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前回の分岐点から稲荷山の頂上に向かいます。山道の傍に、「ヤマザクラ」の案内板が立っています。麓には民家の屋根が見えます。 分岐点に道路標識があります。その下に「京都一周トレイル 東山F34」の案内掲示も出ています。この分岐点から南に行けば、「大岩山展望所を経て伏見桃山城」です。破線矢印の方向に進めば「白菊の瀧」。目指すのは破線矢印の方向です。 この案内表示も近くにあります。 山道を進むと「七面の滝」の表示が出ています。立ち寄ってみました。 「日蓮宗寶塔寺 七面瀧」の表示がトタン塀に見えます。宝塔寺は、深草の七面山の西南麓に位置する日蓮宗妙顕寺派のお寺です。(資料1) 行場の瀧の傍には、お題目を刻した石標が建ててあります。 瀧の傍に、「七面大天女」と墨書された提灯が吊された社があります。 七面大天女は七面大明神のことで、法華経の護法神であり、法華経を信仰する人々の守護神だそうです。「そのお姿は、右に施無畏の鍵を、左には如意珠の玉を持ち、日蓮宗総本山、身延山久遠寺の裏鬼門にあたる七面山山頂に祀られています」(資料2)とのこと。先に進むと、京都一周トレイルの説明にある「白菊ノ瀧」が見えてきました。 近年建立された感じの石標です。 瀧のところには、小振りな不動明王石像が安置されています。 左の写真は、白菊大神・大岩大神と並べて刻された碑が建立されたお塚です。ここにも山の斜面にお塚が広がっています。 山道の傍に、この辺りで観察できる植物や生き物の説明板が設置してあります。このあたりは、「自然風景保全地区」になっているようです。 山の斜面に広がるお塚群を遠望しながら山道を登ります。 「御剱ノ瀧」です。 行場を囲む塀越しに、一条の滝を眺めました。 その先で、再び山道が分岐します。稲荷山山頂への道と大岩大神に行く道との分岐です。最近は外国人観光客もこの辺りまで探訪する人が増えつつあるのでしょう。注意喚起の説明板には、日本語・英語・中国語・韓国語が並記されています。 「末廣大神」の額が掛けられた朱塗り鳥居の傍に「末廣滝」の石標が立っています。 かろうじて水の注ぎ口から一条の滝が流れ落ちる箇所を眺めることができます。 山道を再び登りながら、振り返りお塚群を遠望した景色です。 頂上間近になり、朱塗り鳥居がまた見えてきました。 ここには英文表記の道標があります。さらに先に進むと、千本鳥居が見えます。この道と交差する箇所だけ鳥居が途切れた空間があります。 連続する鳥居の途切れた箇所の一方に、この「末廣瀧 是ヨリ一丁下」と刻した道標が立っています。これが山頂から逆コースで下山しながら探訪する際の起点としての目印になります。 反対側には、この千本鳥居の参道に沿って進む場合の道標が立っています。一方は「剱石・薬力社・御前谷へ」です。稲荷山を一周して下山するコースになります。他方は「一ノ峰 二ノ峰 三ノ峰」と峰伝いに下山する方向です。裏道から一ノ峰に登るルートのご紹介はここで一段落です。後は、千本鳥居の連なる参道を通り、一ノ峰から峰伝い経由での下山のご紹介となります。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p712) 七面大明神について ここが知りたい :「日蓮宗尾張伝道センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・伏見稲荷大社 もう一つの裏道 -1 奧社奉拝所・竹の下通経由で瀧巡り へ探訪 京都・伏見稲荷大社 もう一つの裏道 -3 一ノ峰から表道で下山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都・深草を歩く(旧伏見街道の波紋) -8 宝塔寺細見(1) まずは本堂周辺へ 3回のシリーズでご紹介しています。
2019.05.19
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[探訪時期:2013年7月]次に訪れたのは「清源寺」です。このお寺についても、近江歴史探訪取材記として、ブログ記事をまとめています。そちらを主として、今回落ち穂拾い的に拝見漏れだったところをカバーする形で、清源寺の本堂や境内を拝見しました。冒頭の画像は山門の全景です。道路脇に建つ寺号石標のところから参道としてのアプローチはそれなりの距離があります。その距離は境内に入るまでに気持ちの切り替えをするのに適している気がします。山門を入り昇天橋を渡りますが、方形の池には蓮の花が咲いていました。祥雲山清源寺は、現在臨済宗永源寺派のお寺です。そしてここが江戸時代に入り、仁正寺藩主市橋氏の菩提寺となったのです。しかし、この場所は蒲生氏と深く関わりがあります。もとは、蒲生定秀がこの地に別邸をを設けていたようです。定秀が天正7年(1579)に逝去したあと、嫡子の賢秀がここを桂林庵として父定秀の霊位を安置したと言います。妙心寺派の僧別宗を請して、寺として供養したそうです。天正10年(1582)6月に蒲生氏郷が伊勢に転封されるて寺院が衰頽したのです。江戸時代、元和6年(1620)市橋長政がこの日野に転封によって入って来て、桂林庵に修理を加えて市橋家の菩提寺としたのです。仁正寺藩第3代藩主・信直の時代、元禄8年(1695)に永源寺禅柱を請したようです。この時に臨済宗永源寺派の寺になったのです。そして、宝永元年(1704)に清源寺と改称し、永源寺の開山寂室元光禅師を追請して開山したとされています。(資料1) 本堂側から見た鐘楼覆屋の建物になっていて、上部が白壁造りでありなかなか優美です。その左手にあるのは、本堂大屋根葺き替えにあたり、記念に残された本堂鬼瓦です。取材記ブログに写真を載せていますが、鬼瓦に市橋家の家紋が陽刻されています。この鬼瓦のモニュメントの左手斜め奥に、市橋氏三代(第3代、第6代、第8代)の廟所があります。本堂には市橋氏歴代藩主の肖像画の軸が掛けられてあります。市橋氏の菩提寺だけあり、関係者の位牌が本堂にずらりと安置され、壁面には位牌についての説明も丁寧に掲示されていました。 その中に、仁正寺藩第2代藩主・政信と第3代藩主・信直の彩色木像坐像も安置されています。本尊以外に様々な仏像が安置されていますが、厨子に入った小さめの仏像が彩色もきれいに残り、特徴のある像が安置されています。3体ご紹介させていただきます。 地蔵菩薩立像の頭部に頭巾を被せてあり、おもしろいなと思いました。彩色もきれいに残っています。 観音菩薩立像小ぶりで彩色鮮やかな天部像を両脇侍としています。向かって右側は持ち物から判断して毘沙門天(多聞天)像でしょう。左側は増長天像でしょうか。 獅子が立っているのでなく寝そべっていますが、獅子に騎乗し、右手に剣を持つところからすると、文殊菩薩坐像でしょうか。獅子の体の彩色がおもしろい。本堂には奥山半僧坊大権現が勧請されて祀られています。前回も今回も、わかりやすく言えば、天狗さんですとお聞きしていました。この再訪で、天狗の頭部板絵の額が掛けられているのに気づきました。今回気がついたのがこの「日新舘」と記された扁額です。これは、仁正寺藩が設けた藩校の額だったのです。第7代藩主の市橋長昭が、寛政8年(1796)8月に、仁正寺中町に藩校を新設したのです。明治初年、廃藩とともに廃校になったのそうです。十三重石塔の周囲に、 何体か小さな石像が置かれています。 これはその一つ。前回撮っていない石仏です。本堂裏手の墓地の一角には、仁正寺藩藩士の墓があります。約200人に及ぶ数だそうです。現代風に言えば企業墓地ですね。一時期、企業の供養塔(墓)が流行したことを思い出します。 石灯籠の火袋の部分が菱形に刳りぬかれた意匠です。市橋氏の家紋を意識した発想でしょうか。この形も他所ではあまり見かけません。 清源寺を出た後、聖財寺の山門のところで少しガイドさんの説明を聞きました。南北朝時代には善正寺という天台宗のお寺だったそうです。戦国時代、蓮如上人の頃に真宗に転宗したのだとか。信長との石山本願寺合戦には、住職乗長が参戦しているのです。寛文年間(1661~73)に聖財寺に改称されたのだとか(説明板参照)。𦾔邑山聖財寺は浄土真宗本願寺派のお寺です。「寺の建物に、仁正寺藩疔の建物の部材が転用されているとの伝承があります」(資料2)とのこと。 西大路集議所です(資料2)。かつての仁正寺藩疔の勘定部屋の建物だったとか。 日野の町中でいくつも地蔵堂を見かけます。これもその一つ。ここのお堂では、中にきらびやかな小祠堂が置かれていて、中には一体のお地蔵さまが安置されています。外の両側にもお地蔵さまが幾体も安置されていて、ちょっと興味深いです。堂内のお地蔵さまと外のお地蔵さまはどういう関係でしょう・・。 次に訪れたのが「法雲寺」です。 この天正山法雲寺は浄土宗鎮西派のお寺です。蒲生氏郷の父・賢秀の菩提寺。中野城(日野城)内に法雲庵がありました。元和6年(1620)に中野に陣屋を建てるに際し、法雲庵と賢秀の墓を移転させたのです。蒲生家が断絶した後、法雲庵は無住となったそうです。延宝4年(1676)に還譽が中興し、法雲寺と称したと言います。そして知恩院の末寺になるのです。(資料1,2)説明板記載の会津若松にある賢秀の菩提寺・恵倫寺が臨済宗であるというのもうなずけます。山門の屋根瓦や雨受けの水槽に立葵の紋が使われています。これは法雲寺の寺紋でしょうか? 浄土宗の宗紋は「月影杏葉」なのですが・・・。細見するといろいろ関心が広がります。宝篋印塔の笠石が逆さに置かれて手洗鉢に転用されているのです。おもしろい再利用!日野町内でも最大の大きさの笠石のようです。もし完全な姿であれば相当大きな宝篋印塔だったことでしょう。「西大路北方の丘陵山麓にあった廃寺である薬王寺の遺物とも考えられ」(説明板より)るとか。蒲生賢秀の墓に接して、市橋利政の墓がここにあるというのも興味深いものです。探訪当日は蒲生賢秀の墓の方に意識があり、ここにも市橋氏ゆかりの墓があるのか・・・くらいにしか思っていませんでした。市橋氏の菩提寺は、先に訪れた清源寺です。そこに歴代の墓や位牌があります。探訪の整理をしていて気づいたこと。利政という人物、あの貫之の松の傍に建立された法華塔の伝承と関わる人です。そして、ウィキペディアの「市橋利政」によれば、一旦市橋氏の嫡子になるも、元禄11年(1698年)病弱を理由に廃嫡され、59歳で没したとされる人(資料3)。関心を引かれます。 法雲寺の木鼻の彫刻もなかなかいいですね。 そして、真宗大谷派の光延寺の前を通りました。 山門から見えた境内の松が見事です。このお寺、後で調べてみると、蒲生家と多少関係してきます。蒲生家の臣増田六右衛門重程を開基とするそうです。重程の子重胤は蒲生秀行、秀紀に仕えた家臣。大永3年(1523)の音羽城の落城の2年後、蒲生家当主秀紀は叔父蒲生高郷に毒殺されます。高郷は氏郷の先祖にあたる人。中野城(日野城)を拠点に氏郷の家系が存続していくことになるわけです。重胤は本願寺証如により剃髪して清源と号し、自宅を一向宗の道場としたそうです。これがこのお寺の始まりだとか。そして後、寺格を整えて行ったようです。調べていると、光延寺という同じ名前のお寺が日野町清田にあるのです。山号は清水山です。こちらは浄土真宗本願寺派のお寺で、開基の由緒は全く別のようです。おもしろいですね。(資料1) (資料2)入手した資料を読んでいて気づいたことですが、この日野町に神社が90余、寺院が100余あるのです。ちょっと、おどろきです。信仰心の厚い土地柄なのですね。この後、馬見岡綿向神社に向かいました。つづく参照資料1)「日野のことをもっと知りたい」(観光ガイド資料2) 日野観光ボランティア協会 p482) 当日入手のレジュメ資料「蒲生氏郷の足跡を訪ねて 中野城と城下町」 平成25年(2013)7月13日(土) 主催:滋賀県教育委員会3) 市橋利政 :ウィキペディア【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺寂室元光 :ウィキペディア蒲生氏 :「戦国大名探究」市橋氏 :「戦国大名探究」蒲生秀紀 :ウィキペディア三つ葉葵 :ウィキペディア葵紋 :「玄松子の記憶」宗紋 :「浄土宗」ホームページ 浄土宗の宗紋は「月影杏葉(つきかげぎょよう)」と呼ばれる紋です。恵倫寺 :「ゆかりの場所」(会津若松市) ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡ふたたび -1 中野城跡、涼橋神社、興敬寺、大日堂 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡ふたたび -3 馬見岡綿向神社 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡ふたたび -4 信楽院、若草清水、城下町点描 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -6 清源寺 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -1 信楽院(蒲生家菩提寺)と雲竜図 へ観照&探訪 [再録] 滋賀・日野町 みたびめは花に引かれて -1 鎌掛谷ホンシャクナゲ群落 へ
2017.07.06
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寝殿の北面に具現化された「絵合」の場面から、西側に回り込みます。西側の南側寄りには清少納言に因む有名な場面が具現化されています。番号8の箇所です。「香爐峰の雪」として知られているエピソードで、清少納言は『枕草子』第285段に記しています。簀子に置かれたものの上や高欄に雪が積もっています。「雪のいとう高く降りたるを、例ならず御格子まゐりて、炭櫃に火起こして集さぶらうに」(資料1、以下同じ)雪がとても高く降り積もっていたので、いつもとは違い、御格子をおろしたままで、炭櫃に火を起こして、大勢の女房たちが話をしつつ暖をとりながら、中宮定子の御前に侍っていますと、 「少納言よ、香爐峰の雪、いかならむと、おほせらるれば、」中宮定子は、降り積もる雪をふと連想し、「少納言よ、香爐峰の雪は、どうなんでしょうね」と語りかけたのです。 「御格子上げさせて、御簾を高く上げたれば」すると、お側に侍っていた清少納言は、黙ったまますっと静かに起ち上がり、まず閉じていた御格子を女房に上げさせます。その後自ら御簾を高く巻き上げました。そして、中宮様に外の雪景色をご覧いただいたのです。 「笑はせたまう」中宮定子は、我が意を得たりと微笑まれました。 人々も「さることは知り、歌などにさへ歌へど、思ひこそ寄らざりつれ。人々も「そういう詩のことは知っているし、歌などにも歌うけれど、(即座に中宮様のご要望を行動でお答えするなど)思いも寄らなかったわ。 なほ、この宮の人には、さべきなめり」と言ふ。「やはり、この中宮にお仕えする女房としては、しかるべき人のようね」と言い合った。中宮定子は、格子を閉じ御簾を降ろしたままの薄暗い中にいて、外の雪景色をちょっと見たいと思われたのです。そして、清少納言に謎掛け風に「香爐峰の雪」を口にされました。中宮定子と清少納言の間には、定子の語りかけたフレースで、白居易の『白氏文集』巻16に収録されている詩に詠まれた一節が共有されたのです。白居易は『香炉峰下新卜山居草堂初成偶題東壁』の一文で始まる5首の詩を読んでいます。(香炉峰下、新たに山居を卜し草堂初めて成り、偶東壁に題す)その第4首の中にに該当する詩句が読まれているのです。その箇所は『和漢朗詠集』にも採られていて、有名だったのです。第4首から抜粋します。(資料1,2)遺愛寺鐘欹枕聴 遺愛寺の鐘は枕を欹(そばだ)てて聴き香炉峰雪撥簾看 香炉峰の雪は簾(すだれ)を撥(かか)げて看(み)る「ちょっと、外の雪を見たくなったわ。格子を上げて、御簾を巻き上げてくれる」なんてストレートに指示しないところに、中宮定子らしさが溢れ出ています。漢詩に対する造詣の深さがワンクッションになっています。それは清少納言の漢詩に対する造詣と彼女の機転を試す謎掛けになっています。清少納言は「香炉峰雪撥簾看」の一節のことなどおくびにも出さずに、行動で示す機転の良さで答えました。手許の本では、「中宮の意図は、白詩の世界をこの後宮に再現することであったのである。『古今著聞集』に君臣一致の実例と引かれている有名な話である」(資料1)と補足で註釈されています。今回この展示の解説として入手したパンフレットに記載の興味深い観点をご紹介します。それは上掲の太文字にした第285段原文では判読できない点に関係します。(資料3)原文では「御格子」という言葉が使われています。格子には、1枚格子と2枚格子があります。格子は廂の柱と柱の間に設けられた格子状の黒塗りの建具です。上下に分けたものが2枚格子になります。この六條院・春の御殿では、直接目にするのは2枚格子がほとんどです。半蔀(はじとみ)とも称されます。清酒納言が「御格子」と記したのは、1枚格子なのか、2枚格子なのかが判然としないというのです。中宮定子と女房たちが、寝殿の南面に面する場所に居たなら、そこはたぶん1枚格子です。東西に面する場所に居たら2枚格子です。1枚格子ならば、建物の内側に引き上げて、その外にかかる御簾を巻き上げる形になります。一方、2枚格子ならば、上半分を外側(簀子側)に引き上げて、下半分をそのまま残すか、下半分を撤去するかに分かれます。2枚格子の場合は、御簾は上格子の内側にあることになります。この「香爐峰の雪」の場所は2枚格子のところを利用して具現化しています。しかし、下半分の格子を取り除いていますので、見た目には、1枚格子を引き上げた場合の外の見え方と同じになります。つまり、1枚格子を引き上げた場合の見え方をここで見せています。2枚格子で、下半分を残したままだと、この景色の左側の御簾を巻き上げた状態になります。御簾を巻き上げた時の雪景色の見え方が大きく変わってくることになります。おもしろい観点だと思いました。(資料3) 六條院春の御殿の西側には、板敷の間があります。六條院春の御殿のレイアウト図番号7の左側が右の襖障子あたりです。ここには、前面部分に「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで精巧にミニチュア化された衣裳が「自然の霊験をいただいた四季のかさね色目」として展示されています。これも定番展示の一つと言えます。以前に詳細にご紹介してますので、展示品を簡略にご紹介します。 梅かさね 菖蒲かさね 白撫子(なでしこ)かさね 捩り紅葉かさね 雪の下かさね 松かさね この展示を南東側から眺めた景色 上掲襖障子の北側にこれが常設展示されています。左は、蓮の繊維で作った蓮糸で織った織物「蓮糸織り」です。詳しい解説パネルが設置されています。右は「化学染料で染めた花橘かさね」です。こちらも解説パネルが設置されています。そして、最後の展示です。 板敷の間の南西側と南東側手前に衣裳が展示されています。 これらは「五節舞姫の装束」です。この解説パネルが設けてあります。 衣桁に掛けられた袿(うちき)の文様。上段は織文様、中・下段は刺繍文様に見えます。 蘇芳色の唐衣 白地地摺りの裳この裳には、様々な文様が地摺りされています。 頭部の飾り左右に日蔭の糸(蔓)、中央の上から心葉(こころば)、平額(ひらひたい)、櫛(くし)、釵子(さいし)と称されています。これらが頭部の玉髢(たまもじ)の飾りとなります。これで大凡全体を眺め、ご紹介したことになります。 (資料3)ご覧いただき、ありがとうございます。参照資料1) 『新版 枕草子 下巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫2) 白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説 :「manapedia マナペディア」3) 当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)補遺藤原定子 :ウィキペディア白氏文集 :ウィキペディア白居易『香炉峰下新卜山居(香炉峰下、新たに山居を卜し~)』原文・書き下し文・現代語訳(口語訳)と解説 :「manapedia マナペディア」和漢朗詠集 :ウィキペディア『枕草子』の「香炉峰の雪」と『白氏文集』、『和漢朗詠集』の該当箇所を確認したい。 :「レファレンス協同データベース」藤原公任と白居易 : 『和漢朗詠集』における白居易の詩をめぐって 著者;黄 金堂 :「広島大学 学術情報リポジトリ」ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -2 五節所(五節の局)へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -3 「七夕」と平安女性の務めと へ観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -4 遊び~絵合・碁・偏つぎ~、黒髪 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ 4回のシリーズでご紹介観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご紹介探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 2016年 4回のシリーズでご紹介観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご紹介
2021.08.17
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11月12日に中央公民館で講演会を聴講した後、この石鳥居を幾度も見ながら通り過ぎていましたので、帰路に訪れてみました。少し前にご紹介した白長神社のある丘陵地の西側になります。 石鳥居の傍に、「下居(オリイ)神社」の案内板が設置されています。内容は後で触れていきます。 鳥居を通り過ぎると、左側にこれらの案内柱が立っています。左は、この神社の森一帯が「下居神社文化財環境保全地区」であることを示す標識です。右は、この下居神社が、旧宇治郷(宇治町)の下居(シモイ)地区の住民によって管理されてきたこと、社殿は江戸時代の建立で京都府登録文化財であることを説明しています。 この神社に祀られていたこの写真の神像三体と狛犬一対は、現在歴史資料館に寄託されていることが併せて記されています。 この神社の案内と観光案内標識を兼ねたものも設置されています。 参道に沿って、東側に大木が植えられています。右は通り過ぎてから振り返った景色。 参道を進むと、先に石段が見え、右側は児童公園になっています。その奥に小堂が見えますので、傍まで行ってみました。 格子戸越しに、お地蔵さまが見えます。地蔵堂です。 ユーモラスなお顔が描かれています。おもしろい。 朱塗りの明神鳥居が建てられていて、額束のところに「権現」とあります。神社名或いは神名でないのが珍しいと思います。権現とは、「仏・菩薩が日本の神に姿を変えて現れること(たもの)。(昔の神の尊号の一つとして用いられる)」(『新明解国語辞典』三省堂)という意味ですので、この尊号だけでは一般的過ぎます。区域外の私にはわかりづらい・・・・。 石段を上がった後、境内地の参道を歩みますと、参道の先に社殿が見えてきます。ちょっとした小高い山の上が削平されて境内地になっているような感じです。左側の大木の手前に、 この歌碑と駒札があります。 秋の野のみ草刈り 葺き宿れりし宇治の 京(ミヤコ)の假廬(カリイオ)し思ほゆ「この歌は、皇極天皇の大和から近江への行幸につきそった額田王の歌と伝えられ、 『秋の野の草を刈って、その草で屋根を葺いて泊まった、宇治のみやこの仮小屋の ことがなつかしく思われる』という意味である。 平成4年10月 宇治市 」 (駒札転記) 皇極天皇とは斎明天皇のことでもあります。下居神社のあるこの地は、天皇が行幸の途中に行宮(アングウ)を営んだ趾地といわれているそうです。「宇治のみやこ」の場所だとか。『万葉集』を確認しますと、第7番目の歌として収録されていて、「額田王の歌 いまだ詳らかならず」と記されています。 (資料1)さらに、石鳥居傍の案内板には、「明日香親王別業地跡とも伝えられている」との説明も記されています。 朱塗りの瑞垣に囲まれた本殿です。 狛犬像の代わりに、石灯籠が一対、拝所の両側に配置されています。西之屋形風の石灯籠です。 ご祭神は、伊邪那美命 (イザナミノミコト) 創造神 速玉男命 (ハヤタマオノミコト) 水の神 黄泉事解男命(ヨモツコトワケオノミコト) 祓(ハライ)の神 です。当社の創祀時期は明らかでは有りませんが古社だそうです。本殿は、三間社流造桟瓦葺の建物。 本殿に向かって、右斜め前にこの境内社があります。流造の屋根の小社です。 近くで拝見しましたが、特に掲示がなく、祭神は不詳です。あとは社務所の建物があるだけです。少し寂れた感じすら受ける静寂な雰囲気に囲まれた神社でした。参道を戻るとき、 この句碑が建立されていることに気づきました。残念ながら私には判読できない文字があります。句碑のご紹介に留めます。 参道を引き返し、JR奈良線の宇治駅に向かいます。参道両側は紅葉した落葉が降り積もっています。幹線道路までの静かな歩みのひとときです。下居神社探訪をこれで終わります。序でに触れておきます。講演の中での話から、確かめてみたくなったこと。JR宇治駅前を通るとき、 これが郵便ポストであることは認識していました。お茶の宇治だから茶壺になぞらえてPRを兼ね創られたものか、それくらいにしか考えていませんでした。ポストの正面の下に、こんな銘板が設置されていることを、講演の中で宇治を意識するイメージの一例として聞き、初めてその由来を知ったのです。 「宇治市制施行50周年」を記念して、この茶壺型ポストを2001年3月23日に設置したとのこと。このポストの設置時点では、はや10年余の時を経た宇治市民になっていたのですが、知りませんでした。知らないことばかり・・・・。そこで、調べてみますと、この茶壺型ポストのモデルとなった茶壺が、ここから徒歩10分ほどの場所にある宇治茶の老舗「堀井七茗園(ほりいしちめいえん)」の店頭に並べられているそうです。今度はそれを序での時に見て来ようと思っています。(資料2)ご覧いただきありがとうございます。参照資料1)『新訂 新訓 万葉集 上巻』 佐佐木信綱編 岩波文庫2) 京都府内の珍しい郵便ポストーここから手紙を出してみたい!ー :「COCO-KYOTO」補遺神像と狛犬 下居神社 宇治史探検No.010 :「ええとこ発見うじ」堀井七茗園 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2023.11.23
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この第3章は、「里山のくらし」「里海のくらし」「実りの秋と冬じたく」「まつりの風景」という観点で構成されています。まずは「里山のくらし」から。狩の道具がくらしのための必需品になります。 壁面には、弓矢の復元品が掛けられています。 盛岡市遺跡の学び館所蔵その手前に、弓状木製品が展示されています。素材がイヌガヤの丸木で、先端には弦を巻き付ける加工がされています。樹皮が削り残されているそうです。古山崎遺跡 山形県遊佐町 縄文後期 山形県立博物館所蔵 弓矢が描かれた狩猟文土器 福島県指定重要文化財 動物も造形されています。和台遺跡 福島市 縄文中期 福島市所蔵 弓矢が描かれた狩猟文土器河原平(6)遺跡 青森県西目屋村 縄文後期 青森県埋蔵文化財調査センター所蔵この狩猟文には、「樹木や弓矢、動物などが表現されています。森で弓矢と落とし穴で狩りをしていたようすが想像できます」(図録より、p100)「里海のくらし」に移ります。 海での漁撈具 重要文化財 ヤス類です。 里浜貝塚 宮城県東松島市 縄文晩期 東北歴史博物館所蔵ヤスの軸柄の複製も展示されています。原資料:重要文化財 是川石器時代遺跡 青森県八戸市 縄文後期八戸市埋蔵文化センター 是川縄文館 所蔵 船形木製品と櫂状木製品も展示されています。岩渡(4)遺跡 青森県青森市 縄文前期 青森県埋蔵文化財調査センター所蔵船形はコシアブラの木を刳り抜いたもので、船底は平坦、船首と船尾は少し立ち上がっています。展示品一覧表には、「L73.9/W9.5」とサイズが記されています。櫂状はコナラ節の木で作られています。舟を漕ぐ道具。こちらは「L69.1/W7.3」です。ミニチュアです。 「貝層剥ぎ取り」が展示されています。実物の貝塚の保存であり、研究資料としても活用されるそうです。里浜貝塚 宮城県東松島市 縄文後期~晩期 東北歴史博物館所蔵 里浜貝塚から収集された「松島湾でとれた魚の骨」の標本も展示されています。マダイ、スズキ、マイワシ、アイナメ、とともに、サメ、サバ、ウナギ、アナゴ、フグ、エイの仲間も食されていたようです。 製塩土器 塩作りに使われた土器で、薄く仕上げられていて、表面は熱を受けて劣化しているそうです。里浜貝塚 東松島市 縄文晩期 東北歴史博物館所蔵「実りの秋と冬じたく」でも、興味深いものが展示されています。 キノコ形土製品の展示。秋田県所在の大湯環状列石(鹿角市)、伊勢堂岱遺跡(北秋田市)からの出土品です。 クルミが入った籠 併せて籠の復元品も展示されています。鷺内遺跡 福島県南相馬市 縄文晩期 南相馬市教育委員会所蔵 石皿・磨石北小松遺跡 宮城県大崎市 縄文晩期 東北歴史博物館所蔵 赤色顔料がついた石皿と磨石鍛治沢遺跡 宮城県蔵王町 縄文晩期 東北歴史博物館所蔵赤い石を焼いて磨り潰して、顔料にしたそうです。それが赤い痕として残っています。 コゲのついた土器 柴燈林遺跡 山形県遊佐町 縄文中期 遊佐町教育委員会所蔵 新潟県内で出土の火焔型土器と同じタイプの土器です。 内面に煮炊きによる炭化物が残されているそうです。 漆を入れた土器 北小松遺跡 宮城県大崎市 縄文晩期 東北歴史博物館所蔵最期が「まつりの風景」 重要文化財 大型土偶の頭部 仮面を付けた大型土偶の頭部です。仮面はまつりの為に。萪内遺跡 岩手県盛岡市 縄文後期 文化庁(岩手県立博物館保管)所蔵また、いろいろな土製仮面が出土しています。仮面は、シャーマンが霊的存在と交流するための道具の一つとして用いられたそうです。 鼻曲がり土製仮面 青森県(左)、岩手県(右)の遺跡から出土 左の鼻曲がり仮面も岩手県出土 こちらは小型土製仮面です。秋田県から出土。 小型土製仮面はどのように使ったのでしょうか・・・・。 仮面はそれぞれ出土遺跡が異なります。詳細は省略します。 石刀 骨刀(左) 石棒(右) 線刻のある石冠石刀は青森県、骨刀は宮城県、石棒は北海道、線刻のある石冠は青森県の各遺跡から出土したものです。これらも、まつりの道具です。最後は土器で締めくくります。土器に、まつりを執り行うシャーマンの姿を表現したものが出土しています。 人体文付き土器 福島県指定重要文化財 和台遺跡 福島市 縄文中期 福島市所蔵この土器は炉に埋めて使われた土器だそうです。人体を隆起させる形で立体的に表現している土器。祈りのすがたを表現しているのでしょうか。この特別展のエピローグとして、 竪穴住居の模型が展示してあります。 小さなサイズの模型でしたが、竪穴住居の姿に一歩近づけました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料*図録『世界遺産 縄文』 監修:岡村道雄 発行:東北放送株式会社 *特別展「世界遺産縄文」 展示品一覧表補遺竪穴式住居 :ウィキペディア縄文時代の“竪穴住居”を知れば、火と水、土との暮らしかたが見えてくる。今こそ見直したい、縄文人の小屋 :「SUMika」竪穴住居のつくり方 :「富山市」竪穴式住居のつくり方【自然に対する観察眼が生んだ傑作】 くろにい:「no+e」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都文化博物館 特別展「世界遺産 縄文」 -1 北の縄文文化一万年 へ観照 京都文化博物館 特別展「世界遺産 縄文」 -2 遮光器土偶 へ観照 京都文化博物館 特別展「世界遺産 縄文」 -3 亀ヶ岡文化と漆 へ観照 京都文化博物館 特別展「世界遺産 縄文」 -4 縄文遺跡群のパネル へ観照 京都文化博物館 特別展「世界遺産 縄文」 -5 縄文人の”一生” へ観照 京都文化博物館 特別展「世界遺産 縄文」 -6 2つの特集セクション へ
2025.11.20
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[注記:探訪時期・2014年2月]行願寺(革堂)から寺町通を下がると、次は御池通を横断したところにある本能寺ということになります。冒頭写真の文字が少し小さいですが、でお気づきでしょうか? 本能寺の「能」という漢字が普段目にすることのない異字体です。簡単に文字変換できない漢字ですので、ここでは「能」を使用します。(本能寺のホームページでも説明文中では「本能寺」表記です。)だが、その前にいくつかご紹介しましょう。 行願寺を少し南に下がると。最初に目に止まったのがこれです。車道と歩道の境に石の碁盤が置かれているのです。なぜ、こんなところに?その傍に駒札があります。なんと、このあたりが、囲碁「本因坊」発祥の地だったのです。探訪の意識なしに歩いていたら気づかないで通り過ごしたかもしれません。囲碁の打ち方を知らない私でも「本因坊」という名称は知っていました。その本因坊がもとは、寂光寺の塔頭の名に由来していて、かつて寂光寺がこちらに所在していたことは知りませんでした。それも、寂光寺の別名「久遠院」が町名として名残をとどめるなんて・・・・。京阪電車の三条駅から川端通経由で、仁王門通を東に入ると、そこに現在の寂光寺があり、その門前に「碁道名人 第1世本因坊算砂(さんさ)旧跡」の石標が建てられているのは知っていたのですが・・・・。おかげで、度重なる京都の大火や都市改造がお寺の移転をもたらした結果について、地理的関連づけの知識が増えてきました。探訪のおもしろさですね。地図を確かめると、行願寺のある行願寺門前町の南、寺町通の東が梅之木町・藤木町、西側が久遠院前町となり、さらに南に通りの両側合わせて常磐木町と続いていきます。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 少し南に、一保堂茶舗の京都本店です。寺町通二条上ルにあります。常磐木町です。日本茶の専門店、京の老舗の一つです。「近江屋」の屋号で享保年間(1717年)に創業され、弘化3年(1846)に山階(やましな)宮より「一保堂」の屋号を賜ったことから改称されたそうです。(資料1) 「一保堂茶舗」のサイトへはこちらからどうぞ。寺町通二条のコーナー部分にある句碑。井原西鶴の句碑です。井原西鶴といえば、すぐに『好色一代男』、『日本永代蔵』、『世間胸算用』など浮世草子の作者の側面を連想してしまいます。一方で江戸前期の俳諧師でもあったのですね。 調べてみると『西鶴誹諧大句数(おおくかず)』は全10巻に及ぶのです。そのデータベースが公開されています。補遺をご覧ください。寺町通二条の南西側は妙満寺前町、南東側は榎木町となります。この辺りで、有料駐車場になっているスペースの道路端、フェンス越しにひとつの石標と駒札が目に止まりました。 「間部詮勝寓居跡」この辺りに、法華宗の妙満寺があり、あの「安政の大獄」の折り、江戸幕府老中・越前鯖江藩主・間部詮勝がこの寺に滞在して勤王志士弾圧の指揮を執ったのだとか。知らないことが多い・・・・。探訪はまさに歴史の勉強です。 1856(安政3)年 吉田松陰 松下村塾を開く 1858年 4月井伊直弼、大老就任 6月日米修好通商条約調印 9月安政の大獄 1859年 10月橋本左内・吉田松陰ら死刑 1860(万延元)年 1月勝海舟ら咸臨丸で渡米 3月桜田門外の変 1862年 1月坂下門外の変 4月伏見寺田屋事件 8月生麦事件 (資料2)「安政の大獄」は、まさに「尊皇攘夷思想」が吹き荒れ、幕末動乱期の前夜だったのですね。その大獄の一拠点がこのあたりにあったとは・・・。京都市役所の建物を東に見て、御池通を横断し、寺町通の商店街のアーケードの下に入ると、すぐ左側(東)が本能寺の表門です。冒頭の写真。 表門に向かって右脇にこの駒札があります。「敵は本能寺にあり!」で有名となり灰燼に帰した本能寺はこの場所ではありません。油小路蛸薬師一帯に伽藍を構えていたときが「本能寺ノ変」に関わる歴史上の本能寺です。このときの「本能寺跡」は「油小路を歩く」というシリーズでご紹介していましたので、後日再録したいと思っています。この寺町御池の本能寺は「本能寺の変」の後に、豊臣秀吉が移転再建したのです。江戸時代の京都市中の大火で移築再建後の本能寺はまたもや灰燼に帰しました。つまり、石塔・墓石や大火の類焼を免れた寺宝以外は比較的新しいものばかりということになります。 本堂 昭和3年(1928)の造営 寺紋の提灯が掛けられています。本堂の背後(東側)に様々な廟所・墓所が並んでいます。 まずは「信長公廟」 本堂の背後、南東方向です。河原町通にこの廟横に通じる細い通路の門があります。河原町通から本能寺境内に入るのに便利な裏門です。 天明・元治の大火類焼の影響でしょうか、供養塔は部分損傷しています。この供養塔は三男信孝の命によって建てられたそうです。ちょっと興味深いのは法名の表記です。この本能寺の供養塔は「惣見院殿」と表記されています。現在一般的に目にするソウケンイン殿は「総見院殿」です。このシリーズで少し触れている阿弥陀寺では「総」の文字に関して異なる漢字が使われています。阿弥陀寺についても同様に、後日再録したいと思っています。「信長公廟」の北隣りはこんな風に供養塔などが並んでいます。 写真の左にあるのが、「本能寺ノ変戦没者」のための供養塔です。「本能寺ノ変戦死陣没之諸霊」として、来栖備後守を右上頭とし、成田輿左衛門を左下末尾まで、ずらりと名前を明記した真新しい駒札が建てられています。中央は、華道本能寺家元流祖大住院(以信)日甫上人の花供養塔左には「本坊文化会館建設功労者」のための供養塔です。この供養塔の列より北側の一角に、段上に配された供養塔・石塔があります。その左側に詳しい説明文が掲示されています。説明文の右側から、下段・中段・上段という配置になっているのです。本堂のちょうど背後の位置にある廟所と石塔群 中央奥の唐破風造の屋根のある廟所が、「法華宗宗門史蹟 日像聖人御墓」です。廟所の左右にはこの本能寺の歴代聖人の廟として石塔群ができているようです。「信長公廟」から少し南側に覆屋があり、そこに2つの墓石があります。江戸末期の南宗画画家、浦上玉堂・春琴父子の墓です。 本能寺のホームページにある「境内マップ」をご覧いただくと全体がわかりやすいと思います。こちらからご覧ください。さらに、寺町通を南に下がります。つづく 参照資料1) 一保堂の歩み :「一保堂」 2)『新選 日本史図表』 監修 坂本賞三・福田豊彦 第一学習社3) 本能寺 ホームページ【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺寂光寺(囲碁本因坊の寺) :「京都観光Navi」『西鶴誹諧大句数(おおくかず)』のデータベース:「国際日本文化研究センター」 第8巻の57句目が句碑にあるものです。これは独吟の連句集なのですね。《西鶴俳諧大句数》世界大百科事典内の《西鶴俳諧大句数》の言及:「コトバンク」井原西鶴 :「コトバンク」井原西鶴 :ウィキペディア井原西鶴 :「京都大学電子図書館」画聖雪舟をしのぐ天才画家 浦上玉堂 :「こやま泰生」浦上玉堂 :「おかやま人物往来」浦上春琴 :ウィキペディア浅絳山水図 浦上春琴筆 :「夜噺骨董談義」本能寺と塔頭 :「ちょっと言いたくなる京都通」(「伊藤久右衛門」) 日甫上人とその華道について触れています。華道本能寺の紹介 :「華道本能寺家元総務 中野恭心のホームページです」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -1 寺町頭、阿弥陀寺・十念寺・仏陀寺・本満寺ほか へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -2 大原口、石薬師御門、本禅寺、清淨華院 へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -3 廬山寺(紫式部邸宅址)その1 へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -4 廬山寺(御陵・墳墓)・御土居 その2 へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -5 梨木神社、仙洞御所と御苑の門、新島襄旧邸、横井小楠殉節地ほか へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -6 下御霊神社 へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -7 行願寺(革堂)へ探訪 [再録] 京都・寺町通を歩く -9 天性寺、矢田寺、三嶋亭、てらぼん へ
2016.12.17
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観流橋を渡って朝霧橋まで戻ります。どちらも朱色に塗られた橋です。 橋上から宇治川に流入する放水路の水が絶えることなく激しく白波を立てています。 朝霧橋東詰の目の前に、宇治神社の朱塗りの大きな鳥居があります。宇治神社を通り、宇治上神社に向かいます。 鳥居を潜り、石段を上り始めると、社務所入口が参道の左側にあります。その前に、左右ともに阿形の口を開いた狛犬が置かれています。少し異風な狛犬です。 社務所より少し先、参道の右側に手水舎があります。 「桐原水」と刻された水鉢に注がれる水口は兎(うさぎ)像の口です。 なぜ兎なのか? 石段を上りきって境内地に立つと、目の前に 「桐原殿」の扁額が掲げられた拝殿があります。入母屋造の檜皮葺きで、正面に唐破風が設けてあります。桁行3間、梁間3間の大きさです。「桐原」とはここの地名だそうです。拝殿を回り込みます。 その先は一段高い境内地への石段があり、手前に狛犬が石段の左右に配されています。この狛犬と上掲の狛犬を対比すると、異風な狛犬と記した感じをお解りいただけるでしょう。こちらの狛犬は阿吽形の像です。 石段を上がると、社殿の手前に「智恵の輪」が設えてあります。調べてみますと、神社からは、11月のお知らせとして、ホームページに次のメッセージが載っています。「収穫された稲穂により調製しております。 智恵の輪をくぐり稲穂の実のように、たくさんの智恵を授かり、 実りのある生活をお過ごし下さい」と。つまり、6月に行われる「夏越しの祓い」である「茅の輪」くぐりとは異なった位置づけです。祭神が学問の祖神として信仰されていることに由来しているようです。 南側から眺めた社殿。本殿は瑞垣で囲まれています。 正面の拝所から眺めた本殿祭神は菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)です。第15代応神天皇の皇子。『日本書紀』には、次のように記された箇所があります。「15年秋8月6日、百済王は阿直岐(あちき)を遣わして、良馬二匹を奉った。・・・阿直岐はまたよく経書を読んだ。それで太子菟道稚郎子の学問の師とされた」と。応神天皇が阿直岐に、お前より優れた学者がいるか、と尋ねらると、王仁(わに)の名を挙げて応えたそうです。「16年春2月、王仁がきた。太子菟道稚郎子はこれを師とされ、諸々の典籍を学ばれた」と記されています。ここから、「学業成就・受験試験合格の神様」として崇敬されているとか。 本殿の手前に、置かれた莵(うさぎ)です。上掲の画像で気づかれましたか?拝所の右側に、「みかえり兎」と題した案内文が置かれています。「御祭神『菟道稚郎子命』が河内の国から、この土地へ向かわれる途中、道に迷われてしまいました。 その時、一羽のうさぎが現れ、振り返りながら、後を追う『菟道稚郎子命』を正しい道へと案内し、お助けしました。 この御由来のうさぎを当神社では『みかえり兎』と呼び、人々の人生を道徳の正しい道へと導く神様の御使いとして伝わっております。 また、宇治という地名は、この云われよりついた名前といわれています。 宇治神社」 (案内文転記) 本殿の周囲を反時計回りに巡ってみました。本殿(重文)は三間社流造、檜皮葺屋根、高床の建物。扉が3つあり、中央の扉の内側にはもう一つの扉があり、その内部に御神体として、菟道稚郎子命の木造坐像が祀られていると言います。 側面からズームアップで撮れた蟇股 東側には、境内社が並び、「伊勢神宮遙拝所」の駒札を設置した場所があります。 本殿背面 本殿西側面 猪の目懸魚 大斗・肘木・巻斗・木鼻 本殿の西側にも境内社が並んでいます。本殿の境内地から一段降りて、拝殿の境内地に戻ります。 狛犬像の西側には、どこかが少しずつ異なる石灯籠が並んでいます。寄進の時期の違いや寄進者の思いの違いが反映しているのでしょうか。詳細な対比はしていません。印象です。 狛犬像の東側にも石灯籠が並んでいますが、こちらには大きな石碑が建立されています。 近くで見ると、喜撰法師の歌が刻されています。 わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり 「百人一首」にも入っている有名な歌です。宇治神社境内では、紅葉がほとんど見られませんでしたので、久々の探訪に重心がかかりました。宇治橋の上流宇治川の右岸のこの辺りは、応神天皇の離宮「桐原日桁宮(きりはらひげたのみや)」跡であり、皇子の菟道稚郎子命の宮居跡との伝承があるところです。宇治神社と次に訪れる宇治上神社は、『延喜式』神名帳には「宇治神社二座」と記載されていて、上社・下社とも称されていたそうです。かつては二社一体の関係にあったようです。1052(永承7)年に平等院が建立されたときには、両社はその鎮守社として藤原一門の厚遇を受けたとのこと。さて、それでは境内の西側の入口を出て、「さわらびの道」を歩み、宇治上神社の紅葉を眺めに参りましょう。つづく参照資料*宇治神社 ホームページ*『京都府の歴史散歩』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p64*『全現代語訳 日本書紀 上』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p217-218補遺菟道稚郎子 :ウィキペディア菟道稚郎子 :「コトバンク」王仁 :ウィキペディア宇治神社の「智恵の輪」くぐり 11月中設置 季節はずれの「茅の輪」?? :「あんなところ?のお掃除」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -1 折居台~源氏物語モニュメント へ探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -2 観流橋・興聖寺ほか へ探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -4 さわらびの道・宇治上神社 へ探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -5 源氏物語ミュージアムと周辺 へこちらも御覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 [再録] 宇治 宇治神社細見と宇治橋・通圓茶屋・未多武利神社
2022.11.27
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[探訪時期:2013年6月]次ぎに向かったのが「清源寺」です。山号は祥雲山。臨済宗永源寺派のお寺です。 お地蔵様がお出迎えくださってます。 参道の途中の説明板と山門傍の説明板で、大凡このお寺の概略が窺えます。蒲生定秀の別邸桂林庵がこの地に設けられていたそうです。天正7年(1579)に定秀が没し、その桂林庵が寺院と成って定秀の位牌が安置されたのが始まりと伝えられているそうです。それが、江戸時代に日野が仁正寺藩の領地となり、藩主市橋氏がこの寺を菩提寺にしたのです。元禄期に臨済宗永源寺派の寺になったとか。それ以前は何宗だったのでしょうか。いずれにしても、蒲生氏郷に係わる足跡周辺の地としての接点がありました。直接には江戸時代を通じて日野を支配した仁正寺藩、市橋氏ゆかりの史跡だという事になります。馬見岡綿向神社のT字路に建っていた燈籠の「仁正寺家中」の大本になる藩主・市橋氏が、陣屋跡よりも史跡としてはここで明瞭に姿を見せてくることになりました。 山門を入ると、「昇天橋」を渡ります。ネーミングがいいですね。 すぐ左手に天神様が寺の鎮守として鎮座しています。 斜め右手には鐘楼の建物があります。 そのすぐ近くに見えるのが、「仁正寺藩藩主廟所(市橋氏三代の廟所)」です。ここには第3代(信直)、第6代(長璉・ながてる)、第8代(長發・ながはる)藩主の墓が宝篋印塔の形式で建てられています。塔身側面に藩主名が陰刻されていました。 本堂 本堂の近くに、本堂の屋根瓦葺き替え記念として、宝暦4年(1754)作の本堂鬼瓦が置かれています。瓦には市橋氏の家紋「菱の三つ餅」が陽刻されています。現在の本堂の屋根の獅子口にもその家紋が見えます。 本堂に入りますと、本尊を安置した内陣は奥の部屋にあり襖を閉じることができる形式でした。私は初めて拝見する形式でした。 本堂には歴代藩主の肖像画が掛け軸として掲げられていて、さらに仁正寺藩・市橋氏ゆかりの説明パネルが解りやすく準備されています。 こういうプレゼンテーションがなされていると、解りやすくて参考になります。私は、日野に仁正寺藩があったことすら、今回の探訪まで知らなかったのですから。「神祖営趾之碑」 先祖の功績を顕彰する碑の拓本も。これは現交野市の星田に、第7代藩主・長昭が建立したものだとか (補遺の最後の項目をご参照ください)。 本堂の本尊に向かって左側の襖には虎図、右側の襖には龍図が描かれています。龍図が前面に置かれたものの陰になるのが少し残念ですが。この襖絵は、昭和前期の日本画家・加藤修(雅号・穎泉)作です。 この虎図の襖を境として左側、つまり、本尊に向かって左隣になる部屋に「半僧坊大権現」が祀られています。これまた、私は初めて目にした権現様の名称でした。ご住職にお尋ねすると、まあわかりやすくいえば天狗様ですね、ということでした。この天狗様、奥山半僧坊大権現からの御分身をお祀りされているのです。時間が無くて記録写真だけ撮らせていただいたものを後で見直すと、詳しい説明パネルが置かれていました。この画像にも写っています。拝観されたときにでも・・・(関連としては補遺をご参照ください)。 本堂の裏手にも、宝篋印塔が祀られています。塔身背面を見ると「市橋長富室墓 行年五十二歳」と陰刻されています。第9代藩主・長富は隠居し、養子長和に家督を譲り、55歳で没したそうですので、この宝篋印塔は、長富の奥さんのお墓なのでしょう。 本堂裏手側の境内には十三重石塔が建てられています。 その前に小さな石仏が石の上で禅定に入られています。 こういう風に、何気なく置かれている感じの石仏と、境内の靜かな佇まいの中で出会うのが、私は好きです・・・・。蒲生氏郷の周辺足跡とは少しそれますが、清源寺では数々の新しい発見が私にはありました。清源寺もまた短時間の拝観になりました。いつかまた再訪したいと思っています。そして、いよいよ最後の探訪地・音羽城跡に向かいます。つづく【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺日野の清源寺 -除夜の鐘- :YouTube近江 仁正寺(西大路)藩 :「歴史の勉強」市橋長富 :ウィキペディア奥山半僧坊大権現 のホームページ 「奥山半僧坊について」をご覧ください。 半僧坊大権現~建長寺の鎮守~ :「鎌倉手帳(寺社散策)」星田の旧領主市橋家の足跡を近江に訪ねる :「星のまち交野市」 ネット検索すると、思わぬ切り口からの関連情報が得られるものです。 キーワード検索のおもしろさです。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -1 信楽院(蒲生家菩提寺)と雲竜図 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -2 いが饅頭、笠懸の宮、若松の森趾、日野の曳山 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -3 馬見岡綿向神社 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -4 馬見岡綿向神社(細見)へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -5 中野城跡(日野城跡)、興敬寺 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡周辺を訪ねて -7 音羽城跡・近江日野観光特産品館 へ探訪 [再録] 滋賀・日野町 蒲生氏郷の足跡ふたたび -1 中野城跡、涼橋神社、興敬寺、大日堂 へ観照&探訪 [再録] 滋賀・日野町 みたびめは花に引かれて -1 鎌掛谷ホンシャクナゲ群落 へ
2017.07.04
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「北花山」交差点から再び大石道を南進します。東側に朱色の鳥居が見えます。鳥居の右柱前に石標が立っていますが、撮った写真からは文字が判読できません。 小社が覆屋の中に祀られています。小社の正面に立ち、拝見すると「稲荷神社御祈祷守護」と記された木札が見えます。稲荷社です。 おもしろいと思ったのは、左斜め前にこの狸像が置かれていることです。稲荷社ですから、白狐像が対で置かれていますが、その傍に狸が居るという取り合わせがおもしろい! この稲荷社から少し先、右側(西側)に駐車場が見え、フェンスに京都市広報板が設置されています。下辺に「山科区市田町」と表記されています。この広報板が目印になります。通りを挟んで東側は北花山中道町です。こちら側で道路より少し東に入ったところが次の探訪地です。東側の建物の間に小径があります。右の写真はその小径側から駐車場と広報板を眺めた景色です。4665「遍照墓 宮内庁」と記された駒札が通りから最初に見えます。十数m、小径を入ると、大石道に面した一並びの建物群の東側に方形区画で陵墓に準じられた墓があります。元慶寺より西南に400mほどのところになります。 南面する門扉の左斜め前に、「桓武天皇 皇孫 遍昭僧正御墓」と刻された石標が立っています。 南西側の墓傍で撮った写真を合成しました。きれいな形の円墳墓です。 円墳墓の西側面と南東側から撮った景色です。ところで、今回ブログ記事をまとめていて気づいたことがあります。余談です。手許の『でか字まっぷ 京都』(昭文社)やインターネットの地図(マピオン、グーグル)を見ますと、この墓を「僧正遍照墓」(昭文社)、「遍照墓」(マピオン)、「桓武天皇皇孫遍照僧正御墓」(グーグル)というように、「遍照」と記しています。私自身も遍照と記憶し使っていた気がします。一方、昨日ブログ記事を書いていて、「遍昭」という表記に気づきました。手許の史跡関連参照資料及び百人一首に関する十数冊の本では、すべて「遍昭」で表記されています。また、国語辞典を「へんじょう」で引きますと、『広辞苑』(初版、岩波書店)は「遍昭」だけの表記ですが、『大辞林』(三省堂)と『日本語大辞典』(講談社)は「遍照・遍昭」と併記しています。遍昭と遍照が併用されているということを再認識した次第です。元に戻ります。遍昭僧正は六歌仙の一人、かつ三十六歌仙の一人です。『古今和歌集』冒頭の「仮名序」には、六歌仙の筆頭に僧正遍昭(昭の字が使われています)が挙げられています。そして、「歌のさまは得たれども、まことすくなし。たとへば、絵にかける女(をうな)を見て、いたづらに心をうごかすがごとし」(歌の体(さま)は自分のものとしているけれども、真実な心の足りないところがある。たとえて言えば、絵にかかれてある美女を見て、その甲斐もないのに、空しく心を動かすようなものである)と、評されています。(資料1)前回ご紹介していますが、遍昭の俗名は良岑宗貞(よしみねむねさだ)で桓武天皇の孫。出家前に素性と由性という二人の子がいたようです。素性法師は前回触れています。仁明天皇に愛された宗貞は、嘉祥2年(849)には蔵人頭に昇進しますが、翌3年(850)仁明天皇の崩御にあたり、出家し遍昭と号します。「仁和元年(885)僧正。光孝天皇の信任を得、同年12月、仁寿殿に七十の賀を賜る。寛平2年没、75歳(816-890)。没年は74または76ともいう。」(資料1)古今和歌集への入集は17首です。872番に「あまつかぜ雲のかよひぢ吹きとぢよ」の歌が入集されています。「五節のまひひめを見てよめる」という詞書きが付いていて、「よしみねのむねさだ」と詠者名が記されています。17首を調べてみると、俗名で詠んだ歌はさらに2首が入集(91,985)されています。つまり14首は出家後に詠まれた歌です。興味深いのは、僧正遍昭と明示されている歌と僧正へんぜうと明示されている歌の区別があることです。遍昭名が5首、へんぜう名が9首。意図的に使い分けたのでしょか。それとも、さして意味がないのでしょうか。いくつか抽出してご紹介します。僧正遍昭明示の歌より: 西大寺のほとりの柳をよめる あさみどりいとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か 27 深草のみかどの御時に、蔵人頭にてよるひるなれつかうまつりけるを、 諒闇になりにければ、さらに世にもまじらずして、ひえの山にのぼりて、 かしらおろしてけり。その又のとし、みな人御ぶくぬぎて、あるは かうぶりたまはりなど、よろこびけるをききてよめる みな人は花の衣になりぬなりこけのたもとよかわきだにせよ 847僧正へんぜう明示の歌より: はちすの露を見てよめる はちす葉のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあざむく 165 わがやどは道もなきまで荒にけりつれなき人をまつとせしまに 770こちらには、女郎花を詠んでいる歌があります。おもしろいので並べてみます。 題しらず 名にめでてをれるばかりぞ女郎花われおちにきと人にかたるな 226 秋の野になまめきたてる女郎花あなかしがまし花もひと時 1016 (資料1)遍昭僧正の歌いぶりは風流洒脱と評されているようです。(資料2)このブログ記事をまとめるにあたり、地図で確認していて気づいたのですが、冒頭の稲荷社は、僧正遍昭墓のある区画の北西角側に位置します。あの稲荷社の背後、南東側が僧正遍昭墓の所在地になります。 それでは、大石道をさらに南に歩みます。大石道の西側、北花山市田町の南隣りは上花山講田町です。 講田町区域の北東隅近くに、西方向の道路が先ず見えます。その先を眺めるとお寺の山門が開いていました。そこで、少し立ち寄って境内を拝見しました。山門前に、「遍照山福應寺」と刻された石標が立っています。應は応と同じです。 山門屋根の鬼瓦と菊花の飾り瓦 山門の屋根を支える蟇股はシンプルな形です。 山門を入ると、左側に鐘楼があり、その前に駒札が立っています。 斜め左前方に本堂が見えます。 本堂の正面に「遍照山」と記された扁額が掲げてあります。向拝の蟇股や木鼻はごくシンプルな造形です。駒札によれば、福応寺は遍照山清浄蓮院と号し、遍昭僧正の開基と伝えられるお寺ですが、創立は定かでないようです。六歌仙の一人である遍昭僧正が「かつてこの地で広く衆僧を集めて講席を開かれた。これが当山創立の由来である」(駒札より)とか。もとは天台宗に属したお寺ですが、改宗されて浄土宗のお寺になっていると言います。本堂外観を拝見しただけですが、浄土宗ですので本尊は阿弥陀如来ということになります。左脇檀には開山遍昭僧正の像が安置されているそうです。所在地は講田町です。「講田」とは、「中世、寺社で行う経典の講筵(こうえん)、祖師の讃仰などの講会の費用にあてるために設定された特定の田地」(『大辞林』三省堂)を意味します。この所在地名を考えると、当寺の開創の古さを推測することができます。 鐘楼前の駒札 本堂の屋根の獅子口の正面と棟の側面には、浄土宗の宗紋「月影杏葉(つきかげぎょよう)」のレリーフが見えます。(資料3) 本堂の左側前には、賓頭盧尊者(びんずるそんじゃ)が安置されています。この像をなでて病気平癒を祈る信仰の対象になり、なでぼとけとして知られています。おびんずるさまと呼ばれたりします。賓頭盧とは、サンスクリット語の音写で、不動を意味するとか。「釈迦の弟子で、十六羅漢の筆頭。バラモン教の出身。涅槃の境地に入らず、この世で衆生を助ける存在とされる。」(『日本語大辞典』講談社) 本堂の右側前には、この歌碑が建立されています。 恋しくは たつねきてみよ福應寺 小松重盛 山しなの里 (恋しくば訪ね来て見よ福応寺小松重森山科の里)小松重盛とは平重盛のことです。平清盛の長子で、左近衛大将・内大臣になり、六波羅小松第にいたので、小松内府、小松殿と呼ばれ、また燈籠大臣とも呼ばれた人物です。後白河法皇が企んだ鹿ヶ谷隠謀事件のおり、清盛が後白河法皇を幽閉しようとしたときに、父清盛を諫めて、法皇の罪を不問としたと言います。治承3年(1179)病のために職を辞し出家します。同年7月29日に死去したと言います。平清盛よりも先に亡くなっています。(資料4) 本堂の北隣りに地蔵堂があります。 ガラスの嵌まった格子扉から拝見した地蔵菩薩像立像です。小松(平)重盛が福応寺に帰依した際に、念持仏としていたこの地蔵菩薩立像を寄進したと言います。(資料5)上掲の歌にリンクしてきます。境内を眺めてみます。まずは鐘楼の梵鐘です。 撞座の上の縦帯には、南無阿弥陀仏の名号が蓮華座とともに陽刻されています。 池ノ間には、下部には法名が列挙されていて、上部には雲上の天女がレリーフされています。 梵鐘をぐるりと巡って見ていて、一つの池ノ間に小さな孔が穿たれていることに気づきました。第二次世界大戦の折に、金属供出ということでこの梵鐘も供出されていた証拠です。その梵鐘が返却されたということでしょう。何故かと思っていたのですが、一つの説明を見つけました。梵鐘に当寺を開基した「遍昭の銘があったことから残され、戦後に寺に返却された」(資料5)とのこと。なるほどと思います。撮った写真を仔細に見ますと、小孔を穿たれた池ノ間の右斜め下に「開山 僧正遍昭」の銘が陽刻されているようにも思えますが、定かではありません。機会があれば再訪してみたい気がします。 山門を入った右側方向の手前に無縁墓を集めて祀った一画が設けてあります。中央には、小ぶりな阿弥陀仏石像が安置されています。 境内の北辺寄りに石造観音菩薩立像が建立されています。本堂前の境内をほぼ拝見したところで福応寺を出て、少し先の分岐点で左(東側)の下りの坂道が地図では大石道ですが、右(西側)の道路がほぼ真っ直ぐなのでこちらを下っていきました。北花山大林町を通り過ぎます。つづく参照資料1) 『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3203) 浄土宗とは?~宗紋・宗歌について :「浄土宗」4) 平重盛 :「コトバンク」5) 福應寺 (京都市山科区) :「京都風光」補遺僧正 遍照 :「三十六歌仙・天井画(久城寺)遍昭 :「千人万首」福應寺◎浄土宗 :「全国善光寺会」 福応寺中興以降の略寺史も説明されています。平重盛 :ウィキペディア平重盛 :「ArtWiki」平重盛邸から池跡が初めて出土 清盛の長男 :「産経新聞」燈籠大臣 :「ArtWiki」遍照僧正墓【道標】 :「フィールド・ミュージアム京都」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都市山科区 大石道を歩く -1 日ノ岡を起点に阿弥陀寺へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -2 元慶寺 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -4 河畔と花山稲荷公園傍のお地蔵さま・花山稲荷神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -5 大石神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -6 岩屋寺(1) 石仏・大石良雄遺髪之塚・忠誠堂ほか へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -7 岩屋寺(2) 本堂・大石弁財天・大石稲荷・お地蔵さま へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -8 山科神社 へ探訪 京都市山科区 大石道を歩く -9 大石良雄寓居地・極楽寺・福王寺 へ
2020.03.30
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(2021.3.14)これは先日ご紹介した平城宮跡の朱雀門です。写真に付記した年月日は探訪し写真を撮った日付です(以下同様)。この朱雀門は平成5年(1993)に本体の復原工事が開始され1998年に竣工しています。(資料1) (2021.3.14) その屋根に燦然と輝いているのがこの鴟尾です。 朱雀門を入り、第一次大極殿へ。 (2021.3.14) その大棟に載る鴟尾は朱雀門の鴟尾とは少し異なり、唐草紋が加わっています。 この鴟尾には背の部分に蓮華紋が陽刻されています。この第一次大極殿の鴟尾については、発掘調査で平城宮跡から鴟尾は発見されていないことから、奈良文化財研究所が同時代である唐招提寺金堂(8世紀後半)の鴟尾と大阪府柏原市の鳥坂寺跡(高井田廃寺、7世紀後半)の鴟尾を参考にして、初唐様式の影響の強い形のデザインで復原されたということを、ご紹介しています。(資料2)奈良時代の平城宮では鋳銅製で鍍金された鴟尾が使用されたそうです。そこで、唐招提寺を探訪した時の記録写真をチェックしてみました。 唐招提寺の金堂です。 (2017.12.4)唐招提寺には瓦製の鴟尾が載っています。西端には7世紀後半の奈良時代に作られた鴟尾、東端には鎌倉時代に作られた鴟尾が現存しています。(資料3,4) この金堂に向かって左側の鴟尾を撮っていた写真から部分拡大しました。(2014.12.4)高井田廃寺については、東京国立博物館のデータベースを検索すると、 この画像資料が得られました。引用します。大阪府柏原市高井田廃寺の鴟尾です。(資料5) 同じものですが、ウィキペディアで開示されているものがこちらです。(資料6)鴟尾はもともと建物の大棟を両端にいくにしたがってしだいに高くし、強く反り上がらせるという考え、「反羽(はんう)」から始まると考えられていて、鴟尾の起源は中国の漢代の溯るそうです。その格好は鳥の羽とか魚から出ているとも言われています。当時の貴族の履く「くつ」に類似する形なので、古文書には「沓形」という記録されている例があるそうです。(資料3,4)飛鳥・白鳳時代の鴟尾はほとんど瓦製で、奈良時代になると瓦製が少なくなるそうです。(資料4)飛鳥時代と言えば、法隆寺の金堂を連想します。当初の金堂の大棟には鴟尾が使われていたと考えられていますが、現状は鴟尾ではなく鬼瓦が使われています。金堂の昭和大修理の時、昭和28年5月21日に鴟尾の調査が開始され、鴟尾復原の前提で工事が進んでいたそうです。しかし、同年8月17日、法隆寺国宝保存委員会で鴟尾復原への反対意見が出されたことにより鴟尾復原はなされず、鬼瓦のままでの修理となったと言います。(資料7)この時の瓦製の鴟尾の復原を鬼瓦師小林平一氏が手がけておられます。(資料3)奈良時代となれば、平城京の東、外京に建立された東大寺と興福寺があります。 東大寺と言えば勿論、大仏殿です。 (2016.11.2) (2018.10.31) (2014.11.4) 大棟の両端に鴟尾が輝いています。 (2016.11.2) (2015.11.4) 大仏殿の鴟尾を部分拡大してみました。唐招提寺の鴟尾が瓦製であるのに対して、こちらは鋳銅製で鍍金という違いがありますがスタイルとしては近似しています。差異点は、唐招提寺の瓦製鴟尾はその表面がつるりと滑らかです。一方、東大寺の鴟尾は長方形の鱗形に鍍金されています。東大寺からの連想で、西大寺を調べてみますと、西大寺の本堂は大棟の両端には獅子口が使われています。補遺をご覧ください。 (2019.10.31) (2018.10.31)興福寺の中金堂です。中金堂は興福寺伽藍の中心になる最重要な建物です。創建より6回の焼失・再建を繰り返し、江戸時代の享保2年(1717)に焼失後再建されないまま仮金堂の状態が続きました。そして、平成30年(2018)に念願の中金堂が再建落慶したという歴史を経ています。(資料8) (2018.10.31) 興福寺の鴟尾は、青銅製で鍍金され、高さは2.03m、1基につき1.1tの重さがあるそうです。正面に向かって左(西)の鴟尾の背面には再建を祝い安寧を祈願する銘文が刻まれているとか。(資料9)第一次大極殿の復原鴟尾とは意匠が異なりますが、唐草紋が使われています。「大極殿とは古代の宮都における中心施設で、元日朝賀や天皇の即位など、国家儀式の際に天皇が出御する場所です。」(資料2)都が奈良から京都に遷都され、平安京ができました。平安京においても大内裏ができ、大極殿が設けられたわけですが、現在ではその跡地に大きな碑が建てられているだけです。その大極殿の機能を担い、現存するのは京都御所の紫宸殿です。紫宸殿の大棟の両端には獅子口が使われています。それで思い浮かぶのが「平安神宮」の境内地の正面に見える「大極殿」です。この建物は現在平安神宮の「外拝殿」としての役割を担っています。「大極殿」には鴟尾が使われています。平安神宮には過去幾度か訪れていますが、改めて「鴟尾」という視点を第一目的に昨日(2021.3.24)再訪してみました。境内の建物にはほぼ鴟尾が屋根の棟に使われていることを再認識しました。 神宮道に建つ朱塗りの大鳥居傍の歩道を進むと、「応天門」が見えます。応天門を初め、平安神宮の建物の屋根には緑釉が施された碧(あお)瓦が使われています。 応天門の屋根の棟には鴟尾が載っています。鴟尾の形は唐招提寺の鴟尾に近似のスタイルと言えます。「平安神宮境内図」は「平安神宮会館」のウエブサイトに掲載の境内図をご覧いただくとわかりやすいと思います。こちらからご覧ください。この平安神宮は、明治28年(1895)に平安遷都1100年記念として創建されました。そして平安京の大内裏の朝堂院の形式を模して主要部が築造されたそうです。大内裏の正門は朱雀門。その内側に入ると正庁である朝堂院のエリアがあり、その表門が応天門です。回廊に囲まれた朝堂院の主要部分の建物を本来の8分の5の規模で築造してあります。(資料10,11)朝堂院は「八省の官人たちが政務をとり、即位・大嘗会・朝賀などの国家の儀式を行った」(『日本語大辞典』講談社)エリア。その朝堂院の正殿が大極殿です。 応天門にむかって手前、南西側に手水舎があります。ここの屋根にまず鴟尾が見えます。応天門の棟の鴟尾と同じ形です。 応天門を通り抜けると、北東側に「神楽殿」が見えます。大棟の両端に同形式の鴟尾が載っています。北西側には、神楽殿に対応する位置に「額殿」があり、建物等は同じスタイルです。境内の正面には大極殿が見えます。その境内地は一段高っくなっています。数段の石段を上がった左右には大極殿の左右の歩廊とつながる楼閣が建てられています。 東側には「蒼龍楼」が建ち、西側には「白虎楼」が配されています。ご覧の通りで、平安宮になぞらえて、碧瓦、緑青の連子窓、丹塗りの建物です。 楼閣の屋根にも同じスタイルの鴟尾が載っています。 蒼龍楼の北面の屋根は大極殿への歩廊の屋根の端が軒下に入り込み重なる形になっていますがこの歩廊屋根の端にも鴟尾が使われています。 大極殿。大極殿前には「右近の橘」「左近の桜」が配されています。桜は満開に近い状態でした。橘は覆屋の中に入っています。たぶん越冬のための保護なのでしょう。もうそろそろ覆屋は撤去されるのかもしれません。 大極殿大棟の両端には金色の鴟尾が載っています。 経年変化のせいかかなり汚れが付着しているようです。 東側の鴟尾を違った角度から撮ってみました。ご覧いただいた通り、鴟尾の形式はすべて統一されています。大極殿の鴟尾の背の部分には装飾レリーフはないようです。鴟尾を楽しむという観点での平安神宮ご紹介はこの辺りにとどめておきましょう。大阪の四天王寺は過去2回は訪れていますが、その際、建物の屋根の鴟尾は意識していませんでした。機会を作って、四天王寺の瓦という視点で訪れて、この続編をまとめたいと思います。鴟尾を知るという観点で、ネット検索で得たいくつかの鴟尾をご紹介し一旦終わりにします。大阪府の羽曳野市にある「陵南の森公民館」の歴史資料室には、沓形の「西琳寺出土鴟尾」が展示されています。こちらからご覧ください。また、大阪府泉南市のホームページには、出土した鴟尾の断片の写真とともに、海会寺跡出土の鴟尾の復元イラスト図が見られます。こちらからご覧ください。福岡県築上町では、「国史跡船迫窯跡」から出土した鴟尾を復原し、「船迫窯跡公園体験学習館」で展示されています。こちらからご覧ください。ネット検索中に、現代の鴟尾据え付けの事例について「宮大工(株)飛鳥工務店」さんのブログ記事で出会いました。曹洞宗窓泉寺の鴟尾の据え付けの紹介記事です。最後にご紹介しておきましょう。こちらからご覧ください。ブログを書き始めて以降に、平安神宮についての探訪記をまとめていないことにきづきました。この機会に結果的に平安神宮の探訪も兼ねましたので、別稿として平安神宮をまとめてみたいと思っています。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 案内リーフレット「特別史跡 平城宮跡 朱雀門」(文化庁文化財第二課) 2) 案内リーフレット「特別史跡 平城宮跡 第一次大極殿」(文化庁文化財第二課)3) 『瓦に生きる 鬼瓦師・小林平一の世界』 小林平一・駒澤琛道[聞き手] 春秋社4)『東大寺の瓦工』 森郁夫著 臨川書店5) 鴟尾 大阪府柏原市高井田廃寺 :「東京国立博物館 画像検索」6) 鴟尾 :ウィキペディア7) 「アーカイブ調査でみえてきた法隆寺金堂壁画と昭和大修理」青柳憲昌(立命館大学) 法隆寺シンポジウム「法隆寺金堂の謎に迫る 2021.2.20、大阪中之島会館 8) 境内案内 中金堂 :「興福寺」9) 興福寺中金堂篇 中金堂のここがすごい! :「JR東海」10) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p1311) 『昭和京都名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p171-174補遺国宝 唐招提寺金堂 平成大修理現場見学会【西大寺本堂】独特の近世建築で鎌倉時代の仏教美術をじっくり味わう :「ならまちあるき風景紀行」平安神宮境内図 :「平安神宮会館」平安京条坊復元図 :「平安京を歩こう」(平安京探偵団)平安宮大内裏復元図 :「平安京を歩こう」(平安京探偵団)四天王寺 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2021.03.25
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=== 2023.11.8 === 南の空9時55分過ぎに撮りました。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空見える範囲では、どの方向もいい青空です。東方向の空もわずかな雲がみられる位でめずらしく晴れ上がっています。 東方向の空15時35分過ぎに眺めると、稜線上空の空は一層青空らしい色合いになっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空 南の空17時5分近くに撮りました。夕暮れ時。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空快晴の一日の日の入りに近い頃の空の色は、やはりこのような色調を表すようです。白鼠(銀色)に近い色合いのグラデーション。==== 2023.11.9 === 南の空9時45分頃に撮りました。快晴の日の夕暮れの空に近い色調です。晴れた日がスタート。南西方向の空 西方向の空 西を眺めると、軽やかなベールの様な雲が見えます。 頭上の空 東方向の空稜線上空には雲が出ています。 東方向の空16時10分近くに眺めると、稜線のすぐ上に横雲が漂い、その上空は青空へと変化していました。 南の空 雲の一部をズームアップ。雲の形はどのようにして生み出されるのでしょう。南西方向の空 西方向の空 頭上の空午後も晴れた状態が続きました。天気に恵まれた一日です。この後、もう一度空を撮ろうと思ってふと窓外をみるとはや薄暗くなっていました。タイミングを逸しました。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第3巻に収録された詩集「詩国 第二集」の続きです。 (参照『坂村眞民全詩集 第三巻』大東出版社)「白」と題する7行の詩に雲が出て来ます。 白い雲 白い花 白い鳥 白はわたしの 生御霊(イキミタマ) 白い光となって 散っていこう p256「鳥のように」と題する詩の末尾に雲が。 漂泊流転 雲と共に消えてゆく 鳥のような わたしの一生よ p277この詩は、冒頭「ふりかえってみると/ 鳥のように飛びまわった/ わたしの人生であった」という3行から始まる13行詩です。「呼んでいる」と題する詩の後半に、 流水 行雲(コウウン) みなことごとく 呼んでいる と詠み込まれています。 p308「蒼天の美しい日に」と題する詩まで飛びます。この詩には最初に詞書があります。「1981年昭和56年1月8日 一遍上人成道記念碑の前にて」と。29行の長詩です。真民さんの熊野への旅から生まれた詩です。その中に ああわたしの新しい出発とも言えよう 雲一つない 冬には全く珍しい快晴が 一層わたしの心を歓喜させた わたしはここに立つ 年来の願いを やっと果たすことができたのだ と詩の半ばに詠み込まれています。 p333「夜明けのへんろみち」と題する詩の半ばにも出て来ます。 風が囁きかけてくれ 雲が呼びかけてくれ 鳥が喜びの声で送ってくれる と。 p364「三願」と題する詩の第3節に、 雲のように 身軽に 生きてゆこう と詠まれています。 p367同じページに「変化自在」と題する詩が載っています。全文引用します。 風となり 雲となり 鳥となり 変化自在 どこへでも だれの処へでも 飛んでゆく だから悲しまないで下さい わたしがこよなく愛した タンポポも朴もわたしの分身として 咲き続けるでしょう つゆくさのつゆが光るときは わたしも共に光っているので 足をとどめて見つめて下さい p367「眉月」と題する詩の前半に詠まれています。 雨後の空には 一片の雲もなく 東天に 眉月光り 夜が明けてゆく と。 p371[夜明けの詩」と題する詩に、 やがて茜の雲が日の出を告げ 天地一ぱいが一大光明の詩(ウタ)となる ああ生命に満ちた このひとときの荘厳(ショウゴン)よ とその末尾に詠み込まれています。 p397「洞窟」と題する詩は、空海の改名脱皮の秘密を知りたくて、真民さんが室戸岬突端の苦行の洞窟を訪ねて、そこでの体験を詠まれた詩です。その半ばに 洞窟を出ると朝日が雲間から 姿を現し海面を染める まさに大日如来の出現である と詠み込まれています。 p404詩集「詩国 第二集」を締めくくるのは「タンポポ」と題する詩です。魯迅のことを詠んだこの詩の最後の詩句が 雲ひとつない中国の空を仰いだ の一行です。 p412最後に、この第二集から、真民さんの生き方を示す詩を引用してご紹介します。 しんみん念偈 フラフラするな グラグラするな ウコサベンするな どんな思想にも どんな主義にも 振り廻されるな 朴のように 毅然として 己の道を まっすぐに行け p316最初の三行、この第二集に「しんみん三針」(p261)という独立した詩として、先に詩作されています。 老いの尾 木に 老醜はないという 老杉 老梅 老桜 みなそれぞれに 風韻 風格 風趣 を持ち 老いの美に 光る p319 若さ 若さというものは 顔ではない 心だ 未来への願いを持って 今日を生きる それが真(シン)の若さだ p355この「若さ」を読んだ時、私は大好きな詩の一つ、サムエル・ウルマンの「青春」と題する詩の一節を連想しました。三聯目に「人は希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる」という詩句が詠み込まれた詩です。この第二集には、真民さん自身への思いの詩句を介して、読者にエールを送ってくれていると励まされる詩をたくさん見い出します。「自分のもの」(p208)、「特技」(p209、「こおろぎのことば」(p209)、「光と闇」(p211)、「一貫」(p211)、「捨ての一手」(p249)、「三不忘」(p249)、「三学」(p265)、「一年草のように」(p265)などは、前半から抽出してみました。その詩句はストレートに響いてくるものがあります。これで第三巻からの雲がたりを閉じることにします。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.10 ===朝から雨が降っていました。 南の空南西方向の空 9時55分過ぎに、窓際から二方向だけ撮ってみました、 白鼠の布を広げたような雲が覆っているのは、雨が古空の一つのパターンのようです。昼近くからしばらくは雨が止んでいました。16時40分近くに、改めて空を見ると、再び小雨が降っていました。 南の空南西方向の空 断続的に小雨が降り続く一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民について一遍上人誕生の地 愛媛県松山市道後湯月町 時宗 豊国山遍照院「寶厳寺」窪寺跡の彼岸花群生 :「EEKの紀行 春夏秋冬」一遍と時衆 :「愛媛県生涯学習センター」青春 :「西村経営支援事務所」青春の詩 園長のひとりごと:「日本赤十字社徳島赤十字ひのみね医療療育センター」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.21
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京都・東山に浄土宗総本山知恩院があります。正式呼称は「華頂山知恩教院大谷寺(かちょうざんちおんきょういんおおたにてら)」です。しかし今は「知恩院」の方が一般的であり、道路標識も地図も、知恩院と表記されています。正面の三門には、「華頂山」の扁額が掲げられています。(資料1)冒頭の写真は、「知恩院の大鐘楼」です。久しぶりに知恩院の境内に入ると、御影堂は現在修理中です。境内の南東隅にこの大鐘楼があります。今回はここを起点にした探訪を、事後整理を兼ねてご紹介します。学生時代に一度この大鐘楼の柱のすぐ傍で、除夜の鐘が撞かれる姿と鳴り響く鐘の音を見聞したことが懐かしい思い出としてあります。その後は除夜の鐘としてこの大梵鐘が鳴る音は、行く年来る年の放映で眺めるだけですが・・・。今回の直接の目的は、「法垂窟」を訪ねてみたいということでした。 起点とするこの大鐘楼の写真を撮っていて、初めて気づいたのは鐘楼の傍に「殉難忠士之墓」と刻された墓碑が建立されていることです。この墓碑が一隅にひっそりとあるだけです。裏側に回ってみると、末尾に「大僧正學天誌」と刻され、「頃年有抗 朝命者」という一行目から始まり「樹立墓碣以慰忠魂」で終わる漢文で記されています。この大鐘楼のすぐ東、山側が知恩院の境内境界です。フェンスで囲われていて、扉があります。夕刻までは開かれているようで、私がここを通ったのは、3月下旬の午後4時少し前くらいでした。 門扉から山道に入ると、北側に左の写真「高台寺山国有林散策マップ」という案内掲示板があります。そして、近いところに「ほーたるのいわや 一丁」という道標が山道の右側に立っています。掲示の地図を拡大してみました。大鐘楼の東側の境界門扉地点からの山道が、将軍塚、東山山頂公園への国有林歩道の一つ「知恩院口」になります。山道を登って行きますと、約100mほどで、石造垣根で囲われた場所と東屋が山道の北側に見え始めます。石造垣根(以下、境内と称します)の南西角、つまり上ってきた山道に近いところに入口があります。 山道に沿った石造垣根の東端に「法垂窟」の大きな石碑が立っています。山道の西側には幅は狭いですが少し深い溝、小川があるというべきでしょうか。その西側にかかる小橋があり、その先の敷地に廃屋風の建物があります。青蓮院境内地という表示板が橋のところに立てられていました。このあたり、青蓮院の飛地になっているようです。参道から北に「法垂窟」全体を眺めた景色それでは境内の探訪を始めましょう。東屋の方に少し戻ります。境内地の南西部に入口があります。 西端に石灯籠が並び、参道が鍵型に右折します。右の写真の左の歌碑が参道の突き当たりにあるもの。左折すると境内は2段になっています。隣に句碑が建てられているようです。それぞれ達筆すぎて、私には判読できません。 さらに、この歌碑も・・・ 法垂窟の前面にも石造垣根が設けられていて、一種の結界となっています。上の写真の石灯籠の左に「法然上人 親鸞聖人 御旧蹟」と刻された石碑が建てられています。この石造垣根の入口の柱に紋が刻されていますが、これはどこの紋なのでしょうか?藤葉の内側に抱杏葉がデザインされた紋に見えます。浄土宗の宗紋でも、真宗系(東西両本願寺)の宗紋でもありません。知恩院が使われている紋にも該当しません。少し調べた範囲では不詳です。法垂窟の左手前にこの歌碑が建てられています。法垂窟の上部に嵌め込まれた石板のレリーフの左には「善導大師」。雲に乗る大師の足許を瑞鳥が飛び回り、大師の頭部の右側背後には3体の雲に乗る仏が浮彫にされています。菩薩像でしょうか・・・・。少し低い位置には「圓光大師」つまり、法然上人が立たれています。 そして、右端に「善導大師 圓光大師 真葛ケ原御対面之図」と刻されています。これは『法然上人絵伝』(国宝・知恩院蔵)四十八巻のうち巻七にある第五段の挿絵に相当する図をレリーフにしているもののようです。手許の図録には、「第五段 法然、夢中に善導大師に逢う」とキャプションがついています。絵伝の絵では、善導大師と法然との間に大河(もしくは大海)があります。それは中国と日本、あるいは彼岸と此岸の象徴なのかもしれません。(資料2)手許の『法然上人絵伝』の第五段の本文を読んでみました。この夢のことが直接に記載されているわけではありません。あるとき月輪殿での山僧との会話に次の引用文が記されています。(資料3) ”山僧と参会の事侍(はべり)りしに、「かの僧浄土宗を立給なるは、いづれの文によりて立給ぞや」とたずぬるとき、「善導の観経疏(かんぎょうのしょ)の附属の文なり」と答給に、重(かさねて)いはく、「宗義をたつる程のことになんぞただ一文によるべきや」と。上人微咲(みしょう)して物もの給はざりけり。”一方、法然が弟子の源智に語ったものと思われる内容が、『醍醐本』「一期(いちご)物語」に語られているそうです。孫引きですが引用します。(資料4) ”但し、自身の出離においてすでに思ひ定め畢(おわ)んぬ。他人のためにこれを弘めんと欲すと雖(いえど)も、時機叶ひ難きが故に、煩ひて眠る夢の中に、紫雲大いに聳(そび)えて日本国に覆へり。雲中より無量の光を出す。光の中より百宝の色の鳥飛び散りて充満せり。時に高山に昇りて忽ちに生身の善導に値(あ)ひ奉る。越より下は金色なり。腰より上は常の人の如し。高僧の云はく、汝不肖(ふしょう)の身たりと雖も、専修念仏を年々に繁昌して流布せざる境なきなり。”窟の中に石仏が祀られています。窟には清水が溜まっているようです。 中央はそのお姿から推測して阿弥陀仏坐像、その両脇に二つの石像が安置されています。その二体はその頭部からみて阿弥陀仏の脇侍である観音菩薩像とは思えません。地蔵菩薩坐像か阿羅漢坐像と思われます。左側手前にもう一体安置されているのは地蔵菩薩立像と思える石仏像です。阿弥陀仏の化身として善導大師をとらえてみと、小祠に善導大師、法然上人、親鸞聖人を重ねたイメージで三像が祀られているとみることもできます。『法然上人絵伝』の第六段には、「上人、一向専修の身となり給にしかば、つゐに四明の巌洞を出でて、西山の広谷といふところに居をしめ給き。いくほどなくて東山吉水のほとりに、しづかなる地ありけるに、かの広谷のいほりをわたしてうつりすみ給。」と記されています。四明の巌洞は比叡山であり、西山の広谷は洛西粟生光明寺の山の後方のことです。「東山吉水」というのは、知恩院付近の旧名です。東山吉水の庵が具体的にどこにあったのか、絵伝のこの記述だけでは確定できませんが、この地がその最初の場所だと言われると納得できる場所でもあります。念仏行に専修する法然の許に「たずねいたるものあれば、浄土の法をのべ念仏の行をすゝらる。化導日にしたがひて、さかりに念仏に帰するもの雲霞のごとし」と本文は続きます。(資料3)最初はささやかな庵だったものが、念仏信仰者が増えるに従い、東山吉水の地でその場所が多少移動しているかも知れません。吉水の地に法然が草庵を結び、専修念仏を初めて布教したのは承安5年(1175)43歳のときだったとされています。一方、親鸞が六角堂参籠での夢告を得て、法然の吉水の草庵を訪ねたのが、建仁元年(1201)4月と言います。このとき法然69歳、親鸞29歳だったことになります。上記『法然上人絵伝』(国宝)巻六、第三段の絵「法然、吉水の草庵で、人々に専修念仏の教えを説く」とキャプションの付されたものに描かれた建物の絵をみる限りは、それなりに整ったお堂が建てられていたようです。二間四方の角部屋に法然が座り、背後と左側の二面は襖障子であり、手前は庭に面し外縁が巡らされている建物が描かれています。わびた草庵というイメージは浮かびません。勿論、絵の状況は専修念仏がかなり人々の間に布教された段階での話になることです。少なくとも絵師はそう解釈して建物を描いているように思います。(資料2)東山吉水の草庵はこの法垂窟より少し南西に下ったところにある安養寺のあたりともいいます。現在の安養寺の門前にある石標には「慈円山安養寺」という寺名表記の右側に「法然親鸞両上人御旧跡 吉水草庵」と刻されています。(資料5)また、『都名所図会』では、「華頂山大谷寺知恩教院」の項において、「吉水の禅房とはこれなり」「初めは東の山腹、今の勢至堂の地にして」と記述しています。この前の項が「円山安養寺」ですが、この説明の中で「吉水草庵」や「吉水の禅房」についての記載はありません。(資料6)総本山知恩院の「法然上人と知恩院」というページには、「法然上人はこの専修念仏をかたく信じて比叡山を下り、吉水(よしみず)の禅房、現在の知恩院御影堂(みえいどう)の近くに移り住みました。そして、訪れる人を誰でも迎え入れ、念仏の教えを説くという生活を送りました。」と記されています。(資料7)これらの記述の場所は、法垂窟の南北いずれかに少し離れた地でしかありませんので、大きくこのあたりとイメージすればそれで良いことかもしれません。法垂窟の南東方向、境内の東端に巨大で太い文字を刻した「法垂窟」の石碑が立っています。その傍に散文詩風の文が刻された碑があります。傍の碑はそれほど古いものでは無さそうです。私には全文の判読は難しい・・・・。こんな章句「・・・ながきやみ路・・・めぐみも深き南無阿弥陀仏・・・・あなたも祖師と同行よ 親鸞さまのみあとをば 慕うて浄土にまいるべし われらハ称へん南無阿弥陀仏・・・」に読める部分があります。一度この境内にある様々な石碑に刻された内容を判読してみてください。その内容を如何に読み解くかを教えていただけると有難いです。「法垂窟」碑の北隣には「吉水」と正面に刻された井筒らしきものがあります。ここもまた、吉水の井でしょうか・・・・。「吉水」の傍にも、石仏が祀られています。螺髪のある頭部ですので阿弥陀仏坐像でしょう。一通りこの境内を拝見し、一端知恩院口に戻ったところ、フェンスの門扉は施錠されていました。午後4時半を過ぎた頃だったかなと思います。将軍塚まで登って下るしかないか・・・と覚悟して再び登り始めたら、偶然に出会った人に円山公園側に下る道を教えていただけました。法垂窟の石造垣根の傍をさらにしばらく登りなさい。すると、分岐点の目印として、石積みの上にお地蔵様が置かれたところに出ます。そこから右折して下って行くと安養寺さんの横に出られますよと。これがその目印となる石積の上のお地蔵様ご教示通りに歩み下ることができました。そのお陰で、思わぬプラスアルファーの探訪ができた次第です。つづく参照資料1) 総本山 知恩院 縁起 :「浄土宗」2) 『法然 生涯と美術』 法然上人八百年回忌・特別展覧会 京都国立博物館 図録3) 『法然上人絵伝(上)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 4) 『法然の哀しみ 上』 梅原 猛著 小学館文庫 5) 吉水草庵安養寺 ホームページ6) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p277-2837) 法然上人と知恩院 :「知恩院」補遺浄土宗宗紋の問題点(1) :「普仙寺」本願寺の紋は下がり藤? :「天真寺」東本願寺の寺紋と家紋 :「お散歩道草」大谷家 :ウィキペディア特集 神紋・寺紋の推定 :「時の散歩/仙台寺社巡り」安養寺(吉水草庵) :「京都観光Navi」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 東山山麓を歩く -2 円山聖天堂と吉水弁財天堂 へ
2016.05.30
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御常御殿の南西に接して「御三間(おみま)」と称する建物があります。 左の写真は西側の井戸のある庭の南に広がる砂利敷の広場から撮った写真です。右から御三間、御常御殿、御常御殿の西に連なる建物の屋根の全景です。右の引用した部分図で位置関係がおわかりいただけるでしょう。(資料1)御三間は一般公開の時々により、遣戸・障子の開放度合が変わるようですが、東側から上段の間、中段の間、下段の間と呼ばれていて、各部屋の障壁画を庭から拝見する事が通例です。「南と西に御縁座敷があり、ここで涅槃会・茅輪(ちのわ)・七夕の盂蘭盆の儀が行われた」(資料2)といいます。この説明板が簀子の一隅に置かれています。この春は、「上段の間」はこの状態で戸が開けられていました。ズームアップしてみます。説明板にある住吉弘貫筆「朝賀図」です。 「朝賀」は「元旦に、天皇が大極殿で群臣の年頭の賀を受けた儀式」(『日本語大辞典』講談社)です。住吉弘貫(1793-1863)は、江戸後期の住吉派の名手で、兄の死後家督をつぎ、江戸幕府の御用絵師となった画家だそうです。住吉派は土佐派の系譜のようです。この部屋以外に、「土佐派の古典をいかし、紫宸殿の賢聖障子をえがく。技巧の卓抜なことにより狩野派同様旗本に列せられた」(資料3)といいます。中段の間は、駒井孝礼筆「賀茂祭群参図」が描かれています。賀茂祭とは葵祭のことです。この中段の間の四方の襖には、上賀茂・下鴨両神社に向かう行列の様々な様子が描かれているそうです。庭から正面に見えるのは、御幣櫃(ごへいびつ、神前に供える御幣物を納めた櫃)を持つ白丁の一団、御馬、牛車などが描かれた場面です。 左端の襖に牛車が描かれ、その右の襖に手綱で引かれていく白馬が描かれています。 一番右の襖に御幣櫃を担ぐ人々が描かれています。つまりこの行列の場面では御幣櫃を担ぐ一団が先頭になります。御幣とは「幣束(へいそく)の敬称。紙または布を串にとりつけた神祭用具。おんべ。ぬさ。」(『日本語大辞典』講談社)です。白丁(はくちょう)とは「1.白い狩衣を着た仕丁(じちょう)。 2.神事・神葬などで物をはこぶ人夫」(同上)のことです。駒井孝礼(こうれい)は、「円山派の吉村孝敬(こうけい)に学び人物画や花鳥図を得意とした」(資料4)そうです。画を吉村孝敬に学んだ人で、「名門出身者以外では異例とも言えるほど格の高い部屋を任されている」(資料5)とか。それだけ絵師としての実力があったのでしょうね。 「下段の間」は、岸誠筆「駒引図」です。駒引というのは平安時代に天皇が馬を御覧になる儀式だったようです。それも2種類あったことが『大辞林』(三省堂)を引いてわかりました。 (1) 御牧(みまき)から貢進した馬を天皇が御覧になり御料馬を決める儀式。 毎年8月15日、後に16日に実施。 (2) 五月の騎射に先立って、天皇が左右馬寮・諸国の馬を御覧になる儀式。 毎年4月末に実施。年中行事として、5月5日には「騎射の節」という一つの節会が行われていたそうです。天皇が武徳殿または弓場殿に出て、近衛・兵衛の騎射を観覧した行事です。騎射の節では弓を射る武技そのものを観覧し、その前に節会で登場する馬そのものをまず観覧しておくということなのでしょう。岸誠(がんせい、1816-1867)は岸派二代目・岸岱(がんたい、1785-1865)の三男です。父同様御所に仕え、有栖川宮家の近習となるとともに、安政度御所造営に参加した画家。「作風は岸派伝統の肥痩ある線を用いた描法をとっているものが見られる」(資料5)といいます。 下段の間の御縁座敷に杉戸絵も拝見できます。資料がなく詳細不詳です。 御三間の南に、庭を挟んで御学問所の北面が見えます。御池庭とは源氏塀で仕切りが設けられていますが、建物の所までにとどまっています。 2014年秋には、この北面の戸が開けられ、「寿老人」と「鶴」の杉戸絵が展示されていました。 福井徳元筆「寿老人」の杉戸絵これは「御三間」の北御縁座敷に画かれている杉戸絵だとか。 「『寿老人』は長寿を授けると言われる長頭の老人を画いた古くからの画題のひとつで、杖と団扇を持ち、鹿を連れているのが特徴です。」(説明板を転記)寿老人は道教で神仙とされています。「寿老人は南極老人(南極星の化身)ともいわれ、同じく南極老人といわれる福禄寿と同体神とされることがあります」(資料6)とか。福禄寿とともに寿老人は七福神の一人に数えられています。後の五神は、恵比寿・大黒天・布袋・毘沙門天・弁財天です。福禄寿と寿老人が同体異名とみて、寿老人の代わりに吉祥天を加える考え方もあるようです。 本多米麓(べいろく)筆「鶴」の杉戸絵これは「清涼殿北側から、小御所へと向かう廊下(御拝道ごはいみち廊下)にある杉戸絵」(説明板より)だとか。また、説明板によれば、御所内で鶴が作品名に入るのが8種121面あり、合計234羽が描かれているそうです。少し調べてみた範囲では本多米麓について不詳です。残念。この後、広々とした空間に出ます。北側一帯は桜の木などの植栽のある庭になっていて、庭には井戸がぽつんと残っています。一方、南は現在砂利敷の広場になっています。一般公開の折りには、ここに一時休憩用の大きなテントが張られています。第二次世界大戦前の京都御所の「御台所跡」になるようです。戦時中に数多くの建物が取り壊されたようです。かつての長局、公家や武家関係の役所、控え室などとして使われていた建物群があったようです。(資料7)この広場から御学問所から南方向に続く廊下の建物の全景を撮りパノラマ合成してみました。こんな景色です。最南端の建物の屋根上に紫宸殿の屋根が見えます。北側の庭を最後に眺めましょう。 桜の花が満開でした。 今春 2014年春 2011年秋 2014年春この広々とした空間は、北側と西側が源氏塀で境界が設けられていて、西に抜ける大きな門扉があります。そこを通り抜けると、「清所門」が一般公開時の出口となっています。 これで今春の京都御所春の一般公開に、過去訪れた折りに撮った写真を織り交ぜた細見記を終わります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「京都御所 一般公開」 宮内庁京都事務所 リーフレット2) 『昭和京都名所圖會 洛中』 竹村俊則著 駸々堂3) 住吉弘貫 :「コトバンク」4) <京都>御所と離宮の栞 其の四 :「宮内庁」5) 「京の絵師は百花繚乱 『平安人物志』にみる江戸時代の京都画壇」 図録 京都文化博物館開館十周年記念特別展 6) <京都>御所と離宮の栞 其の十 :「宮内庁」7) 京都御所の移り変わり :「3D京都」補遺朝賀 :「コトバンク」朝賀図(住吉弘貫筆)=御三間上段の間 ← ネット検索で見つけたもの! 作品解説:京都国立博物館館長 佐々木丞平・京都嵯峨芸術大学教授 佐々木正子朝賀図 :「文化遺産オンライン」大極殿朝賀図 平城第370次調査 平城宮朝集殿院の調査 現地説明会資料七福神 :ウィキペディア七福神異間・鍾馗・猩々・吉祥天女も七福神?:「七福神の名前と意味を知る」土佐派 :「コトバンク」住吉派 :「コトバンク」住吉家代々(初代~9代):「歴史が眠る多摩霊園」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都御所細見 -1 宜秋門・御車寄・諸大夫の間 へ探訪 京都御所細見 -2 新御車寄、回廊の日華・承明・月華門、建礼門と建春門 へ探訪 京都御所細見 -3 日華門・紫宸殿と南庭・清涼殿 へ探訪 京都御所細見 -4 宜陽殿・春興殿 へ探訪 京都御所細見 -5 御池庭・小御所・蹴鞠の庭 へ探訪 京都御所細見 -6 御学問所、御池庭の北岸畔 へ探訪 京都御所細見 -7 御常御殿・御内庭ほか へ
2016.06.16
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[探訪時期:2012年12月]まず拝見したかったものを前半にまとめました。この後半では、境内の雰囲気をご紹介したいと思います。冒頭の画像は、山門を入ると、左手にある井戸です。 「身余堂文庫」井戸の奧にある「身余堂文庫」の建物の前に、 山吹塚があります。木曽義仲の側女山吹御前の塚です(境内の説明板には、妻とも妾とも云うと記されています)。病身で京に居たが義仲に逢うために大津に来て、義仲戦死の報を聞き、悲歎のあまり自害したとか。もとはJR大津駅前にあった塚ですが、昭和48年(1973)にこちらに移されたのです。身余堂文庫の右隣に「粟津文庫」が建っています。こちらは昭和51年(1976)に、無名庵とともに拡張新造されたそうです。この粟津文庫の右隣、つまり境内の奥側に「無名庵」があります。山吹塚の右側、粟津文庫の左端前あたりに、 初雪や日枝より南さり気(げ)なき当寺中興の人、蝶夢法師の句碑があります。身余堂文庫と粟津文庫の前の部分の庭一帯に様々な俳人の句碑が建てられています。前回ご紹介の芭蕉翁と又玄の句碑以外に、「義仲寺案内」(資料1,以下「案内」と略)によると、句碑17と歌碑2が建てられています。残念ながら、全てを写真に撮る時間のゆとりがありませんでした。 粟津野に深田も見えず月の秋 露城この句碑は、蝶夢幻阿佛の句碑の手前で、参道に近いところに位置します。粟津文庫の入口への路傍に 月の湖(うみ)鳰(にお)は浮たりしづみたり 魯人 無名庵を背後にした巴塚の左隣に、何故か、佐渡の赤石があります。この一角、紅葉がきれいでした。無名庵の入口の手前に歌碑が。 としつきは 過ぎにしとおもふ 近江ぬ(野)の みづうみのうへを わたりゆく月「案内」には「三浦義一翁歌碑」という記載がありますが、歌碑自体の表面に句碑のように作者名が刻されていません。「案内」には二首の前に「巴」と前書きがあります。巴塚と無名庵の間、建物寄りに芭蕉の句碑 古池や蛙飛びこむ水の音この芭蕉句碑の右側に、 義仲公遺跡の碑が建っています。「案内」には説明がありません。芭蕉翁墓の近く(右側)に、もう一つの芭蕉の句碑「旅に病で夢は枯野をかけ廻る」があるようなのですが、残念ながら撮れていません。その右側にもう一つの歌碑 かくのごとき をみなのありと かつてまた おもひしことは われになかりき芭蕉翁墓と義仲公墓の斜め前、参道の反対側にある燈籠 落葉が紅い敷物を敷いたようでした。一時の晩秋風景です。 翁堂の軒境内の最奥に「木曽八幡社」が祀られています。義仲寺の鎮守です。古図に描かれているようですが、これは昭和51年(1976)社殿鳥居を併せて新造されたもの。「案内」は京都に本社を置く一教育出版社の寄進によるものと記しています。八幡社の右側に2つの芭蕉供養塔 芭蕉師ニ百年忌(右)と芭蕉翁三百年忌(左)百年忌について、「案内」はこう記しています。「蝶夢法師は、無名庵主の重厚(じゅうこう)とともに寛政5年(1793)4月10日から12日まで、当寺の芭蕉翁百回忌を主催した。全国の俳人約500人が参集、歌仙150巻を興行した。近世文芸史上の盛事であった」と。翁堂の斜め奥、境内の南西隅傍で、薄茶色の「保田與重郎墓」と未だ新しい建立と思える五輪塔が目にとまりました。なぜ、こんな場所に保田與重郎の墓があるのだろう?「案内」を見てもどこにも触れられていません。一方、ま新しい五輪塔には、「夢」の一字が地論前面に刻されています。しかし誰の供養なのか墓なのか、前から見るだけではわかりませんでした(裏面は確かめていません)。このあたり、不思議だったのですが、ネット検索で理解が深まりました。近世後期には大坂の俳人、蝶夢が義仲寺復興に尽力しました。そして、第二次大戦後、荒廃していた寺の復興に尽力したのが保田與重郎氏だったようです。保田與重郎は、亀井勝一郎らと『日本浪漫派』創刊同人として活躍し、日本浪曼派の中心人物として知られた評論家です。「渡辺和靖『保田與重郎研究』により大正教養主義イデオローグの圧倒的影響下にあることが立証された」とされています。(資料2,3)もう一つ、「義仲寺昭和再建落慶誌」は保田與重郎自身の筆になるものだそうです。(資料4)冒頭に触れた「身余堂文庫」は、保田與重郎が『身余堂書帖』(講談社)を1989年に出版しています(資料2)。また、京都市右京区の鳴滝に「身余堂」(保田與重郎邸)があります(資料5)。つまりこの文庫は保田與重郎に関連するものと思われます。その隣りの「粟津文庫」ですが、こちらは蝶夢法師の開設されたもので、俳諧の古書書籍を収蔵するということを保田與重郎が一文で記しているようです。また、一書によると、文政3年義仲寺に入った吉備の釈閑斎が粟津文庫再興につとめ『粟津文庫』(文政12年)を編んだと言います。(資料6)そして、ここでも三浦義一翁の名前が出てきただけでした。ネット検索で、「義仲寺の墓」と題したブログ記事(「メンタルクリニックの窓」)に出会いました。この人物について触れておられます。こちらからご覧ください。五輪塔の左に小さな2つの墓石があります。一番左の墓が、「曲翠墓」です。前回言及した膳所藩士菅沼曲翠です。芭蕉の門人でもあり、芭蕉に幻住庵を提供したのもこの人だったとか。この墓は昭和48年の建立。没後257年にして初めての建墓なのだそうです。理由は「案内」に記されていますが省略します。朝日堂の南壁に近いところに、 むべ三顆翁を祀るけふにして 方堂の句碑があります。朝日堂の北隣にある「史料観」は昭和51年に新築された建物で、ここは「粟津文庫に収蔵の史料什宝を適宜取り替え展観する」ための展示スペースとして開設されています。最後に史料観の展示品を拝見して、義仲寺を後にしました。芭蕉は義仲公墓を木曽塚ととなえたといわれています。 燧 山 (元禄2年) 義仲の寝覚の山か月悲し 芭蕉 無名庵にての作(元禄4年) 木曽の情雪や生えぬく春の草 芭蕉現在、義仲公の忌日「義仲忌」は毎年1月の第3日曜日に、芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、毎年11月の第2土曜日に営まれるそうです。手許にある数冊の歳時記を繙いてみました。芭蕉の忌日は季語に取り入れられています。時雨忌の他に、芭蕉忌、翁忌、桃青忌、翁の日も季語として使われています。桃青は芭蕉生前の号です。「義仲忌」も季語になっています。歳時記には、芭蕉忌の項の説明に、芭蕉が大坂できのこにあたって発病したこと、大坂御堂筋の花屋仁左衛門方にて長逝したことが記されています。(資料7)序でに、数冊の歳時記に掲載の句からいくつか引用させていただきましょう。倶利伽羅の旧道に住み義仲忌 今村をやま紅梅を近江に見たり義仲忌 森 澄雄しばらくは野火のうつり香義仲忌 飯田龍太義仲忌膳所はみぞるるばかりかな 飴山 實みずうみの舟宿灯り義仲忌 角川春樹芭蕉忌にうす茶手向くる寒さかな 樗 良俳諧に古人有世のしぐれかな 几 菫芭蕉忌や壁に掛けたる文の切 吟 江時雨忌の人居る窓のあかりかな 前田普羅湖の寒さを知りぬ翁の忌 高浜虚子時雨忌や林に入れば旅ごころ 石田波郷時雨忌やはなればなれにしぐれをり 加藤楸邨寺にある花屋日記や翁の忌 鶴田絹子漂白の身になり切れず芭蕉の忌 竹越八柏旅にゐて旅を虔しむ翁の忌 遠藤梧逸限られた探訪時間内でゆとりがなかったのがちょっと残念でした。境内を回って拝見しながら記録写真としてできるだけ撮りました。それでも撮りきれなかった句碑などがあります。機会をみつけて、再訪したいと思っています。拙ブログのまとめをお読みいただいた貴方の目で、ぜひ一度義仲寺の現地に佇み、境内の雰囲気を味わってみてください。季節が変わると、また風情が異なることでしょう。この後、近世東海道を歩みます。つづく参照資料1) 「義仲寺案内」 拝観の折にいただいた資料2) 保田與重郎 :ウィキペディア3) 保田與重郎と義仲寺 佐谷眞木人 :「恵泉女学園大学」4) 義仲寺昭和再建落慶誌 :「古代文化研究所」5) 鳴滝「身余堂」(保田與重郎邸) :「山中惠子建築設計室」6) 「粟津文庫」をキーワードとしたインターネット検索のソース 保田與重郎全集 :「Books」 『蕪村・一茶その周辺』 大磯義雄著 :「Books」7)『合本 現代俳句歳時記』 角川春樹編 角川春樹事務所【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺大津市:義仲寺 :YouTube義仲寺 びわ湖大津観光協会 :YouTube義仲寺(滋賀 大津) :「観光ガイド 名勝・史跡☆百景 旅」「芭蕉と近江」-義仲寺③- :「共同企画『芭蕉ネット』 滋賀県の芭蕉関連資料」丈艸 → 内藤丈草 :ウィキペディア曲翠 → 菅沼曲水 :ウィキペディア蝶夢 :ウィキペディア三浦義一 :ウィキペディア竜ケ丘俳人墓地 :「大津市歴史博物館」龍ケ岡俳人墓地 :「続・竹林の愚人」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -1 義仲寺(1) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -3 膳所城跡・城下町跡(1) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -4 膳所神社・寒川辰清旧宅碑・篠津神社・膳所城下町跡(2) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -5 若宮八幡神社・新羅神社・本多神社・膳所城下町跡(3) へ探訪 [再録] 木曽殿最後の地・膳所を訪ねて -6 粟津晴嵐・今井兼平の墓 へ
2017.03.03
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2014年4月7日(月)に、老母のたっての希望で、久々に墓参りに連れて行きました。快晴で気持ちのよい日です。帰路の途中にあることから、桃山御陵参道の南に位置する乃木神社に立ち寄りました。神社境内の桜を眺めようという目的です。冒頭の写真は、楼門を入ったすぐ左側の桜の木。ちょうど満開でした。桜の傍の石碑と神社の名称でおわかりかと思いますが、明治天皇に殉死した乃木希典(まれすけ)夫妻を祭神として、大正5年(1916)に創祀された神社です。桃山御陵の傍をしばしば通るのですが、この境内まで入ることは久々でした。東京の乃木坂に乃木神社がありますね。こちらをご覧ください。乃木将軍は台湾総督だった時期があり、この楼門(四脚門)はその記念として台湾阿里山の桧材を用いて作られたそうです。扉はつぎ目なしの1枚板が使用されています。(資料1)石碑の近くには、軍艦「吾妻」の主錨が置かれ、その前に「蒼海に眠る若人の碑」と刻された石碑が建てられています。「吾妻」は日露戦争の時、日本海海戦に関与した軍艦です。フランスのロワール社から購入した最初期の装甲巡洋艦。(資料2) 参道を進むと、菊桃の木とその先に松の木が見えます。その傍に「乃木三典一靜之松」という石標が建てられています。調べて見ますと、三典というのは、父親希典と長男の勝典、次男の保典の3人を指すようです。すると一静というのは、静子夫人のことでしょう。同時代の人々には「三典」という言葉を聞くだけで即座に意味がわかったのだと思います。私がこの石標を意識的に読み直したのは、境内を去る前に、石標の背面(右写真)の冒頭「明智左馬介光俊」という文字が目に止まったからなのです。思わぬところで、「明智左馬介」という文字を見つけたことによります。 参道傍には、なぜか「さざれ石」もあります。 拝殿そして、2頭の躍動する馬を彫刻した絵馬額が懸けられています。乃木将軍の愛馬 “壽(す)号”(親)、 “璞(あらたま)号”(子) の姿だそうです。後藤貞行作。 拝殿前に愛馬璞号の像。その後に桜。 拝殿の先に本殿が見えます。この本殿は通常神殿が南面か東面するのに対し、北面しているのです。東面して桃山御陵に背を向けるのではなく、北面して「明治天皇陵を守護すべく配慮されたものであろう」とも解されています。(資料1) 拝殿に向かって右側に、現在は「山城えびす神社」が祀られています。以前は「靜魂七福社」だったそうです。 拝殿の左側の桜の木が満開できれいでした。 桜の下に見える銅像はこの乃木神社創建者・村野山人翁の像と記されています。社務所の近くに、これまたなぜか獅子の石像が置かれています。絵馬堂横の桜の眺め 調べていて少し情報を得られました。この獅子はもとは板倉屋敷にあったものといわれているそうです。この乃木神社の境内は伏見区桃山町板倉周防です。この地にかつて板倉周防守の屋敷があったところなのです。ここの境内にはいくつか特徴がありますので、ご紹介しておきましょう。乃木家の長府(山口県)旧邸が建てられています(模造建物)。父親から訓戒を受ける少年希典の像が置かれています。 その前に置かれているのが、「乃木家の家庭訓『いろは数え歌』」です。かつての乃木家では、父・希十郎が毎朝出仕する前に、息子の希典に一条の教示をするという習慣があったのだそうです。その家庭訓が「いろは数え歌」として遺されたもの。戦前の修身教科書という感がします。しかし、人生訓としては興味深いものがあります。要は受け止め方の問題でしょうか。 乃木希典が学習院長だった時代の胸像が境内に建立されています。小倉右一郎作。その先に見える建物 これは乃木将軍が旅順攻撃の際、第三軍司令部として用いた中国の民家だそうです。 「中国東北部柳樹房で、乃木は一年間使っていたという。・・・神社の創建時に、現地の民家家主・周玉徳、周金夫妻から買い上げて移築した」のだそうです。(資料3)記念館となっていて、中には祖霊神が祀られています。この建物の隣りには土蔵形式の宝物館があります。その右手前には乃木希典の歌碑が建立されています。 そして、小さなお地蔵さまの小祠も。最後に、乃木家の「いろは数え歌」を引用させていただきましょう。「現代においては理解できない言葉を一部書き改め、旧仮名使いのまま」で記されているとのこと。現代でも読んでそのままストレートに通じる歌も多々含まれています。歌の意図・主旨を理解し思索すると、語句の読み替えなどで人生訓として普遍的な精神を読み取れるように思います。如何ですか?い 幼(いとけ)なき小供に判るいろは歌読んで覚えて正義(まこと)行へ。ろ 禄禄に知らぬ事をば談(はな)すなよ深く問われて恥をかくなり。は 箸持(と)らば主人と親の恩を知れ吾が一力で飲食(くふ)と思ふな。に 日本の教の基(もとい)は仁義礼智信忠孝の道と忘れ給ふな。ほ 方針の定めなき身は頼りなし只一念に家業励めよ。へ 平常に手習嫌ひな子供衆は試験の時に恥をかくなり。と 取り遣りと世間の義理を欠かすなよ勤めて家は倹約にせよ。ち 智慧のある人程ものに自慢せず能ある鷹は爪を隠すぞ。り 利巧じゃと褒めるは親の愚痴心褒め損ひが多くあるもの。ぬ 縫ひ針は女の業の司なり覚えて暮らせ一生の得。る 流浪する人の身元を尋ぬれば栄耀豪奢の報ひなり。を 上司(おかみ)より時々(じじ)に振れ出す御注意を守り給へよ部下の人。わ 我儘は世間の人に憎まれて損はあれども得はないぞよ。か 堪忍は吾が身の為と思ふべし人に堪忍すると思ふな。よ 養生は身の働きが第一よ流るる水の腐敗(くさ)らぬを見よ。た 大切な親の御恩を忘るるな無理があるとも言葉返すな。れ 霊薬は口に苦くも身の薬甘き言葉(くち)には油断ならぬぞ。そ 算盤と読み書く事を精出せよ奉公するとも頭(かみ)に立つべし。つ 常に火を燈(とも)して金を延ばすとも慈悲心なくば最後は暗黒。ね 寝る時も其の儘足を延ばすなよ先祖と親に礼をしてから。な 成るべくは無駄なる事に出歩くな雪駄の金より減る家の金。ら 楽さうに絹着る人は楽ならず木綿物着る気こそ楽なり。む 睦まじく家(うち)を暮すは堪忍の袋へ事を収め置くから。う 狼狽(うろたへ)て欲に惚けたら家倉も人の財布の中に入るぞ。ゐ 何時とても変わらぬ朝の早起きは大金持の神が宿るぞ。の 飲み喰ひに豪奢(おご)れば遂に身の毒となりて病気(やまひ)に増(まさ)る貧病お 恩受けし人を忘れて仇するな大事にかけて恩を返せよ。く 苦は楽の種だと思ひ働けば天の恵みで楽は来るなり。や 安々と暮すは吾が身の徳ならず先祖と親のお陰と喜べ。ま 継父母(ままおや)に育てられたら尚更に産(うみ)の親より大切にせよ。け 家来とて邪慳にすれば御主人の恩を忘れて仇をするなり。ふ 不孝なる者は必ず天罰で身の行く末に良き事はなし。こ 此の節は議論に強く理に敗(まけ)ず文字明るき人ぞ賢き。え 益もなく使ふ金をば義理にせよまさかの時の用も便じる。て 出来るなら人の無心は聞てやれ吾れは云わずと窘(たひな)むがよし。あ 朝寝して居れば入り来る病神貧乏神が後押をして。さ 幸を招く基は朝晩に先祖に向ひて手をば合せよ。き 金銭は使ひ失(なく)せば人のもの手にある職は大事なりけり。ゆ 遊芸は扨(さ)て二の次よ算盤と読書(よみか)く事を第一にせよ。め 召使ふ年期者をば撫恤(いたはれ)よ吾が子の可愛さ思い比較(くらべ)て。み 身持ちよくするは其の身の徳なるぞ人も褒むれば親も喜ぶ。し 親切に人の世話をば仕て置けよ廻り廻りてよき事ぞ来る。ゑ 遠国の親戚とても間に合ず近くの他人は大事なりけり。ひ 百姓は種子を絶やすな公事するな鍬を放すな朝起きをせよ。も 物事は堪忍の二字を胸にあて短気慎め喧嘩口論。せ 聖人の教へと云ふも外(ほか)ならず質素倹約忠と孝行。す 末々の事を思へば大切に家業大事と勤め励めよ。京(みやこ) 今日よりも明日を大事と両親(ふたおや)に孝行せよや四方の人々。吉井勇が「京洛史蹟歌」として詠んだ歌があります。(資料1) 旅順より移し植えたる二もとの棗(なつめ)繁れり君はあらぬにつづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p129-1312) 吾妻(装甲巡洋艦)3) 乃木神社(伏見区) :「京都風光」 【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺乃木希典 :ウィキペディア 乃木希典の殉死 :「四国の山なみ」 後三典歌 私の詩吟日記 :「詩吟神風流藤が丘支部」 乃木三典歌 :Youtube村野山人 :「ぶらり重兵衛の歴史探訪2」 村野山人:「海鳴りやまず」 日露戦争特別展-公文書に見る日露戦争-:「国立公文書館アジア歴史資料センター」 旅順攻囲戦 :ウィキペディア 巡洋戦艦 板倉勝静 :ウィキペディア 板倉重宗 :ウィキペディア これ以上「乃木希典」氏に関する歴史捏造を許してはならない :「美しき世の面影」日露戦争多数の死者に自責の念 乃木大将「養子とらず家断絶」書簡 2012.1.14 :「J-CASTニュース」 乃木家と三吉家 :「幕末散歩」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 観桜 -1 宇治市植物公園のライトアップ へ観照 [再録] 観桜 -2 宇治・黄檗の丘陵にて へ観照 [再録] 観桜 -3 京都 仁王門通(頂妙寺・妙雲院)、琵琶湖疏水、白川にて へ観照 [再録] 観桜 -4 知恩院、円山公園、祇園白川、鴨川、高瀬川 へ観照 [再録] 観桜 -6 京都・伏見の水辺(1) 長建寺界隈と酒蔵、月見館 へ観照 [再録] 観桜 -7 京都・伏見の水辺(2) 蓬莱橋・京橋・出合橋に沿って へ観照 [再録] 観桜 -8 京都・伏見の水辺(3) 三栖神社御旅所(金井戸神社)、三栖閘門、伏見港公園 へ観照 [再録] 観桜 -9 京都御苑・京都御所の桜 へ観照 [再録] 観桜 -10 宇治川の畔 朝霧橋、浮舟像、興聖寺、朝日山と仏徳山&平等院
2017.03.21
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2013年12月、ウォーキングの例会で歩いた行程中、集合場所であるJR大津京駅から三井寺までについて、探訪と観照という観点でまとめていました。JR湖西線の「大津京」駅から三井寺に至る道程はなかなか興趣に富むところです。再録を兼ねて、ご紹介したいと思います。地図はこちらからご覧ください。 「大津京」駅は湖西線が開通したとき、「西大津」駅と称されていました。それが2008年3月に「大津京」に改称されたのです。ところが、ここに多少の問題が潜んでいます。「大津京」という名称は後世の歴史学者の造語であり、そう呼ばれた都はなかったのです。古代の史料で最も古い表記は「水海大津宮」であり、淡海大津宮、近淡海大津宮とも表記され、一般には「近江大津宮」と呼ばれているそうです。「近江大津宮は、文献史料から後の滋賀県錦織郷内に営まれたことがわかり、大津市錦織遺跡の遺構が宮の建物跡に想定されています。」(資料1) 大津京と言う言葉をそれらしく使うことはどうかと思いますが、中大兄皇子が667年に大津に宮を遷し、翌年ここで即位し天智天皇となったのは『日本書紀』にも記されていることです。歴史的名称と後世の造語をきちんと識別していくならば、それは時代の変遷と受け止めればよいのかもしれません。外国で都市の名称を改称するのと似たようなものかも。単に駅名を改称したくらいに考えておけばいいのでしょう。駅前にこの歌碑が建てられています。 万葉集所載のこの歌は私も好きな歌の一つです。この「紫野行き 標野行き」は、「天皇、蒲生野に遊猟したまふ時に」詠じた歌ということになっています。「蒲生野」は湖東の東近江市あたりなんですね。近江鉄道「市辺」駅の北方、船岡山近辺のことらしいので、湖西線の大津京駅前に建てられているのは、近江大津宮-天智天皇(中大兄皇子)-額田王-大海人皇子という繋がりの連想だけからなのかもしれません。湖西線と琵琶湖線・近江鉄道は方向がかなり違います。ここら辺りも、おもしろいところです。(大津京駅から船岡山に行くなんて、ちょっと大変なのですけど。)それはさておき、古代に想いを馳せるきっかけには、ロマンをかき立てられていいかもしれません。(ただし、地理的な位置などは誤解しないように注意が必要です。)(資料2)大津京駅前を出発して、三井寺に向かう途中でまず気づいたのがメインの道路(京阪電車と平行し大津市役所前を通る道路)から分岐する道の角のお地蔵様です。 地元の篤志家の方が建立されたのでしょうか。「みちばた地蔵」という石標があり、敷地の一角を切り込んだ形になっている感じのところにあります。 地蔵尊立像の隣には観音立像も安置されています。 近くには「四恩を讃う」「畜類の碑」という意味深い銘板が・・・・。「動物・植物之霊」碑には、「卍」と「羯諦」という文字が刻されています。卍は地蔵尊との関連でよく見かけるものです。ヒンドゥー教や仏教で用いられる吉祥の印なのですね。子供の頃から、意味も知らずに「まんじ」と呼んできました。サンスクリット語では「シュリーヴァトゥサ」と呼ばれるそうです。(資料3)その気になって調べてみるとおもしろいです。もう一つ、「羯諦」という文字を見て即座に連想するのは「般若心経」の経典末尾の真言の最初の言葉です。それがこの「羯諦羯諦」です。カタカナ表記すると、「ガテー ガテー パーラガテー パーラ・サンガテー ボーディ スヴァーハー」という語句の音が漢字に音写されて、「掲帝 掲帝 般羅掲帝 般羅僧掲帝 菩提僧莎訶」と記される部分。その冒頭です。三蔵法師玄奘訳の般若心経では「掲帝」という漢字が使われていますが、「羯諦」というのも別の音写形です。 gateは「往ける者よ」という意味だそうです。(資料4)脇道にそれますが、卍から連想してしまうのは、これを裏表に反転して45度回転させたマークです。そう、ヒトラーがナチズムのシンボルマークにしたあの記号です。考えてみると、結果的に吉祥をまさに逆転したことになりますね。残虐の象徴に。あの記号化はどこから考えたのでしょうか・・・・。(資料5)そして、道沿いに目にとまったのが車道と歩道の境界に一定間隔で建てられた石柱の頭頂面にはめ込まれた絵陶板と説明板です。「大津絵」として人気のあった絵柄が紹介されているのです。こういうのは郷土色が出てていいですね。代表的な絵柄が繰り返し使われています。こんな絵柄です。江戸時代には近江観光の手頃なお土産になったのではないでしょうか。勿論、現在のお土産にも・・・。大津絵は、江戸初期に、大津の追分、大谷あたりの宿場(東海道五十三次の一部)で、旅人に縁起物として売られたようです。もともとは仏画として描かれ、それが風俗画に転じていったそうです。土産物にもなり、護符の役割を担う側面もあったのでしょう。元禄4年(1691)、芭蕉48歳のときに、 三日口を閉て、題正月四日 大津絵の筆のはじめは何佛 (勧進牒) という句を詠んでいます。 (資料6)「藤娘」は、「かつぎ娘」、「藤かつぎ娘」とも。この題をとって勝井源八作、四世杵屋六三郎作曲の長唄の歌舞伎舞踊が創作されています。1826年(文政9)に江戸中村座で初演されたのです。本外題は「歌へす歌へす余波大津絵」(かえすがえすおなごりおおつえ)で五変化舞踊という趣向。現行の演目は、1937年に六代目尾上菊五郎が演じたときに演出が一新されたといいます。。「藤娘の精が娘姿になって現れ、夕暮れの鐘の音とともに消えていくという風趣の作品」になっているのです。(資料7) 「鬼と柊」鬼といえば節分会の豆を連想するだけですが、鬼の弱点が柊というのはこの絵で初めて知りました。調べてみると、柊の葉のトゲトゲが目に刺さるからだとか。柊は邪鬼の侵入を防ぐと信じられ庭木として表鬼門(北東)に植えると良いとされているようです。南天の裏鬼門に植えるというのは知っていましたが、表鬼門は知りませんでした。桃も弱点だとか。桃は邪気を祓うとされます。「桃太郎の鬼退治」というのも、桃が弱点だからというところもあるようですね。(資料8) 「長刀弁慶」 大津絵は衣川(岩手)の弁慶を想定しているようです。私は京都人としてまず、『義経記』にも記されている五条の橋での弁慶・牛若丸のことをすぐ連想します。右写真は、現在の五条大橋傍にある御所人形のかわいい弁慶・牛若丸像です。 三井寺には弁慶にまつわる大鐘(「弁慶の引き摺り鐘」)がありますね。京都・清水寺には、「弁慶の錫杖と高下駄」「弁慶の爪痕」という伝承のあるものがあります。これは何度も見ています。(資料9) 「文読む女」手許にMOA美術館に行ったときに購入した『浮世絵版画』という図録があります。これをみると、喜多川歌麿が婦女人相十品の一つとして描いた「文読美人」という作品が載っています。こちらは鈴木春信が「中納言朝忠(三十六歌仙のうち・見立寒山拾得)」という題で恋文を読む娘を描いたものです(ウィキペディアより)。こんなサイト記事もみつけました。こちらからご覧ください。 「瓢鮎図」 「瓢箪鯰」の絵からは、この国宝に指定されている如拙作「瓢鮎図」(妙心寺・退蔵院所有)を連想しました。退蔵院を訪れた時、その実物大の写真版の展示しかみることができませんでしたが。(資料10) 「雷と奴」雷と言えば、まず菅原道真の怨霊の仕業と言われた清涼殿への落雷、俵屋宗達の描いた「風神雷神図」並びに三十三間堂の風神雷神の木像を連想します。心学という言葉からは、江戸時代の石門心学と石田梅岩という言葉を思い浮かべます。その思想は浅学にして知りません。当時のいわゆる町民層に広がった修身的な学問分野だったと理解する程度です。(資料11) 「大黒」大黒さんは大抵の人がご存じでしょう。七福神の一柱である神様です。大黒天は仏教の天部に属する守護神。神道と結びつくと、大国主命と神仏習合して神道の神となります。京都では、松ヶ崎大黒天(妙円寺)、圓徳院の三面大黒天が有名です。わが地元宇治なら、興聖寺に安置されている三面大黒天を挙げておきましょう。興聖寺についてもブログ記事を再録して載せています。こちらからご覧ください。 (スポット探訪 [再録] 宇治 興聖寺細見 -1 3回シリーズでのご紹介)さて滋賀県ではどこでしょうか。探訪先で思い出すのが、石山寺大黒天です。拙ブログ記事「探訪 [再録] 滋賀・大津 石山寺細見」で少しご紹介しています(6回シリーズでのご紹介)。こちらからご覧ください。他にすこしネットで調べてみました。金剛輪寺本坊の妙寿院に大黒天半跏像、比叡山延暦寺の大黒天立像を見いだすことができました。妙寿院の半跏像は日本最古のものだそうです。(資料12) 「猫と鼠の酒盛り」 「為朝」 これらからは何も連想が働きません。為朝は、通称鎮西八郎で、豪勇かつ弓の名手だったという事くらいしか知りません。『保元物語』にはその生涯が記されているようです。(資料13)途中で、道路沿いにこの石標を見つけました。この奥に御陵があるようですが、ウォーキングのルートから外れるので立ち寄れませんでした。またの機会に一度訪れてみたいと思っています。弘文天皇というのは、大友皇子に対して明治3年(1870)に追贈された諡号です。第39代天皇となっていますが、実際のところ即位していたのかどうか・・・・。『日本書紀』では、斉明天皇-天智天皇-天武天皇-持統天皇、という系譜でしか記されていませんので、不詳です。後の時代の史料には記載のあるものもあるようですが。天智天皇の死後、大友皇子が大海人皇子に敗れるあの壬申の乱です。(資料14)この石標をみて、私には、再録にてご紹介した「スポット探訪 [再録] 石山・蛍谷からJR石山駅への道」と結びついてきました。そのブログ記事はこちらからご覧ください。 この石標の傍に、こんなおもしろいオブジェがありました。説明は何もありません。やはりどなたかの彫刻なのでしょうね。 総本山円満院門跡の門表が掛けられた山門の先に、三井寺への参道があります。大津京駅から三井寺へ至る道で撮った写真と雑感です。ご一読ありがとうございます。参照資料1)『新・史跡でつづる古代の近江』 大橋信也・小笠原好彦編著 ミネルヴァ書房 p165-1722) 万葉の森 船岡山 :「滋賀県観光情報」 万葉の旅 蒲生野 :「万葉の旅」 3) 卍 :ウィキペディア まんじ【卍】 :「コトバンク」 4)『般若心経・金剛般若心経』 中村元・紀野一義訳注 岩波文庫 p12 『自由訳 般若心経』 新井 満著 朝日文庫 p79 REC講座 「般若心経」購読 資料(山田明爾講師)より5) アドルフ・ヒトラー :ウィキペディア 6) 大津絵 :ウィキペディア 大津絵について :「大津絵美術館」 『芭蕉俳句集』 中村俊定校注 岩波文庫 p2207) 藤娘 :ウィキペディア 『歌舞伎鑑賞辞典』 水落 潔著 東京堂出版 p1728) 柊 :ウィキペディア 鬼 :「怪物森羅万象」 鬼の弱点 :「色々な」 9) 本堂と清水の舞台 :「清水寺」 弁慶の引き摺り鐘 :「三井寺」 10) 瓢鮎図 :ウィキペディア 画像を借用 11) 風神雷神図 :ウィキペディア 画像を借用 北野天神縁起絵巻(承久本)巻5 :「文化デジタルライブラリー」 石門心学 :ウィキペディア 石田梅岩 :ウィキペディア 12)大黒天半跏像 :「神仏います近江」 日本最古の大黒天半跏像(重文)特別公開 大黒天立像 :「神仏います近江」 13) 源為朝 :ウィキペディア 14) 弘文天皇 :ウィキペディア 弘文天皇長等山前陵 天皇陵 :「宮内庁」 【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺大津絵美術館 ホームページ 大津絵の店 ホームページ 坂東玉三郎 「藤娘」 Tamasaburo "Wisteria Maiden" part 1 :Youtube 坂東玉三郎 「藤娘」 Tamasaburo "Wisteria Maiden" part 2 :Youtube 鬼 :ウィキペディア退蔵院 :ウィキペディア 退蔵院 ホームページ 北野天神縁起絵巻 :「e国宝」 源為朝 :「コトバンク」 鎮西八郎為朝とは :「伝説・歴史ミステリー」 大島の祖-鎮西八郎為朝 系図源為朝 ~鎮西八郎~ :「日本の武将」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -1 大門、釈迦堂、弁財天社、教待堂、熊野権現社 へスポット探訪 [再録] 滋賀・大津 三井寺細見 -2 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2017.04.04
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前回、松井と大住の境界を過ぎ、新名神高速の高架下に進むところで終わりました。府道251号線(富野荘八幡線)を道沿いに進むと、八河原地区に入ります。バス停「八小路」があります。道路に面した大住交番が目印です。 その近くに「西八公園」というのがあります。目指すは両讃寺です。冒頭の地図に茶色の丸をつけたところ。後で詳細地図を確認すると八河原と八小路の境界となる道路を北方向に少し入った八河原側に、両讃寺が所在します。今回ご紹介するところはこちらの地図(Mapion)をご覧ください。 まずお寺の屋根が目に入りました。そして山門屋根の獅子口や築地塀の鬼板が私の趣味として目に止まります。 「両讃寺」も浄土宗のお寺で、山号は「發迎山(はっこうさん)」です。院号は「二尊院」。「發」は「発」の旧字体で、これは現世から極楽浄土へ送り出すこと、「発遣(はっけん)」を意味するそうです。「迎」は「来迎引接(らいごういんじょう)」という表現にある「迎」だとか。「阿弥陀二十五菩薩来迎図」にある「来迎」の中の「迎」です。「『来迎』は阿弥陀如来が極楽浄土に生まれることを願う者の前に現れる働きを表します」(資料1)とのこと。 まず境内に立っている駒札を載せておきます。この地域の領主大住家友が阿弥陀堂(西村)と釈迦堂(東村)の両堂を信仰していたそうですが、大住家友が織田信長に敗れると、両堂も荒廃します。この両堂の阿弥陀と釈迦の二尊をを祀り讃歎する寺が慶長6年(1601)に創建された浄土宗寺院です。願故上人が住持として当寺に迎えられた折りに發仰山二尊院両讃寺と号するに至ったそうです。二尊の安置から両讃寺と名づけられたのだろうと言われています。(資料1,2,駒札) 寺名の伝承を見聞し、私は京都の嵯峨野にある「二尊院」を連想しました。 獅子口の綾筋の下、中央に六角形の紋がレリーフされています。寺紋のようです。 屋根の飾り瓦 山門の木鼻や蟇股はシンプルな造形です。本堂でご住職からこの寺に近辺の廃寺から諸仏がこちらに遷座されてきたお話を興味深く伺いました。大小様々な諸仏が移ってこられた結果、阿弥陀如来と釈迦はこの両讃寺の本尊で、それぞれ三尊像の形式で祀られていますが、それ以外の十仏が一堂に会されているのです。弥勒菩薩がここに加われば、十三仏が勢揃いということになるとか。本堂正面に向かって、右脇陣側に本堂の大きさと対比すればいささか大きすぎる歳月を経た厨子が置かれています。その厨子には、薬師如来立像が秘仏として鎮座されているそうです。もとは、福養寺薬師堂本尊だった仏像だとか。かつてかなり昔に、地元の人々の要望と必要に迫られて開扉し、この薬師如来に祈願されたことがあったそうです。その時、霊験とともに悲劇譚も併せてあったと伝わるとか。その具体的な内容は、両讃寺を拝観されて、お聴きください。薬師如来立像は9世紀の造立と推定される一木造の像だそうです。(資料1)余談です。十三仏とは? 調べてみると、次の十三仏をいうそうです。虚空蔵菩薩。大日如来。阿?如来。阿弥陀如来。勢至菩薩。観音菩薩。薬師如来。弥勒菩薩。地蔵菩薩。普賢菩薩。文珠菩薩。釈迦如来。不動明王。そして、この十三仏が葬儀の後の初七日から三十三回忌までの追善供養の忌日と本地仏並びに垂迹王と関連づけられています。垂迹王の最初の十王が地獄思想と絡む十王思想です。代表例が閻魔王で、閻魔王の本地仏が地蔵菩薩とされています。(資料3)本堂の内陣部分は撮影禁止だったので残念ですが、外陣側は撮らせていただきました。 外陣と内陣との境の欄間部分に、龍像の彩色透かし彫りが施されています。松井の来迎寺とともに、この両讃寺でも龍像を眺めることになりました。浄土宗や浄土真宗系のお寺で、欄間に鳳凰・瑞鳥や天女像を透かし彫りにされているのをよく見ていますが、龍を装飾されている事例の記憶がありません。浄土宗の二寺で続いて龍像の彫刻を眺めました。天神社の頭貫にも龍像が描かれていました。「竜神」は「りゅうまたはへびの姿をして雨・水を支配し、仏法を守護する神。竜王」(『日本語大辞典』講談社)とあります。農業主体だったこの地域の特徴がこんなところにも現れているのでしょうか。尋ねてみたところ、水の支配から、火除け・火災封じに通じ、お堂を護るという意味合いが込められているのではないかとのことです。建物の木材の色合いと違うのは、以前の建物から継承して使われているものだとか。勿論、竜(梵名ナーガ、竜王)は仏教では天部の仏像群の中で、阿修羅と同類の「八部衆」に位置づけられ、八神の一つです。「龍蛇崇拝のナーガ(龍)族が帰仏したため仏教に取り入れられたとも推定され、法華経の龍女成仏は著名である」(資料4)という説明も見つけました。経典には竜に関する説話が多く記されているそうです。仏法を守護する八大龍王というのもあります。 拝観して、印象深かったのは外陣の四隅の上部に四天王像が安置されていたことです。外陣に四天王像を配置することはよくある例のようですが、私には初実見でした。今までは大寺において本尊の周囲に四天王像が配置されている例や、内陣を囲む四方の柱に四天王の名称を記した木札が掛けるという略式の配置の例を見聞するだけでしたので。この四天王像は、「頭部は平安後期造立と推定される。福養寺から移された」(資料1)ものだそうです。本堂を出て、境内で目に止まったものをご紹介します。 傍に立つこの駒札「石造十一面観音」をお読みください。 上掲石造十一面観音像の近くですが、築地塀の傍に石造仏像が建立されています。時間がなくて傍まで行けず記録写真だけ撮りました。上掲の駒札「両讃寺」にも背後に石像が写っています。この両讃寺にはまざに様々な仏様が寄り集まっています。これからも引っ越ししてこられる仏様があるのかもしれません。居心地が良いお寺なのかも・・・・・。 お寺を出る前に、もう一カ所。山門を入ったすぐ左側の境内の一隅です。そこに無縫塔(卵塔)が並んでいます。無縫塔ですから、この両讃寺の住持のお墓なのでしょう。着目したのは右から2つめです。これだけは異形です。その姿から連想したのはあの「閻魔王」。そうであるかどうかは未確認ですので、単なる印象だけですが・・・・・。ここに並んでいるのが、興味深いところです。この後、お寺の前の同じ道を戻り府道を横断してそのまま南に進みます。 道路脇に「大住村役場跡」という石標を見かけました。大住小学校の校門前を通り過ぎます。 大住小学校あたりから北東方向を遠望した風景です。 小学校の南隣が大住幼稚園ですが、その南側にこの石碑が建立されています。「戸山流居合道発祥之碑」と題された記念碑です。「当流は大正14年陸軍戸山学校に始まり、昭和15年同校森永清剣術科長が中心となって改定、公布された居合を源流とする。 昭和39年田辺町健康村に在住された森永師は平和の時代に相応する居合道に昇華、老若男女に学べる戸山流を確立普及された。ここに我々は文化遺産として当流の継承と発展を祈りこれを建てる」と記されています。平成6年(1994)4月の建立です。居合道が昭和時代に確立されたというのがおもしろいと感じました。 発祥記念碑のすぐ先に、「月読神社」の一の鳥居が見えました。 石鳥居の手前、向かって右側には社号碑が立ち、左側には「隼人舞発祥之碑」が建立されています。 この駒札が立っています。この神社は、貞観元年(859)に正五位下に叙せられた「樺井月読社」、『延喜式』神名帳所載の「月読神社」に比定される式内社です。江戸時代には御霊神社とも記されているといいます。(資料1)拝殿側面に掲げられた「月読神社々記」によれば、「平城天皇の大同4年、天皇譲位の後、宮殿を平安京より平城京に遷されんとせられし時、造宮使がその途、大住山において霊光を拝し、ここに神殿を造りしに創まるという。貞観元年8月に月読宮と称え、承暦元年には天下疱瘡に悩むにつき勅使産幣ありという。」と記されています。中世には兵乱を因として社殿の焼失、その後の復興を繰り返してきた歴史があるそうです。また、このあたりの大住地域は平安時代末期以降室町時代末期まで奈良興福寺の寺領になっていたところだそうです。また、明治維新の折には、鳥羽伏見の戦いを避けるために石清水八幡宮の御神体が一時この神社に遷座され、当時存在した神宮寺の薬師堂に御神宝が安置されたという歴史的経緯もあるとのこと。(駒札、月読神社々記より) 左は「隼人舞発祥之碑」の裏面です。銘文が刻まれています。この碑の傍に右の「大住隼人舞」の標識があり。この舞は市指定文化財です。表示銘板は市制定前の田辺町時代の指定表記のままですが。裏面によると、昭和47年(1972)4月に大住隼人舞保存会が結成され、昭和50年(1975)12月19日に当時の田辺町により無形文化財の指定第1号に登録されたそうです。この記念碑は平成2年(1990)11月に建立されています。 傍にこの駒札「隼人舞伝承地」が立っています。この駒札の要点は次の事項です。*7世紀頃に九州南部の大隅隼人がこの地域(大住)に移住してきた。*隼人舞は大嘗祭(天皇の即位時)他の機会に朝廷で演じられた。*隼人舞は日本民族芸能の二大源流のうちの一つ。他は岩戸神楽。起源は神話にあり。*月読神社で奉納舞として継承されてきた。20世紀に継承者が隼人舞を復元された。*月読神社例祭の宵山の日(10月14日)に大住隼人舞が保存会により奉納されている。また、駒札によると、能楽五座に含まれる外山座は月読神社の外山神楽座であると、文学博士志賀剛氏(1897~1990)が論じていることも記されています。 一の鳥居を過ぎると境内地は少し下ったところになり、二の鳥居があります。 手水舎を通り過ぎ、まずは社殿に。 拝殿 祭神は、月読尊(ツキヨミノミコト)・伊邪那岐尊(イザナキノミコト)・伊邪那美尊(イザナミノミコト)。拝殿の先にある現在の本殿は、東に面した一間社春日造、銅板葺(もとは桧皮葺)の建物です。春日造とは奈良の春日大社本殿の形式です。大住地域の多くが興福寺の荘園だったことがたぶん本殿の形式に影響しているのでしょう。現在の本殿は明治26年(1893)に名古屋の帝室技芸委員・伊藤平左衛門により設計され、建立されたものだそうです。旧来のものを踏襲していると考えられるとか。 「本殿を囲む瑞垣の正面に、鳥居を配置する珍しい構造が見られる」(資料5)のです。 長剣梅鉢紋が飾り金具似見えます。 飾り瓦 拝殿屋根の鬼板境内社がいくつかあります。 御霊神社「少名毘古那神(スクナビコナノカミ)を祭神とし、薬の神様として信仰を集め、又クサガミさんの名で知られている。腫物に霊験有りと言う」と記された説明が瑞垣の正面の門註に掲げてあります。この末社本殿は春日見世棚造で、江戸前期の建立と推定されているそうです。(資料1) 天満宮社務所の西側、拝殿の北東に位置します。左斜め後に見えるのは「八幡宮拝所」と刻された石碑です。 境内には池が設けられていて、その中島に「弁財天」が祀られています。 池から少し離れたところに、稲荷鳥居が並んでいます。稲荷社が祀られているのでしょう。神社自体は未確認です。ここは二の鳥居の手前、向かって左側に位置します。 「事比羅神社」の木札が掛けてあります。祭神は事代主神です。 池の端の一隅には、「神武天皇遙拝所」と刻された石碑もあります。調べてみると、奈良県橿原市に「神武天皇畝傍山東北陵」と称される円丘の御陵が宮内庁により管理されています(資料6)。またすぐ傍には橿原神宮があります。祭神は神武天皇と皇后の媛蹈韛五十鈴媛命(ヒメタタライスズヒメノミコト)です。(資料7)つまり、奈良県橿原市に所在の御陵と神宮の方向を向かい遙拝する場所ということになります。今回、時間がなくて見落とした遙拝所と境内末社が他にもあるようです。まとめをしていて気づきました。残念。 月読神社本殿に向かって左方向、境内の南西角付近に「元薬師堂跡」の石標が立っています。この石標の東方向に上掲の池があるのです。ここは、「薬師堂」という名の通り、神宮寺だった宝生山福養寺のお堂の一つでした。福養寺は明治の神仏分離で廃寺となります。薬師堂の本尊は上記「両讃寺」に移されたのです。かつての福養寺は、奧ノ坊・新坊・中ノ坊・西ノ坊・北ノ坊(大住小学校がその跡地)・東ノ坊の6坊が備わっていたそうです。これらもすべて廃寺となりました。 宝生座発祥の地碑面には次の説明が記されています。「月読神社の神宮寺を宝生山福養寺といい、老松の茂る池には亀が遊んでいた(今の大住中学の地)。この神社と寺に奉納した能楽座を宝生座(外山座とも)と称した。」 平成2年(1990)2月に建立され、志賀剛文学博士の撰文によるものです。上掲「隼人舞伝承地」には大和五座と記されています。大和地方には緒座が存在したのでしょうが、「大和四座」として4つの猿楽座が有名です。現在の能楽の源流となった四座です。坂戸座・円満井(えまい)座・外山(とび)座・結崎(ゆうざき)座を言います。「鎌倉時代末期~室町時代初期に、南都の春日神社、興福寺に奉仕する奉仕者集団(職業的猿楽師)として、興福寺の修二会や春日神社の薪(たきぎ)猿楽などを演能」した集団です。坂戸・円満井・外山・結崎はそれぞれ後の金剛・金春・宝生・観世の各座となります。(資料8)境内には、常緑高木でヤマモモ科の木、ヤマモモ(山桃)の大樹があります。100年以上の推定樹齢の大木です。「京田辺の未来に継ぐ古木・希木」の一つに挙げられています。余談です。私が「月読神社」という名称とその存在を初めて知ったのは、京都の松尾神社とその周辺の歴史探訪の講座に参加したときでした。そのとき目にした駒札「月読神社境内」の冒頭に次のように記されていました。「月読神社は延喜式では明神大社の一つに数えられる神社で、元は壱岐氏によって壱岐島において海上の神として奉斎されたものです。」と。月読神社が京都の地に創建されるに至る過程の一つとして、この大住に月読神社が祀られたのかもしれません。壱岐島由来の神ですから九州から移住してきた大隅隼人の人々には受け入れやすい神だったのでは・・・・。人々の移動・移住と神の伝播ルートを重ねて想像したくなります。月読神社を出て、「大住車塚古墳」に向かいます。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「京都の歴史散策35 ~松井・大住を歩く」 2018.5.10 (当日配布のレジュメ 元龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏 作成)2) 両讃寺沿革 :「発迎山両讃寺」3) 『仏像を読む』 佐伯快勝著 学研文庫 p158-1624) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p5385) 「月読神社」 当日、境内で入手したリーフレット6) 神武天皇畝傍山東北陵 天皇陵 :「宮内庁」7) 橿原神宮 ホームページ8) 大和四座 :「コトバンク」補遺二尊院 ホームページ 二尊院について 京田辺市月読神社 大住隼人舞です.:「ゴールドメイト退会者、金色のソーマ酒」大住隼人舞 :「京都府観光ガイド」隼人舞 :「京田辺市立大住中学校」第225回 神武天皇陵の謎 :「邪馬台国の会」橿原神宮・神武天皇陵 :「邪馬台国大研究」宝生流とは :「宝生会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -1 天神社、仲谷古墳群、女谷・荒坂横穴群、松井横穴墓群 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -2 松井の来迎寺 へ探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -4 大住車塚古墳・澤井家住宅・天津神社ほか へこちらもご覧いたあだけるとうれしいです。探訪 [再録] 京都・洛西 松尾大社とその周辺 -3 月読神社・最福寺(延朗堂)・地蔵院ほか
2018.05.27
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京阪電車宇治線、JR奈良線の両方に「六地蔵」という駅があります。京阪電車の駅から北西方向に約600mほどのところに「六地蔵」交差点があります。そこは伏見区桃山町東町です。交差点の北西側に「大善寺」が位置します。南北の通りの東側歩道から撮ったのが冒頭の景色です。近世は宇治郡六地蔵村と称し都市近郊の集落でした。昭和6年(1931)に京都市に編入され伏見区桃山の一部になっています。大善寺は桃山町西町に位置します。冒頭の門は、大善寺の境内としては東門にあたるようです。 門の傍に「六地蔵尊」と大書した角柱形の大きな看板が立っていて、その南側にお寺の案内掲示が2つ設置されています。後で触れたいと思います。案内掲示の少し南側にいしぶみが建てられています。 この道標の東面には「みき京みち 法名未徹」と刻されています。つまり、冒頭の景色に見える東門前の道路が京道に相当することになります。道標の南面には「ひたりふしみみち」と刻されています。六地蔵交差点で西方向の道路が伏見道です。大善寺の正門はこの伏見道に面しています。これも後ほどご紹介します。右側の写真は、この道標の北面です。「ひたり わうはく/うち 道」と刻されています。つまり、六地蔵交差点を伏見道とは逆に左(東)方向に進めば、黄檗/宇治に至るという表示です。(資料1)古来、六地蔵は、京都より宇治を経て大和に至る街道の要所として早くから開発されたところでした。付近には大和街道に設けられた「木幡ノ関」<=伏見山(桃山)の東南端にあたる>というのがあったそうです。(資料2,3) 上掲写真に見える案内板の一つの説明文の冒頭に、六地蔵が交通の分岐点だったことが記されています。 東門の正面から境内を眺めますと、北側に本堂・庫裡があり、南側手前に鐘楼、そして正面の西側にお堂が二つ並んでいます。左(南側)が六地蔵堂、右(北側)が観音堂です。序でに、 こちらは2013年5月に大善寺を訪れた時に撮った東門です。右は境内から眺めた以前の門です。今は、門が現代風に様変わりしています。 境内に入り、北側に目を転じると、東側に庫裡があり、公の玄関となる建物を挟んで西側に本堂が並んでいます。 庫裡(寺務所) 公の玄関口 入母屋造の屋根の棟の鬼板には菊花文がレリーフされています。 参道を西に進むと、本堂が見えます。松の傍に石碑があります。「臥龍松」と刻されています。こう称される老木の松がここにあったのですが、今は二代目の松に転生しているといいます。(資料4) 自然石を穿って手水鉢にした様な石や五輪塔の残闕の塔身(水輪)を積み上げた石塔などを配してあるのがおもしろい。 本堂は南面しています。近年に一部修復工事が行われたようです。 2013年5月に訪れたときに撮った本堂です。 本堂前に、この香炉が新しく設置されていました。 私が惹かれたのはこの香炉の口縁上部に設けられた六体の小さなお地蔵菩さまです。 六体すべては同じスタイルなのですが、お顔を含めてその彫りが少しずつ違っているのです。手彫りの仕上げなのでしょうね。 本堂は間口が六間で入母屋造の屋根の側面を正面にした形式です。そこに唐破風屋根の向拝が付いています。正面に「浄妙殿」と記された扁額が掲げてあります。この本堂は、宝永年間(1704~1710)に山科の勧修寺の宮殿を下賜されて移築したものと言います。(資料3,4) 趣の異なる蟇股が二段に組み込まれています。上の蟇股はかなり欠損が見受けられます。向拝の頭貫の装飾はシンプルで、木鼻の造形も簡素化されています。 浄土宗のお寺で、正式には法雲山浄妙院大善寺と言います。通称として「六地蔵」と呼ばれています。寺伝によると、705年(慶雲2年)藤原鎌足の子、定慧によって法雲寺として創建されたと言います。そうだとすると、飛鳥時代文武天皇の時代ですから、仏教が広がる初期段階ということになります。852年(仁寿2)に、三井寺の智証大師が勅を奉じて伽藍を整備し、天台宗に改めたそうです。応仁・文明の乱後に寺は衰退しましたが、1561年(永禄4年)3月4日、頓誉琳晃上人が正親町天皇の勅を奉じてこの寺を浄土宗として再興され、大善寺と改められたと伝えられるそうです。(資料3,4) 本堂前に、神前灯籠形式の石灯籠が置かれているのが興味深いところです。右の石標が何を意味しているのか不詳です。穿たれた円形の穴の周囲には花弁様の薄肉のレリーフがほどこされています。まずは、探訪の主目的である地蔵堂を拝見に向かいました。 お堂は六角堂です。お堂の前に跪き、熱心に祈っているおばあさんがいらっしゃいました。 「六地蔵堂」と記された扁額が正面に掲げてあります。 お堂の傍には、「根本 六地蔵尊」「元勅願所 大善寺」と刻された石標が献燈されています。正面の格子戸から、堂内を拝見しました。 堂内の床面は四半敷に敷瓦(甎)で舗装されています。 正面の奥に檀が設けられていて、その中央に地蔵菩薩像が安置されています。六地蔵の名の起こりとなった地蔵菩薩像(重文・平安)です。像の上半身だけを拝見できる形です。その両側に、左に黒い色の厨子、右には小ぶりな赤漆塗りと思われる厨子が置かれています。大きな黒い厨子の前には、「小野篁」という木札様のものが置かれています。小野篁の像が安置されているとのこと(資料4)。右の厨子は不詳です。 「像高1.6メートル、寄木造り、右手に錫杖、左手に宝珠を持つ等身像」(資料2)です。この像は、平安時代の初め852年(仁寿2)に小野篁が木幡山から桜の木の一木を切り出して、その一木から六体の地蔵を作り、この地に納めたとされていて、その一体がこの地蔵菩薩像だと言います。小野篁は、849年(嘉祥2)48歳のとき、熱病を患い意識を失い、冥土で地獄に落ち苦しむ人々を救っている僧に出会ったのです。その僧が生身の地蔵菩薩だったとのこと。地蔵菩薩は、小野篁に次のようなことを語ったとか。上掲案内板の記載を以下に転記します。「この地獄だけでなく、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上など六道の迷いの世界を巡りながら縁のある人々を救っている。全ての人々を救いたいが、縁の無い人を救う事はできない。私にとっても残念な事だ。貴方はこの地獄の苦しい有様と地蔵菩薩の事を人々に知らしめて欲しい」と。「1157年(保元2)後白河上皇の勅命により、平清盛が西光法師に命じて、京都の街道の入り口六ヶ所に六角堂を建て、一体づつご尊体を分置されました。最初に六地蔵巡りをされたのが、西光法師といわれています。これが六地蔵巡りの始まりです」(案内板より一部転記)この引用部分と同趣旨のことが、江戸時代に出版された『都名所図会』の「六地蔵」の項に記されています。「本尊地蔵菩薩は仁寿二年小野篁冥土赴き、生身の地蔵尊を拝し、蘇りて後、一木を以て六体の地蔵尊をきざみ、当寺に安置す。保元年中に平清盛西光法師に命じて都の入口毎に六角の堂をいとなみ、この尊像を配して安置す。今の地蔵巡りこれよりはじまる」(資料5)また、この主旨の最初の記録は、13世紀半ばに成立した『源平盛衰記』にあると言います。(資料4)西光法師(?~1177)とは、平安時代後期の政治家藤原師光のことだそうです。後白河法皇の近臣として威をふるった人物ですが、鹿ヶ谷で平家追討をはかり清盛に殺されたと言います。(資料4) 屋根の鬼瓦六地蔵巡りについては、別の説もあります。上記『源平盛衰記』には「西光卒塔婆事」に西光法師が地蔵信仰から「七道ノ辻ゴトニ六体ノ地蔵菩薩」をつくって巡礼したとあるそうです。つまり、「四宮川原、木幡ノ里、造道、西七条、蓮台野、ミゾロ池、西坂本」の七箇所とされているのです。それぞれに「六体」の地蔵をつくったとも読める文章が記録されているとか。現在行われている六地蔵めぐりを中世に始まったものとするには慎重な意見が出されていると言います。そして、寬文5年(1665)「晩秋仲浣日」の奥書がある「山城州宇治郡六地蔵菩薩縁起」において、六地蔵めぐりについて触れていることに注目し、「寬文年間になってから伏見六地蔵大善寺の住僧が、企画発案者となって他の五箇所の仏寺に呼びかけ、賛成を得てこの洛外六地蔵参りという地蔵仏事を作り上げたものと考えられる」(真鍋廣済 1960)と論じられているそうです。また、この縁起を翻刻紹介されている書物では、「本縁起は当時の大善寺僧の発案にかかり、時の権力者伏見町奉行水野石見守忠貞の奥書によってこれに権威づけしようとしたものではないか」(梅津次郎 1957)という見解も提起されているとか。さらに『浄土宗寺院由緒書』という史料の六地蔵大善寺の項を参照併用し、その発案者が寬文5年当時の大善寺住職であった諦誉と推定する見解が出されています。(資料6)いずれにしても、地蔵信仰の広がりの中で、江戸時代初期に京都において現在の六地蔵巡り形式の原型が確立されることになったということでしょう。一方、同時期に、三十三所観音巡礼になぞらえ、京都では「洛陽三十三所観音巡礼」が始まっていると言います。また、「洛陽二十四箇寺地蔵廻」も始まっていると言います。この「洛陽二十四箇寺地蔵廻」には、六地蔵巡りの六ヶ所は含まれていません。(資料6)それでは、六地蔵堂の北隣りにある観音堂の拝見に移りましょう。つづく参照資料1) いしぶみ 京道/伏見道 [道標] :「フィールド・ミュージアム京都」2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p3623) 『京都府の歴史散歩 中』 京都府歴史遺産研究会編 p244 4) 『新版 京都・伏見 歴史の旅』 山本眞嗣著 山川出版社 p90-925) 『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p976) 『京都地蔵盆の歴史』 村上紀夫著 法蔵館 p25-31 補遺六地蔵めぐりのまわり方 :「Amadeusの『京都のおすすめ』」京の六地蔵巡り :「京都観光チャンネル」洛陽三十三所観音霊場巡礼 ホームページ洛陽三十三所観音霊場 :「京の霊場」地蔵二十四ヶ寺 京都名所案内図会 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。スポット探訪 京都・六地蔵尊 -1 洛南 桂地蔵(地蔵寺)スポット探訪 京都・六地蔵尊 -2 洛南:大善寺・恋塚浄禅寺、徳林庵、洛中:上善寺 探訪 [再録] 京都 鳥羽作道を歩く -1 鳥羽殿跡、鳥羽伏見戦跡、恋塚浄禅寺探訪 京都・洛中 寺町北部の寺社を巡る -1 御土居跡・上善寺探訪 [再録] 京都・山科 御陵、安朱を歩く -3 諸羽神社、徳林庵、山階寺跡
2019.10.24
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京田辺市をふたたび探訪したことは、先日「田辺を歩く」という形でご紹介しました。その際、併せてロード・ウォッチングをしました。そこで目に止まったマンホールのふたなどをご紹介します。冒頭の汚水ふたは、市の花「ひらどつつじ」をデザインしたふた以外に、幾何学的なデザインのふたで目に止まったものとして最初にご紹介していたものです。「観照 マンホールのふた見聞考 -29 京都府京田辺市の汚水ふた」は、こちらからご覧ください。対比的に併せてご覧いただくと、少し広がりとその変化を眺めて、お楽しみいただけることでしょう。 今回目に止まったのを整理してみますと、まずこの汚水ふたです。同形意匠ですが、「汚水」という文字だけが陽刻されています。 こちらは、冒頭と同一発想ですが、違いは年号(たぶん)です。4桁の数字が、1984,1987となっているのを見つけました。1980年代には、何時敷設したかを識別できるようにしようという意図でもあったのでしょうか。 小さなサイズのふたですが、こんなデザインの汚水ふたも目にとまりました。この意匠の大型ふたは一つも目にする機会はありませんでした。小型のふただけの意匠なのかもしれません。 こちらは2つめに取り上げた汚水ふたの雨水バージョンという形です。各所の小円の中央に孔が穿たれています。 こちらは、「バルブ」という文字の直下に「水道」と表記されているふたです。下半分に市名が大きく陽刻されています。前回はこの部分にツツジの花柄がデザインされていました。対比的にご覧いただくと、相違点がいろいろ発見できて楽しめますよ。 田辺町時代に設置された上水道「仕切弁」のふたに気づきました。同心円をモチーフにつかうデザイン発想はこの頃からあったようですね。 「量水器」と陽刻された上水道用のふたです。今回初めて目に止まりました。いわゆる水道メーターのことですね。「管路を流れる液体の体積を積算指示する計量器」(資料1)です。様々の都市域でウォッチングしてきましたが、公道上で量水器と明記されたふたを見るのは初めてです。 今回消火栓のふたで、消防自動車を中央に描き、市の花を周囲に配したふたが目に止まりました。消火栓ふたに消防自動車を描くことは各都市で共通化されているようです。 「防火水槽」と明示されたふたも目にとまりました。 これも、私にとっては今回目に止まった変わり種のふたです。「空気弁」と陽刻されています。何だろう?調べてみました。「管内の空気を排除するとともに管内へ空気を吸引するためのバルブが中に入っています。」とのこと。(資料2)今回目に止まった「ふた」はこんなところです。終わり。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 量水器 :「コトバンク」2) 道路にあるフタな~んだ? :「水の情報誌 Water Talk」補遺バルブにはどんな種類があるの? :「日本バルブ工業会」 玉形弁 仕切弁 ボール弁 バタフライ弁 逆とめ弁 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 マンホールのふた見聞考 ウォッチング掲載記事一覧 探訪 京都府・京田辺市 田辺を歩く -1 新田辺駅から棚倉孫神社に 5回のシリーズでご紹介しています。探訪 京都・京田辺 松井・大住を歩く -1 天神社、仲谷古墳群、女谷・荒坂横穴群、松井横穴墓群 4回のシリーズでご紹介しています。
2020.03.15
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六條院春の御殿の寝殿の西廂と北側の孫廂では、「歳暮の衣配り~源氏ゆかりの女君への歳暮~」というテーマが設定されています。そして、具体的には、まず西廂で、衣配りの前段となる装束の準備段階、「裁縫の工程」が具現化され展示されています。 砧(きぬた) 砧は「砧板」の略だそうです。「織物を織り上げたのち、織機から下したままでは堅くてなじまないので、織目をつぶして軟らかくし、艶を出すためにする作業」(資料1)を意味し、またその道具をさします。織り上げられた絹を円棒に巻き、軸を回転させながら木槌で打つ姿が具現化されています。木槌で難解も打って柔らかくし、艶を出している工程です。砧打ちのことは、「夕顔」の巻で、源氏が中秋の夜に夕顔の家に宿るという個所に記述されています。「白栲の衣うつ砧の音も、かすかに、こなたかなた聞きわたされ、空飛ぶ雁の声とり集めて忍びがたきこと多かり」(資料2)と。(布を打つ砧の音も、かすかに、あちらこちら一帯に聞こえ、それに空飛ぶ雁の声が加わって、あれこれがいっしょになり、こらえがたく秋のあわれをそそられる)夕顔が亡くなった後、源氏は病を患い、病が癒えた後に、右近に夕顔の素性を聞くという場面へ展開します。ここでもその最後の個所に、「耳かしがましかりし砧の音を思し出づるさへ恋しくて」と砧が出て来ます。(資料2)また、「玉蔓」の巻では、源氏が正月の衣裳をととのえて方々に贈る準備をする場面が描かれています。ここに「ここかしこの擣殿(うちどの)より参らせたる擣物(うちもの)ども御覧じくらべて、濃き赤きなど、さなざまを選らせたまひつつ」という文が記されています。手許の本の頭注に、擣殿とは「衣を打つために設けた工房。衣の光沢を出すため砧で衣を打つ」と説明があります。(資料3) 布を裁つ刀子を手にし、裁板(たちいた)の上に体重をかけて布を裁つ姿が具現化されています。『石山寺縁起』(鎌倉時代)には、侍女たちが裁縫に勤しむ姿や布を裁つ様子が描かれています。(資料1) 布を裁つ作業の左側には、二人が組みになり「地直し」をしています。 反物の整理です。 さらにその左側の二人は、「綿入れ」をしています。『満佐須計(まさすけ)装束抄』(平安後期作)には、女房装束のかさね色目の段に、「十月一日より練衣綿入れて着る」と記されているそうです。更衣の頃より防寒のための綿入れ装束が用意されていたことが窺える記述です。(資料1)その二人組の左に 「縫う」つまり裁縫に勤しむ女房がいます。「野分」の巻では、源氏が夕霧を従え、花散里を見舞います。中秋八月、嵐の翌日朝から肌寒くなった中で、源氏が東の方(花散里)へ渡る場面です。この最初に「物裁ちなどするねび御逹、御前にあまたして、細櫃めくものに、綿ひきかけてまさぐる若人どもあり」という情景描写があります。物裁ちつまり裁縫などをしている老女房たち、細櫃めいたものに真綿をひきかけていじっている若い女房たちが大勢いるという描写です。(資料3)ここに裁縫と綿入れの作業をしている場面が描写されています。また、「早蕨」の巻には、中の君が宇治にとどまる弁と別れを惜しむという場面で、「皆人は心ゆきたる気色にて、物縫ひいとなみつつ、老いゆがめる容貌(かたち)も知らず、つくろひさまよふに」と、弁の周りに居る人々を描写しています。「ほかの人はみな満足の面持で、裁縫に精を出しては、老いて醜くなったおのれの姿をも忘れて身づくろいに余念もないが」という一文です。ここにも裁縫に勤しむ勤務姿が描かれています。(資料4)土佐光則筆『源氏物語絵巻』(徳川美術館所蔵)の「早蕨」にその場面が描かれています。わかりやすい説明図を見つけました。こちらからご覧ください。 手前では「ひねる」という作業をしています。「裏地のない単仕立ての裁ち生地の端を、もち米を練って作った糊(続飯)をつけ、絎けずに『ひねる』という仕立て」(資料1)をする作業です。「手習」の巻で、浮舟が自身の法衣の衣を見て母を思い涙すという段に、次の描写があります。裁縫の工程のいくつかを含み描写されています。「かの人の言ひつけしことなど、染めいそぐを見るにつけても、あやしうめづらかなる心地すれど、かけても言ひ出でられず、裁ち縫ひなどするを、『これご覧じ入れよ。ものをいとうつくしうひねらせたまへば』とて、小袿の単衣奉るを」という中に、染め・裁ち縫ひ・ひねらせ、という言葉がでてきます。(あの紀伊守が頼んでいった布施の装束などを、染めて用意するのを見るにつけても、奇妙な、こんなことはめったにあるものではないといった心地がするけれど、とてもそれを口にするわけにはいかない。人々が裁ち縫いなどをしているのを見せて、尼君が『あなたもお力添えください。ほんとにお裁縫がお上手なのですから』と言い、小袿の単衣をお渡しするのを)(資料5)この鍵括弧の「うつくしうひねらせたまへば」というのは浮舟が巧みであると述べている個所です。 簀子の左端(北端)では、「染め」の作業をしています。ここで冒頭のテーマに戻ることになります。「玉鬘」の巻の一部を上記していますが、年末には、正月の衣服を用意することが恒例だったのです。「当時は衣服はそれぞれの家で調達され、きちんとした家庭ほど、心遣いの行き届いた主婦が采配し、染色や裁縫に有能な女房が揃っていた。『帚木』巻で、左大臣家で光源氏の装束を、『よろづの御装ひ、何くれとめづらしきさまに調じ出でたまひつつ』とある」(資料6)一方、当日入手した資料には、「平安時代、貴族の妻の重要な役割は、装束の調達であった」とこのテーマの冒頭に記し、有名な雨夜の品定めの個所を引いています。妻にする理想的な条件の一つとして「龍田姫の腕前の染色技術と織女星に負けない裁縫技術を持つ女性」であることが語られていると。(資料1) 寝殿北側の孫廂の全景です。孫廂の内側が北廂です。 上﨟の女房が、「伏籠」を使って装束に自分好みに調合した香りを焚き染める作業をしています。日常的な習慣です。「自らの所作の後にどのような香りを残すか、それぞれが心配りしていました」(説明パネルより)「伏籠」の続きには、「玉蔓」の巻に記された源氏ゆかりの女君の装束が具現化されています。歳暮の衣配りとしての装束の選択結果のオンパレードといえます。詳しくは館内で装束の実物をご覧いただき、展示説明パネルをお読み願うこととして、簡単なご紹介をします。 明石の姫君 ~六條院春の御殿に住む源氏の娘~桜かさねの細長に赤い装束を加えたという装束 末摘花 ~二條東院に住む源氏の妻~萌黄の匂かさね。優婉な由緒ある文様・・・末摘花にミスマッチかと源氏が思わず微笑む。 玉蔓 ~六條院夏の御殿に住む源氏の養女~紫の上が装束から頭中将を連想。とても美しいが優美さに欠ける装束だと。二つ色かさね。 花散里 ~六條院夏の御殿に住む源氏の信頼厚き女性~浅縹色(あさはなだいろ)に州浜の文様を織り出した装束。紅(くれない)の薄様かさね 明石の御方 ~六條院冬の御殿に住む明石の姫君の実母~異国風の織模様で高雅な装束。紫の薄様かさね。紫の上は不快感を抱く。ジェラシーか。 紫の上 ~六條院春の御殿に住む源氏最愛の女性~高貴な葡萄染色に紅梅の文様を織り出した装束。流行の今様色と現代風華やかさ。源氏最愛の女君に相応しい最も高価で気品高い装束。紅梅の匂かさね。 青鈍色の織物 源氏と梔子色の御衣 空蝉 ~二條東院に住む尼~出家している空蝉に合わせ、青鈍色(あおにびいろ)の色合いの中にも聴色(ゆるしいろ)での華やかさを加えたという。梔子色の装束を加える。色々かさね。 紫の上 寝殿の東廂を北側から眺めた景色 寝殿側から、渡殿の北側にある「局」に進みます。女房の日常生活の一部が具現化展示されています。 まずは、「王朝女性の身嗜み・黒髪」です。 髢をつける髢とは「髪の毛に添え加える毛。入れ髪。入れ毛」(『新明解国語辞典』三省堂)のことです。 縮れ毛の手入れをしているところです。上記の雨夜の品定めでは、男性の目からみた女性の髪へのこだわりも論じられています。平安女性の容姿の美しさの中で、頭髪・黒髪は大きな比重を占めていました。「身の丈に長く余るのが髪の長さの標準であった」(資料6)と言います。『大鏡』の藤原師尹伝に記されている村上天皇の女御・芳子の髪の長さについての逸話が有名です。(資料1,6) 平安時代の遊び「偏つぎ」の場面です。これは遊びの展示では定番の一つになっています。右手に「糸」の偏を持っています。これと組み合わせができる旁(つくり)を探している場面です。それでは、東の対(対の屋)の北端に進みます。 恋文(結び文) 簀子には、恋文(結び文)を持つ武官がいます。巻きたたんで結んだ文は、主に恋文に用いられたそうです。立文(たてぶみ 捻文 ひねりぶみ)と比べると正式ではない形式だとか。恋文に使う風情のある紙は、美しい色に染められた薄様と呼ばれる薄い紙です。文の内容は勿論のこと、その文そのものが送り主の感性の美しさを伝えることになります。(説明パネル参照)東の対(対の屋)の東側に回り込みます。ここには東の対の西側廂の細長いスペースだけが設定されています。 まず、平安の遊びの一つ、「碁」が展示されています。平安時代には男女を問わず盛んに楽しまれたようです。今回は若い公家が碁に興じている場面です。以前の展示では、女性が碁を楽しむ場面展示がありました。 今回の展示にはもう一つの視点の意図と説明があります。「二藍の直衣について」です。夏の装束二藍の直衣の色目にはご覧の通り、いろいろあります。「二藍とは、藍を所定の色に染め、それを紅花の紅を重ねて染めた紫系の色で、それぞれの染料の濃度によって様々な色が表される」というものです。(資料1) 二藍は年齢の違いにより、染め方の色目に違いがあったと言います。図式的に示すとこんな相関があるとか。(説明パネルより)「藤裏葉」の巻で源氏の意図がこの色目の選択に出ているそうです。「夕霧と雲居雁の婚礼では、18歳の夕霧は本来ならば紅のきいた華やかな二藍の直衣を着用するのが普通であるが、源氏はあえて自分の装束の縹色(はなだいろ)の直衣に夕霧を着替えさせた。これは縹色の直衣を着用することで、夕霧に実年齢以上の威厳と落ち着きを内大臣(雲居雁の父)に感じさせる意図があったからである。」(資料1)続くスペースに「四季のかさね色目に見る平安王朝の美意識」というテーマで、かさね色目の精巧なミニチュア装束が展示されています。 このように展示されています。2019年の展示の時に、このテーマで展示を鑑賞しています。異なる場所での展示でした。詳しくはこちらをご覧いただけるとうれしいです。国風文化が育まれた平安時代には、「日本特有の細やかに移ろいゆく四季の彩りをいかに機微に捉えて装束の色目として表現するかという文化が登場する」(資料1)ことになります。ここでは、展示されているかさね色目の装束を列挙し、重複を避けた説明を加えるにとどめます。 松かさね 「紅・同より淡く・淡萌黄・萌黄・淡蘇芳・蘇芳」という色目の配色です。 雪の下かさね「青・同より淡く・淡紅梅・紅梅・同・白」という色目の配色です。 捩り紅葉(もじりもみじかさね) 「同・紅・淡朽葉・黄・淡青・青」という色目の配色です。青は緑色系を意味します。 白撫子(しろなでしこ)かさね 菖蒲かさね菖蒲の「根」と「葉」の色の対比を表したかさね色目です。「白・淡紅梅・紅梅・白・淡青・青」という色目の配色。 梅かさね 「濃紫・濃蘇芳・紅・紅梅・淡紅梅・淡紅梅より淡く」という色目の配色です。それでは東の対の南面に回り込みます。つづく参照資料1) 入館の折に入手した今回の展示についての説明資料「令和2年2月~5月展示」2) 『源氏物語 1』 新編日本古典文学全集 小学館 p156、p1893) 『源氏物語 3』 新編日本古典文学全集 小学館 p134、p2814) 『源氏物語 5』 新編日本古典文学全集 小学館 p3605) 『源氏物語 6』 新編日本古典文学全集 小学館 p3606) 『源氏物語図典』 秋山虔・小町谷照彦編 須貝稔作図 小学館 p196補遺国宝 源氏物語絵巻 早蕨 :「徳川美術館」第34回 『源氏物語』「早蕨」段の「中君の京に移る支度」を読み解く 筆者:倉田実 絵巻で見る平安時代の暮らし :「WORD-WISE WEB」もっと知りたい日本髪 002 垂髪(すいはつ) :「ポーラ文化研究所」平安時代の髪型とは :「終活ねっと」黒髪のケア(前) :「京都・宇治 式部郷」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -4 竹取物語・天徳内裏歌合 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介しています。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご照会しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご照会しています。(2016年)観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご照会しています。(2018年1月に2014年10月の記事を再録)
2020.07.02
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11月9日(水)午後、宇治市文化センターの小ホールに出かけました。目的は、宇治市源氏ミュージアムの企画記念講演会「女たちの源氏物語・宇治の橋姫」の聴講です。講師は国際基督教大学名誉教授のツベタナ・クリステワさんです。『源氏物語』に織り込まれた様々な歌を抽出し、「なほうとまれぬ」と詠み込まれた歌における「あいまいさの文法」が生み出す絶妙な心理的効果についての指摘。その後、「露の光」の「露」、「月影」、「契り」、「限り」をキーワードにした『源氏物語』の世界の読み解き方は興味深いものでした。この講演後、JR「宇治駅」から文化センターまでの往路をいつものように引き返すのも面白味がないので、ふと、折居台から直接、宇治川の畔に出られないか。歩いたことのない経路を試みることにしました。文化センターは折居台の中央部から西寄りにあります。折居台は宇治川西岸の丘陵地に開けた住宅地です。折居台の幹線道路では住宅地への入口に近い場所に位置します。スマホの地図で位置関係と道路を見ると、いわば低山越えという感じで宇治川の畔に抜けられそうです。そこで、文化センターの正面側、折居台を通る幹線道路沿いに坂道を上り、丘陵地の頂上から北東寄りに下る形で抜けることにしました。冒頭の景色は、丘陵地を下り始めた時に眺めた北東方向の景色です。舗装されてはいますが、途中でかなり急な坂道を下り、道沿いに進むます。 莵道小学校を示す道標と案内矢印板が設置された分岐点に出ました。更に坂道を下っていくと、T字路です。後で地図を確認すると府道3号線に出たことになります。 道路の突き当たりには、府道沿いの歩道の傍に地蔵堂があります。右写真の倉の方向に歩道を歩めば平等院の南辺を通り宇治川に出ます。 T字路の交差点から、下ってきた坂道を眺めた景色歩道を西に少し行けば、「縣(あがた)神社」です。ちょっと立ち寄ってみました。 府道に面した正面の石鳥居から境内地に入ります。平日の16時頃でした。境内では人影を見ず静寂そもののでした。 石鳥居を潜ると参道の左側に手水舎があり水槽には「縣井」と太い文字が刻されています。龍口から水が注がれています。 正面参道の右側には、宇治銘木百選の「いちょう」が見えます。推定樹齢200年の巨木です。高さ25.0m、幹周273mと駒札に記されています。 参道の右側奧には社務所 参道の両側に配された狛犬像 唐破風屋根の獅子口と正面の門扉には、桜の花が象られています。神紋なのでしょう。 拝所から眺めた社殿祭神は木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)。古代は縣の地にまつられた神社と考えられ、『蜻蛉日記』には「あがた院」と記されているとか。平等院の創建以降は鎮守社となり、寺と一体的になっていたそうです。(資料1)明治維新後の神仏分離令より前は、大津市の三井寺円満院の管理下にあったと言います。(資料2) 拝所前から西方向の眺め。「木の花桜」と呼ばれる枝垂れ桜の木があります。(資料2) 傍に建立されている句碑 涼風となり神宇治をみそなはす 土田克己(「幡の会」主宰者) (資料2) 句碑傍からの眺め 新町通に面した石鳥居 新町通側の石鳥居のすぐ近くに「梵天(ぼんてん)」のモニュメントが建立されています。 その南隣りに建つ「梵天奉納所」「縣祭」(6月5日)の時に、この梵天に神移しが行われ、「梵天渡御」の神事が行われています。(資料2) 梵天奉納所の南側かつ手水舎の北西側に、境内社として稲荷社が勧請されています。 府道側の正面の石鳥居から北東側にこの「大幣殿(たいへいでん)」があります。6月8日の神事に使う「大幣」を収める建物です。「大幣神事」は、大幣を用い町の角々で「疫病」を祓う儀式を行い、最後に大幣を宇治橋から疫病とともに宇治川に流すという神事です。古代から伝承900年という歴史的な神事だそうです。(資料2)久々に縣神社の境内に立ち寄りました。府道沿いの歩道を東に進み、平等院の南辺に沿って宇治川の方に向かいます。南側にも、平等院拝観用の入口があります。こちらは府道3号線の南側に駐車場がありますので、マイカーや観光バスの団体観光客の出入口になっているようです。通り過ごしてさらに東に進むと、左側に広い空間が広がり、 この基壇が見えます。 平等院多宝塔の復元基壇です。今は平等院の敷地境界外になっています。平成6年(1994)の発掘調査で発見され、同じ場所に鳳凰堂の基壇を参考に復元されました。鳳凰堂建立の8年後(1061年)、藤原寛子(賴道の娘)による建立で、文献には多宝塔と記されているとか。発掘調査の成果からは、単層の塔(宝塔)の可能性が指摘されているそうです。(案内文より) 復元基壇を左方向に回り込むと、その先に宇治川西岸の畔に抜ける道があります。 西岸沿いの道路に出ます。宇治川中の橘島(左)と塔の島(右)とに架かる朱塗りの橋が正面に見えます。橘島は宇治公園になっています。 宇治川下流方向に目を転じれば、宇治橋が架かり、 上流方向を眺めれば、塔の島に架かる橋や上流の山々が谷を形成しています。塔の島に向かいます。 宇治川西岸と塔の島の間に架かるのは「喜撰橋」です。 わが庵は都のたつみしかぞ住む世をうぢ山と人はいふなり「百人一首」に登場するこの歌で有名な喜撰法師の名に由来する橋名です。この歌一首で後世に名を残したとされる謎めいた人物。本名、出自、履歴、生没年など一切不明と言います。歌に出てくる「うぢ山(宇治山)」は現在「喜撰山」と称されています。私ははるか昔に、ハイキングで一度登ったことがあります。「この歌もまさに、自分に対する世間の無責任な憶測を、洒落をまじえて皮肉ったものだ」(資料3)という点がおもしろいのでしょう。言葉をダブルミーニングとして使い、この一首から対照的な理解を生み出すという言葉遊びの巧みさの代表例のような歌。余談です。冒頭の講演会で、ツベタナ・クリステワ先生の講演で最初に聴いた『源氏物語』の藤壺の歌をご紹介しておきましょう。 袖濡るる露のゆかりと思ふにもなほうとまれぬやまと撫子 (藤壺)こちらは掛詞ではなく、「ぬ」という助動詞の使い方の読み解きでした。「うとまる」は「疎まれる」。この歌の「疎まれぬ」の「ぬ」は、打ち消しと完了の両方の意味として、文法的には成立するという説明でした。「疎ましく思わない」と「疎ましくおもう」の両方の意味でこの歌の解釈が成立するというのです。正反対の解釈ができる! 光源氏に対する藤壺の思いは如何に?? 私には新鮮な読み解きを拝聴できた思いでした。和歌っておもしろいんですね。元に戻ります。 喜撰橋の上から、宇治川上流を眺めた景色です。紅葉の美しさはもう少し先になりそう。東岸に渡ったら、上流方向に向かい、興聖寺の参道に立ち寄ってみようかと思ったのですが、今回はやめました。紅葉が綺麗さには今一歩かな・・・・との思いから。 下流側の眺めです。塔の島と西岸の間には、遊覧船を舫ってあります。西岸側に見える建物が、遊覧船の乗り場。鵜飼の季節の遊覧もここが受付所。 塔の島に渡れば、まずはこの高く聳える「浮島十三重塔」(国重文)です。 台座には、「浮島十三重石塔」と題した碑文が嵌め込まれています。文末には、「橋寺放生院」と記されています。碑文は、「宇治川大橋」「浮島(塔の島)」「十三重石造大塔」「浮島大塔の再建」という見出しのもとに説明されています。塔の島に行かれたら、実物の碑文をお読みください。この大塔は、南都西大寺律宗の高僧叡尊が建立した層塔です。中世石塔としては国内最大規模のもので、高さ15.2mだそうです。叡尊は、慈善事業の展開の一つとして新宇治橋を完成させるという事業を興すとともに、宇治橋周辺での殺生禁断という信仰上の宿願を推し進めたと言います。この二願が達成されたのを機に、この記念塔を建立したのだそうです。(資料1)人々にとって宇治橋の完成は大喜びだったでしょうが、殺生禁断に対して、ここで猟を生業としていた人々はどのように受けとめたのでしょうね。信仰上から素直に受け入れたのでしょうか。はた迷惑に感じたかも・・・・。生きる手段を取り上げられることにもつながるのだから・・・。当時の名もなき民衆側の思いは記録に残っているのでしょうか?この大塔、1756年の未曾有の大洪水で崩壊して、河底に埋没したままになったそうです。明治38年に大塔復興の動きが始まり、明治41年(1908)仲秋に再建されるに至りました。(碑文より) 塔身には、金剛界四仏の種字(梵字)が刻まれています。金剛界四仏とは、阿弥陀如来(西)、宝生如来(南)、阿閦如来(東)、不空成就如来(北)を言います。塔の島を少し眺めて、先に進むことに・・・・。つづく参照資料1)『京都府の歴史散歩 下』 京都府歴史遺産研究会編 山川出版社 p712) あがた神社 ホームページ3)『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海直人 PHP文庫 p45補遺世界遺産 平等院 ホームページ宇治川遊覧 :「miru-navi 全国観るなび」宇治川刊行通船 :「喜撰茶屋」 喜撰 :ウィキペディア叡尊 :ウィキペディア宗祖 興正菩薩叡尊上人 :「西大寺」3. 両界曼荼羅 「曼荼羅のおしえ」(小林暢善) ツベタナ・クリステワ :ウィキペディア本学のツベタナ・クリステワ名誉教授が古典の日文化基金賞を受賞:「国際基督教大学」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 宇治市 講演会聴講後の帰路は違った経路にて -2 塔の島から京阪電車宇治駅へ
2022.11.12
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[探訪時期:2016年1月]東福寺を探訪した後に、その記録の整理をするために調べていて知ったのは、藤原定家の父である藤原俊成の墓が深草にあるということでした。そこで、2016年1月下旬に歌人・藤原俊成の墓を探訪しそのまとめをご紹介していました。ここに再録します。墓域の説明を平易にするために、冒頭の地図(Mapion)を切り出して借用し、追記しました。元の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。一番の最寄り駅は、京阪電車鳥羽街道駅です。本町通から藤原俊成の墓への道筋をご紹介します。鳥羽街道駅から本町通を南下すると、まず目印は「第二久野病院」です。そこから南に少し下がると、通りに面して「極楽寺」があります。私は、本町通を北上しました。北に上がる場合は、西側に久野病院があり、通りを挟み北東側に極楽寺が見えます。極楽寺の少し北側・緑の丸を付けた所から東方向に緩やかな坂道の通りがあります。黄緑色の線を付した道です。冒頭の地図に黒色の丸を付したのが、この「願成寺(西)・開土町(北)案内図の掲示板のある場所です。この案内板自体の地図内に黒色の丸を付けたところが冒頭の地図と一致します。青色の丸の場所が目的地です。マゼンダ色の丸を付けたところが、この写真。坂道を少し降った突き当たりの掲示板が上掲の案内図です。 一見民家への通路と見える坂道の入口、西側角に「夜泣地蔵尊参道」、東側角に「五條三位俊成卿 兆殿司 墓参道」の石標が建てられています。 正面にみえる民家の私有地道路かと戸惑う坂道に左折すると、東側に階段が見えます。この階段を上ると墓域となっています。墓域の入口に近いところに、「夜泣地蔵尊」が祀られています。周りには、石塔や石灯籠ほか、いろいろと集められています。夜泣地蔵尊をキーワードにして検索しますと、京都の各地で祀られているようです。ここで祀られているのもその一つなのでしょう。子供の夜泣きを封じてほしいという願いを叶えてくださるというご利益のある地蔵尊として、信仰されているようです。西側面の北端に置かれた石仏がまず目にとまりました。 夜泣地蔵尊の小祠を正面から眺めたものです。坂道の参道を東に上りますと、築地塀に囲まれた一画が見えます。 6630,6654築地塀の手前に、ここが俊成と兆殿司の墓所であることを示す石標が建てられています。右の写真は墓所を南西側から眺めたところです。参拝してから墓所を仔細に拝見しました。墓所北東隅に昭和3年(1928)秋建立と背面に刻されたこの石碑が、この墓所の墓の説明を記しています。 北側に建てられた五輪塔二基のうち、右の少し大きい方が大歌聖「藤原俊成の墓」で、少し小さめの五輪塔が「淨如禅尼の墓」です。説明碑の南隣の自然石はこの墓所の中央に位置しますが、これが「南明開山業仲禅師の墓」なのです。そして、業仲禅師の墓の南側に置かれた自然石が東福寺における画聖「吉山明兆禅師の墓」だとか。つまり、兆殿司と称される画僧です。東福寺の本堂で涅槃会の折りに御開帳される巨大な「大涅槃図」を描いた画僧がこの明兆なのです。(資料1)藤原定家があまりにも有名で、俊成はその父であり、歌人として勅撰集である『千載和歌集』を撰進した人だという事くらいしか知識がなかったのです。これを契機に少し調べてみて、多少のことが学べました。俊成は御子左家権大納言家長の孫にあたり、父は俊忠で二男だったのです。その官位から「五条三位」と通称され、本名は顕広。二男でしたが、仁安2年(1169)54歳の時に本家に戻ったそうです。その後に俊成と改名したとか。安元2年(1176)9月、病により63歳で出家し、法名を釋阿と号したようです。元久元年(1204)11月30日に91歳で死去ということなので、当時としては驚異的な長命だったのでしょうね。俊成は当時和歌と蹴鞠で有名だったようです。和歌はその奥義を究め、歌仙(歌聖)と称されるのです。(資料2,3)この墓は、「東福寺字南谷南明院山に在り。此地は古へ法性寺の所有山たり」と記されています。旧の葬所はどこかは解りませんが「下壇の地」にあったようで、弘安2年淨如文書によれば現在地に改装されたそうです。淨如がその維持のために土地を購入し寄付したと言います。「法性寺俊成の卿御はか山林の事」として、東西南北の境界がどこになるかを明記した弘安2年(1279)8月5日付の淨如の文書が南明院に残っているようです。(資料2)この淨如禅尼とは誰なのか? 俊成の女(むずめ)のようですが、「一に母公とあり其是非を知らず」と記された古文書も残るようです。(資料4)東福寺の六波羅門の南に「永明院」があります。この永明院の封域を将軍足利義持が割いて、応永21年(1414)に、東福寺111世業仲を開基として創建した塔頭です。(資料5)時の経緯を考慮すると、淨如は俊成の墓域を購入して、永明院に寄進して菩提を弔う事にしたのですが、135年後に南明院の創建により、その寺域の一部になったのです。『山城名勝志』(大島武好編・正徳元年[1711]刊)の記載から窺えます。(資料6)時代の変遷とともに、深草の丘陵地に住宅が開発されて、現在はこの墓域は南明院の飛び地になっています。住宅地の中に取り込まれた形になって、周辺にとけこみ見落としてしまいそうなところです。序でに、南明院には、天正18年(1590)正月14日に聚楽第で没した豊臣秀吉の妹・朝日姫が葬られたお寺です。朝日姫は秀吉の政略により徳川家康の室となった女性です。『坊目誌』によると、当時の南明院の住持・天翁に朝日姫が帰依していたことにより、この寺を香華院とするに至ったと記されているようです。 これは昨年(2015)5月に東福寺三門の楼上の特別拝観で訪ねた折り、その前を歩いた現在の「南明院」の山門です。石段の左側に「徳川家康公正室旭姫墓」、右側に「凌雲山南明禅院」の石標が建てられています。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 東福寺涅槃会-大涅槃図御開帳- :「東福寺」2) 『新修 京都叢書 第21巻 京都坊目誌五』 野間光辰編 臨川書店 p476,4773) 『平安時代史事典 本編下』 角田文衛監修 古代学会古代学研究所編 角川書店 p21494) 『新撰 京都叢書 第3巻』 新撰京都叢書刊行会編 臨川書店刊 『京華要誌』(明治28年刊) 5) 『京都市の地名 日本歴史地名大系27』 平凡社 p2856) 『新修 京都叢書 第14巻』 野間光辰編 臨川書店 p301 『山城名勝志』巻第十六【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺観音寺 (京都市上京区) 出水の七不思議 :「お寺の風景と陶芸」壬生寺 夜泣地蔵 :「土曜日は古寺を歩こう」六面体地蔵尊(夜泣き地蔵) :「おおさと歴史探訪会」藤原俊成 :ウィキペディア藤原俊成 :「コトバンク」藤原俊成 千人万首 :「やまとうた」兆殿司 :「コトバンク」絹本墨画羅漢像 伝兆殿司 :「文化遺産オンライン」明兆[兆殿司] 羅漢 :「東京文化財研究所」兆殿司の赤達磨 :「曹洞宗巨嶽山正福寺」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -1 塔頭の門前を眺めて 2015年5月に探訪した折りのまとめを9回シリーズでご紹介しています。 スポット探訪 [再録] 東福寺とその周辺 -3 正覚庵(筆の寺)・月輪南陵・九条陵と防長藩士之墓所 藤原俊成の墓の存在を知ったきっかけはこのブログ記事に記載しています。
2016.12.30
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宇治市役所前の坂道を上り折居台の交差点で左折して、さらに坂道を少し上がれば、幅の広い石段が右手に見えます。 宇治市文化センター 歴史資料館・中央公民館・中央図書館がある建物11月20日(日)に、宇治市中央公民館で開催された宇治市中央図書館講演会を聴講しました。「寂聽先生と文学・そして宇治 -源氏物語に寄せて-」と題した講演会です。事前申込みしておいたところ参加できました。講師は宇治市源氏物語ミュージアム館長家塚智子さんでした。同館名誉館長だった瀬戸内寂聴さんと宇治及び源氏物語との関わりを内容とする講演でした。講演後に、再び折居台越えで宇治川周辺の紅葉を眺めることにしました。運動不足を補うウォーキング機会でもあります。「探訪 宇治市 講演会聴講後の帰路は違った経路にて」と題して、シリーズでご紹介した探訪記事の補完を兼ねています。 冒頭の石段前から北東寄りに伸びる折居台の道路景観です。ここが起点です。 坂道を上る 「折居台第3児童公園」が下方に見て、北方向の宇治の景色が眺望できます。 急な坂道の途中にて上って来る人が居ましたので、途中まで下ってから撮ると緩やかな坂道に見えることに・・・。 路傍の石仏右側は多分双体地蔵石仏かと・・・・。左側は不詳。 道沿いに進みます。このあたりは平坦な箇所 再び展望が開けます。 比較的緩やかな坂道を右方向に下ります。 府道3号線へ出る手前の坂道 突き当たり、府道の北側歩道傍には地蔵堂が見えます。地図を確認すると、「芳香園」の南西角前辺りです。「芳香園」は京都の茶問屋です。「京都・城陽の地にて、160年余りの歴史を持つ老舗茶問屋」だそうです。(資料1) 府道を横断して右折し、歩道沿いに東へ。 平等院の生垣と樹木が一体となって、歩道沿いに緑の壁となっています。右の景色は、東側から撮った景色。 ちょっとした広場があり、平等院の南門がこの景色の左側に見えます。 歩道傍の案内板 この部分図の現在位置が案内図の設置場所です。青色のドットを追記しました。部分図左下が、折居台側から歩き下ってきた経路です。宇治川の左岸(西岸)、「あじろぎの道」に向かいます。 今回は、左岸のあじろぎの道を下流側に、橘橋に向かいます。 遊歩道・平等院側の紅葉した木々。平等院の生垣の外側です。 「橘橋」の西詰からの景色。橋を渡れば「橘島」(府立宇治公園) 橘橋上からの上流側の景色。この日、雨は降りませんでしたが曇天でした。 橘島の下流側先端部とその先の宇治橋 橘島から眺めた右岸(東岸)と朝霧橋 朝霧橋の向こうに見える「観流橋」。上掲の案内図で橋名を知りました。 朝霧橋上から眺めた観流橋。この橋は関西電力宇治発電所の放流路に架かる橋です。 橋上から右岸のモニュメントを眺めた景色 『源氏物語』宇治十帖石像 匂宮は浮舟を密かに小船に乗せて、八の宮の山荘から、対岸に渡り、「因幡の守が、自分の荘園の中にささやかに手軽に造った家」に人目を忍んで移るという行動に出ます。瀬戸内寂聴さんの訳を引用します。”匂宮は女君に、 「どうしてそんなところに行けましょう」などという暇も与えず、いきなり抱きかかえて、外へお出になってしまいました。・・・・・ 女君が明け暮れ、何と頼りないものかと、川に浮かぶのを御覧になっていた小船にお乗りになって、棹をさして漕ぎ渡られる時も、まるではるかな岸に向かって漕ぎ離れて行くかのように心細く思われて、女君は、匂宮にひしと寄りすがって、身動きもせず抱かれていらっしゃるのを、匂宮は可愛くてたまらなく思われます。 船頭が、 「これが橘の小島でございます」 と申し上げて、棹をさしてお舟をしばらくとどめたのを、匂宮が御覧になりますと、その島は巨な岩のような形をして、洒落た枝ぶりの常磐木が葉を繁らせています。” (資料2)橘の小島を眺めつつ、二人が歌を詠む場面が続きます。 年経(ふ)ともかはらぬものか橘の小島のさきに契る心は 匂宮 橘の小島の色はかはらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ 女君 ” (資料2)この女君の歌に詠みこまれた「浮舟」が、宇治十帖のこの帖の名「浮舟」となります。”向こう岸に着いて舟をお下りになる時に、浮舟の君を人に抱かせるのは可哀そうに思われて、ご自分でお抱きになって、供人に介添えされて用意された家にお入になります。” (資料2) 瀬戸内寂聴さんの訳では、この歌の後からは「浮舟の君」という訳に変わって行きます。 ふと思い原文を確かめると、歌を詠んだ後にも出てくるのは「女君」という表現です。(資料3) 原文は当然そうですよね。後の読者たちが浮舟と、いわばニックネームで呼ぶようになったのですから。私達には浮舟で記される方がわかりやすいのですが。 長々と引用しましたが、この情景がモニュメントのモチーフとなったそうです。それでは、前回行かなかった興聖寺の方に紅葉を愛でながら向かいましょう。つづく参照資料1) 芳香園 ホームページ2)『源氏物語 巻十』 瀬戸内寂聴 訳 講談社文庫 p67-703)『源氏物語 6』 新編 日本古典文学全集 小学館 p152補遺宇治十帖石像(宇治十帖モニュメント)【宇治市観光】 :「京阪宇治線 おけいはん」関西電力 宇治発電所 :「京都の産業遺産」関西電力株式会社 宇治発電所 :「水力ドットコム」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -2 観流橋・興聖寺ほか へ探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -3 観流橋から宇治神社 へ探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -4 さわらびの道・宇治上神社 へ探訪&観照 宇治市 再び折居台を越えて紅葉狩 -5 源氏物語ミュージアムと周辺 へ
2022.11.25
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=== 2023.1.30 === 10時10分頃に撮った南の空です。朝から晴。ちょっと違った雲の姿が見られました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空も最近ではあまり見ない雲の姿です。 東方向の空13時半頃には、空模様が一転していました。 南の空南西方向の空 西方向の空 17時20分頃の南の空。夕陽に映えた雲を眺めることができました。南西方向の空 西方向の空 東方向の空に漂う雲も夕陽に映えていました。=== 2023.1.31 === 8時20分頃に撮った南の空。この日も少し雲がかかる程度の快晴でスタート。南西方向の空 西方向の空 東方向の空は雲が発達しています。 10時過ぎの東方向の空。グレーの雲が広がっていました。 南の空南西方向の空 西方向の空 空全体が雲ってきていました。 14時頃に撮った南の空南西方向の空 西方向の空 東方向の空この頃には再び青空が見えるように変化していました。雲の動きがめざましい。さて、雲がたりのつづきです。『新古今和歌集』巻第十六で抽出した歌の中から一読して歌意が理解しづらい歌を選び順次始めます。 紫の雲にもあらで春がすみたなびく山のかひはなにぞも 円融院御歌 1447「かひ」は、峽のことで、山と山の間の意。「ぞも」は終助詞「ぞ」+終助詞「も」からなり、詠嘆を込めて疑問の気持ちを強調する意を表すそうです。・・・・であるのかな。これで歌意は大凡わかります。(紫の雲がたなびくのではなく、春霞が山峡にたなびいているだけで、何ほどのこと<甲斐>があろうか)だけど、なぜこんな歌を詠んだのか。この歌だけを読んでもその真意はわかりづらい。この歌には、「御返し」という詞書が付いています。そして、直前の第1446首に対する返歌であることがわかります。第1446首には、まず長い詞書が付いていています。 東三条院女御におはしけるとき、円融院つねにわたり給ひけるをきき侍りて、 ゆげひの命婦のもとにつかはしける 春霞たなびきわたる折にこそかかる山辺はかひもありけれ 東三条入道前摂政太政大臣東三条院入道摂政太政大臣とは藤原兼家のことで、東三条院女御は兼家の第二女詮子のことです。詮子は円融天皇の女御で一条天皇の母となります。しかし、后の座は関白藤原頼忠の女遵子に奪われました。しかし、一条天皇が即位した後、寛和2年(986年)7月5日に皇太后に冊立されました。なお、円融天皇は991年に薨去。(資料1,2)兼家の歌は、(春霞が一面にたなびく時こそ、このような山辺でのわびしい生活にも甲斐があるものです)という意味合いです。円融天皇が自分の娘が女御として入内していて、天皇が常にお通いになることに、女御の父としてうれしく生き甲斐があるという心を詠んだのでしょう。その返歌というわけです。円融天皇と藤原兼家との人間関係がこの返歌から読み取れそうです。 さもあらばあれ暮れ行く春も雲の上に散る事知らぬ花し匂はば 大納言経信 1462「さもあらばあれ」は、どうなろうともかまわない。どうとでもなれ。「雲の上」は、宮中、禁中の意。「し」は、副助詞で、とり立てて、強調する。意味を強める。(春が暮れて行くならどうなっても構わない。宮中に、散る事を知らないこの美しい造花が咲いているならば) 袖のうら波吹きかへす秋風に雲のうへまですずしからなむ 中 務 1495この歌には、「后の宮より、内に扇奉りけるに」という詞書が付いています。「后の宮」は中宮藤原安子、「内」は村上天皇をさすそうです。中務が中宮安子の立場で詠んだ歌と言います。「袖のうら」は、袖の浦が出羽の枕詞ですが所在地不詳。「袖」に「裏」が掛けられています。「雲のうえ」は宮中・禁中が掛けられています。「なむ」は希望の終助詞。(袖の浦の波を吹き返す秋風により、雲の上の空まですずしくなってほしい。袖の裏を吹き返す扇の風で、宮中まですずしくなってほしい) 忘れじよ忘るなとだにいひてまし雲居の月のこころありせば 皇大后宮大夫俊成 1507「忘れじよ」とは、自分は忘れないよ。「じ」は助動詞。打ち消しの意志を主観的に表現する場合に用いる語。・・・ナイツモリダ。「よ」は、終助詞。告げ知らせる意。・・・・(ダ)ヨ。「とだに」は、とだけでも。「だに」は終助詞。「まし」は、助動詞。希望・願望を表す。(今夜のことを自分は忘れないよ。あなたも忘れるなとだけでも言っておきたい。宮中から見る空に照る月にもし心があるならば) いかにして袖に光のやどるらむ雲居の月はへだてこし身を 皇大后宮大夫俊成 1508「雲居の月」は、宮中を照らす月の意。そこに天皇の恩寵の隠喩を表す。「へだてこし」は、「へだつ」(遠ざける。うとんじる)と「こす」(行く)。作者俊成が暫く地下にあったときの歌であると伝えられているそうです。(どのようにしてこの袖に宮中に照る月の光が宿るだろうか。この身は今遠ざけられているのに) 雲をのみつらきものとて明かす夜の月や梢にをちかたの山 右大将忠経 1546「つらき」は、たえがたい。苦痛だ。 「をちかた」は、彼方・遠方と記す。遠くの方、向こうの方。(月を隠す雲だけをたえがたい思いで夜を明かすと、遠方の山の木々の梢に月が沈もうとしている) 雲かかる遠山畑の秋さればおもひやるだに悲しきものを 西行法師 1560「秋されば」は、秋になればの意。(雲がかかる遠くの山畑のあたりは、秋になるとどれほどわびしいだろうか。遙か遠くに眺めて思うだけでも悲しくなるのに)巻第十六を調べ読みしていて、第1545首を見過ごしていたことに気づきました。ここで補足しておきたいと思います。 天の戸をおしあけがたの雲間より神代の月のかげぞ残れる 摂政太政大臣 1545この歌には「春日社歌合に、暁月のこころを」という詞書が付いています。この歌合は元久元年(1204)11月10日に行われたそうです。『新古今和歌集』に採録されている第1260首の「天の戸をおしあけがたの月見れば憂き人しもぞ恋しかりける」(よみ人知らず)を本歌とするそうです。摂政太政大臣とは藤原良経のこと。古事記の天岩戸説話が背景にある歌です。説話の中の天児屋根命は春日大社の祭神です。(天の岩戸を押し開けた時のように、明け方に雲間に神々しい月の光が残って見える)巻十六「雑歌上」と巻十七「雑歌中」の抽出歌から、私にとりわかりづらい語彙を含む歌や作歌の背景を知ると理解しやすくなる歌などを7首取り上げてみました。それと、見過ごした歌1首の追補です。雲の変化に戻ります。自然は「行雲流水」「時々刻々」です。暦は2月に入ります。=== 2023.2.1 === 9時50分頃に撮った南の空です。2月初日は曇空でのスタート。南西方向の空 西方向の空 東方向の空 12時頃に撮った東方向の空 南の空南西方向の空 西方向の空 終日くもりでとどまりそうでしたので、午後は久しぶりに三条に出かけました。それで、この日の以降の記録撮りはなし。つづく参照資料*『新訂 新古今和歌集』 佐左木信綱校訂 岩波文庫*『新古今和歌集』 日本古典文学大系28 岩波書店*『新古今和歌集』 上・下 久保田淳訳註 角川ソフィア文庫*『古今和歌集』 窪田章一郎校注 角川ソフィア文庫1) 藤原詮子 :ウィキペディア2) 円融天皇と藤原詮子 渡部裕明 :「産経新聞」補遺円融天皇 :「ジャパンナレッジ」円融天皇 :ウィキペディア中務 :ウィキペディア藤原俊成 :ウィキペディア藤原忠経 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.02.11
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=== 2023.11.11 === 南の空9時50分過ぎに撮りました。青空を引き立たせる類の雲が浮かんでいます。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線の上空もいつものどんより感がなく、青空を背景に様々な雲の姿がいい感じです。 東方向の空15時5分過ぎに眺めると、普段の午前中によく見る感じのどんより感のある曇り空に変化していました。 南の空 南方向もまた雲が張り出しています。南西方向の空 西方向の空 頭上の空しかし、雲の形としてはおもしろさを感じます。まだ青空は少し見えます。 南の空17時15分頃に撮りました。はや近くの家々から灯火が見え始める時刻になっています。日の入りが早くなっています。白鼠色の雲が空を覆い、どんよりとした感じ・・・。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線上の雲の形には大きな変化は見られません。横雲が重なるようにして空を覆い、その色は南の空の雲よりも濃く銀鼠色です。=== 2023.11.12 === 南の空朝から曇り空。講演会の聴講を機会にちょっと探訪を兼ねて早めに出かけましたので、雲を取り忘れました。帰宅後、16時45分過ぎに撮りました。朝から変わらず、この時もくもり空が続いていました。南西方向の空 西方向の空 西の遠くの空では夕焼けが見えます。ズームアップして部分撮り。電線が邪魔! 相対的に近い距離の雲も一部夕映えが見えます。 東方向の空くもり一時小雨ありという天気の一日でした。=== 2023.11.13 === 南の空9時25分頃に撮りました。朝から曇り空。南西方向の空 西方向の空 東方向の空どの方向も、空一面を雲が覆っています。全体的にメリハリのないのっぺり感のある雲です。 東方向の空 17時過ぎに撮りました。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空最近比較的よく見るようになった空模様。夕暮れ時の空の色合いという感じです。雲があるようには見えません。天気は晴れ方向に変化している様に見えます。さて、雲がたりを続けます。真民さんの全詩集第4巻に移ります。この巻一冊が詩集「念珠集」です。 (参照『坂村眞民全詩集 第四巻』大東出版社)この詩集は「詩心決定(ケツジョウ)」と題する詩から始まります。巻頭の短い詩の引用から始めます。 たんぽぽや 四国は詩国 生きどころ へんろ路(ジ)や 仏島四国 死にどころ p3雲が最初に詠み込まれた詩は「空っぽ」です。その第一節に出て来ます。第一節を引用します。その文脈がお解りいただけるでしょう。 なんでも空っぽなのが 一番いい おなかも空っぽ さいふも空っぽ そんな時は 春の雲のように 軽くなって どこへでも 飛んでゆきたくなる p15春の雲が軽やかさを象徴しています。この行だけなら意図が通じないことでしょう。「なんというさわやかさだろう」と題する詩に、雲が出てきます。 外は重い雨雲で 今にも雨が落ちてきそうなのに 私の心は実に軽く さわやかである こんな詩の文脈で出ています。 p19「太陽と雲と歌と」と題する詩の2ヵ所に出てきます。題にも雲が入っています。 太陽に向かって 新しい年の雲に叫ぼう 小さい国だけれど 大きな夢を持って 原水爆にけがされた雪を 地球上から払いのけてしまおう p22 1964年の喜びの歌をうたおう 光りたなびく雲に向かって 平和と幸福とを勝ちとる 新年の歌をうたおう p221964年についてですが、詩の中に「ことしはアジアで初めてのオリンピックが/ この東海の国で開催される記念の年だ」という詩句があります。真民さんは、原水爆の悲劇・悲哀についての詩をいくつも作詩され、平和の希求を詩に託されています。「柳井田の里」と題する詩に出てきます。真民さんはこの地で仮り住まいされたそうです。最初に付記されています。 太陽は麦の穂に光り あかねの雲が わたしを燃やす p47 「わが詩の心」と題する詩の冒頭に、雲が詠み込まれています。 日の出る直前の 雲の美しさ 出初めた日の ういういしさ p48「石笛」と題する詩に出てきます。これは全文引用します。 石笛の音は かすかなり かすかに 天にひびき 地にひびき もろもろの雲を誘いて わがもとにきたる ああ石笛を吹けば われのまわりに あの世の人も来たりて 聞き給うなり 近くに寄り給え 冬の夜明けは寒きなり 寄り給え 寄り給え p55全詩集には、石笛を詠んだ歌がけっこう出てきます。石笛を愛用されていたようです。雲の変化に戻ります。=== 2023.11.14 === 南の空15時25分過ぎに撮りました。午前中は撮り忘れ。朝から晴れです。ひつじ雲でしょうか。時折にしか見られない雲の形です。南西方向の空 西方向の空 頭上の空 東方向の空稜線間近に横雲が広がってみえますが、その上空は青空が広がっています。 東方向の空17時10分過ぎに撮りました。曇り空に変化していました。雲の形は動きを感じさせます。 南の空南西方向の空 西方向の空 頭上の空いずれの方向も雲、雲、雲です。晴れのちくもりの一日でした。つづく補遺坂村真民記念館 ホームページ 坂村真民についてタンポポ :ウィキペデキア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)こちらもご覧いただけるとうれしいです。 ベランダから見た雲の変化と雲がたり 掲載記事一覧表
2023.11.26
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将軍塚道を登り、舗装道路に出たところで、左方向を眺めると、山門が見えます。将軍塚と大舞台があるところです。あることは知っていましたが、将軍塚に幾度か来ながら訪れたことはありませんでした。冒頭の山門には、「青蓮院門跡」の木札が掲げてあります。 左側から境内地に入ります。山道では桜の木をほとんど見かけませんでしたが、ここで再び満開の桜を見られました。 その先の生垣傍に、「将軍塚」の名所案内駒札が設置されています。後ほど、改めて触れます。 こんな石碑が建立されていますが、不詳。 「大日堂」の額を掲げたお堂があります。このお堂は入れないようです。そんな雰囲気。ここの拝観受付所で手続きをして、右手の方向に境内を進みます。 参道を進めば、「青龍殿」に至ります。その前を通り過ぎてその先に行けば、将軍塚です。しかし、参観順路は、青龍殿 ⇒ 大舞台 ⇒ 将軍塚 ⇒ 西展望台 ⇒ 庭園 という経路になっています。 正面入口の上部に「青龍殿」の額が掲げてあります。 入口に立ち、振り返った前庭の景色 石灯籠から少し離れた左の方にこの石標が設置されています。「活私奉公」と判読。「滅私奉公」のアンチテーゼと受け止めました。おもしろい。 石灯籠の右に置かれた大岩の右側には、この石板が設置されています。 「花は色 人は心」と刻されています。堂内は撮影禁止です。この青龍殿は、もとは京都北野天満宮前に、大正天皇の即位(1913年)を記念して、「武徳殿」(略称)が建立されました。その建物が閉鎖・解体処分されることになりました。平成21年(2009)に青蓮院がその歴史的文化遺産の継承を決意し、「青龍殿」として、この地に移築再建したそうです。平成26年(2014)10月に完成しました。この時、内陣部分を新築されています。、 当日の拝観券 右に描かれた図が、国宝「絹本着色 青不動明王二童子像」の部分図です。ご神体の色が青黒(しょうこく)なことから通称「青不動」と呼ばれる図像です。この国宝「青不動」が、この青龍殿の奥殿、つまり新築された内陣に安置されているようです。その手前に、精巧に製作された複製が祀られています。秘仏像とお前立像との関係のような位置づけなのでしょう。 将軍塚清涼殿サイトの「国宝としての青不動」のページをご覧ください。 詳細な説明が開示されています。青不動図像に向って、左側に石仏が安置されています。大日如来坐像だそうです。上掲の「将軍塚」駒札は、「青龍殿に安置する本尊大日如来像は付近の山中から発見された花頂院の遺仏と伝えられる」と説明しています。 青龍殿を出た後、この建物の右側面から「大舞台」に入ります。 こんな感じで舞台が見えてきます。まずは、北東隅まで直進します。 大舞台・北東隅からの背龍殿全景青龍殿を眺めた景色。手前(北側)の部分が新築された内陣部分なのでしょう。京都市内を一望できる木造大舞台が新設されたのです。清水寺の舞台の4.6倍の広さ(延面積:1046㎡)だそうです。京都の新名所になっています。 大舞台・北東隅からの眺望高欄沿いに西に進みつつ、京都市内の眺望を撮ってみました。 中ほどで、北方向の景色 その位置から西方向を眺めた眺望 麓の建物をクローズアップ。多分、知恩院の境内の一部だろうと思います。 高欄沿いに西側に移り、青龍殿の西側を通り抜けて行きます。 「将軍塚」の駒札が設置されています。 東郷元帥お手植えの松を示す石柱があります。約20m四方の大きさの塚です。そこで、最初に掲載した「将軍塚」案内駒札の説明をご紹介します。「794年、桓武天皇が平安京造営に際し、王城鎮護のため、高さ8尺(約2.1m)の像に甲冑を着せ、弓矢と太刀を持たせ、京都御所の方を向けて埋めるように命じた塚であると伝えられている。 平安末期以後、天下に異変があるときは必ずこの塚が鳴動して前兆を表わすという伝説が生まれ、『源平盛衰記』によると、源頼朝挙兵の前年、治承3年(1179)7月には、3度にわたってこの塚が鳴動し、次いで間もなく大地震が起こったといわれる。 『鳥獣戯画』で有名な鳥羽僧正筆の『将軍塚縁起絵巻』に、この像を埋める図が残されている」 (駒札より転記) 将軍塚を反時計回りに回り込んでいきます。 桜の木の背後に、西展望台が見えます。こちらは鉄骨・鉄筋コンクリート構造の展望台です。西展望台に上ります。つづく参照資料*拝観の折にいただいたリーフレット「青龍殿「大舞台」と「将軍塚」のご案内*京都市作製の駒札「将軍塚」補遺天台宗 青蓮院門跡 ホームページ 国宝「青不動」を青龍殿奥殿に安置将軍塚 :ウィキペディア将軍塚・京都市営展望台 :「ニッポン旅マガジン」東山山頂公園 :「京都ガイド」 インターネットに有益な情報を掲載してくださった皆様に感謝します。(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 京都 「青龍殿・大舞台」と「将軍塚」 ー2 へ
2026.04.18
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地上に降りる前に、向拝の屋根の裏側を眺めて惹かれたのが雲肘木の装飾です。一つ一つの意匠が違うのです。ここも正面からは見えないところです。見えない、あるいは見えにくいところにも、絢爛とした極彩色の装飾が施されています。まずはこの意匠をお楽しみください。 神鹿・花あり、人・神魚あり・・・・です。向拝の本殿右側、つまり正面に向かって左手の木鼻を写真に撮りました。 黄色い牙を持つ白象の形象なのでしょうね。向拝柱上部の装飾図、円の中には橘の紋章が施されています。足場の上から眺めると、本殿の正面階段の両側に、大きな陶製燈籠が据えられています。陶製のこんな大きな燈籠があったことに気づきませんでした。 また、これほど大きい陶製燈籠を見ることなど、滅多にありません。見ごたえがあります。 本殿の正面階段の両脇に武装した姿の坐像、随身が置かれています。ここでは神殿を護る役目を持つ神像と位置づけられるのでしょう。通常、背面を見ることはできませんので、これまたおもしろいものです。拝観用足場から下に降り、二重菱格子窓をあしらった塀の屋根越し、本殿の蟇股を眺めながら、本殿正面に回り込みます。 本殿正面に回ってから、随身像の相貌を拝見しました。 笑みを浮かべたにこやかな像でした。親しみがもてますね。狛犬の表情とは好対照。向拝の頭貫の上の蟇股は本殿の蟇股に彫られた花々や鳥たちと打って変わります。そこに彫られているのは、本殿正面の向かって、中央に龍、左に虎、右に獅子です。 そして、それぞれの下には紋章が取り付けられていますが、中央に三つ葉葵、左右に橘です。それら紋章の下は波浪の絵柄で統一されています。 中央の蟇股を少し位置を変えて眺めてみました。本殿を下から見上げると、檜皮葺きの屋根の勾配が優美です。 屋根の棟には、菊の紋章が煌めいていました。連休中でもあるせいか、参拝客が絶えません。三々五々、親子連れ、ご夫婦、友人同士など、様々な組み合わせの人々がお詣りに来ておられました。本殿の極彩美のご紹介を終わります。ご一読ありがとうございます。この後、お庭を拝見しました。【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺随身 :「コトバンク」八幡神社随身門 :「文化遺産オンライン」東照宮随身門 :「文化遺産オンライン」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません。その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -1 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -2 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -3 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 本殿壁面の極彩美 -4 へ観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社の石庭~小堀遠州ゆかりの庭石~ほか へ 観照 & 探訪 [再録] 京都・伏見 御香宮神社 拝殿 蟇股の美 へ
2018.01.04
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[探訪時期:2015年11月]2015年11月初旬、秋の寺社特別公開の期間が終わるぎりぎりに、「平等寺」を訪れました。平等寺というよりも「因幡堂」の通称の方でよく知られていると思います。私自身も因幡堂で覚えていましたので、平等寺という正式名称を聞いたとき、ピンときませんでした。今回はこの平等寺をご紹介します。なぜ、因幡堂? それは後ほど・・・。鴨川に架かる五条大橋から一つ上流側(北)に松原橋が架かっています。この松原通を西に進むと、烏丸通に出る一つ手前の南北の通りが不明門通です。松原通と不明門通の交差する北西角付近に、冒頭左の写真の石標があります。不明門通を北に上ると、突き当たりが平等寺(因幡堂)なのです。南門前の左側の石灯籠に今回の特別公開案内板が立て掛けてありました。以下、呼び慣れている通称で表記します。不明門を何と読むのか? 「あけず」と読ませているのです。それは源平争乱の時代のことですが、因幡堂のすぐ南に高倉天皇の住まいである「東五条院」があったので、御所に遠慮して南門を開けなかったそうです。そのため、真南の通りが不明門(あけず)と称されるようになったのだとか。もともとこのお寺の場所は橘行平(たちばなのゆきひら)の屋敷があったところです。行平が長保5年(1003)に屋敷を改造してお堂を作り、「因幡堂」と名づけたのです。承安元年(1171)に、高倉天皇により「平等寺」と命名され、勅額を贈られたと言います。(駒札、資料1)現在は、真言宗智山派の寺院で、山号は「福聚山」です。 本堂 本堂の正面、向拝の鰐口の上部には、阿弥陀像の付けられた扁額が奉納されています。木鼻の象も彫りが深いものです。金網で覆ってあるのが少し残念なところ。 当日、本堂内を拝観した後で購入したのがこの図録です。因幡堂と行平が命名した由来が、「因幡堂縁起」として残されているのです。現在その縁起は2つの系統のものがあり、一つは東京国立博物館が所蔵する『因幡堂薬師縁起絵巻』で、もう一つがこの因幡堂が所蔵されるもので、因幡堂縁起三巻だそうです。因幡堂のものは、東寺の観智院が詞書だけの縁起として所蔵するものと同系統になると言います。両系統の記述内容には少し差異があるそうです。この図録の表と裏の表紙全体で、因幡国賀露津の海から薬師仏を引き揚げるという場面を描いています。江戸時代に出版された『都名所図会』では、この因幡堂縁起に基づいて記載したと思われますが、次のように説明しています。(資料2)「伝記に曰く、この本尊、天竺祇園精舎四十九院の内、東北の角、療病院の本尊、等身、栴檀木の像にして、釈尊みづから刻み給ふ聖容なり。かの伽藍破壊に及ばんとする時、東方さして飛び去り給ふ。しかるに一条院の御宇長徳三年、因幡国賀露津の海面に夜々光あり。国司橘行平卿漁人に命じて網をおろさしめ海底を潜しむるに、光明赫奕(かくやく)たる薬師仏を引上げ奉る。その後七年を経て長保五年四月七日に、行平卿の居館烏丸高辻に忽然として飛来し給へり。則ち館を仏閣に造りて安置し給ふ。今の因幡堂これなり。」上掲図録に載る縁起絵巻の説明には、天徳3年(959)に橘行平が神拝を目的に因幡一宮に赴くことになり、参拝を無事済ませた後、病に倒れたと記されています。その折り行平の夢に僧が現れ、賀露津に浮かぶ木を引き上げよと告げたと言います。賀露津で安大夫という90歳の老人から、海底に40年間光り続ける物があるということを聞くのです。そして、それを引きあげると、薬師如来像だったという次第です。因幡一宮は現在の「宇倍神社」です。現在、本尊は本堂の南東方向に設けられた収蔵庫に安置されています。上掲図録から引用したものですが、本尊薬師如来です。日本三如来の一つと称されています。三如来とは「阿弥陀・釈迦・薬師の三つの如来。特に三国伝来とされる長野善光寺の阿弥陀如来、嵯峨清涼寺の釈迦如来、京都因幡堂の薬師如来をいう」(『大辞林』三省堂)とのことです。鎌倉時代の作である釈迦如来立像(1213年作、重文)も収蔵庫に安置されています。普段は非公開です。少し、脇道に踏み込みますが・・・・。絵巻には、この薬師如来像を引き上げた行平が、その近くにこの薬師如来像を祀るお堂を建て、末子をその管理に残したと記されています。7年後にこの薬師如来が京の都に飛び去ったことになります。上記『都名所図会』には、「後光・台座は因州に止れば座光寺と号して今にあり」(資料2)と付記しています。一方、上掲図録の縁起絵巻の説明文に、「光背と台座の残された寺は『座光院』と改称し、山の上に移された。」「座光院では、残された台座に新たに作った仏像を置いたところ、仏像は釈迦自作の台座に立つことを遠慮し、台座から飛び降りた」という内容が詞書に記されています。縁起絵巻には、「寛弘元年(1004)、行平は薬師如来像のご利益で因幡守になることができた」とあるのです。東京国立博物館所蔵の『因幡堂薬師縁起絵巻』の解説では、「行平は寛弘2年(1005)、因幡国司となり」と説明しています。一方、上記図会の説明を言葉通りに読むと長徳3年(992)に橘行平が「国守」として因幡にいるという意味になります。駒札の説明文も、長徳3年(997)は国守橘行平の帰任の年とあります。とすると、縁起絵巻にある「神拝のため因幡一宮に赴く→因幡堂建立→ご利益として寛弘元年(1004)国司に」という経緯は、駒札の説明と史実を合わせた「国司から帰任→因幡堂建立→寛弘2年(1005)因幡守に」という経緯との間に差異があることになります。史実の行平は、寛弘2年(1005)に因幡守に任ぜられ、前任者の不正を摘発するということを行っています(上掲図録より)。探究課題が残りました。「座光寺」は今も存在するのか? ネットで調べてみると、鳥取県に「因幡薬師霊場会」の第28番札所として「菖蒲山 座光寺」というお寺があります。天徳年間(957~61)に創建され、薬師寺と称されていたお寺であり「およそ四十六年間、安置していた薬師仏を、因幡国司に赴いた橘行平が京都に持ち帰り、自家を改築して因幡堂と称した・・・・一方、因幡の薬師寺では、残った台座と光背をもって座光寺と改称」(資料4)と説明されています。この説明の「因幡国司に赴いた橘行平が京都に持ち帰り」という方が現実的な気がします。尚、「像容が994年頃に制作された真如堂(京都)本尊の阿弥陀如来像と酷似することから、京都の仏師によって10世紀末から11世紀初め頃に制作されたものと考えられる。体の奥行が薄く、背面に三つの節があるなど、仏像制作には不適な財が用いられており、これらの特徴と縁起の内容から、賀露の海に漂着した材で制作されたのではないかとの推測もある」(図録)そうです。脇道にそれましたが、色々な意味で興味深い仏像です。是非因幡堂にてご拝観ください。もう一つ興味深いのは、この厨子の背面にコロと呼ばれる車輪が取り付けられているのです。火事に遭遇すれば、厨子ごと尊像を避難させようという工夫がなされいるのです。収蔵庫内で厨子の背後のこのコロを部分的に見ることができます。この点も当時の人々の信仰心と防火対策としてのリスク管理が彷彿としてきます。一見の価値があると思います。そのこともあってなのでしょうが、薬師如来は頭に緩衝用の頭巾を被っておられるという珍しい姿で立っておられるということなのです。この薬師如来立像の作者は不明です。「一説には平安中期から後期にかけて仏師康尚によって作られたとも言われています。」(因幡堂ホームページより)本堂には「善光寺阿弥陀如来」が祀られ、外陣(右脇)には「弘法大師:「地蔵菩薩」、外陣(左脇)には「弁財天」「毘沙門天」「忿怒形三面六臂大黒天」が安置されています。木像橘行平坐像も安置されています収蔵庫の前に展示されていたのがこの飾り瓦です。ケースの前に、「本堂大屋根の巴蓋として明治十九年よりお堂を守ってくれた『贔屓』」という説明が付されています。これを見て、初めて、「巴蓋(ともえぶた)」という用語を私は知ったのです。調べてみて、巴蓋とは軒先の隅巴瓦の分岐部分の隙間の上に雨漏り除けとして被せられた瓦を意味することを知りました。後に魔除けのための像などを乗せた装飾瓦へと展開されていくようになります。因幡堂で知りたかった専門用語を一つ学ぶことができました。調べていて副産物として、軒丸瓦には巴紋が施されていることが多いことから、「巴瓦」とも呼ばれること(『大辞林』三省堂)も知りました。「贔屓」(ひいき)は、中国の伝説に出てくるもので、「龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている」(資料5)というものです。一度この因幡堂は史跡探訪の講座で訪れていますので、本尊はその時に拝見したのですが、今回は本堂の背後で発見されたものが特別公開されるということが再訪の動機でした。堂内では撮影禁止でしたので、案内板の上部に掲載されている写真をここに切り出して再掲します。本堂の背面に、後から本堂内に入る扉が設けられてあり、その両側に描かれている仁王像が特別公開の対象となったものです。鈴木松年筆「仁王像」です。鈴木松年は明治から大正にかけて活動した日本画家であり、「豪放な作風と狷介な性格で『曾我蕭白の再来』と評され、今蕭白とあだ名された」(資料6)そうです。上村松園の最初の師としても知られるといいます。(資料6,7)また、本堂内の一室には、「毛髪織込光明真言」、「伝小督局愛用のお琴 」、「伝小督局愛用の蒔絵硯 」なども展示されています。(資料8)本堂内部と「仁王像」他を拝見し、収蔵庫の本尊を拝見した後、境内を探訪しました。 門を入り、正面の本堂に向かって左側、南西方向に「観音堂」があります。堂内には本尊として二体の十一面観音菩薩像が祀られています。「元、北野天満宮に祀られた観音様で、東寺の観智院を経て当山に来られ、観音堂本尊として安置され」たという由緒があるようです。(資料9)因幡堂は、洛陽三十三観音の第二十七番霊場でもあります。右の写真は、観音堂の右脇に接合されたように建つ形のお堂です。ここには「大聖歓喜天(聖天)」が祀られているお堂です。観音堂の北側、本堂の西側の境内に、3つのお堂が並んでいます。一番手前が上掲の歓喜天を祀るお堂です。その北隣が地蔵堂、そして十九所権現(十九社明神)のお堂です。 十九所権現には、説明文を入れた額が掛けてあります。その説明では、因幡堂の信仰が篤かった後白河院が当寺の鎮守が因幡国の一宮の祭神である竹内宿禰と聞き、如来の擁護としては力不足と判断して、院宣にて十八所の神々を勧請されたのだそうです。その後、ある人に西の宮夷の御嫡子・一童御前を加えよとの夢告があり、後白河院が許可されたのだとか。そこで、十九社明神となったのだそうです。 正面の開かれた扉の前から見ると、覆屋の中に横長に連なった社殿が見えます。十九社は次の通りです。天照大神、八幡、春日、賀茂、祇園、愛宕権現、松尾、熊野、北野、山王、住吉、摩利支天、妙音、辨天、白鬚、多賀、平野、御霊、蛭子(一童御前)。畿内の著名な神社がまさに網羅されています。「十九はいくに通ず(心願成就)」と末尾に付記されています。この語呂合わせ的なところも、言霊に通じるということでしょうか。 この十九社権現の北側に神木があります。この神木の一部だったものなのかもしれませんが、覆屋の扉の左右に、「阿樹 女」「吽樹 男」として神木が見え、触って元気をいただいてくださいと表示札が出ています。ここにも「樹は気に通ず」と。北隣りには「閻摩天(焔魔天)」が鎮座しています。その傍に説明板があります。「人々の生前中の行為を見て賞罰を与える。密教では除病・息災・延寿を祈ります。御本尊薬師如来とともに、健康と長寿を司られます。正面で膝を屈め、下から拝まれますと御利益をいただけます。」と説明されています。閻魔について、第2・3文のような説明を読むのは初めてでした。おもしろい。5237さらに、北隣には「大日如来」を祀る小祠があり、一歩下がった形でその左右に金剛夜叉明王像 毘沙門天像の石像が配置されています。 金剛夜叉明王は「仏教の五大明王の一つ。北方を守護し、悪魔を降伏する。五眼三面六臂の忿怒相で表される。」(『日本語大辞典』講談社)「金剛杵(こんごうしょ)の威力を持つ夜叉(やしゃ)」という意味を示すサンスクリット語の名を持つ明王です。真言宗系の五大明王の一つです。如来の使者という位置づけになり、もともとはバラモン教やヒンドゥー教の神ですが、密教が成立する過程で取り入れられて生まれた仏であり、明王は如来、菩薩に次ぐ仏格に位置づけられるそうです。「明王の『明』は、神秘的な力をもつ言葉や呪文(真言)のことを意味します。・・・・如来の教えに従わない救いがたい人間や生き物を調伏、救済するために、如来の命を受けて怒りの形相(忿怒相)になって現れた仏とされます。」(資料10)天部の仏像である四天王のうち、北方を護る多聞天が単独で祀られる時には毘沙門天と称されます。毘沙門天もまた北を護る護国・戦勝神です。現在では小さな境内になっていますが、数多くの神々や諸仏が集合されているお寺です。 本堂の屋根を西側から眺めて 屋根の獅子口には、菊を橘が囲む形の紋が陽刻されています。本堂前の提灯の紋と同じです。これが寺紋なのでしょう。 入母屋造の屋根の合掌部にある懸魚は三ツ花懸漁のデザインです。その下の部分の蟇股に鳳凰が彫刻されているようです。手前の地蔵堂の屋根の軒丸瓦には、波がデザインされているのが目に止まりました。これもまた、因幡堂縁起との関係から選ばれた意匠なのかもしれません。築地塀の外側に「がん封じ」の赤い奉納幟が数多く立てられていました。今では比較的小規模な寺域に、拝見できるものが数多く凝縮されたお寺です。京都十二薬師霊場の第1番札所であり、京都十三佛霊場の第7番札所でもあります。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 因幡堂 平等寺の歴史 :「因幡堂(平等寺)」2) 『都名所図会 上巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p151-1523) 因幡堂薬師縁起絵巻 東京国立博物館所蔵 :「e国寶」4) 菖蒲山 座光寺5) 贔屓 :ウィキペディア6) 鈴木松年 :ウィキペディア7) 鈴木松年 :「コトバンク」8) 仁王画の叫び、復活の光 因幡堂で初公開 フォトギャラリー:「朝日新聞DIGITAL」9) 十一面観音 巡拝案内 :「因幡堂(平等寺)」10) 『仏像の見方ハンドブック』 石井亜矢子著 池田書店 p70,p80【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺因幡堂(平等寺) ホームページ平等寺(京都市下京区) :ウィキペディア因幡堂縁起と因幡薬師 中野玄三氏 論文橘行平 :「コトバンク」巴蓋(Tomoebuta)巴蓋(ともえぶた) :「淡路瓦」隅巴蓋 :「タツミ」隅留蓋(すみとめぶた) :「MIHARA」巴蓋(ともえぶた) :「美濃邉鬼瓦工房」隅巴蓋(すみともえぶた)の取り付け方。 :「お洒落な屋根 山田瓦店 参巻」三人の師 上村松園 :「青空文庫」東寺塔頭 観智院 :「東寺」因幡国一の宮 宇倍神社 ホームページ宇倍神社 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 [再録] 京都・下京 梅小路公園の梅 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 粟嶋堂-人形供養-宗徳寺 細見 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 京都水族館 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 西本願寺細見 -1 御影堂門、総門、灯籠と大水盤 へ 西本願寺は7回シリーズでご紹介しています。これはその第1回です。探訪 [再録] 京都・下京 史跡めぐり -1 左女牛井跡・若宮八幡宮(佐女牛井八幡)へ この第1回からゴールの五条大橋、河原院跡までを4回シリーズでご紹介しています。
2017.02.10
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狛坂磨崖仏から国見岩に向かう途中で、巨岩の間の細い山道を通ります。右の画像は通過後、振り返った景色です。 [探訪時期:2014年10月] 次々に奇岩・巨岩を見つつその傍を通り、 大岩を回り込み 岩の近くを上に登ると、一挙に展望が開けます。ここが「国見岩」です。 真っ直ぐに眺め渡すと遙かに山並みが折り重なり、 岩場の先端近くから眼下を望むと、まさに近江国が一望の下に広がるのです。その名の通り、国を見る岩の上という絶景展望地です。 北の方向を遠望すると、三上山が視野に入ってきます。 ズームアップしてみました。国見岩の近くの道標には、「KS・2」というコールポイントの表示が付いています。これは、万一、事故等が生じ救助を求める場合に所在を伝えるポイントを示す記号です。龍王山への尾根道を進むと、 「重岩」の奇岩が忽然とあります。こんな形の岩の積み重なりがどのように形成されたのか不思議です。ふと見ると、下岩の側面に石仏が線刻されています。 「白石峰」は四方向への分岐点です。金勝山ハイキングコースの重要なルートポイントです。数多くの拠点表示がなされています。山行の目安として大変便利です。傍には「金勝山ハイキングコース案内図」もあります。 白石峰からの眺め 龍王山山頂への途中にある「茶沸観音」石仏岩を舟形に穿ったくぼみ(龕)に、石仏像が厚彫りされています。この石仏は、鎌倉時代に作られたと推定されています。実は観音立像ではなく、蓮華座の上に立つ如来立像だそうです。なぜ「茶沸観音」なのか? ここで参詣者に茶のもてなしが行われていたことから、この名の由来があるそうです。(資料1) 龍王山の山頂ここには2つの小社が祀られています。右側の小祠には「金勝寺八大龍王本殿」の石標が立っています。左側の小祠には、左側に駒札があり、大野神社の境外社だという説明が書かれています。こちらには「天之水分神」が祀られているそうです。八大龍王社は金勝寺を開いた僧・良弁が金勝寺の開創と同時に、この金勝山の最高地点になるこの龍王山山頂に八大龍王を祀ったといいます。そして、旱魃の折にはこの社前が雨乞い祈願所となったそうです。社前において法華経が読誦されたそうです。雨乞い祈願は近年まで行われていたようです。(資料2)大野神社は、嵯峨天皇の勅願により僧願安が金勝山連峰に狛坂寺を建立した時、その守護神となって狛坂天神と称されたということにその起源があるそうです。そして、寛平九年権大納言菅原道真が、金勝寺に勅使として参向の折、大野神社に滞在したという縁由をもって正一位於野宮天満宮と称されたことから、天満天神を祭神とするに至ったといいます。(資料3)狛坂寺との関係でこの境外社が祀られていたということでしょうか。大野神社は現在は全く別の次元で有名神社になっているようですが・・・・。いずれも農業に必須の水の恵みに関わる神が祀られているのですね。雨乞い祈願。ここは金勝山の分水嶺・龍王山である旨の説明が駒札の末尾に記されています。 山頂近くからの眺め 山頂の四等三角点の石標。傍に登山者の登山記念表示板が樹木に掛けられています。そして、下りに入ります。目指すのは馬頭観音堂です。馬頭観音堂の傍が、金勝山ハイキングコースの一つの入口になっています。ここまでは金勝寺林道が自家用車通行可能であり、ここに約10台の駐車スペースがあるのです。馬頭観音堂は駐車場からは少し高みにあり、こんな掲示がでています。 「馬頭観音堂」 ここで昼食休憩となりました。市内を一望できるエリアが広がっていて、散開して思い思いに休憩タイムをゆったりと過ごせる場所でした。 のんびりと市内を眼下に遠望していました。 休憩タイムに見つけた蝶々 休憩後は金勝寺林道を下り、最後の探訪先「金勝寺」に向かいます。つづく参照資料1) 狛坂磨崖仏・栗東市荒張 :「滋賀文化のススメ」2) 地域の歴史文化・名所 :「大戸川ダム工事事務所」3) 大野神社 :「滋賀県神社庁」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺八大竜王 :ウィキペディア八大竜王とは :「八大竜王豆知識」大野神社 :「滋賀県観光情報」「嵐」の聖地は栗東の大野神社 2013/05/08 :「徒然草」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -1 オランダ堰堤・逆さ観音・狛坂磨崖仏 へ探訪 [再録] 滋賀・栗東 金勝山の磨崖仏と金勝寺を巡る -3 金勝寺・金勝寺遺跡・こんぜの里・県民の森 へ
2017.05.26
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天理市立井戸堂小学校の傍を通り、集落の一角から、現在合場町のこの辺りで合場遺跡の調査がなされたという説明を聞きました。ここには、古墳時代前期から中期の集落遺跡が確認されたそうです。今は田畑として利用されている景色です。大凡の位置関係はこちらの地図(Mapion)をご覧ください。「合場」は「愛波・阿波」とも書き、中世は興福寺領、近世は旗本山口家領だったそうです。(資料1)向かった先は「三十八社神社」です。マピオンやグーグルで拡大地図を参照しましたが、記載のない小さな神社です。所在地は天理市合場町259番地。集落の南東の杜に鎮座します。ここにかつては真言宗の教恩寺というお寺があったそうです。このお寺は布留社の神宮寺(中筋寺三十二箇寺)とされています。明治の神仏分離令の影響でしょうか、明治2年に廃寺となりました。(資料1)「布留社」とは石神神宮の別称の一つのようです。「中世には、布留社を中心にして52ヶ村からなる布留郷が成立していた。布留郷には32ヶ寺からなる中筋寺があり、明治の神仏分離の処置までは、中筋寺と内山永久寺及び桃尾竜福寺は、輪番で布留社の社僧を務めていたという。」(資料2)三十八社神社の境内の一角にある建物(会所)に、この薬師如来坐像が祀られ、維持管理されているのです。まず廃教恩寺の仏像を拝見しました。天理市内の丹波市町迎乗寺から移座された仏像と伝わるものです。(資料1)欅一木造で脚部は別材の矧付で、手先は後補されているとか。「一木造りの構造にふさわしく両肩が張り、体躯の奥行きを十分とって両脚で厚みがあり、ねばりのある肉づけなどが加わって重量感に溢れた偉容を示している。殊に本像の特色は律動的な衣文の表現にある。」(資料2)というもので、平安前期の特徴が濃く出ている仏像だという説明でした。衣紋には翻波の名残があり鎬立った彫りがみられるものです。10世紀初に造立されたと推定されています。穏やかな顔相ですが、鼻先の後補や一部彫り直しの痕跡もあると云います。(資料1,3)見仏の後、神社の拝見です。境内の一端に石灯籠と「御百度」石が一列に並んでいます。 御百度石の左隣りの石灯籠この石灯籠の竿部分に「三十八社」と陰刻されているので、この神社が三十八社神社だとわかります。私が見た範囲では、神社の由緒説明などは見かけませんでした。「御百度」石の左側面には「安政六巳未年正月吉日」と建立日付が刻されています。安政6年は江戸時代で、1859年です。その右隣りの石灯籠の竿には、正面に「大神宮」、側面に「文政」という年号が刻まれています。文政の下の文字は私には判読不可。文政年間は1818~1830年です。 拝殿に近いところの建物の傍で見た角柱の灯籠こちらには「愛宕山大権現」と刻されています。側面には文政4年云々と刻されています。 拝殿 本殿拝殿を回り込むと朱色の鳥居と腰板部分が朱色に塗られた屋根付きの瑞垣で囲まれた本殿があります。祭神は和加宇賀売神(わかうかめのかみ)。(資料4)和加宇賀売神が「若宇迦之売命(わかうかのめのみこと)」と同じと考えると、この名称は「宇迦之御魂神」の別称であり、古代社会の農神の稲魂で、農業・田の守護神ということになります。(資料5)この三十八社神社は石上神宮の境外社とされているそうです。また、この神社は愛宕神社とも称されるようです。境内に「愛宕山大権現」と陰刻された角柱灯籠があることが納得できます。 石段前の狛犬像それでは本殿の拝見です。 近年に補修されたのか、本殿の彩色が鮮やかです。 一間春日造。後補材が多いとのことですが、柱や斗、虹梁、蟇股、木鼻に室町中期の特徴が残る建物だとか。(資料1)木鼻はごくシンプルな表現になっています。建立年代を室町後期と記す資料もネット検索してみて見かけました(資料6)。中期の特徴を備えて後期に建立されたとみることもできますね。 本殿の側面で面白いことに気づきました。壁に描かれている鶴が両面とも本殿の正面には尾の方を向けているのです。神様が本殿の奥側に鎮座するということで、そういう向きで描かれているということでしょうか。この神社は三十八社神社ですが、「三十八神社」という名称の神社が結構あります。この「三十八」が何に由来するのかという関心が出て来て、ネット検索していて興味深い説明を見出しました。起源は吉野の金峯山に求めることができるそうです。こちらのサイトにアクセスしてみてください。 (「三十八社神社」御所市今住字堂垣内 :「御所市観光HP」)神社を後にして、次の探訪地に向かいます。 集落の民家の軒屋根上で見つけた鍾馗像 再び山辺御縣坐神社の石鳥居前にもどり、境内地を東方向に回り込んで北に向かいます。 道の途中でふと見上げたNTTのコンクリート製電信柱の表示ラベルが「イドンド」と記されています。境内を回り込み、川を渡る折に見た橋名は「いどうどうはし」という銘板が付けられています。たぶんどちらも「井戸堂」という地名の呼び方なのでしょうね。「イドンド」という方が、昔からの地元の人が呼びそうな感じ・・・・事実は確かめていませんが・・・・。 「富堂西」というコミュニティバスのバス停のそばを通ります。川が南北に流れています。このあたりは、中ツ道跡そのものを使った現在の道路を北上しているようです。この布留川北々流がかつての中ツ道の側溝の利用なのかどうかは、確認をし忘れました。さらに北上すると、現在は田畑が広がっている一角に「岩室阿弥陀堂」跡に至ります。現在は土壇が残るだけです。そこに集落にあった石仏が移されています。 土壇の上に立って眺めた石仏群個別に見仏してみましょう。 こんな感じの石仏です。中央の地蔵石仏は高さ120cm。私は確認できませんでしたが、天文14年(1545)の銘があるそうです。光背頂部には地蔵の種子(梵字)が刻まれています。次は、岩室池古墳です。つづく参照資料1) 龍谷大学REC「関西史跡見学教室24 ~天理・中ツ道」 当日配布のレジュメ (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成)2) 大和内山永久寺多宝塔・西谷薬師院三重塔 :「がらくた置き場」 附録:石神神宮(布留社)を参照3) 「合場町 廃教恩寺 木造薬師如来座像」 当日拝見時にいただいた説明資料4) 合場町・愛宕神社 :「奈良の寺社」 ⇒ 2017.12.24時点でアクセス不可5)『日本の神様読み解き事典』 川口謙二編著 柏書房 p261 宇迦之御魂神 :「玄松子の記憶」6) 奈良県天理市・桜井市の建築 :「奈良県の古建築」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺島田三尊種子板碑の紹介 地蔵の種子がわかります。野間中 地蔵一尊種子板碑 :「板碑」総本宮 京都 愛宕神社 ホームページ地蔵種字板碑 :「文化遺産オンライン」梵字と種字の一覧 :「古文書ナビ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -1 長柄環濠跡、中ツ道跡、天皇神社 へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -2 中ツ道跡・山辺御縣坐神社・妙観寺(観音堂)へ探訪 [再録] 奈良・天理 中ツ道跡を歩く -4 岩室池古墳・雲井寺地蔵堂・前栽遺跡 へ
2017.12.24
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渡殿を歩む女官 当日いただいたパンフレットから、六條院の春の御殿(一部)のレイアウト図を引用します。左の寝殿と右の東の対とは、渡殿と透渡殿(すきわたどの)の2箇所で結ばれています。渡殿と透渡殿の間に壺庭があります。 今回は東の対(対の屋)の番号2の箇所が、五節所(五節の局)と見做されています。前回の末尾で、『枕草子』第86段のエピソードをご紹介しました。このエピソードはこの五節所で起こった情景です。展示説明では「五節の舞姫付添女房を主役に引き立てた小忌(おみ)の女房・定子の興」と名付けてあります。五節所は舞姫の控室だそうです。五節の行事の時、五節所は御所の「紫宸殿」の北にある「常寧殿」の四隅に仮設の控室として設けられました。上﨟公卿、下﨟公卿、上﨟受領、下﨟受領のいずれの五節かに応じて四隅のいずれの場所かが決められていました。五節の最終日、辰の日には、豊明節会でのヒロインである舞姫が紫宸殿に移動した後、世話掛12名ほか付添童女・下仕は五節所に残ることになります。仮設の五節所は日も暮れないうちから撤去するのが決まりだったと言います。すると、開け広げになった場所で世話掛他全員が控えていなければならず困った状態になります。そこで中宮定子は、辰の日の夜までは仮設の五節所をそのままにしておくようにさせたのです。そこで、前回ご紹介した中宮定子のサプライズ、つまりあの青摺の唐衣や汗衫を全員に着させるという趣向がこらされました。殿上人や上達部たちは驚き、おもしろがり、小忌(おみ)の女房と世話掛たちにあだ名を付けました。それに対して、清少納言は貴公子たちを小忌の君たちと記しています。つまり、五節所に控えている小忌の女房と、五節所の御簾の外に居て女房たちに話しかける小忌の君たちとの対話場面がここで生まれます。 五節所の御簾の外に藤原実方がいます。御簾の内側に解けた赤紐を「結びたいわ」と言った小兵衛が居ます。実方が解けた紐を結び直してあげるのです。だがその後で、実方は歌を詠んだのです。前回ご紹介した あしひきの山井の水は氷れるをいかなるひものとくるなるらん という歌です。 (山井の水は、この寒さに氷っているのに、溶けるとはどういう氷なのでしょう) 別の小忌の君。彼もまた実方の詠んだ歌の返歌に興味をもっていることでしょう。中宮職の宮司は、実方の詠んだ歌を聞きとどめ、小忌の女房がどのように返歌をするのか・・・と見守ります。待っていても、若い小兵衛は人目に立つ場所のせいか、言いにくいのか、黙ったままなのです。宮司は常寧殿の脇の方から入り御簾ぎわの女房に小言でささやきます。愚図愚図してないで、早く返歌をしなくっゃ駄目だよ。格別に立派な歌でなくてもいいんだから、即座に詠んで返すのだよと。 清少納言は、小兵衛から4人ばかりを隔てて座っています。宮司が非難して回るのが気の毒になり、 うは氷あはに結べる紐なればかざす日かげにゆるぶばかりを (水面の氷のように、あっさりと結んでおいた紐なので、日蔭の蔓をかざすだけで 緩んでしまうまでなのです)と返歌を詠み、弁のおもとという女房に取り次がせます。ところが、この女房ふだんすこしどもる癖があります。この人も恥ずかしがりまともに聞こえるように返歌を言えないのです。気取って相手にすばらしく聞かせようとするから余計に駄目。実方中将は御簾に耳をおしつけるようにして聞こうとするのですが、中将はとうとう聞き取ることができませんでした。とまあ、そんな顛末になります。清少納言は返歌が伝わらなかったことで、上手な返歌ではないという評価をされずにすみ、自分の恥を隠してくれたようなものとほっとしたとか。そう『枕草子』に記しています。第86段の該当箇所は次のとおりです。「弁のおもとといふに伝へさすれば、消え入りつつえも言ひやらねば、(実方)「なにとか、なにとか」と、耳を傾けて問ふに、すこしことどもりする人の、いみじうつくろひ、めでたしと聞かせむと思ひければ、え聞きつけずなりぬるこそ、なかなか恥隠すここちしてよかりしか。」 ここには、「藤原実方と清少納言の歌」と題した解説パネルが設置されています。このパネルには、実方と清少納言の歌に含まれる掛詞の説明があります。抽出してみますと、実方の歌 山井⇒山藍 氷(ひ)も⇒紐 溶け⇒解け清少納言の歌 日かげ⇒(氷を溶かす)日光・(五節の)日蔭蔓 ゆるぶ⇒氷が溶ける・紐が解ける「日蔭蔓」は顔の横に下げる糸状の髪飾りで、最も重要な神事である新嘗祭に用いられたそうです。紐が解けるというのは、互いの思いが通じることを意図する言葉だそうです。実方は掛詞で年若い小兵衛を口説いていることになります。当日いただいたパンフレットには次の説明が加えてあります。「実方は小兵衛を口説いているものの、これは公衆の面前であり、個人的な恋の駆け引きというよりも、定子付きの女房に対して和歌の才を競うためのものであった。」と。なぜ世話掛の女房たちが「小忌の女房」とあだ名で呼ばれたのか?実方は掛詞になぜ「山井」に「山藍」を掛けたのか?私にはこれが今ひとつ釈然としませんでした。手許の辞書に、「小忌」とは「大嘗祭や新嘗祭の時に、厳しい斎戒を受け、小忌衣を着て神事に奉仕すること。」(『大辞林』初版、三省堂)。「①大嘗祭・新嘗祭などの祭時に、官人が厳重な斎戒を受け、小忌衣を着けて神事に奉仕すること。小斎。②小忌衣の略。③小忌人の略」(『広辞苑』初版、岩波書店)と説明されています。 この解説パネルを精読したのはこれをまとめている時です。疑問が解けました。(確認しますと当日入手したパンフレットにも同内容が掲載されています。)「青摺の衣は清浄な物忌みの服で、白に山藍で草木蝶鳥などの文様を型で摺り染めにします。平安初期以降より神事における神職でない一般官人の特定の斎服となり、新嘗祭・大嘗祭に奉仕する小忌の官人の服として用いられるので『小忌服』と呼ばれました。この場面では女房が着ているので青摺の唐衣となっています。」(説明パネルより転記)「赤紐は小忌服の肩に綴じつけた紐で、赤と濃色、または赤と黒の2本の紐からなり、肩から2つに折って前後に垂らします。青摺りの衣には赤紐をつけるのが特色とされ・・・通常の小忌が右肩につけるのに対し、舞人の場合は左肩につけました。」(同上)新嘗祭の行事(豊明節会・五節)の中で世話掛の女房たちは青摺の唐衣を着たので、小忌の女房と称された。青摺に山藍が使われることがわかっていたから、藤原実方は山藍を掛詞に含めたということだったのですね。ナルホド!です。藤原実方の歌は、『百人一首』の第51番に収録されています。有名な歌の一つです。 かくとだにえやはいぶきのさしも草さしも知らじな燃ゆる思ひを (せめて、こんなふうだと思うことさえできない。伊吹山のさしも草ではないが、 あの人はさしも知るまい。私の火のように燃えあがる胸の思いを。参照資料から引用) 一足先に一旦この東の耐を回り込みますと、東側は廂部分を省略して引戸までが具現化されています。その引戸から小忌の女房たちの姿が窺えます。 南側を見ると、一番南側に清少納言が座っています。 北側を見た景色です。 青摺の唐衣を着ている姿がよくわかります。 さて再度東の対の西側に戻ります。女房たちが五節所の御簾のそばに居並び、その衣裳の一部を御簾からすこし外に出して衣のかさねの色目の美しさを見せている姿、その形式がよくわかります。 東の対の西面から南面に移りましょう。廂部分の南西角は几帳で仕切りをこしらえています。几帳はオフィスにあるパーティションの機能を担ったのでしょう。上掲の間取り図で言えば、番号3に移ります。こちらは『源氏物語』の七夕の場面です。つづく参照資料*各所に設置された解説パネル*当日頂いた今回展示の解説パンフレット「風俗博物館」(令和3年4月~展示)*『新版 枕草子 上巻 付現代語訳』 石田穣二訳注 角川文庫*『百人一首』 鈴木日出男著 ちくま文庫 p112-113補遺風俗博物館 ホームページ青摺 :「コトバンク」青摺の衣 :「コトバンク」小忌衣 :ウィキペディア山藍 :「コトバンク」ヤマアイ :ウィキペディアネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2021年の展示 -1 豊明節会・五節の舞 へ
2021.08.11
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大雄宝殿正面の回廊を斎堂側に引き返し、法堂への回廊を進みます。 回廊から眺めた「法堂(はっとう)」です。 回廊の突き当たりは石段の先に板戸が見えます。 大雄宝殿の東側から眺めると回廊の先、南側に入母屋造・柿葺きの「東方丈」の屋根が見えます。 柱に「東方丈」(重文)の木札が掛けられ、案内額も掲示されています。東方丈は「中央に寿像がある。1日、15日の一山の朝礼その他の式礼は住職が就いて取り行われます。襖や壁は池大雅の五百羅漢図、虎渓三笑の図、西湖の図、全部重要文化財ですが、現在は京都博物館に出陳されています。その他額や聯は開山禅師、木庵禅師筆で重要文化財です。この奥に住職の居住する甘露堂があります。」(案内文転記)板戸の左右の柱には、聯が掛けてあります。右側には「甘露中門開八字」、左側には「十方龍象任登来」と記されています。 右側に目を転じると、ここにも東方丈への入口があり、小ぶりな鐘が吊されています。この鐘も何か特定の合図として叩かれるのでしょう。 法堂に向かいます。 左折してまず目に止まるのが、白壁に設けられた円窓。 大雄宝殿の円窓との違いは、大きめの格子の円窓になっている点です。 円窓を斜めから眺めると、「方丈」と記された扁額が部分的に垣間見えます。 法堂正面の回廊を北方向に眺めた景色 法堂正面の北側から南方向を眺めた景色 大雄宝殿の東側から正面に法堂を眺めた景色です。 法堂側から眺めた大雄宝殿の東面です。 法堂の案内額 法堂は入母屋造、桟瓦葺きで、寬文2年(1662年)に建立されました。法堂は禅寺の主要伽藍の一つで、説法を行う場所です。法堂の内部は見られません。内部には須弥壇のみ置かれているとか。(資料1)「中央の高いところを須弥坦といい住職がこの坦上に登って説法し衆僧は問答(商量)によって所信をみがくところ」(案内文転記) 坦は壇と同義でしょう。参照の小冊子(資料1)に「上堂」という語句が使われています。意味がつかめず調べてみたら、住持などが須弥壇に上り説法することだそうです。(資料2)法堂は住持の晋山式にも使われます。(資料1) 法堂の正面の勾欄は卍くずしの文様が使われています。この文様は、奈良時代の法隆寺など南都寺院に使われていますが、江戸時代初期にあらためて黄檗を通じてもたらされたとか。(資料1) 正面に「獅子吼」の扁額が掲げてあります。隠元禅師の師匠である徑山(きんざん)費隠禅師の書によるもの。(案内額、資料1)獅子吼とは、釈尊の説法を、百獣の王である獅子が一度咆哮すれば百獣すべてがこれに従うということにたとえた言葉です。(資料1) 左右の柱には第6代千呆禅師筆による聯が掛けあります。右側の聯は「棒喝交馳国師千古猶在」、左側の聯は「象龍囲繞霊山一会儼然」と記されています。(資料3,4)法堂の背後(東側)の奥には、伽藍図を見ますと、「威徳殿」があります。徳川歴代将軍を祀るお堂だそうです。昔は、雙鶴亭があったと言います。(資料1,西方丈の案内文) 法堂正面を通り過ぎ北に進むと、西方丈の角に到ります。板塀に「西方丈(重文)」の案内額が掲げてあります。西方丈は総門とともに、寬文元年(1661)最初に建てられた入母屋造、柿葺の建物です。方丈は禅院住持の居間です。萬福寺では寬文5年に甘露堂が建てられて以降そこが使われるようになりました。上記と重なりますが、それ以来、二つの方丈は来客の応対や特定の儀式に使われるようになったそうです。(資料1)西方丈側の回廊を西方向に進みます。 回廊の西方向を眺めた景色 途中、右側(北)奥にお堂があります。こちらに向かう回廊には「納骨堂」の扁額が掲げてあり、建物の正面に扁額が掲げてありますが、中央の一字が判読できません。 このお堂は堂内に「慈光堂」の扁額が掛けてあります。延宝3年(1675)に建立されたお堂で、一般信徒の位牌を納め、永代供養する場所になっています。隠元禅師300年遠諱のときに納骨堂が併設されたそうです。納骨堂の額が掲げてあるのはこれに由来するのでしょう。宗旨を問わず納骨を受け付けているそうです。(資料1) 慈光堂の屋根の鬼瓦 慈光堂の西側にある宝篋印塔塔身の語句が目にとまりました。「怨親平等」という語句の意味はどう理解すればよいのか。調べてみて、「おんしんびょうどう」と読むのです。やっと一歩理解が深まりました。「怨敵と親しい者とを平等にみる」という意味だったのです。「にくい敵であるからといって憎むべきではないし,また親しい者であるからといって特に執着すべきではなく,平等にいつくしみ憐れむべきことをいう。」と説明されています。(資料5)グプタ朝時代に仏典のサンスクリット化の過程で<ブツダチャリタ>という釈迦の伝記が作られたそうです。それが『仏所行讚』として漢訳され、釈迦の御遺告「能者看定、以怨親平等観行、可令預護」がその語句の由来だと言います。(資料5,6)その境地に到るには、修行がいることでしょう。まずは意味の理解から一歩を進めましょう。 位置関係がこの景色からお解りいただけるでしょう。北東側から撮った景色です。左に見える屋根が南にある大雄宝殿です。宝篋印塔の背後が西方丈からの東西方向の回廊(左)と大雄宝殿からの南北方向の回廊の分岐点です。慈光堂は左(東)隣りになります。 さて、宝篋印塔のある箇所から回廊に戻ります。西方丈の方向を眺めた回廊の景色です。そのまま右に目を転じると、大雄宝殿の北側面の花頭窓が見えています。回廊を右折して進むと、 「禅堂」です。角の柱に「黄檗専門道場」の木札が掛けてあります。 この案内額が掛けてあります。 禅堂の傍にも巡照板があります。ここのはかなり打ち鳴らされている感じ・・・・。年季が入っていますね。山内にはここを含め5ケ所に巡照板が設置されているそうです。 禅堂の正面扉の上には隠元禅師筆の「選佛場」の扁額が掲げられ、左右の柱には聯が掛けてあります。残念ながら、ここの聯についての資料はありません。私には判読できない文字があります。 吊り下げられたこの「止静」の文字が効いています。三黙道場の一つ、速やかに静かに通り過ぎることに。静寂の漂う区域です。 回廊沿いに、祖師堂・鼓楼に向かいます。つづく参照資料1)『最新版フォトガイドマンプクジ』 萬福寺発行 萬福寺売店にて購入した小冊子2)『岩波仏教辞典 第二版』 中村・福永・田村・今野・末木[編集] 岩波書店3)『都名所図会 下巻』 竹村俊則校注 角川文庫 p106-1104) 黄檗山萬福寺(万福寺) 都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 怨親平等 :「コトバンク」6) 仏所行讃 :「コトバンク」補遺黄檗宗大本山 萬福寺 ホームページ黄檗宗僧侶名鑑 黄檗宗資料集 :「黄檗宗・慧日山永明寺」 千呆性侒 即非如一千呆性侒 :ウィキペディア黄檗禅宗 瑞芝山 閑臥庵 ホームページブツダチャリタ :ウィキペディア仏所行讃 : 現代意訳 池田卓然 訳著 :「国立国会図書館デジタルコレクション」仏所行讚:「つばめ堂通信」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -1 総門と門前点景 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -2 総門(2)・影壁・放生池・三門ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -3 三門(2)・菩提樹・鎮守社・天王殿前境内 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -4 天王殿(ほていさん・韋駄天・四天王)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -5 売茶堂・聯燈堂・鐘楼ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -6 伽藍堂・斎堂(禅悦堂)・雲版 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -7 斎堂の開?・月台・大雄宝殿ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -8 大雄宝殿 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -9 大雄宝殿の十八羅漢像と隠元禅師像 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -11 祖師堂・鼓楼・合山鐘・石碑亭・寿蔵ほか へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -12 開山堂・松隠堂・通玄門 へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -13 文華殿と塔頭(天真院・万寿院)へスポット探訪 宇治市 黄檗山萬福寺細見 -14 北西周辺の塔頭(萬松院・龍興院・宝蔵院・宝善院)へこちらもご覧いただけるとうれしいです。一覧表 宇治(探訪・観照)一覧
2022.01.16
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「浴室」の建物の南側には東方向への通路があります。そこで左折し東に進むと、生け籬越しに浴室の南面が見えます。その先は北側に築地塀が続き、大きく伸びた竹や樹林が鬱蒼と茂っています。ここでご紹介するのは、2016年11月に散策したときのものです。未整理でしたので、ここに統合してご紹介します。この画像は築地塀沿いい東方向に歩き、途中で振り返り、西を見た景色です。 築地塀の先に、一つの門が見えます。門の正面には丸竹が遮るように両側の門柱に横にはめ込まれています。正面に向かって右の柱には「建仁僧堂」の大きな木札が掲げられ、左の柱には、「入制大攝心」と白字で記され、その下には期間と面会謝絶の文字が見えます。その表示板の下には、年中掲げられているのでしょう、「拝観謝絶」の木札も掲げてあります。ここは元は、慈照高山(広済禅師)の法嗣海雲が慈照高山を追請開山として開創した建仁寺の塔頭「霊洞院」だそうです。この塔頭は本山とともに天文21年(1552)の兵火で焼失。天文23年に希三宗燦禅師が再興されます。そして、現在の堂舎は嘉永6年(1853)に再建されたものだとか。現在は「建仁僧堂として専門道場になっています。(資料1,2) 門前から庫裡までの庭部分を撮らせてもらいました。 庫裡の戸が開いているようなので、ズームアップして見ると、「大攝心」と白字で大きく記された表示がここにも見えます。「攝心」は「接心」であり、「禅宗で、一定期間を定め、昼夜の別なく集中的に座禅修行すること。接心会。」(『日本語大辞典』講談社)だそうです。11月1日から7日までの「大攝心会」が建物内部では実施されていることになります。 もう一つ、上掲の左の画像で木の枝の下に何かが見えるので、ズームアップしてみました。箒を握り庭を掃く小僧さんの石像です。そのままなら庭を掃く一休さん、大人に見立てると寒山拾得を連想してしまいました。 一隅にこんな石像も見かけました。こちらは、浴室の傍から建仁僧堂までの通路の一隅で目に止まった石像です。 この絵図は、『都林泉名勝図会』に載る「建仁塔頭 霊洞院」の書院の南から東へ矩形に広がる地泉回遊式の庭を描いたものです。(資料3)池の土橋が石橋に変わっただけでほぼ江戸時代の庭園の姿を現在まで維持継承されているそうです。なお、近年十重石造層塔が対岸に立てられたといいます。約800㎡の広さがあるそうです。(資料1)機会があれば、この建仁僧堂の庭園の拝見がしてみたいものですが、建仁寺派の修行道場として通年で使用されているならば、無理でしょうね。「方丈前の庭園は江戸中期の享保頃の作と推定される。昭和49年、国の名勝庭園に指定」(資料2)とのことです。建仁僧堂の門前の道をさらに東に進むと、突き当たりにもう一つの塔頭があります。 「大統院」です。観応年間(1350-52)に青山慈永(1302-1369)を開基として創建された塔頭です。ここも天文21年の兵火で類焼し、寛永14年(1637)に再建されたそうです。大統院は天文年中に焼失した光沢庵、明治に如是院を統合し、現在に至るそうです。(資料2)この「大統院」は普段は非公開寺院です。今までに京都市の非公開寺院特別公開の期間に公開されたことがあります。ネット検索してみて、いくつか紹介されているブログ記事を見つけました。2016年11月に、この大統院の本堂を借りて催されたある例会にたまたま出席する機会を得ました。その折に境内を拝見できたのです。上記のようにネット記事が載っていることも最近知りましたので、この建仁寺のご紹介の一環として触れておきたいと思います。 門を入ると、参道を挟んで趣の異なる庭があります。参道の右側は苔庭に石組と灯籠、樹木が配された枯山水式です。 一方、左側は建物の前庭部分になり参道沿いに長い石柱材が腰掛けにもなる形で置かれていて、三角形の庭部分に小振りな石仏が配されているのです。 石仏が参道を歩む人々を迎えてくれているという趣があります。陶製の祠がおもしろい。 本堂へは唐門を通り、左に折れる短い回廊部を経て本堂の階段を上がる形になっています。 虹梁の上の大瓶束の両側が全面的に透かし彫りが施されています。 そして、そこには向かい合う龍が雲と逆巻く水流の中に躍動感を漲らせています。虹梁と頭貫の間が白壁になっていることで、透かし彫り彫刻に目が引き寄せられていきます。回廊部は床面の敷瓦が四半敷となっています。正面の衝立の機能も果たしていると思われる白壁には、「耕雲」と揮毫された額が掲げてあります。本堂の南庭は、建仁寺派管長・小堀泰厳師によって「耕雲庭」と名づけられたといいます。白壁の左から本堂の南庭を眺めた景色です。この「耕雲庭」は2009年に、現代の作庭家・北山安夫氏が作庭されたものといいます。(資料4)移動し視点を変えて庭を眺めてみましょう。 南庭の東端と南端は背の高い樹木により、外の世界を極力遮蔽し、独立した空間に目を向かわせます。東と南の周辺に植栽が限られて、庭の中心域には緑色の苔地とグレーの石がそれぞれ方形から長方形へと変化する市松模様の意匠にデザインされています。そして、植栽に半ば埋もれるように石灯籠が立ち、その手前でいくつかの置石と一つの立石、円筒の水鉢により石組みが造られています。伝統とモダンな感覚の融合がここにあります。年を経ると苔地の姿と表情が変化し、市松模様に敷かれた石の色調が変化していくことでしょう。この庭は静と動が交錯し、組み込まれた庭とも言えそうです。北、西にも庭があるそうですが、機会があれば再訪し拝見したいものです。 境内の一隅に、こんな石標が立っています。「従是南建仁寺領新免地」(これより南建仁寺領新免地)と判読できそうです。これはもともとどこかで使われていた境界道標をここに移してきたものでしょうか?現状では大統院が境内の南東端に位置しますので・・・・。もう一つ、「五畝画伯之碑」が目に止まりました。高瀬五畝(たかせごほ)という金沢生まれの日本画家です。明治11年生まれで、昭和36年没。禅の影響を受け、近代絵画と水墨画の融合を目指していた画家という説明をネット情報でしりました。(資料5) 大統院を出る前に東側から撮った参道横の景色。霊洞院(建仁僧堂)と大統院に行く通路は、八坂通の一筋北になる部分的な通路です。この通路の南側で八坂通との間、大統院の西側に塔頭「零源院」があります。霊源院は、2015年の「京都冬の旅」で訪れています。そのまとめをこちらに既に再録していますので、こちらからご覧いただけるとうれしいです。 (探訪 [再録] 2015年「京の冬の旅」 -3 建仁寺霊源院)建仁寺境内の西側、禅居庵の北にも塔頭が並んでいますが、未訪です。非公開寺院が多いので、門前にも行っていない区域です。いずれ門前まででも探訪に訪れてみたいと思っています。参照資料の2)にあげた「建仁寺境内図」で全体図をご確認ください。まずは、このあたりでまとめとご紹介の区切りと致します。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『昭和名所圖會 洛東-下』 竹村俊則著 駸々堂 p250-2632) 建仁寺境内図 :「建仁寺」3) 都林泉名勝図会 :「国際日本文化研究センター」http://www.nichibun.ac.jp/meisyozue/rinsen/page7/km_03_01_051f.html4) 大統院 :「京都通百科事典」http://www.京都通.jp/Temple/DaitouIn.html5) 鯉の滝登り図 高瀬五畝 (大正時代頃 20世紀前半) :「仙遊洞」http://senyudo.com/item/392_koi.html補遺北山安夫 :ウィキペディア北山安夫のプロフィールを紹介!これがプロフェッショナル! :「ファスティまめPRESS」建仁寺山内 大統院 円山応挙の幽霊画 :{Asahi Shinbun Dedital」「幽霊図」モデルは生きた女性? 大統院で出会う :{Asahi Shinbun Dedital」特別公開中! 市松模様の庭・建仁寺大統院 :「晴れときどき御朱印」高瀬五畝 椋鳥の図 :「東京文化財研究所」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -1 両足院((初夏の特別拝観)へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -2 両足院(半夏生咲く)へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -3 勅使門・放生池・三門・法堂 へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -4 陀羅尼鐘・西来院・開山堂・茶碑・楽神廟・浴室ほか へ探訪 京都・東山 建仁寺境内と塔頭 -5 禅居庵 摩利支天堂 へ
2017.07.22
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前回ご紹介した『都名所図会』の載る日岡峠の挿絵から始めます。(資料1)赤丸を付けた牛と牛車が描かれている方が京都側です。赤色の番号1が「姥が懐」と呼ばれていた場所で、番号2が「日の岡」です。そして幕末の慶長年間、日岡に新道が作られたとき、京都側は姥が懐の辺りで日岡峠を通る東海道と新道が合流するということを『城州日岡峠新道図紀』のご紹介で触れました。(資料2)そして、「車石公園」から坂道を少し御陵駅側に戻ると、府道と旧東海道との分岐点があると最後に説明しています。 京都側から来ると、この表示が目印になります。左側に府道があり坂道が下り勾配です。一方右側が旧東海道で、上り勾配の坂道になっています。つまり、この辺りは江戸時代に姥が懐と呼ばれたエリアに相当するようです。現在の地名は「山科区北花山山田町」です。住所表示板がありました。現在の旧東海道は乗用車一台が通れる程度の道路幅になっていて、道路の両側は家が連なっています。今では高台にある住宅地の中の道路という雰囲気です。 旧東海道を歩き始めると、お地蔵さまを祀る小祠が目に止まり始めました。 そして、この家が目にとまりました。右側の倉の前の樹木の根元に表示があります。それには「150 years house」(築150年の家屋)と記されています。外国人の人が結構旧東海道を訪れるのかもしれません。 その家への坂道に近づいてみると、こんな休憩できる雰囲気の場所が見えました。柱には「山科牧畜場牛乳搾取所」という木札が掲げてあります。そこに認可日付と認可番号が記されています。明治時代の認可です。この家の古さの傍証となっています。 この家の前あたり、道路の反対側に「旧東海道」と刻された石標が立っていて、樹間から府道が下方に見えました。かつての新道に相当します。 石仏の頭部を眺めると、お地蔵さまとは思えない形状のものがあります。それもお地蔵さまとして祀られているのかもしれません。 1箇所だけ、「天道大日如来」と記された提灯が吊るされている小祠があります。しかし、その小祠内にお地蔵さまのような石仏も安置されています。洛中を含めて、時折提灯を堂内に吊るし「天道大日如来」を祀る小祠を見かけます。 いつ頃から祀られているのかわかりませんが、次に訪れた光照寺までの北花山山田町の区域に沢山の小祠が目にとまった次第です。 その先にお寺があります。後で調べてみますと「頂後山源空院光照寺」です。 石段の手前にあるこの石標が目に止まりました。当寺ホームページの記述を参考にすると「当寺は法然上人の御霊跡でもあります」と記されていますので、「円光大師□□跡」(判読できない文字あり)と刻されているのはそのことを意味するのでしょう。「行基菩薩が草創された後、光照法師が再興され、浄土宗に改宗された事がきっかけとなり光照寺と名づけられました。」とのこと。当寺は800年以上の歴史があると言います。(資料3)「『東海道分間延絵図』(江戸末期)では、光照寺の北側辺りに「義経千本松」「高札場」『毘沙門堂』が記されているが、現在その跡はない。」(資料4)とのこと。また、「三条海道筋山科郷麁絵(そえ)図」には、後でご紹介する梅香庵とともに、光照寺が図の中に明記されています。(資料5)上掲『都名所図会』の粟田口日岡峠図に光照寺が描かれていないのは単なる省略でしょうね。 石段を上って行くと、「善光寺如来」と上部に刻された三尊石仏があり、 その側にいくつか如来形の石仏も並んでいます。石仏にはすべて前掛け(涎掛け)を付けてあります。これらはすべてお地蔵さまとして信仰されているのでしょうか。区別されているのでしょうか。 その先に、近年建立されたと思える石造阿弥陀如来坐像が見えました。左隣りの無逢塔の塔身に「南無阿弥陀仏」、竿に「暦代蓮華蔵」と刻されています。蓮華蔵とは蓮華蔵世界を意味するものと思います。永代供養のために建立されたようです。 その先に本堂があります。本堂前までの境内を拝見して先に進みました。 少し先に、法華宗の「大乗寺」があります。 大乗寺の寺号標の側に、この駒札が設置してあります。駒札を読みますと、江戸時代にはここにはなかったお寺です。昭和55年(1980)に上京区鳳瑞町からここに移転した後、無住寺となり荒廃していたとか。平成4年(1992)以降から復興が進められていると言います。今では1500本もが群生する「酔芙容の寺」として知られているそうです。(駒札より)寺への上り口の石段が少し急勾配ですが、境内を拝見することに・・・。 山門から境内に入ると、まず次の歌碑が目にとまりました。 この歌碑、私には判読できない箇所があります。ご教示いただければうれしいです。 こちらは読みやすい字体です。傍に「日蓮聖人御和歌」と刻した小さな石標があります。 供養塔 山門の左側の石段から見えているのが、この2つの歌碑です。それぞれに歌碑の寄進主が駒札が設置されています。歌意と鑑賞を詳しく記されています。右: 君がため春の野にいでて若菜つむわが衣手に雪はふりつつ 光孝天皇 小倉百人一首 第15番左: 山里は冬ぞさびしさまさりける人目も草もかれぬと思へば 源宗干朝臣 小倉百人一首 第28番お堂より一段高い境内地を奥に進みます。 突き当たりに「十三重石塔」が見えます。 軸部には四方仏が浮彫りにされています。四方仏として今までに見てきたものとはまた趣の違う浮彫です。この2面だけ確認できました。 十三重石塔の左側にこの像が建立されています。「酔芙容観音菩薩像」と期した木札が前に立っています。 基壇の正面に「酔芙容観音」と陰刻されています。両側の線刻は酔芙容なのでしょう。 左側に、「酔芙容観音」と題した漢詩碑が建立されています。岡澤宣洲作の漢詩です。 花山の地称芙容綻びて 訓在り詩を吟じて意気揚る 観音なる像現れて此の域に望み 尊形へ合掌し温容を仰ぐこれは漢詩の左に記された読み下し文です。碑の下半分には道釈が記されています。酔芙容は9月~10月に花を付け、朝、午後、夕~夜と花の色が変化するそうです。酔芙容が咲く時季に現地で、道釈をお読みください。 大乗寺を出た後、道沿いに進むと、挿絵に番号2を付記した「日の岡」の峠辺りです。現在の地名は山科区日岡ホッパラ町です。道路に沿ってフェンスがあり、ここは私有地ですがその内側の隅に2つの道標が立っています。「右 明見道」の道標は大塚の妙見寺への道案内に立てられたものとされ、低い方の道標には「右かさんいなり道」と記されているそうです。(資料4) この道標の左側に幅の狭い通路があり、それが『都名所図会』に記された「量救水は石刻の亀の口より漲る」という場所に導きます。量救水は「亀の水」とも称されています。「亀の口不動尊」という幟が目印になります。 まさに、石刻の亀の口より一条の水が絶え間なく注がれています。 四角い祠の奥に、石造不動明王坐像が安置されています。「亀の水」は東海道を往来し、難所の一つだった日岡峠を越える人々の渇を癒やすために飲料水として設けられたものと言います。木食正禅上人は日岡峠改修工事の過程で峠に梅香庵を設置し井戸を設けました。最初は湧き上がり方式だけの井戸だったのを、衛生面の観点から亀の口から水を落とし、水鉢に水を溜める方式に改良し、「量救水」と称したそうです。その水鉢は丸型の井筒で、高さ56cm、外径1m、厚さ15cmの大きさのもので、側面に「量救水」と太い文字が刻されているというものです。この丸型大水鉢は現在、東京に所在する椿山荘が所蔵されています。また、この大水鉢の上部には、時計回りで「山科郡日岡峠車道木食正禅建立省方」と彫られ、内側には光明真言の梵字28文字が刻まれているそうです。(資料5)「亀の水の上には水神の小宮を造り、その奥に不動尊を安置しました。水神様がおられれば水を汚すこともあるまい、と思ったからです。」(資料5)水神様を祀り、不動尊を安置された意図がうなずけます。この亀の水の近くに梅香庵があったそうですが、今はありません。『都名所図会』は、「峠の梅香庵は地蔵尊を安置す」と記しています。そこが冒頭の日岡峠の挿絵に番号3を追記した「木食寺」と記されているあたりだそうです。(資料4) 亀の水の辺りで、道がいくつかに分岐していきます。分岐点近くから山科の町を見下ろした景色です。天智天皇山科陵辺りまでの展望が良い景色です。この坂道がたぶん旧東海道であり、山科陵の近くで府道(三条通)に合流する道だと思います。この後、この道を下らずに、山沿いの一番高い位置の道路を歩いてみて、大凡の見当で歩いてみました。つづく参照資料1) 都名所図会. 巻之1-6 :「古典籍データベース」(早稲田大学図書館)2) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月3) 光照寺について :「頂後山源空院光照山」4) やましなを歩く東海道1日岡峠 :「山科区」5) 図録『企画展 車石 -江戸時代の街道整備-』 大津市歴史博物館 2012年3月補遺蓮華蔵世界 :「コトバンク」蓮華蔵世界 入澤崇氏 :「J-STAGE」(印度學仏教學研究)華厳経の世界 1.盧遮那仏と蓮華蔵世界 斎藤征雄氏 :「企業OBペンクラブ」フヨウ(芙蓉)&スイフヨウ(酔芙蓉) :「里山コスモスブログ」スイフヨウ(酔芙蓉) :「小さな園芸館」 京都山科:大乗寺の酔芙蓉 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。) 探訪 京都 山科を歩く -1 日岡:名号石・題目碑・京津国道車改良工事記念碑・車石関連諸史跡ほか へ
2020.01.01
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前回ご紹介したこの案内図から始めます。一つ、空色の大きめの丸を国道169号線の左側に追記しました。「奈良ホテル」があるところです。散策最後の探訪先との位置関係がわかりやすくなると思いますので。国道169号線を南進していたとき、瑜伽神社の名称と方向を示す案内板が目にとまり、その名称に関心をいだきました。それは「瑜伽」という漢字が「ヨガ」の音訳として使われる漢字だったからです。何か関係があるのか・・・・そんな興味が湧いたのです。できれば後で立ち寄ろうか・・・・と。もう一つは、この「山ノ上町案内図」自体についてのことです。この案内図は現在の住所表記では、「高畑町」に立っているのです。この地図で位置関係を見て、天神社正面の鳥居前から西方向への石段を下り、瑜伽神社へ向かいました。後でこの地図の写真をよく見ると、この西に歩んだ道路とその南の県道との間に、「北天満町」「中天満町」という表記があります。つまり、山ノ上町・北天満町・中天満町は、高畑町という形に統合される前の町名だったようです。ウィキペディアの「高畑町」の項に、「域内に江戸期以来の御所馬場町、片原町、北天満町、中天満町、下清水町、中清水町、上清水町、下高畑町、上高畑町、破石町、福井町、丹坂町、閼伽井町、菩提町、山之上町、能登川町などの通称町名があり、ほかに東大路町、下久保町、上久保町、本薬師町、本薬師東町、高畑大道町、橋街道町、高畑南町などもある。」とその記述典拠を示して、説明されています。この通称町名の中に、「下清水町、中清水町、上清水町」とあります。県道傍の地蔵堂に「中清水」と刻されていた根拠がこれで明瞭になりました。またこの三町の名称がかつて玄昉が建立した清水寺の寺域が存在した場所に関係しているのでしょう。最終的に「奈良市高畑町」に改称されたのは、1903年(明治36)だそうです。(資料1) 天神社から西へ緩やかな坂道を下ると、朱塗りの鳥居が見えてきます。 「瑜伽神社」の寺号石標が入口東側に立っています。北方向に参道が延び、二の鳥居の先から石段となり、ここも小高い丘の上に社殿が見えます。左側手前の建物が社務所のようです。 入口を入ると、左側に手水鉢が見えます。正面に「瑜伽山」と太い文字が刻されていて、水の注ぎ口のある石柱には「瑜伽玉井」という文字が見えます。この傍に、「瑜伽神社のこと」という題で、案内文が掲示されています。後でご紹介します。神社名の「瑜伽」は「ゆうが」と読むそうです。 石段を上ると、左側に建物があり、右側には小祠があります。右斜め前の石標には「飛鳥神並社」と刻されています。 小祠の左側には「瑜伽山桜楓歌碑」が建立されています。 春は又花にとひこん瑜伽の山 けふのもみぢのかへさ惜しみてここ瑜伽山は、奈良十六景の中で「瑜伽山の桜」「瑜伽山の紅葉」と二景が選ばれる名所だそうです。歌を詠んだのは江戸時代、天保年間に6年間奈良奉行として在勤した藤原良材、「山城大和見聞随筆」三巻を著してもいる旗本の士だと言います。(駒札より) 詳しくはこの駒札をお読みください。正面には更に石段があり、それを上ると、 両側に阿吽形風の狐の像が見えます。 正面に南面する唐破風の拝所が設けられ「瑜伽本宮」と記された扁額が掲げてあります。 唐破風の獅子口の下の破風部分に、菊花の紋が付けられています。祭神は宇迦御魂大神です。別名を豊受大神と称し、伊勢神宮の外宮に祀られる祭神と同じとのこと。祭神との関係から、狐の像が置かれていることが頷けます。 「瑜伽神社略記」の駒札が掲げてあります。 こちらは上記に後ほどと記した入口に掲示の案内文です。当社の沿革の要点を箇条書きにしてみます。*かつては、飛鳥神奈備に飛鳥京の鎮守社として当社が祀られていた。*平城京遷都に伴いこの地に遷宮した。この地は「平城ならの飛鳥山」と称される。*元は元興寺禅定院の鬼門の鎮守社で、飛鳥古京の本宮に対し「今宮」と称していた。*中世、平安時代にこの山麓に興福寺の大乗院が建ち、大乗院の鎮守社となった。*神社名が興福寺の宗論の「瑜伽」に改称された。この沿革から、「平城の飛鳥」と称される理由と「瑜伽」の由来がわかりました。尚、平城遷都に伴い明日香の地よりこの平城の地に遷座した神について。調べていて入手情報の相互関係から理解したことなのですが、一説として、当初はどうも飛鳥坐神社の祭神が当地に今宮として遷座されたとあります。その祭神は「飛鳥の神奈備に祭られていた大己貴命の娘の賀夜奈留美命」とか。この神は現在、上掲の摂社「飛鳥神並社」として祀られていて、「摂社飛鳥神並社 瑜伽大神の和魂を祀る」と説明されています。(資料2)この瑜伽神社の祭神にもその後変遷がうかがえるようです。興福寺は法相宗大本山です。法相宗は唯識宗とも言われるように、唯識説を説く宗派です。瑜伽行唯識学派は単に唯識学派とも言われ、サンスクリット名ではヨーガーチャーラーと称すると言います。瑜伽神社の名称がヨーガの音訳である瑜伽が結びついてきました。興福寺北円堂に安置される像として有名な無著・世親は瑜伽行派の立場を確立宣揚した学僧です。尚、瑜伽行派は、正統バラモン系統のヨーガ学派とは別のものです。(資料3,4)探訪結果を総合すると、天神社と瑜伽神社がともに、元興寺禅定院ならびに大乗院の鎮守社だったことになりますね。 石灯籠の竿に「瑜伽大権現」と刻されています。本地垂迹説の一端がこの表記に見てとれます。神仏習合の時代の姿がここに残っています。 本殿に向かい右側斜め前(東側)の景色です。 万葉歌碑 ふる里の飛鳥はあれど青丹よし 平城ならの明日香を見らくしよしも万葉仮名で刻した大伴坂上郎女(さかのうえのいらつめ)の詠んだ歌碑が建立されていて、右側に駒札が立っています。 『万葉集』巻六、992番に撰集されている歌です。天平5年(734)の作。大伴坂上郎女は大伴旅人の妹で、万葉時代の女流歌人の一人です。女性歌人としては入集されている歌が最多と言います。最終的には氏族の巫女的存在として大伴氏を支えた女性としても有名です。『口譯萬葉集』で折口信夫(釈迢空)はこの歌を、「昔住んでゐた飛鳥は、勿論よい所だが、奈良の飛鳥も、なかなか見るのに、愉快な處だ」と訳しています。(資料5) 一言稲荷社 「飛鳥之御井」と刻された石標が立っています。 西側にも境内社が祀られています。左が猿田彦神社(祭神:猿田彦大神)、右が久恵比古社(祭神:久延彦大神)です。猿田彦神とは、天照大神が天孫・瓊瓊杵尊に中つ国へ降り始めよと命じたときに、その先導を名乗り出た国津神です。鼻の長さは七咫(ななあた:上代における長さの単位)で、口尻明るく、目は鏡のようで赤ら顔だったと伝えられる特徴を持つ神様です。一方、久延彦神(くえびこのかみ)は、『古事記』の中で、出雲神話に登場する神です。神名の由来は「神体の朽ち果てた男性」で、知恵の化身。足は行(ある)かねども天下の事をことごとく知れる神とされています。山田の曾富騰(そほど)という者だといわれています。案山子(かかし)を意味します。民俗信仰による案山子は、田を守り収穫をもたらす神と考えられているそうです。(資料6) この境内地から西方向を眺めると、国道169号線が直下に見え、その先に奈良ホテルへの通路が見えます。この国道169号線で分断されるまでは、ここ瑜伽山と奈良ホテルが建つ鬼薗山がつながっていて、中世には瑜伽山城、西方院山城・鬼薗山城があったところでもあるそうです。(資料7) 南東寄りの方向を眺めてパノラマ合成しました。ここからも奈良盆地を眺望できる確かにいい場所です。今では樹木が少し邪魔になりそうですが・・・・。奈良十六景に取り上げられた時季に再訪してみたいものです。ここまで奈良散策が終わりました。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 高畑町 :ウィキペディア2) 瑜伽神社 :「神奈備にようこそ」3) 瑜伽行派 :「コトバンク」4) 瑜伽行唯識学派 :ウィキペディア5)『折口信夫全集 第四巻 口譯萬葉集(上)』 中公文庫6) 『日本の神様読み解き事典』 川口謙二[編著] 柏書房7) 瑜伽神社 :「奈良観光.jp」補遺大伴坂上郎女 :「千人万首」飛鳥坐神社 :「旅する明日香ネット」飛鳥坐神社 :「古都飛鳥保存財団」由加神社本宮 由加大権現本社 ホームページ法相宗 :「全日本仏教会」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 奈良国立博物館 <法隆寺金堂壁画写真ガラス原板>と<おん祭と春日信仰の美術> へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -1 興福寺境内・荒池・青田家住宅・福智院ほか へ探訪 奈良市 奈良公園周辺散策 -2 県道傍の地蔵堂・天神社 へ
2020.01.09
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新町通から右折して三条通を東に歩むと、196年ぶりに巡行に復帰する「鷹山」の姿が見えてきました。駒形提灯も真新しく、真松が見えます。 近づいていくと、鉾と同形式の曳山であることがわかります。西側に山の舞台に上がる階段が設置してあります。すべてが真新しい! 大船鉾が復興したときの雰囲気を感じました。令和元年(2019)の後祭に、唐櫃(からひつ)巡行として参加。これは、鷹山の祭神を唐櫃に納めての参加でした。山の代役を唐櫃が果たしたのでしょう。復興をめざして、2014(平成26)年からお囃子の練習が始まっていたと言います。 2019.7.24の巡行を見物した時に撮った唐櫃巡行の様子です。それから3年経過し、コロナ禍での3年ぶりの後祭巡行で、遂に曳山が復活したのです。鷹山復興を長年目標とされてきた関係者は感慨無量でしょうね。すべて新調されたという懸装品が懸けられ、透明カバーシートが被せてあります。鷹山のこの勇姿を見るのは初めてですので、比較的撮れそうな箇所を初撮りしてみました。 南側から見上げた景色。山の屋根、格子天井、四隅の柱も初お披露目で白木のままです。大船鉾の復興時もそうでしたが、これから計画的に時間をかけて、この曳山もまた塗りや装飾金具、彩画などが加わり、曳山の荘厳化が進むことでしょう。その変化を楽しむことになります。下水引、二番水引、三番水引、その下に胴懸です。 下水引(一番水引)は「金地麒麟図紋織」二番水引は「紺地瑞鳥文様錦織」三番水引は「白地唐草文金襴紋織」 だそうです。すべて新調されたと言います。 「胴懸」は、様々な植物文様の絨毯が使われています。 南東側から 近未来に、この大屋根の軒裏はどのように変貌することでしょう。見続ける楽しみができました。 山の正面(東)側 北東側からの眺め 北側の胴懸こちらは菱形の中に亀甲文風のデザインが織り込まれた意匠の絨毯です。調べてみた範囲では残念ながら、正式な名称等は不詳です。埒(らち)に近づき、鷹山の躯体構造などを観察してみました。 藁縄の縛り方、その仕上げをご覧下さい。 車輪 轂(こしき) 「鷹」の字が陽刻されています。存在を、再来を主張しているようです。曳山の周囲を一巡して、会所の御神体を拝見できるかなと思えば、三条通に長蛇の列ができていました。そのため当日の拝見はパスしました。そこで、思い出話を兼ねて、2018.7.22に後祭の山鉾巡りを昼間に行った時の記録をご紹介します。2018年まで、私は鷹山のことを知りませんでした。鷹山の歴史は古く、応仁の乱以前から巡行していた由緒ある「くじとらす」の山だったそうです。3度の火災その都度の復興を重ねた不屈の山だったそうですが、1826(文政9)年の巡行の際に大雨で懸装品を汚損したことが契機で、以来、ご神体を会所で飾る「居祭」を続けてきていたのです。(京都新聞の特集より)2018年に新聞記事で、鷹山が復興を目指しているというのを知り、どの辺だろうと、後祭の山鉾巡りをする際に、この三条通を歩きました。それまでは、室町通と新町通を軸にして巡っていたから、気づく機会がなかったのだと思います。 その日はこの提灯が居祭の場所の決め手になりました。 開かれたガラス戸から入ると、すぐ前に3体の御神体(人形)が置かれていました。背後と右側面は金屏風で囲われています。鷹山のご神体は、天皇の鷹狩りにお供する在原行平一行の3体です。行平の鷹狩りにおいて役割を分担する3人だそうです。 向かって右側には、犬の手綱を握る「犬飼(いぬつかい)」犬飼は鷹を補助する猟犬を扱います。 中央に、粽を食べようとする「樽負(たるおい)」樽負は道具類を運ぶ役割を担っているとか。 左側は、左手に鷹を留まらせた「鷹匠」。鷹狩での役割は重要です。その左側には、1986年に皆川月華氏が寄贈された「見送」が懸けてありました。 曳山の正面(東側)の先に置かれた「鷹山」と墨書した赤提灯。今年は晴れやかさを感じます。復活したぞ・・・・と。推測ですが、鷹山の正面は東に向いていますので、巡行の折には、左折して室町通を北上し御池通に出て、右折して烏丸御池の出発地点に向かうのでしょう。出発地点に到るまでに、辻回しを2回実施することになります。さて、この後は、室町通をまず北に上り、役行者山に向かいました。つづく参照資料*京都新聞 祇園祭特集2022 企画特集 前祭の際に入手*山鉾について :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)補遺鷹山保存会 ホームページ在原行平 :ウィキペディア在原行平 :「歌舞伎美人」196年ぶりに蘇る祇園祭「鷹山」。復興に尽力する弁護士の、平和と疫病退散の祈り :「日本財団ジャーナル」皆川月華 :ウィキペディア皆川月華・泰蔵 :「京都文化博物館」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -1 御旅所・冠者殿社・斎竹・大船鉾 へ探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -2 南観音山・橋弁慶山・鯉山・屏風祭 へ探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -3 北観音山・八幡山・屏風祭 へ探訪&観照 祇園祭後祭 Y2022 山鉾巡り -5 役行者山・黒主山・浄妙山・鈴鹿山 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・祇園祭・後祭 山鉾巡行 -1 橋弁慶山・北観音山・鯉山・八幡山・黒主山 2回のシリーズでご紹介観照 京都・祇園祭・後祭 御旅所(還幸祭の前に)観照 祇園祭 Y2018 後祭 -1 四条御旅所の神輿、鉾建ての位置決め 7回のシリーズでご紹介探訪&観照 祇園祭 Y2017の記憶 Part 2 -1 八坂神社御旅所 還幸祭を含めて、12回のシリーズでご紹介観照 祇園祭点描 -1 神輿渡御・八坂神社御旅所・冠者殿社 6回のシリーズでご紹介観照 [再録] 祇園祭 Y2014・後祭 宵山 -1 橋弁慶山 11回のシリーズでご紹介
2022.08.21
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六條院・春の御殿宸殿の南面を西面に回り込みます。通路を挟み反対側には、等身大の美女人形を使い、「十二単(じゅうにひとえ)の変遷」という服飾史がビジュアルに理解できるようになっています。この画像は、宸殿の北西側にあたる通路付近から撮った全景です。第1回でご紹介したエレベータを降りてこの博物館に入った最初の場面の画像を注意深くご覧いただいていると、画像の左端にちょっと違和感をもたれていたことでしょう。まるでガリバーのように、図抜けた女性像が写っているのですから。それがこの衣裳を着た人形です。奈良時代、唐の文化を取り入れて、日本の服制の大綱が確立した時の衣裳の一例がこれだそうです。この人形の傍に衣裳各部の名称も示した説明パネルが個々の人形に掲示されていますので、具体的には現地でお読みいただくとよく理解できるでしょう。「養老の衣服令による四位の命婦礼服」だそうです。すなわち当時の女官の礼服だとか。これが源氏物語のころの十二単に変遷するルーツだそうです。平安時代の初期には未だ唐風が継承されていて、これが当時の「女官朝服」の形式だとか。「平安時代初期の女神像や吉祥天女象などによった貴婦人の姿」になります。平安時代の894年8月、菅原道真は遣唐大使に指名されますが、逆に道真の提言を受け入れて9月には遣唐使派遣が中止されることになります。これを契機にして国風文化と称される日本文化が芽生えて行きます。これがその頃の公家女房装束の晴れの姿だそうです。「裙帯比礼(くんたいひれ)の物具装束(もののぐしょうぞく)」と称するそうです。裙帯とは、「裳の腰につけて左右に長く垂らした紐。官女が正装の時、装飾として用いた」(『大辞林』三省堂)というもの。比礼(ひれ:領布)は領巾(ひれ)と同じでしょう。領巾について手許の辞典には、「奈良時代から平安時代にかけて、正装した婦人が肩にかけて左右に長くたらした薄い布」(同上)と説明されています。そして、平安時代中期になると、日本独自の十二単が完成されるのです。「公家女房晴れの装い」です。つまり、宮中における正装の姿であり、これが「唐衣裳(からごろも)」姿とも称されたそうです。 そして、季節に応じて、この十二単の「かさね色目」を装うことが美しさの条件となり、その女性のセンスの良さを表すことになったといいます。左手に持っているのは「畳紙・帖紙(たとうがみ)」です。「衣冠・束帯のとき、たたんでふところに入れた紙。懐紙」(『日本語大辞典』講談社)のこと。表着(うわぎ)には「浮線藤文」中の「八つ藤丸」の文様が使われています。この文様は指貫(さしぬき)や掌侍(ないしのじょう)の唐衣などに使われたそうです。打衣(うちぎぬ)には胡蝶文様が使われています。紅の袴を着けています。若年で未婚の場合には、濃き色、つまり濃き紅の意味で紫に近い色の袴を着けるそうです。これは「源氏物語絵巻」の「竹河」(上)と「東屋」(下)の場面です。様々な十二単が描き分けられています。ウィキペディアから引用しました。(資料1)そして、江戸時代後期になると、公家女房の正装がこのように変化して行ったそうです。尚、「この姿は天明頃から天保11年(1843)平安朝の裳再興までの姿」だとか。ここでは触れませんが、もう一つ、髪形の変遷にも着目してください。館内の説明パネルには関連事項として言及してあります。訪れられた折にはその点もご注目ください。この等身大の人形を利用した具現化展示のセクションには、実物大の襖も展示されています。時代の雰囲気が醸し出されています。それでは、宸殿の西側側面に目を転じてみましょう。宸殿の母屋の四周を囲む部分は「廂(ひさし)」と呼ばれます。そして、この西の廂の間と簀子を利用して、「かさね色目」の実例をミニチュア衣裳で再現されています。この説明パネルが廂の間の南端に掲げてあります。次の様に具現展示され、それぞれに説明パネルが設置されています。 梅かさね 旧暦11月~2月 藤かさね 旧暦4月頃 白撫子(しろなでしこ)かさね 旧暦4月~6月 紅紅葉(くれないもみじ)かさね 旧暦10・11月頃 雪の下かさね 旧暦11月中旬~春頃まで 松かさね 四季通用・祝いに着る色「かさねの色目」については、長崎盛輝著『譜説 かさねの色目配彩考』が昭和62年(1987)に出版されています。それをもとに構成・編集した本が、平成8年に京都書院アーツコレクションの1冊として文庫本化されました。その本を継承して、長崎盛輝著『新版 かさねの色目 平安の配彩美』という同サイズの文庫本が青幻舍から2006年9月に出版されています。紙面上で「かさねの色目」の名称と配色の実際を見て、配彩美を詳細に知ることができます。しかし、それを衣裳の形にしてみた実際がどういうものかというイメージをつかむことはよほど熟知した人でないと難しいと思います。今回、その配色の組み合わせイメージの代表例にしかすぎませんが、上掲の実物事例という形で見ることができます。このインパクトはやはり大きい!! かさね色目の配色が、こんな感じになるのか・・・・・というところです。これは精緻なミニチュアの衣裳ですが、実物はやはり良い感じ・・・・というところです。対比しながら眺めて行くと、やはりこのかさね色目が一番惹かれるな・・・・という好みが出て来ておもしろいものです。余談ですが、『満佐須計装束抄』には、紅葉の様々として、上掲の「紅紅葉」の他に、「櫨紅葉(はじもみじ)、青紅葉、楓紅葉、捩(もじ)り紅葉」という4種のかさねの色目が載っているそうです、(資料2)「十二単の変遷」セクションの傍の柱には、上段・中段に「有職文様」、下段に「地紋にもなる文様」「それ以外」についての説明パネルも掲示されています。このパネルに列挙されている文様の名称を左から右へという順番でご紹介しておきます。風俗博物館でパネルをご覧いただくか、この名称を手がかりに調べていただくと興味が広がることでしょう。上段:立涌文(たてわくもん)、窠文(かもん)、霰文(あられもん)、浮線綾(ふせんりょう)中段:唐草文(からくさもん)、菱文(ひしもん)、亀甲文(きっこうもん)、小葵(こあおい)下段には、最初に襷文(たすきもん)、そして「それ以外」の見出しの下に次の名称が続きます。朽木形(くつきがた)、繧繝縁(うんげんべり)、高麗縁(こうらいべり)、蕃絵文(ばんえもん)、海賦文(かいぶもん)しっかりパネルの説明を読み、具現展示品の細部まで観察していると、この部分だけでも1時間くらいは楽しめると思います。初めて風俗博物館を訪れた時に、ここで購入した本からいくつか補足説明として、引用しておきます。(資料3)*女房装束とは、朝廷に出仕する高位女官の奉仕姿をいう。*袴に単(ひとえ)、重ね袿(うちき)に裳と唐衣(からぎぬ)を着けた姿を唐衣裳と称し、主上の不在時は唐衣ばかりは略することも許されたが、裳は必ず着けねばならなかった。*平安末期から鎌倉時代には重ね袿を五領までとする「五衣(いつつぎぬ)の制」が定められる。*五衣の上に、砧打ちをした打衣(うちぎぬ)と二陪(ふたえ)織物の表着を着込め、さらに張袴(はりばかま)を穿いて「物の具」と称して晴の正装とした。*元来の十二単とは、袿を幾枚も着重ねた装束の表現であり、唐衣や裳を着けない寛いだ袿姿を指していたと思われる。つづく参照資料*風俗博物館でいただいた資料と館内の説明パネルを参照1) 源氏物語絵巻 :ウィキペディア2) 『新版 かさねの色目 平安の配彩美』 長崎盛輝著 青幻舍 p56-573) 『源氏物語と京都 六條院へでかけよう』 監修・五島邦治 編集・風俗博物館 p71補遺風俗博物館 ホームページ王朝の華 -源氏物語絵巻- 名品コレクション展示室 :「徳川美術館」国宝源氏物語絵巻 :「五島美術館」源氏物語絵巻 [1] :「国立国会図書館デジタルコレクション」源氏物語絵巻. [2] :「国立国会図書館デジタルコレクション」源氏物語絵巻. [3] :「国立国会図書館デジタルコレクション」 この[1]~[3]は絵巻物の形です。源氏物語絵巻 :「国立国会図書館デジタルコレクション」 徳川美術館が本形式で出版したもの。十二単の基礎知識 :「民族衣裳文化普及協会」十二単 :ウィキペディア十二単 :「コトバンク」指貫 → 括り緒の袴 :ウィキペディア掌侍 :ウィキペディア有職文様素材集1-2 :「綺陽装束研究所」古典文様(四君子文様・有職文様・吉祥文様) :「着付入門講座」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -3 七夕・文月の年中行事、局・女房の日常 へ観照 風俗博物館 2018年前期展示 -4 平安時代の遊び、仏名会・師走(十二月)の年中行事 へ
2018.03.09
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冒頭の写真は、新町通から南に向かって「八幡山」を撮ったものです。 駒 札山に近づいて見ますと、宵山まではどのような飾り付けになっているかがわかります。山の上には、御幣、鳥居、真松、見送が設置されているだけです。山の木組み対し、舁棒(かきぼう=担棒)が4本並んでいます。 前懸は、中央に円山応祥筆「飛鳩図」、左右に山水を描いた綴れ織が組み合わされています。宵山での常懸けとして使用されています。巡行当日の前懸は後でご紹介する町会所に展示されています。その他の懸装品も同様です。 こちらは水引と胴懸です。水引は馬に乗った人々が動物を追う狩猟風景が描かれています。胴懸は小さな円の中に描かれた図柄が連続した文様に転化していきます。この胴懸もまた、宵山の常懸けですが、平成4年(1992)に新調されたそうです。(資料1) 2014.7.24の後祭の巡行の時の写真です。今年(2016)は、この写真と同様に、巡行当日の前懸は、慶寿裂(けいじゅぎれ)を中央に、左右に阿蘭陀本国織(針金織)を配したものです。龍の胴懸、龍の見送が使われました。八幡山では、もう一組の懸装品を所蔵されています。麒麟の胴懸、童の見送です。(資料1,2)山の場合には、鉾が辻回しをするのに対応し、山の舁き手が辻のところで舁棒を担ぎ、山をたしか時計回りだったと思いますが、数回グルグルとその場で回して、観客があらゆる角度から山全体を眺められるように、パフォーマンスしてくれます。そして、L字に90度方向転換します。それがなければ特定位置にいる観客は山のすべての側面を見ることはできません。鉾の場合は、軸が固定されていて前進しかできないので、四つ辻でL字に90度方向転換するために、「辻回し」という作業が見せ場になります。四つ辻で眺める観客は、辻回しのプロセスを楽しめますが、鉾の懸装品類などは特定の側面を眺められるだけで、全ての側面を残念ながら鑑賞することはできません。当然ながら、写真を撮るのも同じです。冒頭の写真の左端、電信柱の傍に赤い提灯が見えますが、ここが八幡山町会所の路地の入口です。この山は新町通三条下ル三条町に所在します。三条町と改名されたのは明治になってからだそうです。昔は「伊藤町」と称していたとか。豊臣秀吉が信長在世中から来京したときは必ずこの町の伊藤道光邸に泊まっていたことの控えの記録が残っているそうです。当時、伊藤道光は租税収納を掌る役目を果たしていたといいます。(資料2)路地を東に入って行くと、開放たれた座敷に懸装品がずらりと展示されています。 水引(新調の方)壁面に水引と慶寿裂の前懸がかけてあり、その前に昭和10年(1935)に新調された御幣が置かれています。上掲の宵山飾りの御幣は天保8年作の旧御幣だそうです。水引は旧水引を参考に、昭和61年(1986)に新調されたものです。御幣の前の飾り台には「隅房(すみふさ、角房)」と「見送裾飾」が並べてあります。隅房は山の四隅に飾られるもので、八幡山では三段に飾られるのです。一番上が水引部の房掛けで、写真の右側上段のもの。これは金色の花(宝相華文)が薬玉風に作られていて、浅葱総角結(あさぎあげまきむすび)房が掛けられて、掛具かくしに陶風の木彫飾りが被せてあります。二段目は胴懸隅房飾りです。右下段の少し見づらいですが、菱(松菱)をデザインした木彫金箔押しに浅葱総角結房が掛けられています。この松菱の図柄は、東大寺八幡宮蔵の装束の地文に用いられている直線的な松菱を写しているそうです。三段目は、飾り台左側の上段のものです。これは不規則な岩波文様を彫った木彫金箔押しのものに、同様の房が掛けてあります。巡行時の写真をご確認ください。そして、「見送裾飾」が飾り台の左側下段のものです。この裾の房掛けは7個あり、房掛金物は霊芝(れいし)文でそれぞれの文様が少しずつ異なっています。 手前には「八幡山記録」が展示されています。上下二巻。「八幡山記録」という表題で、「石清水八幡宮を勧請した山で寬文年間の制作にかかり山鉾最古のものである鳥居の鳩は左甚五郎の作と伝へ本殿は天明年間に作られたものであり唐子人形は松下堂法橋一潤の作前掛は慶寿裂・・・・」という風に始まっています。下巻は、「一 綴錦織平和の鳩前掛壱張」の説明と奉納者名などの記録部分が展示部分に見えます。赤い毛氈の上には、見送の房掛金具と、八幡山の黒い漆塗りの欄縁に取り付けられる鶴の形の金物です。 そして右が八幡山記録の冒頭に出てくる伝左甚五郎作の雌雄一対の鳩です。この鳩、夫婦和合のしるしとして信仰の対象になっているそうです。左の写真は、平成24年(2012)3月に復元新調された一対の鳩。この年の巡行時よりこの新調の鳩が使われています。伝左甚五郎作の現物は、宵山でこの路地訪問のときだけ見られることになります。上掲の巡行時の写真を部分拡大しました。鳥居の笠木の上に、一対の鳩が向かい合ってとまっているのがおわかりになるでしょう。そして、この金色の社殿が八幡山のご神体です。社の中には厨子に納められた運慶の彫り物と言われる応神天皇騎馬像が安置されているのです。(資料1)路地の奥側に、宵山までこんな形で安置されています。手前にある鳥居と扁額が、宵山のときまで山に置かれているものと、置き換えられるのです。旧扁額は「八幡山」と記されていて、寛文元年(1670)寄進の銘があるものです。新扁額は天保9年(1838)6月寄進の銘があり、「八幡宮」と記されています。新扁額が巡行の折に使用されています。こちらの新鳥居は同様に天保9年の作だそうです。宵山の山上に置かれた旧鳥居は天明5年(1785)、指物師興兵衛作と伝えられているとか。(資料1)鳥居と社殿の外側を囲む黒い枠組が欄縁です。これが巡行当日に山に飾られるのです。「欄縁は黒漆塗で雲の高浮彫隅金具の間に八木寄峰下絵の鶴をあしらったもの、細工人河原林秀興、錺師嘉兵衛、彫師彦七、天保9年の作」(資料2)鳥居と社殿の左奧の壁には、胴懸が展示されています。「聖獣三態像胴掛幕 四張」と収納箱に箱書きしてある胴懸です。上記で、麒麟の胴懸と称しているものです。紺地に麒麟の図柄の織物は、平成2年(1990)に復元新調されたものです。聖獣三態とは、麒麟・唐獅子・獏を言います。社殿の後の壁には、見送が掛けられています。写真として撮れたのは、右側に掛けられた「童の見送」と称される方です。 日輪双鳳の帽額附(もこうつき)で中国女性と子供達が庭園の中で琴棋書画する図柄のものです。天明5年(1785)の制作。もう一つが「雲龍波濤図」(宝暦年間)です。(資料1,2) 私が宵山で八幡山を訪ねる楽しみの一つは、懸装品の錺金具の美と粋を眺めることです。もう一つが、なぜかこの唐子人形が好きなのです。唐子の表情がなんとも言えません。それと人形の衣裳の文様・彩色が良く残っているのもいいですね。唐子の背丈と変わらない大きな蝋燭が立てられるようなのです。路地を挟み、この金色の社殿の反対側には、「八幡山」の額を掛けた社殿があります。普段はこの社に「八幡宮」が祀られているそうです。天明年間の制作といわれる高さ1mの総金箔の社殿は蔵に保存され、御神体はこちらの社に安置されるそうです。ここの八幡宮は京都市下京区に在った「若宮八幡宮」が東山五条に遷された後に、この町内に分祠されて祀られたのだそうです。上記「応神天皇騎馬像」が若宮神社との関わりを物語っているのだとか。(資料1)町立の八幡宮の神社というのがあまり例のないことです。当時の町衆のパワーがすごかったのでしょう。明治13年に町会所の庭にこの桧皮葺一間社流造の社殿が落成したとか。そのトリガーになったのが、同年に「久邇宮殿下が若宮と共に参拝されたので、一気に造営の運びとなった」(資料2)という背景があるようです。覆屋は昭和44年(1969)に設けられています。なんと、金色の社殿をそのままこの社殿内に安置していた時期があったと言います。(資料2)また、八幡山の吊り灯籠には、明和9年(1772)と刻まれたものが奉納されているそうです。(資料1)近くで見た八幡山の幕。鳩の図像がアクセントになっています。 八幡山のその近くで見た今年も眺めた屏風飾りです。 これは、道路に面し開放された窓から、座敷の奧正面に置かれた衝立の絵図の一部です。この絵の部屋に住み人は、黒髪長き美女でしょう・・・・・・か。姉小路通まで北上し、東隣の室町通を南下することにしました。室町通の一番北にある役行者山からさらに巡って行きます。つづく参照資料1) 八幡山 ホームページ2) 『祇園祭細見 山鉾篇』 松田 元編 郷土行事の会 p144-148補遺若宮八幡宮社 :ウィキペディア陶器神社と呼ばれる八幡さま「若宮八幡宮」 :「KYOTO design」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 祇園祭点描 -1 神輿渡御・八坂神社御旅所・冠者殿社 へ観照 祇園祭点描 -2 大船鉾と瀧尾神社 へ観照 祇園祭点描 -3 南観音山と屏風祭 へ観照 祇園祭点描 -4 北観音山 へ観照 祇園祭点描 -6 役行者山 へ観照 祇園祭点描 -7 黒主山・鯉山・橋弁慶山 へ観照 祇園祭点描 -8 浄妙山・鈴鹿山と京の町家(亀末廣と八百三)へ拙ブログで以下のご紹介をしています。多少重複するところがあるでしょうが、ご覧いただけるとうれしいです。観照 祇園祭後祭 宵山 -6 八幡山観照 祇園祭後祭 宵山 -10 屏風祭
2016.09.07
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大仏殿前を西側に回り道標を目印にして、東大寺戒壇院に向かいます。なだらかな坂道を下り、また少し上って高みにある道沿いに進みます。 勧進所の築地塀沿いに進むと、突き当たりに戒壇堂の東側面が見え始めます。 勧進所の瓦を間に挿入した築地塀の角に、「大界外相(だいかいげそう)」と刻した石標が立っています。築地塀が曲がり、北に連なり、少し奥まって設けられた出入口が見えます。そこに至る手前は少し広い空間ですが、そこに左の写真の宝篋印塔が高い石垣積み土台の上に建立されています。「大界外相」というのは、戒壇院の「戒壇石」の一つだそうです。戒壇院という清浄な場所への境界を示す「結界石」の一つ。戒壇堂は僧侶の授戒式が行われる聖域です。そのために東大寺の戒壇院は厳重に区切られていたのです。(資料1)東大寺境内の中といえども、戒壇院のある空間は特に清浄な異空間という認識のもとにあったという訳です。この石標が要所に建てられていたのです。それぞれを想像上の線で結ぶと、結界が張られることになります。左折すると右側に、築地塀の壁面に5本の定規筋(じょうぎすじ)をひいた黄土色の築地塀が続きます。戒壇院の東側面の塀です。築地塀の角付近から眺めるとこんな景色です。パノラマ合成してみました。戒壇堂の築地塀の東側と表門のある南側を眺められる位置です。 戒壇堂の表門 左の写真は、門の左側に立つ石標を部分拡大してみました。「大界内相(だいかいないそう)」と刻されています。これもまた上記「戒壇石」の一つです。この門までが大界の内相であり、ここが結界になるということなのでしょう。(資料1) 門の頭貫は雲形の文様が刻まれ、木鼻はごくシンプルな造形です。門にみる蟇股には、ごくシンプルな雲形文様が刻まれたものと五三の桐を彫刻したものがあります。門を入ったところで、拝観受付をすませます。 拝観チケット門を入った正面に戒壇堂があります。手許の『続日本紀』の現代語訳を見ますと、孝謙天皇の時代、天平勝宝6年(754)正月16日に、「この日、遣唐副使・従四位上の大伴宿禰古麻呂(こまろ)が帰国した。唐僧の鑑真と法進ら八人が古麻呂に随って来朝した」と記されています。苦難の末についに当時戒律第一と言われていた鑑真和上が来朝されたのです。(資料2)拝観時にいただいたリーフレットには、僧鑑真が来朝した後、「大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、440余人に戒を授け、翌年の9月に戒壇院が建立された。創立当時は金堂、講堂、軒廊、廻廊、僧坊、北築地、鳥居、脇戸等があったという(東大寺要録)」と説明されています。(資料3)『続日本紀』には、754年秋7月13日に天皇が「この頃、太皇太后(宮子)の健康がすぐれず・・・・」という書き出しで、「天下に大赦を行なおう」という詔をしたと記された続きに、「この日、僧百人、尼七人を得度した」とあります。これが鑑真和上による授戒が行われたことなのでしょうか。尚この書には翌年に戒壇院が建立されたということは記されていません。(資料2) <2016.11.24 追記> その後も少しネット検索で調べて見ていました。 『続日本紀』の754年7月13日の得度の記録は別のものでした。 『世界大百科事典』内の「鑑真」関連項目として「受戒」という項に、 「754年4月に東大寺大仏殿前に仮設の戒壇が設けられ,聖武上皇,光明皇太后など が菩薩戒を受け,沙弥など400余人が一行より受戒,翌755年10月に常設の戒壇院が 大仏殿の西方に創建された。」と説明があります。 つまり、鑑真が入京して3ヶ月余を経た天平勝宝6年4月に授戒式が行われました。 『続日本紀』は鑑真による授戒式、戒壇院の建立の事は記録しなかったのです。 このことからわかるのは、一時的な戒壇が大仏殿前に設営されて、まず最初の鑑真による授戒の儀式が行われたということ。その後に授戒をするための恒久的な戒壇を設けた一連の伽藍が建立され、その全域を「戒壇院」と称したということです。資料によりますと、戒壇院は三度火災に遭い、伽藍は全て灰燼に帰したそうです。現在のこの戒壇堂は享保17年(1732)に建立されたものなのです。(資料3,4)戒壇堂の西側に戒壇院の千手堂があります。ここは1998年5月に火災で焼失し、4年を経て2002年5月に修復が終わり現在に至るそうです。(資料5) 戒壇堂の軒丸瓦「享保壬子造」と陽刻されています。調べてみるとこの明記は享保17年(1732)にあたります。 お堂の向拝の木鼻は門と同様にシンプルです。左の写真のように蟇股には法輪が彫刻されています。堂内は撮影禁止でした。戒壇堂に祀られた塑像の四天王像は余りにも有名ですが、当日の入手資料の写真を拝借して、資料を参照しやはりご紹介させていただきます。(資料3) 二つ折リーフレットの表紙 「広目天像」開けると四天王像の写真が掲載されています。戒壇堂は南面していて、堂内には三段になった「戒壇」が設けられています。戒壇最上段の中央には多宝塔(木造)が置かれ、その両脇、向かって右側に木造釈迦如来像(像高25cm)、左側に木造多宝如来像(24.2cm)が配置されています。多宝塔は現在の建物が建立された時に造顕されたものだとか。両脇侍の二仏像は鑑真和上の来朝時に将来されたいわれるものを模した像だそうです。将来品は別置されていると資料にありますので現存するようです。いただいた資料で遅まきながら初めて知ったのですが、四天王はもとは銅造製のものが安置されていたそうです。それは今はないとか。この写真にある天平時代の傑作といわれる四天王塑像は、東大寺内の中門堂から移されたものといわれているそうです。南面するお堂の戒壇上、南西隅に写真の左端の「増長天」が置かれていて、そこから時計回りの各隅に残りの三天王像が配置されています。置かれている位置、像高、それぞれの像が仏法の守護神として護る方位をまとめてみます。 南西隅 増長天 162.2cm 南 南瞻部州(なんせんぶしゅう) 北西隅 広目天 169.9cm 西 西牛貨州(せいごかしゅう) 北東隅 多聞天 164.5cm 北 北倶廬州(ほっくるしゅう) 南東隅 持国天 160.2cm 東 東勝身州(とうしょしんしゅう)インドの護世神が仏教に取り入れられて、仏法とそれに帰依する人を守護する護法神に位置づけられたのです。「仏教的世界観では、世界の中心にある須弥山(しゅみせん)に住む帝釈天(たいしゃくてん)の輩下で、須弥山中腹の四方の門を守る神となった。」(資料6)そして、須弥山をめぐる四大州のそれぞれを四天王の一人が守護する役割を担っているのです。四大州の名称が上記各行の右端に記した州名です。四天王の配置の記憶法としては、持国(南東)、増長(南西)、広目(北西)、多聞(北東)の順にして、「じぞうこうた」、「地蔵買うた」とするのがオススメと手許の本に載っています(資料6)。ナルホド!まず、境内を眺めてみます。向拝の石段の右側に、「戒壇外相」と刻した石標があります。これも上記の「戒壇石」の一つです。「戒壇」の聖域とその外を明確に区切る結界の表示ということなのでしょう。ここまでが「戒壇」外域の扱いです。ただし、戒壇堂の置かれた区域だということになります。東大寺の境内案内図を参照すると、築地塀越しに、勧進所の「八幡殿」と「勧進所経庫」の建物が見えます。(資料7) 表門から戒壇堂への真っ直ぐの参道を除き、砂利の敷かれた庭には南北方向に幅広の筋目が引かれています。この筋があることで、雰囲気が引き締まっている感じを受けます。戒壇堂の外周を眺めてみましょう。 白壁の中の花頭窓が美しい。廻縁に佇み、庭を眺める人が居ます。お堂の蟇股はスッキリとした意匠です。 斗栱は三ツ斗が使われています。 飾り瓦は龍が意匠化されています。戒壇堂の屋根でも、鬼瓦が楽しめました。 阿吽形の別、髭や額の造形の差異など・・・・ 鬼瓦の側面に、制作年や瓦師の名前を陰刻したものもあります。訪れられたら、どこの鬼瓦か探してみてください。戒壇堂を出たあと、「転害門」を久しぶりに見に行くことにしました。そこで、境内を北方向に通り抜けます。ここからの経路は一度歩いたことがあります。 戒壇院の築地塀のところに、鹿が来ていました。戒壇堂前を西に回り込むと門があります。 門をくぐり、右に戒壇堂の西側築地塀を見ながら、左折すると、前方に「千手堂」の建物が見えます。千手堂側からふりかえり東方向を眺めた景色この後、右折して北の門を抜けて転害門へ。つづく参照資料1) 結界を示す三つの石 -戒壇院の「戒壇石」 :「うましうるわし奈良」2) 『続日本紀(中) 全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p116-1283) 拝観の折にいただいたリーフレット「東大寺戒壇堂」4) 戒壇堂 境内のご案内 :「東大寺」5) 東大寺の千手堂を公開/火災から4年ぶり修復 2002/05/28 :「四国新聞」6) 『図説 歴史散歩事典』 監修・井上光貞 山川出版社 p294-2957) 境内案内図 :「東大寺」補遺享保 :ウィキペディア戒壇 :ウィキペディア鑑真 :ウィキペディア鑑真 :「コトバンク」あの人の人生を知ろう ~ 鑑真和上 :「文芸ジャンキー・パラダイス」四天王像 :「うましうるわし奈良」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照&探訪 正倉院展への途次と鑑賞、そして東大寺境内へ探訪 東大寺境内散策 -2 戒壇院の北門・中御門跡・転害門・大仏池 へ探訪 東大寺境内散策 -3 指図堂・勧進所・道端の石塔碑群 へスポット探訪 [再録] 奈良・正倉院 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ探訪[再録] 東大寺境内 -2 鐘楼・行基堂・念仏堂・俊乗堂・辛国社 へ探訪 [再録] 東大寺境内 -3 大仏殿・勧学院周辺と春日野 へ探訪 東大寺境内再訪 -1 手向山八幡宮・法華堂(三月堂)へ探訪 東大寺境内再訪 -2 二月堂・龍王の瀧・閼伽井屋・三昧堂ほか へ
2016.11.23
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北白川・地蔵谷から一本杉までは尾根歩きで、午後に東海道自然歩道を歩きつつ大津市側に降る後半は、史跡探訪を兼ねる形になりました。それぞれの場所をかつて史跡探訪したことがあり、久しぶりの再訪の機会に恵まれたことになります。逆方向から歩くことになったので、それなりに新鮮な感覚があります。冒頭の写真は崇福寺跡の一つである「弥勒堂跡」です。まずは「崇福寺」ですが、「天智天皇の勅願によって、天智七年(668)に創建された寺院で、志賀寺とも志賀山寺とも呼ばれていました」(説明板より)。2回の発掘調査により、「三つの尾根上に礎石建物が建てられてていたことが明かに」なっているそうです。「崇福寺縁起」には、この寺が大津京の西北の尾根に建てられたと記されているそうです。昭和14年(1939)の発掘調査において金銅・銀・金の三重の箱に納められた舎利容器が銀銭・鉄鏡などと一緒に発見されているといいます。ただ崇福寺のものという証拠まではないそうです。「舎利容器の文化レベルから考えると、大津京跡に深いつながりがありそうだ」ということです。(資料1)この「弥勒堂跡」は北の尾根上にあります。礎石の配置からは五間三間の建物と推定されています。またこの「弥勒堂跡の東側に、瓦積み基壇の一部や石垣の一部」(説明板より)が発見されているようですが、不詳だとか。弥勒堂跡から西の谷側に降ると、「金仙の滝」と呼ばれる滝があります。その滝側に霊窟があるのです。ここにはこんな伝説があるそうです。「ある日、宮の乾(いぬい:北西)の方向に霊窟があるという不思議な夢を見た天智天皇は、その夢でいわれたとおりに、翌朝、この地に探しにきたところ、一人の僧侶と出会い、この地が仙人の住む霊窟であるという話を聞きました。このことが崇福寺建立のきっかけとなったということです。」(説明板より)この伝説、調べてみますと、『今昔物語集』の巻十一「本朝付仏法」の第29番目の話として、「天智天皇、志賀寺を建てたる語」という見出しで収録されています。(資料2) 滝側の洞窟は小規模で、奥行もそれほどありません。ひと一人が修行で留まる位の広さはあります。奧の壁面には定かではありませんがこの写真のようなあたかも祈願する人物像にも見える様な図柄が見られます。西の谷から、中の尾根に少し上ります。 そこには、東西に2つの基壇があるのです。小金堂跡と塔跡で、礎石がその位置を示しています。 説明板の地形図と堂塔跡の実測図を部分拡大してみました。地形図には、位置関係が見やすいように名称を追記しました。上記した舎利容器は、この塔跡の基壇中央部、地下1m余りのところに塔心礎があり、その側面にあけられた舎利孔から発見されたそうです。説明板には発見物が詳述されています。(説明板参照)ここから金堂跡のある尾根に向かいます。近くに建てられた標識によると、弥勒堂跡には180m、金堂跡・講堂跡には160mという距離関係にあります。 ここが一番広々とした平坦地になっていて、「崇福寺旧址」の石碑が山側の端近くに建立されています。旧は旧漢字で刻されています。 説明板 説明板の右上に掲載されているのがこの実測図です。この実測図を見ますと、上掲の石碑は金堂跡の中央付近に建てられていることになります。これが金堂の礎石の一部で、石碑に向かって左側面の礎石です。南の尾根上の西側にあり、約5.5mの基壇を設けた金堂跡と推定できる5間4間の南面する建物跡だそうです。 こちらが講堂跡の礎石の一部にあたるようです。この講堂跡と推定されている建物も、金堂跡と同様に5間4間の南面する建物跡だそうです。この講堂の北側に、3間2間くらいの小さな建物跡がさらにあります。(説明板より) 崇福寺全体の位置関係はこの地形図でおわかりいただけます。黒丸が説明板の設置されている場所です。3つの尾根上が開削されて諸堂が建立されていた状況がよくわかります。説明板には、興味深いことが後半に記されていますので、転記します。「この南の尾根上の建物と北・中の尾根上の建物群とでは、建物の方位や礎石の形状が異なることや南の尾根上の建物群周辺から白鳳時代の遺物が出土しないことから、現在、南の尾根の建物群を桓武天皇によって建立された梵釈寺に、北・中の尾根上の建物群を崇福寺にあてる説が有力視されています。 崇福寺は、壬申の乱によって大津宮が廃都になった後も、繁栄をつづけ、平安時代には十大寺のひとつに数えられるほどになります。しかし、平安時代末期の山門(延暦寺)と寺門(じもん:園城寺)の争いに巻き込まれ、衰退の一途をたどり、鎌倉時代後半頃には、ついに廃絶してしまったようです。」これは平成4年(1992)3月に大津市教育委員会により設置された説明板です。上掲説明板の左上にあるのは、南西方向からみた崇福寺跡の航空写真です。 大津市側から崇福寺跡に登ってくると、左の標識がその登り口になります。そこには右の写真の説明板があり、国指定史跡の崇福寺跡について、概説の説明がされています。ほぼ上記の内容と重なりますので、写真だけ掲載しておきます。これを最初に読むと総論部分を読むことになり、各尾根上の説明板が各論編になります。 これらの標識や案内板が設置されています。ここから、ウォーキングのメンバーは、志賀の大仏に向かいます。坂道を下ってくると、このお堂があります。坂道の下方向からお堂を眺めた景色です。ここはイメージしていただきやすいように、坂道を登ってきた方向からお堂にアプローチする形でご紹介します。 お堂の側に「石造阿弥陀如来坐像(志賀の大仏)一躯」と題した説明板が設置されています。お堂があるのですが、このお堂は参拝用の建物という感じです。 ご覧の通り、大仏様は露天のままなのです。かつては露天の大仏様がここに安置されていたのかもしれません。「この石仏の横を通る道は、崇福寺跡から山中町を経て京都の北白川へぬける旧山中越(志賀の山越)で、大津側の入口に位置するこの場所と、山中町の西教寺門脇、京都の北白川に石仏があり、いずれも山中越を利用した旅人が道中の安全を祈願したともいわれています」(説明板より転記) 高さ約3.5m、幅約2.7mの花崗岩に、厚肉彫に彫出した高さ約3.1mの阿弥陀如来坐像です。上半身に彫刻の主力が置かれ、13世紀頃に造立されたと考えられています。(説明板より) 堂内には、みろく菩薩御詠歌を記した額が掛けられています。この石仏が一説では「弥勒菩薩坐像」として伝えられているようでもあります。(資料3)それがこの額にも繋がる信仰なのでしょう。「志賀の大仏」は「見世の大仏」とも呼ばれていたようです。現在の地図を見ると、京阪電車の滋賀里駅の東側に「見世」という地名がありますので、この地名と関連があるのかもしれません。少し脇道に逸れますが、志賀の山越により京都の北白川に出るところに触れておきましょう。志賀越道が今出川通に達する辻のところに、「子安観世音」と呼ばれる大きな石仏が鎮座します。この石仏がそれです。2003年3月に撮った写真。駒札には、「ここは昔から白川の村の入口に当り、東は山を越えて近江へ向かい、洛中へは斜に荒神口に通じていた。また、出町から百万遍を経て浄土寺へ向かう細道との交差点でもあった」と往時の道の繋がりを冒頭に記しています。「細道」がいまや今出川通という幹線道路です。鎌倉期の石仏。また、江戸時代の『拾遺都名所図会』には「北白川の石仏」として絵を載せていて、そこには「北白河の石仏は希代の大像のいしていづれの代の作といふ事をしらず」と文を記しています。(資料4)この石仏は「古来子安観世音として町の人々の信仰があつく今も白川女は必ずここに花を供えて商いに出る」(駒札より)とか。 志賀の大仏から100mほど坂道を下った右側にこの石仏があります。磨崖仏の一種でしょうか。自然石に石仏を彫り込み、この場所に安置されたのでしょうか。この石仏も定印を結んでおられるので阿弥陀如来坐像なのでしょう。 さらに下ると、左側にこの標識が立っています。「百穴古墳」です。古墳群の入口付近に説明板が設置されています。 今から約1400年前、古墳時代後期に作られた墓が多く集まり、横穴式石室の入口が穴のように見え、それが数多くあることから「百穴」の名がついたそうです。墓に一緒に納められていた品々から、これまでの研究では、中国や朝鮮半島からやってきた人たちと深く関係する古墳群と考えられているそうです。この古墳群についての詳述は、部分拡大した説明文をお読みください。 更に坂道を下っていくと、石仏を集めて祀ってある一画が路傍にあります。「日本の茶栽培の発祥地 滋賀里」という駒札唐の時代に中国に留学し、帰国した僧永忠が延暦24年(805)に帰国の際、茶の種を持ち帰ったと説明されています。永忠は崇福寺と梵釈寺の検校(宗務総長)となったそうです。寺域周辺、つまりこの辺りに茶畑を開き、茶の栽培をしたといいます。「弘仁6年(815)嵯峨天皇唐崎行幸の折、天皇に茶を煎じて献じた。これがわが国における茶の接待の初めという」とか。(駒札より) 地蔵堂や法華塔が目に止まりました。 「千躰地蔵堂」の扁額が掛けられていて、格子戸から拝見すると、中央の地蔵菩薩坐像の周囲に小さな地蔵菩薩立像がまさに千躰余並べて安置されています。これだけ並ぶと壮観です。こういう形式で地蔵尊を祀られているには、初めて拝見しました。このお堂の前を通過したことがあるはずなのですが、その時は素通りしていたのでしょう。京阪電車滋賀里駅が今回の終点です。そこまではあと少しですが、その間にもいくつか目に止まるものがあります。 禅宗寺院の山門前でよく見る石標が路傍にぽつんと残されています。かつてのどこかの寺域の入口を示す感じですが、不勉強故に不明です。また、崇福寺遺跡への道標も立っています。 八幡神社の鳥居や、千鶴大弁財天のお堂の側を通過しました。今回は素通りとなってしまいました。後日に調べてみると、滋賀里八幡神社は9月に行われる秋祭りに特徴があるそうです。「約6mの青竹でつくった三本の鉾のお渡り。鉾は、松に日の丸の絵柄の3本の扇を円形に組み合わせて鉾の先端につけ、その中心に塩と米を入れた晒の袋をつるしたもの」という行事が行われるといいます。夕刻の神輿2基の還御も勇ましいとか。松明が灯され、神輿が境内を駆け回るそうです。(資料5,6)一方、千鶴大弁財天については、情報を入手できませんでした。そして、京阪電車滋賀里駅到着です。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 『滋賀県の歴史』 原田敏丸・渡辺守順著 山川出版社 p342) 『今昔物語集 本朝仏法部 上巻』 佐藤謙三校注 角川文庫 p93~953) 『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編 山川出版社 p74) 北白川の石仏 拾遺都名所図会 :「国際日本文化研究センター」5) 滋賀里八幡神社の秋祭り :「大津市歴史博物館」6) 志賀八幡宮秋祭り :「るるぶ.com」補遺滋賀八幡神社 9月15日秋祭り 歴史散歩 :「西近江 しんぶん」志賀八幡宮御例大祭(八幡神社) :「きょうの沙都」滋賀里 :ウィキペディア北白川の子安観世音(京都市左京区) ふるさとの昔語り :「京都新聞社」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)歩く 比叡アルプス -1 北白川・地蔵谷 ~ 一本杉 ~ 崇福寺跡手前 へ
2016.12.05
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[探訪時期:2014年2月]2014年2月3日(月)の各新聞紙にこの「山本亡羊読書室」跡のことが大きく取り上げられていました。これをトリガーに一度油小路を探訪してみることにしました。そのご紹介です。さすがに地元の京都新聞は大々的に報道していました。「重文級含む資料数万点 下京の土蔵で発見 類例ない量」「まるでタイムカプセル 資料数万点京で発見」朝日新聞の夕刊には、「岩倉具視駆使した暗号表 京都で史料数万点」といった具合です。 具視暗号表この写真が新聞各紙に写真が掲載された「西南戦争で岩倉具視が使った暗号表」(松田清京都外大教授提供)です。インターネットに掲載されているのを借用しました。江戸~明治期の本草学(博物学)・漢学の私塾「山本読書室」跡の土蔵を松田清京都外大教授が2011年6月に調査され、約2年半の調査・整理内容を目録として刊行されたという報道です。土蔵には、西南戦争の時に岩倉具視が残した秘密通信文61通を含め、数万点の史料が秘蔵されたままだったというから驚きです。各紙の報道では、2階建て約100平方メートルの土蔵に、約230個の収納箱や約120の包みなどに納められていたのだとか。「すべてを分析するには10年はかかる」(松田教授)そうですから、歴史解釈が変化する発見も今後でてくるかもしれません。報道によれば、主な史料として、上掲暗号表のほかに挙げられています。 ・德川慶喜が江戸攻撃中止を求めた直筆哀訴状 ・菅原道真直筆の可能性がある写経 ・13世紀の源氏物語の写本 ・16,18世紀のオランダ語植物図譜 ・日本の本草学をリードした新井白石や貝原益軒の書簡 ・日本の本草学の象徴・松岡怒庵の採薬刀 ・国内で唯一現存する江戸時代の極楽鳥標本 。将軍家侍医の桂川甫周が模写した「犀図」「山本読書室は1811~1903年に、儒医の山本亡羊ら3代にわたり京都市内で主宰した本草漢学塾。西本願寺宗主の学問掛であった儒医が開いた学塾『読書室』がルーツだ。本草学(博物学)の西日本の拠点で、医学、儒学、絵画も講義した」(京都新聞)のだとか。この報道を読むまでは知りませんでした。薬草園を備えた学校であり、亡羊の父・山本封山西本願寺文如上人(1744~99)の学問所を下賜されて開塾したそうです。禁門の変(1864)で焼失したといいます。土蔵は類焼を免れたということなのでしょう。(資料1)場所は五条通と油小路通の交差点から油小路通を北に上がった位置です。上掲旧蹟の写真も京都新聞には載っていました。烏丸通七条上ルの目的のお店で所用を済ませて、近い距離なので、立ち寄ってみることにしたのです。油小路通から南を眺めて。東西の通りが五条通です。現在、油小路通という名称での通りは、北端は今回ご紹介する上立売通まで上がりました。ネット検索すると、「北は竹殿南通まで」(資料2)と記されているのですが、私にはこれがどの通りあるいはどの地点なのか現地確認が十分にはできていません。帰ってから地図を調べて見ると、南端は京都市伏見区の外環状線との交差路になる下三栖まで、という長い道路域になります。それから南は国道1号線に連接です。せっかくの機会だから、この油小路を北に上がって行こうか・・・・と、ふと思ったことからの「油小路を上がる」探訪です。こんな通りが京都にあるというご紹介。現在は西本願寺の門前を南北に通る堀川通と平行して、そこから東側にあるのが油小路通です。平安京の時代でいえば、西の大宮大路と東の西洞院大路との間に、西から言うと猪熊小路、堀川小路、油小路があったのです。現在は、堀川小路が堀川通として幹線道路になっています。油小路を歩いてみて、目にとまったのが、ところどころに昔の景色を残してくれている町屋と屋根に置かれた鍾馗像です。 建物をコンクリートの現代建築に変えたところでも、軒に瓦屋根を設けて鍾馗さんが置かれているんです。ズームアップすると、ちょっと迫力ありますね。「鍾馗」は五月人形の一つですね。「(中国、唐の玄宗皇帝が夢に見て描かせたのに始まるという)魔を除き疫病の悪神を追い払うという神。ひげをたくわえ黒髪をつけ、軍靴をはき、片手に剣を持つ。強者の権化とされる。鍾馗様。鍾馗大臣」(『日本語大辞典』)ということですので、悪魔疫病封じを願って屋根に置かれたのでしょう。ウィキペディアによると、「日本では、江戸時代末(19世紀)ごろから関東で鍾馗を五月人形にしたり、近畿で魔除けとして鍾馗像を屋根に置く風習が見られるようになった」のだとか(資料3)。江戸時代末期、この油小路通に面した商家の町並の屋根にも鍾馗様が並んでいたのかもしれません。 京都市登録有形文化財となっている「秦家住宅」 江戸時代には薬屋を営んでいたという町屋です。通りに面するところが店舗部になり、その奥に居住部があるという「表屋造り形式」なのだそうです。祇園祭の太子山を出す町内、太子山町(油小路通綾小路下ル)に所在です。「奇應丸」という薬名の看板が掲げられています。江戸期のイメージを浮かべるのに役立ちますね。「金粒樋屋奇応丸」という家庭薬は現在も販売されている薬です。(資料4) 今やビルに挟まれた一画に神社が存続しています。「火尊天満宮」という扁額が懸けられています。ここには、祇園祭の油天神山のご神体として山に遷される菅原道真の木像が祀られているのです。公家の風早家伝来といわれる彩色天神像が社殿に祀られていることから風早天満宮とも呼ばれるようです。「火尊」というのは、彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)で、愛宕神社の祭神、火伏せの神です。二柱が合祀されているというわけです。(資料5)「野口家住宅」の駒札が建てられています。趣のある町家です。 代々呉服商を営まれてきた旧家のようです。ここも秦家住宅と同様に表屋造りの形式です。「座敷は伏見の小堀屋敷にあったとされるものを明治4年(1871)に移建したもの」といいます。京都市指定有形文化財に登録されている住宅。(資料6) 所在地:油小路通錦小路下る藤本町544 こんな鍾馗様も。「本能寺校跡」というモニュメントが目にとまりました。 なんと、そのあたりは「本能寺跡」でもありました。(能の漢字は別字ですが変換できません。写真をご覧ください)現在の地図でいえば、堀川校本能学舎や本能老人ホームのビルが建っている場所です。油小路通に面したところに、銘板をはめ込んだ石標が建てられています。「元本能寺南町」「元本能寺町」という町名が、本能寺の変の歴史をとどめています。地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 上掲ビルの入口がオープンスペースになっています。学校と老人ホームの間の通路。 そこの壁にこちらの駒札が。 祇園祭の宵山では「蟷螂山」を眺めに毎年のように来ているのですが、この地区の一角だとは意識していませんでした。太子山、油天神山・・・夜に巡り歩いていて見るのと、一つの通りに沿って昼間に見るのとの違いもありますが、油小路通の市内中心区間が祇園祭と深い関わりのある地域だということを再認識した次第です。改めてチェックしてみると、油小路通から少し東に入れば・・・蟷螂山、四条傘鉾、芦刈山、木賊山なんですよ。(資料7) さらに、こんな鍾馗様をその先のところで見かけました。 国芳鍾馗画 北斎鍾馗画関東には鍾馗を絵に描いたものが多くあるようです。歌川国芳が描く鍾馗はオーソドックスなものですが、葛飾北斎がこんな鍾馗を描いています。ともにウィキペディア(「鍾馗」「葛飾北斎」)から借用しました。つづく参照資料1) 2014.2.3(月)京都新聞 朝刊、朝日新聞 夕刊 山本亡羊読書室旧蹟:「京都フィールドミュージアム」2) 油小路通 :「京都観光Navi」3) 鍾馗 :ウィキペデイア4) 樋屋製薬株式会社・樋屋奇応丸株式会社 ホームページ5) 火尊天満宮(下京区) :「京都風光」 風早町の火伏せの天満宮(火尊天満宮) :「京都を感じる日々★古今往来Part1・・・京都非観光名所案内」6) 京都市指定・登録文化財-建造物 :「京都市文化財保護課」7) 山鉾マップ:「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)【 付記 】 「遊心六中記」としてブログを開設した「イオ ブログ(eo blog)」の閉鎖告知を受けました。探訪記録を中心に折々に作成当時の内容でこちらに再録していきたいと思います。ある日、ある場所を訪れたときの記録です。私の記憶の引き出しを兼ねてのご紹介です。少しはお役に立つかも・・・・・。ご関心があれば、ご一読いただけるとうれしいです。補遺油小路通 :ウィキペディア山本亡羊 朝日日本歴史人物事典の解説 :「コトバンク」重文級含む史料、数万点発見 岩倉具視が使った暗号表など :「日本経済新聞」西南戦争史料など数万点 本草漢学塾跡で発見 岩倉の暗号表 「情報戦」物語る :「SANKEI EXPRESS」樋屋奇應丸 家庭薬ロングセラー物語 :「全国家庭薬協議会」太子山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)油天神山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)蟷螂山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)木賊山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)芦刈山 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)四条傘鉾 :「祇園祭」(祇園祭山鉾連合会)歌川国芳 :ウィキペディア葛飾北斎 :ウィキペディア 鍾馗博物館 鍾馗に関心を抱かれた方は、こちらのホームぺージを拝見されることをお薦めします。鍾馗様オンパレードの秀逸なサイトです。かなり前、鍾馗について一度ネット検索していたときに偶然みつけました。 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 京都・油小路通を歩く -2 京の町家・地蔵尊小祠・樂美術館・白峯神社 へ探訪 [再録] 京都・油小路通を歩く -3 白峯神宮細見 (1) へ探訪 [再録] 京都・油小路通を歩く -4 白峯神宮細見 (2) へ
2016.12.18
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印月池中の北大島に渡る一つの経路が前回ご紹介したこの侵雪橋です。 [探訪時期:2015年4月] 池の北西側から橋全景を眺めた景色です。(マップの青丸7) 侵雪橋ではなく、北大島の方に目を転じますと、つまり印月池の西岸から東を眺めますと、この東側の池畔の景色が「五松塢(ごしょうう)」と称され「十三景の五」にあたります。「本来は五株の松あるいは一幹五枝の松が植えられていたことから名づけられました」(資料1)。「塢」という漢字は、小さい土手という意味だそうです。(マップの赤い四角10)そして、いよいよ橋を渡ります。 橋上から南東を眺めると臥龍堂(南大島)が、南西を眺めると、南西端に漱枕居(そうちんきょ)が見え、京都タワーが背景に見えます。 北大島にはこれから訪れる「縮遠亭(しゅくえんてい)が木々の間に。(マップの青丸8)橋を渡り、少し南方向に歩んだ池畔から眺めた漱枕居 逆に、橋から北方向に少し進むと、この「碧玉の石幢(へきぎょくのせきどう)」が池畔に建てられています。碧玉というのは、青い色をした貴石を意味します。しかし、この石幢はそんな色ではありませんが、なぜか「碧玉」と呼ばれているのです。いただいた冊子にも、その理由は不明と記されています。 「石幢というのは通常の石灯籠と違って、笠の部分に蕨手(わらびて)と呼ばれる装飾が付いておらず、竿に節が無いなどの特徴があります。石灯籠では火袋にあたる部分は平面が六角形の仏像を安置するための龕(がん)となっています。」(資料1) (マップの赤い四角5)竿の下の基壇を眺めると、半円形の窪みがあるのは長い年月で水滴が穿った窪みでしょうか・・・・。時の移ろいを感じさせます。右の写真は違う角度から撮ってみました。 池の水面は自然の描くキャンバス!北大島から眺めた侵雪橋。京都タワーが水面に映じていて、これもなかなかいい景色。 橋を渡り、北大島から眺めた縮遠亭の全景築山の上に位置するこの茶室には、侵雪橋を渡った正面と右側の2箇所に石段段があります。さらに、左に回り込む道があります。左、つまり北側に回っていくと、築山の北麓に石組みの横穴が見えます。 これが「塩釜」と呼ばれているものです。(マップの赤い四角9)横穴の底に井筒が見えます。「その形が塩を製造する塩釜とそれを屋根で覆う塩屋のありさまに似ていることから塩釜と呼ばれています。」(資料1)今は水が涸れてしまっていますが、縮遠亭での茶会の際の水源だったと推定されているようです。 石段を上り始めて見上げた縮遠亭の北面 近くには「イブキ」の大木があります。 正面の石段を上って見た「縮遠亭」の西面です。最初は、そのまま南側に回って眺めてみました。また、一旦、石段を下り、南方向からアプローチしてみましたので、このご紹介としては、そちらの方で続けます。 印月池に架かる侵雪橋より北側の園池の景色 こんな景色の見えるロケーションもあります。漱枕居が様々なロケーションから、違った雰囲気で眺められるのも一つの魅力です。 南側から茶室「縮遠亭」にアプローチする石段 「縮遠亭 十三景の七」この西側入口の土間から奥に入ると「茶室(抹茶席)があり、四畳間が付く構成」となっているそうです。現在の建物は1884(明治17)年頃に再建されたもの。この縮遠亭は「煎茶三席」の「飯店」として用いられたそうです。 南端から斜めに続く板間を経て、三畳敷の上段の間に連結されています。この上段の間はご覧のように床を高く支えた舞台造りになっています。「かつては上段の間から東山三十六峰の一つ、阿弥陀ケ峰の遠景が縮図のごとく見晴らせたといいます。」(資料1)園内の樹木が繁茂し、江戸時代後期以降その景色は見られなくなってしまったそうです。頼山陽自身が、「渉成園十三景詩」の一つとして、「縮遠亭」と題し次の詩を詠じています。(資料2) 銘亭園高處 坐見東山頂 於今二百年 唯見園樹影 残山輿垂水 何必縮遠景こんな意味になるのでしょう。試訳です(誤訳になっているかもしれませんが・・・)。名高い茶室が渉成園の高い場所にあり、そこに坐ると東山の頂が見える(という)。今200年の時が経ち、ただこの庭園の樹木を眺めている。(ここには)築山があり、垂れ落ちる水が流れている。何も遠景を縮図にする必要はない(この庭園の景色を十分に満喫できるではないか)。 1653年に13代宣如上人が退隠され、隠居所と定めた時に、「渉成園」と名づけられたというのです。頼山陽がここを訪れたのは江戸時代後期の文政年間(1814-1830)のようなので、その頃には既に阿弥陀ケ峰は見えなかったことがこの漢詩でわかります。 この上段の間より、一段低い所に置かれているのが「塩釜の手水鉢」です。(マップの赤い四角6)石造宝塔の塔身を手水鉢に転用したものだそうで、鎌倉時代の製作とみられているとか。ここにあるものが、全国の庭園にある「塩釜の手水鉢」の手本となっているものなのです。和歌でいわれる「本歌」(=オリジナル)です。河原院は嵯峨天皇の皇子であり、臣籍にくだった左大臣源融の邸宅です。「源融は邸内に陸奥国の塩竃(しおがま)の景を移し、毎月、難波江(大阪湾)から潮水を運ばせて塩を焼く煙りの風情を楽しんだという」(資料3)のです。このことが、塩釜、塩釜の手水鉢として採り入れられたのでしょう。前回ご紹介した『都名所図会』もそうですが、頼山陽も「渉成園記」で、「相傳昔者源左府融河原院今之別墅即其遺址也」(昔の源左大臣融の河原院は現在の別荘の場所であり、即ちその遺跡と相伝されるものである)と記しています。しかし、実際はそれらは誤りであり、河原院のあった区域は、「今の五条通から六条通に至り、東西は柳馬場から鴨河原に及ぶ広さであった」(資料3)そうです。 この縮遠亭のある場所の南側の池畔から南を眺めると、印月池はこんな景色が広がっています。前に見える島が臥龍堂(南大島)です。樹間から見える漱枕居をズームアップしてみました。 少し方角を西寄りに変えて撮った景色です。逆に、前方の臥龍堂より東側寄りに視点を移すと、「源融ゆかりの塔」が池の中の小島に建てられています。 (マップの赤い四角7)左大臣源融は、『源氏物語』の主人公である光源氏のモデルの一人ともいわれていますが、その源融の供養塔といわれる九重の石塔です。九重目の本来の笠は失われていて、宝篋印塔の笠が使われています。製作年代は鎌倉時代の中期と推定されている石塔です。 九重の塔の基礎の側面、格狭間(こうざま)と呼ばれる部分には蓮華が彫刻され、塔身には四方仏が刻まれています。「築庭にあたって、宇治にある塔の島の景色を写したともいわれています。」(資料1)宇治川の塔の島には、叡尊により建立された十三重の石塔が建てられています。 前回、『都名所図会』に掲載された挿絵「東殿」(=渉成園)をご紹介しています。あの図をよく見ていただくと、九重の塔は傍花閣に近い、印月池の西岸側に当時は建てられていたようです。いつの頃かに移設されたということでしょうか。この後、再び「塩釜」のある方の石段を上り、「回棹廊」に向かいます。 (資料4)つづく参照資料1) 「名勝 渉成園-枳穀邸-」 当日いただいたA4サイズのパンフレット2) 大谷派本願寺名所図会 :「近代デジタルライブラリー」 81~83コマに 頼襄「渉成園記」が収録されています。3) 『京都史跡事典 コンパクト版』 石田孝喜著 新人物往来社 p67-70,p236-2374) 都名所図会. 巻之1-6 / 秋里湘夕 選 ; 竹原春朝斎 画 巻2の43コマ目 :「古典籍総合データベース」(早稲田大学図書館)【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺頼山陽 :ウィキペディア頼山陽史跡資料館 :「ホットライン教育ひろしま」頼山陽記念文化財団 ホームページ山紫水明処(頼山陽書斎)の庭 :「京都市都市緑化協会」光明寺の石造九重塔 :「筑後市」旧浄土寺九重塔 :「堺観光ガイド」大谷寺九重塔 :「福井の文化財」九重塔 :「おんせん県おおいた」宇治浮島(うじうきしま)十三重石塔 :「石仏と石塔」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)スポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -1 高石垣・園林堂・傍花閣ほか へスポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -2 鑓水・蘆菴と露地の景色 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -3 閬風亭・双梅檐・臥龍堂・漱枕居・源融ゆかりの塔・侵雪橋 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -5 回棹廊・紫藤岸・獅子吼・丹楓渓 へスポット探訪 [再録] 京都・下京 「渉成園」(枳穀邸)細見 -6 臨池亭・滴翠軒・檜垣の燈籠・代笠席・亀の甲の井戸・大玄関 へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -1 阿弥陀堂門・総合案内所・阿弥陀堂ほか へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -2 阿弥陀堂・鐘楼(新調梵鐘)・東本願寺撞鐘(梵鐘)へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -3 御影堂・御影堂門・参拝接待所 へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -4 手水舎・御影堂門 へスポット探訪 京都・下京 東本願寺細見 -5 東本願寺の外を堀沿いに巡る へ
2017.04.03
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知人が円山公園の枝垂桜の良い写真をブログに載せているのを見て、誘発されて翌日に出かけてきました。つまり、昨日(2017.4.6)です。2016年もこの4月6日の夕刻6時半頃に円山公園の桜を見ていますが。今年は正午前後に桜めぐりをしました。この週末天気が崩れそうな予報です。満開の桜が散り始めるかもしれません。冒頭の写真は円山公園の中央より少し北側、この公園案内図に小さな黒丸を追記した辺りに立つ石標です。案内図もその傍にあります。なんと言っても、やはりメインは赤丸を追記した公園の中央にある「枝垂桜」が有名です。公園の中央部は広場になっていて、中央の墳丘上に枝垂桜が咲いていますので目に付きやすい場所でもあります。円山公園の地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 枝垂桜の前には、この鳩の銅像があります。鳩像の北側から眺めるとこんな感じです。枝垂桜の方に数歩近づき、全景を撮ってみました。垣根の傍に、この説明碑があることを意識している人はほとんど無さそうです。満開の桜景色を撮ることに皆さん意識を集中されています。円山公園は、京都市内で最大の公園で、面積は86,641㎡だそうです。もともとこの辺り、かつては「真葛が原(まくずがはら)」と称されていたところ。そこが祇園感神院(八坂神社の旧名)や安養寺の境内地となっていたのですが、明治初年に神仏分離令が公布され、廃仏毀釈(きしゃく)運動が起こります。明治4年(1871)に没収されて官有地になりました。(資料1,2)明治19年(1888)に公園化されたのですが、「当初は人工鉱泉療養所や貸席・旅館が建ちならぶ歓楽境となったが、数度の火災にかかって焼失した。大正2年(1913)に造園家小川治兵衛の設計監督によって造園され」(資料1)た結果、現在の公園ができた基だそうです。現在の円山公園の姿しか知りませんので、明治の頃のこのあたりの風景が想像できません。公園名は、「華頂山西側の小丘・円山を寺域に持つ円山安養寺に因んで円山公園と名づけられた」(資料2)そうです。また、安養寺の山号は「慈円山」と称しますが、江戸時代には「円山」と称されたそうです。徳川家康は「慈」を省略して「円山」と呼んだともいわれているようです。(資料3) 枝垂桜を撮っている時に、たまたま鳥が飛んできて、小枝に停まりました。 この枝垂桜を東側から西方向に眺めると、上掲の景色です。一方、八坂神社境内の東門を通り抜け、祇園祭の鉾の収蔵庫を南側にして、両側に屋台出店の立ち並ぶ間の往来を抜けてくると、 南側から見上げた枝垂桜はこんな景色になります。現在の枝垂桜は「祇園枝垂桜」としては2代目なのだとか。江戸時代に祇園感神院の執行(しぎょう)宝寿院の庭前に名木として枝垂桜があったと言います。神仏分離で、寺が廃絶されるに至ったとき、その名木も伐採されようとしたのです。そのとき、京都の殖産興業、医療政策、救貧政策などの分野で指導的な役割を果たしていた明石博高という人がこの名木を当時金5円で譲り受け、京都府に寄贈したそうです。円山公園が京都市に移管され、市の管理となります。「祇園の夜桜」として名を馳せ、樹齢二百余年といわれた名木も、昭和22年(1947)に寿命が尽き、枯死したのです。根廻り約4m、高さ約12mだったとか。15代佐野藤右衞門氏が、昭和初年に初代の桜から種子を採り、育てられていたものを昭和34年(1949)に寄贈され、それが植栽されて、この2代目の枝垂桜が今、目を楽しませてくれているという次第です。(資料1、説明碑文)この桜、正式には「一重白彼岸枝垂桜」と称するそうです。数多い桜の種類の中では最も寿命の長いものといわれているとか。(説明碑文)また、「現在の容姿は,樹高12メートル,幹回り2.8メートル,枝張り10メートルです」(資料4)上掲の案内図にある青丸は「坂本龍馬・中岡慎太郎像」のある位置です。枝垂桜の東側、公園中央の広大な池に架かる石橋を渡り、東に進んでいきます。公園の東奥の方にも枝垂さくらがあります。銅像のある場所に行く途中で見られる一つがこの大きな桜の木です。 そして、「坂本龍馬・中岡慎太郎像」も4月初旬には、咲いた桜を背景とする龍馬・慎太郎を見上げることができます。 マゼンダ色の丸を追記した辺りの枝垂桜も綺麗です。東南方向には、京料理の「いそべ」(茶色の丸)や、さらに東奥には、甘味処「紅葉庵」、京料理「東観荘」など(オレンジ色の丸)が位置します。桜めぐりの目印となるでしょう。北側に黄緑色の丸を追記したところが、料亭「左阿弥」です。 公園内に造られた小川沿いに西に下って行きます。椿の花と桜がコラボレーションしていました。小川は今は涸れていますが、両側には桜が植えられていて、桜を眺めつつ公園の中央に戻るのも比較的静かな環境で桜を眺めることができます。中央部の枝垂桜の混雑具合とは雲泥の差です。桜の花を愛でるには、東の奧側を散策することがお薦めです。 再び、石橋を渡り、中央部の枝垂桜の位置に戻ります。ここでは、戻る手前で柳の木の緑の枝と枝垂桜の色のコラボレーションを眺めることができます。この後、知恩院三門の桜を眺めに立ち寄ったのですが、一旦円山公園の桜をもう少し、先に眺めておきましょう。枝垂桜の西側は、桜の木が多いのですが、桜の木の下での花見の宴のメッカであり、近づく気にはなれません。枝垂桜から北に向かうと、知恩院への南門があります。その左手前に、「いもぼう平野家」(空色の丸)があります。その南側のゆるやかな石畳を西に下って行きますと、黄色の丸あたりにもお店が何軒かあります。 このあたりも、比較的静かな雰囲気で桜を眺められる散策路です。坂道を下りきれば、八坂神社石段下の交差点、喧騒のただ中に舞い戻ります。頼山陽作と伝えられる「京の四季」の冒頭はこういう詞章で始まり、歌われています。 春は花、いざ見にごんせ東山。 色香あらそう夜ざくらに、粋も無粋ももの固う。 二本ざしても柔らかう、祇園豆腐の二軒茶屋。 ・・・・・ご覧いただきありがとうございます。つづく参照資料1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p229-2302) 『京都史跡事典(コンパクト版)』 石田孝喜著 新人物往来社 p238-2393) 安養寺(京都市東山) :「京都風光」4) 円山公園 :「京都市情報館」補遺明石博高 :「コトバンク」明石博高 :「京都通百科事典」小川治兵衛 :ウィキペディア【庭園】植治の庭めぐり :「京都 岡崎 コンシェルジュ」株式会社造園植治 ホームページ御庭植治株式会社 ホームページ佐野藤右衞門(15代) :「コトバンク」植藤造園 ホームページ佐野藤右衞門邸の桜 :「巨樹と花のページ」洛東 円山公園 :「Kyoto Townmap」ザ・京都の桜!円山公園「祇園枝垂桜」の兄妹たちを巡ろう :「Travel.jp」料亭「左阿彌」 ホームページ 京の歴史とともに 織田信長の甥・織田頼長が安養寺の末寺建立に始まる京料理 いそべ ホームページ京名物 いもぼう 平野家本店 ホームページ東観荘 :「京都結婚日和」甘味処 紅葉庵 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・東山 -2 知恩院三門の桜 へ観照 京都・東山 -3 祇園・白川南通の桜、辰巳大明神、「かにかくに」歌碑、陶匠青木聾米宅蹟など へスポット探訪 [再録] 京都・東山 京都霊山護国神社 拝殿・昭和の杜・パール博士顕彰碑・諸慰霊碑 へ探訪 [再録] 京都・東山 円山公園南部周辺 -1 大雲院と祇園閣、円山地蔵尊 へ探訪 [再録] 円山公園南部周辺 -2 芭蕉堂・西行庵・花月庵(西行堂)・双林寺 へ
2017.04.07
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[探訪時期:2014年12月] 小野神社の参道入口北角にある前回ご紹介の上品寺から道路沿いに少し北に行けば、和邇川があります。その川沿いに和邇公園が整備されています。 途中で、虹が架かっているのを目にしました。薄く虹の一部がご覧いただけるでしょう。 和邇川 和邇公園ここで昼食休憩となり、今回の小野神社周辺巡りはここで終了し、後は和邇駅までの道案内という説明を受けました。そこで主催者の了解を得、参加メンバーとは別れて、せっかくの機会なので、それほど遠くないということでしたので「天皇神社」に足を延ばすことにしました。延ばした甲斐がありました。 「天皇神社」 正面の石の鳥居鳥居の先に拝殿が見えます。本殿のところでいただいたリーフレットの境内見取図では、「水場」と記されています。 鳥居から見えていた「拝殿」拝殿の背後に本殿があり、境内社が、本殿に向かい左側に左方向に、樹下神社、松尾神社、三宮神社の三社。右側には右方向に若宮神社、大国神社の二社が一列に横並びとなっています。 「本殿」 小野篁神社・小野道風神社と同じ、切妻造檜皮葺です。 この形式の本殿は、滋賀県内ではここの本殿を加えて3棟だけだそうです。また、日本全国でみても希な建築形式だとか。それが3棟も1地域に集まっているのがおもしろい。重要文化財に指定されています。ここの本殿は桁行三間、梁間二間、一重、向拝一間の建物で、鎌倉時代・正中元年(1324)に建立されたそうです。小野神社職務歴代記に建立に関する記録があるそうです。小野神社の2棟とは違い、屋根の勾配が著しく緩い造りになっています。(資料1、説明板)祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)。社伝によれば、村上天皇康保3年(966)の創始と伝えられているそうです。元は、「和邇牛頭天王社」と称された神社。京都八坂祇園の「牛頭天王」をこの地に遷したといいます。つまり、現在の八坂神社の流れですね。和邇中、今宿の産土神として崇敬されているのです。後でご紹介するように境内地社殿はこの地域のそれぞれの村の氏神として崇敬されており、さらにこの和邇荘全体の氏神として「和邇牛頭天王社」があるという構造にもなっていたようです。明治9年(1876)に「天皇神社」と改称されたのだとか。今までの各地探訪の折、幾箇所かで「天皇神社」を訪れています。一貫して「牛頭天王社」が「天皇神社」に改称されています。「牛頭天王は薬師如来の垂迹神で、素戔嗚尊と同体とされる」ことから、天皇神社と改称されるとき、「祭神も素戔嗚尊に改められたのであろう。本地仏を安置する薬師堂も境外に移され、現在は神社背後の乳守地蔵の脇にある」(資料2)とのことです。この薬師堂は今回訪ねていません。本殿・母屋の正面中央間と右側面が幣軸構板戸両開という形式の扉です。ここでもめずらしいと思ったのが正面の板戸の下部にある向かい合う人物像の装飾です。こういう意匠を初めて見ました。上掲の写真のように脇間は格子戸嵌殺の様式です。 頭貫の先端の木鼻は彫刻の装飾がありません。これもちょっとめずらしいと感じた次第。向拝の蟇股は残念ながら欠損しています。 本殿の背面、左側面の外観は白壁ですっきりしています。リーフレットによれば、境内社について、樹下神社、三宮神社、若宮神社の順に創立されたようです。以下ご紹介します。(資料1) 「樹下神社」 本殿に向かって左隣り後醍醐天皇正中2年(1325)「日吉十禅師社」の分御霊をこの地に奉遷。同年11月に遷宮。「和邇牛頭天王社」の摂社。中浜の産土神として崇敬されているそうです。祭神は鴨玉依媛命(かもたまよりひめのみこと)。現在の社殿は元禄3年(1690)に改造されたものとのこと。明治9年に「十禅師社」を「樹下神社」と改称されたのです。樹下神社で思い出したのが守山市街地、中山道沿いにある同名の神社です。後日再録してご紹介したいと思っています。こちらの神社の彫刻はなかなかのものです。玉眼を使っています。 蟇股の龍 向拝の木鼻の象 母屋側の木鼻は正面、側面ともに獅子が睨みをきかせています。 社殿の側面は板壁です。屋根の下に弓矢が奉納されています。神社本殿より規模は格段に小さいですが、装飾面ではかなり豪華な社殿です。 「三宮神社」 左端に位置します。後光厳天皇康安元年(1361)「日吉三宮」の分御霊をこの地に奉遷。同年11月に遷宮。同様に摂社であり、こちらは北浜の産土神として崇敬されているそうです。祭神は鴨玉依媛命荒御魂(かもたまよりひめのみことあらみたま)。現在の社殿は文明3年(1471)に改造されたとのこと。同様に、明治9年に「三宮神社」と改称されたのです。旧名は「日吉三宮社」だったようです。 木鼻はわりと良くみかけるタイプの意匠です。蟇股もシンプルなもの。 本殿の右隣りに位置する「若宮神社」後小松天皇明徳2年(1391)「日吉二宮」の分御霊をこの地に奉遷。同年9月に遷宮。同様に摂社であり、高城の産土神として崇敬されているそうです。祭神は大山咋命(おおやまくいのみこと)現在の社殿は文化3年(1806)に改造されたとのこと。同様に、明治9年に「若宮神社」と改称されたのです。旧名は「日吉二宮社」だったようです。 三宮神社の右隣で、樹下神社との間にある「松尾神社」ここの木鼻は、三宮神社の木鼻よりも象の形象が立体化していて、本格的な象頭の彫刻への過渡期を思わせる造作の感じです。蟇股はシンプルなもの。また、蟇股など部分補修されているようです。祭神は大山咋神荒御魂(おおやまくいのかみあらみたま)神社名と祭神を考えると、京都の松尾大社の流れでしょうか。(資料3)一番右端の大国神社(祭神:大国主神)の写真を撮り忘れました。松尾神社と同規模の大きさのようですが、松尾神社とともに創立等は不詳です。境内地南隅にある宝塔 大津市「有形文化財」指定鎌倉時代の作品のようです。「法華経」を根本経典とする天台宗・比叡山延暦寺の強い影響が、この旧志賀町内の神社にあった影響だろうと考えられているようです。調べて見ると、この地域はかつて和邇荘であり延暦寺の寺領になっていたのです。日吉大社からの分御霊の奉遷が多いこともその影響かもしれません。日吉大社は天台宗延暦寺の護法神として位置付けられていましたから。(資料4)さらに興味深いのは、本殿としての「牛頭天王社」がそのまま存続し、末社として日吉山王社の神々が祀られたのは、古代からこの地に小野氏の勢力が存在したことのためか、「牛頭天王社」という京都祇園八坂との関係なのかもしれないというところです。それがこの神社の「和邇祭り」にしきたりとして残るそうです。「和邇祭り」は古来4月初申の日が祭日だったそうですが、現在は5月の第2日曜日に実施されているとか。そして、「祭礼時、天皇神社の神輿が『大宮』であるのにかかわらず、式典の中では、御供の献上、あるいは祝詞奏上の順は樹下神社の神輿が一番先となっている」のだそうです。(資料1)このあたりの事情を考えると、本殿の建物の形式に対し、樹下神社の社殿の豪華さがなるほどと頷けます。中世の勢力交代のしからしめる結果ということなのでしょう。上記の神社を崇敬した村々の名称は、現在もそのまま地名として残っています。こちらの地図(Mapion)をご覧いただくと、イメージが作りやすいと思います。JR和邇駅に向かう途中、榎町(えのきちょう)商店街の十字路角に、デンとこの大きな「榎」と刻された石碑があります。なんだろうと後で調べてわかりました。「かつては、ここにエノキが植えられており、一里塚とも天皇神社の神木ともされていた」ことを示す史跡なのだそうです。(資料2)この大きな石碑を見て、今回のオプションを加えた探訪が終了しました。ご一読ありがとうございます。参照資料1) 「天皇神社」 当日、本殿のところでいただいたリーフレット2) 『滋賀県の歴史散歩 下』滋賀県歴史h散歩編集委員会編 山川出版社 p233-2343) 松尾大社 歴史・由緒 :「松尾大社」HP4) 日吉大社について :「日吉大社」HP【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺和魂・荒魂 :ウィキペディア荒御魂と和御魂 :「伊勢参拝ナビ」牛頭天王 :ウィキペディア祇園信仰 :ウィキペディア八坂神社について :「八坂神社」HP八坂神社 :ウィキペディア「牛頭天王」に見え隠れする日本人のルーツ :「日本とユダヤのハーモニー」 ネット検索していて出会ったおもしろい解釈です。和邇祭 大津の歴史事典 :「大津市歴史博物館」和邇天皇神社の祭 :YouTube和邇祭り :「西近江しんぶん」和邇氏考 古代豪族 :「おとくに」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -1 小野妹子神社・唐臼山古墳・小野道風神社ほか へ探訪 [再録] 滋賀・湖西 小野氏ゆかりの地 -2 石神古墳群・石上神社・小野神社・小野小町の塔・小野篁神社・上品寺 へ
2017.05.05
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2015年、正倉院展を鑑賞後に訪れました。そのときのまとめを再録しご紹介します。少しマニアックに、南大門を観察したものです。 実は南大門を経由して正倉院に行くためでもあったのです。南大門への道は、いつもながら修学旅行生をはじめ観光客で混雑しています。中国人観光客がとみに増加しているように感じます。南大門は好きな山門の一つ。その堂々たる構えと大きさには何度訪れても圧倒されます。それでいて、細部を眺めていくとその幾何学的な構造の美しさに魅了されるのです。風雨・風雪により木肌を見せ、きらびやかな色彩が消えた現在の姿の中に、その木組みのすごさに目を奪われ、またそこに魅力を感じるのです。南大門に近づくと、まず目に飛び込むのが「大華厳寺」の扁額です。東大寺は華厳宗の大本山です。華厳宗は「華厳経を所依として中国唐代の賢首大師法蔵が開いた宗派」で、「法蔵の門人審祥(しんしょう)が講経し、その教えを受けた良弁が奈良東大寺によって宗旨を弘め、947(天暦元)、光智は東大寺に華厳専修の道場として尊勝院を建て、本宗の中興といわれ」(資料1)たということです。この華厳経に由来するのでしょう。南大門の古びた感じからすると、この扁額は新しい感じがします。それもそのはずです。調べてみてわかったのですが、東大寺復興に尽力した重源上人の八百年御遠忌法要に合わせて制作され、2006年に掲げられたものだからなのです。鎌倉時代に華厳宗の宗義を発揚した東大寺の僧・凝然(ぎょうねん)が南大門には「大華厳寺」と書かれた額があったことを書き残していることから、復元されたのです。扁額の文字は聖武天皇が写経されたものから字を集めたものだそうです。(資料1,2)尚、東大寺という名前で親しんでいますが、正式名称は「金光明四天王護国寺(きんこうみょうしてんおうごこくのてら)」なのです。治承4年(1180)12月28日、父・平相国(清盛)の命により、その子の本三位中将平重衡が南都焼討を行い東大寺の大伽藍が灰燼に帰し荒廃します。その再興を行うための大勧進について後白河法皇は右大弁行隆朝臣を使者とし、法然上人に大勧進職となるよう内意を伝えたのだとか。法然上人はそれを固辞し、醍醐の俊乗房重源を推挙したと云います。そこから重源が大勧進職となり、東大寺再興の使命を遂行したのです。(資料3)このとき、重源は宋人の陳和卿(ちんなけい)と協力し、東大寺の再建をはかるのですが、この時に、「大仏様(だいぶつよう:天竺様てんじくよう)」と現在称されている新様式を導入したのです。この代表的な建物がこの南大門だといわれています。(資料4)正治元年(1199)に上棟されて、建仁3年(1203)年に竣工されました。仁王像もこの時に制作されています。入母屋造、五間三戸二重門です。この門は基壇上に25.46mの高さで聳えているのです。 軒下には柱を貫通した挿肘木(さしひじき)が六手先(むてさき)にさしだされて軒桁を支えています。頭貫の木鼻にはぐりぐりの繰形(くりがた)が付けられています。ちょっとしたアクセントになっているように思います。また、軒裏の棰(たるき)の先、つまり軒先には鼻隠板(はなかくしいた)がわたされています。基壇の石段を上がり、門の内部に立ち見上げると、天井ははられていず、太い円柱の柱が通柱としてまっすぐに高くのびています。屋根裏までの途中には、桁行と梁間に幾条も十文字に貫を組み堅牢な構造になっています。 この柱を縦横に貫く横木の中に、軒先の挿肘木に連なっていくものがあるのです。 そして、ここ南大門にあの有名な金剛力士像が安置されています。建仁2年(1203)に運慶と快慶が力を合わせて制作したといわれてきた仁王像です。1988~93年に解体修理が行われた際に、像の中から納入文書が出て来て、阿形は運慶と快慶が力を合わせ、吽形は定覚と湛慶が小仏師13人を率いて、60日間で造立したということが判明したと言います。使われた木材は山口県で伐採されたものが使われたとか。(資料5,6) 阿形 836.3cm 吽形 842.3cm怒りを露わに出した相貌で力強さを漲らす体躯が、鎌倉時代の典型的スタイルとして受け入れられ、その後長らく仁王像のモデルとなっていくのです。これら仁王像は、1988~93年以来、約20年ぶりに修理が行われました。2014年10~12月に阿形像、2015年8~10月に吽形像がそれぞれ実施されていたそうです。2014年の修理後に阿形、2015年10月19日に吽形の開眼法要が行われたのです。(資料8) 門を通り抜け、内側から眺めた南大門 南大門の斜め左側に、「東大寺ミュージアム」があります。ここも一見の価値があると思います。開館された時以来、数回訪れています。 そして、南大門から真っ直ぐ先には「大仏殿」。今回は通り過ぎただけ。前を左折して迂回し、背後の北側に向かいます。 大仏殿の背後に来れば、南大門から大仏殿前の混雑・喧騒は嘘みたいに静けさが戻ってきます。この裏側まで足を延ばす観光客はほんのわずかのようです。 ひろびろとした平地に礎石が並んで居ます。何が建っていたのでしょうか?東大寺の伽藍の最盛時はどんな風景がみられたのでしょうか? 東大寺のホームページの境内案合図を参照してみました。この場所に「講堂跡」と記されています。 東大寺の正式名称に関連して少し、ご紹介しておきましょう。東大寺のホームページと手許の本で知ったことです。『続日本紀』を読むと、神亀4年(727)閏9月29日に聖武天皇と光明子の間に皇子が誕生しますが、神亀5年(728)9月13日に皇太子が亡くなります。そこで、聖武天皇は亡くなった皇太子のために山房を造ることを思い立つのです。その結果、11月28日「智識・戒行にすぐれた僧九人を選んで山房にすまわせた」(資料8)という記述が続きます。公式ホームページにある「東大寺の歴史」の説明と重ねてみると、この山房というのが、金鍾山寺であり、僧9人の筆頭が良弁だったようです。次に、「十二月二十八日 金光明経六十四部計六百四十巻を諸国に配付した。・・・・」という記載があります。これ以前に既に諸国は、異なる巻本数の金光明経を持ってはいたようです。この時点で、いわば共通の経典が配付されたのです。当時、仏教は鎮護国家のために存在していました。『金光明最勝経』は「国家の災難・国難などを削除することを説く」経典として重んじられていたようです。天平12年(740)9月に藤原広嗣の乱が起こり、天平13年(741)の3月1日には日蝕があり、この頃不作で疾病が流行していたようです。そういう背景があったからでしようか、3月24日、全国に(国分)僧寺・(国分)尼寺を建立せよという詔を発したのです。各々に七重塔一基の造営、あわせて金光明最勝王経と妙法蓮華経をそれぞれ一揃い書経させようとしたのです。僧寺は金光明四天王護国之寺、尼寺は法華滅罪之寺とするように命じたのです。つまり、これらの経典の功徳で鎮護国家を願ったということなのでしょう。この折、神亀5年に造立された金鍾山寺が、大和金光明寺に昇格することとなったのです。つまり、「金光明四天王護国寺」の始まりです。天平12年の2月7日に聖武天皇が難波宮に行幸しています。『続日本紀』には触れられていませんが、「東大寺の歴史」を読むと、この時に河内国知識寺に詣で、聖武天皇は「『華厳経』の教えを所依とし、民間のちからで盧舎那仏が造立され信仰されている姿を見て、盧舎那大仏造立を強く願われた」のだとか。そこで、盧舎那仏造立の前に、まず『華厳経』の教理の研究を行う必要性があり、それを金鍾山寺が担ったのだそうです。翌年に金鍾寺が大和金光明寺となるのですから、『華厳経』の研究はそのまま大和金光明寺、つまりのちの東大寺の大本がこの経典を基盤にしていくことになるのでしょう。『華厳経』の研究(華厳経講説)から始まり、盧舎那仏の造立つまり大仏殿の建立と進んで行きます。そして、奈良時代を通じ、華厳を含めた六宗(華厳・三論・倶舎・成実・法相・律)兼学の寺、さらに平安時代には天台・真言の研究も加えた、八宗兼学の道場(学問寺)への発展していくのです。その根底は当初の華厳の教理であり、華厳宗の大本山という現在の姿があるようです。(資料8,9)正倉院へはまだ少しの距離があります。ちらほらと、足を向ける人がやはりいました。ご一読ありがとうございます。***** 追記 *****1. 東大寺と正倉院は拙ブログで別にまとめたものを掲載しています。末尾をご覧いただき、これらもご覧いただけるとうれしいです。2.「東大寺」公式ホームページで次のページをブログ記事掲載後に見つけました。 「世界遺産 東大寺 3Dバーチャル参拝」 優れものです。ぜひ一度アクセスされるといいのではないでしょうか。**********参照資料1) 『新・佛教辞典 増補』 中村元監修 誠信書房 p1412) 南大門 扁額「大華厳寺」 :「いこまいけ高岡」3) 『法然上人絵伝 (下)』 大橋俊雄校注 岩波文庫 p46-484) 『図説 歴史散歩事典』 井上光貞監修 山川出版社5) 『図説 仏像巡礼事典 新訂版』 久野健[編] 山川出版社6) 東大寺の南大門とは・・・ :「日本の世界遺産の楽しみ方」 南大門 :「東大寺」7) 美しくよみがえった仁王像、修理終え法要 東大寺南大門 2015年10月22日 :「朝日新聞DIGITAL」 ⇒ 2018.1.2時点でアクセス不可 東大寺南大門 吽形像の修理完了、清々しく :「産経WEST」 2015.10.19 動画もあり8) 『続日本紀 (上)全現代語訳』 宇治谷 孟 訳 講談社学術文庫 p282,p294-295、p393、p408-4119) 東大寺の歴史 :「東大寺」【 付記 】 「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。補遺東大寺 公式ホームページ金剛力士 :ウィキペディア東大寺南大門 金剛力士像 動画 :「NHK」仁王像のお話 :「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」『金剛力士像・仁王像』 西洋彫刻との類似点・相似性 :「日本美学研究所」華厳経 :ウィキペディア金光明経 :ウィキペディア金光明最勝王経 巻第一~十(国分寺経) 10巻 :「奈良国立博物館」金光明最勝王経 メモ :「き坊の棲みか」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 東大寺境内散策 -1 戒壇院(戒壇堂・千手堂) へ 3回のシリーズでまとめたものの最初の記事です。スポット探訪[再録] 奈良・正倉院 へ 探訪 [再録] 東大寺境内 -1 ひっそりとした境内の路沿いに へ こちらも3回シリーズでまとめたものです。その最初の記事です。
2018.01.02
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前回、スポット探訪として「菅原院天満宮神社」をご紹介しました。その冒頭で触れたのが、烏丸下立売の交差点の南西角に位置するこのレンガ造の教会堂です。現在は通年公開となりましたが、春と秋の京都御所一般公開が行われていた頃に、幾度もこの落ち着いた重厚な外観の教会堂を眺めながら通り過ぎていました。写真を撮ることは今までなかったのですが、この機会に外観だけ撮ってみました。教会内部を拝見した訳ではありませんので探訪とは言えません。観照という視点で少しご紹介します。この「聖アグネス教会聖堂」は1985(昭和60)年6月1日に京都市指定有形文化財に指定されている建物です。(資料1)このあたりの地図(Mapion)はこちらからご覧ください。 教会の北東隅に位置する三層の鐘塔 烏丸通に面した教会の側面を西側歩道から撮るとこんな感じになります。烏丸通に面して、教会名が表示されています。 鐘塔の烏丸通側にこの案内板が建物と調和するレンガ造りの外観パネルに嵌め込まれています。1875(明治8)年にミス・エディが米国聖公会から渡日し、大阪・川口居留地に「エディの学校」を開校したのが始まりのようです。その学校が5年後の1880年に、「照暗女学校」と改称されます。英語名では、St. Agnes school と称されていたそうです。そして1895(明治28)年に京都のこの地に移転し、「平安女学院」と改称されて開校されます。その新校舎が明治館と称されたそうです。(資料2) 菅原院天満宮神社の境内の西端から見えたこの建物が「明治館」と称されているものです。神戸の居留地は有名で知っていましたが、大阪に居留地があったということは知りませんでした。少し調べてみますと、明治元年に大阪が開港されたときに同時にその付近約26,000㎡の区域を外国人居留地が設けられたそうです。現在の大阪市西区川口1丁目にある本田小学校北西角に「川口居留地跡」の石標が立っているそうです。1899(明治32)年の条約改正により居留地が廃止され、川口の港機能の低下により、居留民は神戸へ離れていったといいます。(資料3)川口居留地が廃止される前に、この学校は京都に移転していたことになります。一方、居留地の廃止後、その区域は大阪市に引きつがれます。「あとへはキリスト教関係者が定住、病院・学校(特に女子教育)の経営に力が注がれた。」(資料3)そうですので、この学校の移転は一つの動きだったのでしょうね。ネットで検索すると、川口1丁目には、同じ日本聖公会の教会堂として、川口基督教会が現存し、大阪主教区の主教座聖堂だそうです。西区には日本基督教団(大阪教会、大阪九条教会、浪花教会)や日本キリスト教会(大阪西教会、大阪北教会、西九条ハニル教会)なども存在することがわかります。少し広がり過ぎました。本に戻ります。案内板の説明から、この聖アグネス教会聖堂が平安女学院のチャペルとして、1898(明治31)年に建築されたこと。設計者はアメリカ人J.M.ガーディナーであること。ガーディナー設計の初期の教会堂作品として貴重な建物であることがわかります。説明文に、「三廊式バシリカ平面」という用語が出て来ます。バシリカはローマ時代に作られた長方形の公共建築物のことで、裁判所・商取引所。集会所に用いられたそうです。その長方形の基本構造が初期キリスト教会の聖堂の建築様式に取り入れられたと言います。バシリカ式聖堂の代表例は、ローマにあるサンタ・マリア・マッジョーレ教会堂だとか。(『日本語大辞典』講談社) これはウィキペディアより引用した平面図です。現状は変更が加わっているかも知れませんが。イメージは湧くと思います。 烏丸通の西側歩道で菅原院天満宮神社の方に進み、振り返って撮った景色です。米国聖公会のミス・エディの活動から現在の平安女学院が創立され、その学校のチャペルとしてこの教会堂があり、現在では「日本聖公会」という組織の京都教区の中心ということのようです。共通のキーワードは「聖公会」になります。”「聖公会(せいこうかい)」は、カンタベリー大主教を精神的指導者とするイングランド国教会から生れ、世界165ヵ国以上に広がる40の管区(Province)と6つの特別管区(Extra-Provincial 小規模な自治区)からなるキリスト教会です。信徒は8,5000万人。各管区はいくつかの教区を持って教義を共有していますが、それぞれが自治権を有しています。”(資料5)淵源がイングランド国教会であり、西方キリスト教会の中では、信仰面でローマ・カトリックとプロテスタントの両者の要素を兼ね備えていて、その中間に位置する教派だそうです。 交差点から下立売通に入り、北東隅の鐘塔と入口を眺めた景色 下立売通の北側から南西方向寄りに眺めた景色。右側に建つのが平安女学院の校舎です。 レンガ造の教会の下立売通に面し、西端にある入口。右に「京都教区」の表示が見え、左側に「聖アグネス教会」の銘板が見えます。 外観を眺めていて、最後に気づいたのはこれ!下立売通に面する教会の敷地内で、南側歩道のすぐ傍にこの井戸と石造水槽があったのです。水槽の側面には「活水」と刻されています。教会堂を建築するときに、こんな和風の井戸を作るという発想はないでしょうから、以前にここにあった邸の中に設けられていた井戸がそのまま遺されたのだろうなと推測します。これもまたこの地の歴史を語る遺物かも知れません。最後に、J.M.ガーディナーが設計し日本に遺した作品について、触れておきます。ネット検索から知り得た情報です。実際の建物の写真等は補遺をご覧ください。良いサイト記事をいくつか抽出してみました。(資料6,7) 遺愛学院本館 1908(明治41年)函館市杉並町 重要文化財 遺愛学院旧宣教師館(ホワイトハウス)1909(明治41年)函館市杉並町 重要文化財 日本聖公会弘前昇天教会 弘前市 日本聖公会山形聖ペトロ教会 1910(明治43)山形市木の実町9-22 日本聖公会秋田聖救主教会聖堂 1930(昭和5)年 秋田市保戸町中野6-3 日本聖公会福島聖ステパノ教会 1905(明治38)年 福島市置賜町8-29 日本聖公会日光真光教会 1918(大正7)年 日光市本町1-6 オランダ王国大使館 1927(昭和2)年 東京都港区芝公園3-6-3 外交官の家(旧内田家住宅) 1910(明治43)年 横浜市中区山手町 聖ヨハネ教会堂 愛知県の明治村 重要文化財 元は京都市下京区河原町五条 長楽館(旧村井吉兵衛別邸) 1909(明治42)年 京都市東山区 円山公園傍J.M.ガーディナーは建築設計を行う一方で、現在の立教大学のルーツとなる「立教学校」の第3代校長を務め、「築地居留地に立教大学校(St. Paul's College)を建設し、完成後校長に就任」(資料7)しているそうです。立教大学との関わりが深いアメリカ人だったのですね。この「立教学校」は、1874(明治7)年にアメリカ聖公会の宣教師チャニング・ムーア・ウィリアムズ主教が東京築地の外国人居留地に聖書と英学を教える私塾として開設したそうです。(資料8)一つの教会堂から、京都の平安女学院大学と東京の立教大学が、アメリカ聖公会の日本での活動から生まれて来たという繋がりにまで広がりました。関心を持ってみると、興味深いものです。ご覧いただきありがとうございます。参照資料1) 京都市指定・登録文化財-建造物(上京区) :「京都市情報館」2) 平安女学院のあゆみ :「平安女学院大学」3) 8.川口居留地跡 :「大阪市」4) Basilica di Santa Maria Maggiore Da Wikipedia, l'enciclopedia libera.5) 日本聖公会とは :「日本聖公会管区事務所」6) ジェームズ・マクドナルド・ガーディナー :「近代建築写真館」7)ジェームズ・ガーディナー :ウィキペディア8) 立教大学について :「立教大学」補遺バシリカ :「コトバンク」バシリカ式聖堂の起源はローマ時代のバシリカ :「忘れへんうちに Avant d'oublier」サンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂 :ウィキペディアJ.M.ガーディナーの近代建築 :「造形礼讃」遺愛女子中学校・高等学校宣教師館(函館の建築再見) :「関根要太郎研究室@はこだて」遺愛女子中学校・高等学校本館(函館の建築再見) :「関根要太郎研究室@はこだて」横浜山手・外交官の家 :「近代建築写真室@東京」日本聖公会日光真光教会 :「レトロな建物を訪ねて」長楽館 ホームページ ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.01.06
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桂川に架かる「久我橋」です。「久我」は「こが」と読みます。(2019.4.11撮影)この下流側に「羽束師橋」があり、その少し手前で鴨川と桂川が合流し、羽束師橋下流で桂川となります。京都市伏見区の国道1号線「赤池」の交差点から西に向かう道路は、鴨川に架かる「京川橋」、桂川に架かる「久我橋」を通ります。国道1号線の「赤池」から北に進めばわずかの距離で、西側には「離宮跡公園」、東側には「城南宮」が所在します。鴨川に架かる京川橋の一つ上流側が「小枝橋」です。この辺りはかつての「鳥羽伏見の戦い」の戦跡です。さらに時代を遡れば、「鳥羽離宮」が営まれ、政治・文化の中心地になった時期がある地域でもあり、桂川・鴨川の水運が京の都の繁栄に大きく関わった時代でもあります。今回は、この久我橋西詰の「久我」バス停を集合地とする歴史散策講座に参加した記録の整理を兼ねてのご紹介です。近鉄京都線或いは地下鉄の「竹田」駅で下車し、「竹田駅西口」から市バスで約15分の乗車なのですが、運行バスの本数が少ないので、集合時刻より早い目に現地に行きました。 かなり余裕があったので、桂川とその周辺を個人散策してみました。この久我橋はかなり交通量の多いところです。国道1号線にリンクするからでしょう。桂川の右岸(西)が久我地区でその南側が羽束師地区です。鴨川の左岸(東)は中島地区を東から挟む形で竹田地区があり、その南に下鳥羽地区が広がっていて、少し入り組んでいます。この辺りの地図(Mapion)はこちらをご覧ください。 セイヨウカラシナ (?) 河川敷が広く、雑草類や樹木が繁茂していて、河川敷の一部は菜園に利用されています。 桂川を眺めると、川幅の中間に緩やかな階段状のスロープが設けてあります。桂川を魚が遡行するのを助けるために設けられている工作物の一形態なのでしょう。調べてみると「魚道(ぎょどう)」と称するそうです。(資料1)橋から上流側に、河川敷にできている小径を辿ります。 川の水面上空を鳥の群れが飛び交っていました。 鳥の種類は知識が無くてわかりません。 北方向の堤防沿いを河川敷から眺めた景色 堤防上に戻って眺めると、こんな景色になります。 正午過ぎのひととき、静かでのどかな桂川の風景でした。さて、今回の探訪地域の名称について、触れておきます。まず「久我(こが)」です。久我は古代豪族の久我直(あたい)一族の居住地だったことによるとみられています。また、陸(くが)・空閑(くが)が転訛したとも考えられていて、もとは乙訓郡に属し、久我村と称した古代村落の一つだそうです。(資料2)『山城國風土記』可茂社の説明に、賀茂建角身命が「久我國之北山基」に坐したという記述があり、久我国という名称が出てくるようです。北山基というのが、今の上賀茂神社あたりを示しているとか。この地は、平安末12世紀に村上天皇の後裔である村上源氏の嫡流・源師房の所領地となり、久我氏と名乗ったと言います。久我氏の別邸「久我殿」「久我水閣が造られるとともに、久我荘が展開された地域だそうです。(資料2,3)「羽束師(はづかし)」は、『正倉院文書』「奴婢帳」(749年)に「山背国羽束里」と記されているそうです(資料3)。もとは乙訓郡に属し、羽束(はづかし)郷と称し、土器の生産を業とする羽束氏一族の居住地だったと言います。(資料2)12世紀には西大寺領荘園が展開し、15世紀には志水惣村の存在が確認されている地域です。(資料3)久我については、久我通親が次の歌を詠んでいます。詞書に地名が見えます。(資料2,4) 春ころ、久我にまかりけるついでに、父のおとどの墓所のあたりの花の散り けるを見て、むかし花を惜しみ侍りける心ざしなど思ひいでてよみ侍りける ちりつもる苔の下にも桜花をしむ心やなほのこるらん 権中納言道親 千載集 1155「父のおとど(=大臣)」とは、久我雅通のことです。久我家3代で、正二位・内大臣となった人。今回の探訪地の対象に入っていませんが、後で調べてみると、その墓所は久我本町の久我家墓所御墓山だと言います。また、この墓所となっていた場所には、現在「久我大臣之墓」(伝久我通親)と刻した石標が立っているそうです。講座参加前の探訪をつづけます。つづく参照資料1) 魚道 :ウィキペディア2) 『昭和京都名所圖會 洛南』 竹村俊則著 駸々堂 p170,p1723) 龍谷大学REC「京都の歴史散策37 ~久我・羽束師を歩く~」 (龍谷大学非常勤講師 松波宏隆氏作成レジュメ 2019.4.11)4) 源通親 :「千人万首」(やまとうた)5) 源雅通 :ウィキペディア補遺第12回懇談会 (発表-1)川魚の性質について :「姫路河川国道事務所」久我家墓所「御墓山」 :「陵墓 陵印 掲示板」久我大臣之墓(久我家墓所御墓山)(京都市伏見区) :「京都風光」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く -2 誕生寺 へ探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く -3 菱妻神社・妙昌寺と上久我城跡 へ探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く -4 本清寺(水上薬師)・久我神社 へ探訪 京都・洛南 久我・羽束師を歩く -5 久我東町遺跡・菱川城跡・観音寺・久我畷・羽束師神社 へ
2019.04.20
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先日、京都国立博物館に出かけてきました。特別展「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」を見るためです。今回の特別展は「時宗二祖上人七百年御遠忌記念」として企画展示されたのです。二祖上人とは真教(1237~4319)のことで、時宗という教団を整備し発展させた人です。一遍上人の生地は現在の松山市道後です。幼名は松寿丸と言い、10歳の時に父道宏(如仏)から出家させられたと言います。地元伊予にある天台系の継教寺で頭を剃り、縁教律師から「随縁」という法名を授けられたそうです。そして、13歳の春に筑紫国太宰府に住む聖達のもとに送られます。聖達は浄土宗西山派の祖澄空の弟子。これも父の考えによるものだったとか。聖達は朋友である華台のもとに行き先ず学ぶようにすすめたのです。華台は京都にて浄土宗西山派の証空の弟子となった人。華台のもとに入門し、ここで智真と改名します。華台から浄土教の講義を受け、経典を学ぶのですが、修行の中心は頭陀行、つまり師華台に従い托鉢行脚をするという日常です。これが後の一遍上人誕生の素地となったようです。16歳の春に聖達の元に戻り修行しますが、25歳の時父の死により郷里に戻ります。その後、智真は妻帯し半僧半俗の生活を送ります。だが、30歳を過ぎてから文永8年(1271)に一念発起し、再び出家する決意をしたのです。信州・善光寺参籠~伊予・窪寺にて念仏三昧の修行~菅生の岩屋に参籠~文永11年(1274)遊行の旅に出る~大坂・四天王寺にて自誓受戒という経緯をたどります。四天王寺で自誓受戒をした後、賦算を始めたと言います。伝承によればこの賦算フダ配りの初体験をしたときから、「一遍」を名告ったとされているそうです。1274年の夏、智真は高野山を経て熊野にこもったときに、熊野権現より念仏賦算の神託を受けるという体験をしたそうです。新宮から以降、一遍がくばって歩いた賦算フダには「南無阿弥陀仏 決定往生 六十万人」と書かれていたと言います。建治2年(1276)、一遍は伊予を通り九州に遊行します。豊後大友頼泰邸にて、真教が一遍に入門したと言います。尚、縁起絵では建治3年となっているようです。一遍は弟子にした真教に他阿弥陀仏という名を授けたそうです。それ以降、一遍のもとに入門してきた人々に、男には○阿弥陀仏、女には○○房と法号を付けています。一遍は入門してきた人々と一緒に賦算をしながら遊行(行脚)の生活に終始します。 特別展に行く前に、長年書棚に眠っていたこの伝記風小説をこの機会にと、遂に読みました。お陰で宗祖一遍と弟子となった真教の関係もイメージしやすく、聖絵を拝見していくときにその流れが分かりやすくて役立ちました。この小説は東洋経済新報社から1997年5月に出版されています。一遍聖絵は一度拝見したいと思っていた絵巻です。なぜか。それは、『一遍上人 -旅の思索者』(粟田 勇著、新潮社、昭和52年/1977年12月・5刷)を読んでいたからです。この書には、『一遍上人聖絵』の3つの場面がカラーで折り込みとなり、ページの各所に小さなモノクロ図像で聖絵の場面が載せてあるのです。(こちらを読んでいたので、その後に上掲の小説を購入していたのですが、長らく書棚に眠らせていた次第です。)『一遍聖絵』の実物を拝見してみたい・・・・。『一遍聖絵』12巻全巻が公開される機会などこのあと当分はないでしょう。平日に出かけましたので比較的ゆったりとした雰囲気の中で鑑賞することができました。 一遍と言えば、踊り念仏が有名です。しかし、この踊り念仏がはじめて遊行の中に取り入れられたのは、弘安2年(1279)信濃国(長野県)佐久郡小田切りの里だと言います。 こちらは当日購入した図録です。表紙には踊り念仏の姿が聖絵から抽出されています。これは小田切りの里の武士の邸の庭での初めての踊り念仏の場面です。第4巻に描かれています。 一方、裏表紙は、巻1に出てくる場面です。父の死により伊予に戻り、還俗し半僧半俗の生活をしていた智真が、聖達に会うために太宰府に出立するという場面から抜き出された人物群です。智真が再出家を考え始めた時期にあたるようです。この後、上記の善光寺参籠に進展していきます。 平成知新館に向かう手前に恒例の大パネルが設置されています。展覧会案内兼記念撮影スポットになっています。この大パネルに使われた場面は、 平成知新館内1階正面の記念撮影スポット、並びに 上掲の京博入口傍の壁面の展覧会PRパネルに、 さらにはこのチケットの半券にも使われています。これは聖絵第7巻に出てくる場面です。空也上人遺跡の市屋という場所に一遍が道場を建立し、踊り念仏をしているという場面です。この特別展覧会には、清常光寺(遊行寺)藏の「空也上人立像」が展示されています。京都の六波羅蜜寺藏の空也上人像と同類形で像高48.6cmの木造彩色像です。図録によれば近年の修理により元の姿を取り戻したとか。私にはこれが3躰目の空也上人立像との出会いになりました。 こちらは館内の大パネルから切り出した「真教上人坐像」(重文、蓮台寺蔵)です。生涯遊行し旅先で過ごした一遍上人は、正応2年(1289)8月23日、兵庫観音堂(現在の時宗真光寺)にて没します。一遍上人に付き従い遊行した僧・尼僧たちを一遍は「時衆」と総称しています。師である一遍の死に直面した他阿真教は、しばらく念仏を唱えながら山中を彷徨するという行動を取り野宿を重ね、果ては餓死するつもりだったといいます。だが真教は気をとりなおし、他の時衆とともに以降16年間に及ぶ遊行の旅を過ごしたそうです。真教が二世を継承し、時衆の先頭に立ったのです。そして、嘉元2年(1304)に遊行をやめ相模国当麻道場無量光寺(相模原市当麻)に独住するに至ります。図録によりますと、その前年の嘉元元年に鎌倉幕府は専修念仏を停止する挙に出ているのです。真教は文保2年(1318)上掲の寿像を造らせて、その翌年文保3年1月27日に当麻道場で没したそうです。享年83歳。一遍よりも30年長生きして、後に時宗と称される教団を統制しその組織を大成するに至ったのです。 平成知新館内で入手した「京都国立博物館だより」の表紙です。聖絵巻2に描かれた場面が使われています。これは「菅生の岩屋に参籠」と上記している場面です。智真(一遍)は、伊予国の岩屋寺にて参籠します。岩屋寺は空海が20歳のとき籠もったところです。智真は35歳で山の岩壁によじ登り、昔の先人が掘った洞窟の一つにしのび込んでそこで参籠したと言います。洞窟と地上をつなぐ連絡路は藤の蔓で編んだそまつな一本のナワ梯子だけ。智真が参籠したとき、このナワ梯子を使い洞窟に居る智真にめしの運搬をしたのは、智真の弟(義母が産んだ子)通定だったとし、智真のこの参籠の時に、通定は聖戒という法号を智真から与えられたと上掲小説では描写しています。図録では聖戒(1261~1323)を一遍の血縁者で弟子と説明するだけです。一方、一遍聖絵には、上で触れた父の死後再出家の気持ちもあり、智真が太宰府に聖達を訪ねる旅に出る場面に聖戒が同行したと記されているそうです。これは智真が善光寺に旅する前ですので、聖戒が出家した時期がかなり早まることになります。一遍上人没後10回忌を期し、聖戒が絵師の法眼円伊に依頼して「一遍聖絵」を製作したのです。智真(一遍)はこの岩屋参籠において、遁世の決意をするに至ります。己の生き様の方向を決断したのです。 これは特別展のPRチラシです。 チラシからの切り出してみました。巻11に描かれた場面です。淡路国の福良の泊を経て二の宮参詣を行う途中で踊り念仏を行っている様子だそうです。 京博の入口傍の特別展案内パネルの他に、もう一つの大きな案内パネルが東側に掲示されています。 そこに使われているのは「一遍聖絵」巻12に描かれた「播磨国観音堂での一遍臨終近づく」という場面です。「一遍聖絵」絵巻(12巻)の重要な場面はかなり開示されています。今回の全巻展示で興味深かったことがあります。それは、第7巻を除く11巻について竹内雅隆筆「一遍聖絵(模本)」が併用展示されていることです。各絵巻の展示場面は前期・後期で入れ替えられます。その入れ替えに合わせて、国宝の絵巻では見られない場面(段)を模本絵巻で展示するという形の工夫がなされています。実物と模本を合わせて全場面(全段)を鑑賞し、理解できることになります。図録によれば、竹内雅隆は京都帝室博物館時代の当館写図生だった人で、明治43年~大正6年の8年間に模写しことが箱蓋裏に記されているそうです。一方、二祖上人真教は、徳治元年、『一遍上人縁起絵』を製作し、一遍が神託を得たとされる熊野本宮証誠殿に寄進したという記録があるものの、現物は今日伝わっていないそうです。しかし、その写本が現存し、この特別展においては、前期に真光寺本、金光寺本が後期には清浄光寺本、金蓮寺本がそれぞれ一部展示されています。今回、真教上人像が3点通期で出展されています。上掲の部分拡大図はその一つです。また遊行6代一鎮上人も3点通期出展されています。製作時期・作者の違いからでしょうか、それぞれの相貌が結構違うところが興味深いところです。 PRチラシからの引用ですが、阿弥衣(兵庫・興長寺蔵)と蓮華形下駄です。さらに聖絵にも描かれている「十二光筥」(愛知・称名寺蔵)の現物を併せて見ることで当時の遊行僧の姿ががイメージしやすくなります。四季の変化を考えると行脚旅の過酷さが身近に想像しやすくなります。 「二河白道図」(重文、島根・萬福寺蔵) 上掲の京博だよりからの引用ですが、PRチラシでも紹介されています。過去にも二河白道図を幾つか鑑賞しています。しかしこういう構図のものを私は今回初めて拝見しました。印象的深いものの一つです。一般的なのは、水と火の二河を隔てその間に一筋の島道があり、此岸側に釈迦が居てその傍に人の姿が描かれています。一方彼岸側に阿弥陀仏が描かれていて、白道を歩んでくるように迎えているという構図です。前期に出典の光明寺蔵「二河白道図」の方が私には相対的に馴染みを感じる構図です。展示されている仏像の中では、「阿弥陀三尊像(善光寺式)」(滋賀県・浄信寺蔵)が印象的です。善光寺式というのを見ることが少なかったので一層関心を惹かれました。 上掲京博だよりに掲載の「阿弥陀如来立像」の引用です。左は行快作で京都・聞名寺蔵、右は京都・知恩院蔵、重文です。行快作の阿弥陀如来立像(滋賀・阿弥陀寺蔵、重文)がもう1躰展示されています。ほぼ同じ形式で、快慶の「安阿弥様」と称されるスタイルを継承しているそうです。立像としてはこれら三躰の印相は同じです。行快作二躰と知恩院蔵とは衲衣の付け方が異なります。行快作の通肩スタイルと知恩院蔵の偏袒右肩(へんたんうけん)スタイルとの違いにより、衣の襞の表現を対比的に眺めることができておもしろい。蓮華座の意匠も異なっていて、対比的に鑑賞する楽しみがあります。京都・極楽寺蔵の「毘沙門天立像」も凛々しい相貌で見応えのある像です。普段は秘仏として扱われているそうです。なかなか得がたい企画展だと思います。最後に2点ふれておきます。ひとつは、賦算フダに記された語句「六十万人」の由来です。一遍が熊野本宮で熊野権現から神託を得たということですが、新宮滞在中に七言四句の頌(偈)にまとめたと言います。 六字の名号は一遍法 十界の依正は一遍の体 万行念を離るるは一遍証 人中上々の妙好華この四句の各頭文字をとると、「六十万人」になります。そして、決定往生六十万人という語句のエッセンスは、往生するには一遍(一回)の念仏ですべて事足りるという究極の有り様を意味するようです。もう一つは、一遍が詠んだという歌のご紹介です。 世の中をすつるわが身もゆめなれば たれをかすてぬ人とみるべき 身をすつるすつる心をすてつれば おもひなき世にすみぞめの袖 さけばさきちればをのれをちるはなの ことはりにこそなりにけれ はながいろ月がひかりとながむれば こころはものをおもはざりけり をのづからあひあふときもわかれても ひとりはをなじひとりなりけり かくしつつのはらのくさの風のまに いくたびつゆをむすびぬならん おもひとけばすぎにしかたもゆくすゑも ひとむすびなる夢のよの中 阿弥陀とはまよひさとりのみちたへて ただ名にかよふいき仏なり平成知新館を出ると、 大パネルの裏面が見えます。秋開催の特別展案内です。「流転100年」という冒頭のフレーズが興味をそそります。「佐竹本三十六歌仙絵」は100年前に分割売却され、各所・各コレクターに分散所蔵されるようになったそうです。それがこの秋最大規模で集結するとか・・・・・。この機会もまた見逃せませんね。PRチラシを入手しました。 ご覧いただきありがとうございます。参照資料当特別展PRチラシと「京都国立博物館だより 2019年4・5・6月」図録『当別展 時宗二祖上人七百年御遠忌記念 国宝一遍聖絵と時宗の名宝』 京都国立博物館 2019『踊る一遍上人』 亀井 宏著 東洋経済新報社『一遍上人 -旅の思索者』 粟田 勇著 新潮社 補遺一遍上人のご生涯 :「時宗」一遍 :ウィキペディア真教上人のご生涯 :「時宗総本山 遊行寺」他阿 :ウィキペディア二河白道図 :「コトバンク」二河白道図 :「文化遺産オンライン」 絹本著色二河白道図 重文、光明寺蔵 :「長岡市」二河白道図 :「香雪美術館」二河白道の譬え :「九条山淨教寺」時宗総本山 遊行寺 ホームページ踊り念仏。遊行寺にて。藤沢市踊り念仏保存会。 :YouTube踊り念仏 佐久市跡部 西方寺 1 :YouTube無量光寺の踊り念仏 :「時宗当麻山無量光寺」100年ぶりの再会。分割された《佐竹本三十六歌仙絵》が過去最大規模で集結 :「美術手帖」佐竹本三十六歌仙絵巻 :ウィキペディア ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)
2019.05.24
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博物館フロアーの北東隅に設けられている「竹取物語」具現化展示のご紹介から始めます。北東方向に向かって全景を撮るとこんな感じです。手前が竹取翁の屋敷です。 天空から八月十五夜、百人あまりの天人を従えて、月の王がかぐや姫を迎えにきた場面です。この月の王が着用しているのは、「袞冕十二章(こんべんじゅうにしょう)」で大陸から輸入された服制だと言います。その名の由来は、「袞衣」・「冕冠」の組み合わせで、袞衣には12種類のシンボルが刺繍されていることから十二章と総称するのだとか。「十二章」は『唐書』に聖王の象徴だと書かれているそうです。左の袖には三爪の龍が大きく刺繍されています。「袞」とは首を曲げた龍のこと。「肩には日月、背中には北斗七星が刺繍されている」(資料1)とか。つまり唐風です。この袞冕十二章は「平安時代から江戸時代まで用いられた天皇の礼服(らいふく)」(資料1)で、江戸時代最後の天皇である孝明天皇の袞衣が現存していると言います。(資料1) 冠は「冕冠(べんかん)」と称されるもの。中国に由来し、中国では皇帝から卿大夫以上が着用していたと言います。調べてみますと、これは孝明天皇の即位まで使用されてきたという冕冠です。(資料2) よく見ると、額に菱形に4つの点が描かれ、口許の両側にも点が見えます。天人のシンボル? 嘆き悲しむ竹取翁と媼 かぐや姫の間近に二人の天人が近づきます。かぐや姫が羽衣を着せかけられると、その瞬間地上界で育んだ情愛はすべて消し去られ、月の都に昇天してしまうのです。この状景は羽衣を半ば着せられたという時点の具現化でしょうか。昇天する一歩手前というところ・・・・・・・。かぐや姫は天人とは異なり、顔の同じ位置に紅の点が描かれています。この物語の作者は、月の世界の天人には「心」(情愛)がなく、地上の人々には「心」があるとし、「心」のあることが人間らしさの特徴と考えていたのでしょう。作者は不詳ですが、学識豊かで和歌にも長けた男性の手によるものと考えられているようです。(資料3)桓武天皇による平安京遷都は794年(延暦13)です。晴れの場では『竹取の翁の物語』と呼ばれ、通称『竹取物語』、時に『かぐや姫の物語』とも呼ばれます。この物語は890年代後半に成立したというのが通説だとか。(資料4)『源氏物語』「絵合」の巻には、藤壺の御前で物語絵の優劣を争うという場面があります。ここに、「まづ、物語の出で来はじめの親なる竹取の翁に宇都保の俊蔭を合わせて争う」ことになります。紫式部の時代には『竹取物語』が現存する最古の作り物語としてはっきりと認識されていたことがわかります。続きに、左方(斎宮の女御方)がこの物語を提示して、所見を述べます。「なよ竹の世々に古りけること、をかしきふしもなけれど、かぐや姫のこの世の濁りにも穢れず、はるかに思ひのぼれる契りたかく、神世のことなめれば、あさはかなる女、目及ばぬならむかし」(資料5)(なよ竹の節々(よよ)を重ねて古くから伝わる話であり、おもしろい節はないけれども、かぐや姫がこの世の濁りにもけがれず、はるかに気位を高くもって天に昇った宿縁は気高く、神代のことのようですから、思慮の浅い女には想像もつかぬことでしょう)すると、右方(弘徽殿方)が、この物語の具体的な内容について語り、この作り物語にケチをつける考えを述べています。何を述べたかは長くなるので省略します。『源氏物語』を開いてみてください。さて、この絵合わせの場面ですが、『源氏物語』以前に絵合わせが行われた史実はないそうです。手許の本の頭注によりますと、紫式部は歌合わせの模範とされる「天徳内裏歌合」に準拠してこの場面を描いているといいます。(資料5)それでは、東の対(対の屋)の南面に巡って行きましょう。ここに展示されているのが、「天徳内裏歌合~天徳内裏歌合が準拠となった『源氏物語』の女楽・宮廷文化の雅の規範~」です。(資料6)天徳3年(959)に村上天皇は公家たちの詩合(しあわせ)を催しました。これに刺激された女房たちが天皇に願い出て歌合(うたあわせ)が催されることに。それが天徳4年(960)3月30日(旧暦)、内裏の清涼殿西廂で行われた歌合、つまり天徳内裏歌合です。 東の対を南面に回り込む時に、最初に見えるのがこの左方の端に座る後宮の女性たちです。 藤内侍(とうのないし)(左方 さかた )と中将更衣(左方)左方は赤系、右方(うかた)は青系の対称美に調えられたそうです。 講師(左方)の源延光。歌を詠み上げるのが講師の役割です。 源延光は左方に属した歌人の歌を朗々と詠じたことでしょう。この歌合には当代の一流歌人12名が参加し、左右に分かれて20番勝負を行いました。 簀子には歌の作者の一人、壬生忠見が控えています。この時、忠見が詠んだ歌は、 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか (恋をしているという私の噂が早くも立ってしまった。 誰にも知られないように、心の内だけで思い始めたばかりなのに)歌人には約1ヶ月前の2月29日に歌づくりを依頼されていて歌の準備が行われていました。 南面の庭には左方の小舎人(ことねり)と女童が目にとまります。その前に、左方の「員指(かずさし)の州浜」が置かれています。これは歌合での勝ち点をはかるためにつかわれる道具です。英語での説明文がわかりやすいです。Score table と訳されています。 階近くまで回り込むと、左方全体が一望できます。他もそうですが、丁寧な説明パネルが併せて設置されていますので、学びながらそれぞれの具現化展示の場面を楽しむことができます。勿論、このまとめのご紹介にも大いに参照させていただいています。 御簾を少し巻き上げた内側には、村上天皇がいらっしゃいます。 御簾の手前に置かれているのは、右方と左方の「文台の州浜」です。 左方には、判者の左大臣藤原実頼(さねより)が座っています。判者は歌合の1番ごとに歌の優劣を決め、その理由である判詞(はんし)を述べていきます。このとき敗者側の講師は罰として酒を飲まされたそうです。 右大将(三位)藤原師尹(もろただ) 参議(四位)藤原朝成(あさひら) 右方には、参議(四位)源政信が座っています。 大納言(三位)源高明(たかあきら) この人は? 不詳 橘宰相(右方) 辨更衣(右方) 辨更衣の左前に座すのは講師(右方)の源博雅(ひろまさ)です。 応援の方人(かたうど)には後宮女性が配されています。左右合わせて28名だったと言います。 負けた方の講師に酒を注ぐ役割の陪膳(ばいぜん)。酒の瓶を捧げ持っています。 小舎人(右方)と女童。員指の州浜(右方)が置かれています。 斜めから垣間見える村上天皇と講師・源博雅の後姿 半臂(はんぴ)の下に着る下襲(したかさね)の胴から続いた長い裾(きょ)が折り畳まれずにそのまま伸びています。 南西隅の簀子に座しているのは歌人の平兼盛です。兼盛の詠んだ歌が、 忍ぶれど 色にいでけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで (誰にも知られないように隠してきたけれど、 顔に出てしまったようだ、私の恋心は。 もの思いをしているのか、と人が尋ねるほどまでに)上掲の壬生忠見の歌とこの平兼盛の歌は共に恋を詠んだ歌です。どこかできっと見聞されているはずです。そう、ともに『百人一首』の中に撰ばれている歌です。兼盛の歌が第40首、忠見の歌が第41首です。これが、20番勝負の最後の番いの歌として競われたのです。判者は両者の歌の優劣をつけることができずに困り、村上天皇の様子を窺うと、兼盛の歌を小さく口ずさまれたと言います。実頼はこれを天皇の意向と受けとめ、兼盛の勝ちとしたとか。「じつはこの勝負は帝がはっきりと勝者を口にしなかったために、一抹の疑問が残っている。そのために、百人一首では第40首と第41首の歌のどちらが優れているかが、いまだに議論の的になっている」(資料7)そうです。壬生忠見と平兼盛はともに三十六歌仙の一人です。壬生忠見は壬生忠岑の息子です。父の忠岑も三十六歌仙の一人であり、『百人一首』には第30首として撰ばれています。(資料7)全くの作り話なのですが、興味深い逸話として残っている話があります。「鎌倉時代に書かれた説話集『沙石集』には、この勝負に負けた忠見が落胆のあまり食欲もなくなり、病になりついになくなってしまったという話」(資料6)として記録されていると言います。 右方の方の簀子に置かれた品々は、たぶんこの歌合の禄として村上天皇が大臣以下に下賜されるものでしょうね。 南西側から眺めた全景です。これで「天徳内裏歌合」を通覧しました。 東の対(対の屋)の簀子。春の御殿とは渡殿で繋がっています。手前に「透渡殿」があり、坪庭を挟んで北側に「渡殿」がもう一つあります。突き当たりの白壁の向こう(北側)が局(つぼね)です。 菓子盆を捧げて渡殿を進んで行く女房たちの姿をちょっと遠くに見ながら、今回のご紹介を終わります。ご覧いただきありがとうございます。これをきっかけに、六條院(風俗博物館)に出かけてみてください。源氏物語の世界にタイムスリップしてみてください。参照資料1) 風俗博物館で入手した資料(冊子・平成31年2月~展示)2) 冕冠 :ウィキペディア3) 『クリアカラー 国語便覧』 監修 青木・武久・坪内・浜本 数研出版 p100-1014) 風俗博物館で入手した資料(冊子・平成28年2月~展示)5) 『源氏物語 2』 新編日本古典文学全集 小学館 p3806) 風俗博物館で入手した資料(冊子・令和2年2月~展示)7) 『こんなに面白かった「百人一首」』 吉海海人著 PHP文庫 p124-128補遺源氏物語の世界 再編集版 ホームページ 「第十七帖 絵合 第二章 後宮の物語 中宮の御前の物語絵合せ」をご覧ください。 天徳内裏歌合 :ウィキペディア村上天皇 :ウィキペディア藤原実頼 :ウィキペディア沙石集「歌ゆえに命を失う事」原文と現代語訳・解説・問題|鎌倉の仏教説話集 :「四季の美」三十六歌仙 :ウィキペディア寝殿造 :ウィキペディア日本史 [寝殿造] :「Interior Zukan」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -1 女楽~『源氏物語』「若菜下」より~ へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -2 小袖の展示、草木染め、十二単 へ観照 京都・下京 風俗博物館 2020年の展示 -3 歳暮の衣配り・平安王朝の美意識ほか へこちらもご覧いただけるとうれしいです。観照 京都・下京 風俗博物館 2019年2月からの展示 -1 猫と蹴鞠(1) 6回のシリーズでご紹介しています。観照 風俗博物館 2018年前期展示 -1 『年中行事絵巻』「祇園御霊会」 4回のシリーズでご照会しています。探訪&観照 風俗博物館(京都) -1 移転先探訪・紫の上による法華経千部供養 4回のシリーズでご照会しています。(2016年)観照 [再録] 京都・下京 風俗博物館にて 源氏物語 六條院の生活 -1 3回のシリーズでご照会しています。(2018年1月に2014年10月の記事を再録)
2020.07.03
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東の庭への石段の景色から始めます。この石段を上ると、 石段上の正面に、この大きな彫刻像が立っています。東の庭への階段に近い南西側から撮った景色です。 石段道を上りきり東の庭に入る両側にこの二躯の彫刻像が向かい合う形で立っています。この東の庭を初めて訪れたとき、これらの像に出会い、異質な次元に足を踏み入れる感じがしました。これらの彫刻像は何だろう・・・・と。庭の一隅に「李朝墳墓表飾石造遺物」という標題で案内板が設置されています。これらは墳墓を飾る石造物(石彫品)の一部だったのです。案内板に該当用語がありました。「石人」と称されるそうです。その石人に文官と武官の像があるということも。後で情報を調べていてこの用語が使われている記事をみつけました。(資料1,2)尚、奈良の飛鳥村で見つかった石造物で「石人像」と称される別のものもあります。重要文化財ですので、この用語からこちらを連想される場合があるかもしれません。(資料3)また、ソウル歴史博物館のホームページでは、野外展示場の展示品の一例に文官像が載っていて、「文人石」と名称がついています。(資料4)以前にこの東の庭をご紹介しています。今回はここに保存されている石造遺物に絞り込み、その細見という形でご紹介したいと思います。墳墓の周辺を石彫品で飾ることは、中国唐時代の墓制にならい、新羅の時代に確立して約100年近く行われたそうです。その風習が一旦おとろえ、高麗時代に復活し李朝時代に続いたそうです。ここにご紹介するのは、李朝時代の石彫品の一部。石人像には文官と武官があります。(案内板より)これら石人像は、朝鮮の墳墓におかれる守り神で、墳墓に眠る死者を見守る役目をはたしていたと言います。(資料5) 正面の石人像は、胸の前に両手で笏(しゃく)を捧げています。文官像でしょう。いわゆる衣冠束帯と称する姿です。一方、上掲の道の両側に立つ石人像は笏を持たず、左(北)側の石人像は衣の袖の内側で手を組んで、布のようなものを掛けているようです。こちらも冠を被っているのは同じです。 右側の石人像(文官像)両手で胸の前で何かを捧げているようです。宝珠のように見えますが不詳です。三者を対比的にみると、冠の形や文様が異なります。中国に学んで仕組みを調えた日本の古代のことを連想すると、宮廷における位階により区別が為されていたのでしょう。 右(南)側の石人像を側面・背後から眺めた姿。石人の背面は冠と官服の文様がくっきりと見えます。ここの二人もたぶん文官像でしょう。「石人には文官と武官があって、参道の左右に向かいあって立てられ」(案内板より)ていたと言います。 東の庭にある茶室堪庵の建仁寺垣に近い所に立つ文官像 この像は官服の背面の文様の彫りが明瞭です。 この文官像は両手を胸の前で合わせる形をとっているように見えます。中国の古代西周の時代以来、「作揖」という挨拶の仕方があるそうです。その形に似ていると思います。(資料6) 腕の角度と両手の合わせ方から見ると、「拱手」という形とは少し違うように思います。(資料7)この文官像は摩滅が進んでいるせいか、冠に文様の彫りが見えません。官服の背面の文様もわかりづらいですが、ごくシンプルな感じです。高位の文官ではなさそうな感じ・・・・。 笏を捧げた文官像 官服の前面下部に大きな文様が彫られています。 冠には大きな装飾文様があり、官服の背面にも豪華そうな装飾文様が見えます、高位の文官の一人なのでしょうね。 この文官像の冠も装飾文様はなさそうです。 官服の前面下部の装飾文様は、石段の正面に見えた文官像の官服前面の文様に近い感じです。3つの渦巻き形文様というコンセプトが似ています。背面の装飾文様は部分的にしか撮れませんでした。しかし、腰帯と左右に垂れる細帯状のものの形式は建仁寺垣に近い場所の文官像に近似しています。 上掲の文官像と背中合わせのような形でこの文官像が立っています。今までの文官たちとは、冠の形そのものが異なります。 官服の背面と腰帯の部分に装飾文様がありません。ここから推測すれば、この文官像も位階の低い方なのかもしれません。 同じ冠の形の文官像がもう一躯あります。 しかし、こちらの文官像の官服には前面下部に装飾文様が彫り込まれています。ここでも、それがさらに位階の違いに繋がっているのかもしれません。 右側の散策路は下りの坂道になっています。 ここにも、文官像が立っています。 こちらの文官像は両手が少し上側に向いているように見えます。拱手の姿を示しているように思います。この像もかなり摩滅しているように感じます。こちらの文官像の冠は、石段上左右の文官像の冠に近いものと思われます。ほぼ同等の位階の文官なのかもしません。これらは寄贈により京博に収蔵されたそうです。李朝時代(1392-1910)の貴人たちの墳墓を飾っていた石人像ですが、どこか特定の墳墓のものというわけではなく、各地から集められたものと言います。(案内板より)こうしてまとめていて、改めて武官像は見なかったことに気づきました。次回は墳墓の周辺を飾るその他の表飾石造遺物を眺めてみたいと思います。つづく参照資料1) 11月14日は、いい石の日!? :「早稲田文化」2)『むくげ通信』総目次 :「むくげの会」3) 石人像 :「e國寶」4) 野外展示場 :「ソウル歴史博物館」5) 不思議な石像の話 :「U-PARL](東京大学)6) 接触しないであいさつする6つの方法 :「神韻芸術団」7) 拱手 :ウィキペディア 補遺李氏朝鮮 :ウィキペディア国立民俗博物館 :「韓国ing」 文官の石像 石製のチャンスン徹底解説!李氏朝鮮王朝①「用語集、官職・階位制度」:「たいしょー(太聖)の部屋」高麗美術館の石人 :「THE GREAT HISTORY OF TANBA」(丹波の国)<韓国文化>「石人」70点、韓国に里帰り 2001/06/08 :「東洋経済日報」コンス(拱手)という韓国式のお辞儀が「日本に浸透しつつある」というウワサ! その真偽は? :「ヌルボ・イルボ 韓国文化の海へ」 ネットに情報を掲載された皆様に感謝!(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれませんその節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。その点、ご寛恕ください。)観照 諸物細見 -22 京都国立博物館 東の庭 李朝朝鮮時代の石造物 -2 様々な石造物 へこちらもご覧いただけるとうれしいです。探訪 京都国立博物館 建物と庭 -3 東の庭(李朝墳墓表飾石造遺物を中心に)探訪 京都国立博物館 建物と庭 -4 東の庭(茶室「堪庵」)
2021.04.26
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