2021年08月24日
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カテゴリ: ファミリー



十六)不思議な聾唖の炊事係り「哀しき夕陽、作者 能瀬敏夫」より

 気がついたのは、荒野を走るトラックの上であった。トラックの振動が私の中の不思議な世界を呼び戻してくれたようである。爽やかな風が流れ、目の前に居るのは白い作業衣に見覚えのある炊事係りの姿であった。
 足のくるぶしがひりひりと痛んだ。
 彼はほっとした表情で息を呑むと、しきりに手真似で何かを告げようとする。私のズボンが破れて血が滲んでいるが、耐えられない程の痛みではない。
 私はどうもこのトラックで帰途についているようである。炊事係は手真似で、しきりに何かを訴えるが私には通じない、目と目が語る不思議な会話であった。
 診療所に直行して、傷の治療と形通りの診察を受けたが、結局はかすり傷程度のものであった。
 炊事係は終始私に付き添って、トラックからも抱き抱えるようにして、医師にも手真似で懸命に説明をしている風であった。
 然も、東北出身らしい年老いたこの日本人医師には、どうも炊事係りの手真似の意味が通じているようであった。
 所謂手話であろうか、私はその時初めてこの炊事係りが聾唖者であることを知った。
 日本人医師の機転の利いた申し出で、私は翌日の作業を免除された。
 ところが翌日、診療所の治療を終えて宿舎に戻ると、それを待ち受けたように民主連盟の連中が訪れてきた。
 宣伝用の文集を作ってくれ、というのである。
 情報は全て情報係将校が掌握しているが、
それに密着して、最近特に活動を活発化しているのが日本人民主連盟の連中である。
 この収容所に掲示される壁新聞も、露骨にソビエトを称え、反動打倒の激しい文字が躍っていた。
 従って、日本の資本主義が如何に労働者を虐げてきたか、資本主義国家の中の哀れな労働者の生活等を文集に盛り込んで回覧しようと言う訳である。
 その文集作成の対象に私を選んだのは、どうもハルピン時代からの、ソ連独特の情報網の優れた一面だろうと思う。
 要するに、如何に現在のソ連邦が素晴らしい民主的国家であるかと云うことを、このチャンスに、日本人捕虜全員に植え付けておこうと言う訳である。
 頼まれればやらざるを得ない。ソ連政治部に後押しされた、にわか民主主義者には辟易するが、シベリアに居る限り如何ともし難いのである。
 一日掛りで宣伝文句を書き上げて壁新聞を掲示した。
 石切山の作業に復帰して、一週間位を経て三点程の原稿が届けられた。
 一点は、元満軍の将校らしき人物からの投稿で、関東軍の支配下にあった満軍将校の悲哀を書いていた。
 二点目は開拓団出身者による作品で、軍の支配に対する民間人の惨めさを、本人の体験に基づいて綴ったものの様であった。
 そして他の一点が、聾唖者炊事係の作品であった。
 内容は、戦前日本にあった「たこ部屋」と称する施設について書いたもので、労働者を特殊な施設に閉じ込めて労働を強いる、棒頭と称する幹部によって仕切られ、一度この施設に入ったら、途中で逃げ出すことは殆ど不可能だという。夕食時には必ず酒を与え、その後は博打に興ずるから、それらの経費は全て賃金と天引きされて、何時まで経っても脱け出せない、自らを食べながら生き続ける、という意味で「たこ」と称するのだと言う。
 私はこの原稿を見て咄嗟に思い出してしまった。幼少の頃私の村にも確か「たこ部屋」なるものがあった。村外れを流れる献上鮭で知られた西別川の橋梁工事の時である。
 河のほとりに出来た飯場と称する建物が、所謂「たこ部屋」そのものであった。たまたま逃げ出すものがいると、周囲の住民は、囚人の脱走者のように怯えたものである。
 炊事係の作品は、その辺を資本主義者の本質として鮮明に描写していたから、私もこれなら政治部将校が喜びそうだと感じたものである。と、同時に、私の中に新たな疑問が湧き上った。
 あの炊事係は、戦前いったい何者だったのであろうか、
 そんな時、この薄暗がりのラーゲルの中で
小さな事件が持ち上がった。
 隣の組の幹候上がりの兵長が、分配中のパンの一切れを盗んで捕まったと言うのである。
 夕食の分配は、既に暗くなったゼムランカの中で、油を垂らした可細い火芯を頼りに行うから、正に手探りの状態である。然もみんなにとっては、一日中で最も大切な時間でもある。
 とうじつの当番が、円い黒パンを出来るだけ平等に切る。その一切れづつを天秤に掛けて軽量して加減する。更に計量を終えたパンの夫々に番号札をおく、今度はその番号を引くための順番を決めるクジを引く、そして最後に、番号を頼りに自己責任による一切れの貴重なパンを得ることが出来るのである。
 ところが、何せ薄暗い手探り状態の中での作業である。
 突然暗がりからぬうと手が伸びて、パンの一片を握って逃げたというのである。
 勿論直ぐ捕えられたが、あきれ返る程幼稚な行動である。
 ところが、捕えてみればその犯人は、軍隊時代は幹部候補生として将来を嘱望された音大出身のインテリだというのである。
 ラーゲルの二段になっている構造の、下の段の、更に下に身を潜めていたのである。
 本人は当然その成り行きを予想しているはずなのに何故、と、思うのは今の時代の常識で、当時はそれ程食への願望が強烈で、常識のバランスが少しでも崩れると、誰もが同じ行動を取りかねない状態にあったのである。
 その組長は止むを得ず罰として、彼に無期限の便所掃除を命じて、組員への見せしめにしたようである。
 通常通り作業に出て、泥のように疲れて帰り、ほっとする間の貴重な時間を奪われるのである。
 冬の便所は瞬間冷凍するから、つるはしで砕き、手押し車で運んで捨てる。
 その後数日間は、作業から帰ってラーゲルに入り、ふと、表に出てみると、便所作業を強いられた弱々しい彼の姿が、ひょろひょろと手押車を押しているのが目についた。
 ところが、心身共に参って早晩根を挙げるだろうと思った彼の作業は、意外にも忠実に、指示通り実行されているようであった。
 私はむしろ不思議に感じてしまった。
 彼は、作業を終えて、手押車を逆さに立掛けると、疲れた足取りで自分の定位置に戻り、
他の仲間と同様に夕食の分配を待った。
 私にはどうしても不思議でたまらなかった。
あの体力で、過酷な作業が遣り通せるとはとても信じられなかったからである。
 ところが、私は意外な事実を知ることになる。彼の罰作業を伝え知った例の炊事係が、密かに彼を招き入れて、お握りを与えていたというのである。
あの米で作られたおにぎり、彼の表情が意外に明るいのも、寒さの中の罰作業を平然と遣り遂げているらしいのも、聾唖者炊事係の助けによるものであることが判った。

(シベリアへの抑留、極寒の地での凍土と病いとの戦い。生き抜いた者達へ渡された
「帰国の途」という切符とは・・・チチハル陸軍病院経理勤務、そして終戦。ハルピン
への移動・・・、病院開設・・・。傷病兵、難民で施設はあふれ、修羅場と化した。
「哀しき夕陽、原作 能瀬敏夫」)

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最終更新日  2021年08月24日 13時04分48秒
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