原に臨んでいた可能性が推測されるのですね。 一部には、最初から家康に勝てるとは思っていなかった輝元が、石田三成を決起の張本人のように仕立てておいて合戦し、自分は直接戦わず、敗戦の責任は三成に負わせるという、高等な生き残り戦略を描いたと説くものがあります。関ケ原での秀元の動きもまたそれを裏付けているようにも見えます。毛利秀元陣地「南宮山」へ登る 麓にある南宮大社は崇神天皇時代に創建されたと伝えられる非常に古い神社で、関ケ原の戦いでは戦火により焼失します。家康はこのことを気にかけており、孫の家光の代のときに再建されています。一説には西美濃出身で家光の乳母であった春日局の強い要望もあったとされます。次の「東照宮」などは家康ゆかりであることを示していますね。 次の写真のように関ヶ原合戦にちなんだものもありますよ 毛利秀元陣地まではハイキングコースとなっています。案内表示に従って登ってみます。 ここはまだ境内です。伏見稲荷風の鳥居が並んだところを進んでいきます。安国寺恵瓊陣地 ハイキングコースに入るちょっと手前のところに安国寺恵瓊の陣地跡があります。恵瓊は毛利家の外交官的役割を果たしていた僧侶から名をあげ、豊臣秀吉の側近にまでなりました。秀吉の死後は反徳川家康の決起や輝元を西軍の総大将に据える画策などを裏で主導したのは彼だと言われています。関ケ原合戦では秀元陣地のおひざ元に陣取りました。解説坂もあります 関ケ原の戦いでは、安国寺恵瓊も南宮山を動けず戦闘に参加しませんでしたが、戦後は三成と諮った首謀者の一人とみなされ、六条河原で斬首されています。 ハイキングコースを進みます。入り口近くに案内図があります。東回りルートで登ります。 この辺りは自然も豊かでイノシシ、鹿、ツキノワグマ、ニホンザルなどの動物も生息しており、獣害を防ぐためフェンスが設けられています。ハイキングコースには自分で鉄扉を開けて入っていきます。ハイキングコースは好く整備されています。 休息所も何か所か設けられています。 毛利秀元陣地に到着 12時20分ごろ登りはじめ、陣地についたのが13時38分。コース入り口には約1時間のコースと書いてありましたが、途中休憩したり写真を撮ったりしていたので、自分の足でも実質大体1時間ぐらいかなと思いました。 この陣地からは東方向、南方向の眺望がすばらしくいいです。大垣城、岐阜城、清州場、名古屋城などもすべて見えますね。 解説プレートは関ケ原町と同じタイプの立派なものが設置してありました。 ところが、西北に当たる関ケ原方向を眺めようとしても鬱蒼としているし、延々と尾根が連なり、しっかり見通せない位置関係です。 毛利秀元は、毛利元就の四男穂井田元清の子で、7歳の時、子供に恵まれなかった従兄の毛利輝元の養嗣子となります。 文禄4年(1595年)に輝元に実子が生まれると16歳の時に世嗣を辞退しましたが、4年後には独立した大名と認められ、別家を創設してそのまま毛利を名乗っています。関ヶ原の戦いには若干21歳で、1万3千の大軍を率いて参戦しました。 しかしながら、前述のように麓から1時間もかかる山上に本陣を置くこと自体、不可解です。もともと地形上、関ケ原を見通すことができないし、大軍が移動するには山奥過ぎて、時間も体力も消耗してしまうような場所なのです。 ハイキングコースの下りは西回りが速いのですが、それでも40分は優にかかります。さらにそこから決戦地まで4キロ以上ありますから、いざ出陣となって決戦場につくまで頑張っても2時間かかってしまいます。これでは火急の時にまったく間に合いませんね。 しかも、草鞋(わらじ)のようなものしか履いていない足軽では、駆け下りているうちにけが人続出でしょう。どうみても合理的ではなく、本当に戦意があったのか疑わしくなります。吉川広家陣地跡 南宮山を下って、少し西に行くと吉川広家の陣地跡があります。吉川家は毛利家の家老兼外交官という立ち位置にあり、毛利安泰のためには、家康とことを構えるべきではないと考えていました。そのため、もともと石田三成とも仲が悪かったこともあり、関ヶ原では黒田長政通して東軍に内通し、毛利軍を南宮山にくぎ付けにしたと言われます。 安国寺恵瓊らに戦闘開始を催促されても、「いまから兵に弁当を食わすところだ」などと嘘を言って引き延ばしを図り、これが「宰相殿の空弁当」という有名な逸話として残っています。 しかしながら、次の理由から非公式サイトは、吉川の動向いかんにかかわらず、毛利軍は動く気がなかったのではないかと想像しています。 一つは毛利輝元が大阪城を動かず、逆に西国で自領周辺への侵略行動を継続していたこと。もう一つが秀元が戦闘参加に不便な南宮山上に陣を敷いたことです。本気で戦う気があったなら、もっと麓に布陣すると思うのですが。もし、そうしていたら、家康は桃配り山に陣を置くことはとても危なくてできなかったでしょう。 簡単に「南宮山に1万3千の脅威!」と言いますが、滑り台があって下りてくるのとはわけが違います。現在の整備されたハイキングコースですら軽装備とトレッキングシューズでも1時間かかります。武装して槍や鉄砲を担いだ足軽が、鍛えられていたとはいえ半分の時間で移動するのは難しいでしょう。 急坂で将棋倒しでも起こしたら下りてくる前に全滅です。こうしたことは実際に登ってみて初めて実感できたのですが、ここに布陣した時点で毛利秀元隊は戦闘不参加を宣言したようなものだと考えるのが自然に思えます。 家康も、念のため桃配山後方に毛利への備えとして山之内一豊や浅野幸長などを配置していますが、現実的には毛利は動かないだろうと確信していたのではないでしょうか。
2017年09月18日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。 前回Vol.8では大谷吉継について書きました。今回は関ケ原での吉継をめぐる人たちについて記述します。小早川秀秋についてはVol.2で紹介してありますので、そちらを参照ください。 脇坂安治陣地(松尾山麓) 脇坂安治は、元々は浅井長政に仕えていました。浅井家が織田信長に滅ぼされると織田家に召し抱えられ明智光秀の与力となりますが、のちに木下藤吉郎の直参の家来になりました。 賤ヶ岳の戦いでは福島正則や加藤清正らとともに武功を上げ、七本槍の一人になり3000石を与えられます。その後も手柄を重ね、朝鮮の役ののちには3万3千石の大名になっていました。 豊臣秀吉の死後は徳川家康に接近しており、関ヶ原の戦いでは、大谷吉継とともに小早川秀秋に備える布陣の一翼を担いますが、すでに藤堂高虎の工作によって、最初から東軍への参加を決めていたようです。松尾山麓の陣地跡へ 脇坂安治の陣地は松尾山を下ったすぐのあたり、西軍の中で最も小早川陣地に近い位置にあります。現在は名神高速道路の側道から南に入った林の中です、次の写真の左上が名神高速道路。 陣地跡はひっそりとしており、他の武将のような大きいプレートはなく、小さい解説の立て札が立っていました。知名度が低いからでしょうか。 立札の写真も載せておきます。 解説にもあるように、安治は、戦前から家康側に対し、東軍につく意思表示をしていたため、戦後も所領は安堵されています。 正治とともに小早川に備えていた朽木元網、小川祐忠、赤座直保は、安治が大谷隊へ向かって攻めた時に寝返りを決断したようで、のちに減封や改易の憂き目を見たと書かれていますね。平塚為広陣地(藤川台北) 脇坂陣地を後にし、名神高速道路の下をくぐって北側に出て前方に見える小高い台地が、大谷吉継の陣地のあった藤川台です。(奥の高い山ではなく手前の山です)その手前に見える高架は東海道新幹線です。 藤川台には南側と北側の2つの登り口があり、前回は南口から大谷吉継陣跡に登りました。平塚為広の陣地跡は北口の近くになります。 為広は、豊臣秀吉の護衛役として長年仕え、秀吉氏後には秀頼から1万2千石を与えられて美濃垂井城主となりました。 大谷吉継とも親交が深く、ともに挙兵を断念するよう三成を説得したとされます。三成が聞き入れないとみると西軍につき、吉継同様最後まで戦って討ち死にしました。湯浅五助 大谷吉継の配下であった湯浅五助については、一家来に過ぎないことから陣地もなく、解説板もありませんが、忠義の人として名を残しています。 戦闘開始前から、吉継は五助に対し「万一負け戦となった時には、敵にわが首級を渡すな」と命じていました。吉継自刃の際には五助が介錯を務め、切り落とした首を隠すべく藤川台の奥へ入っていき穴を掘って埋めようとします。 ところが、その現場を藤堂高虎の甥藤堂高刑(たかのり)に見つかってしまいました。五助は「自分の首を差し上げるので、吉継の首のありかは黙っていてほしい」と懇願します。 高刑も武士の情けと聞き入れ、五助の首を打ち取りましたが吉継の首については、家康に詰問されても決して洩らしませんでした。この高刑の姿勢に感心した家康が褒美として槍と刀を与えたという逸話が残っています。 現在、知名度は低いのですが、江戸時代には武者絵にも残るように忠義の武人としてたたえられていた人物です。 Vol.8で紹介したように、藤川台の大谷吉継の墓の隣には五助の墓が建てられています。上記の逸話について解説の立て札にも書かれていますので再掲しておきます。 また、吉継の墓の近くに顕彰碑が建てられていますが、その碑の銘文を書いているのが藤堂家の子孫の方というのも感慨深いですね。
2017年09月07日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。西軍への参加を決意 大谷吉継は、長浜時代に豊臣秀吉に召し抱えられその側小姓から身を起こしています。秀吉をして「百万の軍勢を預けて采配を振らせてみたい男」と言わしめたほどの武将です。 徳川家康にも可愛がられており、吉継も家康を「天下人の器」と評価して、秀吉の死後は良好な関係にありました。家康が上杉討伐の軍を起こすと、これに合流すべく吉継も兵3000を率いて自領である若狭を発っています。 7月2日、通り道にある石田三成の佐和山城に寄り、蟄居していた三成と面談します。そこで「家康との関係改善のため、お主の嫡男の重家を自分の軍に加えて連れていってやるがどうか」と持ち掛けました。 ところが、三成は応じず、逆に反家康の軍を挙げたいと打ち明けたといいます。吉継は再三にわたって「内府とやっても勝てない」「お主に人はついてこない」などと、思いとどまるよう説得しましたが、どうしても三成は聞き入れません。数日間、美濃の垂井の宿で思案した結果、吉継は三成につくことを決意します。 吉継は上杉討伐軍への合流をやめ、7月14日に若狭城に戻ると、諸大名への工作を開始。7月26日に前田利長が2万5千の大軍で南下を開始すると、抱き込みに成功した丹羽長重にこれを攻撃させて加賀へ追い返しました。このため、関ケ原の合戦には前田は出てきていません。 吉継は戦う前から、水面下で多大な功績をあげていたのですね。指揮官というより、大局を見た戦略や外交交渉に長けた非常に頭の良い武将だったことが想像されます。人気ナンバーワン 大谷吉継は今日でいうハンセン氏病に感染していたといわれています。天正年間の後半には、かなり進行していたようで、次のような逸話が伝えられています。 天正15(1587)年に大阪で開かれたある茶会の席、武将たちが濃茶を回し飲んでいました。そのうち吉継の順番になり、飲んだときに茶碗の中へ顔から膿(うみ)が落ちます。そのあとの順番にいた武将たちは気持ち悪がって飲むふりをして茶碗をまわしました。吉継としてはいたたまれない気持ちだったでしょう。 三成のところに茶碗がまわってきました。三成は膿もろともお茶をすべて飲み干します。そして、「あまり美味いので全部飲んでしまった。あとの人たちのためにもう一杯所望したい」と言って、吉継だけでなくあとの順番の武将たちの両方を救ったというものです。 実話か創作か、はっきり裏付けはないのですが、この振る舞いに感激したことが、吉継が関ケ原で勝ち目の薄い三成についた大きな理由であるという説もあるほどです。 さて、関ケ原合戦のころには吉継の病は深刻になって、視力はほとんど失われ、立ち上がることも困難になっていました。しかし、戦の勝ち負けより友情を重んじ、病に侵された身体で最後まで奮戦します。こうした特異な状況から、合戦に参加した武将の中でも人気度ではナンバーワンとされていますよね。 大谷吉継陣跡「山中村宮上」まずは駐車場へ 関ヶ原合戦で、大谷吉継は三成の本陣の笹尾山周辺ではなく、松尾山を下ったあたりの藤川台に布陣しました。ここへは南からと北から登ることができますが、南側の若宮神社から登ってみます。まず無料駐車場へ。6台程度しか置けないので注意が必要です。 解説のプレートは、この駐車場に設置されています。 登り口は若宮神社の参道です。途中を東海道線が横切っていて、人が通れるだけの小さな踏切があります。 神社の右手の山道を200メートルくらい登っていきます。写真のように、登山道はきちんと整備されていますから、迷うことはありません。 T字になったところがありますから、ここで右に折れて50メートルほど進むと「松尾山眺望地」という場所につきます。松尾山眺望地 吉継は最後まで小早川秀秋に寝返りの危険を感じており、三成本陣の笹尾山周辺ではなく、あえて直線にして1.5キロ南西、笹尾山と松尾山の中間地点に当たる藤川台に陣を敷きました。ここからは松尾山の秀秋の陣地を監視できるからです。実際の眺望です。 黄色い丸の中の頂上で乳首みたいに見えるあたりが小早川秀秋の陣地です。その部分を次のズームした写真で見てみます。乳首状に見えた樹木の左下に、秀秋陣地ののぼりが見えますよね。 吉継本人はほとんど視力を失っていましたが、ここから配下の者に見張らせたのでしょうね。秀秋が東軍につく動きを見せれば対応しようという布陣です。 ここには、最近では珍しくなった記念写真用の顔出しパネルがあります。関ヶ原の中でも、こうしたパネルがあるのは吉継だけです。人気の高さでしょうか。 今度は先ほどのT字を左に進んでみます。 大谷吉継陣跡 しばらく行くと、吉継の陣地跡につきました。解説の立て札もあります。 小早川秀秋が寝返って松尾山を下ってくると、吉継は陣地から輿(こし)に乗って前線へと進出し陣頭指揮を執り、3度にわたって小早川軍を松尾山まで押し返すなど見事な奮闘を見せました。 しかし、吉継とともに小早川に備えていたはずの脇坂安治、朽木元網、小川祐忠、赤座直保が突如裏切って、大谷隊の横から攻撃してきました。 さらにここへ藤堂高虎、京極高知の軍勢まで加わったので、さしもの大谷隊も壊滅します。もはやこれまで。吉継は藤川台の奥へとって返して自刃しました。お墓に行ってみましょう。大谷吉継墓所 陣地から北の方へ300メートルくらい入ったところに墓所があります。 2つお墓がありますが、向かって右の五輪塔が吉継、左の墓石は吉継自刃の介錯をした湯浅五助の墓です。五助については次回書きます。 墓所には「大谷吉隆」と刻まれていますが吉継のことです。一恵斎芳幾の武者絵にもこの名が使われていますが、実際にこの名前が書かれた古文書類は発見されていないらしく、なぜこの「隆」が使われているのかはわかりません。 最後に地図で大谷吉継陣地の位置を確認しておきましょう。 左端下の方の赤字で現在地となっているのが駐車場です。 なお、今回登ったのとは反対に当たる北側の登り口には藤川台の説明書きが立っていますよ。
2017年08月30日
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東宝映画「関ケ原」を観てきました 司馬遼太郎原作の長編歴史小説を映画化したもので、2017年8月26日から上映されています。 ポスターにもあるように、はじめて関ケ原合戦そのものを映画化した作品ですが、やっぱり観てみて思うのは、2時間半程度で表現するにはあまりにも短すぎるなあということですね。 まず、裏で行われた情報戦や裏切り工作などはほとんど描けていないです。 本来は戦う以前に、裏での工作によって勝敗がある程度決したとも言われるだけに、そのあたりが描き切れないのは、上映時間の問題で仕方ないのでしょうね。 主役となった石田三成の岡田准一さんは好演していると思いました。ただ三成がかなり勇猛な武将のように見える熱演でしたので、神経質さやある意味「チキン」の部分は表現しきれていませんでした。でも好かったですよ。 一方、役所広司さんは全く問題なく家康を演じられていました。さすがです。平岳大さんの島左近も迫力ある熱演でした。有村架純さんは可愛らしすぎて忍びの役はちょっと無理がありましたね。 有名どころを使っているだけに、その役者の見せ場も作らなければいけないので、主題に取るべき時間が削られ、全体として合戦に至る背景や現地での陣取りなどは説明不足の感じがしました。 東出君の小早川秀秋も、脚本の関係か、迷いに迷った感じではなくちょっと不自然に思えました。実際に映画を観ていただくと、この違和感はわかってもらえると思います。 でも合戦のシーンも工夫したアングルを使うなど非常に楽しめます。 ロケ地はどこだったのかわかりませんが、大谷吉継自刃のシーンでは、実際に彼の最期の地とされる藤川台とよく似た感じの場所で撮られているので臨場感がありました。 終わってみれば2時間半とは思えないくらいスクリーンに集中できた気がします。ぜひともご鑑賞をお薦めしますよ。
2017年08月29日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。苦悩する三成 石田三成は、秀吉死去ののち、徳川家康が豊臣政権にとって代わろうとする野望を隠さなくなってきていることに焦っていました。慶長5(1600)年6月、徳川家康が会津征伐のため大阪を離れると、石田三成は翌7月、反徳川の兵を挙げます。 しかしながら秀吉にかわいがられていた武将らは、秀吉亡き後、三成が権力をわたくししていると考えるものも多く、さらには島津や毛利の西国大名は本気で戦ってくれるかどうかも疑わしい状況であり、西軍諸大名の足並みは揃いませんでした。 信用できるのは大谷吉継くらいしかいないだけに、「本当に思い描いた戦略通りに進めることができるか?」、と挙兵に当たっては非常に苦悩したと思います。肖像画は年寄りみたいですが、まだ40歳より前です 軍を進めた三成は美濃の要衝・大垣城に入り、尾張と三河の国境線あたりで東軍を迎え撃つつもりでしたが、東軍の先発隊の清州到着が思いのほか早く、伊勢長島城の攻略も失敗。その後は犬山城、岐阜城も落とされたため、防御線は関ケ原まで下がることになりました。 家康の項でも書きましたが、三成は9月14日に赤坂岡山に入った家康を即夜襲せよとの進言にもためらい、家康の陽動にはまって籠城作戦を放棄し、関ケ原に展開してしまいました。こうなっては野戦により決着をつけるほかなくなったわけです。 西軍は、大雑把に見ると、宇喜多軍、小早川軍をかなめに、左翼に三成、右翼には南宮山の毛利という「鶴翼の陣」を敷きます。いずれも関ケ原盆地において有利となる高所を占めていて、圧勝でも不思議ではない非常に優れた布陣でした。 笹尾山遠景 上の旗が三成の本陣、下の旗は島左近の陣地 三成なりに努力もし、根回しもしたのですが、大谷吉継が「お主は人に好かれていない」とズバリと言ったように、人望の無さが敗戦の大きな要因であったのは間違いないのでしょう。三成の能力の高さは今日、見直されています。石田三成陣地「笹尾山」 関ケ原盆地の西北に位置する笹尾山は戦場を一望できる絶好の場所と言っていいでしょう。そんなに高い場所ではありませんがやはり登らなくてはなりません。 次の写真は三成の陣地から南方向の戦場を見た情景です。 現地では、本陣から南方向を眺めたパノラマ写真がパネルになっていますので載せておきます。真ん中を横切るラインは北陸へ向かう北国街道(ほっこくかいどう)ですね。 陣地では足軽姿の案内ボランティアの方が、丁寧な解説をしてくださいます。戦場の地図を広げて、ちょっと軍師になった気分ですね。 笹尾山のふもとには、本陣を守るように、三成の家老・島左近が陣を構えていました。 左近の陣地のそばに、三成本陣のプレートがありました。笹尾山の位置図です。上部赤色で「現在地」となっているところです。 笹尾山を下りたすぐ東に笹尾山文化交流館という施設があります。イベント会場にもなりますし、石田三成関係の資料などもあって、立ち寄ってみたい場所です。 決戦地 笹尾山西軍本陣から南東300メートルのところが「決戦地」です。ここで追い詰められた島津義弘隊が敵中突破で戦線離脱を図り、三成の部隊も壊滅的状態になりました。 三成は北国街道を伊吹山のほうへ逃亡しますが、9月21日にとらえられ、10月1日、京都三条河原で斬首されました。 上から見ると農地の真ん中にあります。決戦地とは思えないのどかさです。 決戦地のプレートもちゃんと設置されていますよ。
2017年08月18日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していますのでご注意ください。焦る徳川家康 関ケ原の戦いは、慶長5(1600)年9月15日午前8時ごろ、井伊直政・松平忠吉の部隊が口火を切って戦闘状態に入りました。 徳川家康は、いくら寝返りの根回しがしてあっても、実際には不確定要素ですから、戦いを短期、というより短時間で決着したいと思っていたでしょう。それには、寝返り組に考える暇を与えないうちに、優勢な状況を作り出さなければなりません。 ところが、家康の心中とは裏腹に、戦闘が始まって2時間近く経過した午前10時ころになっても一進一退が続きました。このままでは膠着状態になりかねないうえに、小早川秀秋ら寝返り組は一向に動き出すそぶりがありません。家康は焦ったでしょうね。 本陣のある桃配山は、激戦中の最前線から3キロも離れていて、実際の戦況が好く見えないでこともあり、苛立った家康はもっと前線近くに前進し督戦する決断をします。 ということで桃配山から約2.3キロの陣場野(じんばの)へ本陣を前進させました。激戦地からわずか700メートルほどのところですから焦りのほどが見えます。ここに布陣すると、11時過ぎ、小早川隊の居る松尾山に向け、裏切りを促す威嚇射撃をさせたと伝えられます。 現実的には、陣場野から松尾山まで1.5キロほどありますから、本陣から撃ってもまったく射程外です。近くまで鉄砲隊を差し向けたのか、撃ったという話そのものが脚色なのか、本当のところはわかりませんね。 家康最終陣地「陣場野」 陣場野の最終陣地は、現在は関ケ原町役場のすぐ西側の広場になっています。JR関ケ原駅からも500メートルほどですから、電車を降りて歩いてもすぐに行けますよ。 写真を撮った日は、大谷吉継関連のイベントが行われていました。上の写真ではアトラクションの出演者が舞台でリハーサルを行っています。 最終陣地にも解説プレートがありますよ。 流石にこの近辺には、関ケ原の戦いに関連する場所が多くあります。次の写真は家康の床几場跡です。参考までに、開設の立て札がありますので、どんな場所かは読んでみてください。 打ち取った敵の武将の首を並べて、だれかを確認することを首実検と言いますが、この本陣の周辺で行われました。その名残が次の写真です。 ここは東首塚と言って、首実検後に遺体を埋葬したところと伝えられます。未曽有の合戦で夥しい死者が出たため、家康が埋葬を命じ、竹中重門が東西2か所に首塚を造営したと伝えられています。ここにも解説のプレートが設置されていますよ。 周辺では関ケ原町が観光客や歴史愛好家のために面白い企画をしてくれています。まず、街中の電柱に施された武将紹介プレート。参加した武将の紹介が町中の随所にありますから、周辺を歩きながら知識を得られて、なかなか参考になります。 次に、関ケ原豆知識というプレート。これも電柱に設置されています。これには正史とは別の裏話的なものも書かれていて、非常に面白いので、何枚か写真を載せます。 こういうプレートが全部でいくつあるのかわかりませんが、ざっと見ただけでも相当な数があります。これらもこの2年くらいに設置されたもののようです。真新しさがあります。 近くには関ケ原町歴史民俗資料館があり、合戦の資料などが詳しく紹介されています。また、売店も併設されているので、お土産などにも困りません。 資料館の隣には関ケ原ふれあいセンターがあり、ここの広場もイベント会場などでにぎわいます。写真を撮り行った日に行われていた大谷吉継イベントの様子です。 ということで、3回続けて徳川家康の陣地をご紹介しました。次回は石田三成の陣地関係につて紹介したいと思います。
2017年08月17日
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三成の逡巡~決戦地は関ケ原へ 慶長5(1600)年9月14日に徳川家康が岡山に入り、杭瀬川を挟んで前哨戦があったのち、大垣城の石田三成陣営では、島津義弘が「陣営整わぬ東軍に対し、今宵のうちに夜襲を仕掛けるべし」と進言します。 三成が防備堅固な大垣城に居ることが大きく、家康が時間のかかる城攻めを避けたいと思っているのは想像がつきます。大垣での激突は望んでいないだろうと考え、逆にここで決戦に持ち込んで長期戦に引きずり込んでしまおうというのが、義弘の進言だったのではないでしょうか。岡山本陣周辺の東軍配置図 しかしながら、家康側は岡山を引き払って西進する様子を見せます。おそらく大垣城下にもそのような情報を流したのかもしれません。三成としては、このまま秀頼の居る大阪へ攻め上られてはたまったものではないし、国境を超えた近江には三成の居城・佐和山城があり、これを落とされてもいけません。 家康が西に進軍するそぶりを見せたのは、長期戦となる城攻めを避け、得意の野戦に持ち込みたいという誘導だったのではないかと推量できます。 三成は義弘が進言した岡山攻撃を避け、関ケ原に先回りをして迎え撃つ戦略を選択しました。家康側の思う壺だったような気がしてなりません。一方、義弘は三成に対し不信感を抱き、急速に戦意をなくしていきますが、これは別に島津の関係で書きます。家康現地最初陣地「桃配山」 西軍は暗いうちに大垣城を出て関ケ原に移動し布陣します。 この動きを見て家康も軍を動かし、本陣を岡山から桃配山(ももくばりやま)へと移しました。 両軍が移動したとき、関ケ原盆地は深い霧に包まれていたと伝えられます。9月15日午前8時ごろに霧が晴れ、東軍井伊直政、松平忠吉の軍勢が、西軍の宇喜多秀家隊に襲い掛かって戦いの火ぶたが切られました。 ということで桃配山の家康本陣跡です。JR関ケ原駅から東へ2キロほどで、国道21号線沿いにあります。激戦地からは直線で3キロ近く離れています。 少し上に登っていくと、見晴らしのいい平らな場所に出ます。そこが家康の本陣です。 ここには「最初陣地」と刻された碑があります。前のブログで書いたように、非公式サイトは赤坂の岡山を最初陣地と考えていますが、桃配山は「関ケ原での決戦」という切り口で見た場合の最初陣地と言っても間違いではないでしょう。 家康が腰かけたとされる腰掛石やテーブル状の石があります。でも、落ち着いて腰かけていられたのかどうか? 確かに椅子とテーブルだと言われると、そのようにも見えます。 ここにも、関ケ原町が設置した立派な説明プレートがありますよ。 桃配山の本陣から決戦地の方角を眺めてみましたが、大きな木が邪魔をして視界を妨げていました。 当時は見えたのでしょうけど、やはり遠いですね。 実は、桃配山は安全とは言えない場所です。東後方2.5キロの南宮山(なんぐうさん)には、西軍の毛利秀元が1万3千の兵を率いて陣取っています。毛利軍は西軍の「鶴翼の陣」の右翼であり、家康の本陣は敵の陣形の中に突っ込んでおり、前方約3キロには小早川の松尾山、後方に毛利の南宮山という位置関係にあるわけです。 しかし、家康は毛利が動かないことに関して、確信に近いものがあったらしいのですね。 これについては毛利秀元関連で書きたいと思っています。
2017年08月15日
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おことわり:当時の記述について年月日はすべて旧暦で記載していきますのでご注意ください。 今回は関ケ原の戦いまでの簡単な経緯についてから見ていきましょう。少し長くなりますが、お付き合い願えれば幸いです。増長する家康 慶長3(1598)年豊臣秀吉が、翌慶弔4(1599)年、五大老の前田利家が没すると、過酷な朝鮮出兵などで文治派に積年の不満を持つ福島正則らが石田三成を襲う事件がおきます。 窮地に陥った三成は、不本意ながら伏見城にいた徳川家康に仲裁を求め、事なきを得ますが、その代わり佐和山城に蟄居させられてしまいました。 その後、五大老の上杉景勝、前田利長、毛利輝元らが相次いで大阪を去り、集団指導体制が崩壊すると、大阪城は家康の独り舞台になります。慶長5(1600)年4月、国許へ帰ってから黙々と軍備を整えている上杉景勝に対し、家康は、上洛して弁明するよう要求しました。しかし、上杉側は翌月、有名な「直江状」によって上洛を拒否します。こうなっては「豊臣政権に対する謀反の疑いあり」として征伐軍が編成され、家康は6月16日、軍を率いて大阪城を出立していきました。 石田三成の挙兵 家康が東国に向かうと、佐和山城に蟄居していた三成は、「このままでは政敵を次々と制した家康が豊臣の天下を覆すに違いない」として、活発に動き出します。三成は7月17日に毛利輝元を大阪城に入場させると、諸大名に反徳川の挙兵を呼びかけます。翌7月18日には鳥居元忠が護っていた伏見城を攻撃して戦いを開始し、近江を経て美濃へ軍を進め、8月10日には要衝・大垣城を接収し入城しました。 大垣城 会津征伐の中止 大阪を留守にし、わざと隙を作って三成の挙兵を誘った家康は、7月25日、遠征中の小山(栃木県小山市)で評定を開きます。すでに様々な根回しがなされていたため、この評定では福島正則が「儂は内府殿とともに三成を討つ!」と口火を切ったと言われています。秀吉子飼いの譜代大名であるにもかかわらず、三成憎しで凝り固まった正則は、関ケ原でも重要な働きをします。それはまた別の機会に。 福島正則 これに真田、田丸を除く諸将が同調し、会津討伐軍は三成討伐軍すなわち「東軍」へと変わったわけです。東軍は正則の領地である尾張清州を目指して転進を開始しました。 徳川家康、岡山へ着陣 東軍が戻る前に尾張を抑えたかった西軍でしたが、諸将の戦意にバラつきがあってもたついていました。その間に福島正則、池田輝政は清洲に帰着し、8月22日には岐阜城、犬山城などを落としています。そのため三成は防御線を関ケ原まで下げる戦略変更を余儀なくされました。 勢いに乗った東軍は、西美濃に軍を進め、東山道(後の中山道)の赤坂宿を中心に集結して家康の到着を待ちました。9月1日に江戸を出立した家康の本隊は、9月14日正午ごろに美濃赤坂宿へ到着。家康は岡山に設営された陣地に入りました。 家康最初陣地「岡山」 というわけで前置きが長くなってしまいましたが、本題に入ります。 岡山は、中山道赤坂宿のすぐ南にあり、標高は53メートル。「山」と言うよりは「丘」です。次の写真の真ん中のこんもりとしたドーム状の山ですが、これを見ても「丘」って感じですよね。現在の大垣市赤坂町にあります。 ちょうど昼食時に到着した家康は、この陣地から眼下で繰り広げられる「杭瀬川(くいせがわ)の戦い」を、握り飯を食べながら見ていたと言います。次の写真は岡山の山上の平坦部。ここに家康がいたんですねえ。当時、ここから大垣城も見えたはずです。 「杭瀬川の戦い」は、家康の着陣に動揺した西軍将兵の戦意を立て直すため、三成の家老である島左近や宇喜多秀家配下の武将・明石全登が仕掛けた前哨戦でした。西軍の攻撃で、東軍の中村一栄の部隊に多くの犠牲者が出ると、家康がすばやく撤退を命じたので、結局は杭瀬川を挟んだ小競り合いに終わった感があります。 現在、岡山の地名は「勝山」となっています。地元では一般的に「おかちやま」と呼ぶことが多いですね。家康が、関ケ原合戦の後、最初に着陣した縁起のよいこの丘の名を、戦勝にちなんで「勝ち山」と改めたのだと伝えられています。第二次大戦末期には、米軍の空襲に対する高射砲陣地となった時期もあり、その碑も残っています。やはり戦争に縁のある場所なんでしょうか。 この岡山本陣跡東斜面には、西暦593年創建の紫雲山安楽寺があります。 境内に入ってみると次の写真のように、本堂の扉や屋根瓦など、あちこちに「三つ葉葵の紋」が施されていて家康ゆかりであることがよくわかります。戦勝後に家康から定紋としての使用を許されたようです。 次回は、関ケ原合戦現地における最初陣地とされる「桃配山(ももくばりやま)」を紹介しますが、戦後に「勝山」と名づけたように、家康は、この岡山を合戦の最初陣地ととらえていたと思われます。 また、家康は慶長10(1605)年ころ、赤坂宿に「お茶屋屋敷」という将軍家専用の宿泊所を完成させます。家康や秀忠も上洛の際の行き返りに宿泊したようで、万一に備えて城郭としての造りになっています。関ケ原合戦の戦勝によって、家康はこの地方に一方ならぬ愛着を持ったのでしょうね。 風情があるお茶屋屋敷の門 お茶屋屋敷跡は現在では県指定の史跡になり、庭は「ぼたん園」として一般に無料で開放されています。4月~5月が見ごろで、約150種類のぼたんの花が次々と咲き誇り、訪れる人の目を楽しませています。
2017年08月14日
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おことわり:関ヶ原合戦は慶長5年9月15日の出来事ですが、西暦では1600年10月21日になります。今回のカテゴリーでは、当時の記述についてはすべて旧暦で記載していきますのでご注意ください。 松尾山 小早川秀秋陣地 慶長5年8月10日、石田三成は城主伊藤盛正を説得して開城させ大垣城に入城しました。そして盛正に依頼したのが松尾山の整備です。もともとここには松尾山城という砦がありました。次のように山上の立て札にもその解説があります。 立札の解説によれば、織田信長が浅井長政を攻め亡ぼしたのち、城としての役目を終えたとして天正7年に廃城になっています。 三成は松尾山城跡を整備しなおして、西軍総大将の毛利輝元を迎え入れようとしましたが、輝元は大阪城を動かず、嫡子秀元も南宮山に布陣して動かないため、やむなく整備を担当した伊藤盛正がそのまま陣を敷きます。 そして、 決戦の前日に当たる9月14日に、小早川秀秋が1万5千の軍を率い、なぜか強引に盛正隊を押しのける形で松尾山に陣を敷きました。 秀秋に対し離反の疑いを持っていた三成は、松尾山に入った秀秋の軍勢が脅威に感じられ、警戒のため大垣城を出ざるを得なかったとも言われています。この説に従えば、小早川隊の着陣こそが、「戦いの舞台が大垣ではなく関ヶ原に変わった瞬間」ということになりますね。 駐車場に到着 では松尾山に行きます。ふもとには駐車場があります。ただし、道路から死角になっているうえに、5~6台程度しか止められませんので注意が必要です。 駐車場脇にはとても立派な解説プレートが立っています。以前来た時にはなかったですから、この1~2年で作られたものでしょうね。 解説もかなり詳しいし、英語に翻訳した文まで入っています。傍らには木の杖が用意されているなど、地元関ヶ原町の人たちの心遣いが感じられますね。 頂上へ向かう 山道に入っていきます。道はきちんと整備されていて、道案内表示もあるので迷う心配もなく、手ごろなハイキングコースです。環境庁が整備する東海自然歩道の一部にもなっています。 勾配の険しいところには丸太を利用した階段も作られていますから、とても歩きやすい登山道になっています。子供連れでも十分登れます。 中腹まで登って小早川の紋「違い鎌」が入ったのぼりが立った分岐点に着くと、方向を示す矢印の案内表示があります。これも真新しくなっていました。最近更新されたようです。ここから山頂までおよそ900メートル、所要時間が30分とあります。 非公式サイトの足で約20分ほど登ると、山上に陣地が見えてきました。ここから最後のキツイ傾斜の部分を登れば到着です。ここまで登ってかなり疲れているのでしんどいですがあと少し。 陣地に到着 山上に到着しました。確かに砦の跡らしく土塁で囲まれて平らな地形になっています。かなり広いスペースに思えますが、これが当時の姿のままなのかどうかはわかりません。木陰が多く、東屋やテーブルなどもありますから、ゆっくり休憩できます。 早速、テーブルを使わせてもらって昼食を。この日(2017年6月4日)はとても天気が良く、風も爽快で気持ちのいい日でした。 ただし、登っているとき~山上にいる間~降りてくる時、この間2時間半くらいですが、誰一人として会うことはありませんでした。好天の日曜日に誰も来ないなんてもったいないです。 改めて、眼下の決戦地を見てみると、確かに戦闘の状況がよく見えただろうと思えるロケーションです。当時は邪魔になる木を切り倒してもっとよく見えるようにしてあったはずですし。 よく見ると、笹尾山の石田三成陣地がちゃんと見えます。次のズームした写真の中央にのぼりが立っています。当然向こうからも松尾山陣地が見えるはずです。当時、三成と秀秋はお互いどういう気持ちで眺めあっていたんでしょうね。 こちら側の小早川陣地にも大きなのぼりが立っています。 秀秋は、三成が総攻撃を知らせる狼煙を上げても動きませんでした。家康との密約というよりも判断にあぐねて一時的に日和見を決めたのではないかと言われています。 東軍につくと約束してしまったが、目の前の序盤の戦況を観れば西軍が押している。いま東軍側について戦っても勝てるのだろうか?・・・19歳の秀秋は相当迷ったのでしょうね。苛立った三成からの再三の催促も無視して動きません。 気が気でなかったのは家康も同じでした。秀秋が一向に動く気配がなく、もし秀秋が西軍として参戦すれば、家康軍は鶴翼の陣に頭を突っ込んだ最悪の陣形になり、両翼からの挟撃を受けて殲滅の危機におちいります。 焦った家康は、桃配山(ももくばりやま)にあった本陣を前方に移動し、松尾山に向けて鉄砲を撃たせ、秀秋の参戦を促しました。という説が小説やドラマなどでも一般的になっていますが、実際はどうだったのか。歴史の逸話としてはこのほうが面白いですね。 その続きですが、家康の威嚇射撃に仰天した秀秋はようやく東軍として参戦を決断し、山を下って大谷吉継の部隊に襲い掛かりました。兵数に劣っていても大谷隊は善戦し、秀秋の軍を何度も松尾山へ押し返すほど好く食い止めました。 ところが、吉継とともに小早川の動きに備えていたはずの朽木元網をはじめとする4武将(下の図にある赤座、小川、朽木、脇坂)が突如東軍に寝返って横から攻撃を加えたため、大谷隊は壊滅し吉継は自刃しました。ここから一気に西軍は敗勢となっていきます。 小早川秀秋が心の中の葛藤と戦いながら、固唾をのんで戦況を見つめていたであろう松尾山陣地。今は静寂に包まれています。標高は293メートル。ぜひ登ってみてください。JR関ケ原駅からは南西方向で少し距離がありますが、行ってみる価値はありますよ。
2017年06月12日
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関ヶ原合戦史跡探訪記 序 文 タイガース非公式サイトの家からは自動車で20分ぐらい。日本史でも数少ない大変革のきっかけとなった関ヶ原の戦いが、これほど近くで行われたことを再認識し、地の利を生かして、出来る限り現地に足を運んで紹介していきたいと思います。関ケ原合戦図屏風(関ケ原町歴史民俗資料館所蔵) 現在では山と緑に囲まれた静かな町で、雑踏もなく、自然を感じながら、ゆったりのんびりと史跡を巡ることができます。これから訪れてみたいと思う方もいらっしゃるかもしれません。少しでも参考になれば幸甚に存じます。JR関ヶ原駅 岐阜県不破郡関ヶ原町は、美濃地方の一番西に位置しており、近江(滋賀県)と境を接しています。美濃と近江の境には、今須峠(いますとうげ)があり、ここには不破(ふわ)の関所があって、東日本と西日本の境界とされています。 険しい今須峠は交通の難所でしたので、この峠の東に当たる関ヶ原は、中仙道が整備される前の東山道(とうさんどう)の時代から、旅人が足を休めるための宿場町として栄えてきました。JR東海道線 関ケ原駅 現在は滋賀県側からは米原駅から東海道線普通電車大垣行きで20分、名古屋方面からは大垣駅から同じく東海道線普通電車米原行きで13分で来ることができます。関ケ原駅前歴史交流館 駅を出ると目の前に関ケ原駅前歴史交流館があります。2015年10月4日に開館した案内所・休憩所兼アンテナショップのような建物です。 関ケ原駅前歴史交流館 外観 戦国関係のグッズや関ケ原の戦いに関する図書の販売がされており、まず最初に立ち寄って情報収取するのにうってつけの施設です。 また、関ケ原だけではなく交流のある地域の特産品なども紹介・販売されていますから、帰りにはお土産などを選ぶのも楽しいです。開館当時の交流館内部 新しいグッズがどんどん増えています 案内所には戦国時代のいでたちのボランティアの方などがいて、関ケ原の史跡などの見どころを面白く解説してくれますから、ここを拠点に史跡巡りをするのがお薦めです。イベントも多彩 関ケ原町では、関ケ原合戦や戦国時代をテーマにしたイベントも多く開催されます。近いところでは2017年6月24・25日に「関ケ原武将シリーズ第3弾大谷吉継」が催されます。甲冑武者行軍、チャンバラ合戦、大谷吉継ウォーキングなどが予定されています。詳しくはWEBで。http://www.kanko-sekigahara.jp/jp/index.html それでは、このカテゴリーではタイガース非公式サイトが実際に現地を回って、関ケ原合戦に関して観てきたもの、学んだこと、お薦めのスポットなどを紹介していきます。とぎれとぎれになりますが、よろしくお願いいたします。 非公式サイトのお薦めショップ 非公式サイトのお薦め商品
2017年06月05日
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