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『ニムロッド』上田岳弘(講談社) えっと、数回前の芥川賞の受賞作品ですね。 仮想通貨がテーマである、と。 なるほど、ビットコインが出てきます。けっこう大切な小道具として出てきます。 しかし、何となくお分かりのように、わたくし、このビットコインっちゅうのが、今一つ分からないんですね。いえ、何となくならわかるんです。 例えば、本文の最初の方に簡単に説明してあります。こんな感じ。 (略)確か各国の中央銀行が発行する通常の通貨とは違って、プログラムが管理する仮想的な通貨の一種だったはずだ。通貨の価値を保証するのは、ドルや円などの通常の通貨であれば中央銀行であり、あるいはその上位に位置する国家なのだけれど、ビットコインなどの仮想通貨の場合は、プログラム化されたルールに参加するPCがそれに当たる。 と、こんな感じで書いてあって、まー、この範囲なら何となく(本当に何となく)分かるような気がするんですが、ところが、この説明箇所から10ページほど先に、また説明があって、これがもう、わたくしには、分からない!(自慢してどうする。) ビットコインは、台帳へのデータの追記をアルゴリズムに参加したPCの計算力を借りて行う。無償ではない。計算したPCには、その報酬として新たに発行したビットコインが贈られる。台帳によって存在が保証されるビットコインの、その存在そのものを担保することに力を貸すことで報酬が支払われ、そのことがまた参加者にビットコインの価値を感じさせるのだ。うまい、虚無から何かを取り出している! ……まー、私の物事の理解力なんて、そもそも蚤の脳みその演算能力程度しかありませんので、この文章がよくわからないのは致し方ないとして、でも、私の偉いところは、かといってこの小説を読むのをやめるということをしないところであります。(エヘン) 確かにこの文章の意味するところはほとんど分からないとしても、要は、何もない所から価値を生み出すシステムっちゅうのんがいっちゃん大事なんやろ、まあ、そーしといたろ、と関西弁で呟いて読み進めるんですね。 そしてそれが、見事に、当っております。(重ねてエヘン) 現代社会のシステムが、ほぼ個人の力では把握困難なほど肥大化し複雑化していることの、いわば作品内における象徴として、このビットコインは描かれています。 私は生意気にも読み終えた後、仮想通貨をテーマとするこの話は、生まれるべくして生まれた現代小説や、と、これもまた関西弁で呟きました。 ところで、ビットコインもよくわからないくせに、なんでそんな作品内容がわかったふりがでけんねん、という抗議の御意見に対しましては、いえ、この作品はここさえ放り出したら、後は普通に読める作品だからだと、お答えいたします。 読み終えた時、私は上記の大胆不敵な感想に加え、実はもう一言、こう呟きました。 「これは、漱石の『草枕』か。」 漱石の『草枕』は、「非人情」をテーマに芸術作品を探していた主人公が、最後に女性の横顔に「憐れ」が浮かんでいるのを見つけて「それが出れば絵になる」と呟く作品です。 明治39年に書かれたこの小説が、どう『ニムロッド』に結びつくのか。 それは、ビットコインのような内実のない虚無の世界に生きているのは、やはり、斬れば血の出る生身の肉体を持つ人間だという点において、ほとんど相似形を成しています。 いえ、明治39年の作品まで溯らずとも、私は、これは特に冒頭から中盤あたりまでを読みながら、再三、似通った読書体験を思い出していました。それは、この作品です。 「これは、21世紀の村上春樹の『風の歌を聴け』だな。」 ポップな書きぶりといい、モザイクにいろんな話題を繋いでいく展開といい、村上作品にそっくりです。 主人公のライフスタイルを描き、誠実な人柄を描き、彼女とのベッドを描き、そして『風の歌』に出てくる主人公の友人、小説を書く「鼠」まで相似形の人物が出てきて、そのうえ、これもはっと気がついたのですが、「妊娠小説」でさえあります。 なるほど、21世紀の妊娠小説は、NIPTが噛んでくるのか―。(「NIPT」ってのは、もちろんよくわかりませんが、これはウィキで何とかなります。)(文芸評論家の斎藤美奈子は、村上春樹の『風の歌を聴け』を、近代日本文学の正規の伝統に則った「妊娠小説」と位置づけています。ついでに少し補足すると、近代妊娠小説の父は森鴎外『舞姫』、母は小栗風葉の『青春』であります。) 私はもう今となっては大昔ですが、初めて『風の歌を聴け』を読んだ時、描かれている「喪失感」にかなり心が動いたのですが、本書ではそれはむしろ「虚無感」といった方が適当でしょう、虚無から価値を生むビットコインと合わせて。 そして、この真っ黒で硬く深く冷たく固まったような「虚無感」をどのように終えていくのか、少し気になり始めた作品後半から終盤にかけて、(私は一度読み終えてからもう一度パラパラと繰り直したのですが)筆者は実に巧妙に一つ一つ手を進めて、そして先ほどの私の連想で言うところの『草枕』的エンディングに持っていきます。 せっかく虚無の漂う「非人情」の世界を描いてきたのだから、古い酒を新しい器に盛るような終わり方ではない、もっと突き抜けたものを提示できなかったかという思いは、全くないとは言いませんが、やはり肉体と感情を持った人間が筆者であり読者でありますから、ここは、まずまず、というところで……。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.04.26
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『水声』川上弘美(文春文庫) 考えてみると、川上弘美も長く読んでいないなー、と。 一時期はかなりまとめて読みましたが、ぷつっとやめました。 今思い出してみると、あの時私は、なにかこの筆者の小説には中毒性があるように感じたんですね。で、まー、避けたわけです。 いえ、中毒性があるというのは、別に川上氏の作品を貶めているわけではありません。 わたくしにとって、一時期まとめて読んでいて、同じように中毒性というなんとも非論理的な理由で読むのをやめた本に、西原理恵子の本があります。 この方は漫画家ですね。とっても面白い作品を一杯書いていらっしゃいます。 でも、まー、私は、今はほぼ読みません。わがままな読者の「特権」であります。 そんなわけで長く読んでいなかった川上作品を、この度久し振りに読みました。 川上氏の作風をほぼ忘れていたのですが、読みながら、だんだんぼーっと思い出していきました。あー、こんな感じだったなー、という感じで。 何となく覚えている作品を挙げると『センセイの鞄』(これは有名だ)とか、『溺れる』とかいう確か連作短編のようなのもありましたよね。 そんな小説と、今回の小説と、「あー、こんな感じだったなー」と私が思った相似形ニュアンスをざっくりまとめますとこんな感じですかね。 いわゆる普通(「普通」というのはなかなか定義の難しい言葉ですが)ではない切実な感受性と生き方をせざるを得ない魂を持ってしまった主人公を、ほぐれたゆるい日常の中で描いた作品群、と。 この「切実な感受性」と「ゆるい日常」のバランスこそが、この筆者の一番の持ち味であるように私は思います。 まず「切実な感受性」ですが、これはかなりシビアに描かれています。例えばこんな感じ。 陵はわたしの顔をのぞきこんだ。うす茶色の瞳の中に、わたしの目がうつっていた。せつないなあと思った。でも、何も壊さなかった。嫉妬、という言葉を陵が使ってくれたことに満足しておくことにした。陵の白目にわずかに浮いているほそい血管が、きれいだと思った。 こんな感じの「シビア」な描写が所々出てきます。ここの部分を、なかなかいいよねーと思うと、川上弘美作品は相変わらず、いいです。 ただ、ちょっと人工的な気がすると思ってしまうと、そんな気もします。 そしてそんな感覚が、論理性のゆるい日常生活の描写の中に解き放たれているんですね。 こちらの描かれ方は、これはまた、本当にかなりゆるい気がします。なんか論理性がほぼ完璧にほぐされてしまっているんですね。 例えば、この個所は多分実験的に極端に論理性をほぐしているのだと思うのですが、こんな部分があります。 白っぽい野って、なに。 聞き返したら、陵はしばらく言葉に迷っているふうだったけれど、やがて、「たとえば荒野のように、雨風そのほかこっちにつきささってくる攻撃的なものから無防備な場所じゃなくて、なんだかぼんやりした抽象的な感じの場所」 と答えた。 短く引用したのでわかりにくいですが、でもこのせりふの言っていることって分かりますか。 私はさっぱりわかりません。実はこの後、文庫本2ページぐらいこんな感じの意味のつかめない展開があって、その後、実在する俳人の句が出てきます。私はよく知りませんが、割と有名な句らしいです。この句。 頭の中で白い夏野となつてゐる ここまで読むと、なるほどそういうことかと何となくわかるのですが、……んー、どうなんでしょう。ちょっと私は、こんなエピソードの描き方を、少し「ズルい」と感じてしまうんですがね。 まー、人それぞれでしょうが。 しかしそれじゃ、このお話は、筆者の自家薬籠中の古いテーマの焼き直し小説かというと、いえ、新しい試みももちろんあるように感じました。なかなか「斬新」な設定が。 それは、そんな切実な感受性を持った主人公を、初老にまで持っていったことであります。 細かい部分まで取り上げますと、そんな主人公が男女のペアで出てくることや、親子二代にわたっての感受性であること等も目新しい展開ではありましょうが、私としては一番の本作の独創性は、主人公を特殊な感覚のまま還暦近くの年齢に設定したことだと思います。 ただ、作品としては回想展開部が多く、全くの初老女性の話とは言い切れません。 また、主人公の年齢設定が、単純にそのまま筆者と同じになっているだけだとも考えられますが。 ともあれ、そんな、読後感を持ちました。 私にとっては少し懐かしさの感じる小説でした。読み終えた後の感覚は、悪くないものでした。 よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.04.18
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『月の光――川の光外伝』松浦寿樹(中公文庫) この本も、例の全国展開の古本屋さんで廉価で売っていたので買いました。買ってから何となくあちこち(前書きとか、内容ぱらぱらとか、ですね)見ていますと、どうも、この短編集には先行する別のお話があるようだ、と。(すみません。そんなことは、サブタイトルを読めばすぐに分かるだろうというご指摘は、十分ごもっともであります。) ではいかがすべきか読むべきか、……んー、いや、まーいーかー、などと考えていた折りに、ちょうど読書の友人に会いまして、次こんな本を読むつもりだと言ったら、で、あなたは『川の光』のほうは読んだのか、と聞かれました。 そんな時ちょっと返事に詰まるわたくしって、本当にスノッブであるなあと我ながら思います。でも、つい、読んでいないがもちろんセットで読むつもりだ、と答えてしまいました。 そこで図書館で本を検索しますと、このシリーズはさらにもう1冊あるということが分かりました。 えー、3冊でセットなのかーと少し怯みましたが、とりあえず2冊借りて(つまり揃えるだけは3冊揃えて)、まずこの本から読みました。 『川の光』松浦寿樹(中央公論新社) このお話は、読売新聞に連載されたものなんですね。新聞小説なんだー。 そもそも私は、最近の新聞小説について何の知識もない人間ですが、こんな児童文学めいた作品も掲載するんですね。(新聞の中で、ここだけ子供が読むんかなー。) えー、実はわたくし、児童文学、ちょっと、弱いんですよねー。 例えば、一部では「教祖」のごとく言われている宮沢賢治の童話ですら、本当のところ、どこがいいのかよく分からないでいます。……困ったことだ。 なぜ児童文学がこうもよく分からないのかについて、そんな児童文学に理解力のない私なりに、かつて本ブログで考えてみたことがあります。 要するに、児童文学ゆえの「人間性の簡略化」をどう理解すればいいのかが、私はよく分からないんですね。 というわけで、少々恐る恐るという感じで、『川の光』を読み始めました。 しかし読み始めてしばらくして、すぐに気が付きました。 文章がきちっとしているからでしょうか、とても安定感のある、安心して読める児童文学だということに。恐れる必要はない、と。 こんなのを、いわゆる大人も楽しめる児童文学というのでしょう。 私にも、そんな児童文学が好きだという知人がいて、それなりに納得はできます。 なるほど、現代の新聞小説の一端とはこういう作品であるのか、と。 でも私としては、上記の「人間性の簡略化」という我が気がかりについては、なんとなくまだ心に含んだままでありました。 さて1冊目を何とかクリアして、続いて冒頭の『月の光』に取りかかりました。 先に奥付の辺りを覗いてみますと、初出誌は「群像」と「中央公論」ではありませんか。 文芸誌にも児童文学かぁ。……んー、何となく今回も少し、戸惑いました。 でも今回も、読み始めてしばらくして、これは、あ、と気づきました。 この短編集は(少なくとも冒頭のお話は)、児童向きのものではない、と。 さらにその後、一つ一つとお話を読んでいくと、なかなか微妙なお話もありましたが、総体としては、この本は、大人の読む本であろう(主に大人の読者を想定して書かれたものであろう)、と。何よりも文体が、それを物語っています。 そう感じながらも、しかし物語は児童文学的設定で進められています。 するとそこにどんなことが起こるか、それは思いがけず、私が上記にしつこく気になると書いた「人間性の簡略化」について、逆にくっきりと見えてくるところがあることに気づきました。例えばこんなところ。 それきり、ルチアはもう恋をしようとしなかった。恋は楽しいし子どもも可愛いけれど、あの浮き立つような、沸き立つような騒がしい時間は生涯に二度経験すればそれでもう十分だった。子どもたちが巣立ち恋人とも別れて独りぼっちに戻ったとき、淋しいという気持ちがないわけではなかったけれど、ルチアはむしろほっとした。もうこういうことに煩わされずに生きていこうと思い、その後は誰とも深い関わりを持たずに生きてきた。 引用文中のルチアとは雌フクロウですが、この擬人化と述べられている内容の関係は、「人間性が簡略化」されているが故に、かえって強い説得力があるように思いました。 なるほど、例えば宮沢賢治の作品から人生訓を読むとは、こういうものであるのか、と。 さて私はこのように、シリーズ2冊目の本を(1冊目とはやや異なって)、大人向けの作品として読みました。それはまた、作品がトータルに示すテーマについて、読みながらこんな風に考えたこととも相まっています。 まず私は、優れた児童文学の普遍的なテーマの一つに、「生きることの喜び」を伝えるというものがあるように思います。それは例えば、自然の豊かさの再発見であり、人間社会の多様性の素晴らしさであり、そして自己肯定感などであります。 もちろん本書もそういったものに触れてはいるのですが、本作はさらに、「生きることの意味」について、記述に少なくない重心がかけられているように思いました。 「生きることの意味」を描くとは、たぶん、児童向けというよりは、生と同時に死をも見つめる大人向けの「哲学」の役割ではないでしょうか。 それはひょっとしたら、筆者自身が死を(何らかの理由で)見つめているからかもしれません。 あるいは、読者である私が、そうである可能性も大いにあります。 しかし、そのような思いを読者に導く作品をこそ、我々は文学と呼ぶように、私は思います。 (で、残りのもう1冊は読んだのかということですがー、……とりあえず図書館からは借りましたがー、……んー、まーいーかー……。) よろしければ、こちらでお休み下さい。↓ 俳句徒然自句自解+目指せ文化的週末 にほんブログ村 本ブログ 読書日記
2021.04.02
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