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日本は列強の帝国主義からの自衛上、やむなく日清・日露戦争を行なったのです。ロシアは露清の撤兵条約にもかかわらず満州からの撤兵を渋ります。列強環視の中、日英同盟に対して露仏同盟をもって対抗したのです。日本の戦運は予想以上によく正確な戦略的判断により、陸の奉天大会戦、海の日本海海戦の勝利によって日露の戦は終りました。日露戦争の真の意義は唯単に日本が勝利したことにあるのではありません。日本史的に言えば、この戦によって日本は独立国家としてのゆるぎない地歩を世界に認めさせた。アジア史的に言えば、欧米支配下にあったアジアの被圧迫民族に独立解放への自信と勇気を与えたのです。更に世界史的に言えば、近代に於て有色人種が白色人種に自己主張を行い、見事にこれを貫徹した最初のケースであった。人類史的に言えば、人種の色による差別撤廃への第一歩でした。この歴史的な大きなうねりは、日本の若者の鮮血によってあがなわれたのです。露満国境を画する黒竜江の線に於て、支那が断乎ロシヤの南下を拒否しませんでした。鴨線江の線に於て朝鮮民族がロシヤの南下拒否に決然身を挺することもありません。残念ながら彼等は一歩も動かなかった。流されたのは日本の若者の血であり、日本の若者の死を決した営為は歴史を動かす大きなうねりとなったのです。
2026年04月24日
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北清事変における北京の籠城戦での芝中佐の防御計画、戦闘指導によって南城壁、イギリス公使館、ドイツ公使館は危急を救われ全籠城軍の最も頼りとする守りの主柱でした。柴五郎は日本だけでなくイギリス、ロシア、フランス、オーストリア、ドイツ、イタリア、ベルギー、スペインなど多くの国の政府から勲章の授与があいつぎました。これを機会に、駐日公使のマグドナルドは日英同盟の原案を示しました。
2026年04月22日
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一九〇九年四月、米国は英独仏による湖広鉄道借款計画を知りました。タフト政権はこれを重視し英国と清国に計画への参画を要求しましたが、一九〇九年六月英国がこれを拒否し、清国も無視しました。日本もこの計画に関心を強めました。北清事変後にロシアの南下に直面した日本は、日露共商か日英同盟かのいずれかを選ばねばなりません。孤立を誇った英国もロシアの南下を防ぐのに日本と結ぶ必要に駆られて日本と同盟を結ぶに至ります。同盟締結には北清事変における柴中佐の活躍も大きな影響を与えました。
2026年04月21日
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北清事変の危機にあたって北京にあった各国外交団は、義和団の包囲の危機に対し連合軍を組織し、日本もこれに出兵し北京を陥れました。清国は翌年、議定書を結び1・責任者の処罰、2・賠償金の支払い、3・各国公使館への守備兵の常置、4・通商航海条約の改訂を約束しました。これにより支那の植民地化は決定的になりました。
2026年04月20日
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五月末になると、形勢いよいよ急迫したので、列国は天津に停泊中の軍艦から、居留民保護のためそれぞれ水兵を北京に送りました。その数は各国合わせて士官・水兵四百数十名です。六月に入ると北京・天津間の鉄道が破壊され、北京の外国人は包囲のなかに孤立した。日英露独などの連合海兵二千は、英国司令官シーモアを指揮官として太沽を発し、北京救援に向かったが、義和団は銃弾の雨の中をものともせず、弾があたっても死なないと信じて猛進し、大胆な突撃をおこなって陸戦隊を立往生させました。この間に天津居留民も義和団の包囲にあいました。北京でも各国の護衛兵と義和団との衝突が見られるようになるが、清国官兵はこれを傍観しているだけでした。ところが六月中旬、業をにやした外国軍艦が天津の清国砲台を砲撃し、日本兵が先頭にたってこれを占髄すると、清朝の態度は急速に硬化しました。義和団を積極的に利用し、国民を鼓舞し、国を挙げて侵略諸外国と戦う決意を固め、突然、開戦の詔を発したのです。
2026年04月10日
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義和団がいよいよ北京に迫った五月の末、北京公使団は大括沖合に停泊中の各国艦隊に救援軍の派遣を求めました。五月三十一日、各国艦隊は第一回援軍約四百名を北京に送りこんだ。続いて、第二回増援軍二千五十五名を、英国極東艦隊司令長官E・シーモア中将の指揮下に編成し、六月十一日、天津から列車で北京に向けて出発させることにしました。その報告に接した各国公使館は、増援軍は途中、鉄道破壊の個所だけは歩いてくるのだろうとの見込みをつけ、十一日早朝、北京城外の馬家舗駅に出迎えを出しました。しかし、四時間待っても着かなかったので、一同は諦めて引き揚げました。日本からは軍艦・笠置の陸戦兵が四百名乗る予定になっていました。この日の午後三時、西は再び杉山を迎えに出したが、他の公使館は二度目の迎えはもう出さなかった。杉山は清国人のお伴を一人つれて馬車で出かけ、途中、永定門を出たところで、百名くらいの清国騎馬兵がたむろしているのに出会った。不運な出会いでした。通り過ぎて行く杉山を馬で追いかけてきた清国兵数名が彼を馬車から引きずり下し、引き立てていって斬り殺したのです。
2026年04月09日
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一九〇〇年北京の空気は異様に熟していた。山東省の一画で蜂起した義和団が、北京に刻々と迫っていたからです。六月十一日(月)モリソンは北京外人クラブにいた。ロシア公使館のクルペンスキーが興奮して入って来て……「日本人が殺された」といった……急いで外にとび出した私は、ジャン・ルノードにぶつかった。ルノードは「外国人が一人、永定門で首を半分切り落されて倒れている」といった。モリソンはアメリ公使館に急いだ。そこへ杉山に同行した馬丁が、息を切らせて駆けこんできた。西門から命からがら逃げ戻ってきたという。永定門は閉ざされたとのこと。このニュースは楢原(陳政二等書記官)が確認した。殺されたのは杉山彬。四十歳の日本公使館員で、通訳をするため使いに出されていたのだ。私は今朝、彼が出て行くところを見た。山高帽に燕尾服というまるでパリを訪問する時のようないでたちだったので、からかってやったことが頭をかすめる。日本の公使(西徳二郎)は遺体収容をしなかった。先ほどの報告によると、遺体は切断され、心臓はえぐり出されて董福祥のもとに送られたとのこと。私の清国人ボーイは「死体が半分むき出しになっていて、子供たちが棒でつついているのを見た」といった。
2026年04月08日
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アメリカは立ちおくれてではあったが、一八九九(明治三二)年太平洋の拠点となるハワイを合併し、翌年九月には国務長官ジョン=ヘイが清国の領土保全・門戸開放・機会均等主義の名のもとに門戸開放主義を各国に宣言してアメリカ独自の立場をたてた。かくて三国干渉の後わずか三年足らずの問に清国の要所は事実上列強に分割されてしまったのである。この列強の侵略に対して清国の民族的な反抗が急激に高まって、同年山東省の一角に起った義和拳(義和団)の暴発は「扶持城洋」のスローガンのもとに熱狂的な排外運動を起して、翌年春には直隷から天津・北京附近に迫り、ついに北清事変の勃発となったのです。
2026年04月07日
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すでにイギリスは幕末以来清国の一角に根拠地を獲得し、またロシアは北方から南下しつつあった。日清戦争後の三国干渉を契機に列強の清国分割に対する活動は熾烈化して、ロシアは一八九六(明治二九)年日本と議定書を交わしながら(この年山縣有朋がロシアにおもむいてロシア外相ロバノフと朝鮮問題について協商を遂げた)、一方、清国に迫って霹清密約を結んで、東シ鉄道の南満支線敷設権を得たが、これは要するに日本に対する攻守同盟であった。ついで日本に代って旅順-大連を租借している。ドイツは、膠州湾の租借権その他を、フランスは広州湾の租借権その他を、またイギリスはロシアの南下を防ぐ名目で威海衛・九竜の租借権を得ました。
2026年04月06日
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桂内閣の出現は藩閥政府の更生であった(明治三四年六月成立)。しかしその翌年には、日英同盟を締結して外交上の功績をたて、議会対策には、政友会と妥協を策して海軍拡張のために第二次山縣内閣の五カ年期限付の地租増徴の延期をはかった。これは桂内閣の死命を制する問題であったが、はたして伊藤は大隈と共同戦線を張って政友・憲政本党両党が反対の旗色を明らかにしたので、政府は窮地におちいり、桂は解散を行ったが、結局伊藤との妥協がなって、地租増徴継続案を撤回して、海軍拡張の財源は行政整理と公債政策にもとめることに変更し、かろうじて議会を切りぬけた。しかし桂は、伊藤が元老と党首の両刀を用いたことに苦しんでついに辞表を提出し、そのあげく伊藤は政友会総裁を西園寺公望にゆずって枢密院議長となった。政友会はこの更迭によって陣容を改めたが、各政党も多年の政争に疲労していたところに日露戦争が勃発して、一時政治的休戦の時期に入った。
2026年04月03日
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多くの支那人の目には、外国に対して利権を譲渡する政府の行為は国益を裏切るものとうつった。こうして満州王朝清の転覆と、純粋に支那人からなる愛国的な政府の樹立をめざした秘密結社が、ことに学生やその他の青年グループのあいだで急速に拡がりはじめた。一八九八年に皇帝が短期間ながら試みた急進的な改革が、みずからの特権的地位を失うことを恐れた満人廷臣らの妨害によって失敗におわったとき、この革命的なナショナリズムの理念は新たなはずみをつけた。支那という国の無力さに対して、もうひとつ別の形での激しい対応が生まれた。それは極端に排外主義的な半秘密結社義和団による暴動という形をとった。そのメンバーは西側の人々から「ボクサー」と呼ばれたが、理由は彼らが拳法を修得し、それを武器にしていたからであった。義和団が宣教師をはじめとする憎むべき外国人たちをつぎつぎと襲撃するに及んで、西欧列強諸国は連合軍を組織して北京を占領し(一九〇〇年)、くわえられた損害に対する賠償金の支払いを支那側に認めさせました。
2026年04月02日
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