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『サル化する世界』以来、久しぶりに内田先生の著作を読みました。 単行本は2020年刊行。 『GQ JAPAN』という月刊誌に2016年7月から2020年6月まで掲載していた 「人生相談」コーナーをまとめたものです。 ですから、最初のものはもう今から8年近く前の話になります。 東京五輪もコロナもまだ始まっていない頃の話です。(p.3)これは本著冒頭、「文庫版のためのまえがき」の一部です。内田先生がこの後述べているように、今となっては「そんな昔の話」です。でも、安倍政権を強く批判し、コロナ対応に疑問を呈し、東京五輪開催には反対……その当時、内田先生が社会をどうとらえ、どう考えていたかが、よく伝わってきました。文庫版特別付録対談として掲載されている「心地よい、新しいコモンについて語ろう」では、東京大学大学院准教授の斎藤幸平さんをゲストに迎え、「日本共産党」や「マルクス」についてを皮切りに、大いに語り合っています。その中で、内田先生は次のように述べています。 コミューンには共有地(コモン)があって、人々は自由にそこにアクセスして、 共同体の富を分かち合うことができた。 貧しい人でも、共有地で牧畜したり、魚を釣ったり、狩をしたり、 果樹を採取することができた。 ですから、「コミュニズム」という言葉を採択したときには、 マルクスには帰趨的に参照すべき原点としてのコミューンというものが はっきりイメージされていたと思うんです。 その現代的形態をどうやって創り出すか、 それが「コミュニズム」の課題だったんだと思います。(p.290)それに先立って、「まえがき」では次のようにも述べていました。 僕がこの本で訴えている「コモンの再生」は、 思想的には「囲い込み」に対するマルクスの 「万国のプロレタリア、団結せよ」というアピールと軌を一にするものです。 グローバル資本主義末期における、市民の原子化・砂粒化、血縁・地縁共同体の瓦解、 相互扶助システムの不在という索漠たる現状を何とかするために、 もう一度「私たち」を基礎づけようというのです。(p.15)こういった内田先生の現在の立ち位置をしっかりと踏まえたうえで、本著は読まれた方が良いかと思います。
2024.06.29
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著者は関学大法学部・言語コミュニケーション文化研究科教授の大東和重さん。 本著は、「日本人が見た、日本語を通じた台湾」「地方から見た台湾」 そして「台湾と関わる人々の声に耳を澄ます」という3つの視点を組み込んで、 台湾の土地と人々の間により深く分け入るための道標となることを目指した一冊。 ***まず、「第1章 離島と山岳地帯 - 台湾の先住民族」では、民族学者・國分直一の離島・蘭嶼(らんしょ)に始まる民族調査と先住民族について、「第2章 平地先住民の失われた声 ー 平埔族とオランダ統治」では、作家・葉石濤の連作小説『シラヤ族の末裔』へと繋がれた探索のバトンについて語られます。次に、「第3章 台湾海峡を渡って ー 港町安平の盛衰と鄭成功」では、佐藤春夫の「女誡扇奇譚」の舞台・安平と台南と、鄭成功の生誕の地・平戸について、「第4章 古都台南に残る伝統と信仰 ー 清朝文化の堆積」では、「台湾随想」や『〈華麗島〉台湾からの眺望』等を参照しながら、台南市街の様子が語られます。さらに、「第5章 日本による植民地統治 ー 民族間の壁と共存」では、台湾総督府による統治と抗日運動、そして台北の街並みや台湾人の生活の変化について、「第6章 抑圧と抵抗 ー 国民党の独裁と独立・民主化運動」では、「光復」と「解放」、本省人・外省人の対立と二・二八事件、蒋経国について語られます。そして、「終章 民主化の時代と台湾」では、著者が初めて台湾を訪れた1999年9月の様子が語られます。巻末には「台湾歴史年表」(1662~2016年)と共に、18頁にも及ぶ「読書案内 - 台湾の歴史と文化を知る」が掲載されています。本著「はじめに」で著者が記しているように、台湾の歴史を知りたい人には、『図説 台湾の歴史』等の方が適しているかもしれません。本著は、そういった書物を手にし、基本的な知識を身に付けてから読んだ方が、味わい深く楽しめる一冊のような気がしました。『台湾の日々』しか読んだことのない私には、少々手強かったです。
2024.06.16
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先日、朝ドラ『虎に翼』を見ていて、帝人事件に興味を持ち、 本著を手にしましたが、本著はあくまでも「小説」。 贈収賄事件の物証として主役となるべき株券がスイスの地下大金庫で見つかり、 かつての上司から依頼を受けた「私」が、調査を進めていくという設定です。 ただし、事件に関わる人々は実名で登場、その主軸となるのが河合良成。 郷誠之助との出会いや、日本相場史上空前の大策士・天一坊こと松谷元三郎との激闘、 番町会設立と永野護、伊藤忠兵衛、岩倉具光、正力松太郎、渋沢正雄らとの交流、 「鈴木商店、東京の番頭」と呼ばれた福原憲一との帝人株を巡る攻防等が描かれていきます。どのエピソードもリアリティに溢れ、とてもスリリングなものですが、鍵を握るのは、福原憲一と東京地検主任検事・黒川悦男、河合良成、小林中、そして、この作品のためのキャラクターであるステファン・デルツバーガーです。が、この作品はあくまでもフィクション、実際の帝人事件の真相は未だ闇の中です。
2024.05.06
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先月読んだ『ルポ 高学歴発達障害』の中に本著の名があり、 今回、読んでみることにしました。 本書は、昭和時代の片田舎で生まれ育った一人の精神科医が、 過去の片田舎と現代の東京を行き来しながらこれらの変化を振り返り、 これからの社会の自由や不自由について論じたものだ。 と同時に、社会の進歩によって解消されていった生きづらさと、 新たに浮かび上がってきた生きづらさを点検し、 そうした点検をとおして令和時代ならではの社会病理をラフスケッチし、 物語っていくものでもある。(p.5)この「はじめに」の一文を受け、「第1章 快適な社会の新たな不自由」では、現代社会に対する著者の問題意識がダイジェスト的に紹介されています。例えば、全ての者にハイクオリティが期待される風潮について、次のように述べています。 IQ70~84の境界知能は、その統計的定義から言って全人口の1割以上が該当する。 実際問題として、これらの人々をまとめて医療や福祉が背負うのは、 今日の制度下では非現実的だろう。 とはいえ、社会がますます美しく、ますます便利で、親にも子にも就業者にも、 サービスの提供者にも消費者にもハイクオリティが期待される風潮のなかで、 最も割を食いやすく、最も搾取されやすく、 にもかかわらずサポートの対象とされにくいのは彼らである。(p.35)続いて、第2章「精神医療とマネジメントを望む社会」では、メンタルヘルスの診断基準に、資本主義的プラグマティズムが関わっていることに言及。 いわばこの、お金によって傷つき、お金によって癒され、 家庭でも学校でも医療機関でも資本主義と個人主義と社会契約がついてまわる社会のなかで、 精神科医もカウンセラーもソーシャルワーカーも、 この壮大なシステムと思想を当然のものとみなし、日常業務のなかでは意識すらしない。 彼らは、いや私たちは、そうしたシステムにそぐわない思想、 システムからはみ出した言動に出くわした時、 それらもまた多様性の範疇とみなすことができるものだろうか? それともやはり、秩序からのはみ出しとして、 つまり症状や疾患として取り扱わずにはいられなくなるのだろうか?(p.83)そして、第3章「健康という”普遍的価値”」では健康は、ブルジョワ的上昇志向の手段や、個人主義的自己顕示の意味合いをもち、現在では”普遍的価値”のひとつとみなされ、資本主義的プラグマティズムと結びつけて、自己目的化していると指摘します。さらに、第4章「リスクとしての子育て、少子化と言う帰結」では、子育ての難しさもこれらと無関係ではないと指摘します。 昭和時代には健康の範疇からはみ出していなかった人が、 今日ではADHDやASD、あるいはその他の精神疾患に該当するとみなされ、 社会や世間から不健康であるとみなされる可能性は少なくない。(中略) これとは正反対に、医療の対象とみなされていた、 つまり不健康とみなされていたものが不健康ではなくなる、 いわば脱-医療化することもある。(中略) もともとは同性愛を、「社会病質のパーソナリティ障害」としていた アメリカ精神医学会の診断基準(DSM)は、1973年の改定で、 「主観的苦痛を伴わない同性愛は治療の対象ではない」と診断基準を改めた。(p.111) この子育てのブルジョワ化の内実は、 「ブルジョワのような通念や習慣に基づいて子育てを考え、 ブルジョワのように働くけれども、 実生活や子育てをブルジョワのようにアウトソースできず、 自分自身でやり遂げなければならない人々」を増大させるものだった。 昭和時代の日本を含めた20世紀の先進国では、 専業主婦が増えたことでこの問題はいったん棚上げされた(p.155)第5章「秩序としての清潔」と第6章「アーキテクチャとコミュニケーション」では、清潔にまつわる習慣や通念、プライベートな個人生活とそのための空間設計についても、そのルーツは中~上流階級に遡ることができると指摘します。 1980年代の新人類たちはモノやレジャーの消費をとおして 自分たちのヒエラルキーを競いあっていたが、 令和時代の私たちはそれよりもずっと淡々と、ずっと当たり前のこととして、 お互いを値踏みしあい、お互いを商品とみなしあい、コミュニケーションのような売買を、 あるいは売買のようなコミュニケーションを行っている。 就活や婚活のコミュニケーションはその典型だ。(p.219)そして、第7章では、次のようにその総括がなされています。”変化”とうものについて、とても考えさせられる一冊でした。 ますます便利で快適、安全・安心になっていく社会のなかで 私たちに課せられている諸条件について、さまざまな角度から検討してきた。 社会が進歩するにつて、私たちに期待される行動や振る舞いが変わり、 それに伴って、私たちがどう自由でどう不自由なのかも変わった。 誰がマジョリティたりえて、誰がマイノリティたりえるのかも変わっただろう。 東京の美しい街並みや令和時代の秩序は、そうした変化のうえで成り立っている。(p.240)
2024.05.06
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副題は「家族が家族を殺すとき」。 著者は『「鬼畜」の家』の石井光太さん。 本著は、現在の日本が抱える社会課題が引き起こした親族間殺人事件を通して、 悲劇を繰り返さないためにはどうすれば良いかについて考えさせられる一冊です。 ***1 まじで消えてほしいわ <介護放棄>は、 同居する32歳の長女と30歳の次女が、64歳の母親を介護放棄の末に餓死させた事件。 姉妹が中学生の時に父親が病死、長女はうつ病になった母親からの過度な要求に反発して、 高校の終わりには家庭内別居状態となり、以後は次女が母親の身の回りの世話をしていました。2 父は息子の死に顔を30分見つめた <引きこもり>は、 元中学体育教師の父親が、懸命にその生活を支えてきた40歳の息子を絞殺した事件。 息子は高校2年生時に、病院で強迫観念・妄想・対人恐怖症があると診断され、 以後、買い物依存、窃盗、母親や妻への暴力行為の末に、引きこもり状態となっていました。 3 ATMで借りられなくなったら死ぬしかない <貧困心中>は、 経営難で借金に追われた男が、母親と一緒に心中を図ったものの自分だけ生き残った事件。 幼少期から父親の暴力に苦しんでいた男は、独立後に母親と二人暮らしを始め、 保険金問題で父親と縁を切ったものの、個人タクシー経営に行き詰ってしまいました。 4 あいつがナイフで殺しにやってくる <家族と精神疾患>は、 資産家家族の43歳の次女が、同居する45歳の長女を殺害した事件。 30代半ばで娘を出産後、心を病んで実家に戻ってきた長女の度重なる暴力で父母は大混乱、 次女は、長女の娘の面倒をみるために夫と別れ、北海道から東京の実家に戻ってきていました。 5 元看護師の妻でさえ限界 <老老介護殺人>は、 77歳の元看護師の妻が、懸命に介護を続けていた5歳年下の夫を刺殺した事件。 夫は2度の脳出血で高次脳機能障害を発症、情緒が極めて不安定になってしまっており、 同居する長男は、夫と血縁関係になかったため、介護には一切かかわっていませんでした。 6 夫の愛情を独占する息子が許せない <虐待殺人>は、 34歳の母親が、5歳の息子をマンションの13階の窓から投げ落とした事件。 母親には窃盗癖や虚言癖が見られ、家事や育児は57歳の父親が担っていました。 やがて、解離性障害や記憶障害も目立ち始め、万引きをくり返し、息子に危害を加え始め…… 7 母は、妹と弟を殺した <加害者家族>は、 社宅で夫や子供たちと4人暮らしをしていた母親が、まだ幼い娘と息子を絞殺した事件。 母親には、もう一人16歳の娘がおり、養子縁組をした母親の姉と一緒に暮らしていました。 その娘は、刑務所収監中から母親と関りを持ち始めますが、やがて絶縁することに。 *** マスコミは警察からの情報でそれを聞きつけ、 資産家の3人姉妹による遺産相続トラブルではないかと報じた。 一時、週刊誌やネットのニュースでも話題になった。 だが、半年後に行われた公判で明らかになった事実は報道とは異なっていた。 そこにあったのは、家族の悲しい物語だったのだ。(p.125)これは、「4 あいつがナイフで殺しにやってくる」の中の一文ですが、2015年に東京郊外で起こった事件ということで、ネットで検索してみると、著者自身によるネット記事だけでなく、当時の記事や書き込み等で、まだ残っているものが多数ありました。その中で、公判前、まだ全貌が明らかでないうちに書かれたものについては、公判後なら、決して書けなかっただろうと思えるようなものもありました。もちろん、こういったことが起こっているのは、残念ながら、この事件だけに限ったことではありません。
2024.04.28
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副題は「愛国と神話の日本近現代史」。 「『戦前』とは何だったのか?」について、 神話と国威発揚との関係を通じ、その正体に迫ろうとする一冊。 著者は、評論家・近現代史研究者の辻田真佐憲さん。 *** 戦前といっても切り口はいくらでもあるが、 本書では、日本神話からアプローチすることにした。 すなわち、大日本帝国を 「神話に基礎づけられ、神話に活力を与えられた神話国家」と定義したうえで、 戦前を5つの神話にもとづく物語に批判的に整理した。 その物語とは、「原点回帰と言う罠」「特別な国という罠」「祖先より代々という罠」 「世界最古という罠」「ネタがベタになるという罠」の5つである。(p.276)「原点回帰という罠」は「第1章 古代日本を取り戻す-明治維新と神武天皇リバイバル」に、「特別な国という罠」は「第2章 特別な国であるべし-憲法と道徳は天照大神より」に、「祖先より代々という罠」は「第3章 三韓征伐を再現せよ-神裔たちの日清・日露戦争」に、「世界最古という罠」は「第4章 天皇は万国の大君である-天地開闢から世界征服へ」に、「ネタがベタになるという罠」は「第5章 米英を撃ちてし止まむ-八紘一宇と大東亜戦争」に、それぞれ記されており、どれもこれもたいへん興味深い内容ばかり。個人的には、特に第3章で多くの新しい発見や気付きが得られ、勉強になりました。 このような物語を否定するのはたやすい。 神武創業の実態は西洋化だったし、 日本人が昔から特別に忠孝を大事にしていたわけでもない。 もとより日本より古い文明はいくらでもあるし、 日本の神々が世界をつくった云々は荒唐無稽というしかない。(p.276)著者は「第6章 教養としての戦前-新しい国民的物語のために」において、このように述べたうえで、次のように続けていきます。 そもそも他人に満点を求める人間自身が満点だった例などみたことがない。 現実的な落としどころは、 日本は6割5分ぐらいよくやったというところにあるのではないか。 日本は問題とされる行動をしたけれども、 全体的にみれば欧米列強の侵略に対抗して近代化・国民化を成し遂げた。 だから、過去の誤りを認めながら、今後よりよい国をつくっていこう。 こういう立場であれば、多少不利な資料が発掘されても、動ずることがない。 たしかに戦前の物語にはいくらでも欠点が指摘できる。 だがそれで植民地化の危機をまぬかれることができたのだから、 一定の評価は与えられてしかるべきだろう。 ただ、それを不可侵にしてしまうとネタがベタになる危険があるので、 35点を引いたわけである。(p.286)冷静かつニュートラルな指摘で、とても共感できる記述。物語の重要性についても、本書全体を通じて伝わってきました。
2024.03.17
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『言ってはいけない』の橘玲さんによる一冊。 本著では、脳科学の知見や心理学の実験結果が次々に紹介されていくので、 著者はその分野の専門家かと思ってしまいますが、作家さんのようです。 読み終えると、久々に付箋だらけの一冊が出来上がっていました。 *** わたしたちは自分をつねに「人並み以上」だと思っていて、 能力のない者が実力を大幅に過大評価する一方、 第一印象で相手を「平均的」と見なすため、 能力の高い者は(相手も同じくらいだろうと思って)自分の成績を過小評価し、 結果として、バカと利口が「熟議」すると悲惨なことになってしまうのだ。(p.66)これは「平均効果」について記された箇所。著者は、このことが民主的な社会がうまくいかない不穏な理由であり、SNS上での対立が、収拾のつかない混乱へと拡大していくことに繋がっているとしています。まずは、ヒトはそういうふうに出来ているということを知っておくことが大切なのでしょう。 決定的なのは2003年、 自らも自尊心の重要性を信じていた心理学者のロイ・バウマイスターが、 自尊心と子どもの成長の関係を調べようと1万5000件もの研究をレビューし、 予想に反して「自尊心を養っても学業やキャリアが向上することはなく、 それ以外でもなんらポジティブな効果はない」という決定的な事実を発見したことだった。 他の研究者による検証でも同様の結果が出たことで、 現在では(すくなくともまともな)心理学者は 「自尊心を伸ばす教育が子供の成長に重要だ」と主張することはなくなった。(p.123)そうだったん……ですか?この件については、世間ではどの程度認知されているのでしょうか?今でも、多くの教育現場では「自尊心を高めること」が良しとされているのでは?「なんらポジティブな効果はない」は、かなり衝撃的です。 近年の脳科学のもっとも大きな発見のひとつは、脳には記憶が「保存」されていないことだ。 脳はビデオカメラのように、起きたことを正確に記録し、 いつでも再生できるようにしているわけではない。 脳にハードディスクが埋め込まれているのではなく、何らかの刺激を受けたとき、 そのつど記憶が新たに想起され、再構成される。 記憶はある種の「流れ」であり、思い出すたびに書き換えられているのだ。(p.257)この記述に関連する「トラウマ治療が生み出した冤罪の山」や「トラウマとPTSDのやっかいな関係」等における事例には、本当にゾッとさせられました。これについても、ヒトはそういうふうに出来ているということを知ったうえで、色々と判断し、考え、行動していくことが大切になってくるのでしょう。
2024.02.12
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2000年に刊行された『ローマ人への20の質問』を全面的に改稿したもの。 当時、塩野さんは『ローマ人の物語』の第9巻「賢帝の世紀」 (文庫版では24巻,25巻,26巻が該当)を準備中でした。 そして、そこで何を取り上げたかについては自信があるものの、 どう書いたかについては、少々なおざりにしたという思いが残っていたため、 今回書き改めることにしたとのことです。 *** アテネ人の考えた<市民>とは、 アテネの領内で両親ともがアテネ人の間に生まれた人間だけを意味していた。(中略) 一方、ローマ人の方は、市民ないし市民権を、アテネ人とはまったく反対に考えていた。 アテネ人の考える市民が<血>であれば、 ローマ人の考える市民とは、<志をともにする者>としてよいかもしれない。(p.110) 人間世界で悪なのは、格差が存在することではない。 格差が固定してしまうことなのだ。 ローマはそうではなかった。 元老院議員の少なくない部分が、 属州民か解放奴隷を祖先にもつと言われたくらいだから。(p.115)何れも、ローマがローマたる所以が伝わってくる記述。普遍帝国として、長きに渡り存続し続けたのも頷けます。 戦闘開始を前にしての降伏勧告は、古代では、戦場でのマナーとされていた。 勧告を受け容れて降伏すれば命も助かり奴隷化も免れるが、 拒否すれば女子供でも戦闘員と見なされ、敗北しようものなら、 財産もろとも勝者の所有に帰したのです。 これは<勝者の権利>と呼ばれ、この権利に疑いをいだく人は、当時は存在しなかった。 殺されようが奴隷に売りとばされようが、 敗者には抗議する権利すらなかったのだ。(p.188)戦闘というものの厳しさを、突きつけられる記述。時代や地域による違いも、当然多々あったのでしょうが。 なぜなら、この法に関するかぎりは、女たちのほうに理があったからだ。 不倫とか姦通は、当事者間で、つまりは私的に解決されるべき問題であって、 公が介入するたぐいの問題ではない。 ローマ人は、私有財産の保護が議論の余地もない大前提であったことが示すように、 <私>と<公>をはっきりと区別する民族だった。(p.220)とても考えさせられた記述。最近、<私>と<公>の区別が、あまりにも曖昧になりすぎているような…… この奴隷制が全廃されるのは、 いかなる宗教を信じようとも人権は尊重されねばならないとした、 啓蒙主義の普及によってだ。 その証拠に、どの国の奴隷制度廃止宣言も、18世紀末に集中している。 古代は、この啓蒙主義よりは2000年も昔。 人間が人間の自由を奪うことへの抵抗感が希薄であったとしても、 それが時代であったとするしかない。(p.186)本著の中で、最も心に残った部分。人類の長い歴史の中では、ほんの一瞬としか言いようがない現在という時を、極めて限定的な地域、文化の中で生きている一個人が、自身の価値観や尺度を当てはめ、異なる時代、異なる環境で生きた人を非難することには、引っかかりを覚えてしまいます。
2023.12.16
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阿刀田さんの『旧約聖書を知っていますか』や 『新約聖書を知っていますか』『コーランを知っていますか』で、 ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の世界には触れたことがありましたが、 ゾロアスター教やバラモン教、ヒンドゥー教は、私にとってほぼ未知の世界。 そこで、世界の宗教の全体像を知るべく、本著を手にしましたが、 島田さんの著作は『人は死ぬから幸福になれる』や『宗教消滅』等、 これまでに何冊か読んだことがあり、馴染みがあったためか、 苦労することなく、スラスラと読み進めることが出来ました。 *** 教団組織が存在せず、教義を実行するかどうかは個人に任されているという点では、 イスラム教は極めて規制の緩い宗教であるということになる。(p.210)私にとって、この部分は本著の中でも特にインパクトが強かった部分。イスラム教には教団組織が存在しないが故に律は存在せず、すべては自発的な戒め。イスラム教徒が豚肉を食べたとしても、それで罰せられることはない……これまで私がイスラム教に抱いていたイメージを、大幅に修正させられることになりました。 現世に幸福が得られる社会になれば、来世への関心は薄れる。 宗教それぞれが、よりよい来世に生まれ変われることを約束し、 そのための宗教的な実践の意義を説いたとしても、 Bの死生観をもつ人間の関心を集めることは難しい。(p.450)「おわりに-宗教の未来」における島田さんの一文で、死生観Bとは、長寿社会が実現した「高齢まで生きることを前提にした死生観」のこと。社会環境が不十分で、自然災害や戦争、伝染病、飢饉等々に苦しんでばかりいた人々の「いつまで生きられるか分からない」という死生観から、現在は大きく転換しているのです。
2023.12.09
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副題は「暴走する脳」。 内田也哉子さんとの対談集である『なんで家族を続けるの?』や 三浦瑠璃さんとの対談集である『不倫と正義』と同様、 中野信子さんが脳科学の視点から言葉を発していきます。 しかし、本著ではヤマザキマリさんの存在感が圧倒的。 原田マハさんとの対談集『妄想美術館』同様、 イタリアを中心に現在のヨーロッパ事情だけでなく、 古代ローマの歴史にも精通していることが伝わって来る一冊でした。 *** 不安が溜まったり経済的に不安定になればなるほど、生贄を欲する。 生贄という概念自体は本能ではないけれど、 人間の文明は生贄とともにありきですよね。(p.128)これは二人の話が、危機の時に共同体を保つため、「目立つ人」「得をしていそうに見える人」「外見の異なる人」などが、標的として生贄に選ばれがちだという流れになった際に、ヤマザキさんが発した言葉。これを受けて、中野さんはこう述べます。 自分こそ正義、自分こそ知性、と思っている人ほど、ブレーキがオフになりやすく、 正義の快さにあっという間に人格を乗っ取られてしまう。 本当の知性は、自分の正義や知性が独り善がりのものになっていないかどうかを、 まず疑うところにこそ、あると思うのですが。(p.129)コロナ禍の真只中、「正義中毒」が全国に蔓延している時期に行われた対談だけに、二人の間に流れる危機感が、ひしひしと伝わってきます。しかし、コロナ禍がある程度落ち着きを取り戻した現在でも、「正義中毒」の方は、全く衰え知らずのように感じられるのは、私だけでしょうか。そして、本著の中で私が最も感銘を受けたのが、ヤマザキさんによる「第5章 想像してみてほしい」における186頁から191頁までの「自他ともに許せない時代」の部分。ここで取り上げられている内容は、既にとても深刻な問題を引き起こしつつあると感じます。 しかし、この”メンタル無菌室”で育てられた子どもたちは、 大人になってから必ずどこかで遭遇する社会の荒波や不条理を 乗り越えていくことができるのでしょうか。(中略) 講演会などでこういう話をすると、 子どものいる親御さんたちは「そのとおり」としきりに頷かれるのですが、 かといって世間での教育の全体的な風潮に逆らえる勇気まではなかなか出ない。 ”世間体”によるジャッジと孤立化が怖くて、 全体傾向の同調圧力に背くことができない、というのが現実のようです。 こんな教育への姿勢が変わらない限り、 失敗や辛酸をなめても海外に行ってみようなどと思い立つ子どもも、 そして親も現れないのは当然だと言えるでしょう。(p.189)
2023.12.02
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著者は、1994年に朝日新聞社に入社し、 2010年に39歳で政治部次長(デスク)、2012年には特別報道部デスクとなり、 2013年に「手抜き除染」報道で新聞協会賞を受賞した鮫島浩氏。 しかし、2014年には福島原発事故を巡る「吉田調書」報道で解任されている。 本著は、鮫島氏が京大法学部の学生として就活に励んでいた時期から、 朝日新聞入社後、つくば支局、水戸支局を経て浦和支局に異動して政治部記者となり、 与野党の大物議員や官僚と接していった頃の様子や、 政治部、経済部、社会部等、朝日新聞社内で繰り広げられていた勢力争いが描かれている。本著を読み進めながら、「新聞記者」の仕事については、知っていそうで実はあまり知らなかったのだと、気付かされることになった。また、社内の派閥争いや権力闘争は、どこの企業でも多かれ少なかれ見られるものだろうが、極端な「手のひら返し」には、朝日新聞社特有の空気を感じてしまった。 *** ある外交官は「外交に『決着』はないんです。どんな合意をしても必ず課題は残る。 外交は『決裂』か『継続』のどちらかなのです。『決裂』したら国交断絶か戦争になる。 これは外交の失敗です。『継続』さえしていれば、国交断絶や戦争は避けられる。 『継続』こそ外交の成功なんです」と言った。(p.72)本著で、最も心に残った部分。まさに、です。
2023.07.19
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副題は「政府のやりたい放題から身を守る方法」。 マイナンバー、コロナ、脱炭素等の問題について、 報道ではあまり知らされることのない裏事情を明らかにしていきます。 著者は、国際ジャーナリストの堤未果さん。 *** ショック・ドクトリンとは、テロや戦争、クーデターに自然災害、 パンデミックや金融危機、食糧不足に気候変動など、ショッキングな事件が起きたとき、 国民がパニックで思考停止している隙に、通常なら炎上するような新自由主義政策 (規制緩和、民営化、社会保障切り捨ての三本柱)を猛烈なスピードでねじ込んで、 国や国民の大事な資産を合法的に略奪し、政府とお友達企業群が大儲けする手法です。 (p.37)著者は、9・11同時多発テロ後に起こったアメリカの変化に強い違和感を抱き始め、やがて、それがフリードマン教授とお友達一派によって、1973年にチリで引き起こされたあのショック・ドクトリンと同じものであると気付きます。そして、アメリカ国民への取材を開始、『ルポ 貧困大国アメリカ』へとまとめていくのです。 自民党に1億円献金したNTTが1000億円分のマイナンバー事業を受注し、 ワクチンメーカーの日本法人執行役員が 子どもたちの予防接種を担当する教育委員に就任し、 再エネ事業を展開する企業関係者が買取価格を決める委員会に入り、 総理に脱ガソリン車政策を進言する参与のもう一つの顔が、EV車メーカーの社外取締役。 まるで韓流ドラマバリの相関図、 しかも同じ役者が配役を変えてあちこち登場する始末です。(p.261)本著では、マイナ保険証の危うさや世界のマイナンバー事情、個人情報がすべて紐づけられ、デジタル化が進んだ先に待つ世界について、たっぷり紙幅を割いて、丁寧に説明がなされていくため、目から鱗の連続です。また、コロナ対応や脱炭素に向けての動きについても同様で、その背景に潜む企業権益の大きさには驚かされるばかりです。そして、次の記述も大いに頷けるものでした。各誌・各局が競って一つの問題だけを大きく取り上げている時は、要注意ですね。 ショック・ドクトリンの戦略の一つは、都合の悪いことは極力隠蔽、が基本。 メディアで取り上げさせないだけでなく、 人々の意識の中にも入れないようにしないといけません。 そのため、肝心なときには、芸能人のニュースを横並びで一斉に流させるなど、 あの手この手を使って関心をそらし、 国民の「忘却力」を活性化させてくるのです。(p.263)
2023.07.15
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『サル化する世界』で本著の存在を知り、読んでみました。 著者は、文芸評論家の加藤典弘さん。 本著は、ポイントポイントで「小見出し」としての要約文が掲げられ、 そこから丁寧に説明がなされていく構成となっています。 そして、この要約文を追っていくと、憲法9条誕生とマッカーサーとの関りが、 想像以上に大きなものだったと気付かされるのです。 *** アメリカは日本占領において特権的な地位を確立しようとしますが、 当初、他の国はそれを認めませんでした(p.042) 以後、日本占領の権限をめぐる、 アメリカとその他の連合国の対立が深まっていきました(p.061)日本の占領に当たっては、スタートからアメリカ優位の状況であったものの、その特権的地位を、他国がいつまでも簡単に許してくれるはずもなく、イギリス、ソ連、中華民国、オーストラリア等、連合国間で、激しい綱引きが行われていくことになります。そんな中、マッカーサーは連合国最高司令官として、占領の最前線で、他の連合国だけでなく、アメリカ大統領府や国務省を相手に、自分の思惑を実現すべく、憲法改正へと突き進んでいくのです。 マッカーサーは戦争中から、 すでに有力な大統領候補になっていました(p.048) 加えて有力な大統領候補であるマッカーサーと、アメリカ本国の対立も激化します これら二つの対立の中で起こったのが、 「密室での憲法草案の作成」という異常事態でした(p.065) 1945年12月末から、突如、憲法改正がGHQの最重要課題に浮上します 理由は同月27日に、翌年2月末に極東委員会の活動がスタートしたあとは、 憲法改正の権限がアメリカとGHQの手から離れることが、 正式に決まったからでした(p.097)敵国であった日本に自ら乗り込み、占領統治を行うことになったマッカーサーは、日本にとって天皇がどのような存在であるかを、自らの肌で強く感じ取り、統治に際し、それを利用しない手はないと考え始めます。 昭和天皇の戦争責任は免れ得ないが、彼が戦争に反対していたことも事実である しかもその免罪の功利的価値は絶大だと、 マッカーサーの軍事秘書フェラーズは考えていました(p.081) 昭和天皇はマッカーサーの占領統治にとって、絶対に必要な存在でした しかし、その免罪のためには、 きわめて高いハードルを超えなければなりませんでした(p.071) 側近たちによる免罪工作は、「昭和天皇独白録」や「イギリス国王宛の新書」 の作成など、さまざまな形で続いていきました(p.088)そして、天皇免罪を確かなものとするための手段として「戦争放棄」を思いつき、それを憲法に反映していくことになるのです。 憲法9条という「戦争放棄条項」も、昭和天皇の免罪を 各国(連合国諸国)に認めさせるためにつくられたものでした(p.075) 「人間宣言」の成功を受けて、天皇免罪のための決定打として新たに構想されたのが、 天皇から性j権力を奪い(第1条)、軍事力も放棄(第9条)する、 新しい憲法の制定でした(p.91)しかし、この憲法第9条は、世界に類を見ない特別なものでした。 9条は、単なる戦争放棄の条項ではありません それは「軍事力を一切もたない」「日本だけが世界に先駆けて実行する」 特別の戦争放棄なのです(p.131) 同じ敗戦国であるドイツとイタリアの憲法にはあった 「相互主義の原則」が、日本の憲法9条には存在しませんでした(p.159) 「ただの戦争放棄」ではない、「特別の戦争放棄」の発案者は、 まちがいなくマッカーサーでした。(p.149)そして、マッカーサーが「特別の戦争放棄」を発案したのには、大きな理由がありました。そして、日本側にも、それを進んで受け入れるだけの大きな理由があったのです。 次期大統領選をも視野に入れた、マッカーサーの個人的野望が、 強引な憲法草案の作成と、その「押しつけ」を生みました(p.135) かつての敵国に、理想主義的な「精神的リーダーシップ」を与えた偉大な指導者 それこそが、大統領をめざすマッカーサーが求めた崇高な自己イメージでした(p.168) 9条のもつ「特別な光輝」は、天皇が失った道義的な 空白を埋めるものだったのではないでしょうか(p.175)しかしながら、マッカーサーの「特別の戦争放棄」には、さらなる思惑があったようです。ただし、それはマッカーサーが大統領になれなかったため、実現しませんでした。 マッカーサーがアメリカ大統領になっていれば、 「特別の戦争放棄」(マッカーサー・ノート)と 「ただの戦争放棄」(ケーディス執筆の9条)は、 国連の集団安全保障体制のもとに統合されていたはずです(p.174) 9条は国連の集団安全保障体制、 つまり国連軍を前提に書かれたものでした(p.175) 「国連軍」というキーワードを加えてみると、 9条のもつ「光輝」も「非現実性」も姿を消し、 ただ現実的な国際的安全保障の理想形が浮かび上がってきます(p.279)もし、マッカーサーが大統領になっていれば、憲法9条は、違う意味を持つものになっていたのかもしれません。
2023.07.01
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副題は「大韓帝国の成立から崩壊まで」。 「あとがき」には、本著の特徴として次の3点が挙げられています。 1.大韓帝国を主語にした韓国併合の歴史 2.史料を最重視した歴史学による手法 3.ここ30年近い間に発表された新たな研究成果を組み込んだこと *** さらには、明亡き後、儒教文化を堅持するのは朝鮮だけで、 朝鮮こそが明朝中華を正統に継承すると自負する。 いわゆる「小中華思想」「朝鮮中華思想」と呼ばれる意識が強くなった。 朝鮮は儀礼上は清朝皇帝に朝貢し冊封を受けるが、 内心は明朝中華を慕い、中華の正統な後継者は朝鮮自らだと考えたのだ。(p.7)朝鮮においては、「儀礼上」と「内心」の二つを使い分けることが、ごく自然なことであったことに気付かされ、目から鱗が落ちる思いでした。そして、次の一文からは、「朝貢体制」の持つ意味合いが、この時期に大きく変化したことに気付かされました。 清は、西洋がもたらした条約という手段を用いて、 中華秩序を欧米列強や日本に示そうとし、朝鮮との宗属関係を自ら変えた。 かつて「属国」の内政外交には原則として関与しなかった朝貢体制はここに変わっていく。 欧米諸国や日本との対話のためには、 宗属関係を条約体制の論理に読み替える必要があったからだ。(P.17)その後、日朝修好条規締結、朝米修好条規締結、壬午軍乱、甲申政変、さらには、日清戦争、甲午改革、下関条約締結、閔妃殺害事件、露館播遷等々を経て大韓帝国が成立し、義和団事件、日露戦争へと繋がり、日韓議定書、第1次 ~第3次日韓協約、韓国併合条約が結ばれていくことになります。 *** つまり、朝鮮王国・大韓帝国と日本では、 政治の在り方も、それに伴う史実の記録や整理の在り方も大きく異なる。 そうした両国では、現在にまで残され、確認できる史料を突き合わせて、 日本ではこう記されている、大韓帝国ではこう記されていると議論しても、 平行線を辿る部分が少なくない。 条約体制の外交を実践した国とそうでない国の記録を、 対等に突き合わせて議論することは難しい。 他方で、日本側の史料だけに依拠するのは、日本の主観が含まれ、 日本から見た朝鮮史になることは言うまでもない。(P.244)「平行線を辿る部分が少なくない」。まさに、そこで停滞したままの状況が続いています。二つの線が交わる日は、何時訪れるのでしょうか。
2023.06.11
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「はじめに」に著者の磯田さん自身が書かれているように、 大河ドラマ『どうする家康』を観るのにピッタリの案内書。 家康に大きな影響を与えた織田信長、武田信玄、豊臣秀吉との関りを軸に、 天下統一までの歩みが描かれています。 *** 武田軍と戦うなかで、家康は敵の戦術、戦略を学び取っていきます。 さらに武田家が滅亡すると、その遺臣たちを招き入れ、 自軍の主力部隊にすえて、戦闘力を高めます。 家康と三河の武士団は、サバイバルのために、同盟者・信長の高い要求に応え、 強敵・武田から学ぶなかで、「共進化」を遂げて、 いつの間にか、化け物のように強くなっていったのです。(p.40)まさに、これから大河ドラマで描かれようとしている時期についての記述であり、「井伊の赤備え」や、松平信康や織田信長、明智光秀に深く影響を及ぼした武田の諜報戦が、どのように解釈され、ドラマとして展開していくのか、とても楽しみですね。そしてこの後、著者はさらに次のように続けています。 織田、武田、今川といった強大な勢力に囲まれ、 必死のサバイバルを続けてきた家康は、つねに不安のなかで生きてきました。 本当の安心を得るには、松平家が天下の家となるしかない。 「巻き込まれ人生」の果てに、異常な進化を遂げた家康たち徳川家は、 はからずしも天下を取るしか行く道がなくなってしまったと、私は考えています。(p.41)「なるほど」と、納得させられる一文でした。
2023.05.28
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冒頭の「なんだかよくわからないまえがき」には、 本著について、次のように書かれています。 ブログに書いたものと、いくつかの媒体に発表した時事エッセイを 文藝春秋の山本浩貴君が手際よく一冊にまとめてくれました。(p.3) 本著が単行本として刊行されたのは2020年2月、文庫化されたのが2023年2月、 それぞれの文章が発表されたのは2016年10月~2020年4月。 緊急提言『「人間的成熟」が望めない国の行きつく先は - サル化する日本』は、 『週刊文春』2020年4月9日号掲載のものなので、文庫化に際し加えられたのでしょう。 *** 天皇制の存続につよい懐疑のまなざしを向ける極東委員会の国々 (ソ連は天皇制そのものの廃止を求め、 オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンは天皇制による軍国主義の復活を恐れ、 中華民国は天皇が裁判で訴追されないことに不服を申し立てていた) に「天皇制は残す」という決定を呑み込ませるためには、 「極端な戦争放棄条項」、すなわち個別的自衛権すら放棄するという条項を 憲法に書き入れるしか手立てがなかったのである。(p.124)これは、加藤典洋さんの『9条入門』(創元社)の所論の一部を紹介しながら、内田先生が私見を付け加えていった部分です。ここに記されていたマッカーサーの思惑と行動は、私にとって衝撃的なものであり、まだまだ知らないことが多々あるなと痛感させられました。さらに、世界最大の軍事力を誇っているアメリカ合衆国が、憲法に常備軍をもたないことを規定していることや、イタリアとフランスが、どのような状況の中で終戦を迎え、それをどのように受け止めたかについての記述も、目から鱗が落ちるものでした。この他にも、「時間と知性」「AI時代の教育」「人口減少社会」についての記述や、堤未果さんとの対談等、とても興味深い内容がぎっしりと詰め込まれており、読後には、久々に付箋だらけの一冊が出来上がりました。久々に内田先生の著作を読んで、大きな刺激を受けました。
2023.05.14
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ロシアによるウクライナ軍事侵攻を受けての 橋下徹さんの夥しい数に上るツイッター上でのツイートを紹介しながら、 その主張や論理、狙いを読み解くことから始まり、 地上波テレビでの発言やストローマン論法についても言及していきます。 さらに、「敗北主義思想」や「戦争観」にも触れながら、 著者・百田さんと橋下さんとの関係が、「靖国論争」を機に変化したことや、 「沖縄問題」や「橋下市政と上海電力参入」から見えてくる、 橋下さんの中国に対する姿勢や思惑について述べていきます。最後には、「元教諭の証言」や「ある女性の告白」等にも触れ、橋下さんの人となりについても言及しています。帯には「橋下さん、訴えないでください!」の文字が躍っていますが、今のところ、橋下さんはそれらしいアクションを起こしてはいないようです。
2023.03.26
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『逆襲される文明 日本人へⅣ』に続く第5弾。 文藝春秋2017年10月号から18年1月号、18年3月号から21年10月号、 22年1月号に掲載された塩野さんの、その時々に書かれた文章をまとめたもの。 4年余に渡るイタリアや日本、世界の出来事を振り返ることができます。 *** これを眺めていて、ツイッターで勝つにはどう振る舞うべきかが、 アナログそのものの私にもわかったのだった。 第1に、短文でなければ、やるだけ無駄であること。 第2は、写真よりも動画のほうがインパクトが強いこと。 第3に、口調は常に攻撃的でケンカ腰であること。 第4は、舌戦の場からは絶対に退場しないこと。 それどころか、相手の攻撃には時をおかずに反撃し、 しかも言説に誤りがあっても訂正などはせず、くり返し波状攻撃をつづけること。(p.45)これは、イタリアの五つ星トップと北部同盟トップのツイッター合戦に対し述べられたもの。ツイッターの特性を、しっかり見抜いておられると感心。しかしながら、これがグローバルスタンダードなんだと再認識させられ、何だか残念で、寂しくも思いました。 ところが諸行は無常だから、個々人の努力とは関係なく時代は変わる。 それへの対応を怠ると、社会全体がギクシャクしてくる。 個人規模だと自信を失い始め、その結果経済力も劣化し始め、 不安になるから他者に対して不寛容になり、 自分とちがう考えには過度に神経質な反応を返すようになる。 つまり、常にイライラしているので、それによる怒りを誰彼となくぶつけるようになり、 怒る権利は自分のほうにあると思うようになるから、他者への責任転嫁、 そして次にくるのは政治不信。(p.73)近年、ネット上で飛び交う言説には、眉を潜めたくなるようなものが多くなってきましたが、その背景にあるものが、見事に指摘されていると感じました。皆さん自信が持てず、不安で、神経質で、不寛容で、方々に怒りをぶつけまくってる…… 帰国して以後テレビで予算委員会での質疑を見ながら痛感したのは、 政治不信とは、政治家自身が作っているのだということである。 痛烈な質問もよい。 それに対して逃げを打つのもわからないではない。 だが、こんなことをくり返しているだけでは、 日本が直面している数多くの難題はいつになったら解決できるのか。 何らかの手段でこのくり返し状態を脱け出る方策を示してこそ、 国民が国政を託す人として選んだ政治家であることを示す、 絶好の機会になるのではないかと思う。(p.150)まさに、現在の国会はプロレス状態。お約束の役割を互いに演じ続けているだけで、それが行きつく先は、いつもお決まりの時間切れ。「このくり返し状態を脱け出る方策」を示すことが出来る人は、いつ現れるのか…… ***本著で、最も衝撃を受けたのは「ローマでの”大患”」。コロナ禍の中、こんな大変な事態に陥っていたんですね。しかし、ローマの病院事情がリアルに伝わって来る、大変興味深い内容でした。以後、すっかり回復されたのでしょうか?
2023.02.19
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中野信子さんと三浦瑠璃さんの対談を一冊にまとめたもので、 お二人ともTVでよく見かけ、ネットニュース等で取り上げられることも多い方。 中野さんについては、内田也哉子さんとの対談を読ませてもらいましたが、 三浦さんとはどんな感じになるのだろうと、期待しながら読み進めていきました。 *** だから、片方のタイプの脳の人がもう片方のタイプの脳の人を 「そんなの人間としておかしい」とかあれこれ言ってみてもあまり意味がない。 それぞれの機構で「自分の感覚が普通だ」と脳が処理しているから。 それなのに「生まれたからにはいろんな人と付き合いたい」だとか 「1人の人と添い遂げるのが本当の幸せ」などと言い合っても話がかみ合わないわけです。 あなたの茶色の目はおかしい、いやあなたの青い目こそいかがなものか、 と言い合っているようなものです。(p.29)これは中野さんのことば。『不倫』を既に読んでいたので、言わんとすることはよく分かりました。 つまりは、社会のあり方の違いでも、 不倫の捉えられ方は変わってきたんだと思うんですよね。 何をもって不倫と言うのか、何がその社会の倫理から外れているのかというのは、 時代背景にっても異なる。(p.33)これは三浦さんの言葉。このことは、「不倫」以外の様々なことについて言えるのではないかと思います。今現在良しとされている「尺度」に当てはめて、全てのことを測ろうとする姿勢は、本当にそれでいいのだろうかと、私も疑問を感じます。 そういう「オーバーサンクション」と言われる現象があるんですが、 面白いことに、オーバーサンクションを加えている側には快感が生じるんですね。 制裁というのは他者への攻撃なので、元来はリベンジのリスクがあるわけです。 でも、リベンジのリスクを怖れて制裁を加えないと集団が壊れちゃう。 だからこういうときは攻撃に快感を持たされているわけなんです。 この攻撃の快感をエンタメとして形にしたのが週刊誌と言っていいんじゃないですかね。 いじめもきっと同じ構造ですよね。(p.67)これは、中野さんの言葉に、三浦さんが言葉を足した部分。ネット上でバッシングが過激化していく理由を、見事に言い当てているのではないでしょうか。これがビジネスと繋がってしまっていることが、とても恐ろしいです。
2023.01.22
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ネット利用が急速に進んだ韓国の現状を、 最新のトピックを盛り込みながら紹介してくれている一冊。 韓国の世論形成の背景にあるものが、なんとなく見えてきた気がしました。 そして、日本のネット社会の今後を考えるうえでも、とても参考になりました。 *** 一方でネイバーは、ネット上での世論操作を防ぐため、いくつかの措置を講じた。 まず、政治記事のコメントは「共感順」(「いいね」の多い順)ではなく、 「時間順」にだけ表示がなされるようになった。 一部の勢力によっていくらでもランキングを操作できる元凶だった 「リアルタイム検索ワード」も廃止した。 ニュース編集部はニュースの編集や配列に一切関与せず、 アルゴリズムのよってのみニュースが配列されるようにする方針も定めた。(p.63)これは、2017年の韓国第19代大統領選挙において、マクロプログラムを使って8800万件にも上るコメント操作を行い、ポータルサイト上で世論操作をした「ドゥルキング」事件に関する一文です。日本も、決して他人事とは言っていられない状況ではないでしょうか? これらの法案が成立することはなかったが、 ネットの各種プラットホームでは様々な措置が講じられることになった。 韓国の2大ポータルサイトの人一つであるダウム・カカオは19年10月、 もう一つのネイバーは20年3月、そして第3のネイトも20年7月に、 芸能記事に対するコメント欄を廃止した。 20年7月、女子プロバレーボールの選手が悪質な書き込みによって自殺すると、 ネイバーとダウム・カカオは スポーツニュースに対するコメント欄も廃止することとなった。(p.217)これは、2019年にK-POPアイドルのソルリとク・ハラが1か月違いで自殺したことで、ネットの悪質な書き込みが韓国社会で話題となったことに関する一文です。芸能やスポーツに関するコメント欄だけでなく、政治や社会などの報道についても、ポータルサイトでは自浄システムを設けているとのことです。しかしながら、これらの対策も所詮いたちごっこに過ぎず、管理が行き届きにくいコミュニティ上では、悪質な書き込みが行われ続けているそうです。芸能人やスポーツ選手はSNS上に直接コメントを書き込まれ、DMが送られてくるとのこと。こちらも、日本でも決して他人事とは言っていられない状況なのではないでしょうか? 彼女は同世代の若者たちと同じように、一日中BTSの応援にのめり込んだという。 その方法も現代ならではある。(中略) 「新曲が発売されれば、Twitterの『総攻』 (新曲の順位を上げるため、ファンらが総攻撃をかけること)アカウントで 教えてもらった通り、援護射撃をするんです。 PVの再生数を上げるためにストリーミング再生を繰り返す『ミュス』や、 無音でストリーミング再生を続ける『無音スミン』などをしながら、 夜通しARMYたちとリアルタイムでチャットをしていたこともあります。」(中略) 20年9月1日、BTSのシングル『ダイナマイト』が韓国歌手として初めて 「ビルボードHOT100」チャートで1位を獲得したのは、 米国のARMYたちが手を取り合うようにして成し遂げたものである。(p.120)如何にして莫大な数値が短期間のうちにカウントされていき、それが大きなムーブメントとして扱われることになっていくかが、よく分かります。これは、芸能界に限ったことではなく、政治も含め様々なジャンルにおいてです。ネット社会では、こういうことが起きていることを知っておく必要がありますね。
2022.09.11
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今期の朝ドラはSNS上で叩かれっぱなしのようだけれど、 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の方は、随分と評判がイイらしい。 私も、朝ドラは夏本番になる前にリタイアしてしまい、 代わって、大河の方を本腰を入れて見るようになりました。 しかしながら、途中まで、PCに向かいつつ、時々画面を眺める程度だったため、 登場人物やこれまでの事の経緯が、十分には分かっていない……。 そこで、本著を読んで、頭の中を整理することに。 副題は「闘争と粛清で読む『承久の乱』前史」です。中学校や高校で、時代の大まかな流れについては勉強したはずだけれど、源平合戦や鎌倉幕府の成立、承久の乱といったところは、ピンポイントで覚えていても、それらを繋ぐ時期の諸々、特に鎌倉幕府成立から承久の乱の期間については、「ややこしそう」という印象しか残っていませんでした。しかし、本著を読むと、予想以上の殺伐としたドロドロ展開。昔々、吉川英治氏の『私本太平記』を読んだ際に、ころころと敵味方が入れ替わる展開に、大いに驚かされたものですが、やはり、その時代に繋がるものが、既にこの時代にあったことに気付かされました。 *** 長刀の制作者は三条小鍛冶宗近。 刀工三条一派の開祖であり、天下五剣の一つ三日月を鍛えたことで知られる。 そんな彼が祇園社(八坂神社)に寄進した薙刀を 「欲しい」と求めたのが親衡である。(p.138)泉親衡は、千手丸(源頼家の遺児)を擁し、義時打倒を画策した御家人ですが、この文は、京都の祇園祭に立つ山鉾の一つ、長刀鉾に立てられる長刀を、親衡が、一時期所有していたというエピソードを紹介したものです。しかし、この文の中で私の目に留まったのは、三条小鍛冶宗近の方。「そうか、長刀鉾の長刀を、あの宗近が……」「刀剣乱舞」をご存知の方なら、納得していただけるかと。
2022.09.04
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日本史の「定説」を疑い、 「定説を覆す最新の研究」も鵜呑みにすることなく、 自分の頭で「歴史の流れ」を考えるための指南書。 著者は、東京大学史料編纂所教授の本郷和人さん。 古代から近世まで様々なトピックスについて、 著者の考えや視点が記されていきますが、 教科書で学んだ知識からだけでは気付くことが出来なかった 個々の事象や時代の捉え方に「なるほどなぁ」と唸らされます。 名君をタイプ分けすると、個人的に優秀でリーダーシップを揮ったタイプと、 本人は有能でなくても家来たちが実力を発揮したタイプに分かれます。(中略) 上に立つ人は、基本的に個人の能力はそれほど問題ではありません。 本人がどれだけ優秀でも、 家来たちが動かなくて世の中がわるくなれば暗君です。(p.222)これは「第7章 江戸時代」の「江戸幕府の名君と暗君は誰か」に記された一文です。11代将軍家斉を引き合いに「将軍は何もしないほうが家臣たちに人気があります」とも記されており、リーダーに求められるものはその時々で変容すると痛感しました。
2022.07.16
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『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅳ』の「あとがき」に 本著のことが記されていたことから興味を持ち、今回読んでみることに。 しかし、本著を手にした途端、そのボリュームと価格に驚かされました。 ハードカバー492頁、本体3,800円+税……ずっしりと、重たい…… *** したがって、マスコミが報ずる盗作疑惑や、ネットで騒がれるパクリ疑惑のほとんどは、 ある程度以上の分量を丸々写しているとか極端な場合以外、 法廷で争われたとしても著作権侵害にはおそらく問われないだろう という推測が成り立つ。(p.16)これは、「まえがき」の『「盗作」と「著作権侵害」』に記された一文。『écriture 新人作家・杉浦李奈の推論 Ⅳ』でも、このことに触れていましたね。 著作権法第32条の規定によれば「引用」するのに許可は要らない。 つまり「引用」は無断で行使するのが本来である。 したがって「無断引用」なる言葉はナンセンスだ。(中略) すなわち、「無断引用」という言葉もまた、著作権法とは独立した、 マスコミ独自の専門用語、ジャーゴンなのだ。 文芸批評や美術批評などにおける「引用」がそうであるように。(p.16)これも、「まえがき」の『「無断引用」というジャーゴン』に記された一文で、「盗作」「盗用」「無断引用」「借用」「無断借用」等が、これに該当する言葉。著者は、「新聞や雑誌は、事件における『作家のモラル』の逸脱度を測る自社の(恣意的な)基準に基づき、これらを使い分けている」としています。 歴史的事実、日常的な事実を描く場合に、 他者の先行著作物で記述された事実と内容において共通する事項を取り上げたとしても、 その事実を、いわば基礎的な素材として、換骨奪胎して利用することは、 ある程度広く許容されるものと解するのが妥当である。(p.227)これは、第3章「オリジナルという”データ”」の「『大地の子』裁判は山崎の全面勝訴」に記された2001年3月の判決文。この点については、第4章「素材と創作のあいだ」の「『私残記』という書物」でも、次のような記述が見られます。 ここで森荘巳池の名を出さなかったことについて、 網淵は、「単に正確な歴史的事実を跡づけるために参考にした資料名は、 とくにこれを列挙する必要はない」という通念にしたがい、 他にいくつもあった参考文献と同様、森名義の『私残記』も挙げなかったと説明している。 歴史的事実は公共財と言う認識である。 したがって、問題になるとしても「礼儀」や「エチケット」という次元の話であって、 著作権法を盾に取り「無断借用」とか「モラル」を非難するのは筋違いもはなはだしい、 というのが網淵の主張であった。 妥当な見解といっていいだろう。(p.255)歴史的事実、日常的な事実については、先行著作物から共通する事項を取り上げる際、参考文献として挙げる必要はなく、著作権法には抵触しないという認識でしょう。また、第6章「異メディア間における盗作疑惑」の「山口玲子『女優貞奴』とNHK大河ドラマ『春の波涛』」には、次のように記されています。 『春の波涛』事件、『江差追分』事件いずれも、 盗用されたと訴えた原告の作品はノンフィクションだった。 これまで見てきたノンフィクションからの盗用疑惑の数々同様、 事実の書かれた資料として使ったつもりが、原作者の意識としては創作物だった、 というすれ違いが問題の発生源となっているといっていいだろう。(p.343)ノンフィクション作家からすると、そこに記されたのは単なる歴史的事実ではなく、自己表現による創作物だから、「盗用」となるという認識でしょう。これについては、同じく第6章「異メディア間における盗作疑惑」の「NHK弁護団のウルトラC」に、次のように記されています。 著作権法は、著作物の表現を保護するものであり、 思想や感情、アイディアを保護するものではない。 「表現形式」と「内容」というふうに区別されることが多いが、 「表現形式」はさらに「外面的表現形式(外面形式)」と 「内面的表現形式(内面形式)」に分割できるとされる。(p.359)この後、著者は「外面的表現形式」を、小説なら文章、マンガなら絵、映画なら映像、「内面的表現形式」を、ストーリーやプロット、人物の配置や個性の持たせ方など、原作付きのマンガの原作部分みたいなものとしたうえで、「複製」と「翻訳」を定義し、「翻訳権侵害」について述べていきます。 さて「複製」と「翻訳」だが、この区分にしたがえば、 「外面形式」が再現されていれば「複製」であり、 「内面形式」が再現されていれば「翻訳」である、ということになる。 したがって、翻訳権が侵害されているかどうかを判断するには、 内面形式が再現されているか否かを検討すればよいということになるわけだが、 翻訳権の侵害が正面切って争われたのはこの裁判がはじめてのことであり、 いま見たように、裁判官さえ、内面形式が再現されているとはどういう事態であるか 判断する基準を持たなかったのである。(p.360) ***これまでに、こんなにもたくさんの盗作疑惑が発生していたことに、正直驚きました。また、その中には大変有名な作品や作家さんたちが、相当数含まれていることも意外でした。しかも、それらの事件の背景には、マスコミや文壇のドロドロとした部分が……本著を通じ、盗作か否かの線引きには、とても難しいものがあるということが分かりました。読書前は、本著の見た目の圧倒的存在感ゆえ、身構えるところもあったのですが、読み始めてみると、法律に関わる部分や概念的記述が続く部分は苦労したものの、全体としては読みやすい文章で、想像以上にスイスイと読み進めることが出来ました。価格が手頃なら、もっと多くの人に読まれたかもしれないのにと、強く思いました。
2022.06.26
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本著を読み始めてしばらく経った頃、 ロシア軍によるウクライナへの侵攻が始まりました。 そして、本著を読み終えた今、その侵攻はまだ続いており、 解決への出口は、未だに見えないままです。 本著は、戦争をいかに収拾すべきかについて論じた一冊です。 まず、第一次世界大戦、第二次世界大戦、朝鮮戦争、ベトナム戦争、 さらに、湾岸戦争やアフガニスタン戦争、イラク戦争といった 20世紀以降の主要な戦争の終結について、歴史的に振り返っていきます。そして、終章「教訓と出口戦略」において、著者は次のように述べています。 以上のように、優勢勢力側にとっての「将来の危険」が大きく、 「現在の犠牲」が小さい場合、 戦争終結の形態は、「紛争原因の根本的解決」の極に傾く。 逆に優勢勢力側にとっての「将来の危険」が小さく、 「現在の犠牲」が大きい場合、 戦争終結の形態は、「妥協的和平」の極に傾くことが分かる。 さらに優勢勢力側にとっての「将来の危険」と「現在の犠牲」が拮抗する場合、 戦争終結の形態は不確定となり、 「紛争原因の根本的解決と妥協的和平のジレンマ」をめぐって 交戦勢力間で戦略的相互作用が生じ、これが均衡点に影響した。(p.261)この「交戦勢力間で戦略的相互作用」というのが、なかなかの曲者で、優勢勢力同士においても、そのパワーバランスや個々の思惑が複雑に絡み合い、とても一筋縄でいくものではありません。それに比べ、劣勢側の取るべき選択肢は、極めて限定的なものとなってしまいます。また、個々の戦争終結の事例は、それぞれに固有の特色を持つものであり、類似点はあろうとも、全く同じということは決してありません。現在進行形で行われている紛争についても、これまでのものと類似点はあっても、その態様は大いに異なり、その対応も全く異なるものが求められているのです。
2022.03.13
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2017年10月に9人の遺体が見つかった死体遺棄事件について、 著者の小野さんが、犯人に拘置所で11回に渡り面会した際の記録と、 23回の裁判及び判決公判の際の記録から成る一冊。 面会した際の記録の方は、 『週刊実話 2020年8月13日号~10月29日号』に連載されたものに加筆、 裁判及び判決公判の際の記録の方は、本著のために書き下ろされたものです。小野さん自身が「エピローグ」に書かれているように、本著については、加害者や被害者の周辺を一切当たることなく書籍化されたため、これまでに読んだ小野さんの著作に比べると、事件の真相へと迫っていく緊張感や迫力は、少々物足りなさがありました。しかしながら、『連続殺人犯』を読んだときに受けた「とても人間の為せる業とは思えない」という衝撃は、本著からも十分に感じとることが出来ました。残念ながら、世の中にはこういう人たちも存在しているのですね。
2022.02.13
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信仰は持たないと言いながらも、 年中行事や冠婚葬祭、神社仏閣めぐりなど、 宗教に触れる機会は、決して少なくない日本人。 本著は、そんな日本人の宗教との関係を解き明かそうとする一冊。 序章「世俗社会の宗教」では、現代宗教とは何かを定義し、 宗教団体や教会を中心とする組織的信仰の衰退と、その枠組を超えた現状を述べ、 続く、第1章「宗教の分解ー信仰・実践・所属から読み解く」では、 宗教を信仰・実践・所属の3要素に分解するという本著の基本視座を示します。 そして、ここで示した視座に基づきながら、第2章「仏教の現代的役割ー葬式仏教に何が求められているのか」、第3章「神社と郷土愛ーパワースポットから地域コミュニティまで」、第4章「スピリチュアル文化の隆盛ー拡散する宗教情報」、第5章「世俗社会で作られる宗教ーエリアーデを超えて」で、各事例について、それぞれに分析を進めていきます。そして、葬式仏教は信仰なき実践、神社は信仰なき所属、スピリチュアル文化は所属なき私的信仰と実践として特徴づけると共に、信仰なき信仰構築という実践について言及します。さらに、終章「信仰なき社会のゆくえ」では、マーケットという観点から、次のように述べます。 戦後の新宗教の急成長をマーケットという観点から見れば、 伝統宗教が病貧争の解消という需要を引き受けられず、代わりに、 救済のための教えと方法を示した新宗教がその受け皿になったと理解できる。(p.194)しかし、宗教組織が衰退した現在、次のような状況が生まれていると言います。 現在マーケットを主導するのは教団ではなく、消費者だという。 そして重要なのは、消費者が優位になったことで、 宗教組織以外にも、様々なアクターが スピリチュアル・マーケットに参入することになったことである。(p.194)そして本文最終部で、伝統宗教そのものに信仰なき宗教としての性格が強い日本は、宗教が商品として世俗環境に溶け込みやすいのだと、著者は述べます。また、多くの日本人にとって、宗教は、それなりに特別な情緒を得たり、気分転換するための清涼剤のようなものだとも。まさに、現在の「宗教と日本人」について、的確に指摘した言葉だと感じました。
2022.02.13
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私が、本著タイトルから最初にイメージした内容とは、随分異なる一冊でした。 私は、苦境に喘ぐテレビ業界について論考した内容のものをイメージしたのですが、 本著は、『さよならテレビ』というドキュメンタリー作品を担当した 東海テレビのプロデューサーが、ドキュメンタリーについて記したものです。 著者が関わった数多くのドキュメンタリー作品について、その制作過程が描かれ、 ひとつひとつの作品を作るために、どれほどの苦労があったかがしっかりと伝わってきます。 なかでも、樹木希林さんが関わった作品の記述については、とても興味深い内容で、 それぞれのエピソードに、希林さんの人柄がよく表れていると思いました。 「この番組で、何を言いたいですか」 番組をモニターした後、記者にそう質問されることが多い。 最初は丁寧に答えていたのだが、だんだん馬鹿らしくなってきた。 「いま観たでしょ。それを書いてください。 小説を読んで、作家にそんな質問しますか。 画家に絵の意味を解説させないでしょ」 作品を観てもなお、作者の意図を聞くというのは、どういうものだろうか。 ただの番組宣伝の場だと思ってしまうと、そんなやりとりでいいのかもしれないが、 記者との真剣勝負を求めているというのに、あまりの残念さに、 つい辛辣なことを言ってしまう。(p.324)本著においても、著者のこの考えが貫かれているように感じました。決して「この本で、何を言いたいですか」などと、質問してはいけないのです。
2022.01.23
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2020年初頭に行われた堤さんの講演録をベースに、大幅に加筆・訂正した一冊。 講演会の雰囲気を感じながら、そこで実際にお話を聞いているような気分で、 スイスイと読み進めることが出来ました。 内容的には『日本が売られる』に近いものでした。 *** 結局、政治家をいくら変えてもダメなんだよ。 法律決定プロセスの中に誰が入っているかの方がはるかに重要だ。 法案骨子を左右するアドバイザリーグループ(諮問委員会)、審議会、 こういうところにどんなメンバーがいるのか、 メンバーになっている大学教授の研究室にどの企業から研究費が出ているのか、 そこまでメスを入れない限り、この仕組みを変えることは絶対にできない。(p.112)これは、著者のウォール街の元同僚の言葉。日本でも有識者会議に企業の人間がたくさん入り込み、ビジネス仕様で骨子を作って、それを法制化しているとのこと。そのメンバーは、総理大臣が指名します。 ドイツ製薬大手バイエルに買収されたため、 今では悪名高い「モンサント」の名も消えており、 「ラウンドアップ」は、日本では内閣府食品安全委員会が 「ラウンドアップは安全」というおすみつきを与えていますから、 日産化学工業が堂々と販売しています。(p.124)モンサント社は、その除草剤が原因でがんなどの健康被害が出たとして、10万件以上訴訟を起こされ、その和解のため1兆円の支払いを承諾したそうです。そして、ロシア、ヨーロッパ、中国で売れなくなった分を、その危険性について情報を持っていない日本に売っているとのこと。しかし、そんなことって本当にあり得る? しかし、こう言っている間にも外国資本は日本のメディアに入り込み、 影響力をどんどん拡大しています。 特に多いのが日テレとフジで、外国人所有分が20%を超えている分を 名簿に記載しないことでかろうじて規定におさめている状態です。 中国系メディア関連がほとんどを占め、韓国も入っていますね。 日本の貴重な資産が外国資本に次々と売られるようなことがあっても、 マスコミが報道しない理由がわかりますね?(p.132)「マスゴミ」などと声高に叫ぶ人たちもいるものの、日本は大手マスコミへの信頼度が世界一高い国そうです。また、SNSも一定傾向に偏った情報ばかりが蓄積されがちで、為政者には好都合。シリコンバレーの少数企業は、年々とても政治的な存在になってきているそうです。 これだけ個人がネットアクセスを持つ時代になっても まだ政治が変わらない大きな理由の一つは、 マスコミが行使する「報道しない自由」によって、 重要なことを市民が知らされないこと、 そしてそのマスコミを主要情報源にしている国民が 今もたくさんいるからです。(p.148)これについては、とても納得出来ました。マスコミから伝えられる情報は、マスコミが取捨選択したものを、マスコミにとって都合のいいように編集したもので、全てが真実とは限りません。マスコミにとって都合の悪い情報は、決して世間に伝えられることはないのです。 日本は、百年先も子孫に残せるような、 漁業、農業、中小企業の優れた技術など、 世界が絶賛するものがたくさんあり、 高い精神性を持つ、世界でもまれに見る豊かな国です。 「お互いさま」を礎にして設計された皆保険制度、 その子を一生導いてゆく種まきとしての公教育、 一人はみんなのためにを柱に共同体を支える協同組合などは、 どれも百年先の国の未来や民の幸福を考えて設計されたものでばかりです。 私たちの多くは気づいていませんが、 これは、国家百年の計を立てて実践していた心ある政治家が、 かつて日本にもたくさんいた証です。(p.156)「百年先の国の未来や民の幸福を考えて設計されたもの」として、「皆保険制度」「協同組合」と共に「公教育」が挙げられています。しかし、このうち「公教育」については、かなり厳しい状況です。「公立校」の存在意義を、今一度考えなおしてみる必要があります。 ***本書は、今年1月に発行されたものなのに、現在、楽天ブックスでは扱われていません。また、他サイトのカスタマーレビューによると、本著はアダルト本分類されていたり、かなりの高額で取り扱われたりしていた時期もあったようです。なぜ、そんなことになったのかと、考えさせられてしまいました。
2021.11.28
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よく売れた一冊であることは知っていましたが、 私は、今回実際に読み始めるまで、ずっと「小説」だと思い込んでいました。 ところが、読み始めると……「エッセイ」でした。 Yahoo!ニュース | 本屋大賞 ノンフィクション本大賞の他、 数々の賞に輝いた作品。 福岡県出身の著者が、アイルランド人の夫との間に生まれた息子さんの中学校生活を通して、 イギリスの「ソーシャル・アパルトヘイト」の実態を浮かび上がらせ、 今も残る階級社会や経済格差、さらにはレイシズム、ジェンダー等々の問題が、 子どもたちの日常に、否が応でも大きな影響を与えていることを思い知らされます。そして、母子で交わされる言葉の中に、胸に響くものがあちこちに。例えば、 「頭が悪いってことと無知ってことは違うから。 知らないことは、知るときがくれば、その人は無知ではなくなる」 「自分たちが正しいと集団で思い込むと、人間はクレイジーになるからね」 「多様性は、うんざりするほど大変だし、めんどくさいけど、 無知を減らすからいいことなんだと母ちゃんは思う」これらは、母である著者が息子さんに向けて語った言葉。そして、 「僕は、人間は人をいじめるのが好きなんじゃないと思う。 ……罰するのが好きなんだ」これは、息子さんが母である著者に向けて語った言葉。すごいですね。
2021.09.09
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TVドラマ『ハコヅメ』を楽しみに見ています。 8月4日(水)に続き、8月11日(水)も「特別編」が放送されるようですが、 新型コロナウイルスに感染していた永野芽衣さんも仕事を再開されるようで、 第05話も、もうしばらくすると見ることが出来そうです。 さて、このお話に登場する交番勤務の警察官や刑事課捜査一係の人たち、 さらには警察署長や副署長って、職場の中ではどのような関係性にあるのでしょうか? 知っていそうで、実はほとんどの人たちが全く知らない世界ですよね。 そんな人たちにおススメなのが本著です。本著では、警察という組織やそこで勤務する警察官の出世や人事、育成について、元警察官僚である著者が、Q&A形式で具体的に分かりやすく説明してくれており、巡査、巡査長、巡査部長、警部補、警部、警視、警視正、警視長、警視監、警視総監、警察庁長官といった11の「階級」等や、「職制」「専務」について知ることが出来ます。なかでも「第4章 警察官の出世と実績・年功等」は、他の職業でも中堅以上の方々にとっては、身につまされる内容かと思います。 もっと端的に言えば、 例えば「音羽警察署の三宅刑事課長が次の異動で上を狙えるかどか?」は、 少なくとも起案段階では、警察本部の刑事総務課次席の匙加減ひとつで決まります(中略) 警察署長、警察本部の課長といった<課長級>以上というなら全くの別論ですが、 しかし現場で実務に当たるギルド員というなら、 その人事権を意識しない者はいないでしょう。(p.191)この「匙加減ひとつ」という言葉は、次の箇所にも登場します。 階級を上げたとき具体的にどのようなポストをゲットできるかは、 警察部門の(専務については一定程度各部門の)匙加減ひとつです。 本人の希望は聴取されますが、警察文化として 「希望は訊かれるものであって叶えられるものではない」ので、 望んだステイタスの/望んだエリアの/望んだジャンルのポストを ゲットできる方が稀かも知れません。(中略) 具体的な配置については、他にも悲喜交々の現象が生じ、 そしてそれを惹起するたいていの変数は、運です。(p.240)「警察官の出世をめぐるその他の変数」(p.238~p.256)を読んだとき、特に、59歳の筆頭署長・警視正が定期人事異動直前に、署内交番巡査部長が無線機を亡失したことにより、総務部長・警視長への栄転が消失?というエピソードには、背筋が寒くなる思いでした。「運も実力のうち」と言ってしまうのは簡単ですが、本人にすれば、決して割り切れるものではないでしょう。
2021.08.07
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外山滋比古さんの「失敗」に関わるエッセイ。 入試や就活、辞職、軍事教練の号令、露天商で買った五銭のレントゲン等々、 自身の経験や周辺で起こったエピソードの数々を紹介しながら、 「失敗」について、その捉え方、考え方について述べておられます。 セレンディピティ(思いがけない発明・発見)や ケンカやいじめ、運動会のかけっこ、転ばぬ先の杖についての記述も 歯に衣着せぬ著者らしさが溢れる内容。 次の一文が、その根幹を言い表しています。 マイナスをすくなくすればプラスのチャンスもへる 失敗を恐れてはいけない 失敗を活かすことができれば 人間は大きく進むことができる
2021.07.18
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1871年に行われた廃藩置県により、全国260以上の藩が消滅しました。 1869年の版籍奉還の後、知藩事として国元を収めていた殿様たちは、 領地・家臣団を失い、強制的に東京に居住させられることになりました。 と、ここまでは学校の教科書にも載っていて、誰もが知っていること。 しかしながら、その後、殿様たちがどのように過ごしていたかとなると、 私を含め、多くの人たちがほとんど知らない。 本著は、そんな人たちに殿様のリアルを伝えてくれる一冊。 「そうだったのか……」と思わず唸らされる内容が満載です。 ***第1章「維新の波に抗った若き藩主たち」に登場する超有名人の松平容保(会津藩)や、その弟・松平定敬(桑名藩)、さらに林忠崇(請西藩)や徳川茂承(紀州藩)らは、所謂イメージ通りの人たち。幕末、そして維新の時期を殿様・知藩事として過ごした人らしい生き方。そして、第2章「最後の将軍・徳川慶喜に翻弄された殿様」に登場する超有名人の松平春嶽(福井藩)や山内容堂(土佐藩)、戊辰戦争で敵味方に分かれ兄・松平容保と戦った徳川慶勝(尾張藩)らも、私たちがイメージしやすい生き方をした殿様たち。 しかし、将軍職を退いた慶喜の跡を継いで徳川宗家当主となった家達(静岡藩)は、貴族院議長を明治36年から昭和8年までの長きに渡り務めるなど大活躍。大正3年には「内閣を組織せよ」という大命が下りましたが、辞退しています。また、大正10年には英国留学経験を活かしワシントン海軍軍縮会議に全権として参加。そして、現在大河ドラマ「青天を衝け」でも登場している慶喜の弟・昭武(水戸藩)は、慶喜の名代としてパリ万国博覧会に参加した後、そのままパリに留まり過ごします。帰国後は、1868年4月に水戸藩主に就任し、新政府の命で箱館戦争に参加。その後、軍人生活をした後、アメリカの万国博覧会御用掛を務めるなどしました。続く第3章「育ちの良さを生かして明治に活躍」に登場する殿様たちは、その生き方も実に様々で、本著の中でも最も興味深いところかも知れません。蜂須賀小六の子孫・茂韶(徳島藩)は、元老院議官や東京府知事などの要職を歴任、浅野長勲(広島藩)は、製紙会社を起こし、銀行頭取や外国公使も務めました。岡部長職(岸和田藩)は、米国留学後に外交官として活躍、東京府知事にもなりました。亀井茲監(津和野藩)は早くから教育に力を注ぎ、宗教行政に尽力しました。中でも印象に残ったのは、名君・上杉鷹山を敬愛した上杉茂憲(米沢藩)。県政不服従運動が展開される沖縄の県令に就任すると、教育機関・医療機関の充実と間切吏員制の改革に着手、改革意見書「沖縄県上申」を提出しますが、各省は「時期尚早である」との回答。しかし、茂憲はあきらめきれず、さらに意見書を提出したのです。 政府の高官たちは茂憲の熱意を感じながらも、大いに閉口した。 沖縄を牛耳っているのは、旧王族や士族、間切の吏員たちであった。 まだ沖縄は、日本の統治下に組み込まれたばかりで、 今後も清朝が領有を求めてくる可能性があり、 そのさい沖縄の支配層が清朝と結びついては都合が悪かった。 このため政府では、「旧慣温存」を沖縄統治の根本政策とした。 支配層に有利なように昔ながらの慣習をそのまま温存するというものだ。 まさに間切吏員制は、その柱であった。 それを茂憲は、大幅に改革したいと主張しているわけだ。 もちろん、県民のためになるのは明らかだが、沖縄統治のためには、 旧琉球王国の支配層の力が必要なのだ。 ここにおいて政府の実力者たちは、茂憲の召還を決めた。(p.191)政治は難しい。
2021.07.18
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興味深いタイトルで、思わず手に取ってみると、著者はあの池田清彦さん。 本著も、「ホンマでっか!?」くらいの気持ちで読まないとダメ? *** 「第1章 蘇る優生学」では、まず、相模原市知的障害者施設殺傷事件を取り上げ、 その後、積極的優生学と消極的優生学に言及すると、 「第2章 優生学はどこから来たのか」では、古代ギリシア・プラトンの時代から、 近代優生学の祖・ゴルトンを経て現代に至る優生学の推移を示していきます。そして、「第3章 ナチス・ドイツの優生政策」では、優生政策と安楽死計画、ホロコーストとの関係性を明らかにし、「第4章 日本人と優生学」では、日本の優生学の源流から始まって、優生保護法成立やハンセン病患者の隔離・断種政策について述べていきます。さらに、「第5章 無邪気な「安楽死政策」待望論」では、医師二人による嘱託殺人事件を取り上げ、安楽死について考察すると、「第6章 能力や性格は遺伝で決まるのか」では、ヒトゲノム計画や新型出生前診断について考察し、「第7章 ”アフターコロナ”時代の優生学」では、「チフスのメアリー」の教訓を生かすよう訴えています。 ***本著の中で、私の心に深く残ったのは、第5章の「「死」は自分で決められる?」で記されていた次の部分。 しかし、私は以下の理由から、「死の自己決定権」という考え方には同意できません。 この点については『脳死臓器移植は正しいか』(角川ソフィア文庫)で 詳細に論じていますので、ここでは要点だけ説明します。 理由1 自分の身体や自分の命は、自分の所有物ではない(中略) 理由2 生と死を特定の時点で分けることはできない(中略) 理由3 市は生物学的なものであるだけではなく、社会的なものである(p.134)特に、「理由1」は衝撃的でした。
2021.06.13
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三重県志摩市東部の的矢湾に浮かぶ渡鹿野島(わたかのじま)。 著者は、売春島”と呼ばれるこの島に出向き、住民から話を聞くと共に、 法務局で不動産登記簿を調べ、国会図書館で住宅地図を閲覧することで、 次のような事実を知ることになります。 まず、パブやスナックを装った置屋ができたのは1970年代のこと。 それまでは、宿泊施設はあったものの、寂れた離島だったということだ。 1980年代に入ると、パチンコ屋が出現するなど 飲み屋とギャンブル場が混在する繁華街の様相になる。 以降、1990年代にかけて置屋が乱立し、文字通り”売春島”の様相に。 ホテルなど商業施設もスクラップ&ビルドを繰り返していた。(中略) そして2000年代に突入すると、パーセルビーチが整備されるなど、 売春島”からの脱却が進められ、それに反比例するかのごとく、 現在に近づくにつれホテルや置屋が廃業していくのである。(p.66)さらに、過去の報道資料や関連書籍に当たるうち、帆船で物資を運搬していた時代には、この島が”風待ち港”として、それらの帆船を、物資調達や船員の休息のために受け入れていたことや、次の事実を知るのです。 走りがね(ハシリカネ)とは、江戸時代より明治30年代頃に鳥羽の名物であった、 船人相手の女郎のことである。(中略) 明治以降はハシリカネが禁じられたほか、汽船も登場し、 風待ちの必要がなくなると、船の出入りが徐々に減り、 ハシリカネも姿を消していく。 昭和10年代にはその姿を見なくなったという。 だが、それは遊郭へと形を変え以降も終戦後の1957年、 売春防止法の制定まで女郎の文化は続いた。(p.67)以降、著者はこの島の変遷をより明らかにすべく、次々に関係者を訪ね歩くことに。そして、かつて島の顔役として君臨した大型ホテル『つたや』の原所有者にも会います。その内装工事は中断されたままで、その理由は、次のようなものでした。 今、三重県や志摩市役所から私の資産を差し押さえる旨の督促状がきています。 内容は、競売での取得額が500万ほどのところ、 実際の『つたや』の不動産評価額が1億4000万ほどある。 すると、国に払う名義変更をするための登録免許税が300万ほど、 県に払う不動産取得税に至っては450万ほど。 そうして国が取って、県が取って、 今度は市に払う固定資産税が毎年280万ほどかかってしまうのです。 裁判所の競売で取得した物件は、不動産鑑定士が現場を確認し、 現状の評価額を鑑定して最低売却価格が決まります。 そうしてプロがつけた評価額が、当初は1000万ほどだったところ、 買い手がつかず500万まで下がり、私が購入しました。 そういう経緯があるので、今、不動産取得税は県に対して、 固定資産税は市に対して、物件の評価額が高すぎるという 『審査請求』の異議申し立てを始めたところです。(p.258)地方都市のリゾート地の別荘やホテル、寂れた駅前に立つビジネスホテルは、競売でタダ同然に売り出されていますが、なかなか再生されないのはこのような評価額のバカ高さからだと、この所有者は言います。取得後の税金を考えれば、タダでもいらない物件ばかりだとも。 ***最後の「評価額」の問題は、なるほどなと頷かされました。地域再生を目指すなら、何とかクリアしていかねばならない問題だと感じます。以前読んだ『飛田で生きる』が、そこで生きる人々をリアルに描き出したのに対し、本著は、ちょっと違う視点から島を見つめ、問題提起をしてくれています。
2021.02.28
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本著を読もうとする方は、 まず、本著の著者がどんな方かを、 ちゃんと知っておいてからにすることをお勧めします。 (著者は、東京大学大学院総合文化研究科の瀬地山角教授という方です) それを知らぬまま、私のようにタイトルだけで本著を手にし、読み始めると、 次のような一文を目にして、少々戸惑うことになってしまうかもしれません。 味の素の商品を食べると、 あんな世界に住むことになるのかと思うとおそろしくなり、 それ以来私は味の素の商品を一切買わないようにしています。 ついでにスーパーのひと言カードに 「Cook Doは味が子ども向けで、家族に不評です。他社のもお願いします」 と書いたりして、「ひとりボイコット」を楽しんでいます。 夏の講演でアイスコーヒーにブレンディ(これも味の素)を出されてしまったときには、 「すいません。ちょっとブレンディは思想信条の関係上、口にできないものでして……」。 関西の友人なら、即座に、「おまえどこの新興宗教やねん?」と ツッコミを入れてくれそうです。(p.22)巻末付録「広告の”炎上“史」には、本著で取り上げられている1970年代以降、ジェンダー的観点から問題、話題となったCMのリストが掲げられており、これらの問題に対する著者の捉え方、考え方がよく分かるようになっています。今の時代、これからの時代を生きていく上で、知っておくべき視点・考え方だと思いました。
2021.01.17
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副題は「歴史・人・旅に学ぶ生き方」。 著者は、2006年にライフネット生命保険株式会社を設立し、 2018年からは立命館大学アジア太平洋大学学長を務める出口治明さん。 1948年のお生まれなので、現在71歳か72歳のはず。 本のタイトルや副題から「還暦後の過ごし方指南書」をイメージしましたが、 本著に記されているのは、そういうジャンルのものとは全く別物でした。 還暦後、個々人が日々をどのように過ごしていくかに焦点を当てたものではなく、 日本の社会全体や経済活動の在り様、そしてそこに生きる人々について考察した内容。 日本経済の低迷は、新たな産業構造の牽引役になれるユニコーンが なかなか生まれないところに根本的な原因があります。 学者によれば、ユニコーンを生むキーワードは、 女性・ダイバーシティ・高学歴の3つだそうです。(p.39)著者は、このような人材が集い、育成される場が必要であるとし、それをAPU(立命館大学アジア太平洋大学)で取り組んでいると述べています。 世界のトップ企業たるGAFAやユニコーンでは、 自分の頭で考え、新しいアイディアを創造することが大切な 「頭を使う仕事」が中心です。 世界ではとっくの昔にパラダイムシフトしているのに、 日本だけが製造業の工場モデルに固執し続ければ、 競争力を失い世界に置いて行かれるのは当然です。(p.106)このような変化の中で、還暦後も「人・本・旅」による自己投資を行い、これまでの蓄積に頼らず、新しい物事を勉強し、チャレンジしていくことが大切。 動物の自立は自分で食い扶持を得ることなので、 だいたい20歳ぐらいまでを子供とすると、大人としての人生は80年あります。 そう考えると20歳からスタートして半分の40年が経過した60歳は、 ちょうど人生のど真ん中。 人生100年時代の60歳は折り返し地点と位置付けられます。 「60歳にになったからそろそろ人生も終わりに近い」と思っている人は、 定年制という歪んだ考えに毒されているのです。(p.53)まだまだ人生は長い。健康寿命を延ばすためにも働ける限りは働き続け、新しい世の中に置いて行かれることがないよう自身をアップデートしながら、好きなことを、やれることをやり続けましょう。
2020.09.26
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『言ってはいけない』の橘さんの手による一冊。 まず、『PART1「下級国民」の誕生』では、 バブル崩壊後の平成の労働市場が「下級国民」を生み出した経緯を論じ、 その後、令和の日本がどのような社会になるかを展望しています。 平成が「団塊の世代の雇用(正社員の既得権)を守る」ための 30年だったとするならば、 令和の前半は「団塊の世代の年金を守る」ための20年になる以外はありません。(p.73)このことが、実に明快に表現されているのは、次の部分です。 先日、経済官庁の若手官僚と話をする機会がありました。 たまたまこの話題になって、 「働き方改革がようやく始まったが社会保障改革はどうなるのか」と訊いたら、 彼はしばらくきょとんとした顔をしていて、 それから「誰も改革なんかに興味ありませんよ」といいました。 私はすぐにその意味がわからなかったのですが、 その後、2020年の人口ピラミッド(図表8)を見て 彼がいわんとしたことを理解できました。 団塊の世代は政治家にとって最大の票田です。 彼らの死活的な利害が「会社(日本的雇用)」から「年金」に移ったことで 「働き方改革」は進められるようになったものの、 年金と医療・介護保険の「社会保障改革」はますます困難になりました。(p.77)結局、政治家は「社会にとって必要なことをする」のではなく、「自分を議員にしてくれる人たちの欲することをする」ということです。そして、そういう政治を、多くの人たちも望んでいる。このような状況は、民主政治という仕組みをとり続ける限り続くのでしょう。そして、『PART2「モテ」と「非モテ」の分断』では、現代日本社会における「下流」の大半は高卒・高校中退の「軽学歴」層であり、ポジティブ感情(幸福度)は、この非大卒において低くなっているとしたうえで、大卒の若い男性で、なぜそれが低くなっているのかについて論じていきます。また、『PART3 世界を揺るがす「上級/下級」の分断』では、現在の世界各国の状況について概観していきます。 1960年代以降の「後期近代」の中核に位置する価値観は 「自分の人生を自由に選択する」、すなわち「自己実現」です。 そしてこれが「平等」と結びつきます。 なぜそのようになるかはとてもシンプルで、 「他者の自由を認めなければ自分の自由もない」からです。(中略) リベラルな社会では、ひとびとは「私が自由に生きているのだから。 私の利益を侵さないかぎり、あなたにも同じように自由に生きる権利がある」 と考えるようになります。 これは「他者の自己実現には干渉しない」ということであり、 わかりやすくいえば「あなたの勝手にすればいいでしょ」になります。(p.155)このような「リベラル化」が世界中で進んだことから、個人の自由を拒む者は即座に「悪」のレッテルを貼られ、共同体の解体が進み、人間関係は即興的なものに変わっていきました。そして、自由と引き換えに、究極の自己責任が求められるようになったのです。また、「知識社会」「リベラル化」「グローバル化」は三位一体の現象であり、「グローバル化」によって、数億人が貧困から脱出することが出来ました。しかし、このことによって世界全体における不平等は急速に縮小したものの、先進国においては、中間層が崩壊してしまうという事態が生じてしまいました。米国において、中間階級から脱落しかけている白人ブルーワーカーたちは、東部や西海岸のエリートである白人リベラルからバカにされるだけでなく、アファーマティブアクションにより黒人などからも抜け駆けされていると感じており、誰からも同情されない「見捨てられた人々」になっている状況です。仕事も家族も友人も失った彼らは、「プアホワイト」と呼ばれ、自分が「白人」であることしか誇れるものがなく、「白人至上主義」へと傾倒していきました。一方、ヴァーチャル空間でグローバルな仮想共同体を形成したリベラルは、自分たちの社会に興味を失い、現実世界から撤退し始めるだろうと著者は述べています。そして、ポピュリズムとは「下級国民による知識社会への抵抗運動」だとしたうえで、やがて「技術」と「魔術」の区別がつかなくなると「知能」はその意味を失ってしまい、「知識社会」は終焉を迎えることになるだろうと述べています。著者が指し示した未来の姿は、決して明るいものではありませんでした。
2020.05.23
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著者は、筑波大学医学医療系社会精神保健学教授の斎藤環さん。 ひきこもりの問題に、長く関わり続けられている方です。 そして、本著で扱われている「ひきこもり」の定義は、 次の2つがベースとなっています。 (1)6か月以上、自宅にひきこもって社会参加をしない状態が持続すること (2)ほかの精神障害がその第1の原因とは考えにくいこと15~39歳の若者だけを対象とした2016年の内閣府調査では、全国に54万人のひきこもり状態の人がいると推計されました。そして、40~64歳を対象とした2019年の内閣府調査では、全国に61万人ものひきこもり状態の人がいると推計されたのです。前回の調査と合わせると、その総数は115万人となりますが、著者は、地方における調査結果からすると、中高年のひきこもりは少なくとも100万人、全体では200万人になると指摘。80代の親が50台の子を世話せざるを得ない「8050問題」が発生していると言います。 *** しかし不思議なことに、自宅の近所には外出できないのに、 家族と一緒に海外旅行に出かけるのは平気な人もいます。 なぜかというと、彼らは「自宅の外」の世界そのものが怖いわけではなく、 外にある「世間」が怖いからです。 たとえば近隣住民の視線は怖いけれど、 日本人のいない海外にはそういう「世間」がないので怖くない。 だから、同じ海外旅行でも日本人と一緒のパックツアーを嫌う人は多いのです。 そこで初めて出会ったとしても、日本人のグループはすぐに 「世間」のような雰囲気が生じてしまうからです。(p.61)これは分かる気がします。確かに、自分の存在や行動を何かにつけジャッジしようとする目、即ち「世間」が気になって、外に出ることが出来ないのでしょう。そして、自分に自信がないから、そのジャッジはネガティブなものとしか考えられない。 言葉というのは「誰が言うか」によって意味合いが違ってくるのでしょう。 親や医師が同じことを言ってもうんざりするだけなのに、 同世代にそう言われるとモチベーションが上がることがあるのです。(p.134)これも、とてもよく分かります。誰が、どんなタイミングで、どんな風に語り掛けるかで、同じ言葉でも、伝わり方は全く違ってしまいます。どのようにすれば相手に響く言葉になるか、それを考えることが大切ですね。 ひきこもりの人は自分の人生を失敗だと思い込んでいますが、 それを「自分のせい」とばかりは考えません。 この辛い現状は、多少は自分のせいでもあるにせよ、 おもな原因は親にあると考えがちです。 そういう視点で親がやってきたことを思い返せば、 その中から「原因」を探すのは難しいことではありません。(中略) 過去の不本意な出来事を、すべて現状の原因だと決めつけてしまうわけです。 そんな事実はないのに、 親から虐待されていたかのように思い込んでしまう人もいますから、 親にしてみれば理不尽な話でしょう。(p.147)これは、双方にとって、とても辛い現実です。だれもが、苦しい現状から逃れようと、その原因を探そうとするのですが、そのことばかりとらわれ過ぎると、こういった状況に陥りかねないことを、私たちは、しっかりと心に留めておく必要があります。 成熟とは一般に、何かを失い、諦めていく過程でもあります。 それゆえ成熟を忌避する人も少なからず存在します。 成熟しないことが許される社会で、 未成熟さにとどまる人が増加するのは自然なことです。(p.203)これも、よく分かります。成長する過程で、現実と自分自身をより正確に把握、理解出来るようになり、その中で、現実に即して、自分自身をよりベターな方向へと推し進めていく。そのことを躊躇すれば、そこから先へは進んでいけません。
2020.05.16
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不勉強にも、私は筆者の先崎さんについてどんな方か全く知らぬまま、 タイトルに興味をひかれて、本著を手にしました。 そのような事情から、本著を読み始めたとき、 自分が勝手に抱いていたイメージと、随分異なる一冊だと感じました。 先崎さんは、日本大学危機管理学部教授で、近代日本思想史を専門とする方。 本著「まえがき」には、2017年は明治維新の勉強に没頭したと記されています。 また、本著では「辞書的基底」をキーワードに、現在の社会現象を斬ってみるとともに、 明治から戦前の日本思想を総動員して、時代を立体的に見てみるとも。 *** 各人が経済活動を自在に行うことで競争がおこり、 新規の発想によって市場が活性化され、もうける者と損する者とがでてくる。 これが自由主義的な発想です。 たいする民主主義的な発想では、 できる限り多くの者が平等であるべきだという方向性を持っている。 自由主義と民主主義は本来、対立的な発想なのであって、 どちらかに過度に傾斜すると、 反対方向にこれまた過剰に揺り戻しがおこるばあいがあるのです。(p.31)著者は、大正時代と現代は似ていると述べています。行き過ぎた自由主義的政策の結果、犠牲者が出てしまったと。 本来、政治とはあくまでも「悪魔との取引」にすぎないはずだ。 政治とは善悪が混在し、清濁併せ呑む世界であり、 純粋でも美しくもない行為なのであって、 美の論理と政治の論理は区別する必要があるのだ、と。(p.37)これは、「美と政治は切っても切れない関係にある」とした三島由紀夫に対し、政治思想史家の橋川文三が「美の論理と政治の論理」という論文で、両者の区別を強調したことについて、著者が述べた部分です。強烈なインパクトと共に、頷ける内容だと感じました。 人は、態度のよくない隣人や怒鳴り散らす会社の上司、家族とのあいだの対立、 嫉妬や葛藤などを日々処理しながら生きているのであって、 周囲の人間関係の複雑な機微のなかで、人生の糸を紡いでいる。 日常性とは、呆れはてるような不断の調整の積み重ねなのです。 生きることに絶対の解決方法、万能薬などありません。 人は、反権力にも、正義にも、世界平和にも、酔い痴れることができます。 そこに「政治」が生まれてしまう。 でも政治的熱狂だけでは、人間の幸福は実現しない。 「人間」はもっと複雑な生き物、あるいは慎み深い生き物だからです。(p.165)「深いなぁ」と思いました。まさに、日常性とは「不断の調整の積み重ね」です。今、私たちは、コロナの影響でとても厳しい状況の真只中ですが、コロナ以前も、コロナ以後も、常に「不断の調整の積み重ね」に変わりはありません。
2020.05.09
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副題は「すごい人ほどダメだった!」 夏目漱石、ノーベル、ベートーヴェン、スティーブ・ジョブズ等々、 後世に名を遺した偉人たちにも、実は様々な失敗があった! そんな24のエピソードをまとめた一冊。 色んな失敗を乗り越えた後、これらの人たちは名声を勝ち得たのです。 しかしながら、トータルしてみると相当悲惨な人生を歩んだ人もいますし、 生きている間は、全く世間に受け入れてもらえなかった人もいます。 良い時期が長ぁ~く続いたという人は、そうそういない感じ。 さて、これらの偉人たちは、数々の名言を残していますが、その中で、私の印象に最も残ったのは、アインシュタインの次の言葉。「常識とは、18才までに身につけた偏見(かたよった見方)のコレクションである」スゴイと思いません?しかし、それ以上に印象深いのが、数々の偉人たちの失敗談の後に記されている本著の著者・大野さんのコメント。これが、本当にイイんです。例えば、二宮尊徳のエピソード「にげ出す」の後に書き添えれた次の言葉。 たしかに、どんなにツラくてもにげずにがんばるというのは、 とても美しいことです。 でも、本当に「自分の力ではどうしようもできない!」と感じたときは、 その気持ちにまかせて、にげちゃいましょう。(p.15)どうです?イケてるでしょ?オードリー・ヘップバーンの「コンプレックスをかかえる」の後のコメントも良いですよ。 地道な努力で手に入れたものがふえると、自分の好きな部分もふえていきます。 そして、ある日、これまで自分をなやませていたコンプレックスに対して、 こう思うようになります。「ま、いっか。それも自分」(p.93)子供向けに書かれた本のようですが、大人が読んでも胸に響くものが多々あります。そこらへんの自己啓発書より、きっとあなたの成長を促してくれる一冊です。
2020.05.07
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副題は「ラジオニュースの現場から」。 著者は、ニッポン放送でニュース番組を担当している飯田浩二さん。 私が住む地域では、ニッポン放送を直接受信することは出来ないので、 飯田さんが担当する番組を聞いたことはありません。 *** これは特に映像メディアに顕著なのですが、 せっかく現地に出張したからにはどうしても「強い絵」を撮って流そうとします。 そのため、たとえほとんどの風景が平穏であっても、 「どこかにそれっぽい絵はないか」と探してしまうのです。 しかし、それがその土地の実情を伝えているかといえば そんなことはありません。(p.99)きっと、そうなのだと思います。私たちはそれを踏まえたうえで、メディアからの情報を受け取らねばなりません。 たとえば、築地市場の豊洲への移転問題。 豊洲市場の問題が様々に指摘された後、 徐々に科学的には問題がないと分かってきた頃にも、 マスコミは新市場を叩き続けました。 しかし、いざ開場すると、テレビを中心に新しいテーマパークが出来ました♪ とばかりの大歓迎ムード。 圧倒的な変わり身の早さに驚いたものです。(中略) 雰囲気に流されて報道すれば、いっとき視聴率は稼げるのかもしれませんが、 その結果視聴者を間違った方向へとミスリードすることになります。(p.101)これぞ、まさにザ・マスコミ!今現在の状況も、そうなっていないかと大いに危惧します。 現実として安心と安全は違います。 私の個人的な理解は、安全は科学的な根拠により担保されるものである一方、 安心とは”心”という文字が入っているように人間の心の部分、 信条に深く依存するということです。 安全であるという科学的な事実を根拠に説明することは可能でしょうが、 そこから先の安心にまで行きつくかどうかは人それぞれ。(中略) では、そのような中でメディアの役割はどこにあるのでしょうか? 科学的に安全なのであれば、 報道する者としては「安全への懸念」にも配慮しながら、 安全という「事実」に立脚した報道をすべきなのではないのでしょうか。(p.118)これは、福島県の原発事故後の報道について言及した部分ですが、現状にも当てはまるのではないかと感じました。相手が未知のウイルスであることから、まだまだ不確定な情報が多いにもかかわらず、様々な人たちが自分の感情を発信し続けることで、世間が混乱しているように思います。
2020.04.26
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著者のWWUK(ウォーク)さんは、 日韓の歴史問題や時事問題について、動画投稿を行っているユーチューバー。 韓国の人々やメディアからは、その内容が「嫌韓」「親日」であると非難され、 殺害予告まで受ける状況になっているとのこと。 WWUKさんは、韓国のソウル生まれ。 父親は会社の仕事でよく日本に出張し、ある程度は日本語が話せる人だったようです。 小学2年生の頃には、両親や祖母と日本の関西方面を観光。 そして、中学2年生の途中からは、両親の勧めでオーストラリアに留学しました。そこで、日本人の生徒と仲良くなったことから、日本に対する印象を改めることに。その後、両親を説得して日本の高校へ入学、専門学校卒業後も日本で就職しました。このように、日本で十数年の日々を過ごし、現在は日本に帰化申請中。将来的には、韓国にいる両親にも日本に来てもらおうと考えているとのこと。 *** たとえ事実であろうと、韓国を非難するのは「ヘイト」、 日本に対する非難は「表現の自由」というダブルスタンダードが韓国のやり方です (日本の多くのマスコミとジャーナリズムも同じです)。 僕の知っているだけでも、慰安婦問題の動画が5つほど削除されました。(中略) 「歴史歪曲禁止法」とは、 2018年12月に与党の「共に民主党」が国会に提出した新たな反日法案で、 韓国でいう日本の植民地時代を賛美、歪曲する団体と個人を 刑法で処罰するというものです。 具体的には、慰安婦をはじめ、 韓国側が主張する日本の植民地支配と侵略戦争行為を否定したりすると、 2年以下の懲役または2千ウォン以下の罰金が科されます。 これが適用されたら、僕の動画などひとたまりもありません。(p.68)政府は自らの方針に反する意見を抹殺しようとしている。そのために、「従軍慰安婦」や「日本統治時代」を肯定するコンテンツをこまめに探索し、片っ端から動画を削除していっているのだと著者は言います。そして、この現状に対し次のように述べているのです。 これまで韓国人は、 「中国はネット規制や情報統制、言論弾圧までされて可哀そうに」と 中国人に同情していましたが、そんなことは言ってられなくなりました。 自分たちの足元に火がつきはじめたのです。(p.69)
2020.04.05
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読み終えた時、久々に付箋だらけになってしまいました。 よく売れたのも頷けます。 私たちが、いかに思い込みにとらわれているかに気付かされます。 誰もが読んでおくべき一冊です。 *** いったいなぜ、金持ちと貧しい者のあいだに分断が存在するという考え方が、 ここまで根強く残っているのだろうか。 わたしが思うに、人はドラマチックな本能のせいで、 何事も2つのグループに分けて考えたがるからだろう。 いわゆる「二項対立」を求めるのだ。 良いか悪いか、正義か悪か、自国か他国か。 世界を2つに分けるのは、シンプルだし直感的かもしれない。 しかも双方が対立していればなおドラマチックだ。 わたしたちはいつも気づかないうちに、世界を2つに分けている。(p.050)著者は、「多くの場合、実際には分断はなく、誰もいないと思われていた中間部分に大半の人がいる」(p.059)と述べています。分布を調べ、2つのグループの重なりに注目するという姿勢は、とても大切ですね。また、高いところから低いところを正確に見ることの難しさも、指摘の通りでしょう。 人々が「世界はどんどん悪くなっている」という思い込みから なかなか抜け出せない原因は「ネガティブ本能」にある。 ネガティブ本能とは、物事のポジティブな面よりも ネガティブな面に気づきやすいという本能だ。 ネガティブ本能を刺激する要因は3つある。 (1)あやふやな過去の記憶、 (2)ジャーナリストや活動家による偏った報道、 (3)状況がまだまだ悪いときに、 「以前に比べたら良くなっている」と言いづらい空気だ。(p.083)良い出来事はニュースになりにくく、悪いニュースの方が広まりやすい。悪いニュースが増えても、悪い出来事が増えたとは限らない。過去は美化されやすく、「悪い」と「良くなっている」は両立する。これらの著者の指摘も、大いに頷けます。 メディアはメディアで、わたしたちの恐怖本能を利用せざるを得ない。 恐怖本能を刺激することで、あまりにもたやすく、 わたしたちの関心を引くことができるからだ。 特に2種類の恐怖を同時に煽ることできれば、効果はバツグンだ。(p.137)あなたのもとには恐ろしい情報ばかりが届いている。そのため、世界は実際より恐ろしく見えてしまっている。リスクは「危険度」×「頻度」で決まるのであり、恐ろしさでは決まらない。パニックに陥らず落ち着いて行動しよう、という著者の言葉には説得力があります。 メディアは過大視本脳につけこむのが得意だ。 ジャーナリストたちは、さまざまな事件、事実、数字を、 実際よりも重要であるかのように伝えたがる。 また、「苦しんでいる人たちから目を背けるのは、なんとなく後ろめたい」 と思う気持ちを、メディアは逆手に取ろうとする。(p.167)「過大視本脳を抑えるには、比較したり、割り算をするといい。」(p.185)数字を、それ単体だけ見て終わりにするのではなく、全体の中で、その意味しているところを、正確に理解しようということでしょう。「80・20ルール」も使えると思いました。以上、本著で示された「分断本能」「ネガティブ本能」「恐怖本能」そして、「過大視本能」の部分についてまとめてみましたが、これ以外の、「直線本能」「パターン化本能」「宿命本能」「単純化本能」「犯人捜し本能」「焦り本能」も、本当に納得できるものばかりでした。何かの情報を得たとき、「自分はその情報を正しく受け止め、判断できているのか?」と、今一度、立ち止まって考えてみることの大切さを本著は教えてくれました。様々な情報が飛び交う今だからこそ、価値ある一冊だと思います。
2020.01.26
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小野さんの著作を始めて読んだのは『新版 家族喰い』。 「尼崎連続変死事件」という、7家に及ぶ複雑で陰惨な事件を描き出した作品で、 首謀者・美代子は、私達とは異なる世界の中で生きているとしか思えなかった。 また、それを描き出した著者の小野さんにも、強烈な興味を抱くこととなった。 そして、本作は、美代子を含む10人の連続殺人犯について述べられている。 どれもこれも、事件発覚当時、世間を大いに驚かせた重大犯罪ばかりで、 そこに記されている事件の様態は、とても人間の為せる業とは思えないものばかり。 改めて、このような存在と共に、この世に同居している事実に愕然とさせられた。さらに、これらの凶悪犯罪事件と正面から向き合い、捕らえられた犯人と、実際に面会を繰り返しながら、事の真相に迫り、また、周囲の関係者のもとにも再三足を運んで、事件の全体像を把握しようとする著者の行動力と精神力にも、さらに興味・関心を高めることとなった。巻末の著者自身による「殺人犯との対話のあとに」や「悪に選り分けられた者たち - 文庫版あとがき」を読むと、それらの作業がどれほどのものであるか、その一端を伺い知ることが出来る。また、重松清さんの「解説」も秀逸である。
2020.01.13
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近年、インバウンド(訪日外国人)の数は飛脚的な伸びを見せてます。 「観光立国」を目指す政府としては、ねらい通りなのでしょうが、 観光客の急増により、「観光公害」ともいうべき現象が各地で発生しています。 京都をはじめ日本各地で、昔ながらの風情が失われつつあるのです。 この「オーバーツーリズム(観光過剰)」は、世界中で問題になっています。 バルセロナやフィレンツェなどでは、観光客により住民の生活が脅かされ、 「ツーリズモフォビア(観光恐怖症)」という造語まで誕生しています。 今、適切な「マネージメント」と「コントロール」が求められているのです。 *** 一方、宮内庁が管理する京都の桂離宮や修学院離宮も名所ですが、 これらは観光ブームが始まる以前から事前申し込み制を採用し、 観光公害をまぬかれた成功例です。 桂離宮はネットを通じて予約申請ができ、 18年秋からは入場料を徴収するようになりました。 先駆けてそのような「コントロール」を行ってきたからこそ、 価値が守られているといえるでしょう。(p.86)本著にも記されているように、京都の観光地では、平日でも人が溢れかえっています。清水寺や錦市場、嵐山等は連日大賑わいで、外国人の占める割合は相当なものです。それに比べ、宮内庁管理の京都御所や京都仙洞御所、桂離宮、修学院離宮は別世界です。職員の方の丁寧な説明を聞きながら、本来の風情をゆっくりと味わうことが出来ます。 「不便はすなわち悪」、 あるいは「醜悪な建造物を見ても何も感じない」といった意識が強いままでは、 国にどんなに観光資源に恵まれた場所があろうとも、真の観光立国に結び付きません。 その意味で、観光公害の責任は行政や業者だけでなく、 国民自身にもあるのです。(p.117)素朴で美しい景色の中に、観光客に便利なようにと道路や駐車場を建設し、安全性を高めるために、山や川にコンクリートを敷き詰め、景観にそぐわないハコモノを建設することを、著者は嘆いています。本当に大事なものを守り、それを見てもらい、味わってもらうことが大切なのです。 言語だけでなく、さまざまな文化や生活習慣を背景に持つ観光客に対して、 どのようにマナーを喚起するか。 それについては世界中が試行錯誤を続けている最中です。(p.135)観光地には、「旅の恥はかき捨て」という心理が働くためなのか、それとも、自国での常識が訪問先の国の常識と異なるためなのか、目を覆いたくなるようなマナー違反やルール違反が溢れています。そして、この状況は、世界各地の観光地で起こっているようです。 一方で第1章で触れたように、 歴史として日本は江戸時代末期に「開国」されたものの、 本当の意味での開国はなかなか達成されなかった、という事情があります。 現在のインバウンド増加で これまであまり見かけなかった国からも観光客がやって来るようになり、 ようやく本当の開国が始まった、というのが現状です。(p.161)これは、島国日本も、全世界的な情報網や交通網の発展の中で、いよいよ真の国際化を迫られる状況になったということでしょう。こんなにもたくさんの外国人が、日本国内を闊歩する状況はこれまでなかったことで、どのように対応すべきか、まさに今、早急な対応を迫られているのです。 ではもう一つの個人旅行者を誘致する「小型観光」をモデルに考えてみましょう。 徳島県の一棟貸しの宿泊施設群「桃源郷祖谷の山里」と「篪庵」の9件で、 1年に約3000人が宿泊しています。 1日にすると約10人ですので、地元の生活などへの悪影響はほとんどありません。 ここに来る人たちは、宿泊を伴いつつ、それ以外にもお金を使ってくれます。 宿泊や食事代などの金額を推計すると、一人あたり1日で約1万5000円弱です。 一方で。大型バスでのスポット観光はどうか。 一般的に計算すると、40分ほど滞在する場合、自販機の飲み物代と土産物代、 それに駐車場代を加えて、一人700円ほどと推計できます。 この計算では同じ売り上げを達成するためには、 6万人以上の旅行者が必要となってしまう。(p.184)これは、本著における著者の主張の中でも特に重要と思われるものであり、今後、日本が「観光立国」を掲げ続けるならば、絶対に押さえておかねばならないことだと感じました。そのことにより、日本の「良きもの」を守り、観光客に楽しんでもらえると思います。
2020.01.12
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今、話題の書。 百田さんの『今こそ、韓国に謝ろう そして、「さらば」と言おう』にも、 私がこれまで知らなかったことがたくさん書かれていましたが、 本著は、それを上回る内容と密度でグイグイと迫ってきます。 そのプロローグのタイトルは「嘘の国」。 小見出しは「嘘をつく国民」「嘘をつく政治」「嘘つきの学問」「嘘の裁判」等々。 書かれた方としては、もちろん面白くはないでしょう。 ましてや、それを書いているのが、身内の側のはずの人間であれば、なおさら。朝鮮土地調査事業による土地収奪、朝鮮米強奪、強制動員、強制徴用、賃金差別等、本著では、その実態を調査資料に基づきながら明らかにしていきます。そのうえで、韓日請求権協定や韓日会談について論じ、さらに、白頭山神話や独島、鉄杭神話、旧総督府庁舎解体に話は及んでいきます。そして、親日清算、被害賠償請求、反日種族主義について論じた後、慰安婦問題について大きく紙幅を割いて、様々な角度から検証、論述していきます。この部分は、本著の中でも中核となる部分であり、改めて、この問題が日韓の間で大きな障壁となっていることに気付かされます。日本国内でも、様々な立場の人が、それぞれの立場から資料を収集・提示し、それらに基づいて、それぞれの主張を展開しています(新聞もしかり)。韓国内でも、当然そのようなことがあっても不思議はないのですが、自国に対し批判的な意見への圧力は、日本の比ではないように感じます。もちろん、私達には、提示された資料の信憑性を含め、何が真実なのか、本当のところ知る由もありません。声が大きいとか、多数の人が支持しているとか、よりもっともらしいというのは、決して、真実であることの裏付けにはならないのです。
2019.12.01
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作家でジャーナリストの門田隆将さんによる一冊。 著者は、週刊新潮編集部で記者、デスク、次長、副部長を務めた方だが、 ytvの「そこまで言って委員会NP」を見てる方なら、 どんな考えの持ち主かは、よくご存知のはず。 本著は、そんな門田さんが産経新聞に連載している「新聞に喝!」と、 月刊『正論』に掲載された原稿を元に加筆、再構成したもの。 2014年の夏から今年の春までの間に書かれたものが、 各項目ごとに、時間を前後に行き来しつつ掲載されている。「新聞」と一口に言っても、そこに掲載される内容は、新聞社によって大いに異なるものである。著者は各新聞社の個性について語り、時には痛烈な批難を加えている。もちろん、「新聞」というメディア全体に向けての提言も忘れてはいない。
2019.11.30
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歴史上稀なる優れた功績を残し、後世にその名を知られる偉人・賢人。 本著は、その偉人・賢人たちの、偉業達成後の人生について教えてくれる。 平穏で充実した人生の終末期を過ごした者もいれば、 華やかだった人生のピーク以後は、苦境の連続だった者もいる。 取り上げられているのは、古代の偉人として、小野妹子、鑑真、藤原道長の3人、 中世の偉人として、平清盛、源義経、北条政子ら6人、 近世の偉人として、明智光秀、足利義昭、石田三成ら14人、 そして、近代の偉人として、西郷隆盛、陸奥宗光、中江兆民ら7人。 *** 朝廷の実権を握り、摂関政治の全盛期を築き、 この世の春を謳歌した藤原道長だったが、 まるで望月の歌がきっかけになったように、以後の人生は暗転し、 とくに晩年の数年間は、病と怨霊に苦しめられたうえ、 娘や息子に先立たれるという、不孝な生活を送ったのである。(p.41)人生の波の振れ幅が、最も大きかったのではないかと私が感じたのは、この藤原道長。平清盛や源義経らも、それに近いものがある。それに対し、教科書が描きだす歴史舞台からの退場後に、さらに活動し続けた者もいた。例えば、次の足利義昭。 いずれにせよ、足利義昭は京都から追い出された後も、 幕府の再興のために積極的に政治活動をおこなっていたのだ。 まさに執念の男といえるだろう。(p.111)そして、私が本著の中で、特に印象に残ったのが、ひたすら大好きな絵だけを描き続け、臨終の間際まで向上心の塊だった葛飾北斎と、剃刀と呼ばれた天才でありながら、総理の椅子を目前に病に倒れた陸奥宗光。一休宗純や中江兆民は、これまで持っていたイメージからかなり離れた人物であった。
2019.11.23
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副題は「追いつめられた家族の告白」。 本著は、2015年12月~2016年6月に毎日新聞(大阪本社発行版)で展開された シリーズ企画「介護家族」に大幅加筆・訂正して2016年に発行したものを、 2019年6月に文庫版として出版したもの。 ***認知症の配偶者を在宅介護している夫、そして妻。長期にわたり、母親への献身的介護生活を続けている娘、そして息子。重い障害を持つわが子を、介護し続けている高齢の母親。祖父の介護をするため、自らの夢を捨てることになった孫。重度障害者の娘を自宅介護していた妻が認知症になったため、娘と妻の二人を介護する高齢の夫。今や、周囲を見渡せば、珍しくなくなってしまった家族模様。決して他人事ではなく、いつ誰がこのような状況になっても不思議はない。そして、そのような生活に、精神的に、そして経済的に行き詰まり、周囲からの支援が思うように得られぬまま、限界を超えてしまった時…… ***巻末の重松清さんによる「解説」が秀逸。ぜひ一読を。
2019.11.04
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本著は、2017年6月に刊行された『今こそ、韓国に謝ろう』に 加筆・訂正を施し、2019年3月に文庫版として発行されたもの。 2017年に比べ、文庫版発行時点で日韓関係は確実に悪化していたし、 その後、好転する気配の全くないまま現在に至っている。 本著は、「併合時代」に何が起こっていたかを詳細に記述した一冊。 こういった事柄について知る機会は、実はなかなかないもので、 「そうだったのか」という内容が目白押し。 「読んでよかった」と思える一冊であることは間違いない。もちろん、百田さんが書いたものであるから、そのあたりのことは、十分念頭に置いて読み進めるべきだし、ここに記載されている内容が、すべて事実かどうかは分からない。それでもなお、次の記述には驚かされた。 韓国出身の拓殖大学教授の呉善花氏の著書 『韓国 倫理崩壊1998-2008』(三交社)によると、 韓国語文教研究会による一般人四十名を対象とした調査で、 「竪穴式石室発掘」および「高速道路慶州駅舎予定地」を ハングルで書いてまともに読めるひとは一人もいなかったそうです。 中には前者を「人を殺してその血を墓の中に入れること」と答えた者もおり、 後者を「慶州にある歴史遺物を一か所に集めて保管する予定地」と 答えた者がいるなど、 いずれの理解も奇想天外なものばかりだったといいます。(p.127)これは近年になって、韓国で漢字をほとんど追放し、すべてハングルで記述するようになったためと、同音意義語が多い韓国語を、ハングルだけで記述するとすぐに意味が読み取れないことが多いからだとのこと。日本における近年の語学教育の動向を見ると、とても他人事とは思えない。
2019.10.20
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