遊心六中記

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2017.05.22
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カテゴリ: 歩く [再録]

この画像は、 JR草津線石部駅前にある「石部宿のモニュメント」 です。ここは江戸時代、東海道五十三次の石部宿が栄えたところです。 2015年9月下旬 、この駅前を起点にウォーキングの同好会で 湖南三山(常楽寺・長寿寺・善水寺)のルートを歩きました 。この3ヵ寺を拝観しながらのウォーキングなので、私には二重に有意義でした。
以前に整理してまとめたものを、ここに再録しご紹介します。


白壁の築地塀の内側に、時計台が建てられていますが、その傍で築地塀の手前には、この幼い二人の子供像の彫刻があり、石柱の台座に「道」と刻されています。
右方向にある黒塗りの冠木門が冒頭の画像。門を入った斜め前方に、「歴史のまち いしべ」の説明板があります。その説明によれば、 古くは伊勢までの街道として栄え、江戸時代に東海道五十三次の宿が整備されると五十一番目の宿場町となったのです 。当時は 「京立ち、石部泊まり」
 ネット検索で調べると、石部から京都までの距離は約九里五町であり、当時の旅人には一日の平均行程になるそうです。天保14年(1843)の『東海道宿村大概帳』によると、石部宿の町並は15町3間、人口1,606人、家数458、2つの本陣と32の旅籠屋があったと記録されているとか。 (資料1)

石部の町の北側に野洲川が西方向に琵琶湖に流れ、南側には阿星山があります。その山麓に、湖南三山のうちの常楽寺と長寿寺が位置します。

一隅に、この万葉歌碑が建立されています。

    白眞弓石辺の山の常盤なる 命なれやも恋ひつつ居らむ  巻11 2444

この歌に詠まれている石辺は、この石部の地をさすという説があるようです。そうだとする石辺の山というのは阿星山あたりをさしているのでしょうね。詠み人は未詳です。
尚、手許の『新訓万葉集 下巻』 (佐佐木信綱編、岩波文庫) を参照しますと、「石邊の山」と表記して、「いそべ」とルビがふられています。一方、『折口信夫全集第五巻 口譯萬葉集(下)』 (中公文庫) を参照すると、折口信夫は「磯邊の山」という表記をしています。そのため口語訳は「岩濱のいつ迄も変わらぬ、石のやうな命でありたいものだ。さうして何時迄も、恋ひ続けてをらう」としています。
 JR石部駅 

駅舎の一角には、 近江東海道の道筋を案内するパネルが掲示されています 。水口~土山の道筋です。

この画像の上から大津、草津~栗東、石部~甲西の道筋です。

石部駅からまずは「常楽寺」をめざします。地図(Mapion)はこちらをご覧ください。

石部駅から南東方向、3kmほどに位置します。主要道路の交差点で言えば、西庁舎前~石部中央~宝来坂~石部高校前に至る道路沿いを進むことになります。私たちは、それと併行する南西側の道に入り、川の方向に近づき、途中から川沿いの遊歩道側を歩きます。
 フサフジウツギ

途中は、様々な草花が満開でした。まずは、花々を眺め、こんな写真を撮りながらのウォーキングです。花の名前を手許の図鑑やネットで調べて見ましたが、わからないものも・・・。わかる範囲でこれかなと思う名前を付記します。間違っていたら、教えてください。

            半八重のピュアデライト                ムクゲ

遊歩道沿いのそこかしこに、花、花、花・・・。

               ブッソウゲ                ルドベキア
石部西2丁目あたりで眺めた花々です。


その後、遊歩道から再び市道沿いを歩きます。この道標があり、その傍の道路には 「いしべえどん」 というキャラクターが出迎えてくれます。「宝来坂」の道路標識のある交差点近くです。
   スイフヨウ 

石部中学校が見え始め、その先に 「雨山文化運動公園」 に向かう橋が架かっています。橋を渡ったところに、このゲートがあります。この坂道を登って行くと、 運動公園の手前に、「東海道石部宿歴史民俗資料館」があります。 今回ここはパスです。 このあたりは「雨山生活保護保全林」ゾーン になっているようです。橋の片側にこの表札が出ています。

雨山文化運動公園への橋の前を通過し、川に沿う道路の端を歩き始めると、川向うのすぐ傍に右の画像の石や、少し離れた樹林の間に石碑見えます。左の画像が好奇心からズームアップしてみた石碑です。 「山林愛護彰徳碑」 と刻されています。その碑名の上には、少し小さく細めの文字で 「故笹倉重五郎氏」 と刻されています。

2421
「石部高校前」交差点で左折して、 石部高校の正門前 を通過。石部高校は丸山地区にあり、この先が西寺地区です。この交差点手前の道標には、常楽寺まで1.5km、長寿寺まで2.3kmと距離が併せて表示されています。

西寺地区 に入ると、稲の稔った田や畑が見えてきます。 彼岸花 が真っ赤に咲いていて稲の黄色とのコントラストがきれいでした。

集落の屋根の先に塔の上層の屋根が見えて来ます。いよいよ「常楽寺」です。


      板塀の先にある拝観受付所        受付所に近いところにある 鐘楼

境内を進むと、本堂(国宝)が見え、左奧に塔の上部が見えます。


本堂正面には、 「常楽堂」の扁額 が懸けられています。
常楽寺は湖南三山の一つで「西寺」とも呼ばれるそうです 。栗東市と湖南市にまたがる阿星山( あぼしやま 、693m)の麓にあります。 天台宗のお寺 で、山号が「阿星山 (あぼしさん) 」です。 近江西国三十三番札所の第一番 でもあります。

奈良時代、元明天皇の和銅年間(708~715)に金粛菩薩が甲賀郡の大岳(阿星山)に霊地を開き、阿星寺 (あせいじ) を創建したとされています。数宇の殿堂を構え、僧坊が甍を並べる山岳寺院があったのです。この阿星寺は魔風のために火災に遭遇し、衰退に向かいます。今は、山腹に「堂立遺跡」や「阿星寺跡」と名づけられた寺院遺跡が残るだけになっているようです。
金粛菩薩は、東大寺の建立に尽力し初代別当となった良弁僧正であり、良弁が金粛菩薩の異称を持つと一般的には言われています。しかし、『興福寺官務牒疏』の諸寺開創伝承によれば、金粛菩薩は良弁とは別人で、文武・元明・元正朝(697~724)に活躍している人物という説もあります。阿星寺は良弁と金粛菩薩と称する行者とが開山したとする見方です。いずれにしても、 当時は東大寺とこの地の山岳地帯の関係が深かった ことがわかります。
阿星寺が火災に遭遇したとき、本尊の千手千眼観音像がこの常楽寺に飛んできたという伝承 (『常楽寺文書』「近江国常楽寺勧進帳」) があるそうです。 (資料2,3)

常楽寺は当初法相宗のお寺だったようです が、平安時代初期、 延暦年間(782~806)に天台宗に 改めたそうです。そして、 「阿星山五千坊」 と称された中で中心寺院として栄え、阿星寺の由緒をひくお寺なのです。また、 紫香楽宮の鬼門を守護する寺 としても位置づけられていたようです。

この常楽寺は南北朝時代、延文5年(1360)に落雷によりすべての堂塔を全焼。しかし、その年に僧観慶 (かんぎょう) を中心とした勧進により、再建されたのがこの本堂だといいます。そして、鎮護国家の道場としての役割を継承したのです。

入母屋造、檜皮葺で桁行7間・梁間6間で向拝3間の建物です。内部は礼堂(外陣)、内陣、後戸(後陣)に3区分されています。内陣に置かれた厨子の中に、秘仏の本尊・木造千手観音菩薩坐像(国重文)が収められています。厨子の両側の脇壇には鎌倉時代末期作の二十八部衆立像と雷神像がまつられています。後戸には、木造釈迦如来坐像と普賢菩薩・文珠菩薩の二像が安置され、仏具類が展示されています。 (資料4)
常楽寺が全焼した折、仏像は僧侶達によって何とか持ち出されたことにより難を逃れ、今に伝わるのです。 二十八部衆立像 は小ぶりなものですが、見応えがあります。

江戸時代に出版された『東海道名所図会』の巻二には、石部のところで、常楽寺は「西寺」という名称で記載されています。なぜか「本尊如意輪観音」と説明しています。 (資料5)

        本堂前の境内にたつ石灯籠
銘は未確認ですが、「応永13年(1406)」銘が残ると手許の本に説明がある石灯籠はたぶんこれでしょう。形の良い燈籠です。
今回は、同好会のリーダーが事前に拝観の予約をしてくれていたおかげで、本堂内の仏像を拝観できました。 常楽寺は秋の特別公開期間以外は予約が必要ですので、ご注意ください。


本堂建物の構造部分をクローズアップしておきましょう。
向拝の頭貫に木鼻はなく、三間向拝の屋根部分を支える組物の一部に組み込まれています。尾棰の部分をみると、出組は二手先の形式になっているようです。この建物の軒の支輪と呼ばれる部分が目に付きました。他所で観てきたものとは少し異なり、特徴的な気がします。


本堂正面左の斜め前方側から眺めるとこんな感じのお堂です。

建物の正面には、格子造りの蔀戸 (しとみと) がはめられ、左右が連子窓になっています。建物の側面は柱二間分が桟唐戸 (さんからと) となっていて、廻廊がこの桟唐戸のある二間で終わっています。これは近江にある天台伽藍の特色に一つでもあるようです。


左の植栽の前にあるのが、この詞章碑です。

      自然の恵みをうけて 花は咲き鳥は唱う そんな四季が 好

宗一と記されていますが、誰でしょうか? 少しネット検索してみましたが不詳です。
  本堂の左奧にあるのが、三重塔です。 

真っ直ぐに長い階段を登った一段高い場所に、室町時代に建立された三重塔(国宝)が立っています。高さ23m、幅4.5mの塔です。 (資料6)
本堂と三重塔をぐるりと囲むようにして、三十三体の観音石仏が祀られています。三重塔をいろいろな角度から眺めながら、観音巡礼のお参りができるというスポットです。
この散策路は次回、ご紹介します。

本堂正面の右側面に堂内への参拝入口が設けてあります。

この本堂の右側境内には、行者堂と普賢堂という説明札の懸けられたお堂があります。

その奥に収蔵庫と思われる土蔵風の建物もあります。一番奥には、山肌の前に石仏群があります。これも次回、ご紹介します。

つづく

参照資料
1) 近世の石部 東海道における石部宿   :「湖南市立石部南小学校」
2) 古寺と阿星寺   :「湖南市立石部南小学校」
3) 常楽寺本堂と三重塔・湖南市西寺   :「滋賀文化のススメ」
4)『滋賀県の歴史散歩 上』 滋賀県歴史散歩編集委員会編  山川出版社 p170
5) 東海道名所図会. 巻之1-6 / 秋里籬嶌 [編] :「古典籍総合データベース」
   早稲田大学図書館蔵  巻2の38コマ目参照。
6)  常楽寺  :「ぶらりこなん」(湖南市観光ガイド)

【 付記 】 
「遊心六中記」と題しブログを開設していた「eo blog」が2017.3.31で終了しました。
ある日、ある場所を探訪したときの記録です。私の記憶の引き出しを維持したいという目的でこちらに適宜再録を続けています。
再録を兼ねた探訪記等のご紹介です。再読して適宜修正加筆、再編集も加えています。
少しはお役に立つかも・・・・・。他の記録もご一読いただけるとうれしいです。

補遺
郷土歴史 総合目次   :「石部南小学校」ホームページ
  石部の郷土歴史について詳細な説明ページが作成されていて、秀逸なページです。
  学ぶことが多いです。
常楽寺  公式ホームページ
滋賀県 湖南三山 常楽寺の紅葉2 三重塔   :YouTube
常楽寺(湖南市)   :ウィキペディア 
常楽寺本堂 常楽寺三重塔   :「閑古鳥旅行社」
東海道石部宿歴史民俗資料館   :「湖南市」

   ネットに情報を掲載された皆様に感謝!

(情報提供サイトへのリンクのアクセスがネット事情でいつか途切れるかもしれません
その節には、直接に検索してアクセスしてみてください。掲載時点の後のフォローは致しません。
その点、ご寛恕ください。)

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Last updated  2017.05.24 07:49:32
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