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2017.03.16
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カテゴリ: 探訪

先月(2017.2)中旬 に、京都の東山を少し散策してみました。まず訪れたのは (いまひえ) 神宮」 です。
 冒頭の写真は 東山七条の交差点の北東側、妙法院の築地塀の角近くに立つ巨大な石標 です。この「豊国廟参道」の緩やかな坂道を上っていくと、石造鳥居が見えます。「新日吉神宮」の境内はその傍、南東側です。この石造鳥居あるいは北側の道路を更に進めば、豊国廟に至ります。
参道の途中、北側には京都女子学園のキャンパスが広がっています。小学校から大学までの学舎が並んでいる一画です。そこで、 この参道は通称「女坂」と呼ばれているようです。
そして、東の端、「太閤担 (だいら) 」に至り、そこから阿弥陀ヶ峰への石段を登り詰めれば、 山頂に豊臣秀吉を祀る巨大な五輪塔 が鎮座しています。この豊国廟は幾度か訪れたことがあるのですが、新日吉神宮を訪れたことがなかったのです。



この石鳥居の右側の石畳を上っていくと、現在の新日吉神宮の楼門前に至ります。

この神宮はかなりの変遷を経て現在に至ります。

永暦元年(1160)に後白河上皇が、既にご紹介している法住寺殿を造営する際に、近江国坂本の日吉神を勧請して、法住寺殿の東、今熊野瓦坂に新日吉神社を建立したと伝えられています。現在の地名で今熊野日吉町あたりだとか。
後白河上皇の崇敬が極めて篤く、それ以降後伏見上皇(1313-1318)までに108度の臨幸があったと言います。妙法院は新日吉神社の別当に補せられていたそうです。そして、応仁の乱後に衰微します。 (資料1、境内の説明板)

豊臣秀吉は、阿弥陀ヶ峰山頂を己の埋葬地と定めます。その遺言により埋葬されると、山麓には翌慶長4年3月、山麓(太閤坦)に壮麗な社殿僧坊が造営されるのです。
元和元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡すると、徳川家康は豊国廟を破毀して、それまでの豊国廟への参道の中央、旧廟前に、新日吉神宮として神社を移転させるのです。豊国廟への墓参の妨げとする意図もあったのでしょう。
そして、寛永年間(1624-1644)に妙法院堯然法親王が新日吉神宮の社殿を再興されたとか。ところが、明治維新で徳川幕府が滅び、明治13年(1880)に方広寺の地に、豊国神社が再興され、さらに明治31年(1898)に豊国廟の修築と参道の改修が行われるという事になり、新日吉神宮は豊国廟参道の南側に移転したのです。その結果が現在の新日吉神宮の境内域となります。  (資料1)
江戸時代と比べると、境内地が縮小することになったと思われます。


大きな石鳥居の石段を上ると、鳥居の手前には鳥居に見合う大きな石灯籠が一対立っています。

鳥居をくぐった先はこんな景色です。右側に石垣が積まれ、一段高くなった所から 南側が新日吉神宮の境内 です。




石鳥居の右側の石畳を進むと、まず左側に、一対の狐像と朱塗り鳥居が見えます。
「山口稲荷神社」 の額が掛けられています。

唐破風の向拝に近づき見上げると、大瓶束の両側にダイナミックな波形文の装飾が施されています。

「御神燈」と刻された台座のようなもの が一対目にとまりました。他では見かけた記憶がありません。燈火を置くための台座でしょうか?
右手の鳥居を抜けて、楼門に向かいます。

楼門





楼門を入ると、正面に 拝殿 があり、その先の一段高くなった境内地に社殿が見えます。


                   振り返ってみた楼門の眺め


                           拝殿の傍に置かれた狛犬像


一段高い境内地に上るのに、 3箇所の石段 が設けられています。
楼門-拝殿-石段-社殿と一直線上に並ぶのが中央の石段です。

これが中央の石段です。両側の石段に比べると倍ほどの幅がある石段です。


日吉大社の神の使いは猿 ですので、ここも石段を上った両側に 神猿像 が置かれていまず。


唐破風の向拝と中門・回廊の菱格子窓の向こうに本殿が見えます。

祭神は日吉山王の神(上七社)と合祀としての後白河天皇御霊(ミタマ)です。
日吉山王の神々は次のとおりです。 (境内の案内板より)
 大山咋命(オオヤマクイノミコト) 和霊(ニギミタマ)と荒霊(アラミタマ)
 大巳貴命(オオナムチノミコト:大国主命[大黒様])
 賀茂玉依比売命(カモタマヨリヒメノミコト) 和霊(ニギミタマ)と荒霊(アラミタマ)
 田心比売命(タゴリヒメノミコト)
 菊里比売命(ククリヒメノミコト)


唐破風の獅子口と兎毛通の上部・破風板の装飾金具に菊の紋がレリーフされています。

蟇股の透かし彫りと木鼻はともに比較的シンプルです。



まず、楼門と同じ高さの境内地に目を向けておきましょう。

楼門を入った左側前方に、簡素な 手水舎 があります。




手水舎の北東側に 収蔵庫が2棟 あります。
 この屋根の獅子口にも菊の紋が使われています。


軒丸瓦と扉の紋は、神宮の神紋と思われます。


目に止まった興味深いものがこの 「京都市旧午砲の台座」 です。

調べてみると、情報が得られるものです。
明治時代、京都市街に正午の時報を知らせる為に、高台寺に時報砲台が設置されて、午砲(ドン)として、空包が発射されていたようです。大正初期に、高台寺の建物に影響するという理由で廃止になり、この新日吉神宮に寄贈されたのだとか。号砲自体は、第二次大戦の時に、金属供出されたようで、台座だけが残ったという遺物です。 (資料2)


これは、本殿のある境内側からみた 拝殿 と境内の南側に位置する 社務所 を眺めた景色です。

つづく

参照資料
1) 『昭和京都名所圖會 洛東-上』 竹村俊則著 駸々堂 p130-131
2) 質問29 高台寺境内から発射されていた午砲(ドン)について知りたい。
               京都に関するご質問  :「京都市図書館」

補遺
山王総本宮 日吉大社  ホームページ
午砲   :ウィキペディア

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Last updated  2017.03.23 23:20:04
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