シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年04月30日
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カテゴリ: トークドラマ
 どうも最近、なぜだか「電車男」に嵌ってしまっている。大学生時代(というより院生時代)に秋葉は、大学のすぐ近くなので、よく行ったものだ!

 秋葉には徒歩で行けるのも、よく通った理由であるが、秋葉駅はとにかく非常に不自由だった。家から行くには、電車を乗り、秋葉駅を経由するのが非常に面倒なのである。

 だから勉強の息抜きに、秋葉によく行った。勿論、秋葉オタクブームの何年も前で、丁度バブル期の時代である。その当時、秋葉といえば、電気以外何もなく、パソコンも、アップルの初期のものが話題になっていた位で、パソコンというよりも、目的は音楽のCDだった!

 いまから考えれば、非常に女気(おんなけ)のない、野郎だけのそれもオーディオオタクの聖地といってもよいが…。

 いってみれば、その時代の雰囲気はオタクの前身のようなもので、ステレオオタクという感じである。プレオタクと呼ぶべきものだろうか? 音響にウルサイ高価なステレオを求めるオタクという感じである。当時、ボーズやJBLのスピーカーに憧れた思いが残っている。アンプは真空管の名前は忘れたが、とにかく音に拘った自分がいた。

 石丸レコード店が、目当てだったが、当時流行の音楽を買い漁る大人。いまでいう大人買いに憧れたもんである。しばらくするとレーザーディスクが出て、その映像の美しさに目を見張った!

 そして、帰りには、「じゃんがら」というラーメン屋、店内になぜかジャズが流れる新鮮さに感動し、そのじゃんがらラーメン屋で、飯を食うのが定番になっていた。ラーメン屋にジャズって、なんか、黒人のジェロが演歌を歌うようなもんで、当時、憧れのヒロコグレースがじゃんがらに食べに来たというのと、一部のマイナーな話題になっていた。

 秋葉原ぐらい、変わった街はないのではないだろうか?



 パソコンブームが来て、秋葉は一種のブレークを迎えたと思う。秋葉バブルという感じだと思う。それから、秋葉に行かなくても、ソフマップは、新宿にも出来て、パソコンはわざわざ、秋葉を経由しなくてもよくなったし、いまでは、ネット販売が主流になっているわけで、秋葉の本来の電気イメージから脱皮し、いわば、電気のもつヴァーチャルな仮想空間に移行しつつある。 

 秋葉は、仮想都市といえるのかもしれない。

 そんな舞台とともに、電車男という現実では全く不可能で有り得ないヴァーチャルな純愛ドラマが誕生したのだろう。どことなく、日本経済の幻のバブルを思わせる。

 まるで、日本経済のバブルは浦島太郎の竜宮城のようでもある。

 日銀が玉手箱を開けてしまった為に、一気に日本は、高齢化社会を迎えた。浦島太郎老人になってしまったのである。

 そんななか、電車男をみると、なんだか、あのときの輝いていた幻のような世界が、胸に込みあげてくる。

 エルメスのような竜宮城の乙姫さまには、誰もが憧れを抱いているのであろう。

 電車男のなかのエルメスに男は憧れてしまう。なんだか、非常に現実的には虚しいのだが、惹かれてしまう自分が情けない。

 まるで、火のなかに自ら飛び込んでいく虫のようである。

 飛んで火に入る夏の虫ならぬ、飛んでエルメスに憧れる電車オタクであろうか?

 しかし、これは恐らく、日本の神様が、出生率の低さに嘆き、どうにかこうにか、男女を結びつけ、子を産ませる為の演出だったのではないだろうか?



 純愛こそ、究極の発展(進化)ではないだろうか?

 男がだらしなくなった感もあるが、女も、女らしさを忘れたような気がする。

 その現実が、かえって電車男のエルメスを見る度に、仮想空間へと、自分を虜にしてしまう。やばい、やばすぎる!!

 官能主義の前身、感覚に拘る連中をオタクというのではないだろうか? 感性が非情に偏った偏屈な達人と言うべき存在である。いまでも、オタクといえば、感覚に非情に偏った連中といえるだろう。男にオタクが多いのは、このような感覚主義にあるだろう。その中和にエルメスのような聖女が必要なのである。



 人類は、サブプラのように、ヴァーチャルの世界の一歩手前にいて、入ろうか、入らないで我慢するかの選択に戸惑っているように思われるのである。

 そして、日本はいま、非常に危険な状態に遭遇していることは確かである。

 しかし、エルメスは非常に魅力的である。現実を知らないが故に…。

 仮想ドラマ「電車男」のなかでの唯一の現実的な名言だと思ったのは、「愛があれば、何でも乗り越えられる」というセリフである。

 愛さえあればなんでも乗り越えられる。これはキリストも語っていることである。

 しかし、人間は愛の証の前に跪き、愛の前に錯誤を犯してしまいがちだ!

 愛より前に、証拠を求め、虚偽や欺瞞に明け暮れてしまう。人類は、神と並び称されるぐらいのプライドをもちつつある。もはや神など存在しないと言うが如く、自分を神と同等の地位まで、自ら押し上げる。

 しかし、これは虚偽、欺瞞の行為である。本当の叡智、真なる証、信仰があれば、疑いや虚偽を超えて、理解し得、平和を築けるものである。

 だが、真なる愛を知る前に、人は息切れしてしまう。なぜなら、愛は絶え間なく自己犠牲を強いるからである。愛はときには非情である。

 書いてみてあまりに恥ずかしさがこみ上げる。恥ずかしさ故に、原罪を背負い、現実という幻想に明け暮れてしまう。

 本来、政治などどうでもいい幻想である。人間は全て、最後には死んでしまうからである。最後は死んでしまうのに、なぜ、いまの政治家たちは、いまに齷齪するのだろうか? 馬鹿な連中である。それなら、幻想に埋没する方が、少なくともポエム、美学ではないだろうか?

 美学に命をかけるのなら、それは芸術という愛である証拠なのだから?





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Last updated  2008年05月01日 02時12分37秒
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