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慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム PCが直りました。アル=ハムドリッラー。でもサウンドカード壊れていて、完璧とはいえない。ラマダーン前に去年からはじめたハタム(「今、どこですか」と聞かないでください。)を少しでも進めたい私にとって、手痛い。アッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2005年09月24日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクム日本ではインシャーアッラー、ライラト・ル・バラーは日曜日のマグリブ以降で、ニスフ・シャバーンは月曜日だと聞きました。満月通信本館に上記に関するハディース等を紹介しています。http://basma.hp.infoseek.co.jp/Shabaan2.htmhttpアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2005年09月17日
慈悲あまねく慈愛深きアッラーの御名においてアッサラーム アライクムダマスカスでは今晩がニスフ・シャバーンの前夜(ライラト・ル・バラー)だそうです。金曜日のブーティ師のクトバ(説教)を紹介します。重病におかされ、苦痛に苛まれる人は、病気治癒のための労苦を厭わない。嘘か本当か分からなくとも、名医がいると聞けばその医者を訪れようとするし、名薬があると聞けば、とにかくその薬を手に入れて試そうとする。どんなに可能性が低かろうと、救われるために一縷の望みに賭けようとするものである。 心を病んだ人、自分の罪深さを自覚する人、アッラーを前に自分の至らなさを痛感する人もまた然り。アッラーのお赦しを得るための機会を、とにかく逃すまいと必死で掴もうとするだろう。そう、「溺れる者はわらをも掴む」というが、しもべたる者の心構えはまさにそうあるべきなのである。 至高のアッラーが、『心を震わせながら、与えられたものを分け与え、主によく立ち返る者たち。』と言い表された敬虔なしもべたちは、クルアーンや確かなスンナで禁じられているものでない限り、あらゆる善行の機会を生かそうとするものである。 以上の前置きを踏まえた上で、こうした好機のうちのひとつについて考えてみよう。 我々は今、シャアバーン月の真っ只中にある。シャアバーン月の徳を説いたハディースは数多く、例えばナサーイーが「スナン」の中で出典するハディースには、預言者さま(祝福と平安あれ)がシャアバーン月に何日も数多くサウムをしている理由を尋ねられ、次のように答えたというものがある。 「この月は行いがアッラーの御許に上げられる月。私の行いがアッラーの御許へ差し出されるのは、私がサウムしているときであってほしいからです。」 私はこのハディースの信憑性を詮索しようとはしない。私は自分自身のために万全を期す人間であり、このハディースは正しいかもしれないという可能性にしがみつこうとする人間である。アッラーのお赦しを求めるこの気持ちは、わらをも掴む溺れる者と変わりないのだ。 もうじきやって来るシャアバーン半ばの夜についても、その徳を伝えるハディースは数多くある。 バイハキーがアル=アラーゥ・ブン・アル=ハーリスの伝えるアーイシャのハディースとして出典するには、 「ある晩預言者さま(祝福と平安あれ)は礼拝に立たれ、サジダをしたまま長いこと動かなくなってしまいました。私がもしや預言者さまは息を引き取られたのではないかと彼のもとへ行って足の指を触ってみると、彼がそれを動かされたので、私は寝床に戻ろうとしました。そのとき私は彼がこう祈られているのを聞いたのです。 『アッラーよ、私はあなたのお赦しによってあなたの懲罰からのご加護を願い、あなたのご満悦によってあなたのお怒りからのご加護を願い、あなたによってあなたからのご加護を願います。あなたはあなたご自身が讃えられたとおりの御方であり、私にはあなたを讃えきることはできません。』と。 やがて彼は礼拝を終えると、私にこう言いました。 「アーイシャよ、預言者が君を騙そうとしたと思いますか。」 「いいえ、ただ私はもしやあなた様が亡くなられたのでは、と思ったのです。」 「アーイシャよ、今晩が何の夜か知っていますか。」 「アッラーとその御使いさまがよりよく知っておられます。」 「今晩はシャアバーン月の十五夜。至高のアッラーはこの晩しもべたちをご覧になり、『赦しを求める者はいないか。われはその者を赦そう。苦しむ者はいないか、われはその者を癒そう。糧を求める者はいないか、われはその者に糧を恵もう。』と言われ、憎悪しか知らない者たちはそのままに捨ておかれるのです。」」 またイブヌ・マージャが出典するアリーのハディースでは、預言者さま(祝福と平安あれ)は次のように言われたという。 「シャアバーンの15日の夜になったら、夜はサラーをし、昼はサウムをしなさい。」 病に苦しむ病人は、一人、二人、三人、四人と何人もの医者を訪れては苦しみからの救いを求め、一つ、二つ、三つといくつもの薬を試みては癒しを求める。身体の病も、心の病も同じであって、その癒しを求める者はあらゆる可能性を試す労苦を惜しんだりはしないものだ。 数え切れないほどの恵みをもたらしてくださっているアッラーを前に、自分の至らなさを痛感し、アッラーの偉大さを実感し、アッラーへの愛で満たされるとき、しもべとしての気持ちはどんなものだろうか…。 別の言い方をしよう。 私が「救いの可能性」にすがるとき、アッラーは私の心をご覧なされる。「行為は意図次第である。」とは預言者さま(祝福と平安あれ)のお言葉だが、私が「救いの可能性」にすがるとき、私はただただそれがひょっとすると本当に預言者さまが言われたことかもしれないから、それにしがみつこうとすることでアッラーにお赦しを乞うのである。 チャンスを得ようとするのを、一体なにが踏みとどまらせようとするのか。 ありのままの自分に敏感な人は、禁じられたものでない限り、どんなものであれ「アッラーへの門」となりうる善行を躊躇したりはしないのだ。 哀れむべきは心を閉ざされ、自分がアッラーのしもべたること、アッラーの偉大さを実感することに気付けなくなってしまった人間である。 学者によっては様々なウンチクをたれてこうしたハディースにのっとろうとすることを非難する者もあるだろう。 「このハディースはダイーフであって信頼に値しないから、それにのっとった行いは虚偽であって避けるべきである。その根拠はかくかくしかじか…」と長い議論に時間を費やす者もあるだろう。 しかしどうだろうか、アッラーを前にしもべとして自分の至らなさを痛感する人間が、アッラーのお赦しをひたすらに乞う人間が、ハディースの検証に時間を費やしてみすみす善行のチャンスを逃すなどということがあるだろうか…。 ハディース・ダイーフ(弱性伝承)とは、約30パーセントの信憑性しかないと判断されたハディースだが、逆に言えば30パーセントは正しいハディースである可能性があるのである。たとえそれが10パーセントでも、ひょっとしたら本当に預言者さま(祝福と平安あれ)が言われた言葉かもしれなかったら、アッラーのお赦しを得るためのきっかけとなることを願ってそのハディースに、そのハディースの内容にしがみつこうとはしないだろうか。 そもそもハディース・ダイーフは、善行を奨励するものであれば受け入れるべきというのが学者間の定説である。ズィクルやサラー、サウムやキヤーム=ッ=ライル(夜間礼拝)、スィドゥク(誠実さ)などは、もともとムスリムがすべきこと、身につけるべき美徳として疑いの余地のないものである。だからそれについてのハディースがあれば、それについてひょっとすると預言者さま(祝福と平安あれ)が言われたかもしれないことがあれば、迷わず実践すべきなのだ。 溺れる者はわらをも掴むように、アッラーのしもべたる自分の至らなさ、罪深さを痛感する者は「救いの可能性」を求めて、「赦しの可能性」を求めて、できる限りの善行の機会を生かそうとするのである。 満月通信管理人は、今日から三日間インシャーアッラー、サウム(断食)します。今日が15夜であれば、白い日(月の13・14・15日の3日間にするスンナのサウム)と月曜日のスンナというニーヤを持ってします。ニスフ・シャバーンのサウムは私の先生の見解ではナフル(随意)の分類になるそうです。アッラーフ アアラム夜のイバーダー(崇拝行為)についてはどんな時であれ、お勧めする行為であります。ムスリムの皆様の善行が受け入れられますようにアッラーのご加護と祝福がありますようにワッサラーム
2005年09月17日
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