シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年01月18日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 では、「驚き」自体の起源とはどのような種類のものなのか?

 「驚き」、すなわち、外界への「驚嘆」が魂の中に生じるのは何故なのか?

 「驚き」や「驚愕」が生じるのは、何らかの存在、事物、或いは事実の前に人間が立ち、それによって不思議な喜びを感じるからである。この「不可思議さ」が、「驚き」や「驚異」に導く最初の要素である。けれども、人間は、人間にとって不思議なもの全てについて「驚き」や「驚愕」を感じるわけではない。

 人間が何らかの不可思議なものに対する「驚き」を体験するのは、同時に、「驚き」の対象と関係していることが感じられるときだけである。この感情は次のように表現できる。

「この対象、あるいは存在の中には、まだ自分の一部にはなっていないが、将来、自分の一部になるかもしれないものがある」 、と。

 「驚き」や「驚愕」をもって何かを受け取るとき、それを不思議に感じると同時に、その対象と関係していることが感じられる。

 「(不可思議なものに対する)驚き」という言葉は、「(雷に打たれたような)驚愕」という言葉と関係がある。知覚可能な関係を見つけ出せないような「驚き」という現象に、何かが付け加えられるが、その何かは単にその人の思い込みかもしれないが、少なくとも、その思い込みの責任は、その人にある。

 そして、その人物が、その「不可思議な」何かが、自分に関係している「はずである」と結論づける限り、拒絶や反論の精神から、その対象、もしくは出来事にアプローチすることはない。



 今日では、哲学者でさえ、人間の眼前に広がっている世界の現象に基づくなら、ナザレのイエスの中に受肉したキリストが死者の中から甦らなかった、という否定さえ証明不可能であることを認めざるを得ない。

 この主張に対する反論は可能だが、それらがどのような反論であれ、論理的な意味では成立しない。今日の啓蒙主義的な哲学者たちは既にそのことを認めている。

 というのも、唯物主義の側から持ち出され得る反論、例えば、今まで、キリストが死者の中から甦ったように甦った人間を見た者はいない、というような反論は、魚しか見たことがない者が鳥は存在しない、というように、論理的に結論づけようとする主張と同レベルにあるからである。

 (知識に囚われる者は、知識に現実を当てはめようとする論理を用いるが、それは間違いで、逆に、現実に、知識を当てはめなければいけないので、知職は常に変容しなければおかしい。まして、唯物的知職ならば、物質とともに消滅していくものなので、消えていくのが当然である。)

 ある存在がいることに基づいて、別の存在がいない、ということを導き出すのは、論理的に首尾一貫した方法では不可能である。同様に、物質世界の中での人間の経験に基づくのでは、ゴルゴダの出来事(それは「驚き」として記述すべき)について何も導き出せない。

 とはいえ、もし、「奇跡」として記述すべき事柄について、誰かに語り、その人物が「私には理解できない」と言っても、この人物は、「驚き」の概念に対して反対しているのではない。何故なら、その人物にとっても、同じように真実であるような知識へと向かうなら、同じ出発点に立てることを示しているからである。

 その人物は、人智学徒の記述が、自身の内部にコダマすることを求めている。ある意味で、その人は、自分に伝えられることを精神的、もしくは概念的に自分のものにしたいが、それが可能であるとは信じられず、自分に関係があることとも思えないため、その受け入れを拒否する。

 確かに、自身の「驚き」の概念には到達できるが、実際に、「驚き」や「驚愕」が生じるには(古代ギリシア哲学の観点から言えば)人間が何か「不可思議な」存在に直面し、同時に、それと何か関係があり、よく知っているものが、そこにあることを認識できなければならない。

 さて、ここで、以上の概念と、以前、魂の前に置いた概念との間に橋を架けることを試みる。

 以前、示したのは、喜んで「犠牲」を捧げようとする存在たちがいること、そして、ある存在たちが、これらの捧げものの受け取りを拒み、その「犠牲」が捧げた存在たちに戻ってくることで、進化のなかに、ある一定の前進がもたらされた、ということだった。

 そこでは、差し戻される「犠牲」の中に、古「月」進化期における重要な要素の1つを認めた。実際、ある存在たちが、高次の存在たちに「犠牲」を捧げ、そして、後者が、その「犠牲」を差し戻したということが、古「月」進化期における最重要な側面である。



 「月」存在たちに関して最も特徴的なのは、高次の存在たちの元へと送り届けようとしたものが「犠牲」の実質として、自身の中へと突き返されるのを感じた、という点であることも見てきた。

 確かに、これまで見てきたのは、高次の存在たちの一部になろうとしたが、それができずに残された実質が、それを送り出した存在たちの中に取り残され、そして、そのことで、拒絶された「犠牲」を差し出した存在たちの中に「憧れ」へと向かう能力が生じた、ということだった。

 実際、魂の中で「憧れ」として経験する全ての中に、古「月」の上で生じた遺産(犠牲が受け入れられなかったことを知った存在たちの遺産)が今なお存在している。

 古「月」の進化期の精神的雰囲気を精神的観点から理解すれば、それは、当時、「犠牲」を捧げようとしたが、高次の存在たちがその受け取りを差し控えたために、それが受け入れられなかったことを知った存在たちがいた、という事実によって特徴づけられる。

 古「月」の特徴的な雰囲気の背後にあるのは、他に類を見ないような憂鬱な状況、つまり、拒絶された「犠牲」である。そしてまた、カインも自らの「犠牲」が受け取られなかったのを見たが、地球での人類進化の出発点を示す、このカインの「拒絶」された「犠牲」は、カインの魂をも捉えた古「月」進化の基本原則の繰り返しのように現れた。



 以前、古「月」上に運動霊が入ってきたことで、「犠牲」と、「犠牲」が「拒絶」されたことで、「月」の存在たちの中に生じた「憧れ」との間にバランス、或いは矯正が生じた、ということを見てきた。少なくとも、「犠牲」を「拒絶」された存在たちの中に生じた「憧れ」を、ある程度満足させる可能性が創出された。

 例えば、生き生きとした方法で次のように想像する。

 「犠牲」を捧げられるべき高次の存在たちがいるが、その「犠牲」の実質を送り返す。

 犠牲行為を行おうとした存在たちの中に「憧れ」が生じ、次のように感じる。

「もし、私が犠牲を与えることができていたら、私の中の最良のものが、あの存在たちの中で生きることになっただろう。実際、私自身が、あの存在たちの中に生きていたことだろう。けれども、私は、この存在たちにより排除された。私はこちらにいて、高次の存在たちは向こうに立っている!」

 しかし、今、これらの存在たち、そしてその中では「拒絶」された「犠牲」から来る「憧れ」が、高次の存在たちに向かって煌めくが、運動霊により(この事実を文字通りに理解すべき)、代わりに、多数の異なった側面から、高次の存在たちに近づけるような地点へともたらされる。

 そして、「犠牲」を捧げ、「拒絶」された存在たちを取り巻く、高次の存在たちから受け取る豊かなイメージ(運動)により、「犠牲」を「拒絶」された存在たちの中に留まる「憧れ」に対して、均衡と補償がもたらされる。

 こうして、「犠牲」を捧げようとした存在たちと、「犠牲」を「拒絶」した高次の存在たちとの間に1つの関係が創り出される。そして、その新たな関係により、「犠牲」が「拒絶」され、戻された為に満たされなかったものが、あたかも「犠牲」が受け取られたかのように、補償される。

 (喩えが貧弱だが、有名人の代わりに、そのブロマイドをもらうようなものか? 有名人の追っかけを想像すればわかる。「憧れ」が運動に変わる。)





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Last updated  2010年01月20日 16時56分03秒
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