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「富は屋(おく)を潤し、徳は身を潤す。 心広く、体胖(ゆた)かなり」(大学)。 豊かな財産は家庭を立派にするが、 豊かな徳はその人の身を立派にする。 徳を備え、 内に省みてやましいところがなくなると、 心はいつも広くなり 身体もゆったりと落ち着いてくる。「安岡正篤人間学」 神渡良平 同心社
2018年04月18日
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精紳爽奮。則百廢倶興。 肢體怠弛。則百輿倶廢。 聖人之治天下。 鼓舞人心。振作士氣。 務使天下之人。知含露之朝葉。 不欲如久旱之午苗。 精神爽(さはや)かに奮へば、則ち百廢倶に興る。 肢體怠り弛(ゆる)めば、則ち百興倶に廢(すた)る。 聖人の天下を治むるや 人心を鼓舞し、士氣を振作し、 務めて天下の人をして、 露を含むの朝葉の如くならしめ 久しく旱(ひでり)するの 午苗(ごべう)の如くならんことを欲せず。「呻吟語」 公田連太郎譯註 明徳出版社
2018年05月09日
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反省してであれ、考えぬいてであれ、学問してであれ、自分の意志を他人に押しつけることは不可である。 いわんや親に対してはだ。 自分を抑え、親の意を体して親の好きなようにさせるのが正しい。 そういう見方である。 これは儒教の教えと一致するから儒教の影響と考えられるかも知れない。 孔子も、やはり、たとえ親が悪くとも、親のことはお上などに密告しない。 それが孝の自然の姿であり、人倫の基礎だと主張している。 親を捨てることを要求するキリスト教の理念とは正反対の立場に立つわけであろう。 しかし、日本人にとっては、親が「絶対悪」にはならないという前提が大切なのだ。 親が悪いと知っても、親を「絶対悪」の立場で論断する心情は私たちの中にはない。 親の立場を「察す」れば、そうなるのも「無理はない」。 自分の立場も正当であるが、その正当性は、どちらも相対のものに過ぎない。 この相対性を悟ることが一番の、そして最終的な条件なのだ。 同じ相対価値であるという前提の上で、自分の立場を捨てることが親孝行ということになるわけである。 よく絶対的価値を信じないのが古い日本の特徴だという指摘がなされる。 ベネディクトなどの「恥の文化」という日本文化への刻印には、こういう考えが基本となっている。 だが、それは皮相極まる観方でしかない。 私たちは絶対価値の存在は排撃しているのではない。 ただ、日本人は、自分が、そのような絶対価値の体得者であるというお目出たい信念を容易に持ち得ないだけのことだ。 また絶対というものが、そういう言葉の上で表現できるものではないことを知っているだけのことである。「ヨーロッパ・ヒューマニズムの限界」 会田雄二 新潮社
2015年04月15日
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ヤマタノオロチを退治して、 そこから出てきた鉄剣を奪う、 という物語は、出雲族を征服して 製鉄技術をまるごとヤマトの支配下におさめた、 という歴史を、比喩として表しているのです。 草薙剣は、もとは天叢雲劔といい、 おそらく出雲族の王権の象徴だったものが、 降伏の証として差し出されたのではないかと思われます。 これを天皇家が代々保持するということは、 日本が 「ヤマト朝廷が出雲王国を吸収合併した連合国家である」 ということを象徴的に示していると考えられます。 三種の神器のほかの二つは、 鏡と勾玉ですが、鏡がヤマトの象徴だとすれば、 勾玉はもうひとつの被征服民の象徴なのかも知れません。 これはズバリ「さきたま」つまり関東王国埼玉 (ヤマトタケルに出てくるエミシ)の象徴である と考えてよいでしょう。
2021年03月29日
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国際的には日中戦争は、日本がパラノイア的に「戦争のための戦争」をしているとしか見えなかった。 東京裁判も「八年戦争」を明らかにすることはできなかった。 丸山真男一流のレトリックでは、「日本の最高権威の掌握者たちが実は彼らの下僚のロボットであり、そも下僚はまた出先の軍部やこれと結んだ右翼浪人やゴロツキに引き回されて、こうした匿名の勢力の作った既成事実に喘(あえ)ぎ追従していかざるを得なかった」(『現代政治の思想と行動』未来社 111頁)。 今となっては「八年戦争」の真の解明の糸口は二つしかないように思える。 第一は、この「八年戦争」の国家の最高意思の決定における唯一の総理大臣である近衛文麿そのものを追及すること、それが正道であろう。 この第二は、この「八年戦争」について敗戦前に体系的に論じたかなりの文書を遺(のこ)した共産ロシアの工作員・尾崎秀実を研究することであろう。 朝日新聞社出身の尾崎秀実とは、近衛文麿のブレーン中のブレーンであるとともに、共産ロシアの「ゾルゲ機関(細胞)」の最高メンバーとして、その主任務たる諜報(ちょうほう:インテリジェンス)でも十分以上の働きをするほか、日中戦争の拡大(講和阻止)、「南進」誘導……など「八年戦争」のすべてではないが、その多くをデザインした日本隋一の「脚本家」であった。 また、天才的な扇動家であった。 つまり世界史上まれな屈指のスパイであった。「大東亜戦争と『開戦責任』」 中川 八洋 弓立社
2013年12月17日
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サン=フェリペ号事件当時、秀吉による明と朝鮮の征服の試みが頓挫し、朝鮮・明との講和交渉が暗礁に乗る緊迫した国際情勢で、それ以前の1591年に原田孫七郎はフィリピンの守りが手薄で征服が容易と上奏、入貢と服従を勧告する秀吉からの国書を1592年5月31日にフィリピン総督に渡し、1593年には原田喜右衛門もフィリピン征服、軍事的占領を働きかけ、秀吉はフィリピン総督が服従せねば征伐すると宣戦布告ともとれる意思表明をして、豊臣政権はアジアにおけるスペインの脆弱な戦力を正確に把握していました。豊臣政権がフランシスコ会への態度を硬化させた原因は、デ・オランディア(またはスペイン人船員)の発言を高度な情報分析能力のあった奉行とその報告を受けた秀吉が真実とみなしたからです。
2024年12月16日
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毎日新聞の浅海一男が戦時中に書いた 与太記事「百人斬り」はその後、 朝日新聞の本多勝一が検証もしないで もっと憎々しげに脚色して紙面に載せた。 両少尉(しようい)の遺族が この二つの新聞のいい加減さを訴えたが、 最高裁は朝日が提出した望月五三郎の 『私の支(しな)那事変』にぞっこん惚(ほ)れ込んで 「百人斬り」はあったと判示してしまった。 野田少尉の下にいたという望月某は、 実は本多勝一並みにいい加減で、 こう書いている。 「野田少尉の命令で」支那人農民を引き据える。 少尉が軍刀を一閃(いつせん)させ 「首が飛んで胴体ががっくり前に倒れる。 首から噴き出した血の勢いで 小石がころころと動いている。 目をそむけたい気持ちも 少尉の手前じっとこらえる」と。 ところがちょつと調べると望月某はその当時、 野田少尉の部隊にはいなかった。 何より打ち首で 「胴体ががっくり前に倒れ」ないことは前述した通り。 小石ころころは創作が過ぎる。 朝日新聞はこんな見え透いた嘘(うそ)でも 今の最高裁の無能な判事なら騙(だま)せると読み、 そして読み通りになった。 最高裁の上に再考裁が要る。 (二〇〇七年八月三十日号)「オバマ大統領は黒人か」 高山 正之 新潮社
2017年02月15日
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