2023年07月15日
XML
カテゴリ: ファミリー




母方の祖父は 日本の心電計に
おいての父であり 肺機能機器
(スパイロ)などでも その爪跡を
残しては
黄綬褒章(おうじゅほうしょう)も
頂いている

とても 謙虚で いつも 朝から
晩まで 常に工場に籠っては油まみれで
新しい技術に目を向けて
自ら旋盤やマシニング、ボール盤や
研磨機、真空ポンプなど 各種の
工作機器を使って ときには独自の
工作機械を自ら作り出して新しい
製品の探求心に燃え続けては 亡くなる
間際まで 汎用機旋盤を動かして
開発に勤しむ男だった

祖父を語るには まず祖母との
関係性 なり染めから話す必要が
あるだろう・・・

まず 祖母は
千葉県の印西市の発作(ほっさく)の
となり木下(きおろし)の出身と聞いている
祖母の父は広い農地を持った 地元の
名手で 「福田ぎゅうざいもん」の名は
知る人も知るほどにその地に轟いていた
そうである 
(昔 発作から背中に荷物を担い来ていた
行商のおばさんや印西の老人ホームの官庁さんと
話した時の受け入りも混ぜての話しだが!)

祖父は その分家の生まれで
兄弟も多く 家計は貧しかったようで
丁稚奉公(でっちほうこう)して経済を
支えていたようだ
(昭和に上野聚楽レストラン下の上野百貨店
(西郷会館)内にあった稲荷寿司店は丁稚奉公時代
から少しの小遣いでよく食べたと言っていた)

私は昔 祖母からこんな話しを聞いたこと
がある
子供の頃から 祖父は祖母が好きで
祖母が行くところ何処でも後ろを金魚の
フンのようについて歩く子供だったそう
である 
そして ある日こんなことが有ったことを
懐かしそうに話す祖母の笑顔は忘れられない 
シワシワの頬を少し赤らめて話し始めた

「私は お転婆で
木登りが上手だったの お爺ちゃんは何時も
登れなくて いつも木の下から私を見上げては
「何が見える」とか「危なくない」とか
声をかけてきたの」 という
祖母は そんな祖父に 一度 しつこいから
上から放水をかけたことがある と 
目尻にシワをよせ話していた

そんな 祖母と 祖父は 本家と分家の
許されない結婚に 駆け落ちして東京に
出て 生活を始めたのだと言う

祖母の本家は当初とてもお金持ちだから
祖母の母は 畳 一面に敷き詰める程の
お金をこっそりと持たしてくれたらしい
(当時 祖父母が住んだ部屋は
どのぐらいの広さかは知らないが畳4枚5枚の
場所だったようだ!)
でも、其れを祖母は祖父に伝えることも無く
イザという時の蓄えとして取っといたのだが!!
住いの火事で全て燃えて失ったと聞いたことがある
(宵越しの銭は持たぬ そんな祖母だった)

それでも 先見の目と度胸があって 不動産等
商売は上手だったと思う

祖父は 医療機器メーカー(酒井医療だと思う)に
その時に勤め始め 医大へと通い
(順天堂医大らしい?)
夜間は電機大(東京電機大)へと通いして 
知識を深めて行ったようである
(年齢層の異なる夜間の東京電機大では120パーセント
学んだとよく語っていた。)
(私も東京電機大学電機学校だが校長先生と飲む機会が
あり 話したら福田親族の関係性をよくご存じで
驚かされた。 「日本のフクダ関連会社が一つになって
医学に取り組んでいたら日本の医学は格段に世界を肥えた
だろう」と話していたのを覚えている)

そして東大医学部の教授との出会いが
運命を変える
心電図の開発へとの入口になったようである
祖父に聞いたところでは

うる覚えではあるが
ドイツの心電図を見せられ 開発を初め
医学も学んだ祖父には その機械の欠点が色々と
見えて来て改良を加えたと聞いている

祖父が言っていたが 
長くお世話になっていた会社に恩返しの為もあって
心電計を作ったが 其処の社長は
「福田が努力して完成させたのだから この機械を
育てるのも福田がやりなさい」と言われて自分の会社を
上野に立ち上げたそうである
(こんなようなニュアンスの言葉だったと思う?)

その間に
五人の子供を授かった

完成後 権利を手放し福田正さんは
心電計の権利を兄弟の為に分け合って 
兄弟たちが心電計を作るようになったと
私は聞いている

祖父はその後 肺機能機器の開発に勤しんだ
祖母もまた とても言葉の巧みな性格で
身分の上下関係無く話しや言葉を使い分けられる
人で 女優の 朝〇雪路さんの初めの旦那お医者様
との時代には 朝〇雪路事務所も経営していたり
伊〇深水さんにも 走り書きで絵を書いて頂いた
ようだけど それも今となっては何処まで
本当か知る由も無い話しである
(是非 親子画家三世代
「伊藤深水」⇒「勝田深氷」⇒「滝島十六」の展示会が
見て見たいものである。)

祖父は 晩年 新しい 肺機能機器(スパイロ)とは
別に 圧力トランスジューサの開発に力を
注いでいた
悪戦苦闘し
ステンレスで出来たゴッツイもので外気に影響されない
センサーとしては選りすぐりのもので
性能も自称 海外の製品を上回るほどに
安定したものが最終的には出来ていたと思うが
直後に 半導体センサーが売り出され コストの面でも
新製品という話題性でも そちらが注目されて
研究を続けるだけで 販売を諦めてしまった
(新しもの好きの日本人にはステンレスでゴッツイ時代遅れ
的なセンサーは 愛用できるセンサーとしては
受け入れられなかったのである) 

最後には
私に残して下さるつもりの技術だと思うが・・・
当時の私は 世界が介護に感心を持っていて
介護用品も新しいモノが立て続けに出る
開発期で 介護用品の方へと魅力を引かれて
病院 医院 クリニックや企業医療室にペット病院まで
新しい話しを持って行く事に興味を持っていた

(当時は入浴器の設計段階の相談や 車椅子 衛生材
 病院オリジナルの紙おむつの相談にまで載っていた
弟は 杖と車椅子 ベッドに興味を持ち働いていた)

そして 圧力トランスジューサの資料は全て破棄して
しまったのである
祖父への半端な反発もあったのだろうか?
設計図は 私が火の中に投げ込んだのである
今も夢に見ることがある 祖父が何度も
アメリカの工場に見学に行き開発したのをしりつつも!
(後悔先に立たず だな) あの技術が世にでていたら
アメリカ製よりコスパだったし 心電計の
初期のように大きな変化か??
導き手となったかもしれないと今は思う

祖父の自作の工作機器も凄かった
見る人は 皆 驚きと感動を語っていた

そんな祖父母は 祖母が寝込むと
祖父も寝込み 祖父が亡くなると祖母がそれを
追いかけるように亡くなった
福田正 大正1年生まれ 2005年永眠
福田秀代大正2年生まれ 2005年永眠

何年か前に私は草津のハンセン病施設の角で
だったろうか? 福田の旧式の機械を見た
記憶が残っている
その後 コロナ過に入り いつの間にか施設も
新しくなったようで 今はどうだかわからない
が・・・ 2023年7月01日
また聞きのところもあり フェクション的ようそも
ありますが ひととなりは大凡こんな感じのひと
でした・・・

日本に初めてシーメンス社製の写真記録式心電計が輸入されたのは明治44年(1911年)。東京大学などで研究が行われました。昭和3年(1928年)にはシーメンス社が三極真空管を使用した心電計を開発しました。国産初の三極真空管を用いた心電計は昭和9年(1934年)、酒井医療の福田正によって作製されました。
(印西市印旛医科器機歴史資料館HPより)

にほんブログ村 ブログブログへ



オリュン教会日本語礼拝2023/5/23「愛に突き動かされて」能瀬 熙至 神学生
https://www.youtube.com/live/T_2LnMttvI0?feature=share



【賛美】主の計画の中で
Seekers (Within Your Plan
주님의 계획속에서
https://www.youtube.com/watch?v=NjUEbhpxJYE&feature=youtu.be



【賛美】いつもいつまでも
Seekers (Always
andForever
항상영원히까지
https://www.youtube.com/watch?v=MsfDBkdK3XQ&feature=youtu.be






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

最終更新日  2023年07月15日 14時56分30秒
コメント(0) | コメントを書く
[ファミリー] カテゴリの最新記事


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.

Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: