シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年01月20日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 人生における「死」が具体的に発生するときにも、前回述べた「犠牲」の「拒絶」と同じ原則が当てはまる。

 (人間の「死」も、宇宙の本来の霊的生から疎外されたもの。)

 幻想(物質)の世界に取り残された死体を見れば、それは、「死」に際して、自我、アストラル体、エーテル体から引き離されることで、肉体としての唯一の真の意義を肉体に付与した、それら3つの(本質的な)体から疎外された実質のみから構成されているのが分かる。

 というのも、人間の肉体は、エーテル体、アストラル体、自我なしには意味がないものだからである。「死」の瞬間に、肉体はその意味を失う。肉体は、その意味の源泉から疎外される。人間が死ぬとき、もはや感覚では知覚できない存在が大宇宙の中で自らを開示する。

 高次領域での宇宙存在たちが、「犠牲」としてもたらされようとしたものを「拒絶」し、投げ返した為に、この「犠牲」実質は死を免れないものとなった。というのも、「死」とは宇宙的実質、あるいは宇宙存在が宇宙の真の目的から除外される、ということだからである。

 このようにして、宇宙における第4の要素と呼ぶ存在へと到達した。もし、純粋な意味において「火」が「犠牲」であるなら、「火、もしくは熱」が生じる処では、その背後には「犠牲」が横たわっている。

 もし、地球の周りに「空気」として広がる存在の背後に、「贈り物、あるいは徳の付与」を見つけるなら、もし、流れる「水」、すなわち「流体」の要素を、精神的な「諦め、あるいは拒絶」として特徴づけるなら、「土」の要素については、「死」を担うものとして、「拒絶」を通して、その本来の意味から「疎外」された存在として特徴づけなければならない。

 (「死」とは、本来の宇宙的目的のトカゲの尻尾というべきものなのだろう。)


 空気、大気-贈り物、徳の付与
 水、流体-諦め、拒絶
 土-死、疎外


 もし、土の要素がなければ、「死」は存在しなかった。流体(液体)から固体が生じる事実を、具体的な形態において次に示し、それはまた、ある意味、精神的過程をも反映している。

 例えば、池に氷が張ることで、水が固体(氷)になることを想像すればよい。

 水が氷になるのは、実際、水に水としての意味を与えている存在から、水を引き離すことによって生じる。

 (水を成しているエネルギーを奪えば、結晶化して氷となる。一般相対論では、空間が歪み、物質化される数式を用いる。)

 この過程(プロセス)の中には、固体(結晶)になる、という精神的な表現(土になるという精神的な表現)がある。というのも、4大元素としての特徴に関して言えば、氷は実際には土(固体)だからである。

 つまり、液状のものが「水」である。自らの目的や意味から引き離されることは、「死」と呼ばれるものであり、「死」は土(固体)という要素の中で自らを開示する。

 (イメ-ジでいえば、蛇(本体)の脱皮(固体)のようなものといえるだろう。脱皮の皮が、死んだ固体として蛇から切り離されるわけで、霊的な存在、例えば魂も同様に、肉体に宿り、肉体を死んだ状態として、死後、切り離していく。霊的にいえば、運動が止まった状態が、土という死になる。) 

 これまでの地球紀の話は、幻想(マーヤ)の世界の中に、何か現実(真実)の存在があるのか? その内部に何か現実(真実)に対応する存在があるのか? という問いから始めた。

 今、魂の前に置いた概念を注意深く考えてみる。最初述べたことは、地球紀の講義で取り上げる概念は、かなり複雑なものになる、ということだった。

 だから、単に知的に受けとめるだけでなく、瞑想しなければならない。そうしたときに初めて、複雑な概念が明らかになるだろう。この「死」の概念、すなわち土に関する(精神的)存在に対する概念を取り上げてみる。

 それは実に注目すべき側面を示している。これまで取り扱った他の概念(火、空気、水)については、周囲に広がるマーヤ(幻想)の世界の中には、いかなる現実(真実)も見つけられず、真実は、ただ根本的に精神的存在の中にだけ見つけられる。



 つまり、何らかの存在が切り離され、このマーヤの中に閉じこめられた。その存在は、本当はマーヤにあるべきものではなかった。マーヤと幻想の広大な領域全てを通して見つけられるのは偽りと幻想だけである。

 しかし、マーヤの中で、唯一、真実に対応している存在があり、つまり、真実に対応する存在が、精神的存在の中で、その存在に意味を与える真実から切り離された瞬間、その存在は「破壊」と「死」を被るようになる、という事実を見つける。

 ここに、大いなる真実と言えるような事実がある。つまり、『「死」はマーヤの世界の中で、ただ1つ、その現実(真実)において自らを現している』のである。他の全ての表現に関しては、それに対応する(精神的)現実(真実)へと辿らなければならない。

 「死」以外のマーヤの中に生じる他全ての表現の背後には、現実(真実)に相当する(精神的)存在が横たわっているが、ただ、「死」に関してだけは、「死」を現実(真実)的な存在として見い出せるのは、マーヤの中だけである。つまり、マーヤの領域全体を通して、「死」だけが現実である。

 だから、もし、普遍的なマーヤの中の至る処に広がっているものから偉大な宇宙の原則へと向かうならば、人智学にとって最重要で最適切な帰結とは次のような命題である、



 ここで述べている事実は別の面からもアプローチできる。例えば、周囲を取り囲んでいる別の領域に属する存在たちについて考察でき、次のように問える。

 例えば、鉱物は死ぬのか?

 鉱物が死ぬ、と言うのは、人智学徒にとっては意味をなさない。というのも、(人体から)切り取られた爪が死んだ、と言うのと同じだからである。爪は、爪という存在に対して、それ自身で正当性をもつものではない。爪は、人間の一部で、爪を切れば、爪は共に生きていた生命から引き離される。

 爪が死ぬのは、人間自身が死ぬときだけである。それと同じ意味で、人智学では、鉱物は死なない。というのも、鉱物は、ちょうど、爪が人間の有機(肉)体の構成要素であるように、大きな有機体の構成要素に過ぎないからである。





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Last updated  2010年01月22日 16時56分53秒
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