シュタイナーから読み解く神秘学入門

シュタイナーから読み解く神秘学入門

2010年11月02日
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カテゴリ: 神秘体験空間
 第10講で触れたベーグマン医師との共著のなかの情報が益々公(おおやけ)のものとなり、秘儀参入の意識から、人間により遂行される意志からの行為を洞察するとき、その行為が、蝋燭の光、もしくは熱を与える光の点火を見ているようなイメージを与える、ということに、気づくようになる。

国際アントロポゾフィ(人智)医学ゼミナール
http://homepage.mac.com/anthro_med/Menu1.html

 外(物質)的な現象に関して明確なイメージをもつのと同様に、この内(精神)的な場合にも、意志の中に沈下した思考を実際に眺めることができる。その際、思考が感情を発達させ、感情から(人間の中では、下方に向かうが)、熱情へと炎が点火する、とでも呼べる現象が生じる。

 そして、この炎が意志として、段階を追って順々に点火していく。このような3重の意識を以下のような図として示せる。



 明晰な思考   昼の覚醒意識

 感情生活    夢の睡眠意識

 意志の意識   夢のない睡眠意識


 さて、しかし、精神世界を探求するには、必然的に、意識的な理解が必要な世界に意識を向けなければならない。とはいえ、もし、人智学徒の探求の果実を正確に伝えるなら、口頭で伝えられる叡智は、現在使われる言語とは、また別の意識形態を持つ言語で表現しなければならない。

 恐らく、上述した叡智は二重のプロセスをとることが分かるだろう。第一に、例えば、第10講で説明したような人間の器官内にある(精神)世界を探求するプロセス。第2に、人間が、人生を通して、精神世界に近づくとき、突然出現する力(霊能力)を利用して、問題の現象を探求するプロセスである。

 その際、発見するのは、精神世界の理解の範囲内で現れる事実である。そして、世の中には、精神世界の事実に気づき、世界に伝える人たちがいるが、そのような人たちによって世界に伝達される事実は、もし、必要な客観性をもって、その事実を眺めるなら、通常の覚醒意識からも理解できる。



 (精神世界を民衆に伝達してきたのは、恐らく、司祭や祭祀たちである。日本でいうなら天皇であり、朝廷といえるだろう。

 オカルトの話だが、日本の天皇は、失われたイスラエル東方部族のカド族出身であるという噂がある。古代イスラエル人は、ヘブライ語のアラム語を話していたそうだが、皇室語に、それに似た言葉があるという。)

 さて、ある1つの慣習が、精神世界の事実に関する知識の受容に不利に働いている。それは、一般に、ある社会環境の中で、ただ物質的事実の世界の、つまり感覚の世界を基に、そして感覚の世界から導かれる論理的な情報だけを信じるようになるように、日常の習慣的な反応を条件づけるような教育体系下で人間が成長する、ということである。

 この習慣はあまりにも強く、根深く、「大学には、教育に加えて現象世界の物質的側面に関する研究があり、もしくは、教育の分野で、他の研究者が発見したことを確かめるような教育学部の研究者さえいる」と人々の間で語られるほどの洗脳的傾向をもっている。

 現代人の誰もが、大学の研究者の発見を受け入れ、自分でその事実を探求せずに、研究者の主張を信じている。この際限のない馬鹿正直さが、特に現代科学のために用意されている。霊的洞察力をもつ人からみれば、ほとんどの現代人に、問題が多いだけでなく、全くの嘘を信じている者もいる。

 (俗に、B層といわれる。マスコミ情報に踊らされる人々がいる。)

 このような状況は、何世紀にもわたる教育の結果として現れてきた。このような教育の形態は、古代に生きた人間にとっては見知らぬものであった、という事実を指摘したい。

 古代人はまだ、自らの意志と感情に適合していた精神世界に対する古い(霊的)洞察力をわずかに保持しており、精神世界にも参加していたため、精神的な事実を探求する人たちを信じる傾向の方が遥かに大きかった。

 現代の人々は、精神的世界の知識とは無縁である。現代人は、大陸(ヨーロッパ)では、理論的な傾向のものとして、イギリスやアメリカでは、実践的傾向のものとして、今やしっかりと確立された(物質的)観点に慣れ親しんでいる。

 大陸(ヨーロッパ)には、上記の事柄に関する詳細な理論が存在する一方、イギリスとアメリカには、そのような理論を克服するのが決して楽ではないような、本能的な感情が存在する。



 例えば、化学者が実験室で何らかの研究に取りかかるとき、一般人は、そこでどのような技術が使われているのか、をほとんど理解しない。その仕事は拍手喝采をもって迎えられ、化学者は躊躇なく「ここには真実がある、信仰に訴えかける必要のない知識がある」と断言するが、実際、科学者が知識と称しているものは信仰なのである。

 (科学もいわば自然法則教という宗教である。無神教である。)

 現象世界を探求し、論理という道具によって現象世界の法則を確かめるために採用される方法の中には、精神世界に関するほんのわずかの情報さえも提供するものはない。しかし、精神世界なしで済ませることができる人も皆無である。

 精神世界のことを知らずに、できるという人は自分に正直なのではなく、思いこんでいるだけである。人類は精神世界に関して、何かを知るという差し迫った必要性を感じている。

 現在知られているような精神世界に関して、語る人たちをいまだに無視し続けているが、歴史的な伝統や聖書の教え、東洋の聖典に関する話を聞く準備はできている。これらの伝統的書物に興味を持つのは、それ以外に、精神世界との何らかの関係や接点をもつという必要性を満足できないからである。



 そして、人々は、聖書や東洋の聖典が、個々の秘儀参入者だけに探求されてきたという事実にも関わらず、上記の聖典はまた別種の見方を反映しており、現象世界の知識や、科学的知識とは関係がなく、信仰に依存し、信仰に訴えかけるものである、と主張する。

 このように科学と信仰の間には厳格な区分けの線が引かれ、現代の人々は科学を現象世界に、信仰を精神世界に関連づける。





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Last updated  2010年11月10日 10時41分24秒
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