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Ruashは平常通りの営業となります。ゴールデンウィーク、去年より随分涼しいこの時期。沖縄の夏は長いのでこのくらいだと本当に過ごしやすくて、優しい気候です。一昨日から、黄砂がまたやってきました。普段はどこまでも澄み切って遠くがすぐ近くに見える景色が黄砂が来ると霞んでしまいます。慣れ親しんだ東京の空みたいです。去年はことごとく「いつもはこんなじゃないけどねぇ」と地元の方のおっしゃる天候だったのですが今年もおかしい、みたいです。いつもどおりがなくなってきています。変化、というものに慣れるよう地球にレッスンを受けてるみたいなものかもしれませんね。どんなお天気でもどんな状況でも心にらぶとぴーす、です。みんな、大丈夫です!
2010.04.30
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スピリチュアルの教えの中には教科書と処方箋の両方がある。言葉を受け取るとき教科書(方程式が書いてある)と処方箋(ケースバイケース)を一緒にしてしまうと間違いが起こってしまう。処方箋はその時その人にとって必要だから効くのであってそれをいつでも誰にでも万能だと思って当てはめてしまうと時には毒になることもある。特によく効く薬はそうでしょう?真理の言葉というのは普遍的でいかなるときにも矛盾しない万能薬なのですがだからと言っていつでも誰にでもその場で効くとは限らない。万能薬が功を奏するのは処方箋によって整えられた土壌が必要なこともある。
2010.04.29
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スピリチュアルの標語(?)に愛の反対語は憎しみではなく、恐れだ、というのがあります。その言葉はとても的を得ていると思う。反対語かどうかは正確には違うかもしれませんが愛から隔ててしまうものは恐れだと思う。もうちょっと人間的(心情的)なレベルでは無関心だ、というのもあるけど無関心を無意識、と置き換えるとこれも当てはまると思う。というか、私たちを光と愛から隔てるのは主に無意識の恐れ、なのだ。そして恐れから自由になろうとして向き合おうとしてもそれが無意識の闇に隠れているからなかなか私たちはそこから目覚めることができない。そこで必要なのは瞑想、と変性意識下で行われるワークだと思う。そのワークのひとつが催眠=ヒプノセラピーでありレイキヒーリングである。恐れを探求していてエゴをどんどん解体していくとやっぱり究極「死」という肉体から離れる行事は一大イベントだ。いくら美しくて安らかで痛みが少ない死にたまたま出会っても死に対してポジティブであることはなかなか難しいと思う。人生の大きな課題であることは確かだ。あるヨギの自叙伝を読んで目からウロコが落ちまくっている。聖者は肉体を離れるときマハ・サマディという技法で肉体を離れる=現世でいう死を行う。それがその人生での最後の行になるのだけれど自叙伝を書くような身近(と言うのも変ですが、イエスのようにお弟子が書いた書でなく)な肉体を持つ存在がそうやって続々と(師匠たちが)この世を離れる様はとても衝撃だった。それで、イエス・キリストはどうしてあんなに人々に恐怖や絶望という印象を与えるような亡くなり方をしたんだろうかととても不思議に思った。あれでは、人間は死はや犠牲について誤解してしまうに違いない。インドの聖者たちもキリストは地上で最も優れたヨギだと言っているのに。どうやら、その辺に、人間の意識の進化とそれを隔てるものの秘密が隠されているように思う。それを解き明かそうとしている人もいるみたいだけどやっぱりとても危険で重大なことみたいだ。
2010.04.27
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神の使者を読まれた方にしかわからないネタですが私が最近金色のアミアミオーラが見えるという話などをだんなさんにしたところだんなさんが私に「本当は俺に内緒でアーテンとパーサにも会ってるんじゃないの?!」と、わり真剣に私に言ってきました。私が「会ってないよ、会ってたら言うよ」と言うと「いいや!ゲイリーだって奥さんに言わなかったでしょ、そんで離婚したじゃん!」と彼。それで、私は「そうだね、そんなこと言ってるなら、もっと瞑想しなよ!」と、うちの夫婦の会話はこんな感じ。最近のアミアミはというと朝目が覚めるとまず天井に見えます。昨日はだんなさんにハリとレイキをしてもらおうと始めた瞬間から、自己ヒーリングや瞑想時はもちろん、という感じで現れます。前にも言ったけどあまりにはっきりくっきりと見えるのでやっぱり本当は目の病気じゃないかしら、とちょっとだけ疑っています。でも目の錯覚ではないんですよね。それくらいはっきりと見えることは確かです。先日は自己ヒーリング&瞑想でマスターを召喚しその時なんとなく目を開けるといっそうアミアミがくっきり見えてところどころ網目がとても詰まってぎっしりと楕円形の塊になっているのが見えていくつかあるその塊が私のからだのほうへぎゅーっと集まって来ました。すると最近いつもそうなるように足全体に圧がかかってぎゅーっと重たくなりました。あら~、いつも重くなる時こんなことが起こってるからなのかな~と妙に納得しました。納得はしたけどもう少しいろいろと知りたいです。バーバラ・ブレナンの本をずーっと前に読んで古本屋さんに売っちゃったのをちょっと後悔しています。今読んだらまたいろいろと繋がるんだろうにな。だいぶ以前にご紹介した四葉のクローバーです。奇跡なのか自然なのかわかりませんがいまだに元気です。根っこがひげもじゃになりました。
2010.04.25
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近所でアーサを採ってみました。沖縄ではどこでも売られていて人気のある食材です。ビーチに行くとそれとそっくりな海草が流れてきたり浮いたりしています。これ、アーサなの?とよく思っていたのですがやっぱりそうみたいなので(多分そうだろうっていうてーげーな感じで)初めて採ってきました。一応ネットで調べてみて大丈夫そうなのでアーサ汁にしました。とーってもおいしかった。それから行き当たりばったりで出会った海岸(後で調べたら大度米須海岸)の岩場でウェットスーツ姿ですもぐりしていたダンディにだんなさんが話しかけていろいろ教えていただいてその上収穫を半分くらいいただいてしまいました。危険な貝とかくらげとか珊瑚とか、タコとか。凄く参考になることを教えていただきました。特にアンモナイトと呼ばれてる貝は特効薬もなく刺されると死んでしまうそうです。アンモナイトって、あの、アンモナイトではないですよね?とにかく沖縄では地元の方は裸とか水着では海に入りません。服を着て入ります。そしてこの辺では食べられるウニはないよ、と教えていただいたのですがまさにその直後、沖縄で食べられるのはこういうの、と教えていただいたウニと出会ってしまいました。ちなみに食べないウニはそこいらじゅうにいっぱいいます。ボイルするといけるよといただいた貝とでっかくてハンマーで割らないと食べられないよ、と言っていただいた貝、手前右のがシラヒゲなんとかウニ。それから近くの創造の森公園で二人で瞑想して帰ってきました。うす曇りの天気でしたがやっぱりプラーナがすごくて二人とも目がなかなか開かないくらいでした。私は自分の足がきらっきらになっているのを見てちょっとあの、映画とかなんかで見たことのあるようなからだから光が…みたいになってて感動しました。だんなさんは光のビームがどーっと出ちゃってるみたいだったそうです。沖縄はやっぱり凄い。いたるところにトリップの入り口があります。
2010.04.21
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高校生の頃、進路を決める時に自分は何者か、って問いませんでしたか?だんなさんに言ったらそんな問いは微塵もしなかったと言ってましたが私はかなり深刻に問いました。それで、将来の準備のために必要な勉強は自分にとって何か考えた末、哲学、神学、演劇のどれか、と答えを出しました。本当は神学、というのに一番惹かれたんですが大学の神学科に入るには条件があって司祭になる人に限られていたようでした。哲学に関してはその時既に頭でっかちの哲学だと習うのやだな、とか考えていて本当の真理というものを大学では教えているんだろうか、などと考えていた記憶があります。それ以前に当時はひどい鬱状態で成績も急降下してしまい見かねた担任の先生が玉川の演劇専攻の指定校推薦をすすめてくれておそらく面接で「この子はあぶない」と教授のどなたかのアンテナにひっかかったかイエス・キリストの救済かその両方によって合格したのだと思います。(貴重な指定校推薦枠いただいたのに中退してしまって本当にごめんなさい。)中学までは私の走り去った後にお花が咲くようなステキな女の子だったはずなんですが(笑)高校生のときは、あみんとあだ名されるほどの暗い子の代名詞になっていて本当に死ねるものなら今すぐに死にたいと思っていました。で、死ぬ度胸がなかったので死ぬのをあきらめたのがこれまで人生で唯一の私のあきらめかもしれません。大学の合格通知を家の階段で開けてみたときの救われた気持ちは今でもよく覚えています。地上に生きる許可を与えられたような安堵と不思議な導きと言いましょうか。2003年にNYに滞在した時私はそれまでの人生の重荷がゼロになるような体験をしました。私の心身には実際に重さがなく、恐れもありませんでした。過去もなく未来もなく、まさしく今にいる、ということがわかりました。私は5番街のセント・トーマス教会に入りました。はす向かいにはカトリックの大聖堂、セント・パトリック教会がありそちらの賑わいとは対称的にシックで閑散とした教会です。私はただ祈りたかっただけなのでどこでもよかったのですが席に座ると同時にどっと涙があふれて止まらなくなりました。そして世に言う人生の走馬灯のような記憶の絵巻物が早回しでめくられていきました。最初は、苦しい人生だったけどNYに滞在できてすばらしい体験が出来たことに感激してるのかな、と思っていましたがその絵柄には一貫した関連性がありました。それはそのときは気にも留めていなかったようで後に運命の分かれ道になるような選択の場面の羅列でした。大学の合格通知を開いたときの私もページにはありましたしもっとたわいのないことや、人生のかなり苦しい生活や、その中にも思わぬ宝をみつけることになった場面など…。私が必死で切り抜けてきた人生の選択の場面を紙芝居のように見せられたようなかたちです。それは、私の人生は私の主観だけではなく何か別の視点があったのだ、と私に実感させる体験でした。そう思ったと言うより、そうだからこうなった、ということが自然にわかる、というような感じです。「全部見ていたし、ところどころではちゃんとひっぱったり押したりしたよ」とその紙芝居は伝えてきました。「ほらね、ここんところなんてそうでしょう、知らないだろうけど」というような感じです。そう、謎解きでした、あれは。それで私は1時間か、もっとかよくわかりませんが相当危ない橋を一人渡りきったつもりがちゃんと命綱もついていたんだというような変な安堵とか感謝というには率直すぎる機械みたいに泣き続けました。魂は、すべては計画通りだと私に教えたのかもしれません。なんにしてもあの時、私は今世をいったんゼロに出来たのだと今振り返るとわかります。最近になって、あれ、そういえば哲学、神学、演劇、全部今も使ってるよ、と気づいて驚きました。けれど今になって一番驚くことは「平安というものがこんなにも楽しく面白いものなのか」ということです。あの頃の自分が既に持っていたものは本当に多いのですが平安のすばらしさ、創造性、という体験だけは今の自分にしかわからないものです。
2010.04.18
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神とひとつになるにはあらゆる肉体の感覚から自由にならなくてはならないと、インドのマスターたちは教えています。マインドの動き、と彼らが言うのは感情や心の表面的な動き、潜在意識の浅い部分や思考のことを指していて瞑想の基本はまずマインドを静めることにあります。マインドを静める、と言われて、はい、とできればとてもいいのですがまず私たちは、どれが何だかわからない、という問題があるんですね。ヒプノをやっていて変性意識に入ることができても感じたことを感じたと受け取りにくい人が結構います。これはどういうことかというと魂が肉体に宿ったときや肉体としてお母さんのお腹から出てきた時この3次元の肉体と地球って星はとても重たくて波動も荒くてすごく大変!とショックを受けます。それで、こんな不快な状態は耐えられないからなるべく感じないように、と感じる機能にブロックをつけます。人間は生まれてから成長していく過程で対処しきれないことに直面するとこうやってブロックを作ってなんとか自分が壊れないよう生きていけるようにして進んでいきますがおそらく一番最初につけるとしたらこれです。それで大人になって今度は豊かな人生とか幸せとか楽しいとかときめきとか、いろんなことを感じようとするのですがなんか、感じないな、とか窮屈で閉じ込められてるな、とかいうふうになって苦しくなってきます。インナーチャイルド、ととてもかわいい名前でよばれているのは実はこういったブロックによる弊害のことです。こういったブロックの処し方にはみなさん癖があっていくつかの防衛パターンのどれかを採用してます。最初に感じないブロックをつけた人は人生を生きる時、そんなに激しく揺れないのでわりと穏やかに人生を前向きに処しているように傍からは見えるかもしれませんがそれだけに、この世をすごく好きでもないしどっちかというと義務的にがんばってちゃんとしているんですがそれにも疲れてしまったりします。私のパターンは逆で、生まれながらにこの世を感じる気満々で感情が激しく感受性の強いと言われるタイプでそれだけに感覚世界を真に受けやすくどんどん傷を作り、そのトラウマからくる癖で人生をネガティブに捉え、悲劇にはまってしまった、というタイプです。最初は意気揚々だったので、躓くにつれこんなはずじゃなかったのに・・・!と悲嘆にくれる感じでわかりやすいのですがはずみで死んじゃうかもしれない心配なタイプでした。いずれにしても人間は多かれ少なかれトラウマ、ブロック、トラウマ、ブロック、戦う、逃げる、戦う、逃げる、と肉体の本能に支配されつつ生き延びていきます。この世で生きてて調子がいい人は、もっと強く、もっと成功、もっとたくさん、と今度は欲が出てくるのですがそれも自己防衛本能の延長上にあります。たくさん得るほうが安心(快感)と思うからです。でもその安心(快感)というのは欠乏と比較した安心(快感)なので安心(快感)を得るには欠乏が必要となりこれを獲得するには常に比較や奪い合いという世界に生きることが必須です。二極性の世界ですね。聖者やマスターは真の平安を得るには二元性を越える(目覚める)ことだと教えています。二元性を越えて一元であるものを彼らは神と呼びます。私も神をそれ、と思っています。最初に戻ると、神とひとつになることとはそういうことです。この一元なるものをスピリチュアルではワンネス、とか宇宙、とか呼んでいますが私が好きな「この宇宙すらも神は創らなかった」という言葉の意味は「この次元の宇宙は二元性の世界だから」です。ワンネスと宇宙を混同するとまるで二元性のごちゃ混ぜの延長上(宇宙の頂点)に神があるような勘違いが起こります。あらゆるものの中に確かに神(一元なるもの)は偏在しますがこの大いなる自然ですら二元をあらわしておりそれをマスターは「幻想」と教えます。幻想とは、真実でないもの、ということです。幻想から目覚めるにはこの世の見方や捉え方、自分のあり方を見直し改める必要があります。私のセッションではそういうことをお伝えし実際にそうなるためのワークを行っていきます。すごく壮大で深遠だけど、結局幸せへの近道になるはずです。
2010.04.16
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さわやかです。夏の匂いがしてきました。報得川の河口ではカヌーの群れが川を登っています。今日は半袖Tシャツと短パン、裸足でもやや暑いくらい。昨日は宜野湾の花火大会で去年に引き続き自宅から、だんなさんの治療院、那覇古島を経由して宜野湾の沖縄コンベンションセンターまで(わ~地図で見ると遠いな~)自転車で行ってきました。20キロちょっとです。ことしはコシノジュンコさんが演出なさったそうなんですが(去年はカーリーでした)すばらしかった!本当に。今まで見たことがない美しい演出で感動しました。花火は多摩川育ちの私としては子供の頃から慣れ親しんだイベント。だんなさんが花火好き(イベント好き)なので近年は東京にいるときから群馬や茨城まで見に行ったりしていましたが昨日のような洗練された、美しい音楽のような花火は初めてでした。本当に花火って、大玉を何発使うか、とかの問題じゃないんですよね~。昨日の花火はたとえて言うなら目に見えない物語を宙に描いたような、世界でした。胸がいっぱいになるような美しさ、だったです。イタリアにいるだんなさんのおとうとから催促されてやっとスカイプが開通しました。あまりにあっけなくイタリアの空と繋がってちょっとすごいな~と思いました。おとうともACIMの課題を始めていて「課題があれば、どこにいても関係ないね」なんて言ってました。今は時間が過ぎるのがものすごく早い、と話し合って私が「赦してるからじゃない?」というとおとうとは「じゃあそっちは2倍じゃない?2人だもん、4倍かな」なんてね。確かに、2人で取り組むと、気づきは4倍以上になるかもしれません。なかなか鋭いね、冴えてるね、おとうと。ヒプノセラピー(催眠療法)でとても大きく結果が変わってくる大事な点があります。それは、現時点で「赦す決意が出来るかどうか」なんです。よく、セラピーやスピリチュアルの世界では「本人の準備が出来ているかどうか」というワードを使います。でもそれってすごく曖昧でいろんな捉え方ができる。結果が芳しくない時のいいわけみたいにも聞こえる。この世で問題を作り出している原因はゆるせない意識です。過去の体験、ご両親や祖先から引き継いだ思い、ときには幾世にも遡る人生の中でそれは起こる。それをそのまま、時には無意識にそれを持ち続けるとき人は人生の中に問題、苦しみ、痛み、病を作り出します。準備は、それを赦すと決めるかどうかです。自分一人で出来なくてもどうやっていいかわからなくてもいいんです。ただ、決意さえ出来ればあとはそのようになります。ヒプノセラピーでは私たちの表面意識で明確に決意が出来ている部分を潜在意識下でクリアにしていくことがとても容易です。それを理性だけでがんばろうとすると脳内で葛藤が起こりなかなか手放せない、というジレンマが起こります。以前、ヒプノセラピーだけをしていたときは私はセッション中に起こることに絶対に逆らわないという姿勢を固守していました。(ヒプノセラピストはそのように教わるはずです。それはそれで正しいのです。)ですが、今は皆さんの後押しを受け止めながら(こうしてくれればもっと進めるよ、とみなさんが教えてくれる)時には軽くプッシュしたり決意を促すことをしています。その時、本当に、奇跡が起きます。私から赦すというキーワードを言わなくても後から「あれからゆるせてなかった○○がゆるせるようになって(状況、状態が)変わりました」とおっしゃる方が多いのです。その時本当に人はあっけなく、そして別世界の人のように何もかも変わります。love&peace!
2010.04.11
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少し前にヨガナンダを知ってからいろいろ調べていくと現在のスピリチュアル、と呼ばれている世界はヨガナンダがインドからアメリカへ伝えたのがおおもとなんだとわかった。彼の教え(インド哲学)を学ぶとあらゆることがものすごい勢いで統合されていく。欲望をくすぐるような遠回しも、口当たりよく薄めた言葉もいらない、と感じる。世間で言われているスピリチュアルのいろいろな概念は人々が何とかしてそこに行き着くことへの意欲をそがれないよう幼稚園児を悟りに導くための道標だったみたいだ、と思う。あるヨギの自叙伝人間はあらゆる恐れから自由にならなければ平安へは至らない。私の場合は、具体的な自分の肉体の死について思うとどうしてもうまくいいイメージができなかった。私は体外離脱なんかにもまったく興味がないしアセンションで肉体を持ったままどうこう、というのも否定しないけれど積極的にそれを目指すという気持ちはなかった。でもヨガナンダの実話を読んだとき「これだ☆☆☆」と思った。ヨガナンダは瞑想で自らの肉体から離れていかれたということだ。本当に、それは死ですらない、と私は感じた。とても具体的でリアルだ。私がそのまねを出来るかどうかは別としてその可能性を目の当たりにできたことで私の中の闇はまたひとつ消滅した。そのあり方のみで闇を消滅させる力のある者聖者とはそういう存在だと思う。
2010.04.09
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スピリチュアルのことを指して目に見えない世界は…なんて以前は説明したりしていましたが以前に日記に書きましたがアミアミオーラらしきものとプラーナらしきものはそこに存在すべく頻繁に現れるようになりエネルギーは見えない世界とは言えなくなってきました。黄色のアミアミオーラは瞑想が終わると必ず見え昨日はレイキしつつだんなさんをマッサージして終わると世界は金色の網目に包まれていました。あまりはっきりと見えるのでだんなさんに言うとそれ黄疸の症状だよ、と言われて本気にしました。目の異常かと思うくらいはっきり見えるのでだいぶ本気にしていたところ少し後に、ウソだよ、と言われました。プラーナは以前は晴れの日に見えていたのが先日はどんより曇った室内の瞑想中の私の周囲におびただしくあるのを見ました。半眼になってプラーナと交信してみましたがエネルギーのやりとりまでは確認できませんでした。アミアミオーラとプラーナの絵はmiminetあきこさんが以前から公開してくださっているのでこれかぁとすぐに思いましたが(今日の日記にもアミアミオーラのことがあって、タイムリー)本当に私が見ているのこれかなと思い探してみると、他にあまり記事がないものです。miminetあきこさんのブログをみつけたのは確か4、5年ちょっと前に丹光(瞑想が進むと見える紫の丸い光みたいなもの)が爆発的に出て、それが数日寝ても覚めても止まらなくなりなんだろうと思って調べたときに絵が載っていてビンゴ、だったため助かったという経緯です。この丹光が見えたときに実は天使らしき存在のコンタクトもあったのですが疑い深い私はほとんど誰にも言わずに自分だけの日記に詳細に残しておきました。そのコンタクトはなんと中野から中央線で銀座に向かう途中でした。後から調べると、電車の音はヘミシンクの音と似ている周波数があり変性意識になりやすいと、確かこれもあきこさんがおっしゃっていたと思います。で、そういう現象は面白いんだけどそれがどういったことでどういう仕組みで実際それが見えると見えないでは何がどう違うのか、世界の成り立ちとどう関わっているのか、ということが自分の中で(人が言ってることではなくて)わかるまではあまり言わないようにと思ってきました。最近それがどういうことなのかだいぶわかってきたので少しずつお伝えしていこうかなと思っています。
2010.04.07
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瞑想とヘミシンクと結婚記念日についての日記を書き終えたら消えてしまいました。時期じゃなかったということで(時期じゃない話題が多くてなかなか書けません)今日はレイキアチューメントについてまっちんさんがブログに公開してくださった日記をご紹介します。まっちんの日々なブログ~レイキ(ファースト)伝授まっちんさんありがとうございます。最後に書いてくださっている、考えるのを妨げるような感覚、というのはとても興味深いです。思考のスイッチが切られてリラックスモードに入られてるということだと思います。レイキは本当に不思議に理にかなったことだらけです。レイキヒーリングのセッションは、他の方はどうやっていらっしゃるのかわかりませんが一般的には手を当てて気を流すというイメージかもしれません。それ自体が一般的なのかどうかよくわかりませんが^^;私が皆さんと対面しながらだんだんと確立されてきたのはこんな感じです。まずオーラの浄化、オーラの表面をなでるという感じです。これは基本です。それからチャクラの調整、これもレイキ本には基本的に書かれています。ここでチャクラの状態を手が感じます。大きく7つのチャクラを確認するのですがそれぞれのチャクラには意味や傾向があります。それでバランスが取れていないところや強さ、弱さ、微細な違いを手が察知します。またからだから数十センチのところにはエーテル体にその方の情報が詰まっています。チャクラとエーテルが主張していることをまず手が感じます。それで今度は私が「これはなに?どうしてだろう?」と疑問をなげかけます。するとそのレスポンスが私の中にふっと浮かびます。そのレスポンスというのはアカシックから返ってくるものだそうです。それで私は「今、こういうことみたい、ここがブロックみたい」というように言葉でお伝えします。すると「ああ、それか!」という風に気づかれる。ご自身の内面で起こっていることを意識化できるわけです。気づいた瞬間に手放すことができることもあるしそれを手放すためにもう一段階、思い込みに気づく必要がある場合もあります。そのためのアイディアが私の中に明かりがともるみたいに浮かびます。それをお伝えすることでその方にも明かりがぽんとともります。だいたいそういう時みなさんほっとするというか安心なさったり、目の前が明るくなるような感じになるはずです。そしてエネルギーを調べると滞りが取れ時にはつき物がとれるようになったりとても元気にすっきりとしたりしています。だから私のレイキヒーリングは手で気を通す、というよりはこの一連の癒しを私と相手の方のハイヤーセルフのレベルでできるよう高次元の存在に導いてもらいながらエーテルの手術をする感じです。気づきとゆるし(手放し)でエネルギーは変わってしまうのです。すると感じ方が変わる。かだらが変わる。態度が変わる。表情も変わる。行動が変わる。世界は変わるのです。おもしろいでしょ。私もすごくおもしろいです。時には深刻なお気持ちで受けにいらっしゃっる方もおいでになるのですごくおもしろいなんて言っていられないこともありますがでも、こうやって人間はものすごい可能性を持っているということが本当にすごいと思うのです。一人の人が保持している情報、エネルギーに取り組み変わることでどれだけ世界が変わるのか。すべての人が世界を救う力を持っているということなのです。
2010.04.04
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この地球上で多くの人が、外側を変えたり外側に何かを求めることをやめて内なるガイドとともに平安と導きを生きるという冒険を始めたら本当にこの世は楽園のようにおもしろくなるだろうと思う。今多くの人が楽しんでいる冒険はどれもだいたい「サバイバル」というサブタイトルなんだけどそれが「創造」にかわる。正直先の見える冒険(サバイバルのほう)なんて本当に退屈でばかげているんだけどそういう麻薬がなくなると人生がクールじゃなくなると懸念している人が多いんじゃないか。特に男性。私から見ると、内なる女性性を中心に持つ男性はとても少ない。でも内なる女性性を持つ(大切にしている)男性はとてもとても魅力的だ。アボリジニが狩りをするとき(狩り、好きでしょ、男性)内なるガイド、神と交信して獲物をいただくんだそうです。だからくいっぱぐれはないそうです。すごくクールだと私は思う。レイキヒーラーのあきこさんが書いていらしたけど地上の多くがまだ狩りで暮らしていた頃は人間同士は分かち合いの世界だったらしい。自分の食べるための分が捕れたらあとは分け合うんですって。生活の(食べる)ための労働時間は一日2時間くらいであとは芸術(創造)と祈りと瞑想、だったそうだ。縦社会ができて身分が分かれたり多くを蓄える者が出てきたのは農耕をするようになってからだそう。そして食べるためにものすごく時間を使うようになった。ははぁ~!!!と目からうろこでした。今は農業ブームでロハスなんてことになってて狩りなんて野蛮ってイメージですが確かに殺生ではありますが天から授かった命で命を生かしていただくのはシンプルかもしれません。植物にしても野生の熟したものをいただいていたんでしょうね。私は中学校の時、インド帰りの先生が歴史を教えてくれて世界の四大文明は河(水)があるところに生まれ農耕によって生活が安定して初めて「文化」が栄えたと、ものすごく力説していて中学3年間でこの話しか覚えていませんでしたがこの説も覆るときがきてしまったか、と思いました。生活の安定あってこその精神文化、ではなくそもそも私たちは源と繋がった存在そのものが神の表現だったと言えるかもしれません。
2010.04.02
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「・・・人生はゲームなんだ・・・」と、いう、お言葉が降りてきました。ちょっと頭を離れない他人の言動があったのですがそれをどうしようかな、どうやって手放そうかな、と思っていた時です。その瞬間に思いは頭を離れていきました。それは言葉ではなく、パワーでした。
2010.04.01
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