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おことわり:当時の記述について年月日は すべて旧暦で記載していますのでご注意ください。
参加意欲を喪失した島津隊
Vol.04徳川家康陣地その2の冒頭で触れましたが、赤坂岡山に着陣した家康をその夜のうちに襲撃しようと進言したのが島津義弘でした
。
東軍の陣営が整う前に戦を仕掛け、大垣城にこもる西軍本陣を攻めさせて長期戦に引きずり込んで、大阪城からの援軍を待つ・・・というような戦略だったのではないかと想像されます。
しかし、三成は動かず、逆に東軍側の誘いに乗って、翌日関ケ原での野戦に応じてしまったため、義弘は戦意喪失して関ケ原に向かったというのが通説です。
(注:ただしこれらの話は一次史料としては残っておらず、二次的な「落穂集」という編纂物にしか記載されていないそうです。)
島津義弘陣地へ
合戦のために薩摩から大軍を送るのは大変な経費と日数もかかるため、義弘は大阪などにいた人員を率いて参陣しています。記録によると2500~3000人程度の兵数ですから、大した戦力にはならなかったかもしれません。
島津隊陣地の近くには10台程度の駐車場があります。周囲は林のような場所です。ここに車を止めて少し歩くだけで陣地跡につきます。
島津義弘の陣地跡は、関ケ原町大字小池の神明神社の裏手にあり、大きな石碑が建っています。
土台を含めると5メートルくらいある大きな碑です。
合戦の中での島津義弘は「
今日の儀は、面々切に手柄次第に相働くべく候
(それぞれが勝手に手柄を立てられるよう戦う)」と宣言し、どちらにつくともなく、島津隊に近づくものを追い払うだけの動きしか見せません。
業を煮やした石田三成が直接陣地を訪れて参戦を促しても、追い返されてしまいます。このあたりのくだりは昨年公開の映画「関ヶ原」でも出てきましたね。次の解説プレートにも記載されています。
そうこうしているうちに、小早川秀秋らの寝返りによって戦いの様相は一気に西軍に不利な状況になりました。
勢いに乗った小早川らの軍勢が南から大谷隊、小西隊に襲い掛かり、その北に位置する島津隊に迫ってきます。東からは井伊直政、福島正則、松平忠吉、藤堂高虎などの猛将や東軍本隊が寄せてきています。
島津隊は、あっという間に東軍に押し包まれてしまいました。このころには西軍本陣も雲散霧消して三成も逃走し、島津だけが敵中に孤立無援の状態で取り残され、徐々に兵力を削り取られていきます。
島津の引き口
島津豊久決死の「捨てがまり」
ここに至って、義弘は自刃の決断をするのですが、それを止めたのが義弘の甥にあたる島津豊久でした。豊久は「戦後の島津存続のためには義弘が必要だ。自分はここで戦死してでも食い止めるから、脱出して薩摩へ帰還してほしい。」と自らを犠牲にして義弘を生還させようと説得したのですね。
豊久の説得に意を決した義弘は、上の図にあるように意表をついて真正面の家康本隊へ突撃するかに見せかけ、かすめるように脇をすり抜けて伊勢街道方面へ脱出する作戦を取りました。どうせ一旦は死を覚悟したわけですから、捨て身の判断は早かったみたいですね。
ここで豊久がとった戦法が「捨てがまり」と呼ばれるものでした。
一般的な殿(しんがり)とは違い、本体から離れた小隊規模で、まず鉄砲で足止めし、玉がなくなれば槍に持ち替えて敵中に突っ込んで死ぬまで戦う。
これを波状的に次々に繰り出すことで、味方主力を逃がすというものです。この死が確実という壮絶な戦法を指揮し、豊久は関ケ原町と上石津町の境にある烏頭坂(うとうざか)までたどり着きます。
下の写真が烏頭坂。奥方向、山の向こうが関ケ原です。
ちゃんとバス停もありますよ。
烏頭坂まで、あまりの抵抗に福島正則が追うのをあきらめても、井伊直政と本田忠勝の隊が執拗に追撃してきました。死を覚悟で戦う豊久隊の前に、井伊直政は重傷を負いますが、ここで豊久を仕留めたと言われています。
この体験から島津氏の恐ろしさを実感したのでしょうか、戦後、直政は徳川と島津の和平の仲立ちをしています。また、烏頭坂での負傷が思いのほか影響し、2年後の1602年に亡くなっています。
烏頭坂には島津豊久に関して墓もあり碑が建てられていますが、一応「戦死處」となっています。
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