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背番号23(その3)
背番号23の第3回目です
現役時代は「牛若丸」と呼ばれ 鉄壁の内野陣の中核を担う華麗な守備で観客を魅了し 打っては俊足好打のトップバッター そして3度も監督を務め1985(昭和60)年には球団初の日本シリーズ優勝に導いた吉田義男さんが着けていた番号です
過去2回を読んでくれた人にはお分かりのように それまであまりいい番号という印象じゃなかったよね 吉田さんが着けたことで市民権を得てそのまま欠番になってしまったのね
でも吉田さんの現役最後の年が1969(昭和44)年で「23」が永久欠番になったのが1985年だから その間の15年はどうなってたのかな?
ちょっと不思議な「23」なのよ
なお吉田さんは先代が書いていた当時 背番号「1」で紹介済みなんだけど あまりに要約されてしまってるので この「23」で詳細にまとめなおして掲載するわね
吉田義男 内野手(再掲)
京都府京都市中京区出身。山城高校では2年生の夏に遊撃手として甲子園に出ており、1回戦で敗退したが阪急や中日のスカウトから高く評価されている。しかし非常に小柄であったことから見送られ高校からのプロ入りは実現しなかった。
立命館大に進むと、高校時代から吉田に興味を持っていたタイガースの青木一三スカウトから熱心に口説かれ、1953(昭和28)年に中退して入団し前年で引退した丸岡の背番号「23」を受け継いだ。現役時代の公表された体格は身長165センチ・体重56キロという数字が残っており、確かにプロ選手と言うにはあまりに小さかったのは間違いない。
ルーキーイヤーの1953年は吉田が20歳になったばかりだったが、当時の松木謙治郎監督は開幕からレギュラー遊撃手に抜擢する。しかし吉田は1年目から「名手」だったわけではなく38個もの失策を記録しているし2年目も30失策だった。
しかし松木監督は「将来性を感じた選手は辛抱強く試合で成長させる」という信念を持っており、吉田がエラーしてしょげていると「もう一つエラーしてこい」といいながら使い続けてくれた。吉田も「最初の監督が松木さんでなければ、以後の自分はなかった」と振り返っている。
1年目は128試合445打数119安打34打点2本塁打で打率 . 267。盗塁も22個成功させた。
1年でレギュラーの座を獲得した吉田は、2年目の1954(昭和29)年には51盗塁を決めてタイトルを獲得。4年目の1956(昭和31)年にも50個で2度目の盗塁王になり、プロ入りから1966(昭和41)年まで14年連続で二桁盗塁を記録している。
小柄なためホームランは少ないが、年間0本だったのは引退年の1969(昭和44)年だけで、ルーキーから16年連続で必ず何本かは打っている。
犠打も多く記録しており、4シーズンで年間リーグ最多犠打の数字が残っている。引退時における通算264犠打は当時の日本記録だった。
逆に三振は非常に少なく、年間で最も多く三振した年でも2年目の1954年に記録した30個に過ぎない。17年間の現役生活で通算325三振なので平均すると1年に20個未満という少なさだ。1964(昭和39)年には179打席連続無三振という当時の日本記録を達成している。
小柄な吉田に対して、投手側からはストライクゾーンが小さくかつ低くなり投げにくかったようで、特に大柄な金田正一は「吉田は天敵だ」というくらい苦手にしていた。
現役17年間の通算打率が . 267の吉田だが、金田に対しては . 310の数字を残しており、ホームランも通算66本のうち金田から8本打っている。金田がプロ入り8年目にして初めてサヨナラホームランを打たれた相手も吉田だった。
また金田は1960(昭和35)年から1965(昭和40)年の6年間、吉田から一つも三振が取れない時期もあった。本当に投げにくかったのだろう。
次に吉田を象徴する守備についてみてみる。
ゴールデングラブ賞がなかった吉田の現役当時は、守備の評価としてはベストナインがゴールデングラブ賞の意味合いも含んでいたわけだが、吉田は遊撃手部門で6年連続を含む9度も受賞している。
長嶋と三遊間を組んでいた巨人の広岡は同い年の吉田がいたため1度しか取れなかった。その広岡が吉田の守備を次のように評価している。
「自分も含めて殆どの内野手は取ってなんぼ、アウトにしてなんぼのレベルだが、吉田は『取ってアウトは当たり前、見せてなんぼ』の選手だった」。
吉田の守備は「捕るが早いか投げるが早いか」と評されたように、打球に追いつくのも速いが、取ってから持ち替えて投げるまでの動作が他の選手をはるかに凌駕していた。
そこには、年中グラブとボールを手放さず、たとえ食事の途中でもグラブからボールを手に取る動作を繰り返していたというほどの守備に対する執着と精進があった。
吉田が最初に監督に就任した年、プロ2年目だった掛布雅之は直接守備の指導を受けているが、当時を振り返って次のような話をしている。
「吉田さんも1回目の阪神の監督を務められた時は若かったので、実際に守備の動きを目の前で見せてくれたのですが、めちゃくちゃうまいんですよ。ボールがグラブに入った瞬間に右手に持ちかえていましたし、難しい当たりも簡単にさばいていました。 何よりも驚いたのは、二盗を刺す時の走者へのタッチです。キャッチャーの送球を捕った瞬間に、走者にタッチしている感じでした。動きが軽やかで無駄がないんです。見ていて惚れ惚れしましたし、もう芸術品でしたね。」
現役を退いて丸5年を経過している時ですら、若手選手がまねできないほどの技術が錆びついていない。それほどの神業だったのだろう。
全盛期にセカンド鎌田、サード三宅、ショート吉田が組んだ内野陣は鉄壁を誇り、「シートノックだけで銭が取れる」と言われるほど華麗かつ堅実で、目の肥えたファンをも魅了するものだった。
現役晩年、藤田平が入団してきたことで、1967(昭和42)年はポジションを譲りセカンドへコンバートされて開幕から守ったが「私のセカンドは失格ですわ」と話している。吉田の守備技術はよほどショートに特化されたものだったのだろう。
もう一つ特筆すべきなのは強肩だったことだろう。現役当時を間近でみた本間勝氏が語るところでは「三遊間の打球をダイビングして捕球。この状態から立ち上がって一塁へ送球。見事打者走者を刺すプレーを、ごく当たり前にやってのけた。強肩が成し得る技だが、小柄ながら肩の強さは抜群だった。そして、イージーな打球は、捕球したかと思ったらいつの間にか送球している。その早いこと。まさしくプロ中のプロ。我々投手陣には本当に心強い存在でした」と証言している。(月間タイガース2013年10月号)
タイガースファンのみならずプロ野球ファンが認める名手で人気もあり、オールスターゲームの常連で13回出場している。
1968(昭和43)年からコーチ兼任になり、翌1969(昭和44)年のシーズンを最後に現役を退く。
17年間に及ぶ現役時代の通算成績は、2007試合6980打数1864安打434打点66本塁打498四球325三振、打率.267だった。
1992(平成元)年には、プレイヤー表彰で野球殿堂入りしている。
1970(昭和45)年から村山実がプレーイングマネージャーに就任する一方で、吉田は一旦タイガースを離れる。このタイミングでの退団だったため不仲説もうわさされたが本人たちは否定している。
村山監督は3年間で2位、5位、2位。そのあとを受けた金田正泰監督は2年間で2位、4位で選手に殴られるなどチーム内もばらばらになって退任。タイガースファンもフラストレーションが溜まりに溜まっていく。
この状況を打開しようと球団は人気選手だった吉田に監督就任を要請する。これを受けて1975(昭和50)年から指揮をとることになり背番号は異例の「1」。尊敬するヤンキースのビリー・マーチン監督に倣ったという。吉田42歳。
1年目は大きな補強もなく、外国人選手もボビー・テーラー(元中日、前年入団)とジョージ・アルトマン(元ロッテ、病気から復活1年目)の二人で大きな期待はできず、球団不審の江夏を抱えて先行き不透明だった。
この年はドラフト同期で2年目の佐野仙好と掛布雅之のポジションをどうするかが課題になっており、吉田は最初、相手が右投手のときは掛布、左投手なら佐野という使い方をしていた。その後掛布のバッティングが急速に開花し始めたため、シーズン後半ではサードのレギュラーとし、佐野を外野へコンバートする方向性が決まる。
このような中で手探りのシーズンは3位に終わり、そのオフにタイガースは大幅な血の入れ替えを断行していく。
その筆頭は江夏豊のトレードだろう。球団は1976(昭和51)年1月19日に江夏に対しトレードを通告、江夏+望月充に対し江本孟紀+池内豊+長谷川勉+島野育夫の大型トレードが成立する。
さらに新外国人選手としてハロルド・ブリーデンとマイク・ラインバックが加入。ほかに加藤博一や片岡新之介を補強するなど、フロントも2年目の吉田監督を積極的にバックアップしていたようだ。
このシーズンはブリーデン40本、田淵39本、掛布27本、ラインバック22本と主力がホームランを量産し、チームシーズン最多日本記録となる193本と打ちまくったが、惜しくも2ゲーム差の2位に終わる。
3年目の1977(昭和52)はブリーデンが37本、ラインバックは .
325の数字を残すが故障がちであり、田淵にも衰えが見え、掛布も死球で一時戦列を離れるなど戦力がそろうことなく4位でシーズンを終え、当時史上最低勝率だった .
466という成績の責任を問われて事実上解任になった。
1985(昭和60)年、再び監督に就任する。第1期監督を退任後、タイガースは優勝できないままであり、3F野球を掲げた吉田はあくまで「チームの土台作り」「挑戦者」と言い続けてシーズンを戦うことになる。背番号は「81」。
真弓とバースが32歳、掛布30歳、岡田27歳。いずれも中堅選手として経験を積んでおり、一番力が出る年代に当たっていたことや、ベテランの弘田や長崎、そこに若手の木戸、平田、北村などがうまく機能してバランスのいい打線が完成を迎えた状況だった。
そのため新外国人投手のゲイル以外は、ほぼ現有戦力でシーズンに臨んだわけだが、投手陣が脆弱だったこともあり8月31日時点では3位、特に広島にはシーズン中に8連敗するなど相性が悪く対戦成績も拮抗しており抜きつ抜かれつが続いている。打線爆発の印象が強いが決して楽なシーズンではなかった。
9月に入ってようやくチーム状態が上向き、連勝ができるようになって、あっという間に差が開いていき10月16日にリーグ優勝が決まる。
日本シリーズでは当初ほとんどの選手が緊張から沈黙してしまった中で、バースが開幕から3試合連続ホームラン。 脆弱だった投手陣が踏ん張るうちに 各打者の調子も上向き、4勝2敗で日本一に輝いた。
優勝直後の共同会見で連覇に向けた意気込みを聞かれた吉田監督は「私たちはあくまで挑戦者です。明日からまた来年に向けて練習していきます」と答え、隣にいた掛布から「えーっ もう明日から練習ですか?」と突っ込みを入れられて大爆笑になったのが吉田らしい。
しかし1986(昭和61)年から1987(昭和62)年への転落は激しく、米田コーチが途中退団したり掛布がケガで離脱したりと歯車が狂いだすと3位そして最下位へと転落してしまう。
優勝から2年で最下位という天国と地獄を見た当時の監督やメンバーたちで「天地会」を作ったのは、この3年間を戒めとする意味があるのだろう。
3度目の監督就任は1997(平成15)年、2度目の村山監督が最下位・5位、次を受けた中村監督も最下位・最下位・2位・4位・4位・最下位、そして藤田監督が最下位、まさに暗黒時代真っただ中だった。
もう誰も引き受け手のない状況であり玉砕覚悟の上での就任と言えるだろう。この第3期監督時代の背番号は「83」だった。
1年目は球団もバックアップを惜しまず、当時のレートで3億4500万円という史上最高額の年俸を奮発して「ミスター・レッドソックス」と言われたマイク・グリーンウェルを獲得しているし、2年目には元中日のアロンゾ・パウエルを獲得、さらに関川・久慈を放出してまでも打線強化のために大豊泰昭を獲得するなど大ナタを振るったが、5位・最下位に終わって辞任した。
監督としての吉田は代打専門の選手を多く成功させている。第1期監督時代は桑野議や遠井吾郎、第2期では川藤幸三、第3期では八木裕を代打で起用し選手生命を延ばしているのは特筆に値するだろう。
まとめ
吉田さんも書ききれないね 「ムッシュー時代」のこととか「ケチ」だったという噂とか まだまだいろんな逸話があるけどこれくらいでご勘弁を
選手時代は守備の名手 体格的には小さいから人並み以上に努力したとおもうよ 捕球した瞬間いつ持ち替えたのかわからないほど素早く送球する守備は誰もまねできなかったのよ
打つ方は それほど打率は高くないのよね どちらかというと進塁打を打ったりランナーを送ったりが仕事 でもなかなか三振に取れないし、出塁すると足は速いし 時にはホームランも打つし 相手からは嫌な選手だったんじゃない?
吉田さんが引退した翌年の1970年以降 背番号「23」は誰も付けることがないまま15年間も「準永久欠番」みたいな状態だったのね
理由はよくわかんないけど よく考えてみると吉田さんは「牛若丸」とは呼ばれても「ミスター」と呼ばれたことはないのよ この辺りがどうも引っかかるよね
藤村さんや村山さんは はっきり「ミスター」って呼ばれてたからすぐ決まったんだろうけど 吉田さんの場合は球団も迷ったまま時間が経過しちゃったんじゃないかな
1985年に監督として日本一に導いたのがいい機会になり 長年の功績を加味して背番号「23」は永久欠番になりました 至極順当でいいんじゃない?
2代目はよっさん大好きよ!
背番号24へ
続く
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