秋に咲くヒマワリ・・なのかもね。

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2023.12.22
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岩谷時子さんのことを思い出して調べてみました。越路吹雪さんとの縁や、数々の作詞、訳詞の多さにびっくり。特に加山雄三さんの雄大なメロディーに、思わず情景が浮かび上がる岩谷さんの繊細で心に絡みつく歌詞はマッチしていると思いました。


■参考リンク


至言
作詞家とは一人では成り立たない 
歌手、作曲家、編曲者、オーケストラ
そして大衆が支えて下さるもの
女性作詞家の草分け、岩谷時子。昭和27年越路吹雪の「愛の讃歌」で戦後初の女性作詞家として登場。シャンソンをはじめ日本のポップス、歌謡曲からミュージカルまで幅広い分野で活躍、様々な愛の世界を歌い上げた。
岩谷時子は大正5年に生まれ、兵庫県の西宮で育った。宝塚歌劇に親しみ、古今東西の詩を愛読していた文学少女は、やがて宝塚歌劇団発行の雑誌に随筆や小説を投稿するようになる。それが縁で神戸女学院の英文科卒業後の昭和17年、歌劇団の編集部に就職した。ここで越路吹雪と運命的な出会いをする。類い稀な表現力を持った越路との出会いが岩谷の才能を開花させる。戦後、越路が宝塚を離れ上京すると「越路吹雪のマネージャー」と称して訳詞を担当「愛の讃歌」「サン・トワ・マミ」など数々のヒット曲を生んだ。その後、ザ・ピーナッツ「ふりむかないで」「恋の季節」、岸洋子「夜明けの歌」、ピンキーとキラーズ「恋の季節」など大ヒット曲を飛ばし続け、売れっ子作詞家となる。作曲を手掛ける加山雄三との出会いは岩谷にとって新しい時代を予感させるものだった。「君といつまでも」「お嫁においで」加山雄三の爽やかさをイメージした岩谷の詞は純愛とロマンに満ち溢れたものとなった。一方、岩谷がライフワークとしたのはミュージカルだった。「ウエストサイド物語」「レ・ミゼラブル」は何度も再演され、その度に稽古に立ち会い、訳詞のやり直しをし続けた。西洋のメロディに美しい日本語を生かすことに情熱を燃やし続けた。

Wikipedia:岩谷時子

略歴
越路吹雪と歩んだ半生
1916年、京城府(現在のソウル特別市)生まれ。先祖は幕末維新に「石見尊徳」と敬われた島根県大田市の篤農家・岩谷九十老[1][2]。祖父は京畿道の初代長官だったので、京城で生まれたのだが時子が生まれた日に退官した。父親は東京高等商業学校(一橋大学の前身校)を出て貿易商社勤めで、母親は明治のモダンな女性だった[3]。5歳の頃に兵庫県西宮市に移住。西宮市立浜脇小学校、西宮市立安井小学校、西宮市立西宮高等女学校(現・西宮市立西宮高等学校)を経て、神戸女学院大学部に進学。1939年に神戸女学院大学部英文科を卒業後に、宝塚歌劇団出版部に就職。宝塚歌劇団の機関誌である『歌劇』の編集長を務めた。
そうした中、偶然宝塚歌劇団編集部にやってきた8歳下の当時タカラジェンヌで15歳の越路吹雪と出会う。2人は意気投合し、越路の相談相手となる。越路が宝塚歌劇団を退団して歌手になりたいと相談したとき、岩谷も退職を決意。小林一三が一人では不安だからと同行させて上京し、東宝文芸部所属になる[3]。越路の付き人を務めた。その後、自らが作詞家として成功しても自分の本業を聞かれるたび「越路吹雪のマネージャー」と答えていた。
1951年から1963年までは東宝文芸部に所属。会社員として働く傍ら越路をサポートし、越路が亡くなるまでの約30年間、マネージャーとして強い信頼関係で支え続けていた。
以下略。
2023.12.29リンク切れにより差し替え。















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Last updated  2023.12.29 18:45:27


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