0
全5件 (5件中 1-5件目)
1
第五回「隷属と服従と」時夫は目を開いた。灰色の空から、白い物がちらちらと舞い落ちて来るのが見えた。時夫は降り積もった雪の上に、仰向きに倒れていた。そろそろと首を動かすと、あたり一面が白く見えた。(ここは、どこだ・・)部屋の窓から見えた景色を思い出した。町は純白に染まっていた。なのに衣奈(いな)と飛び出した街に雪はなかった。衣奈・・時夫は思い出した。光の中に飛散した姿を。「衣奈!」時夫は跳ね起きて、思わず叫んだ。立ち上がって周囲を見回した。広々とした平坦な場所であった。遥か彼方は降りゆく雪の中に溶け込み、茫洋として見通せなかった。「衣奈!」時夫は再び叫んだが、答えはなかった。胸のあたりが熱くなった。時夫が手をやると金属の手触りがした。(メダイヨン・・)雪の中にいても、時夫は寒さをまったく感じていなかった。だがメダイヨンに触れた指先は、熱さを感じている。温度に対する感覚を失ったわけではない様である。そして時夫は気がついた。頭の中にささやく声がする。メダイヨンから手を離すと、それは聴こえなくなる。意味は分からない。言葉であるかすらも分からない。けれどもベルベッドの様に柔らかく心地良い響き。時夫はメダイヨンを握り締め、歩き出した。どこまでも変わらぬ雪景色の中を、時夫はどれほど歩き続けたであろう。空腹も疲れもなかった。ただ、ささやきの導くままに歩き続けた。白く塗りつぶされた風景の中に、時夫はぽつんと黒い点を見つけた。時夫の足取りが速くなった。やがて雪の上に横たわる姿がはっきりと見えて来た。黒いマントは半ばめくれ、青い裏側が見えていた。黒いシャツに細いタイ、黒い上着とスボン。漆黒の髪に縁取られた顔だけが雪と争うように白く、その瞳は閉ざされていた。時夫は衣奈を発見した喜びと安堵で、急に疲労が全身に回った。灰色の空を向いて横たわる衣奈の傍らに、時夫はへなへなと座り込んでしまった。時夫は恐る々々身体をかがめ、衣奈の胸に耳を押し当てた。規則正しい音が聴こえた。(生きてる・・)時夫はそっと呼びかけた。「衣奈」衣奈には何の変化もなかった。白い雪以外何もない見知らぬ世界に、時夫は一人で取り残された不安と恐怖にかられた。時夫は衣奈の身体に手をかけ、ゆさぶりながら叫んだ。「衣奈、目を醒ましてくれ!起きてくれ!」衣奈の目が開いた。青味がかった澄んだ目が衣奈を認め、薔薇色の唇の端が少し上がった。「大丈夫かい?」衣奈は身じろぎした。身体のどこかに異常がないか、確かめている様でもあった。「これ以上、雪の上で寝てると風邪引くよ。起きて」衣奈はそろそろと上半身を起こした。そして時夫と向かい合うと、きちんと雪の上に正座をした。「良かった、無事で」衣奈は返事をしなかった。喉に手をあて、ぱくぱくと口を動かした。「声が出ないの?」衣奈は何かを訴えるように時夫を見詰め、口を動かしていた。時夫は当惑した。「落ち着いて、話してごらんよ」「ありがとうございます」豊かで柔らかな声が、衣奈の口から流れ出た。「貴方のご命令がなければ、私は何もしてはならぬのです。ご主人様」時夫は目の前の綺麗な顔を、驚きを持って見詰めた。「ご主人様?」衣奈は頷いた。「私には、十の月と七の星を経た、久しぶりのご主人様です」衣奈は微笑みながら言葉を続けた。「私は、ご主人様の御命令通りに動きます。何でも致します」「じゃあ、さっき僕が話せって言うまで話さなかったのは・・」「はい、御命令があるまで、話す事は出来ませんから」時夫はどうしたら良いのか、分からなくなりつつあった。「ねえ、衣奈」「はい、ご主人様」衣奈はうれしそうに答えた。「ご主人様ってやめてくれないか。今まで通り、時夫でいいよ」衣奈は優雅におっとりと首を傾げた。「それは御命令ですか?」時夫は何となく頷いた。「ああ、そうだ」衣奈も頷いた。「御命令とあらば、時夫とお呼び致します」奇妙な真面目さで答える衣奈を見ていると、時夫はおかしくなって笑ってしまった。笑い終わると、時夫は衣奈に聞かねばならぬ事を思い出した。「キミは誰だい?ここはどこなんだ?」衣奈は哀しそうな顔をした。「私の事をお忘れですか、時夫」白い美貌が翳り、その目から涙がつうっと流れた。衣奈は声をあげて泣き始めた。時夫は慌てた。「ごめん、良く分からないんだ。僕はずっと実家を離れてたし」子供の様に両手で顔を覆い、泣きじゃくる衣奈の肩を、時夫は思わず抱いてしまった。「ごめん、ごめんよ」しゃくりあげながら、衣奈はつぶやいた。「私が半端者だから・・ですか?」意味は分からなかったが、時夫は衣奈を慰めようとして言った。「そんな事はないよ。そうだ、キミの知っている事を話してくれないか?そうすれば思い出せるかも知れない」衣奈は顔を上げた。「それは・・御命令ですか?」時夫は徐々に衣奈の扱いを覚え始めていた。「ああ、命令だ」「では・・『話せ』とおっしゃって下さい」涙に濡れた目が、期待を込めて時夫を見詰めていた。時夫は、衣奈のうるんだ目も綺麗だと思い、思った自分にうろたえながら言った。「話せ、衣奈。お前の知っている事をすべて。何故お前が”怒りの火”に焼かれても無事だったかも」衣奈の青い瞳に、新たな光が宿り輝いた。「おお、”怒りの火”をご存知とは・・確かにお忘れになっただけなのですね」時夫は自分が何故それを知っていたか、分からないままに頷いた。衣奈は細い指先で涙を拭い、立ち上がった。そしてとある方角を見据えた。「あちらに休める場所がある様です。そこでゆっくりとお話致しましょう」衣奈は時夫に右手を差し出した。「時夫、行きましょう」その手には銅色の指輪も鎖も、今はなかった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/08/16
第四回「仕組まれた時間」「しっかりして下さい」衣奈(いな)の声がした。ベルベットのような柔らかな声の中に、微かに緊張が混じっていた。衣奈に手首を掴まれたまま、時夫は意識を持ち直した。アパートの前の道に二人は立っていた。何かが飛んで来た。衣奈はそれを片手で払いのけた。硬い金属音がした。衣奈の右手のすべての指に、銅色に光る指輪がぎっしりと嵌められていた。白い手の甲にも銅色の細い鎖が巻かれている。衣奈の左手は、時夫の右手首を掴んでいる。衣奈が右手を揮う度に何かを払いのける金属音が響く。「成程。奴等は、私があちらの領域へ行かれないと知ってますね」衣奈はつぶやくと駆け出した。時夫はつんのめりそうになり、慌てて一緒に走り出した。走りながら時夫は聞いた。「何があったんだよ」「敵です」「だから敵って・・」衣奈は答えずに、時夫の手首を引っ張った。「来ます!」二人は路地に飛び込んだ。大音響と共に、今まで二人のいたあたりに大きな穴が開いた。アスファルトがえぐられていた。黒い断面の下の赤茶けた土が、時夫には妙に生々しく思えた。驚愕の中で、時夫はふと気がついた。道に誰もいない。これだけの音がしたはずなのに、近隣の家から誰も姿を現さない。街が静まり返っている。自分達以外は誰もいないように。しゃらん・・と鎖が鳴った。衣奈が手の甲の鎖の端を形の良い唇で咥えていた。解けて長く垂れ下がった鎖が濡れて光っていた。「何をしているんだ」「私のすべてが、敵には毒ですから」衣奈は時夫を見てにっこりと微笑んだ。「時夫は味方ですから、私と唇を重ねても大丈夫ですよ」性別を越えた美貌の中で、濡れた鎖を咥えた朱唇が笑みの形を作っている。時夫はそれに思わず見惚れ、赤面して慌てて言った。「君は何を言っているんだ。それより僕らはどうなるんだい」衣奈は何かを探るように遠い目をした。「出口まで行く間に、貴方に変化(へんげ)が起きれば、私達の勝ちです」「変化(へんげ)?」時夫の脳裏に亡き母の哀しげな面影がよぎった。そして胸に下げたメダイヨンが熱く感じられた。衣奈もそれを感じたらしい。鎖を唇から離すと、今までずっと掴んでいた時夫の手首を離した。「その胸の物を見せて下さい」時夫は襟元に手を入れてメダイヨンを掴み、シャツの上に出した。「おお」ため息混じりの声を上げ、恍惚の表情となった衣奈は、時夫の前に跪くと、時夫の胸に手を当てメダイヨンに顔を近づけた。「おい」時夫はひるんだが、衣奈は気にする気配もなく、メダイヨンに甘い声でささやきかけた。「私を縛るあかし、私を支配する印、私のすべてを捧げる未来、この世界を支える力・・早く、早く私に下さい、貴方のすべてを・・」衣奈はメダイヨンにくちづけた。メダイヨンが更に熱くなり、その熱さは服の布地を通して時夫の肌を焼いた。「うわ、何だ!これ!」時夫は衣奈の肩に手を当て、押しのけようとした。だが衣奈は時夫を抱きしめ、そうはさせなかった。「怖がらないで下さい。これは”変化”の兆しです。良い方への」ベルベットの柔らかさを持つ声を聞くと、時夫は不思議と落ち着きを取り戻した。「良い方・・じゃあ、悪い方もあるのか」衣奈はそれには答えなかった。メダイヨンの熱さが時夫の中に染み透り、時夫は身体の奥底から湧き上がる何かを感じ始めていた。メダイヨンは時夫の胸と衣奈の頬の間にあった。時夫の血がたぎる。それは衣奈のせいでもあり、そうでない気もしていた。時夫はメダイヨンから広がる何かを次第にはっきりと自覚し始めていた。(これは・・)「あせらないで。まもなくその”時”が来ます」時夫は息苦しくなって来た。身体中が震える。目の前が霞んで来た。その時、衣奈が突然、時夫を抱いたまま跳んだ。爆音がした。二人は道に転がった。衣奈のマントに包まれ、時夫は青い海深く沈んだ気がした。意識が又遠くなりかけた。「貴方の目覚めを邪魔しに来ましたね」時夫をブロックの塀にもたれさせると、衣奈は立ち上がった。「やれる所までやってみます。今の私では力不足ですが・・」時夫は目眩は酷くなり、答えるのも億劫になって来た。「ここを動かないで下さいね」衣奈は時夫に微笑みかけると、身を翻し走り出した。衣奈は時夫から少し離れた広くなった場所の中央に立った。そして空を見上げ、吟遊詩人の如く、流麗な言葉を放った。「我は湿潤にして力強き者、審判の分身にて、最初の獣の隷(れい)なる者・・」衣奈の頭上に、灰色の雲が渦巻き始めた。不気味な轟きが、次第に雲に厚く覆われていく空に鳴り響いた。衣奈は宙を睨んだまま動かなかった。時夫は霞んだ目に移る風景を遠い昔に見た覚えがある気がして来た。(あれは・・そうだ、あれは・・怒りの火の落ちる・・)「衣奈!危ない!!!!」時夫は必死になって叫んだ。衣奈の頭上に、青白く輝く光の滝が雪崩落ちた。光の中で衣奈の身体が飛散した。「衣奈!」時夫は起き上がろうとしたが身体が動かなかった。時夫は失われて行く視界の中で、幾つもの影が時夫の周囲を取り巻き始めているのを見た。(衣奈・・どうすれば・・)空の不気味な轟きは、勝ち誇るかの如く、更に大きく強く鳴り響いていた。(つづく)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・↓掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2007/04/13
第3回 「見えない鍵」一人、部屋に取り残された時夫は、ランニング一枚で畳の上に仰向けに寝転んだ。先程の情景が思い浮かんだ。(そうだ、警察に連絡しなくて良かったのかな)あまりにも酷い有様だった。衣奈に気を飲まれて部屋に戻って来てしまったけれど、社員として対処を考えねばならない。配達を待っている得意先もあるはずだ。(やっぱりこのままじゃ、不味いだよな)時夫は立ち上がり、服を着た。そしてクーラーを消すと表へ出た。「天海薬品」と書かれた看板を横目で見て、時夫は建物に入って行った。何の騒ぎにもなっていない。事務所の扉の前で、時夫は躊躇した。死体の山が怖くないと言えば嘘になる。時夫は覚悟を決め、ドアを開けた。「あ、いつもお世話になっております。はい、はい、ええ、その件は・・」電話をかける男の声がした。人々が忙しげに行き交っている。警察ではない。鑑識でもない。そこにあるのは、いつもと変わらぬ朝の風景だった。だが、時夫の知っている顔はひとつもなかった。(どういう事だ)一人の男が時夫に声をかけた。「何か御用ですか」時夫は慌てた。「いえ、すみません、間違えました」ドアを閉め、時夫は再び建物の外へ出た。もう一度古ぼけた看板を確かめて見る。「天空薬品」と書いてある。(一体どうなっているんだ)思いついてその場にしゃがみ込み、鞄を開けて引っ掻き回した。名刺入れを取り出した。名刺には会社名と自分の名前があるはずだった。開けてみると一枚も入っていない。会社の名前を印刷した紙袋も沢山あるはずの書類も消えている。ノートパソコンを引っ張り出し開いてみた。電池切れで立ち上がらない。(昨日充電したはずなのに)人々が通り過ぎながら、奇異の目で時夫を見ていた。それに気がつき、時夫は鞄を閉めると立ち上がり、駅の方へ歩き出した。帰る場所まで消えていたらどうしようと思ったからである。アパートは元の場所にあった。自分の部屋の表札が「蔵原」なのを確かめ、ほっとして鍵を開けた。中へ入ると冷気がまとわりついた。(クーラー、付けっぱなしだったっけ)いや、消したはずだ。「お帰りなさい」ビロードの手触りを思わせる声がした。部屋の隅に衣奈(いな)がきちんと正座をしていた。黒いマントは纏ったままである。鍵は掛けてあったはずだ。「どうやって入った?」「貴方が入れてくれました」衣奈は微笑みながら答えた。「お陰で寒さの中で待たずに済みました」「寒いって」今は夏だろう、と言いかけて窓の外の風景が目に入った時夫は言葉を失った。表は雪が降ってる。外は一面白く塗り潰されている。クーラーを見ると止まっている。この寒さはクーラーではない。冷気が時夫の身体に染みて来た。指先にも薄い靴下の足の裏にも。何かの閃きが頭をよぎった。時夫は鞄の中をかき回して、今朝方買ったはずの缶コーヒーを探した。掴みだした缶は熱かった。凍えた指先が温まると急激な熱さが肌を焼いた。耐え切れず、時夫は缶を落とした。転がった缶コーヒーは衣奈の膝先に止まった。衣奈は缶を手に取り立ち上がった。衣奈は驚きで立ちすくむ時夫に缶を差し出した。時夫は首を左右に振った。「いただいてよろしいですか?」衣奈が言った。時夫は首を縦に振った。細い指先が蓋を開け、薄赤い唇に缶が押し当てられた。やや上向きになり、滑らかな肌をした白い喉があらわになった。飲み物を飲み込み、喉が動いたのを見た時、時夫は何だかいけないものを見てしまったような陶酔を覚えた。衣奈の喉が動く度に、時夫の喉は乾いていく様だった。缶を唇から離し、衣奈は小さくため息をついた。青味がかった瞳が時夫を見た。「甘くて、苦いのですね」濡れた形の良い薄赤い唇を、薔薇色の舌先がちろりと舐めた。時夫は息苦しくなり、それを振り払うかの様に言った。「それ、熱くなかった?」衣奈は少し思案顔になった。深遠な問題に向き合う哲学者の様な顔だった。「熱いですね」衣奈は言った。余りにも平静な言い方で、本当に熱さを感じていたのか、時夫は疑いたくなった。だが、それよりも聞きたい事があった。「何が起きているんだ」衣奈は窓の外を見た。「まだ、何も起きていません」「キミは知っているのじゃないのか?」衣奈は缶を握りつぶした。紙コップの様にそれはあっけなくつぶれた。「敵はそこまで来ています」衣奈の目は外を見たままであった。「敵?」ますます訳が分からない。時夫は衣奈が狂人なのかと思い始めた。「来ます」衣奈はそう言うと時夫の手首を掴んで引き寄せた。窓硝子が割れた。時夫は目をつぶった。「行きましょう」衣奈は片手で時夫を引きずり、片手でドアを押した。ドアは蝶番がはずれ外に倒れた。衣奈は走った。「ちょっと、待ってくれ」引きずられ、よろけながら時夫が叫んだ。「敵は待ってくれませんよ」黒いマントが翻り、目の醒めるような青い色が時夫の行く手に広がった。時夫は眩暈を感じた。足元がふらつき、気が遠くなった。(何だ、一体・・何が・・)(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/11/26
第2回 「約束の日」 単線のローカル線もここが終点である。無人の駅を降りると、そこは電柱と朽ち果てた火の見櫓の他は、高い建造物は見当たらない。田畑の広がりの向こうに山々が見える。蔵原家はそのあたりの旧家で、昔日の豪勢を偲ばせる門には、達筆の表札が掛けられている。普段は正面の門は閉ざされており、横の通用口から出入りしている。門から玄関に続く玉砂利を敷き詰めた道は、良く手入れのされた植え込みが左右にある。蔵原玄條(げんじょう)は、組子欄間の細工が自慢の、奥の自室で文机に向かっていた。朝食後の日課の書である。痩せた小男が一人、足早にやって来て、玄條の背後に膝を着いた。小男は息せき切って言った。怒りを押さえている様に見える。「玄條様、何故、衣奈(いな)如きにお任せを」蔵原玄條は筆を置き、振り向いた。畳に手を付き、上目遣いに自分を見る男の顔の卑しさに、玄條は眉をひそめた。不快を押し殺し、玄條は言った。「あれが一番身が軽い」「しかし思慮も浅く、何をしでかすか」「時夫は何も知らんのだ。同年代に見える衣奈の方が気を許しやすい」玄條は、男の顔をひたと見据えて言った。「自分の方が適任だと言うのか、三之助」男は慌てて、平伏した。「いえ、決してそのような」玄條は三之助に背を向けた。「では、行け」男が去ると、玄條は立ち上がった。「良い墨が磨れたと思うたが、気がそがれたわ」玄條は窓から外を見やった。夏の庭は緑が濃すぎ、玄條の好みではなかったが、木々の翳には涼しさがあった。古い硝子は物が歪んで見える。白髪の蓬髪に、年老いたとはいえ端正な玄條の顔が硝子に映ると、そこだけ賑やかだったこの家の往年の姿が甦ったようで、玄條は幻の中に、丹念な刺繍を施した振袖を翻した娘の艶子の笑顔を見た。その娘も時夫を残して先に逝ってしまった。玄條は室内を見渡した。すべてが時に飴色に磨かれた調度ばかりである。そしてそれは過去しか語りかけて来ない。少しずつ古びて消えてゆく。この家の人も物も。(だが、残さねばならぬものもある)玄條の顔が厳しくなった。時夫のアパートに着くと、時夫はクーラーを着けた。「狭いけど、適当に座って」衣奈と名乗った青年は大人しく部屋の隅に行き腰を下ろした。正座をしている。おかしな奴だと時夫は思った。「ちょっと、ごめんよ」時夫は上着を脱ぎ捨て、ネクタイを取り、ワイシャツのボタンをはずした。そしてどっかりと座り、胡座をかいた。衣奈は静かに時夫を見ていた。並の女性よりも美しい顔がこちらを見ている。その瞳も澄んでいる。時夫は恥ずかしくなり、それを紛らわす様に言った。「暑くないの、そんな恰好で」衣奈は黒いマントを着込んだままだった。衣奈は初めて気がついたかの如くに言った。「暑いですね」「いいよ、楽にして」「慣れておりますので」衣奈は微笑んだ。そのあたりに花が咲いた様に思えた。「時夫様は、お優しい方ですね」時夫は更に恥ずかしくなり、横を向いた。「あのさ」「はい」「僕の事、様なんて着けなくていいよ」衣奈は困った顔をした。「それでは、玄條様に叱られます」玄條、それは祖父の名前だ。では祖父がこの青年を寄越したのか。「お爺様が、君をここへ?」衣奈は更に戸惑った顔をした。「貴方は何もご存知ないのですか」時夫の方も困った顔をした。「何の事か、さっぱり分からないよ」「”約束の日”が近いのですよ」「何だ、それは」時夫の答えに気落ちした気配が、衣奈の端正な顔を曇らせた。「艶子様は、何もお伝えしなかったのですね」艶子、それは母の名前だ。こいつは一体。「君は誰なんだ」衣奈は時夫のボタンのはずれたシャツの首のあたりをじっと見ていた。そして再び微笑んだ。「ああ、”それ”をお持ちではないですか」時夫は首に手をやった。母が掛けてくれたメダイヨンに指が触れた。「これは、母がくれたお守りだよ」衣奈は生真面目な顔でうなずいた。「ええ、お守りしていますね、貴方を」奇妙な奴だ。時夫は暑さも手伝い、いらいらして怒鳴った。「何を言っているんだ、お前は誰だ」衣奈は立ち上がった。怒ったのかと思い、時夫は一瞬身構えた。衣奈は穏やかな顔のままだった。「また来ます」丁重に頭を下げ、出て行った。その時初めて、時夫は衣奈が靴を履いたままであった事に気づいた。だが畳には泥で汚れた跡はなかった。残ったのは深い森を思わせる青く甘い香りだけであった。(続く)・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/11/24
web雑誌で連載している小説ですが、現在過去の掲載分が読めないので、こちらに掲載しておきます。『火消し』シリーズ以外の作品ですが、よろしくお願い致します。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・第1回 「軽やかに突然に」 灰色の荒野に、その影は立ち尽くしていた。蒼白の顔は古代の彫刻の如く整っていたが、吹き荒れる風が漆黒の髪を舞い上げ、その美貌を半ば隠していた。「ここでは、ないのか」薄く赤味を帯びた唇がため息を漏らした。ため息は唇を離れた途端、突風に何処へか連れ去られた。細い身体に黒い外套を纏っている。風がその外套すらも奪おうとするかの如く、青年に吹き付けた。青年は風を無視して歩き始めた。風は気のある女の様になおも追いすがったが、青年の瞳は遠い虚空を見据えたままだった。自棄になった風が一層強くなった。青年の黒い外套が大きく翻った。裏地は目の覚めるような青だった。灰色の世界で、その青だけが唯一の色であった。蔵原時夫(くらはらときお)は、けたたましい音を立てる目覚ましに飛び付き、止めた。のろのろと起き上がり、流しに立った。狭いアパートでは、申し訳程度の流しとガス台のあるスペースが、キッチン兼洗面所である。歯を磨きながら、目の前に下げてある剥げかけた鏡を覗き込んだ。悪い顔でないと思う。だが、彼女はいない。顔を洗い、背広に着替えた。ネクタイを結ぶ手付きも社会人三年目ともなれば慣れたものだ。手が襟元の鎖に触れた。細い銀の鎖の先に丸い小ぶりのメダイヨンが下がっている。母の形見だ。アクセサリーなど柄ではないと思っているが、これだけは肌身離さず付けている。幼い頃、時夫は良くうなされた。怖い夢ばかり見ていた。内容は覚えていないのに、恐怖だけが目覚めても残っている。時夫が泣くと、母がいつも添い寝をしてくれた。母は子供の目にも美しい人で、村一番の美人と名高かった。時夫は父を知らない。母と婚約してすぐに事故で死んだという。写真すら見たことがない。母の父、時夫の祖父が、父に関するものはすべて処分してしまったのだ。怖い夢は大きくなるに連れて少なくなったが、まれに夜中に大声を上げてしまう事があった。自分より背の高くなった息子に、母は添い寝こそしなくなったものの、その声を聞きつけると、時夫の様子を見に来るのだった。遠慮がちに扉を開け、覗く白い顔を時夫は覚えている。大学を出て都心に就職した時夫の首に、母が鎖をかけてくれた。それがこのメダイヨンだった。「お守り」だと母は言った。「怖い夢を見ないように」と。確かに一人暮らしを始めてから、時夫はあの夢を見ていない。母が亡くなったのは、時夫が家を出てから半年目の事だった。玄関に倒れ、そのまま事切れていたと聞いた。祖父は一人娘を失い、大きな家に一人になったが、時夫に帰って来いとは言わなかった。祖父は昔から時夫に何かを尋ねたり、命令をしたりする事はなかった。会話すら稀であった。母の葬儀の時も始終無言で、時夫は葬儀屋に言われるままに手順を踏む事で精一杯で、祖父の事を思いやる余裕もなく、残して来た仕事も気掛かりで、一段落すると祖父への挨拶もそこそこに、慌しくアパートへ戻ったのだった。あれから二年余りが過ぎていたが、時夫は故郷へ一度も帰っていなかった。駅のホームで缶コーヒーを買った。梅雨に汗ばむ季節だと言うのに、出て来た缶は熱かった。もう少しで取り落とす所だった。(寝ぼけているのかな)確かにいつもと同じ自販機で、いつもと同じボタンを押したはずだった。熱くて飲めない缶コーヒーは仕方ないので下げていた鞄に入れた。パソコンに当たらないように隅の方に押し込んだ。電車がホームに滑り込んできたので、人々に押されながら乗り込んだ。再び人々と共に吐き出された改札口から、時夫は会社まで重い足取りで歩いていた。今日は売上の報告があるのだ。成績はいつも中くらいだが、最近やや下降ぎみだった。灰色の四階建ての古ぼけたビルに時夫は入っていった。「天海薬品」と書かれた色褪せた縦長の木の看板が、入り口の脇に掛けられていた。廊下の突き当たりから階段を上がった。二階の廊下の途中の、中央に磨り硝子の嵌ったアルミのドアを開けた。彼はそこに立っていた。彼は時夫を見た。「貴方は違いますね」彼はそう言って、時夫に手を差し伸べた。すらりとした長身に黒いコートを纏っている。翻る裏地は海よりも青い。漆黒の髪に蒼白の顔。優雅なカーヴを描く細い眉の下には完璧なアーモンド形の目。瞳は黒曜石の様に輝いている。通った鼻筋、薄く赤味を帯びた形の良い唇は微笑を含んでいる。こんなに美しい男性は見た事がない。声ですら柔らかいビロードを思わせる。一体彼は誰なのだ。そして、こんな場所でどうしてそんなに平静でいられるのだ。時夫は混乱した頭で思った。そこは会社の事務所だった。いつもなら挨拶の声が飛び交う時間。だがそこには声を発する者はいなかった。彼以外には。十三人の社員全員が、無残にも手足を引き千切られ、様々な恰好で横たわっている。その惨劇の部屋の真ん中で、彼は散歩の途中で立ち寄ったかの如く、ごく自然に立っている。返り血も浴びていなければ、凶器も持っていない。これは彼がやった事ではなさそうだ。彼は石畳で遊ぶ子供の様に、ひょいひょいと死体を避けて、入り口で蒼褪めて立ちすくむ時夫の所へ来た。「いきましょうか」彼は再び手を差し出した。時夫は思わずその手を握ってしまった。柔らかく暖かい。彼はにっこりとした。「やはり貴方は違いますね。良かった」そして時夫の手を握ったまま、廊下へ出た。時夫は半ば引きずられ、慌てて言った。「どこへ行くんだ」彼は当然といった顔で言った。「貴方の家へですよ」時夫は訳が分からずに、きょとんとした顔をした。「貴方が教えてくれたのですよ」彼は住所を詩の朗読のような節回しで暗唱してみせた。確かに時夫の住所だった。「君は誰?」再び時夫の手を握って彼は歩き出した。「私は衣奈(いな)です。もう忘れてしまったのですか」「忘れるも何も、君と会った事もないよ」彼は笑った。柔らかいまろやかな声だった。「冗談がお好きなのですね」そして時夫の手を握ったまま、まだ朝の気配の残る道を歩いて行った。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・掲載された小説はこちらでまとめてご覧になれます・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2006/11/24
全5件 (5件中 1-5件目)
1