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さて、結婚式当日も暑かったです。それに蒸し暑かった。😓(^_^;)その日は午前中に何組かのセレモ二-があるのか、区の庁舎にはカップルやその家族の姿がそこかしこで見られました。まあ、式とはいっても10‐15分足らずのものですから、別に緊張するとかは無いのですが…。係の人に呼ばれて会場に入り、私と彼女は主役ですから中央最前列に腰掛けます。それが次の写真です。 左から私(前列左から2番目)サイドの唯一の出席者であるとともにTémoinでもある会社の友人で、当時ブリュッセル駐在だったT氏、彼女Cricri、彼女の親友でTémoinでもあるVéronique、そして彼女Cricriの母親です。そして指輪の交換、いやその前にもう一つ儀式がありました。実はここでヘマをやってしまいました。新郎新婦の宣誓(誓いの言葉?)と言うのでしょうか、区長が「新郎は新婦誰々を一生妻として添い遂げることを誓いますか?」と尋ねた時に、当然新郎は「Oui」と答えるのですが、その時私は別のことを考えていたようで、区長の問いかけを聞いていませんでした。という事は、私は「Oui」という返事をしなかったのです。いつまで経ってもボケ―ッとしている私をCricriが肘で突いてくれたので、やっとのことで私も我に返り、「Oui」と大声で答えたのです。恥ずかしかったなぁ。このことはその後しばらく結婚式の話をするときに、必ずと言っていいほど話題に上ったものでした。そして指輪交換です。 指輪は、3色の金の3つのリングが絡み合ったものにしました。買ったのは彼女が仕事で知り合ったジュエリ-ショップで、かなり割引いてもらったのを覚えています。そういえば思い出しました。このフランスの国旗をデザインした襷を初めて見た時、何故か笑ってしまいましたこの襷を着けると何か急にマンガチックになるんですよ そうだ忘れるところでした。写真を見てお分かりのように、彼女も私も結婚式の服装はカジュアルに毛の生えた服装でした。特に彼女は結婚式と言えば当然ウェディングドレス、という願望は無かったようで、何処かでドレスに代わる白い服を調達してきたようです。私はと言えば、当然白のタキシ-ドは持っていなかったので、最も薄い色のスーツにしました。 後は庁舎の庭や正面での記念撮影です。 とのことで私たちの結婚式は終了です。これからアパ-トに戻ってパーティ―となりますそれ程広くないアパ-トに50人ほどの方がいらしてくれたので、暑さと狭苦しさで皆大汗をかいてしまいました。暑かった-そういう悲惨な状態だったので、ここではお出しした軽食の写真のみといたします。これを2-3テーブルほど出したのかな。 そして、最後はディナ-ですね。確かアパ-ト近くのレストランでした。式に出席していただいた人プラス希望者だから、25人ほどでしょうか。 Véronique(中央)と彼氏の Martin(右) ディ-ナ-で2人が映っている唯一の写真です。 妻の2人の姪で左からグウェナエル(綴りを忘れてしまいました)とKristelle。結婚式の前日に、Kristelleが「Christineと結婚してくれて本当に嬉しい」と言ってくれた時は、ちょっと驚きましたが私も嬉しかったですね。そんな小さなことまで結構覚えているものなんですねぇ。という事でその夜は閉店まで大いに騒ぎましたその後もアパ-トで騒いだような気もしますが、全く記憶がありません。完全にガス切れでだったのかな…。言葉に表せない程楽しく幸せな一日でしたが、ものすごく長くて疲れた一日でもありました。 終わってホッとしたのを覚えています。2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.25
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このシリ-ズもそろそろ終わりに近づいてきたようです。今回は、1988年x月xx日に執り行われた私の結婚式について書こうと思います。まあ、特に珍しいという事でもないのですが、思い出と備忘録との理由でまとめるつもりです。実は結婚式の1か月半ほど前に、勤務している日本の東京本社への挨拶と私の両親との面会を兼ねて、一時帰国していたのです。その際に、せっかくなので京都にも足を伸ばして寺社仏閣などを廻ったのですが、京都のある場所で2人の記念写真を撮っていました。フランス帰国後、招待状を出す際にその写真を貼ったらどうか、という彼女の発案で作ったのが、こちらです。これに新郎新婦の名前、日時と場所を記入しカバ-を付けて、全ての招待者に郵送しました。お分かりかもしれませんが、この写真は京都の東映太秦撮影所の写真館で撮影してもらったものです。撮影時は単なる記念に、という程度の考えしかなく、結婚式の招待状に使うなんて全く考えていなかったのですが、結構これは気に入っていました。とにかくお金を掛けずに簡素に、という事ですべて手作りでやりました2人とも派手な結婚式は望んでいなかったので(特に私は子供の頃から大げさで長いだけの結婚式が嫌いでした)、招待者はごくごく親しい人に限定し、こじんまりとしたもの(ただし内輪で大いに騒ごう)を目指していたのです。特定の宗教を信仰はしてはいませんでしたので、結婚式はMarriage civilのみで、居住していたパリ15区の区役所で、区長(代理人?)の立会いの下執り行われるという事でした。その頃はパリ15区のHotel Nikkoの近くの高層アパ-トに住んでいました。結婚式前夜は、そこに彼女の両親、兄弟、姪など8人ほどがそれほど広くないアパ-トに押し掛けたものですから、今から思うとどうやって寝たのか不思議なほどの寿司詰め状態であったと思います。そして、その日はパリでは珍しく30度Cを超える暑さだったことに加え、アパ-トの12階で窓を広く開けることが物理的にできなかったこともあり、室内にこもった熱と人いきれで寝るには最悪の夜であったのを、よく覚えています。その時は日本の夏を思い出しましたね。さて、翌日の結婚式は全員寝不足と2日続きの暑さでへとへとだったのを、これもよく記憶に残っています。それは次回となります。2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.25
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彼女が広告代理店で働いていることは前に書きました。会社の名前はEDI CONSEILといい、パリ16区にオフィスがありました。一度休みの日に彼女Cricri(ニックネームです)に連れて行ってもらったことがあるのですが、入ってみてビックリイエロ-の色調を基調にしたインテリアで統一されており、当時現地の日本商社やフランスの保険会社などは頻繁に訪問していましたが、そこはそれらとは全く異質の世界でした。とにかくファッショナブルであか抜けているのです。決して豪華ではないのですが、華やかでお洒落なオフィスという感じがしました。至る所にファッション雑誌も置いてあるし、クリエイティブな香りがします。どうも全てが個室又は2人部屋みたいです。-流石は広告代理店だなぁ。こんなところで仕事してみたいなぁ。と思わせる空間です。もう感心することばかり。その日は休日でオフィスには誰もいませんでしたが、ここに彼女Cricriの大の親友であるVéroniqueヴェロニックも働いているんです。Véroniqueは一言で言えば、まず典型的なパリジェンヌですね。それも私がそれ迄接したことのないタイプの女性、と言っていいと思います。一般的なフランス人は、人に接する時、話をする際にたとえ初対面であっても遠慮をすることはまずありません。こんなことを言ったら変に思われないだろうか、という日本人によくある気おくれというものも(私がそうだったのです(^_^;))ありません。ですから、会話は最初から砕けたストレ-トなものになります。言葉の問題と気おくれもあり会った当初は緊張しっぱなしでしたが、この人たちはそういう飾らない性格の好奇心旺盛な人なんだ、という事が分かってくると、私も余計なことは一切考えずに、ただ自分の思ったままを話すようになりました。彼らはとにかく人と話をするのが大好きな愛すべき人間なのです 言葉がへたくそなのは会う前から分かっているんですから、理路整然と話せなくても、オチが無い中途半端な話し方でも、好奇心が強いと言われているフランス人にとって、日本という魅力的な国からやってきた不可思議な男に、興味が無い訳は絶対にはありませんですから、何か何でもいいから話せばいいんです。話すことが無くなることは絶対にありません。だって、彼話はいつも先を争って質問してきますから。Véroniqueもフランス人一般の例にもれず、自分の心の中を余すところなく表情で態度で表現できるパワ-と強烈な個性を持つ女性でした。そして恋を愛する女性でもあったのです。彼氏Martinマルタンとのラブラブイチャイチャ振りには、会うたびに見せつけられました。Véroniqueはよく私にフランス語のレッスンをしてくれました。まあ、いわば私のフランス語の師匠でもあったのです。ただしちょっと危ない先生でしたが。或る時、私にこう言いました。「ねえヨシ(私のニックネームです)、これからいう事は大事なフランス語の言い回しなのよ。だからしっかり覚えなくちゃだめよ」そう言いながらウィンクします。そういう時は経験的に何かある時なのでCricriを見ると「Véro、あんまり変なことをヨシに教えないでよ、彼直ぐに本気にしちゃうから」「英語のスラングって知っているでしょ? フランス語にも似たようなものがあってGros mots(グロモと発音します)って言うんだけど、その中の一つにこういうのがあるの」「くたくたに疲れた時に、ラルボ-ル(Ras le bol!って書くのは後で知りました)って言うの。こうやって上司に向かってそうやれば最高よ」と言って、頭のすぐ上に掌を水平において、それを頭の後ろに勢いよく引きながらラルボ-ル(Raz le bol)と繰り返しました。それも怖い顔をして!「これをやりながらRaz le bol!って言うと、上司は大喜びよ」と言って彼女は大声で笑い転げます。まるで私が上司に向かってやっているのを想像しているかのように。実は、この表現と動作がすごく気に入って、Cricriの前でよくやっていたんです。オフィスで現地従業員の前でもやったことがありました。初めのうち彼女は面白がっていたのですが、そのうちに少々心配になって来たのか、こう言ってたしなめます。「分かっているとは思うけど、Véroniqueの言ったことを本気にしちゃだめよ。こんなことあなたの上司の前でやったら大事になるわよ。勿論フランス語が理解できればの話だけど」と言って、こう続けます。「Ras le bol、正確にはJ'en ai ras le bol! なんだけど、ものすごく不満が溜まってて爆発しそうなときに言う言葉なのよ。だからもし、あなたの上司にこんなこと言ったら、それこそ上司に対する不満をぶつけていることになるから、ものすごくヤバいことになるわよ」どうもTPOをわきまえて使わないとヤバい表現らしい。日本語に訳すと「うんざりする」がぴったりするようだ。これを怒気迫る表情でやったら、そりゃあ不味いだろうなぁ。Véroniqueからは会うたびに際どいGros motsを教わったのですが、Ras le bol!以外は何故か全く記憶に残っていません。その理由の一つに、Ras le bolには独特の動作が伴っていたからだ、と後で気付きました。やっぱりフランス語は身振り手振りが無いと面白くないし、独特の身振り手振りが伴うRas le bol!こそが、数あるGros motsの中で最高だと自分的には今もそう思っています。今、私のフランス語の師匠はどうしているのでしょうか。Cricriから聞いた話では、熱々だったMartinとはかなり前に別れたとのことでした。悲しいと思う前に、信じられない、というのがその時思ったことです。あんなに私たちに熱々ぶりを見せびらかしていたのに、男女の仲というのは本当に分からないものです。ミステリアス、と言い換えても良いと思います。あれほど恋を愛していたVéroniqueは、今何を思うでしょうか。悔しい思いがあるならば、私たちに向かってラルボ-ル(Raz le bol)と叫んでくれてもいいんです、怖い顔をして!でも私は知っているんです。Véroniqueが強い女性だという事を。そして恋をすることによってより強く魅力的になっていく女性だという事を最後に、CricriとVéroniqueのツ-ショットです。勿論当時の 勿論右側の人がVéroniqueです。1986年12月Noël(クリスマス)パーティの時の写真ですから、私と知り合い親しくなる1週間ほど前の写真です。2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.15
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あれは一緒に住み始めてから3か月くらい経った頃でしょうか。パリ1区にあるシテ島(?)に、彼女と車で行った時だったと記憶しています。私が車を石畳の広場のような場所に乗り入れて駐車しようとしたところ、ガクンという音と大きな揺れがあり車が操縦不能になってしまいました。慌てて車を降りてみると、右の前車輪が石の溝に嵌まってしまい、身動きが出来なくなっていたのです。スワ-、大変だ!と思い、2人で車の前部を何とか持ち上げようとしますが、そんなことで持ち上げられるわけがありません。持ち上げるには、あと三人程度の若い力が要りそうです。周りの誰かに応援を頼もうと思い周りを見渡しても、若者の姿は見当たりません。女性に頼むわけにもいかないし、とレッカ-車か何かを呼ぶしかないかな、と途方に暮れていると彼女が、「ちょっと待ってて」と言ってどこかに行ってしまいました。しょうがないので、車の近くにある石の突起物に腰掛けていると、2-3分後に一人の若者が私のすぐ近くで立ち止まり、「やあ、君は先客かな」となんか訳の分からないことを訊いて来るので、「うん」と適当に頷いておきました。すると、今度は3-4人の学生風の男たちが彼女と一緒にやってきます。どうやら彼女が助っ人を探してきたのだとわかりました。人数は集まったようなので、皆で「せえの、よいしょ」と声を掛けながら溝に落ちた車輪を無事に持ち上げて、地面に置くことが出来ました。この人数では軽いものです。事が上手くいくと彼女は満面の笑みで「Merci beaucoup どうもありがとう!」といって車に乗り込みます。勿論助手席に。皆誰が運転席に乗り込むのか見ている中、私はいそいそと運転席に乗り込みました。何故か照れくさいです。皆さん、ありがとう。そしてごめんなさい。今度は慎重に運転です。運転しながら、どうやって人を見つけて来たのか彼女に聞いてみたところ、「近くのCaféに入って助けを求めたの」「何て言って頼んだの?」興味あったのでそう訊ねると、「簡単よ。私の車が溝に嵌まって困っているの。誰か助けてくれない?って」すると、すぐに3-4人の若者が席を立って駆けつけてきてくれたという訳らしい。-なるほど、彼女は男の扱い方が上手いな。首を傾げたり流し目でも使ったのかな。もし男の私一人だったら、同じことをしても誰か助けに来てくれただろうか。いや、だいたいCaféでそんなこと頼めるだろうか。まだ溝に嵌まった車の横で途方に暮れているかもしれないなあ。-やっぱり、こういう時は女の方が得するんだなぁ。下の写真は、仕事から帰って来たばかりの彼女を撮ったものだと思います。随分カッコつけてますね 2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.13
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土曜日の朝は仕事が無いにも拘らず、その日は朝早くから目が覚めてしまいました。前の日の金曜日の夜からちょっとソワソワしてるんです。-どうも落ち着かないなぁ。あそこが開くのは8時半だから、まだ30分ほど待たなきゃなあ。隣で寝ている彼女を起こさないように、静かにゆっくりとベッドから出ます。キッチンに入ってドアをしっかり閉めてから椅子に座ったら、大きなため息が出てしまいました。-まずCafé au lait(カフェオーレ)でも飲むか。それからゆっくり歩いてゆけば丁度いい頃だろう。実は、今日先週採血した血液の検査結果が出るので、アパ-トから歩いて5分ほどにあるラボに結果を取りに行くのですが…。2週間ほど前に聞いたオフィスの先輩日本人社員の言葉を思い出します。近々血液検査をするという事を言ったら、「噂だけど、今血液検査の項目には、自動的にCIDA(AIDS)が入っているらしいぞ」という事を聞いたのです。思わず、ドキっとしました。衛生面であまり安全とは言えない西アフリカで仕事をしていますから、大丈夫だとは思いつつもちょっと心配なんです。そういう事を心配する、当時はそういう時代だったのです。-そろそろ行くか。ボウルの残ったカフェオーレを飲み干すと、アパ-トを出て表通りの方に歩いてゆきました。ラボで名前を言って封筒を受け取りました。-ここで見るか、アパ-トで見るか。結局どちらでもない、帰りの道すがらに封を切りました。ざっと視線を這わせますが、それらしい項目は無いようです。ホッとしかけたその時、見つけてしまったんです、"Positive"という文字を!!Positiveというのは陽性です。血液検査の項目で陽性と記される項目など有るだろうか?当然あります。あれしか思い当たりません!-やばいなぁ。えらいことになった。この時、私の顔色は蒼白だったと思います。とにかく大急ぎでアパ-トに帰り、まだ寝ている彼女を叩き起こしました。-大変なことになった。CIDAかもしれない!もしかして叫んでいたかもしれません。物凄く真剣というか怖い顔で。私はベッドの横に突っ立ったまま、彼女に検査結果の紙を差し出しました。彼女も物騒な言葉を聞いて、すぐにベッドから飛び起きてその紙を見ます。「どこにPositiveって書いてあるの?」私はその項目を指さしました。ちょっと手が震えていたかもしれません。「それ以外にPositiveは無いのね」と頷くとベッドに横になってしまいました。状況がよく呑み込めなかったので、「どうしようか」と尋ねると、彼女は横になったままこういいました。「あなたの血液型は何?」「O型だよ」「O型の何?」質問の意味が分からないので聞き返すと、「私はO型のRHマイナスだけど、あなたは違うでしょ?」「RHプラスだ」そう答えて検査結果の項目を見てみると、「rh」と小文字で書いてあるではないですか。普通はRHと大文字で書くんじゃあないの? どっちでも同じだけど…。-そうか、そうなんだ。一気に体中の力が抜けたような気がしました。「なんだ、人騒がせな」「人騒がせなのはあなたじゃないの。もう、そんなことで起こさないでよ。寝るからあっちに行ってちょうだい!」そうなんです。昨晩は仕事で帰りが遅かったんでした。ごめんなさいホッとして一息つくと、今度はおかしくて笑いが込み上げてきます-どう考えたって、そんなこと有る訳ないのに、何オロオロしてたんだ、俺は!」今度は自分に八つ当たりです。でも笑いながら。そうなんです、私はいつもこうなんです! これは彼女のアパ-トで歌っている時に撮ったものでしょう。この乗り具合からすると、サザンの曲でしょうね2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.10
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前の晩、私たちが住んでいる彼女のアパ-トの地下駐車場に泥棒が入ったみたいです。というのは、私の車を止めている場所の隣の車の窓ガラスが割られていたからです。幸い私の車はドアや窓ガラスに割れているところはなく、見たところ被害は無いように見えます。-やれやれ、壊されなくてよかったよ。実は、16区の私のアパ-トにも前年12月に地下駐車場に泥棒が侵入し、私の社有車の後部横の窓ガラスが割られるという事があったばかりでした。盗られたものなんか大したものではないのでそれは良いのですが、1か月半の出張からクタクタになって戻ってみたら車が壊されているなんて、本当に体中の力が抜けてしまいました。しかも、欧州を担当していた時の上司から連絡があり、UK(イギリス)駐在の(大先輩)Yさん一家が帰任するので一日アテンドしてやってくれ、とのお達しがあったので、その準備もしなければならず、修理のためにガレ-ジに持っていく時間がありませんでした。仕方が無いので、厚紙とガムテ-プで応急修理をしてYさんご一家をパリCDG空港にお迎えに行きました。今から思うと本当に恥ずかしい、購入したばかりとは言え、どちらかと言えば小型車のダンボ-ルで応急修理した車に、Yさん一家(Yさん、奥様、小学生の男の子の3人)を詰め込んでホテルまで送迎しました。それだけならまだしも、いくら元上司に頼まれたとはいえ、Yさんをスナックに誘ったりするなんて、本当に気の利かないアホでありました。ご家族で短くもゆったりとパリの一夜を過ごしてもらうよう、気を利かせるべきでした。実は、私の社有車を決める時に本社の上司ともめました。当時はプラザ合意で超円高の時代であり、経費削減の突風が社内で吹き荒れていた時だったので、私の社有車購入の予算もバサッと削られ、新車とは言え小型車に毛の生えた程度の車しか購入できませんでした。お陰で、それ以降パリに寄られた上司、部長、本部長などから、何でこんな車にしたの、などと呆れられたものでした。閑話休題。話を元に戻します。被害が無かったことにホッとして、私は車を駐車場から出してオフィスに向かいました。途中変わったこともなく高速道路に入りました。その時になって初めて違和感を感じ始めたんです。何かがおかしいのですが、それが何だか分かりません。そのうちに風切り音が聞こえカーステレオの音が聞こえにくいのに気付きました。-なんだ、窓が良く締まっていないんじゃないか。そう思い窓をしっかり閉め直しましたが、風切り音はまだ聞こえます。いや、音だけでなく締め切っているのに風が入ってきてるその時になって気付いたのです、フロントガラスがズレてるってよく見ると、フロントガラスの端に隙間があるじゃないか信じられない思いで車を緊急避難用の路肩にゆっくりと止め、フロントガラスの端のゴム部分に指をあててみると段差があるのを確認した後、車の外に出て同じところをチェックしました。一目瞭然でした。誰かがナイフのようなものでフロントガラスのゴム部分を切断したのです。何のために? 勿論車の中にある何かを盗むために、フロントガラスをくり抜いてそこから車の中に入ったに違いありません急いで車の中を調べてみましたが、ウォークマンがありません。いっぺんに体の力が抜けていくのが分かります。-そんなもの盗むためにこんな面倒なことするのかいな!フロントガラスというのはかなり重いものらしく、手で押してみてもびくともしません。ゆっくりであればこのまま走行してもずれ落ちる恐れはないようです。プジョ-のガレ-ジはオフィスの近くにあるので、そこまで行きさえすれば大丈夫、というのを自分に言い聞かせて車を発進させました。とにかく安全運転で高速道路から降りた時は心からホッとしたものでした。それ以降もどういう訳か、フランス車と高速道路には本当に苦労させられました。1週間のうちに高速道路の全く同じ地点でエンストして動けなくなったり(それも片側3車線の真ん中車線で)、すぐ前を走行していた大型トレ-ラ-の荷台から5-6mの長さの鉄棒がバラバラと道路に落ちてきて、あわててハンドルを切って難を逃れたりと、本当に色々な危ない目にあいました。フランスって本当に何でもあるんだ、と改めて感心するやら呆れるやら、何はともあれフランス滞在中に大怪我をせずに済んだことを神に感謝しなければなりませんな。この頃、私は秘かに「自分はたとえ大事故に巻き込まれても、大怪我することは決して無い」と根拠もなくそう信じていたところがありました。そんな変てこな自信、どっから来たんでしょうかね。いまから思えば、あの頃の私は正真正銘のアホでした。パリの話はまだまだ続きます。次に2枚の写真は、1987年2月に動物園で撮ったものです。 2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.06
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前回、病院を退院してからC嬢のアパ-トに向かったことはお話ししました。彼女のアパ-トは、パリ19区ヴィレット通り(rue de la Villette,75019)にありました。近くにはBellevilleという中国人街があり、中華レストランが至る所にある賑やかな繁華街がある一方、徒歩5分の所にビュットゥ・ショモン公園(Parc des Buttes-Chaumont)という、かなり広くて起伏に富んだ憩いの場所もあり、1週間ほど暮らしていると住みやすいQuartierであると思うようになってきました。唯一と言っていい問題は、この地区はパリの東側にあたり、パリ郊外の西側にある会社オフィスに行くには、パリのPériphérique環状線を半周以上走行しなければならないので、自宅アパ-トよりも45分は早めに家を出る必要があります。そうなんです、朝夕のPériphériqueは大混雑なんです。さて、彼女のアパ-トに来て大きく変わったことがありました。それは買い物です。以前は1-2週間分の買い物をまとめて近くの大手ス―パ-で済ましていましたが、ここでは彼女と一緒に近くの商店街にある八百屋、パン屋、パティスリー、薬屋、肉屋を一軒一軒訪ねて買うんです。これって下町の買い物風景ですよね。一人ではちょっとハードルが高いけれど彼女と一緒なら全く問題ありません。私は主に荷物持ちですから。ここで一つ不思議なことに気付きました。例えばパン屋でバゲットを買うとしましょう。ボンジュ-ルの応酬で始まり、料金を払って品物を受け取る。その時にお店の人だけでなく、買った人もMerciメルシィ-、ありがとう、と言うんです!!これって日本ではそんなにありませんよね(個人的には皆無の印象)。有難うございます、というのは100%店の人で、買う人がそんなこと言うのを私は見たことがありませんでしたから。アパ-トに帰ってから、そのことを彼女に言うと、なんでそんなことを聞くのか、という不思議そうな顔をして、「それって別に当たり前じゃないの。買う人は品物を受け取るんだから、当然「メルシィ-」って言うでしょう? 何かおかしい?」「でも、金を受け取る側が言うのは分かるけど、払った側も言うのはおかしくないかい?」彼女は私の顔をマジマジ見ながら、まるで小さい子供に言い聞かせるようにこう言いました。「お互いに「メルシィ-」って言った方が気持ちがいいじゃないの。それに、メルシィ-って言うのはタダなんだから、何回言ったからって損するわけじゃないでしょ?」確かに、双方でメルシィ-と言って別れるのは気持ちがいい。よし、次に行く時はしっかりそう言う事にしましょう。と思って、はた、と考えました。これって何か初めての子供のお使いみたいだななんか惨めというか、情けない感じがしますね、アハハ当時の二人で映っている写真は殆どありません。今みたいに自撮りが出来なかったので、二人の時は一人は撮り手となり、映っているのは残りの一人だけなんです。探した結果、ビュットゥ・ショモン公園で撮った写真に(かろうじて)二人が映っているのでそれを載せることにします。少々ピンボケしてますがご勘弁を。一人しか映っていないって?よ-く見てください。地面に彼女の「影」が映っています!2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.06.03
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1987年1月1日の深夜0時、僕は友人3人とパリ市内にある3階まで吹き抜けのバカでかいディスコで、カウントダウンを叫んでいました。カウントダウン後はBisous(キス)の嵐です。これはちょうど一年前と全く同じ光景ですね。(場所は違いますが)一緒にいる友人は、カラオケ仲間で証券会社勤務のN君とフランス人女性2人で一人はC嬢、もう1人は名前が思い出せないなぁ。それから数時間踊ったり喋ったりした後、4時くらいにはディスコを出ていたと思います。兎に角ミュ-ジックがうるさくて話が出来なかったからです。それほど遅い時間ではありませんでしたが、女性陣が疲れたとのことだったのでお開きにして、僕はC嬢を自宅アパ-トまで車で送ることにしました。その晩は、次のRendez-vousを決めてそのまま別れたと思います。その後何回目かにあった1月末の土曜日、革靴を買おうと思い彼女に選んでもらいました。別れる前に、1週間後に彼女の家で会う事を約束しました。ここで次回の約束をしていたことが、2人の距離をぐっと縮めることになったのですが、その時は知る由もありません。翌週の月曜日朝8時半ころ、パリ郊外にある私のオフィスに向かうべく高速道路を走行していた私は、走行車線に警告灯等の表示なしで停車していた大型トレ-ラ-に追突する事故を起こしてしまったのですまあ何と間抜けなんでしょう。自分でもそう思いました。幸運だったことに、速度を60キロ程度に落としていたこと、それに緩やかな登り坂だったことで、車の前部は半分ほどに潰れたものの、瞼を切って出血したくらいで骨折や大きな怪我は無いようでした。当然救急車で病院に運ばれましたが、それ以降記憶に残っていることは余りありません。唯一記憶に残っているのは、救急車の中で靴を脱がされたこと、そして病院の通路で移動用ベッドの上で長いこと置き去りにされたことぐらいでしょうか。幸い、頭部の精密検査では異常はなく、怪我の治療と経過観察で1週間程度入院することになりました。その夜のことはよく覚えています。私がいた病室は2人部屋でしたが、その夜中に異様なうなり声で目を覚ましました。何と言うか、怪獣のうなり声とか、拷問を受けている人間のうなり声とか、とにかく耳をふさぎたくなるような身の毛もよだつような叫び声でした。それは紛れもなく3-4メ-トル離れた隣のベッドから聞こえてくるのですが、コンタクトレンズ無しの私の目では、暗い病室の中の様子がぼんやり見えるだけで、その怪我人がどのような状態なのか知りようがありませんでした。夜中に何回かナースが隣の病人の様子を見に来たようですが、あまり覚えていません。後日、病院の人から聞いた話では、この怪我人は高速道路で大型トラックに追突され全身打撲で運び込まれたという事でした。追突した私は運が良かったのでしょうか。次の日に、会社の先輩社員Kさんが見舞いに来てくれました。実は私が事故った直後に車の中で安静にしていたその時、車の横を通り過ぎたKさんと目が合ったのです。異国の地での人生初の入院生活で緊張していたのでしょうか、Kさんに会った時はホッとして、事故の様子や怪我の具合などを話したのち、あるお願いをしました。今週末にC嬢と会う約束をしているのですが、いつ退院できるかはっきりとは分からないので、会うのは難しい旨の連絡してもらえないだろうか、お願いしたのです。それが彼女に思わぬ心配をかけることになったのですが。翌日夜7時半頃、思いがけずC嬢が見舞いに来てくれたんです全く予期していなかったのでびっくりしました。彼女も私が余りにも元気なのに驚いた様子です。それから彼女から聞いたことは何ともお粗末な笑い話でした。Kさんから電話をもらった彼女は、言っている内容が良く理解できなかったようです。原因はKさんのフランス語会話能力です。まずKさんの名前を聞いて知らない名前だったので、緊張というか怪訝に思ったそうです。2人の会話を日本語で再現してみましょう。Kさん「A君は今週末君とは会えない」C嬢「そうなんですか?」Kさん「しばらく会えないかもしれない」C嬢「何かあったんですか」Kさん「高速道路でトラックに追突したから」C嬢「えっ!!」 この時、私が死んだか重症だと思ったとのこと。Kさん「だから今週末は彼とは会えない」もっとはっきり説明せい!C嬢「怪我は?」Kさん「大丈夫、大丈夫」きっとC'est pas graveとか言ったんだろう。ここでC嬢は容態について訊くのは諦めたそうです。とにかく彼の説明は単語の羅列でしかないので殆ど理解できなかった、と後で彼女は私に語ってくれました。確か面会時間は夜6時から8時くらいまでだったでしょうか、彼女はパリ市内にある職場から郊外にある病院までメトロ、RER(パリ市内と郊外を結ぶ電車)とバスを乗り継いで、なんと1時間半かけてきてくれたのです!!しかも、病院の受付で私の病室を尋ねたところ、「Aさんという名の人は当病院にはいません」との説明にびっくりし、この時彼女は2つの可能性を考えたとのことでした。一つは聞いた病院の住所が違う事(1時間半かけて来たのに!)、そしてもう一つは重症だった私が死亡してしまった(冗談じゃ無い!)、という事。どちらもKさんのフランス語能力が貧弱なためあり得る、と彼女は考えたと言います。そこで彼女が言ったことは、「私の日本人の恋人がこの病院にいるはずなので探して下さい! 彼は数日前に高速道路で事故を起こして運ばれてきたの。お願いします」受付の人は彼女を哀れと思ったのか、外科病棟に入院している患者の搬入日をバーっと見てくれて、一人の変てこな名前を見つけました。「A. Y.さん?」「それです!!」つまり私のNomとPrénom(姓と名前)を逆に登録してたんです。これならば、いくら姓の欄でMonsieur Aを探しても見つからないわけです。やれやれ。しかし、もう一つ厄介なことがありました。救急車で運ばれる途中で脱がされた靴、その買ったばかりの靴(しかもC嬢に選んでもらった!)が見つからないのです!!普通に考えると、救急車の中に置き去りにされるというのはあり得ないので、絶対に病院のどこかにあるはずだ、と彼女の助けを借りて受付や看護婦に聞いて回りました。その甲斐あって、病院内のどこかでほったらかしになっていた哀れな私の靴と再会することが出来ました。ブラボ-\(^o^)/退院の日、私は彼女と歩いて病院を出ました。バスとRERとメトロを乗り継いで彼女のアパ-トに行くのです。私のアパ-トには洗濯機が無く住むのに適さないので、かなり広めの彼女のアパ-トで暮らすことに2人で決めました。どちらから切り出したか覚えていません。でも私としては、片道1時間半かけて仕事を早く切り上げてまで(彼女の職場は広告代理店でメチャクチャ忙しい)何回も見舞いに来てくれた彼女の思いを、真剣に受け止めたかったんです。この人しかいない絶対に離してはいけない、とそれから1年半後、何やかやと色々ありましたが、私たちは無事にパリで結婚式を上げることが出来ました次回からは、パリでの同棲期間の出来事を書こうかと考えています。次の写真は、事故の1週間くらい前に撮ったと記憶しています。恥ずかしいですな、ハハハ。 2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.05.30
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タイトルを見てすぐにピンときた人は、相当なフランス映画好きの方でしょうそうです、映画「男と女」で有名なクロ-ド・ルル-シュ監督の短編映画「ランデヴー」(1976年公開)の冒頭に、夜明け前のパリ市内の細い道を疾走するシーンが延々と続きますが、今日のブログタイトルはそこから来ています。ただ、あの映画のシーンは疾走と言うよりは激走がぴったりするように思います。あのシ―ンを見た時の感想は、「興奮した」と言うより「怖かった」と記憶しています。そう思っていた私ですが、1986年?月にパリで一度だけ真似したことがありました。普通の肉体的精神的な状態であれば絶対にしませんでしたが、その時は少々酔っていたと思います。あの頃のフランスでは飲酒運転自体当たり前で罰則さえなかった時代ですから、今から思うと本当に危ないことをしたなあ、と空恐ろしくなります。実際に何をしたかと言うと、明け方前4時頃スナックを出た私は愛車プジョ-に乗ってパリの裏通りを疾走しました。時にはアクセルを目一杯踏んでぶっ飛ばしましたその時間帯はパリも完全に眠りについていて、人っ子一人狭い通りには人影がありませんでした。ただ、細い道(ほとんどが一方通行)の両側には車が隙間なく止まっており、ハンドル操作を少しでも誤れば立派な事故になります。何でそんな馬鹿なことをしたのか、はっきりとは思い出せませんが、やはりあの映画のシ―ンを想いだして、「やってみたい」衝動に駆られてやってしまったのかも。どれくらい疾走したでしょうか、時間にして数分くらいかな、運転前はほろ酔い気分だったのが運転中に「恐怖」を感じ始めると急速に醒めて、車を急停止した時には心臓はバクバクと飛び出さんばかりでした。あと少し運転していたら、緊張で強張っていた体が上手く反応してくれず、事故に繋がったかもしれません。今、当時の自分を思うと「怖いもの知らずの冒険家気取り」だったのかなと思います。街中の疾走と共に、もう一つやらかしたことがあります。それは夜明け前のパリPériphérique(パリ市内を囲む環状道路)をどれだけ短時間で一周できるか試してみたのです。なぜ夜明け前かと言えば、交通量が圧倒的に少ないこと、それに尽きます。パリのPériphériqueは、朝昼夜いつでも大混雑です。半周だけでも1時間かかるのは普通でしたから、実はフル1周したことは無かったのです。だから深夜だったらスイスイと1周できる、みたいな。Périphériqueの1周は約35kmで当時の制限速度は70-80km/h位だったでしょうか、そこを全速力で突っ走りました。ただ、Périphériqueは楕円形でカーブばかりですので、それ程速度は出せません。では、1周どれくらいの時間がかかったでしょうか。はっきりとは覚えていませんが、15分か20分位かな。当時誰かに20分位、と言った気がします。15分だと平均140km/h、20分だと平均105km/hですから20分弱と言うのが本当のところではないでしょうか。ちょっと危険が伴うパリの裏道疾走と違い、Périphériqueノンストップ走行は楽しかったですね交通量が殆どないガラガラの4車線道路を突っ走るというのは、毎日慣れることのない生活環境で緊張の糸を張り巡らせた生活をしている自分にとって、「非日常」での束の間の「解放感」を味わえる体験だったのでしょうか。当時の自分で一つだけはっきりしていること、それは自分が憧れのパリで自由気ままに生きていることに酔いしれていた、ということ。私が恋焦がれていたのは70年代から80年代にかけて、フランス映画とフランス人俳優、フランス音楽とフランス人歌手が乱舞した時代であり、今のフランスやパリの姿からは想像もできない程、絢爛豪華で華があった時代だったと思います。あの頃、夢見心地でパリに住んでいましたが、もし今、いや20年前にパリに住みたいかと訊かれても、その答えはNONだったでしょう。その頃には、もう私が思いを寄せていたパリは跡形もなく消えていたからです。こんなことを書いていたら、あの頃の憧れであったパリやフランスについて書いてみたくなりました。でも今回は紙面が足りないので、またの機会にでも。ここからは映画「ランデヴー」についての裏話です。この映画は、愛車フェラーリ275GTBを駆ってパリ市内を疾走し、パリ18区にあるサクレ・ク-ル寺院そばで待つ恋人の元へ駆けつける恋の物語ですが、9分弱のこの映画で二人が登場するのはラストシ―ンだけ。つまり主役は車なのですが、映画には主役の姿すら全く映りませんでした。疾走した車はフェラーリ275GTBと言われていましたが、実際の撮影に使われていたのはメルセデスベンツ450SEL6.9だったのです。(ただ映画の中での走行音はフェラーリ275GTBの音に置き換えられていました)その理由は、メルセデスの方が走行時の安定性及びステアリング操作性に優れていたからと言われています。かなり危ないシ―ンがありましたからね。そしてプロレーサ-と考えられていたドライバ-は、クロ-ド・ルル-シュ監督自身であったと後に告白しています。しかも2台とも彼の愛車だとか。その頃には名声と共に「富」も得ていたようですね。ここで真っ赤なフェラーリ275GTBの写真を入れる予定でしたが、ネットでフリ-のが見つからなかったので、代わりにフェラーリ250GTOCoupeの写真をアップします。確かGTBの一代前のモデルだったと思います。2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.05.26
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フランス赴任時、仕事に必要だと言われて、本社で成田空港に向かう直前に、あれもこれもとダンボ-ル数箱分の荷物を持ち込むように言われたので、素直に言われた通り持ち込もうとしたところ、パリCDG空港到着後の税関で見事に引っかかってました大量の荷物、それもダンボ-ル箱をキャディに積んでいましたから、目立つこと目立つこと。ダンボ-ル箱の中身は全て没収され、後日関税(かなりの額でした)を払う事で引き取れることにはなりました。しかし、スーツケ-スなどの荷物を全部家探しされたため、私の買ったばかりの全自動高級一眼レフカメラも没収の憂き目にあいました。このことを本社の上司に報告すると、カメラは私物なので自分で関税を支払え、と言われたので、「それでは、依頼されて運んだダンボ-ルの中身については引取りに行きませんので、そのお積もりで」と言い返してやりました。そもそもあんな目立つダンボ-ル箱を押し付けられなければ、カメラは没収されずに済んだろですから。結局、上司は折れてカメラについても経費で落としてよし、とのお墨付きをもらいました。このゴタゴタは1週間程度かかり、赴任当初のスケジュールが大幅に狂うことになったのです。さて、赴任直後にまずやるべきことは、アパ-ト探しです。フランス人スタッフと手分けして、新聞等で見つけた物件を手当たり次第に電話し、rendez-vous(アポ)をとり訪問、ということを何日間か繰り返しました。その甲斐あって、最終的に決めたのが 「50, Rue de la Tour, 75016」, つまりパリ16区トロカデロ近くのアパ-トでした。このアパ-トこそ、契約したにも拘らず1年以上、寝る以外に殆ど寄り付かなかった場所でありました。その一番の原因は、洗濯機に水を供給する栓がないのでビデを壊すしかない、と業者に言われたことでした。すわ、それではすぐ大家に連絡を、と考えて大家がアパ-トのどこに住んでいるのか知らないことに気付きました。じゃあ、しょうがないなあ、という事でほったらかしにしてしまったのです。こんなこと書くと何ていい加減な男なんだ、と言われそうですが、赴任以降、一年の6割から7割程度出張、特に1回の出張が約1か月半以上ですから、パリにいる間位は自由にゆったりと愉快に過ごしたい、という気持ちになり、面倒事は出来るだけ避ける、というかなり極端な考えに陥っていたのです。パリで仕事している時の典型的な一日はと言うと、-夜8‐9時までオフィスで仕事-退社後、直で日本食レストランで閉店まで食事と従業員とのおしゃべり-夕食後は、日本人経営のスナック1軒か2軒で飲みカラオケ-午前2時頃帰宅し布団(ベッドはありませんでした!)で寝る-午前7時前に起床という毎日を送っていました。当時のエンゲル係数は90%以上(現代日本のエンゲル係数の平均は25%程度でしょうか)、つまり給料の殆どは飲食費に使っていました。食べ物、飲み物以外で買ったのは、最低限の着る物くらいでしょうか。という事で、次の写真も自然と納得いただけると思います。 ダンボ-ル箱に座ってダンボ-ル箱のテーブルでインスタントラーメンを鍋で食べる、これが私のライフスタイルだったのです。これがおよそ1年続きました。因みに、上の写真は赴任後1年近く経った頃、将来の伴侶となる女性に「いい記念になるから」と言って撮影してもらったものです。まあ、本当にあの頃はアホだったと思います。2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですにほんブログ村にほんブログ村
2023.05.18
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これから何回か、私が若き日に過ごしたパリでの日々の出来事を綴っていきたいと思います。今回は、当時所属していた海外本部の部内誌に載せたパリ赴任直後の様子を書いた記事を思い出しながら、ご紹介します。部内誌担当の女性社員から、2か月後に掲載したいから記事と写真を送ってくれ、との依頼がありましたので、いそいそと執筆して2枚の写真と共に送ったのですが、掲載後本部内での評判は散々だったという事を後に知りました。本部内の直属の部署は中近東アフリカ部でしたので、それらの過酷な国地域に駐在する人からすると、私のパリでの浮かれ具合(本人にはそんな気は全くなかったのですが)が癇に障ったらしく、特にご年配のうるさ型たちからは、かなりひんしゅくを買ったと聞いています。まあ、当時彼らが担当地域外に出られるのは1年に一度2週間(日本への一時帰国は除く)くらいで、多くはパリかロンドンで検診を兼ねた休暇を取るのが普通でしたから、年の半分ほどパリに滞在する私などは、若いのにケシカラン、と言う気持ちになるのも分からないではありませんが。ただ、ハッキリ言えば、たかが社内誌、それも本部内誌ですから、目くじらを立てて文句を言われても困るんですよね。さてその内容ですが、パリとアフリカでの一日ずつを綴ったもので、取り立てて面白い内容という訳ではないのですが、私の住んでいた場所が16区トロカデロ広場の近くであったことから、そこでのワンショット、そしてエッフェル塔の「ある写真」を送りました。皆さんはエッフェル塔を実物か写真で見たことはあるでしょう。ではエッフェル塔を真下から見たこと、あるいは真下から撮った写真をみたことありますか?当時の私は、何故かそれに興味を持っていたようです。と言うのは、東京タワ-というのは真下から上を見ることは出来ないですよね。でもエッフェル塔は真下に入れますから見れるんです。見れるものは見てみたい、と言うのはある意味当然ですよね。下からの景色を写真に撮ってみたいと。何か見てはいけないものを見たいというあの気持ち、感覚でしょうか。勘違いしないでいただきたい。私には「変な」趣味はありませんでしたから。さてブラブラはこの程度にして、その写真をアップします。 一見、別にどうという事のない写真に見えますが、結構私は悦に入っていたと思います。ただし、社内誌にはこの写真は掲載されませんでした。担当の女性の返事もつれなかったですね。「ああ、あれですか。何だかよく分からないので、ボツになりましたよ」右の写真の私は何と若いこと。やっぱりあの頃はパリでかなり浮かれてましたね、この顔は。 2つのブログランキングに参加しています。↓ポチッと押していただけたら嬉しいですありがとうございますにほんブログ村にほんブログ村
2023.05.16
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