シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2008年07月03日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 神秘主義とは単子論もしくは二元論の反対側にあるもので、後者は全ての人間が共通にもつもの、つまり外界を観察し、熟考することから導かれるものである。その結果、得られる体系は、間違いを含んでいるが、間違いを議論し、どんな段階にせよ、各人が到達した地点から、それらを基にして、何らかを為すことは可能である。

 だから、ここで議論してきた神秘主義は大変に魅力的なものだが、それに関して今まで述べてきたことを、魂に吸収させるなら、全く客観的に、その限界に気づくことになる。

 もし、人智学の方法、すなわち存在の主要な基盤へと貫き至るという目的を持って、今日の精神生活のより深い水準から導かれる方法との関連で、神秘主義を評価するなら、その上に更なる光が投げかけられる。もし、ある主題が、その考え方の微妙さ故に理解し難いものになっているなら、その主題を理解する最良の方法とは、しばしば何らかの関連する主題とその主題を比較することである。

 この連続講義の中で、高次の世界へと上昇する道について何回も述べた。ある意味で、それは三重の道なのである。外の道について、また中世の神秘家によって取られた内なる道について記述し、後者については、その限界を明確にした。今、人智学、もしくは精神的探求の適正な道と呼ばれ得るものへと向かうことにする。

 既に、この認識の道が、それを学ぶ人に対し、感覚世界の精神的基礎に、従って多元論に導く外の道も、或いは、その人自身の魂のより深い基盤、そして最終的には、世界の神秘的な統一へと導く内なる道も、どちらも取ることを要求しないということを見てきた。

 人智学は、すぐに手の届く処にある知識により開かれる、これらの道だけに人間が従わざるを得ないというのではなく、人間には、隠されたまま眠っている認識能力があり、そこから出発することにより、今述べられたような2つの道以外の道を見い出すことができることを語る。

 これら2つの道のいずれかに従う人は感覚世界のヴェールを貫き、存在の根底へと至ることを求め、或いは、また外界の印象を消し去り、内的な閃光が輝き出るようにさせるだろう。しかし、その人は、その人が既にそうあるままに、その人のいまある(進化)状態のままに留まる。

 ところが、人智学における基本は、人間が、既に存在している認識能力と共に、今日あるような状態に留まる必要はないということにある。人間は丁度、今日の段階に進化してきたように、現在もつ認識能力よりも、高次の能力を適切な方法により発達(進化)させることができる。

 もし、この方法を、神秘主義的な認識様式と比較するなら、次のように言う必要がある。

「もし、我々が外界の印象を取り去るならば、内的な閃光を見い出し、それ以外のもの全てが消し去られたとき、内的な閃光が、いかに輝くかを見るであろう。しかし、それでも、ただ既にそこにあるものを引き寄せているに過ぎない」、と。

 人智学はそれでは満足しない。閃光に至るが、そこで立ち止まらない。小さな閃光をもっと強い光に変える方法を発達させることを求める。外の道も内なる道も取れるが、新しい認識能力を発達させる必要がある限り、どちらの道も直ちに取ることはない。

 人智学探求の現代的な形態は、内的な認識能力を内なる道と外の道が統合されるような手法で発達させる点で、中世の神秘主義からも、多元論からも、そして古い秘儀の教えからも区別される。このように、いずれの目的地にも等しく導くような道に従うことができる。

 この事が可能なのは、人智学の方法による高次の能力の発達が、人間を、認識の三つの段階へと導くからである。通常の認識から進み出て、それを越えていく、最初の段階はイマジネーション(霊視力)と呼ばれる。

 第二の段階は言葉の真の意味でインスピレーション(霊聴力)と呼ばれる。

 では、最初の段階はどのように達成され、より高次の能力が生じるために、魂の中で何が成し遂げられるのか?

 どのように発達させられるかという方法を示すには、いかに、この道において多元論と神秘主義を超越するかにある。イマジネーション(霊視力)もしくはイマジネーション(霊視)的な認識を理解するために最も役立つ例については、既に一度ならず触れた。

 それは人智学者が自らに適用する方法の中から引用される。それは、そのような多くの方法の内の1つであり、師と弟子の間で交わされる会話の形で最もよく表現される。

 弟子をイマジネーション(霊視力)へと導く、高次の能力に向けて教育しようとする師は次のように言う。

「植物を見よ。それは土から生え出て、葉から葉へと展開し、花に至る。それをお前の前に立つ人間と比較せよ。人間は植物以上の何かをもっている。何故なら、人間の思考と感情と感覚(意志)の中に、世界が照らし出されるからである。すなわち、人間は、人間的な意識をもつことにおいて、植物を超越している。

しかし、人間は、この意識を購うため、錯誤と不正と悪徳に導く、熱情、衝動そして欲望を、自分の内に吸収しなければならなかった。植物は、その自然法則に従って成長する。植物は、その存在を、自然の法則に従って展開しながら、純粋な存在として、その緑の樹液と共に我々人間の前に立つ。

もし、我々が幻想に耽るのでなければ、人間を正しい道から逸らせる、いかなる欲望や熱情や衝動をも、人間に帰すことはできない。

もし今、人間を貫いて循環する血を、すなわち人間意識の、或いは人間自我の外の表現である血を観察し、その血を、植物に浸透する、みずみずしい葉緑素に満ちた樹液と比較するなら、この脈打ちながら流れる血が、より高い段階の意識へと人間が上昇したことの表現であるのと同じくらい、人間を堕落させる熱情と衝動の表現であることに気づくであろう。」

 「それから」と、師は続けるであろう。

「人間が更に発達(進化)し、自我を通して、錯誤、悪徳、醜悪さや、人間を悪徳へと引きずり下ろそうとする、あらゆるものを克服すると共に、人間の熱情や情愛を純化し、洗練することを想像しなさい。

人間が追い求める理想、つまり人間の血が、もはや、いかなる熱情の表現でもなく、人間を引きずり下ろす全てを、人間が内的に支配することの単なる表現にすぎないものとなるとき、実現されるような理想を思い描きなさい。

人間の赤い血はそのとき、赤い薔薇の中で変化した緑の樹液に比較されるだろう。丁度、薔薇が植物の樹液を、その本当の純粋性において示すのと同じように、赤い人間の血は、純化され、洗練されたとき、人間を引きずり下ろすあらゆるものを、人間が支配するならば、人間がどのようになるかを、ただし植物の中で達成されたものよりも、より高次の段階において示すことができる。」

 これらは、師が弟子の心と魂の中に呼び起こすことができる感情やイメージである。もし弟子が単なる乾いた棒きれでないなら、もし弟子が、この比較によって象徴的に示される秘密全体に、感情をもって参入できるなら、弟子は魂をかき立てられ、その精神的な視野の前に象徴的な像として現れるものを経験するだろう。



 このように、赤い薔薇の花冠を架けられた黒い十字架は、この師と弟子との間の会話において、魂が経験するものを象徴的に要約しているのである。

 もし弟子が薔薇十字を、弟子にとっての真の象徴となすような感情と、イメージに対して、魂を開いているなら、つまり、弟子が薔薇十字を、内的視野(心眼)の前に置いたと主張するだけでなく、その本質に関する高い次元での経験に向かって苦悶の内に勝ち進んでいたとするなら、この像や同様の像が、小さな閃光ではなく、世界に対する新しい見方を、いわゆる弟子に、新しい認識力といったようなものを、魂の中に呼び起こすのを知るようになる。

 このように、弟子は以前の弟子に留まるのではなく、更なる発達の段階へと魂を上昇させる。そして、もし彼がこのことを何度でも行うならば、彼は、最終的には、目に止まる以上のものが外界の中にあるということを、彼に示すイマジネーションに到達するだろう。





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Last updated  2008年07月08日 10時32分59秒
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