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半年に渡る連載になってしまいました。この話の原型は十年以上前に書かれたものなので、それを考えるとかなりの長いつきあいの話です。ストーリーは決まっていたし、以前書いたものも所々に織り交ぜてありますが、それでも最後まで来れたとは感無量です。原稿用紙だと800枚くらいになる計算です。最初に生まれたのが『火消し』の神内威(じんないたけし)とサギリで、それから木波マサトとさゆら子、彼らの息子の狩野幸彦が出来ていきました。カヅキとカナも最初からの仲間でした。いくつかの短編があって、長い話を書く時にマサトと幸彦の方にウエイトを置いてみました。それが「燃える指」です。佐原に関する話は長くなりそうなので「哀しみの異称」の方で書く予定です。セバスチャン・メルモスと恵美子の話も別枠で、彼らの出会いから別れまでもう一度書けたらと思っています。今回の一番の収穫は、人物が育つ事がまざまざと感じられた事です。これは内的作業であるので、どこまで文章に反映されたかどうかはわかりませんが、長編ならではの醍醐味だったと思います。最後にこの物語を読んでくださった皆様に、厚くお礼を申し上げます。ありがとうございました。
2006/04/24
約束~Epilogue「とうとう二人だけになってしまったな」「そうね」「俺もしばらく遠くへ行く」『火消し』の遠くは、とても遠い。『道標』はここに残る。次の行く末を指し示す為に。「もし貴方が帰りたくなったら、いつでも私を呼んで」「ああ」「約束よ」サギリの細い指が、神内の指にからまる。「ああ、約束だ」.........................今年は米の出来がいい。黄金色に広がる稲穂を、久瀬は満足げに眺めた。その向こうから駆けて来た者がいた。「久瀬、柿の実が沢山生ってるよ」両手一杯に夕陽色に染まった実を抱えて、明るい声が言った。「間人、お前、また長老の課題をやらないで抜け出して来たな」「だって、ずっと座っているなんて、僕には向いてないよ」間人は可愛い唇をとがらせた。「寒露様も大変だな、こんな当主様のお守りでは」久瀬は後ろから羽交い絞めにされた。「誰が大変だって?」「あ、寒露様」久瀬は慌てた。久瀬を押さえ込んだまま、寒露は言った。「間人、明日、幸彦様が村にお戻りになる。和樹様もご一緒だ、村祭だからな」「寒露様、また僕に振袖を着せようとしないで下さいね」「三峰様にウケると思ったんだがな」寒露は片目をつぶってみせた。「間人、戻るぞ。夕飯に遅れると、間宮の機嫌が悪くなるからな」「はい」間人は歩き出した寒露の後を追った。そして振り返り、久瀬に呼びかけた。「また明日」「ああ、また明日な」久瀬は明日の夜の祭の宴の事を考え、浮々した気分で道具の片付けを始めた。風が吹いた。久瀬はふと顔を上げた。金色の穂波の向こうに、白く長い髪がなびくのを、久瀬は見たような気がした。(完)
2006/04/24
解き放たれた刻印~空仰ぐ者三峰はかつての我が家の門をくぐった。「保名(やすな)・・」「貴方、お帰りなさいまし」保名は見えない目に涙を浮かべ、手をついて夫を迎えた。「もはや人でない私を、夫と呼んでくれるのか」「どのようにお変わりになられようと、貴方は私の夫、鵲(かささぎ)の父親です」三峰は保名を抱き寄せた。保名は山から戻った夫の胸に懐かしい香りを感じた。「鵲の事も、抱いてやって下さいまし」三峰はその腕に我が子を抱いた。鵲は父を見ると笑いかけた。「もう、笑うのか」「ええ」三峰は胸に痛みを覚えた。私はこの子とは違う者になってしまった。共に同じ時を生きる事は出来ないのだ。「保名、私は行かねばならない・・」「はい、お役目がおありですもの」「お前にもこの子にも、すまない事だと・・」保名は三峰の言葉をさえぎった。「もう、おっしゃらないで下さい。たとえ何があろうとここは貴方の家、いつでもお帰りになれる場所です。私は望んで貴方の妻になりました。鵲をさずけていただきました。そして貴方は無事に山よりお戻りになられました。何をあやまる事がありましょうか」三峰の腕の中で、鵲がしきりに声をあげていた。わけのわからぬ声であったが、母に同意しているように、三峰は感じた。風が吹いた。ふわりと肩にかかる三峰の髪が舞い上がった。「お前か・・」鵲は笑った。「この子は、こんなにも強い風の力を持っている。強くなるぞ」三峰は微笑んで、鵲を高く差し上げた。「高く飛べるようになる、きっとお前は誰よりも高く」鵲は、父の腕の先で、楽しそうにきゃっ、きゃっと笑った。三峰は保名を振り返った。「この子の将来が楽しみだな」「ええ」そうだ、私はこの子の行く末を見る事が出来る。どんな親よりも確かな先まで。忌まわしい身と思うのはやめよう。私は生きる、見守る為に・・多くの命を。その為に自らの命を捧げてくれた者の為にも。マサトは、彼とさゆら子の愛した桃の木のそばに葬られた。見送る人々の中に、和樹の姿もあった。佐原の屋敷の前に人々は集まっていた。皆、幸彦の言葉を待っていた。幸彦の傍らには三峰が静かに控えていた。かつての竹生の様に。間人は寒露の腕に抱かれていた。幸彦は間人に近寄ると言った。「僕は、神内さんの所へ帰るよ」村人達はざわめいた。間人が聞いた。「じゃあ、村はどうなるのです?幸彦様」「君が佐原の家の当主となるのだ。君が本当の当主なんだよ」間人は驚き、目を見張った。「え、どういう事ですか」「アナトールは僕に”刻印”がないと言った」「幸彦様、それは」「正気を失って夢の領域を彷徨っている内に、僕は隠された夢に出会った。それはお母さんと浅葱様の夢だった」「浅葱・・僕の母のですか?」「浅葱様は双子だから養女に出されたのではない。『奴等』の手から逃れる為に、家を出されたのだ。浅葱様こそが”刻印を持つ者”だったから。皆も聞いて欲しい」幸彦は皆の前で語った・・マサト、僕の父は自分の命が短い事を知っていたのだ。村の守護者の自分がいなくなれば『奴等』は村を蹂躙し当主を喰らうだろうと危惧したのだ。刻印を持つ者を喰らった『奴等』の力は計り知れなく増大する。さゆら子、僕の母は身代わりの当主だったのだ。おそらくそれを知らずに、本当の当主として育ったのだろう。お父さんも母を当主として扱った。そして僕が生まれた。僕も又身代わりの当主となった。間人、君が生まれた時にお父さんは眠っていた。だから藤堂の計画を阻止出来なかったのだ。だが藤堂も本当の事を全部知っているわけではなかった。浅葱様は産褥で亡くなられたではない。我が子の力を、その命を持って封印したのだ。僕の見たのはその最後の浅葱様の夢だ。夢の力と刻印は君の中に封印された。『奴等』に悟られぬように。それを僕が解放した。そして『奴等』がやって来た・・「ここで生まれ育った君なら、村の事も良く知っている。僕よりも良い当主になれるはずだ」「そんな事は・・幸彦様」戸惑う間人に幸彦は言った。「君の本当の名前は春彦だね」「はい」「長老、彦のつく名は、本来は当主の跡取りにつける名ですね」臥雲(がうん)長老はうなずいた。「春彦様が浅葱様の御子である事は間違いのない事、確かに当主たる資格はありますな」「臥雲長老、僕は・・」間人は、寒露の腕の中でもがいた。「こんな、こんな僕が当主だなんて」長老はやさしく言った。「お前には夢の力がある、寒露がいる。何も引け目を感じる事はない」「でも・・」「村の為にお前を不憫な目に合わせてしまった我等の、せめてもの罪滅ぼしじゃ」「臥雲様」「春彦様を当主とするに異議を唱える者はおるか?」長老は村人に問うた。誰も何も言わなかった。間宮が言った。「これで、私は当主様のおむつを代えてたんだって、孫に自慢が出来るんだね。女の子みたいに可愛い子だったから、本当にアレがついてるかどうか、おむつを代えるたびに見ちまったよ」笑い声の中で、間人は真っ赤になった。寒露も笑いながら、間人をあやすようにゆすってやった。「それと、もうひとつ、しなければならない事がある」幸彦は間人の手を取った。「君を自由にしてあげなくちゃ。刻印を解放しよう」「え・・そんな事をしたら村が」「僕は心を閉ざしていた間に、夢で色々な世界を見た。その時に刻印の本当の意味を知ったのだ」「本当の意味?」「刻印がなくなれば村が消滅するのではない、村は”元の場所”に戻るのだ。あるべき本来の姿に戻るのだ」「どうなるのです?」「誰でも来られるようになる。誰でも好きな所にいける。もうここに縛られている必要はないんだ」幸彦は、村の者達に言った。「外へ行きたい者はいけばいい。ここはどこにでもある普通の村になる」人々はざわめいた。その声を制するような大声が聞こえた。「幸彦様、それは違います。どこよりも美しい村になるのです」久瀬の声だった。久瀬は前に進み出た。「俺はここに残ります。俺は畑が好きなんです。マサト様のお好きだった桃の木も俺が大切に手入れします」久瀬は間人を振り返った。そして幸彦を見た。「俺は外の世界も見ました。でもここが一番好きです。間人が当主の村を、幸彦様の故郷を、俺は美しいままにしておきたい。それだって村を守るという事です、俺はそう思います」「久瀬・・」幸彦は微笑んで、この大男を見上げた。「そうだね、武器を取る事だけがすべてはない」戦いは終わったのだ。村人達はこの奇跡をどう受け取って良いのか、途方にくれる者も多かった。幸彦の傍らに居た三峰は静かに言った。「少しずつ慣れていけば良いのだ。穏やかに変化していけばいい。あせらずともいい、それぞれが生きたいように生きよ。私はお前達を見守っている、間人の夢を通して」かつての村の長の言葉に、皆は勇気を与えられたような気がした。三峰は言葉を続けた。「篠牟、高遠、村の事はお前達にまかせた」二人は頭を下げた。「寒露」「はい」「私達の”特別な子”の事を頼んだぞ」寒露は胸を張り、真っ直ぐな目で三峰を見た。「大切にお守り致します。俺のすべてをかけて」三峰は寒露に近付き、”黎明”をその手に握らせた。「そしてお前は”村の守護者”だ。村を頼むぞ」「はい、心して」三峰は寒露の腕に抱かれた子を愛しげに見た。「間人・・」「はい」「お前とは、いつでも逢えるな」「はい、夢の中でいつでも」間人は微笑んだ。それは春のようだと三峰が言った、あの笑顔だった。「間人さん、僕も遊びに来ますからね」和樹が言った。「はい、今度は僕にもケーキを作って下さい」「ええ、間人さんの分も寒露さんの分も、皆さんの分も」それから和樹は、学校の休みの度に村を訪れるようになる。自然の豊かなこの村は和樹の心の故郷となる。「では、刻印を解放する」幸彦が宣言した。まばゆい光が村を包み、人々の記憶が途絶えた・・掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/23
天と地の獣~滅ぶ者次第に場所を移動し、いつしか二人は崖の上に来ていた。その先は断崖絶壁で、遥かに下方に燃える溶岩の赤い火が見えた。失った手の代わりにアナトールの左手は鉄の義手が付けられていた。鋭い爪は岩をも切り裂いた。竹生は黎明で受け流しては、その攻撃を避けていた。(なんという・・強さ)『奴等』の加護を失ったにも係わらず、アナトールの戦闘力は衰えていなかった。「楽しいねえ・・」アナトールは笑いながら、飛び掛って来る。竹生は不自然さを感じていた。だが今は竹生の方が不利だった。ここは彼等の領域なのだ。風の力も思うように働かない。「どうした、どうした、こんなに弱かったかい?」アナトールは竹生を攻め立てた。竹生は崖の端まで追い詰められていた。「後がないよ、どうする?」アナトールは高く笑い、鉄の爪を振りかざした。竹生の髪が逆立った。盾達も敵と戦いつつ二人に追いついたが、溶岩の壁に阻まれ、竹生に加勢する事が出来なかった。「竹生、頑張れ!」幸彦の叫びが地鳴りの中に響いた。寒露は眠る間人の傍らに座り、篠牟の置いていった刀を引き寄せた。(篠牟は、本当に気が利く)変化した感覚には、今まで以上に周囲の様子が肌を突き刺すように鮮明に感じられた。遠い戦いの気配さえ・・火高の笑顔を思い出した。あれと同じ顔を先輩の盾の顔に見た事がある。これを最期と敵に向かって行った盾の顔だ。(火高様は、ご自分の命の大半を俺に与えて下さったのだ)奥座敷の門番として君臨した者が、その役目を寒露に託し、赴いたのだ・・戦場へ。その意味がわからぬほど鈍感な寒露ではなかった。そして受け継いだ役目と命の重さをも。「寒露様・・」間人の声がした。大きな目を見開いて自分を見上げている顔を、寒露は覗き込んだ。「どうした」「白露様は、遠くへ行ってしまわれたのですね」「ああ」「とても寂しいけれど、綺麗な夢が・・僕・・」寒露は首を振り、その髪を撫でてやった。他に何をしてやるよりも、白露と同じその仕草が白露の想いを伝えてくれるような気がした。「白露は、誰も恨んではいない。そして三峰様の為に、望んで遠くへ行ったのだ」「はい・・」「お前は今でも、俺と白露の、俺達の”特別な子”だ」寒露の手を今は片手しかない手が掴んだ。「ずっと守ってやるから、一人にはしないから。俺と俺の中の白露がお前を守る」そうだ、白露・・お前がたとえ遠くで一人彷徨う間も、俺達はいつも一緒だ。この魂はひとつだと、あの封じられた者も言ったではないか。今もお前は生きている。俺は感じている。「マサトが・・」安楽椅子に沈み込み、遠くを見ていたサギリがつぶやいた。部屋には他に神内しかいなかった。思ったより重傷だった和樹は、カナの手当てを受け、自室で眠っていた。神内の顔にも疲労の色が濃い。「マサトの身体を、こちらへ連れて来る?」「いや、村の者にまかせよう。今は和樹に見せたくない」神内は焼け焦げたネクタイをゆっくりとはずした。「あの村に眠りたいだろう、マサトも」「そうね」「まだ、終わっていないしな」「見る?向こうの様子を」神内は微笑んで、サギリに言った。「もう、見なくていい。きっと幸彦達が終わらせる」サギリは立ち上がると神内の所へ歩み寄った。その膝に乗り、首に手を回した。そして神内の汚れた頬に自分の頬を寄せた。「もう、これ以上、誰も失いたくないわ」「ああ」「ネクタイの事は、マサトに免じて許してあげる」「ああ、すまない」「今度は何色にしようかしら、青にする?マサトの好きだった青・・」「俺には似合わんだろう」「貴方はどんな色でも似合うわよ。だから忘れないように」「忘れないさ、俺もお前も」「そうね」すすり泣きが、静かな部屋に響いた。幸彦を守りながら、盾達は溶岩から出現した悪鬼と戦っていた。これまでとは格段に異なる強さに手こずっていた。幸彦はある事に気がついた。「竹生、アナトールの左手に『奴等』が隠れてるんだ!」『奴等』を滅ぼすカヅキの銀の身体を封じた”黎明”が、アナトールの左腕を砕いた。断末魔の悲鳴が領域を揺るがせた。二人の周囲の溶岩の壁が崩れ落ちた。「余計な事を!幸彦!」アナトールは吼えた。大きく振った右手から溶岩のつぶが飛び出し、幸彦に襲い掛かった。幸彦の前に巨躯が立ちはだかった。その身体に溶岩のつぶが幾つも突き刺さり、肉の焦げる匂いがした。「火高!」「幸彦様!」三峰は戦っていた敵を切り捨てると、幸彦の元へ飛んだ。そして幸彦の顔を自分の胸に伏せさせるように抱きしめた。「火高を、見ないでやって下さい」火高は立ったまま絶命していた。その前面は黒く焼けただれていた。奥座敷の門番は最期まで敵の前に立ち、当主を守りぬいたのだ。そしてその身体は塵となり、飛び散った。轟々と燃える溶岩の音が響いていた。「もう、終わりにしよう」竹生は静かに言った。地獄のような風景の中で、それは涼やかで清冽な響きを持っていた。竹生は”黎明”を三峰目掛けて放った。三峰はそれを素早く受け取った。「狂える悪鬼よ、私と共に滅びよ!」竹生はアナトールを後ろから羽交い絞めにすると、その首に牙を食い込ませた。アナトールの身体が痙攣した。竹生は後ろに大きく飛んだ。その先は奈落だった。二人はそのまま炎の底へ落ちていった。「竹生!!!」幸彦は崖の縁まで駆け寄った。幸彦の叫びが竹生に届いたのか、竹生は笑みを浮かべたまま、その美しい身体はアナトールと共に溶岩に飲み込まれて消えた。「竹生・・僕を、一人にしないと・・言ったのに」幸彦の目に涙があふれた。「一人にはいたしません。これからは私がおそばに」三峰が幸彦の隣にいた。幸彦は彼を見た。哀しみに歪んだ顔で。「でも、お前は竹生じゃない」幸彦は叫んだ。「誰も代わりになんてなれない!お父さんの代わりも竹生の代わりも!」三峰は幸彦を真っ直ぐに見た。その瞳には穏やかな澄んだ輝きがあった。「ええ、そうです。でも私達は生きていかねばなりません。マサト様の分も竹生の・・兄の分も」(兄・・そうだ、三峰も)彼も今ここでかけがえのない肉親を失ったのだ。幸彦はうなだれた。「ごめん、酷い事を言ってしまった」「良いのです、私達は盾・・幸彦様、私をお連れ下さい」竹生の弟、彼の意志を継ぐ者は兄そっくりのまなざしをしていた。それも又竹生の幸彦への想いの証だった。「そうだね、一緒に帰ろう。僕らの村へ」篠牟は撤退を命じた。壁を越えると、そこには夜明けの村が広がっていた。大きな悪い夢は消えた。雪火と村の者達が皆を迎えた。「良くおやりになった、若き当主様」「いえ、僕ではありません。これは、皆の・・そしてお父さんの」幸彦は失ったものの大きさを思い出した。涙が出そうになったが、ぐっとこらえた。いたわるように、その肩に三峰は手を置いた。「さあさ、皆の衆、お疲れでしょう。早く屋敷にお戻り下さいな」陽気な声が言った。”ゆりかご”の間宮だった。「美味しいご飯もうんと用意してありますよ、風呂も焚いてありますよ」萱もそれに続いて言った。「かあちゃん、味噌汁の具はなんだい?」久瀬が持ち前の大声で聞いた。「なんだい、盾になっても食い意地が張って行儀が悪い子だね。あたしゃ、恥ずかしいよ」萱が言うと、周囲からどっと笑い声が上がった。久瀬は頭をかいた。「さあ、皆、早く帰ろう」幸彦は振り返り、出来るだけ元気な声を出して言った。一同は屋敷に向かい、歩き出した。風が吹いた。竹生・・やっぱりお前はいてくれるんだね、僕のそばに。お前は今もこうして僕を見守ってくれている。お前の愛した村・・この村で僕はまだ知りたい事が沢山あるのだ。お母さんの事、お父さんの事、僕の役目や竹生たちの事・・そして僕の力を未来の神内さん達に託す為に、僕は子供を持ちたいと思う。僕は僕の欲しかったものをその子にあげたい。そしてその子にも盾を与えてやりたい。いつも僕を守り、支え、愛してくれた・・竹生・・お前のような。お父さん、貴方が生まれかわって、もし僕の子供達に出会ったら、どうか可愛がってあげて下さい。僕の分も・・貴方には辛い繰り返しでも、貴方が帰って来ると知っている僕らは未来に夢を持てる。その為に僕らは生きていきます。胸を張って。子供達から貴方に、僕が立派に生きたと、貴方の息子として恥じない生き方をしたと、伝えてもらいたいから。お父さん・・僕はもう、ひとりじゃないんです。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/21
その剣は風を呼び~統べる者神内は青石剣をかまえた。その先にうごめくモノがいた。禍々しい気配を発している。普通の人間ならまたたくまに正気を失うだろう。『火消し』の仲間以外は、これに挑める者はいない。「これが最後の『奴等』だ」「かなりの大物だな」マサトも身構えた。最深部まで降りて来た。これ以上は和樹でも無理だ。前へ出ようとした和樹に、神内は言った。「お前は下がっていろ、その身体で無理はするな」「すみません・・」和樹の銀の身体は多くの銀の血を流していた。ここまでの苦闘がその身体を傷だらけにしていた。それが神内とマサトには見えるのだ。神内はマサトの身体の事も解っていた。けれどもそれは口に出さなかった。今少しばかり休めと言った所で意味はないのだ。それよりも・・気合のこもった大声をあげ、青石剣を手に、神内は最後の『奴等』に向かって行った。援護するかのようにマサトの青い閃光がその頭上を飛び越えて『奴等』に突き刺さるのが見えた。後ろでマサトの気配がゆらぐ。和樹の叫びが聞こえた。神内は振り向かなかった。そして飛び上がり、『奴等』目掛けて剣を振り下ろした。『奴等』の叫びがその領域を揺るがした。三峰と火高の加勢を得て、幸彦と盾達は壁の奥へ猛烈な勢いで進んで行った。(いる・・アナトール)幸彦はこの先にあの金髪の悪鬼の存在を感じた。今の彼にはどんな人間らしい心も残っていない。彼は戦いを楽しみ、殺戮を甘美と感じる。彼の孤独な魂は寄るべき旋律を失い、幸彦の敵としてここにいるのだ。幸彦を助けた彼はもうどこにもいないのだ。情けは捨てようと幸彦はひるむ心に言い聞かせた。風が吹いた。篠牟の身体が高く舞い上がり、大きく飛んだ。(私に、風の力が?)「今のお前には、あるのだ」敵と切り結びながら、三峰が隣に身を寄せ、篠牟に言った。「今のお前には出来るのだ。お前が盾の長だから」「いえ、私にはそんな・・」向かって来た敵を袈裟懸けに切り、篠牟は言った。「そんな力はありません!」「寒露はお前に後を託したのだ。だから間人の所に残った、そうだろう?」三峰の身体が宙を舞った。白い髪がふわりと人外の美貌を縁取った。「今のお前は盾の心の中心だ、人の想いを集めて力に変える、それが風の家の本当の力だ。私も竹生様に教えられた」「三峰様!私は分家の者です!」「皆の心がお前を選んだのだ、お前こそが盾の長、そして風の家の長なのだ」美しい微笑を残し、三峰は風に乗り、戦いの真っ只中に翔けて行った。周囲の盾の顔を見た。皆、篠牟を見て頷いている。三峰の言葉に異議を唱える者はいない。(ああ・・)篠牟の中に湧き上がる力、これが・・篠牟は剣を振りかざした。「いくぞ!誇り高き盾達よ!」鬨の声を背に、篠牟は風と共に走った。かつての竹生が、三峰がそうであったように。そして寒露がそうであったように、篠牟自ら真っ先に悪鬼に切りかかった。断末魔の叫びが地鳴りとなり、様々な空間が、領域が揺れた。和樹は耳を押さえて、うずくまるマサトの傍らにしゃがみ込んだ。この世界の最後の『奴等』が消滅した。後は”異人”だけだ。神内は片手に剣を下げ、二人の元に歩いて来た。マサトは顔を上げ、言った。「一張羅だろ、それ。そんなに穴だらけじゃあ、質屋にも持っていかれないぞ」「新しいネクタイも台無しだ。後であいつに何か言われそうだな」神内はちぎれたネクタイの端をいじりながら、憮然として言った。二人は顔を見合わせてにやりと笑った。余計な事は言わない。いつもそうだった。今もそしておそらく未来に再び出会ったとしても。「神内、後はまかせた」マサトはよろよろと立ち上がった。神内はうなずいた。「ああ、早く行ってやれ」マサトは宙に呼びかけた。「サギリ、俺の最後のわがままを聞いてくれ、幸彦の所へ送ってくれ」「そうね、いつもわがままで困らせて・・でもね、私はどの貴方もみんな好きよ。だから行きなさい、送ってあげる」「ありがとう」「貴方が素直にお礼を言ったのを初めて聞いたわ・・ご褒美にケーキを用意しておくわね」「ああ、上等なのを頼むよ」もしそれが果たされるとしたら、それは遠い未来である事を、和樹にも解っていた。マサトは和樹を見て、笑ってみせた。いたずらっぽい、いつものマサトの顔だった。そしてマサトの姿は消えた。「和樹、俺達も帰るぞ」「神内さん・・」神内は自分にすがりついて泣き始めた和樹の頭を片手で撫でた。この手には今はカヅキがいる・・そんな気がした。神内の手を借り、和樹の父カヅキが息子の哀しい別れを慰めていると。そして二人の姿もその場からかき消すように消えた。敵の攻撃の手が鈍るのが感じられた。それより先に、幸彦は『奴等』の気配が消えたのを察知した。「『火消し』が『奴等』を退治した!さあ、僕達の番だ!」歓声と共に、盾達は進んだ。これを最後とばかりに奥から大勢の異人達が繰り出して来た。「敵も捨て身ですね」三峰は竹生にささやいた。「三峰」「はい」「幸彦様を頼む」「はい」「お前に・・頼んだぞ」「はい、確かに」三峰の澄んだ目が竹生を見た。すべての想いをこめて。竹生は片手を伸ばし、三峰の頬に触れた。月よりも美しいと言われた者とそれに良く似た顔が、一瞬重なり、そして離れた。「火高、行くぞ!」夜の主、村の守護者は黎明を手に、押し寄せる異人の群を目掛けて、風と共に駆けて行った。火高はちらりと振り返り、三峰にうなずいた。三峰もうなずいた。しばらくはこう着状態だった。ここを最後と敵も必死なのだ。彼等にも『奴等』がすでにいない事は知れ渡っている。しかし命令が途絶えても、力の加護を失っても、彼等の大半は狂った心のままに、盾達に向かって来た。「幸彦様、危険です!お下がりください!」三峰は敵の攻撃から幸彦をかばいながら、叫んだ。幸彦はあせる気持ちのままに先に進もうとしていた。三峰の風が、周囲の敵を吹き飛ばした。「何だ、情けないな。苦戦してるじゃないか」面白そうに言う声が聞こえた。「お父さん!」「マサト様!」幸彦と三峰が叫んだ。マサトがゆっくりと歩いて来る。その小さな姿を取り巻く圧倒的な霊気に”異人”達は身体がすくんだように動かなくなった。(これがお父さんの本当の力・・)幸彦ですら気を抜くと意識を奪われそうだった。三峰も眉を顰め、耐えている。「ユキ、お前はホントに親孝行だよ」青い閃光がマサトの身体中から宙に飛び散り、敵の身体を貫いた。青い流星群が降り注いだようであった。異人達、敵は皆吹き飛んだ。マサトの身体はがっくりとその場に崩れ落ちた。「お父さん!」幸彦は駆け寄って傍らに膝をつき、マサトを抱き上げた。マサトはうっすらと目を開けた。「もう一度・・お前に逢えて、良かった・・」幸彦の顔を見上げ、マサトはそう言い微笑んだ。そして彼の身体は、幸彦の腕の中で重くなった。今、マサトはこの身体での役目を終えたのだった。幸彦はその身体を抱きしめた。すすり泣きが聞こえた。竹生も三峰もうなだれ、目を閉じていた。やがて竹生は幸彦のそばに歩み寄り、言った。「マサト様が開いて下さった道です。行きましょう」幸彦はうなずいた。そうだ、お父さんの気持ちを無駄にしてはいけない。篠牟は部下にマサトの身体を丁重に外に運ぶように指示した。篠牟にマサトの身体を渡すと、幸彦は立ち上がった。「行こう、これで終わりにするよ」「必ず、終わらせます」竹生は力強く言った。奥は地底だった。溶岩の流れるふちにアナトールはあぐらをかいて座っていた。「待ちくたびれたよ、幸彦・・ふふ」狂える悪鬼は裂けた口元に凄い笑いを浮かべた。「相変わらず、美味しそうだねえ・・」アナトールは鋭い爪の伸びた指先で口元の涎を拭った。「アナトール、後は君だけだ」竹生は幸彦をかばうように前に立ち塞がった。「悪鬼と言葉を交わしてはなりません」「おや、君だって似たようなものじゃないか」くくっと背中を震わせてアナトールは笑った。「お互い、化け物同士じゃないか!!!!!」その姿勢のまま飛び上がったアナトールの手刀を、竹生は黎明で受け止めた。アナトールの背後の溶岩から、数体の悪鬼が飛び出した。「敵だ!」篠牟が叫んだ。「幸彦様!」三峰は幸彦を抱き、後方へ飛んだ。「守ってみせるがいい!!お前の大事な人を!」竹生と戦いながら、アナトールが叫んだ。竹生の髪が流れ、その顔を隠し、雲の間の月のように、またその顔を顕わにした。どんな表情も飲み込んだ顔、それは竹生の一番美しい顔だった。「私が守るべきは、大事な人だけではない」黎明を掴んだアナトールを、竹生は空中で大きく身を翻し、蹴り飛ばした。その身体は地面に激突した。アナトールは一瞬驚きを浮かべ、そして笑い出した。「こうでなくちゃ、面白くない」アナトールの手が上がると、二人の周囲に溶岩の壁が盛り上がった。「竹生!!」幸彦の叫びもその壁に遮られた。「さあ、存分にやろう・・誰だっけ、お前・・誰でもいいや、僕を楽しませてくれるなら」「哀れ、心奪われし者よ・・」竹生は黎明を握りなおし、宙に舞い上がった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/19
振り返る微笑~融け合う者廊下を歩いていた幸彦が立ち止まった。後ろに従っていた竹生も立ち止まった。幸彦は振り返った。「竹生」「はい」「お前はお父さんの命がもうないのを知っていて、あんな事をしたのだね。お父さんに聞いたよ。刻印を守るように指示されたんだね」「はい」「村も盾もこの有様では、お前一人では守りきれないと思ったのだね」「はい、私にはマサト様のような偉大なお力はありません。しかし非情であっても非道であってはならなかった。それが私の犯した罪です」幸彦は微笑んだ。「お前がそれをわかっているならいい」これが最後の戦いと『火消し』は言った。最後の・・幸彦はそれが持つもうひとつの意味を辛い思いで噛み締めていた。(お父さん・・僕はもっと貴方と暮らしたかった。ポテトサラダでも何でも、作ってあげたかった。好きなTVを見ながら、僕の帰りを待っていてくれる、貴方と・・)「竹生・・」竹生は幸彦の目の涙を意味を知っていた。失うものの大きさを理解していた。だが今の竹生は自分も誓いを守れない事を感じていた。過ちをつぐなう為に。(神内様もサギリ様も・・和樹様もいらっしゃる。幸彦様はお一人にはならない)竹生は遠い声を聞いた。(そうか、お前。私の意志を継いでくれると言うのか・・酷い兄であったのに)「さあ、一緒に行こう」「はい、お供致します」どこまでも、とは言えなかった。永遠の命あるはずの者がそれを言えなかった。「行きます」和樹は扉を開けた。マサトが言った。「これが終わったら、お前とカナは家に帰れるんだ」「僕、帰らなくてもいいや」「帰ったら、ゲームが出来るぞ」「もう、ゲームなんていいです。じゃあ、行きますよ」神内は後ろからかばうように二人の肩を抱き、三人は中へ飛び込んだ。「遠い・・遠い約束だ・・」わずかに光る苔が、その姿を照らしていた。彼こそが封ぜられし者なのか。寒露は思った。白露は思いつめた顔をしていた。張り詰めた想いが伝わって来る。(これは・・)「僕らは元々ひとつだったのだ。今、その姿を取戻すのだ。あるべき力の為に」(それは・・)「三峰様のお目覚めの為に」寒露は台座の上の人を見た。眠る姿。生きておられるのか、まだ。「時間がないのだ・・我等には。さあ、寒露、白露の中へ。魂はひとつになるのだ」(お前は誰だ・・何の為に・・)その者は頭巾を後ろへやった。この部屋に同じ顔が三つ並んだ。寒露は驚いた。(どういう事だ!!!)その者は微笑んだ。「長い、長い歳月をこの日の為に待ち続けたのだ・・何もかも忘れてしまう程に長い・・時を・・次の私を」「寒露、もうすぐ”裂け目”が出来てしまう、急いでくれ!」白露が寒露に向かって手を伸ばした。「さあ、来てくれ、僕の命を無駄にしないでくれ!弟よ!」(白露・・)寒露の心は吸い込まれるように白露と重なった。流れ込んで来る、互いの思い、過去の出来事、記憶、喜び、悲しみ・・辛い事も楽しい事も、二人は感じていた。それぞれの記憶も何もかもがひとつになり、二人はすべての過去を重ね合わせ、魂がひとつになるのを・・・(俺はお前・・)(お前は僕・・)湧き上がる力、こみ上げる激情の中で、白露であり寒露である者に、今ひとつの同じ顔の者が言った。「その力を・・あの方に・・」奥座敷の守りを竹生に命じられた火高は、動かぬ寒露を見下ろしていた。寒露を見て、この寡黙な者は竹生が何故自分を残したか、悟った。(それが私の役目か、そして・・)風が吹いた。それは懐かしい風だった。(え・・)間人は震えた。いつも夢見ていた笑顔がそこにあった。それはあの盾の先陣を切って戦った頃そのままの姿であった。白い戦闘服を纏い、愛刀を手に、その人は立っていた。間人は動かぬ身体を忘れたようにかけよろうと身悶えした。「三峰様!」三峰は褥に寄り、間人を抱きしめた。「春彦、私は帰って来た」間人は涙でつまる喉から、声を絞り出すようにして言った。「おかえりなさいませ・・誠志郎さま・・」痛ましい身体を抱きしめながら、三峰は言った。「私の”特別な子”よ、お前は本当に春のようだ。冷たい場所から戻った身にはひとしお暖かく思える」間人は笑顔で三峰を見上げた。「私は幸彦様をお守りせねばならない。お前はここにいてくれ。まもなく寒露も目覚める。後で又逢おう」「はい」三峰は愛おしげに間人を見た。そして火高を見た。「間人と、寒露を・・頼む」火高は黙ってうなずいた。火高とは竹生の組の者となり友情を結んだ。ほんの少し前までは、互いに人ではなくなるなどと思いも寄らなかった。そして盾である以上、その命は当主を守る為にあるのでなければならなかった。今、火高はそれを果たすだろう、そして私も・・三峰はこの長き戦友に心の中で別れを告げた。「では、行って来る」三峰は立ち上がり、風と共に翔けて行った。白露の喉元に食い込んだ牙の痛み・・再び二つに分かたれても、寒露はそれを感じた。互いの一部がそれぞれの中に残されて、二人はいつまでもひとつでいるような想いのままで、離れて行った。頭巾の者は力尽き、死んだ。その身は塵となり消えた。”過去”のその者は役目を終えたのだ。寒露は共有した記憶の中で理解した。あれは過去へ行き、今まで生きながらえた白露なのだと。これは繰り返される時間の傷。あの山は時が淀む場所。だから・・禁忌の山なのだ。力を合わせ、過去より持ち帰った三峰様の身体。そして来るべき時にそれを成し遂げる為に、再び過去へ続く淀みに身を投じた”今”の白露・・永遠の命を得て、白露は長い時を生き、やがてマサト様と出会い、山に封じられるのだ。それまで生き延びる事だけを思い、白露は時を越えていく。それが白露の願いと償い。村の為に、己の思いの成就の為に、三峰様を村に返す事、それを成し遂げる為に。繰り返される哀しみを越えて、白露は何度も生きていくのだ。時の”裂け目”が洞窟の中に現れた。その中はめまぐるしく回る極彩色に見えた。白露は振り返り、笑ってみせた。「さようならは、言わないよ」(ああ・・そうだな)そしてその身体を裂け目に投じた。これは寒露である者には通過点でしかない。二度と出会う事のない時間。寒露は思い出した。白露と一緒にいると感じた、あの寂しさを。これはこうして別れゆく予感だったのか。一方は過去へ一方は未来へ、道は決してもう交わらない・・それでも俺は忘れないから・・お前を・・俺の中に残されたお前を抱いて、俺は生きる、この長い命を・・「寒露様、お目覚めですか?」心配そうな声がした。間人の声だった。「ああ・・」妙に喉が渇いている。立ち上がろうとしたが、身体に力が入らない。「無理をするな」大きな身体が、寒露の前にひざまずいた。「火高様・・」「受け取るがいい、お前の欲しいものを」差し出された太い腕。変化した寒露にはその意味がわかった。寒露はその腕に顔を伏せた。間人は顔を背けた。命を奪いながら生きる意味を、寒露は知った。寒露が顔を上げると、火高は立ち上がった。「私も竹生様の元に行く。お前はもう、大丈夫だろう。これからはここはお前が守るのだ」火高は微笑み、踵を返すと奥座敷を出て行った。火高の笑顔を寒露は初めて見た。竹生の組の者、盾きっての豪腕の者と歌われた者が今、笑顔を見せ、去って行こうとしている。寒露は立ち上がり、その後姿に深く頭を下げた。「ああ・・来る、来るんだね、幸彦・・」金髪の悪鬼は笑った。彼等の領域は深く、まだ幸彦と盾達は壁の中を幾らも進んでいなかった。奥からやって来る異人の数が多すぎた。「『火消し』が『奴等』を倒せば、異人達は力を失うはずだ。それまで頑張れ!」幸彦は叫んだ。これまでの戦いと村の崩壊で、盾の数も急激に減っていた。竹生が奮戦しても敵の数の多さに、どうにもならずにいた。(無理か・・)幸彦は弱気になりかけた。その時、敵の一角が崩れた。長槍を振るう大男は火高だった。そして火高の後ろから飛び上がり、敵に切り込んで行くのは・・「三峰?!生きていたのか!」幸彦は叫んだ。盾の者達からも歓声が上がった。「三峰様が、山からお戻りになられた!!!」「三峰様!!」篠牟は叫んだ。「竹生様に続け!三峰様に遅れるな!」士気を取戻した”盾”は怒涛の如く異人に向かって行った。三峰と火高は竹生に追いついた。竹生は三峰に美しい笑顔を向けた。「お帰り、弟よ」「ただいま、兄さん」答える者も又、凄絶な戦いの最中でも美しい者だった。火高は二人を暖かい目で見守るようにそこにいた。「いくぞ!三峰、火高!」「はい!」最高の盾の組と言われた竹生の組の者達は、最後の戦いの中を駆けて行った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/15
慈悲と畏怖をその手に~挑む者夜になった。寒露は夜の主を待っていた。人でなくなっても習慣というものはある。寒露は竹生が日に一度は奥座敷に続く廊下を歩くのを知っていた。白い髪がなびくのが見えた。寒露はその影の前に立ちはだかった。「寒露か」「はい」「何か用か」「俺を貴方と同じものにして下さい」「戯言を・・」竹生は行き過ぎようとした。その腕を寒露は掴んだ。こんな無礼な事はした事がなかった。だが今の寒露は、そのような事にかまうつもりはなかった。「間人の中の刻印を守る為です」竹生は寒露の手を取って自分の腕からはずした。冷たい手だった。「何故それを」「この前の金髪の悪鬼も言いました。間人を、刻印ある者と」「さすがは盾の長だな」寒露の怒りが爆発した。「竹生様、貴方にあの子を、あんな非道な目に合わせる権利があるのか!『奴等』以下な仕打ちが出来る奴に、村の守護者などと名乗って欲しくない」「口が過ぎるぞ」「人でなくなった時から、心奪われた者と同じになったか!」「寒露!」「幸彦様もご承知か?こんな真似を平気でする当主様なのか?」「もう、言わせぬ!」風が吹いた。鋭い手刀を寒露は軽くかわした。「この村の誰もが、そんな事は望まない。あのような犠牲を大義と言うなら、俺はせめてあの子のそばに永遠にいてやる」竹生の髪が逆立った。二人の周囲を風が取り巻いた。「お前に何がわかる・・」「村の守護者よ、貴方の守りたいものはどこにある?恐怖でこの村を支配するのか?ならば俺は貴方を認めない!」寒露は殺されてもいいと思った。あの子のやさしさに付け込んだ犠牲など、死んでも認めないと。竹生は笑った。「お前は三峰と同じ事を言う」寒露は身構えたまま、言った。「だからあの方は皆に慕われたのだ。貴方と俺は、戦う事しか出来ない人間だ」「そうだ、そうだな・・」風は止んだ。「犯してしまった過ちは、元に戻す事は出来ない。せめてお前の望みは叶えよう」竹生は寒露を見た。今の寒露には竹生のその美しさも威厳も儚いものに見えた。「今すぐではない、時期を見てだ」「約束出来るのか」「まだ私にも誇りは残っている」「幸彦様にすべてをお知らせして、俺は篠牟と高遠に後をまかせる」竹生がひるんだ顔を見せた。背後に人の気配を感じ、寒露は振り向いた。「そうだ、竹生・・何をしたのだ」幸彦が立っていた。竹生は言った。「いつお戻りに・・」「和樹が夢を見たのだ、間人の変わり果てた姿を・・僕は長く留守にし過ぎたのか」「サギリ様ですね」「ああ、すぐに送ってくれた」「おかえりなさいませ、幸彦様」その声が明るいだけに、その姿は更に悲惨に見えた。間人を見て幸彦は絶句した。「すまない、こんな・・」「何をおっしゃいます。村の為ですから」「いや、こんな事は村の為とは・・」振り返り、竹生を見た目が怒りに燃えていた。「間人をここから出せ!奥座敷はこの子の部屋にする」「なりません!」竹生は言った。しかし幸彦は黙らなかった。「すべての盾にこの子を守らせればいい、お前もだ、竹生」「私は幸彦様を・・」「僕には、お父さんも『火消し』もいる。和樹もだ」幸彦は寒露に言った。「間人を抱いていってくれないか」「はい」寒露は間人を抱き上げた。そしてささやいた。「心配するな、俺が守ってやる。ずっと・・」間人は甘えるように、寒露の胸に頬を寄せた。「『奴等』が動いたわ」サギリは宙を見据えていた。「これで最後にする」神内は立ち上がった。「ああ、そうだな。ちょい待ち、急いでこれ食うから」マサトがケーキを頬張りながら言った。奥座敷で、幸彦がはっとして顔を上げた。「『奴等』だ。『火消し』も動いた」幸彦は竹生を見た。「村の為と言うなら、敵を倒せ。これが最後の戦いと『火消し』は言っている」竹生は黙って頭を下げた。「寒露、お前は間人を頼む」「はい」久瀬を走らせ、篠牟を呼んだ。幸彦は篠牟に言った。「壁から出て来ないうちに倒す。こちらから奥へ行く」「はい」「大丈夫だ、僕がいる。心を奪われる事はない、存分に戦え」「直ちに」篠牟は寒露を見た。寒露は生き生きとした顔をしていた。それを見て篠牟の中にも戦いへの勇気が湧いてきた。「俺はここで間人を守る。今度は、ああはならない」「はい」(寒露様は、本当の意味で復活された)篠牟はこの周囲に幾つかの組を配置しようと思った。同じ過ちを繰り返すつもりはなかった。「幸彦、ちょっと来て」サギリの声が響いた。「すぐに又そちらに送るから」幸彦は皆に言った。「少し離れる、すぐに戻る」幸彦の姿が消えた。篠牟も出て行った。竹生と寒露と間人が、奥座敷に残された。竹生は寒露に歩み寄った。寒露は咄嗟に間人をかばうように身構えた。竹生は微笑んだ。「お前と争う気はない。敵はそこまで来ているのだ」「では、何でしょうか」「・・寒露、お前がまだあの望みを持っているなら」「はい、決意に変わりはありません」「この戦い、私は負けるかもしれない」「竹生様、何をおっしゃるのです」「敵は手強い・・私にはわかる」竹生は寒露の肩に手をかけ、その身体を引き寄せた。「だから、今・・それを」竹生の牙が寒露の喉元に食い込んだ。激痛が走る。寒露は歯を食い縛り、耐えようとした。身体が震える。だが、惨い仕打ちとは思わなかった。それどころか、それを竹生の慈悲と感じた。間人と揃って同じ者になる、その願いを聞き届けてくれた竹生の。寒露は痛みと共に意識が遠のいていった。遠くなる意識の向こうで、自分の名を呼ぶ白露の声を聴いたような気がした。(大丈夫だ、俺は・・俺は、永遠に・・)褥に横たわったまま心配そうに寒露を見ている間人に、竹生は言った。「じきに目覚める」幸彦の姿が現れた。幸彦は、褥に背をもたせかけ意識を失っている寒露を見た。事情は先程のやりとりで分かっていた。「竹生、行こう」「はい」幸彦は間人に言った。「行ってくるね」「はい、いってらっしゃいませ」二人は出て行った。寒露は白露の声を聞いていた。(お前・・どこにいる)(寒露・・一緒に来て欲しい)(俺は今、動けない)(肉体はいいのだ・・心だけで)(白露・・?)意識がどこかを彷徨い、導かれていくような気がした。空を漂い、見慣れた風景の広がる上を飛んでいた。(禁忌の山?)(そうだ)眩暈がした。気が付くと洞窟のような岩をくりぬいたような部屋にいた。白露がいた。もう一人、長衣に深く頭巾を降ろした者がそこに立っていた。そして部屋の奥に台座のような物があり、誰かが横たわっていた。寒露はその者を見た。(三峰様!)白露はこちらを見てうなずいた。「そうだ、三峰様の為にお前の力を貸してくれ」(それはどういう事だ)「それが・・お前達の、そして我が願いだ・・」頭巾の者が言った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/05
応えなき贖罪~堰く者寒露は目を開けた。視野が広い。ゆっくりと手を動かし、片目ずつ覆ってみた。両方見えている。喜びと安堵で両手で顔を覆った。手も両方動く。感覚のなかった下半身にも力が入る。「まだ起きるのは早い」老医師が枕元で言った。「君の機能はほぼ回復したはずだ。後は訓練次第で以前の状態に戻るだろう」「俺は・・」「霧の家の医術は素晴らしいな」「霧の家の・・」寒露の出身の霧の家が、昔から特殊な医術を伝えて来たのは知っていた。寒露自身はその方面に係わる事はなかったが。「多少の犠牲は払っても、君を治したいという願いがあっての事だろうが」寒露は老医師の言葉に嫌な物を感じた。この医師と霧の家のやり方が合わない事位は、寒露にも推察出来た。「今は眠りたまえ。訓練は明日から始めよう」寒露の回復は目覚しかった。篠牟は喜ぶと同時に、寒露の周囲に割り切れない何かを感じていた。篠牟は密かにそれを探り出そうと思った。寒露は普段の生活には支障のない程に回復し、長としての仕事を始めた。今の彼は実質的に盾の長と村の長を兼ねていた。悪い事ばかりが起きる中で、寒露が復帰した事に臥雲長老も喜んだ。しかし寒露もどこか妙な気配を感じ始めていた。誰かが何かを隠している・・父親の霜月の態度もおかしい。あれだけ霧の家の誇りを持つ父が、霧の家の医術を自慢せずにいるなど考えられなかった。「息子の完治は霧の家のおかげだ」位は吹聴して歩きそうなのに。間人の姿を見ない事も妙だった。容態が悪いと言うがどこにもいない。自分にすら教えられないという事は、竹生様の元にいるという事だと寒露は察した。寒露は三峰が生きていると言った間人の言葉を思い出す時があった。しかし間人を恨んだわけではなかった。自刃した時の自分の気持ちは、今では自分でもどうしてか説明がつかないのだ。言わずとも篠牟も何かが妙だと感じている事は知れた。村の再建の多忙さの中でも、寒露はこの違和感の答えを探していた。或る日、真っ青な顔をした篠牟が執務室に入って来た。「どうした?」あまりにも酷い様子に、寒露はすぐ席を立って、篠牟に近寄った。「こんな・・こんな事が、許されていいのか」篠牟は震えていた。怒りにか悲しみにかは分からない。恐れなのかもしれない。「寒露様・・私も貴方が治る事を願っていました・・しかし・・」寒露は正面に立った篠牟の二の腕を掴んで支えた。そうでもしないと篠牟はそこに倒れてしまうのではないかと思った。「何があったんだ?」「私は・・迷ってます。貴方に告げて良いのか・・」初めて異人と戦った盾は恐怖でこんな顔になると、寒露は篠牟を見ながら思った。篠牟ほどの者が一体・・寒露はあっと思った。(俺の身体がどうして治ったか、篠牟は突き止めたのだ)「言え!これは命令だ!」篠牟は半ば口を開け、そして閉じた。「俺の身体の事なんだろ?俺は何をされたんだ?教えてくれ!」「・・・ご自分の目で、確かめる勇気が、おありなら」「俺が、臆病だというのか!」「いえ、これは・・しかし・・村の全体に係わる・・」寒露は苛立って叫んだ。「だったら尚更、俺は知らねばならないだろう!」寒露は篠牟に教えられた場所へ向かった。屋敷内の隅の建物だった。床板をはずすと通路があった。昔の戦いの際に隠れ家にでも使ったのだろうか。しっかりと作られた地下室だった。奥の方から灯が漏れていた。それを目印に進んだ。暗くて良く解らないが、通路の左右にも部屋があるようだった。灯は一番奥の扉の隙間から漏れていた。木の引き戸だった。寒露は開けるのをためらった。ここに何があるのか。思い切って寒露は引き戸に手をかけた。鍵は掛けられていなかった。かなり広い部屋のようだった。裸電球がひとつ、天井から下がり、かろうじて見える程度に室内を照らしていた。その暗い部屋の奥に布団が積み重ねられたような場所があり、小さな影が横たわっていた。寒露は恐る恐る近付いた。「寒露様・・ですか?」声がした。寒露は、何かに操られるかのような覚束ない足取りで、その者のそばに近寄った。何故こんな所にお前が・・言おうとして、声が出なかった。「ああ・・良かった、お元気になられたのですね」その顔の左半分は大きな黒い眼帯で覆われていた。小さな顔が一層小さく見えた。「すみません、昼間は具合が悪くて」そう言ってにっこりと笑った顔が紙のように白かった。その傍らにひざまずいた。掛け布団に触れるとその下に硬い手触りの物が感じられた。寒露の表情を察したのか、間人は言った。「それ、作り物です。すみません、お見苦しい身体で。その手と両足と。他も色々・・でも、竹生様のお陰で僕は生きていられるのです。昼間は辛いけど、夜は元気ですよ」寒露は恐ろしい事実を今知った。自分を見上げる澄んだ瞳の片割れは、今は自分の中にあると。かつて同じ人間の瞳だったものが、今はこうして見詰め合っている。寒露は言葉がなかった。老医師の言葉を思い出した。(犠牲とはこういう事か・・)俺はこんな物を見る為に、こいつをこんな姿にする為に戦ったんじゃない。俺が戦えるようになったって、これでは本末転倒もいい所だ。激しい怒りが寒露の中に湧き上がった。「寒露様?どうしたのですか、怖い顔をされて」間人の顔が曇った。「やはり、僕を許す事は出来ないですよね」寒露はそのどこまでもけなげな様子に、知らずに涙があふれた。そして叫ぶように言った。「馬鹿を言うな!お前は俺に許しを請うような事はしていない」「いいえ、僕は貴方を苦しめ、死に追いやってしまった」間人は自分の自刃の責任を感じ、このような目に合う事を承諾したのか。嗚呼、何と言う事だ。今は片方だけになってしまった無垢な瞳が寒露を見上げた。「少しでも償えるなら、いいと・・」「お前に罪なんか、ない!」間人は首を左右に振った。「僕がいたから、義父は幸彦様を敵に売ろうとし、幸彦様を狂わせ、三峰様を病にしてしまった。保名様の事もそうです。白露様も寒露様も・・僕がいなければ、こんな哀しい事を・・」「それは違う、『奴等』の罪まで自分のせいと思うな」寒露は布団の上から、小さくなってしまった間人の身体を抱きしめた。「お前は悪くない、俺もお前を恨んでなんかいない」「ありがとうございます。寒露様はいつもお優しくて、僕は甘えてばかりで・・」「幸彦様もお元気になられたし、これで三峰様がお戻りになったら、もう心配ないですね。盾には寒露様もいらっしゃる・・すみません、久しぶりに誰かと話したからうれしくて一人で話してしまって」こんなになりながらも、はしゃぐように自分に語りかける姿を、寒露は見ているのが辛かった。だがやさしく言った。やさしく言う事が寒露の精一杯の償いのようなものだった。「いや、かまわない」この子はここに閉じ込められて、誰にも顔を合わさずにいるのか。確かにこの姿を人前に晒すのは酷だろう、いや、間人がこうなってしまった事を知られては困るのか。「でも・・三峰様がお戻りになられても、僕は逢えないでしょうけれど」「何でだ」「だって・・僕はここを出られない」寒露はあやすように、抱いたその身体を軽くゆすぶった。「俺が連れて行ってやる。お前の行きたい所に、俺がどこでも抱いて連れて行ってやる」間人はうれしそうな顔をして、それから又哀しい顔をした。「駄目なんです。僕はずっとここにいないと」「訳がわからない事ばかり言うな」間人は顔を左右にゆらした。「僕の中に村の大切な物があるんです。それを敵に奪われないように、ここにずっといないといけないんです」それではまるで壷か箱の様ではないか。寒露は思った。これほどに間人を人ではなく扱う権利が誰にある。必ず何とかしてやる。「僕が死んだらそれが失われてしまうそうです。だから生きてなくては。せっかく寒露様に守っていただいた命だもの」嗚呼、そんな明るい顔で俺を見るな。寒露は胸の内で叫んだ。お前が俺を救ったのだ。お前の方が俺を・・寒露の目にあふれる涙に気が付いても、間人はその事には触れなかった。以前のように髪をなでてやりながら、寒露は聞いた。「ずっと、ここで何をして過ごしている」「夢を・・見るのです」「夢?」「こんなになっても、まだ夢の力が少しはあるのです。楽しい夢を・・呼ぶんです」「どんな夢だ」「お元気だった頃の三峰様の夢です」寒露は笑った。「お前は本当に三峰様が好きなのだな」「はい」間人は笑顔で答えた。その笑顔は春のようだとあの方はおっしゃった。この助かった命、この子に捧げよう。三峰様の夢を抱いて生きるこの子を、俺はずっと守っていこう。(俺はあの子を守ります。三峰様がいなくなられたら、あの子はきっと壊れてしまいそうになるでしょう。俺はそれを支える自信はありません。でもあの子がどんなになっても、誰を愛しても、俺を嫌いになっても、あの子を守ります。一人にはしません。その為に俺はあの子だけの盾になります。兄が弟を守るように。それが俺の覚悟です・・)俺はそう三峰様に誓ったではなかったのか。そうだ、誓ったのだ。その為にやらねばならない事がある・・「また来るよ」「はい」春のような笑顔を後ろに残して、寒露は出て行った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/04
その顔を両手で覆いて~罪ある者マサトが怪我をしたとの知らせを受け、見舞いの為に幸彦は『火消し』の元へ一時戻った。高遠が付き添って行った。それ以外は村と盾の再建に人々の意識は集中していた。明け方の白い光がすでに野にあふれていた。間人は自分の身体がどこまで快復したかを量りたい思いもあり、山の隠された洞窟へ行ってみようと思った。藤堂の残した拵(こしらえ)から下緒(さげお)を外し、それで冴枝丸を背負った。少しでも歩きやすくと思っての事だった。その刀は鞘の蒔絵に見覚えがあった。確かに三峰の愛刀に間違いはなかった。早朝の靄が流れる道を間人は歩いて行った。急ぐとまだ傷が痛む。ゆっくりとそれでも自らをかばい過ぎないようにと、間人は歩いていた。寒露の全身の傷の痛みに比べれば、これ位・・間人は傷の痛みより、寒露から感じた心の痛みの方が気がかりだった。間人の身体が良くなるまで、幸彦は力を操る手解きはしないと言った。力はあっても使い方が解らねば意味はないのだ。しかし目覚めた感覚はどうしようもなかった。人々の不用意な感情、漂う夢、間人はそれらを受け取ってしまうのだ。良い物は心地良いが、痛みを伴う物も多かった。歴代の当主が何故あまり人前に出なかったのか、間人はその意味を自らの身体で知った。(思ったより、歩けるな)間人はほっとした。これでもし傷が悪化したら、萱(かや)に大目玉を食らうだろう。萱は本当の息子のように間人の面倒を見てくれた。実の息子の久瀬の方が分が悪い位だった。しかし久瀬はそれを気にするどころか、坂の家に指示して、萱をなるべく間人の所へ来させるようにしていた。萱は”ゆりかご”の間宮とは同じ女丈夫同士気が合うらしく、盾の家でも肩身の狭い思いはしていないらしい。間人が起き上がれるようになると、間人以外にも看護の手が足りぬ所を手伝っていた。寒露の様子が気がかりだったが、間人は三峰と話したかった。余りにも幼い自分の考えの及ばぬ事ばかりが周囲にあった。三峰なら何か答えを与えてくれるのではと思った。何よりも三峰に逢いたかった。寒露の昨日の態度が間人を不安にしていた。間人は寒露が自刃した事を知らずにいた。夜が明けて竹生が去ると、高遠がやって来た。篠牟の隣に腰を降ろして言った。「篠牟様、少しお休みになって下さい。私が代わりに」「お前も眠れなかったのだろう?目が赤いぞ」「でも少しは横になりましたから」あのような現場を見た後では、そうそう眠れるはずはなかった。「朝飯はいかがですか?」久瀬が握り飯の載った盆を手に入って来た。味噌汁の香りがした。疲れていても健康な篠牟は空腹を覚えた。「竹生様に言われて来ました。俺は今日は暇なので、寒露様のおそばにいます」「竹生様のお心遣いか。ありがたくいただこう。高遠、お前もどうだ」「はい、いただきます」二人は味噌汁の碗を手に取った。熱い味噌汁をすすり、篠牟はほっと一息ついた。「美味いな」高遠もうなずいた。寝台の側の机に久瀬は盆を置いた。「俺のかあちゃん、あ、いや、母が作った味噌汁です」「萱様は料理がお上手だな。間宮様もだが」篠牟は握り飯を取り、口に運んだ。目顔で高遠にも勧めた。高遠も目礼して手を伸ばした。「お二人が競って腕を揮われるので、最近は宿舎の食事が美味くなったと、盾の者達は喜んでおりますよ」高遠が言った。「私達が宿舎に入ったばかりの頃は酷かったよな、高遠」「そうですねえ、量はありましたが」味噌汁と和んだ会話で、篠牟も高遠も昨夜からの緊張から少しばかり解放された気がした。食べ終わると二人は立ち上がった。どちらもしなければならない事は沢山ある。「私達は仮眠を取って、通常のお役目に戻る。何かあったらすぐに知らせてくれ」「わかりました」「ああ、盆は私が帰りがけに厨に返しておこう」篠牟は盆を手にした。「篠牟様、高遠様、お二人はまるで白露様と寒露様のようですね」久瀬は二人を見ながら言った。「外見の雰囲気は、篠牟様は白露様、高遠様が寒露様のようなのに、ご性格はその逆ですね」久瀬が素朴にありのままを言う若者だと知ってはいたが、思わず二人は揃って苦笑いした。篠牟が言った。「私達はあのお二人には、まだまだ及ばないだろうな」「ああ、そうだ」久瀬はつぶやいて懐をごそごそと探った。一通の封書が出て来た。桜色の封書は事務用ではないと一目で知れた。久瀬はそれを高遠に差し出した。「厨で撫子(なでしこ)様からお預かりしました」高遠は真っ赤になってそれを受け取った。撫子は村一番の美人と噂される高遠の恋人であった。篠牟は高遠ににやりとして見せた。「忙しいのはわかるが、連絡くらいはしてやれよ」篠牟は盆を高遠の手に押し付けた。「これはお前が返して来い」間人は扉をくぐり、滑りやすい磨耗した岩の階段をそろそろと降りた。奥の部屋までたどりつくとそこに人影を発見した。台座の枕元に長身の美しい影が立っていた。「竹生様?」今は昼間なのに。竹生は間人を見た。美しい顔は能面のように無表情でありながらあらゆる感情を含んでいるように見えた。「どうされたのですか、こんな明るい時間に」「お前こそどうした」間人は正直に言った。「三峰様にお逢いしたくて」竹生は間人が背負っている刀に目を止めた。「それは冴枝丸ではないか」「はい」「そうか、お前か」竹生は眠る三峰の顔を見た。二人で何かを話しているようでもそうでないようでもあった。間人には何も聞こえず、感じなかった。「寒露が昨夜、自刃した」「え・・」間人は目を見張り、竹生を見た。「お前は私の言いつけを守らなかったな」竹生の声はあくまで静かだった。「三峰が無事と知れば、あれが喜ぶと思ったか」間人はそこに崩れるように座り込んだ。「寒露を助けたいか?」間人はうなずいた。「お前の命を寒露にやれるか?」間人は一瞬何かを決意するように押し黙り、そして震える声で答えた。「はい」「三峰と逢う事が出来なくなってもか?」間人は眠る三峰を見た。僕を”特別な子”と呼んでくださった誠志郎さま。僕は最初から生きていてはいけなかったのかもしれない。三峰様にも幸彦様にも、白露様にも寒露様にも、僕は不幸しか運んでこなかった。おそらく、竹生様にも・・僕は償うべきだ。「私の罪がそれで償えるのでしたら・・裏切り者の息子と呼ばれたあの時からの」不思議と間人の中に澄んだ想いが広がっていった。間人は立ち上がり、台座に近付いた。そして誰よりも愛しいと思った人の顔を眺めた。いつまでもどこまでも一緒にいたいと思ったたった一人の人だった。「その刀は私が預かっておこう。またお前に腹でも切られたら、かなわんからな」間人は素直に刀を渡した。そして三峰に向かって言った。自分の声が聞こえているかどうかも今はわからなかった。「誠志郎様、お別れでございます。貴方の死の原因となった私を愛して下さってありがとうございました。私の罪は消えない・・そう、消えない・・」間人の身体がゆっくりと倒れた。竹生が片手で抱きとめた。(竹生様、竹生様、なにゆえにこの子にそのような苛酷な運命を・・竹生様!)三峰の声が心に響いても、竹生は答えなかった。竹生は倒れた身体を抱いたまま、間人の首に巻かれている黒い布を取り去った。そしてその喉元におのれの牙を深々と埋め込んだ。間人の身体がびくびくと痙攣した。(竹生様、何をされるのです!竹生様!)狂ったように叫ぶ三峰の声が竹生の中に木霊しても、竹生は間人の上に伏せた顔を上げようとしなかった。寒露は手術室に運ばれた。何がそこで行われるのか知る者は少なかった。老医師と露の家の特殊な医術を司る者が呼ばれた。篠牟と高遠は寒露の治療の為と聞かされていた。数度に分けて長い手術が行われた。手術は成功したが、容態が安定するまで、医師以外は当分面会が出来ない旨を皆は言い渡された。だが不吉な気配を篠牟は感じていた。手術の前に間人までもが、傷の悪化を理由に何処へか運ばれたからだ。萱も坂の家に帰された。(何かがある、この肌寒い風は何だ・・)篠牟は寒露の身体の快復を祈りながら、落ち着かない日々を送っていた。眠るマサトの傍らに、幸彦と和樹がいた。「マサトさんの怪我が治って目が覚めたら、又一緒に村に行きたいな」和樹は佐原の村がよほど気に入ったらしい。怖い思いもしているはずなのに。幸彦は微笑んで言った。「そうだね、その頃には屋敷も修理が進んでいるだろう」「竹生さんはお元気ですか」「ああ、竹生は変わらない。今は村が大変な時だから置いて来ただけだ」「間人さんも、僕らが行く頃には元気になっているといいな」「ああ、そうだね」仲の良い兄弟のように二人は寄り添って、少年の姿をした”お父さん”のそばで、早く寝るようにと加奈子が和樹を呼びに来るまで、様々な事を楽しげに語り合った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/03
つきせぬ涙~崩れ去る者寒露の顔の半分は包帯で覆われていた。首にも腕にもあらゆる場所に包帯が巻かれていた。部屋には誰もいなかった。間人は途中まで進み、それ以上進むのを躊躇した。枕の上で首だけ動かし、寒露がこちらを見た。「どうした、遠慮などするな」弱々しいがいつもの寒露らしい言葉が聞こえた。間人は少し安心して寝台のそばに行った。寝巻から覗く肌にも傷痕や痣が見られた。片方だけの目は穏やかだった。間人は何と言って良いのかわからなかった。「もう、出歩けるのか?」寒露が言った。「ええ、少しなら。まだ当分お役目には戻れそうにありません」言いたいのはそんな事ではない、交わしたいのはこんな言葉ではないと間人は思いながら答えた。「寒露様・・」「ん?」間人は混乱した気持ちのままどうして良いかわからずに、寒露にすがって泣き出してしまった。寒露は動く方の手で間人の髪を撫でた。「幸彦様でも、お前の泣き虫は治せないのかな」寒露はおどけた調子で言った。「寒露様・・僕の為に・・こんな・・すみません・・」「よせ、俺は盾だ。いや・・盾だったのだ」寒露の言葉に苦い物が混じった。間人は息を呑んだ。寒露様はご自分のお身体の事をご承知なのだ。「お前が無事で良かった・・まあ、篠牟と高遠には迷惑をかけているがな」間人はしゃくりあげながら顔を上げ、寒露に言った。「寒露様、僕・・元気になったら、寒露様にお仕え致します」寒露は軽く笑った。「馬鹿を言うな」「僕が元気になったら、出来る事を探してくれると・・」寒露は間人の頭を軽く叩いた。「今のお前は当主様に次ぐ大切な身だ。仕えるなら俺の方だ。最も俺はもう、お前に仕えたくても、出来る事は何もないがな」寒露は大きく息をして、天井を仰いだ。「三峰様はご病気で寝ていらっしゃる時でも、皆に安心を与え、村の事も良く考えて・・三峰様がいらしたら、村の復興も盾の再建ももっと早く進んだろうに」寒露は苦しげに言った。「俺では、役不足だ」間人は白露と寒露がどんなにか三峰を慕っていたか思い出した。竹生の言葉が胸にあったが、思い切って打ち明けた。「三峰様は生きていらっしゃいます」寒露の片方だけの目が大きく見開かれ、間人を鋭く見た。「何だと!」「山に封じられた者の慈悲だとおっしゃっておられました。今は動く事も出来ず、意識がたまにお戻りになるだけで・・それでも生きておられます。いつか起き上がれるようになる時が来ると竹生様が・・」寒露の様子が異様に感じられた。喜ぶだろうと思ったのに、そうではないようだった。「三峰様が・・」「僕も最近知ったのです」「そうか」寒露は間人の髪を撫でていた手を布団の中に戻した。間人は竹生の命令を破った事を後悔し始めていた。怒っているような不機嫌なような気配がしている。いつもの寒露様ではない。今の寒露様の気配は僕に痛みを与える・・嗚呼、そんな・・寒露は枕元を顎で示した。そこには冴枝丸が置かれていた。「その刀を持っていけ。それは三峰様の愛刀だ」「え・・」「あの方がお戻りになったら、お返ししてくれ」間人は冴枝丸(さえだまる)を取り上げ、胸に抱いた。「では、寒露様がお元気になられるまで、お預かりいたします」寒露の唇に笑うような影が射し、すぐに消えた。そして硬い声が言った。「俺はもう、それを振るう事はないのだ」間人は胸をかき乱されるような思いがこみあげ、身をかがめ、その唇に自分の唇を重ねようとした。寒露は顔をそむけた。「俺に同情するな」寒露はぴしりと言った。間人は頬を打たれたような気がした。寒露は誇り高い盾の家の者、並びなき盾の長なのだ。二度と起き上がる事が出来なかろうと、その誇りまでは失っていないのだ。間人は寒露に向かい深く一礼すると、刀を抱えて出て行った。三峰様が生きておられる。もしそれをもっと早く知っていたら、白露はあんな事には・・そして俺は・・片方だけの目から流れる涙を隠すように、寒露は片手で顔を覆った。(三峰様、俺は貴方を憎むかもしれない・・あれほどに慕っていた貴方を・・)篠牟は夕刻になると決まって訪れた。仕事の進行具合を報告するように話した。いつもなら時折質問をしたり助言を与えてくれる寒露が、今日は投げやりな、気のない様子なのを感じ、篠牟は話すのをやめた。「寒露様、お加減が悪いのですか?」やや経って、寒露が言った。「高遠は来ないな、俺は嫌われているのかな」無理におどけたような口調だった。「高遠は白露様を失い、今度は寒露様まで失うのではと怖くて来られないのです。解ってやって下さい。その代わり、お役目は頑張って勤めております」「そうか」どこか上の空のような寒露の様子が篠牟を不安にした。天井を見上げたまま、寒露が言った。「お前達には苦労ばかりですまないな。三峰様がおられれば、もっと何事もうまく進むだろうに」「いいえ、寒露様、貴方がいらっしゃる。だから私達は・・」「俺はもう、戦えぬ」天井を見つめたまま、寒露は強い声で言った。「俺は戦う事しか出来ない、なのにもう戦えぬのだ」そしてつぶやくように言葉を続けた。「白露なら、村の事も盾の事も手際よく再建を進めていけるだろう。三峰様ならもっと・・俺は何の役にも立たぬ」こんな弱気は寒露様らしくない、篠牟は悲しくて腹が立って思わず声が大きくなった。「もういない方の事を言っても仕方ありません、今は寒露様、貴方が・・」寒露が篠牟を見た。包帯に覆われた顔にひとつだけ光る目に哀しいような寂しいような色があった。「三峰様は生きておられる」「それは・・どういう事ですか」「間人が、あの子が言うのだから間違いないだろう。今は意識はあっても動けぬらしい」「三峰様が」「竹生様と同じく、山から戻られたのだ」「まさか」篠牟は信じられなかった。「幸彦様も正気に戻られた。村はこれで安泰だ」言葉とは裏腹に、寒露の様子は重く沈んでいた。篠牟は高遠の所に行った。高遠は執務室で白露の席だった場所で仕事をしていた。「寒露様がお前が顔を見せないのを心配しておられる。お前に嫌われているかと」高遠は困ったような顔をした。「そんなつもりは・・むしろ私に目をかけて下さり、感謝しているのに」「気丈なお方でも、あの怪我では気も弱くおなりだろう。夜遅くなってもいい、行ってくれないか」「わかりました」村が崩壊した時には高遠は『火消し』の元にいた。やって来た忍野(おしの)と入れ替わりで急ぎ村に戻り、白露の行方不明を知った。途方にくれていた高遠を寒露は重く用いてくれた。自分の直下の部下である篠牟よりも気を使ってくれていた。白露のいなくなった事に責任を感じているのではないかと高遠は思った。事情を知らぬ高遠も又、白露は天災の犠牲になったと思っていた。夜中近くになってしまった。寝ておられるならそれでいい、起きておられたら挨拶だけでもして来よう。高遠は寒露の部屋へ向かった。廊下の灯りもほとんど消えていた。寒露の部屋も暗くなっていた。(やはり、もうお休みなられたか)高遠は引き返そうとして、ふとある匂いを感じた。それは戦場で感じる匂いだった。高遠は自分が青褪めるのがわかった。寒露の部屋へ駆け込んだ。暗い部屋の中で床がぬるりとして、転びそうになった。寝台の上に寒露が仰向けに横たわっていた。その手には脇差が握られていた。もしも明るかったら視界が真っ赤になっているはずだと高遠は思った。寝台は血の海だった。寒露は自らの腹を切っていた。(寒露様、何と言う事を!)知らせを受けた篠牟は走りながら、やり場のない怒りを抑え切れずにいた。高遠の急報で寒露は一命を取り留めたが、この事は一部以外には堅く口止めされ、秘された。幸彦様復活で喜びに湧く村人の心を配慮しての事だった。意識のない寒露の枕元に篠牟は座っていた。余りの事に気の動転した高遠をようやく落ち着かせ、部屋に引き取らせたばかりだった。白露様に続いて寒露様まで・・昼間の会話を思い出した。どうしてかけがえのない方ばかりをこの村は次々と失ってしまうのだろう。カーテンがゆれるより早く、篠牟は気配を察知した。暗い室内に白髪がなびいた。「何故、これほどに血の匂いがするのだ」「寒露様が自刃なさいました」夜の主は篠牟の隣に立ち、寒露を見下ろした。「戦いしか出来ない自分がもう戦えない、役に立たないとおっしゃって・・」竹生は何も言わなかった。篠牟の声が震えた。「三峰様がお戻りになるなら、自分は用がないと思われたのでは・・」部屋の中に突風が吹き荒れた。「何だと・・」宙に乱れた白く長い髪が、一瞬、不可思議な紋様を形作ったように見えた。「篠牟、二度とそれを口にするな。三峰の事は」夜の冷えた空気よりもなお凍てついた気配が、篠牟を畏れさせた。「はい」「私はこれを恐れていたのだ。このような事が起きるのを。不確かな希望は、たやすく絶望に変わってしまう」血の気を失い、夜に白く浮かび上がる寒露の顔を痛ましげに見ながら、竹生は言った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/02
濡れた瞳残して~悟る者低い唸り声が聞こえた。寒露は飛び起き、左手に刀を握った。複数の黒い影が天井の穴から飛び降りて来た。狂える悪鬼だ。すでに意識を侵され『奴等』の制御すら受け付けなくなった者、心をなくした人間の成れの果て。「寒露様!」「そこを動くな!」右手はもう使い物にならない。片手でどれほど戦えるのか。誰か戻って来てくれるか・・いや、俺一人で、一人で倒す覚悟でいなければ。喉を鳴らしながら、悪鬼どもは二人にじりじりと迫って来た。寒露は間合いを見ていた。一匹が飛び掛って来たのを斬り、もう一匹を蹴り倒した。掴みかかってきた奴の口に自分の右腕を押し込んだ。激痛が走る。「寒露様!」「お前を守るためなら、腕一本位、くれてやる!」そして腕に喰らいついた体を横に一刀両断にした。寒露は転がり、畳に腕を擦りつけ、噛み付いていた悪鬼の上半身を振り払った。残りの一匹が間人に目をつけた。飛び掛ろうとした瞬間、寒露の髪が逆立った。『一角』の力が敵を吹き飛ばした。悪鬼が起き上がるより早く、寒露の刀が悪鬼を袈裟懸けに切り裂いた。その時、頭上の穴から別の悪鬼が飛び込み、寒露の背に爪を食い込ませた。「ぐ!!」振り向きざまに寒露はそいつを切ったが、片膝をついた。(誰か!誰か!来て!寒露様が!!!)間人は心の中で必死に呼びかけた。寒露はそれでも顔を上げ、敵を睨みつけた。正気を持たぬ者も本能で寒露の殺気を感じ取り、後ずさりした。額から流れる血で寒露の顔の半面は真っ赤に染まっていた。(俺は盾・・すべては当主様の為に。だが義務ではなく心からの想いがあれば、俺は辛くなどない。そう、辛くなどないのだ。この命の先にある運命が・・・)寒露は刀を杖に立ち上がった。(辛くなど・・)そして敵に向かって行った。(ないのだ・・)奥座敷の方角の空気に異変を感じて、高遠(たかとお)に後をまかせ、篠牟(しのむ)が数人の部下と奥座敷に急ぎ戻った時、寒露には悪鬼と変わらぬ程に濃い殺気が纏わりつき、破れた服は血にまみれ身体に張り付いていた。乱れた髪は血で固まり、汚れた顔に目ばかりが光っていた。”異人”はともかく悪鬼と化した敵を倒すには通常の盾なら三組で一匹を受け持つ。寒露は襲って来た悪鬼数十匹をすべて一人で片付けたのだ。盾の者達は今更ながら長である寒露の凄まじい戦いぶりに驚愕していた。奥座敷は酷い有様になっていたが、間人は怪我ひとつしていなかった。「敵は・・どうなっている」寒露は立ちはだかり動かぬまま、篠牟に声をかけた。「すでに大半は”壁”の向こうに逃げ込みました。まもなくケリがつくかと」「そうか」寒露は口元だけ笑うように曲げた。そして間人を見た。殺気が消えた目は哀しい色をしていた。間人は胸を突かれたような気がした。その哀しみの意味を瞬時に悟ってしまったからだ。だがその目はすぐに閉ざされた。寒露の身体がぐらりと傾き、そして倒れた。『奴等』が後退し始めた。「向こうで何かが起きたらしいな」マサトが言った。「ああ」神内は小物を叩き斬り、別の『奴等』に剣を向けた。「俺達もそろそろ店じまいか?」マサトが言ったその時、マサトの身体を黒い棒のような物が背後から貫いた。マサトは倒れた。「マサトさん!」和樹が悲鳴のような叫びをあげた。「和樹!マサトを連れて戻れ!」「はい!」神内の剣がマサトを狙った『奴等』を切り裂いた。(幸彦が目覚めたというのに!)神内は心の中で叫んだ。村を襲った敵は壁の向こうに逃げ去り、穴が塞がれた。凱旋した一同が落ち着くと、幸彦が目覚めた事が皆に知らされた。知らせはそれぞれの家にすぐに伝わり、村中が当主の復活を喜んだ。神内が戻るとマサトはソファに寝かされていた。意識はなかった。和樹が心配そうにそばに付いていた。「様子はどうだ」サギリが答えた。「カナが『奴等』の毒気は抜いてくれたわ。彼女がいて良かった。後はマサトの体力次第ね」「しばらく眠らせれば平気か?」「わからない・・これほどの怪我をしたマサトを見た事がないもの」「とにかく、マサトの寝床に運ぼう」神内はそっとマサトを抱き上げ、運んだ。奥座敷の修理が済むまで、幸彦は適当な部屋を探して落ち着く事にした。竹生はどこでも幸彦がいれば気にしない風であった。昼間は何処へか消えているが、夜は幸彦の元へ戻って来る。昼間は”結界”の誰かがそばについた。「保名、僕がわかる?」「・・・まさか・・幸彦様?」「うん、そうだよ」正気を取戻されたのか・・良かった。保名は涙した。「お前は許されたのだ」「え?」「僕が元に戻ったのだから。お前はもう十分罪を償った」「幸彦様、ありがとうございます」保名はそこにひれ伏した。「鵲(かささぎ)、大きくなったね。この子は良い夢を持っている」幸彦は自分が名前を与えた子供を抱いて、あやすようにゆすった。保名は三峰が生きていたらどんなに喜んだだろうと思い、再びあふれてきた涙を拭った。間人は幸彦を目覚めさせる時に悪化した傷の為に床に就いていた。幸彦は間人に感謝していたし従弟と判った親しみもあり、頻繁に顔を見せた。萱(かや)が引き続き間人の面倒を見ていた。間人は寒露が心配だった。だが寒露の事を尋ねると誰もが口を濁し、はっきりと教えてくれなかった。久瀬が見舞いに来た時、間人は思い切って尋ねた。「ねえ、寒露様のご容態はどうなんだい?」久瀬も答えなかった。「どうして誰も教えてくれないのだろう」久瀬は言い難そうに言った。「それはお前を守って寒露様が・・」「え、寒露様が?」「駄目だ、竹生様のご指示なのだ。竹生様に聞いてくれ」寒露様はかなりお悪いのだろうか。間人は最後に見た寒露の目を思い出した。哀しい目・・それは戦いのせいではない。間人は胸が痛んだ。愛していると言っていた。そして愛される事はないと知っていた・・その目には静かな諦めと決意があった。間人が必死で祈っても心で呼びかけても、竹生は姿を見せようとしなかった。見舞いに訪れた幸彦に聞いても竹生の意志は判らなかった。間人は起き上がれるようになり、少しは歩けるようになった。自分で確かめに行くしかないと思った。月の明るい夜だった。カーテンを通しても月明かりは室内を照らしていた。窓は閉じているのにカーテンが風に揺れた。間人はすぐに気がついた。竹生が寝台の傍らに立っていた。「竹生様」間人は急いで起き上がった。「聞きたい事は分かっている」「では教えて下さい」竹生は上半身を折り曲げるようにして間人の顔を覗き込んだ。白く長い髪がさらさらと流れ、月明かりに仄かに光った。「幸彦様とお前を護るは盾の役目・・寒露はお前を護りきった」間人は不安になった。「まさか・・寒露様は・・」「寒露は生きている」竹生は言った。ふわりと髪がなびき、間人の視界をさえぎり、その髪の間から再び覗いた竹生の目は青く光っていた。その青は哀しみの青だった。「だが、盾としての寒露は死んだ」「え・・どういう事です?」「あの身体でどう動いていたのか、医者は皆、不思議がっていた。骨は折れ筋は切れ、折れた骨は内臓にまで突き刺さっていた」間人の背筋に冷たいものが走った。まさか・・「ずっと重体のままだった。意識は取戻したが」「それで、寒露様は?どうなったのです?」息せき切って聞きながら、間人は思わず竹生の袖を掴んでしまった。竹生はそれを払う事はしなかった。袖を掴んだ手に自分の手を重ねた。「片目は視力を失っていた。片腕も動かない。そして・・寒露は二度と立ち上がる事は出来ぬのだ」竹生の手の中の間人の手が震えた。「寒露様が・・そんな・・」盾の速き者、盾の歴史最速とその速さを誇った者が立つ事さえ出来ぬ身に。竹生は震える間人の手を握った。「我等は盾、その命は当主様の為にある。お前もそれは知っているはずだ。たとえ今のお前が護られる側になろうと、忘れてはいまい」「はい・・でも・・」「そうまでして寒露が守った命、粗末にはするなよ」「ああ・・」寒露様、僕は、僕は・・貴方にどう報いたら良いのでしょう。「お前が生きて、この村の為にすべき事をするのだ。それが何よりも寒露への・・」「違います!違うのです!」間人は激しく言った。「どうした、間人」「僕は、僕は・・寒露様に酷い事をずっと・・これほどにいつも助けていただきながら・・」間人は泣き出した。竹生は複雑な顔をしてそれを見た。そしてつぶやいた。「あの双子は、何と不幸な愛し方をしてしまったのだ。あれらのせいではなく、誰のせいでもなく・・それなのに哀しみだけが増えていく」竹生は窓の方を見た。カーテンがひとりでに開き、煌々と夜を照らす月が間人の上にも真珠色の光を投げかけた。月の面を見上げながら竹生は何かを想う様な顔をしていた。その顔は月よりも美しかった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/04/01
甘美なる絶望~誓う者その瞳は堅く閉ざされていた。「この前より心を閉ざしている気がします」和樹は言った。光の中に立ち尽くすその姿は灰色の塑像のようだった。「どうしたのかな」間人はそっと触れてみた。冷たく硬い手触りがした。そして流れ込んで来た暗い恐怖・・「ああ!!」間人の胸に鋭い痛みが走り、その身体ががっくりと崩れ落ちた。「間人さん!」和樹は慌てて助け起こした。間人は苦しそうだった。先程の戦いでかなり体力を消耗しているのだろう。ゆっくりと息をして呼吸を整えていた。「幸彦様、なんて哀しい夢に囚われているのだろう」「どうしたら、幸彦さんを目覚めさせられるのでしょう」「夢・・暖かい夢、夢があれば・・この前、何か見ませんでしたか?和樹様」あの時も灰色の哀しみが渦巻いていた。けれどもその中で薄紅の夢、そして白い髪をなびかせた美しい姿・・「竹生さん、竹生さんがいました。今はいない」「竹生様!ああ、それです!」僕が辛い時に三峰様を思うように、幸彦様は竹生様を思うだろう。竹生様の夢が消えている。どうしたのだろう、あの化け物が食ってしまったのかもしれない。あれは夢を食う悪いモノだ。今の僕には分かる。「竹生様の夢を探さないと。和樹様、力を貸して下さい。手を・・」二人は向かい合い胸の前で掌を外に向け、それぞれの右手と左手を合掌するように合わせた。二人の想いが混じり合う。和樹の記憶の中に間人は竹生の夢を探した。白く染まる闇の彼方に、その姿を見つけた。間人はそれを頼りにもう一度幸彦の世界に竹生の姿を見つけようとした。どこにもない・・どうしたらいいのだろう。間人は眩暈がした。又倒れそうだった。(今ここで倒れてしまったら・・三峰様!助けて下さい・・三峰様・・)褥の上で呻き声がした。間人だった。寒露は額の汗を拭いてやった。「三峰・・さ・・ま・・」間人がつぶやいた。(そうだ、この子が本当に求めているのは・・今でもあの方なのだ・・)寒露は寂しい顔をした。(それでも、俺は)寒露は跪き再び間人の肩を抱いた。(俺のすべてをお前に・・そう誓ったから)暖かい力が流れ込み、間人は気を取り直した。(寒露様、ありがとうございます)(ああ・・)間人は気がついた。僕と寒露様が通じ合えるなら、幸彦様と竹生様も・・(寒露様、竹生様を呼んで下さい・・)(今、戦いの中にいる・・)(お願いです!幸彦様の目覚めには、竹生様が必要なのです・・今の僕に寒露様が必要なように・・竹生様の呼びかけが、力が・・)(わかった・・)寒露は立ち上がった。「久瀬!そこにいるか!」「はい!」「竹生様をお呼びしてくれ!幸彦様が竹生様を必要としておられる。お前の声なら届くだろう」「はい!」「それと、俺の刀を持って来てくれ!」「直ちに!」竹生様が退かれたら敵はここまで来る。今の盾にそれを遮るだけの力はない。俺がそれを一番良く知っている。この命は当主様の為と俺達は定められた。幸彦様、間人、俺が守る、守ってみせる。風が吹いた。竹生が戻って来た。白髪が部屋になびき、白い光が振りこぼされたように散った。「寒露、どうした」「幸彦様が、貴方の呼びかけを必要とされておられると、間人が」「そうか・・」バリバリと激しい音がした。天井を突き破り、侵入して来たのは、金の髪を振り乱した凄まじい形相の悪鬼、変わり果てたアナトールであった。「見つけたぞ!当主の血筋、刻印の者!!!」「寒露様!」久瀬が投げた冴枝丸を受け取り、寒露は素早く抜いて斬り付けた。アナトールはそれを素手で受け止めた。「竹生様、こいつは俺が!」竹生はうなずいて、跪いて幸彦の顔を愛しげに両手ではさみ、顔を寄せた。そして心で呼びかけた。(幸彦様・・私です・・いつもおそばに・・)「ただの人間にしては、やりますね」悪鬼は笑った。邪悪な笑いだった。刀身を握った手から血が流れても気にしている様子はない。ぎりぎりと互いの力をこめて押し合う刀身が蝋燭の火を反射した。「名前を聞いておきましょうか」「霧の家の寒露、盾の長だ」「ほお・・」寒露は力を籠め、斜めに刀を振り払った。アナトールは後ろに跳び退った。「先代の盾の長に比べれば小物かと思いきや、なかなかですね」アナトールは長い舌を出し、掌の傷をペロリと舐めた。正眼に構えたまま、寒露は動かなかった。凄まじい殺気が渦巻いている。普通の者ならそれだけで身体がすくんでしまうだろう。座敷の外でも争う気配と物音がしている。気合のこもった火高の声が聞こえる。屋根の上にいるのは更紗と斤量だろう。褥には手を触れさせてなるものか。寒露はアナトールを睨みつけた。「いい眼だ・・」うっとりと言って、アナトールは飛び上がろうとした。寒露はアナトールの足が床を離れるより速く斬り付けた。アナトールはバランスを崩しよろめいた。歯噛みした口から泡を吹いた。凶器と化した鋭く尖った指先が寒露を切り裂こうと振り回された。寒露はそれを刀で受け止めた。(守るのだ、それが俺の誓い、俺の望んだ事・・お前が誰を必要としようと)篠牟の叫びが聞こえた。寒露がここで戦っているのに気がついたらしい。盾達も奮戦している。(そうだ、俺は盾の長・・)「守りきれ!幸彦様のお目覚めは近い!!!!」寒露は叫ぶと、アナトールの攻撃をかわして、更に懐に斬り込んだ。寒露の声に答えるように、盾達は一斉に鬨の声を上げた。アナトールの爪先がかすった頬に血の筋が走った。「ちいっ!」それでも寒露は退かなかった。今の寒露の速さは悪鬼にも引けを取らなかった。アナトールの動きを封じ、斬り込んで行った。(間人・・頼んだぞ・・)寒露の気配が消え、間人は辛い身体に耐えていた。向こうから白く美しい影が歩いて来るのが見えた。和樹もそれに気がついた。それは幸彦のそばまで真っ直ぐに歩いて来た。和樹の肩に掴まり身体を支えながら、間人は言った。「幸彦様に語りかけて下さい、竹生様がそこにいると」「はい」光を帯びた竹生の影は幸彦にたどり着くとその身体を抱きしめた。灰色の肌に色が戻り始めた。硬い表情が解け始めたつぼみように和らいでいく。生気に満ちた光がその身体の内より輝き出す。遂にその目が開かれた。「ああ・・」間人はため息を漏らした。「やった!」和樹は喜んだ。幸彦は竹生と目を合わせ、微笑んだ。それから二人に片手を差し伸べた。「ありがとう・・さあ、戻ろう、僕達の世界へ」深い場所で『奴等』と戦っていたマサトは、はっと上を見上げた。「どうした」剣を振るいながら神内が聞いた。「幸彦が目覚めた」「そうか」神内はマサトの方を笑顔で見て、そして敵に切りかかった。「さっさと終わらせよう」「ああ」マサトの全身から青い閃光が飛び散り『奴等』に突き刺さった。竹生が立ち上がった。三人の目が開いた。幸彦はゆっくりと起き上がった。「幸彦様!」寒露が叫んだ。「和樹、間人、ありがとう」静かに幸彦は言った。和樹は起き上がると畳に降り立った。間人は薄く微笑んだだけで、動く事が出来なかった。「アナトール・・」幸彦はその悪鬼に呼びかけた。幸彦の全身からあふれた光が周囲に広がった。「うう!」悪鬼は手で顔を覆い、寒露の胸を爪で切り裂き、天井の穴から逃げ去った。他の異人達もそれに従い、退却して行く。寒露は座り込んだ。「寒露様!」飛び込んで来た篠牟が駆け寄って来た。「俺はいい、敵を追え」「はい!」篠牟は指示を出しながら駆けて行った。「竹生、僕らも行こう」幸彦は言った。「はい」竹生は微笑んで当主の言葉にうなずいた。宙に声が響いた。サギリの声だった。「和樹、身体が大丈夫なら、貴方は『火消し』の方へ行ってちょうだい」「はい、早くお終いして、マサトさんと幸彦さんを合わせてあげなくちゃ」和樹は皆の方を見て軽く頭を下げた。「じゃあ、行きます」和樹の姿が消えた。「寒露、お前はここで間人を守れ」竹生はそう言うと幸彦を抱き上げた。「はい」竹生は幸福そうに腕の中の幸彦の顔を覗き込んだ。「では、参りましょう」風が吹き、舞い上がった二人の姿は天井の穴から外に出た。残された寒露は血にまみれた身体を引きずり、褥に近寄った。右腕が動かなかった。最後の攻撃を防いだ衝撃で、どこか筋がやられたのだろう。寒露は立っているのが辛かった。間人の隣に横たわると、左手を間人の頭の後ろに回して抱いた。間人は寒露を見て微笑んだ。「寒露様・・ありがとうございました」寒露は何も言わずに微笑み返した。そして間人の頭を引き寄せ、唇を重ねた。血と涙の味がした。最初で最後の、寒露の愛の行為だった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/31
裁かれた混沌~凍る者マサトは正座をして目を閉じていた。和樹もそれに習った。寒露も畳に腰を降ろし、膝の上に間人を抱えなおした。間人の震える身体が熱っぽく思えた。「大丈夫か?」耳元でささやくと毛布の中でこくりとうなずいた。今は何があっても間人は言わないだろうと寒露は思った。傷の治りが悪いのは精神的なせいもあると老医師は言っていた。三峰の死の原因、白露の暴走のきっかけとなった自分の存在。(幸彦様が元に戻られたら、この子も少しは気が楽になるだろう)臥雲長老は大きく息を吐くと、その場に座り込んだ。「終わりました」「ご苦労だった」マサトは立ち上がり長老の側へ行った。「部屋に戻って休まれよ」開いた扉の外に高遠が控えていた。長老は扉を出ると中に向かい、深く頭を下げた。扉は再び閉じられた。マサトは振り返って言った。「今度はお前達の番だ」和樹と間人を抱いた寒露は褥の所に歩み寄った。幸彦は眠っている。この前と同じ安らかな顔をしていると和樹は思った。「和樹はこっちだ、間人はここに」マサトの指図で、幸彦の左側に和樹が、右側に間人が横たわった。「間人、お前が幸彦の心の在りかを探すのだ。お前なら感じられるはずだ」「はい」間人はうなずいた。「和樹が道を作れ。無理はするな、まずいと思ったらすぐに戻って来いよ」「わかりました」それぞれ幸彦の手を握った。和樹は左手を差し出した。間人の右手がそれを握った。「では、行きます」和樹はそう言って目を閉じた。間人も目を閉じた。二人は幸彦の中へ降りて行った。「間人が力を使ったら『奴等』が来る。寒露、盾の現状はどうだ」「通常時の四割しか動かせません」「そうか」寒露が出て行こうとした。マサトが呼び止めた。「お前はここにいろ」「”盾”に指示を出します」「いや、お前はここで間人を守れ。この子が死んだら村はなくなる」「え・・」「説明している暇はない。お前は盾で最高の者だ、だからお前が守るのだ。それにお前はそう誓ったはずだ」「わかりました」寒露はマサトに頭を下げた。「竹生」「はい」「これが終わるまで、何人たりともここへは入れるな」「はい、私の命の続く限り、誰も寄せ付けません」竹生は宙に呼ばわった。「更紗(さらさ)、斤量(きんりょう)、お前達は裏からここを守れ」「はい・・」答える声だけが宙に響いた。「火高と久瀬が扉の前にいます」幸彦達から目を離さずにマサトはうなずいた。「寒露、私が篠牟と高遠を連れて行く」「はい、竹生様を戦わせて・・申し訳ございません」竹生は微笑んだ。「何を言う、こういう時だからこそ、私が出るのだ」その手には「黎明」が握られていた。「私を引退した年寄りのように思うな、盾の長よ」「いえ、そのような」白い髪がふわりと舞った。その目に青い火がともったように見えた。「今の私は村の守護者なのだ。それに間もなく夜になる、私の時間だ」灰色に渦巻く霧の中を二人は手を取り合い、進んで行った。間人は神経を研ぎ澄まし、幸彦の気配を探ろうとしていた。和樹はここが以前と雰囲気が異なるのに気がついた。「間人さん、おかしいです」「え?」「前に来た時より、あたりが暗いし良くない感じがします」「幸彦様に何かあったのだろうか」「かもしれません」「ああ・・とにかく幸彦様の所へ行かなくては。そうすれば解るよ、きっと」「そうですね」間人は霧の一方を指差した。「こちらの方に、幸彦様の気配がする」二人は更に奥に向かい、進んで行った。あの時感じた暖かさも安らぎもなかった。何かに塞がれたように降り注いでいた光も消えていた。だがその先のうごめく影の中に、確かに幸彦の気配があった。間人は震えていた。「大丈夫ですか?」「ええ」顔色が冴えない。間人の傷ついて弱った身体を和樹は思いやった。間人は和樹を見てにっこりと笑った。薄い白い花びらを持った花のように。「戻る時は、幸彦様とご一緒に」「はい」和樹も微笑み、その手をぎゅっと握った。二人はうごめく影に近寄った。その影の中にたしかに幸彦がいた。その身体には無数の腕がからみついていた。半ば人であり人でない化け物の群れが幸彦を捕まえている。幸彦は目を閉じている。石の様に堅い顔をして。「あれは・・」爬虫類に似たぬめぬめとうごめく物達のおぞましさに和樹はぞっとした。『奴等』とは別の忌まわしさがあった。「幸彦様の・・恐怖や後悔が、心を閉ざしているようです」間人の唇は血の気を失い白くなっていた。和樹は周囲の悪い感情から二人を守る力に気がついた。(間人さんが・・)「和樹様、幸彦様を呼んでみて下さい。この前、貴方の声が届いたのなら・・」「はい」和樹は恐怖を振り払い、呼びかけた。「幸彦さん、僕です」化け物達が、かっと目を見開きこちらをにらみつけた。しゅるしゅると蛇の如くうねる身体を伸ばし、数匹が襲い掛かってきた。「ああ!!」和樹は目を閉じた。こいつらには自分の銀の身体の力は通用しないと感じていた。見えない力が化け物を跳ね飛ばした。間人が膝をついた。「間人さん!!」荒い息をしながら、間人は叫んだ。「僕が、あいつらを防ぎます!幸彦様を呼び続けて下さい!」「はい!」和樹は心の中で、幸彦を呼び続けた。間人は膝をついたままうつむいていた。二人の周囲には見えない強固な壁が形成されていた。化け物達が体当たりする度に、和樹は繋がれた手に力が入るのを感じた。(間人さん、頑張って・・)幸彦の隣に横たわる間人の身体が、びくりと震えた。額に汗が滲んでいた。寝巻の腹に次第に赤い染みが広がっていく。今にも抱き起こそうとした寒露をマサトが制した。「戦っているのだ、幸彦の世界で」「このままでは、間人が・・!」苛立って寒露は思わず叫び、はっとして身体の力を抜いた。「ご無礼を・・申し訳ありません」マサトは寒露を見た。「いいのだ、その為にお前を残したのだ」その目にはやさしい光があった。慈悲と呼べるような。マサトは寒露に言った。「お前の想いがこの子の力になる。さあ、この子を支えてやれ、いつもお前がしてやりたいと望んでいたように」寒露は跪き、間人の額の汗を指先で拭ってやった。そしてその肩を軽く抱き、顔を伏せ、間人に頬を寄せた。目を閉じて呼びかけた。(俺の声は届くのだろうか。きっと届く、そう信じよう。間人、お前には俺がいる・・)マサトは寒露の背中を見ながら、今は悲しい目をしていた。寒露よ、俺はお前の運命を知っている。知っていてお前を行かせる。俺を許せとは言わない。それが俺の役割なのだ。遥か昔、出会った時から・・この時の為に。それがお前の望みだったから。それが村の守護者たる俺の選んだ事だったから。暖かい力が間人の中に流れ込んで来た。身体の辛さが消えていく。(間人、俺がいる・・)(え・・寒露様?)(ああ・・お前はひとりになる事はない・・)(ありがとうございます・・)間人は顔を上げた。その顔には力と自信があふれていた。片手を天に差し伸べた。天を仰ぎ、叫んだ。「光を!」幸彦の頭上から、金色の光が雪崩落ちた。化け物達は飛散した。光の中で幸彦は目を閉じたまま立ち尽くしていた。間人はよろよろと立ち上がった。和樹はその身体を思わず支えた。間人は軽く頭を下げた。「ありがとう、行きましょう・・」二人は光に向かって歩き出した。村には地鳴りが響いていた。マサトは神内を振り返った。「来たな」「ああ」「竹生達に異人はまかせよう」夜の主は奥座敷の屋根の上でうなずいた。すでに盾達は戦闘準備を整えていた。「黎明」の指した方向へ篠牟と高遠がそれぞれの隊を率いて向かっていた。マサトは起き上がった寒露に言った。「お前はここを離れるな、最後までここを守れ、いいな」「はい」寒露は頭を下げた。青褪めた顔に悲壮な何かが漂っていた。「『奴等』を倒しに行くぞ、神内」「サギリ・・送ってくれ」「わかったわ」宙に答える声がした。二人の姿がかきけすように消えた。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/24
守護者の帰還~集う者先日置いてきぼりを食った事など忘れたように、笠原は車を運転していた。あれしきの事で腹を立てていては神内と付き合えないと割り切っているのだ。あれは自分の危険を配慮しての事でもあると、馬鹿ではない笠原には分かっていた。『奴等』の事は知らなくても神内(じんない)達が何かと戦っている事は薄々感じていた。助手席に神内、後部座席にはマサトと和樹がいた。和樹はうれしそうだった。加奈子も何故か文句も言わずに送り出してくれたし、久しぶりにマサトと一緒にいられる。行き先は佐原の村で何の為に行くのかも知ってはいたが、マサトの目覚めの後に来るはずの悲しい預言をこの少年は知らなかった。マサトも上機嫌で和樹とはしゃぎながら、サギリの持たせてくれたおやつの菓子を取り合っていた。そんな様子をバックミラーで時折眺めながら、神内は複雑な想いを無表情の下に隠していた。昨夜、目覚めたばかりのマサトと神内は話をした。「幸彦(ゆきひこ)は本当に元に戻るのか?」「アイツは俺の夢にやって来た。少なくとも夢を操る力はあるようだ」幸彦が正気に戻るかどうか、マサトでも確信はなかった。しかし和樹の話も間人(はしひと)が夢の力を使った事も聞いて、この二人がいれば何とかなるだろうと思っていた。少し無理をさせても幸彦を正気に戻したかった。(俺には時間がない・・お前にもう一度逢いたい)何よりもマサトは幸彦がどうであろうと逢っておきたかったのだ。神内はそれを察して、すぐに笠原に車を用意させたのだ。加奈子も和樹が学校を休む事を今回は文句を言わなかった。加奈子も又長年共に戦って来た仲間であったから、マサトの事は解っていた。加奈子はマサトになついている和樹が傷つかないかが心配だった。それでも和樹を止める事はしなかった。カヅキが生きていたら同じようにマサトの最後の願いを妨げる事はしなかったろうと思ったからだ。「白露さん、またケーキを作ってくれるかな」神内とマサトに流れた気まずい雰囲気を和樹は敏感に感じ取った。(僕はいけない事を言ったらしい)マサトはふくれっつらに似た表情で、言いにくい事を言うような口ぶりで言った。「村が地震で崩壊したのは、聞いたか?」「ええ」和樹は小さな声で答えた。「白露は、その時以来行方不明なのだ」「え・・」「まだ死んだと決まったわけではないが、きっと出迎える寒露も心配しているはずだ。白露の事は口にするなよ」「はい」「それと、三峰の事もだ」「はい」それは和樹にも何となくわかった。あれだけ具合の悪そうだった姿を見たのだ。きっと・・和樹はうつむいた。マサトは気分を変える様に和樹の肩に手をかけて揺さぶった。「まあ、いいさ。とにかく今日は幸彦に逢いに行くのだ。お前に期待してるぞ」「はい」マサトの優しさを感じて、和樹は笑顔になって返事をした。「神内、今日もどんぶり飯を食うつもりか?」マサトは今度は前に座る神内の方に身を乗り出して、肩におぶさるように腕をかけてからかった。「あそこの米は美味い。炊き方も良いからな」神内は言った。「間宮が喜びそうだな」笠原が割り込んだ。「私もその美味い米が食えるのかね?」マサトは意地悪な顔をして言った。「今日は置いていかれないといいな」笠原はハンドルを握ったまま、肩をすくめた。「マサト様!!」「マサト様がお戻りになられた」マサトが車から降り立つと、人々は熱狂的に出迎えた。折れた木も倒れた家もまだまだそのままの所も多い。マサトは痛ましげに周囲を見回した。「皆、良く耐えたな」マサトが静かに言った。先程まで和樹とチョコレートの取り合いをしていたのと同じ人物とは思えない。人々はそこに皆ひれ伏さんばかりに見えた。和樹はあらためて”村の守護者”としてのマサトの威光を思い知った気がした。寒露が進み出て頭を下げた。「お帰りなさいませ、マサト様」「寒露、大変だったな」「いえ、私など・・ありがとうございます」寒露はもう一度頭を下げた。そしてマサトの後ろの神内達に言った。「神内様、和樹様、お連れの方・・笠原様でございますね。お疲れでございましょう、まずは奥へ。あまり良い部屋が残ってはおりませんが」「いや、笠原だけ案内して欲しい。俺達は幸彦を起こしにいく」人々の間にどよめきが沸き起こった。幸彦様を起こしに、幸彦様が元にお戻りになる・・崩壊した村の者達にとって当主の復活は何よりも喜ばしい事だった。復興への励みにもなる。寒露の顔もほころんだ。「はい、では」傍らの篠牟(しのむ)に何かをささやいた。篠牟は頷くとにこやかに笠原に言った。「笠原様、こちらにどうぞ」笠原は特に異議も唱えず、篠牟に着いて行った。「ここの村の米は美味いと聞いたのだが・・」笠原が持ち前の大きな地声で言うのが聞こえ、マサトは面白そうな顔をし、神内は苦笑した。和樹は寒露を見て、白露を思い出していた。(白露さん、無事だといいな)「臥雲(がうん)長老に術を解いてもらいたい」マサトは言った。「はい」寒露が目で合図すると、高遠が素早く奥へ去って行った。高遠は忍野(おしの)と交代して戻ってからは村の為に尽くしていた。白露が行方知れずな分も穴埋めをしようと一層務めに励んでいた。寒露もそんな高遠の姿勢を評価していた。三峰に白露と寒露がいたように、寒露は篠牟と高遠を頼りにしていた。「俺達はまず間人に会いたい」寒露は少しためらい、それからうなずいた。「ご案内致します」寒露と共に一行は奥へ進んだ。廊下を歩きながら寒露は言った。「申し訳ございません、間人は先日の災害の際に怪我を致して・・」「酷いのか?」「お役に立てるかは何とも。本人に聞いてやって下さい」「そうか」マサトはため息まじりに言った。この建物は被害が少なかったようだった。磨きぬかれた廊下を進み、奥座敷への道を辿りながら、マサトは懐かしい想いに囚われていた。ここはかつてさゆら子と暮らした場所であった。幸彦の生まれた場所でもあった。幸彦はそれを知らずにここで過ごしているのだろうか。お前が正気に戻ったら俺は話してやりたい事が沢山ある。だがそれもかなわぬ事かもしれない・・奥座敷の手前の部屋へ入った。敷物を敷いた上に寝台が置かれ、間人が寝かされていた。「マサト様・・!」間人は起き上がろうとして、顔をしかめた。「いい、寝てろ」マサトは言った。「申し訳ありません」間人をかばうように寒露が頭を下げた。「私の刀で怪我をさせてしまいました・・」「寒露様のせいではありません!」間人は横になったまま叫んだ。マサトはいたわるように言った。「俺にそんなに気を使うな」マサトは進んで間人の寝台の側に立った。間人はマサトを見上げた。恐れと怯えとがマサトに伝わると同時に、間人はいつもの人がいる時の緊張から解き放たれた自分を感じた。マサトは微笑んで間人を見た。「力に目覚めたお前には、人の多い場所は辛いだろう?」「はい」間人は素直に答えた。マサト様の周囲の空気はこんなにも澄んでいる。「それがさゆら子が俺といた理由だ。今、ここにいる者達は平気だろう?」「はい」マサトは振り返り、和樹を手招きした。和樹も寝台の側に来た。マサトは和樹の肩を抱いて言った。「和樹とはこの前会ったな」「はい、お久しぶりです、和樹様」「こんにちは、間人さん」和樹も頭を下げた。自分を見てにっこりと笑った間人の笑顔のどこかに辛そうな影があるのは怪我のせいだろうか。和樹は間人を取り巻く見えない力の感触が以前とすっかり変化していると思った。どこか自分と似ているものがそこに感じられた。好ましい雰囲気でもあった。(この人となら友達になれそうだ)和樹はそんな事も思った。「幸彦の心を取戻したいんだ。お前も協力してくれるか?」間人の大きな目が更に見開かれた。明るい光がみるみるあふれて来たようだった。(マサトさんも綺麗だけれど、この人も綺麗だ)羨ましさはなかった。綺麗な花を見つけた時のような心温まる思いがした。「はい、僕でお役に立てるなら」「幸彦の所まで行けるか?」間人は何かを頼むような必死な目で寒露を見上げた。寒露は幽かにうなずき、マサトに言った。「私が奥座敷までお連れ致します」「そうか、頼む」寒露は毛布に間人を包んで、傷の痛まぬようにそっと抱き上げた。「行こう」マサトを先頭に奥座敷へ向かった。火高の開いた黒く厚い扉の奥に、マサトは足を踏み入れた。涙が知らずに頬を伝った。数百年の長きに渡り、マサトの住まいであった場所であった。今は幸彦の部屋となっている。思い出の有り過ぎる場所である。奥に暖かい光が揺れた。それはゆらめく白く長い髪にきらめく蝋燭の灯だった。竹生が立っていた。「マサト様、お帰りなさいませ」今は村の守護者となった者は、その前任者に優雅に頭を下げ、挨拶をした。「幸彦は?」「今は眠っておられます」臥雲長老が高遠に支えられ入って来た。「マサト様、よくぞお帰りに」マサトは老人に優しい笑顔を向けた。「お前も無事で何よりだ。さっそくやってくれるか?」「はい、仰せ通りに」長老は部屋の奥にある一段高く設えられた褥に、竹生に支えられながらよろよろと歩を進めた。高遠は一礼して出て行った。これから先は清浄なる場所であり、自分はここにいてはならないと心得ていた。一同の後ろで扉が重々しい音を立てて閉じられた。神内は扉の前に立った。「お前達はこちらへ来い。少し離れていた方がいい」マサトは部屋の片隅に和樹と間人を抱いた寒露を導いた。そしてかばうように自分はその前に立った。「頼むぞ」マサトの声にうなずいた長老が、褥の前で低い声でつぶやきながら何かの仕草をし始めた。間人は身体を硬くして寒露にしがみついた。和樹は室内の空気が変化していくのを感じた。鉛を飲み込んだような違和感が喉を詰まらせる。「すぐにすむ、少しだけ我慢してろ」マサトは低い声でささやいた。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/21
禁じられた絶唱~目覚めし者夜の野を風に乗り翔けて行く竹生の腕の中に間人はいた。遥か上空でも風は強く吹き荒れていた。半分に欠けた月の面(おもて)を流れる雲が覆い隠し、過ぎて行く。竹生の顔もそれに連れて明るく或いは暗く見えた。夜に属するようになってから、竹生と月は親密になったようだった。元よりその美貌は月の光を思わせていた。なびく白髪が月光を照り返し、闇を流れて行く。間人は寒さを感じなかった。身体に風の衝撃を感じる事もなかった。彼の周囲を壁のように風が取り巻いているようだった。村の人々の大半は眠っていたが、民家のそばを通り過ぎるたびにそれらの人々の思いや夢が間人には感じられた。間人は竹生に尋ねた。「竹生様・・幸彦様もこうだったのでしょうか。悪い人の感情は針のように僕を刺すのです。そばにいる人の悲しみも苦しみも、僕の心に痛みを与えるのです。怖いのです・・誰かに逢うのが」「私もか?」「竹生様は違います。寒露様も・・久瀬や”結界”の者達は違います。ああ、間宮様や萱様も」「そうだな、後で幸彦様の話をしてやろう。お目覚めになったらご本人から聞けるだろうが」竹生は速度をゆるめないままに言った。あの道を崖へ進んだ。竹生は立ち止まり、何かを確かめるように前方を見据えた。そして再び歩き出した。そこには間人にも見覚えのある古びた扉があった。竹生はその前に立った。「ここは禁忌の山の領域なのだ」竹生は言った。「昔の結界が生きている。山にいる者はここから村の方へは行かれない」「竹生様は大丈夫なのですか?」「結界にも種類があるのだ。これは私を妨げるものではない」竹生は腕の中の間人の顔を覗き込んだ。「お前もそれ位は覚えておくがいい」「はい、鷹夜様」竹生は微笑んで間人の顔に自分の顔を寄せた。間人の耳元でささやく声がした。「”特別な子”よ、お前の心の痛みも哀しみも幸彦様と同じものだ。それを癒せるのはマサト様だけなのだ。だがあれなら、あれが目覚めたなら、少しはお前は楽になれるかも知れぬ・・私にもわからぬ。それが何時になるかもわからぬ。期待が裏切られた時の方が後に来る絶望は大きくなるぞ。それでもいいのか?」間人は竹生が何を言おうとしているか理解した。「もしもわずかでも希望があるのなら、僕はそれを信じたいのです」「よし、行こう、春彦」手を触れていないのに、扉が開いた。竹生は中へと進んだ。曲がりくねった通路を竹生はゆっくりと歩いていた。間人はここに満ちる空気が清浄である事を感じた。人の思いの残渣もない。楽に息が出来る。やがて二人は奥の部屋へたどり着いた。間人は首を捻じ曲げるようにして奥を向き、目を凝らした。暗闇の中に仄かな光がある。その光に浮かび上がる岩で出来た台座の上に横たわる人。あの時と同じだった。その人の名を叫ぼうとした唇を竹生の唇が塞いだ。間人は驚いて言葉を飲み込んだ。ささやき声で竹生は言った。「ここで大きな声を出すな」ふっと笑う気配がした。「両手が塞がっていたのでな」「ああ」間人は頬を赤らめた。「この場所は不安定なのだ。今のお前の声は力が有り過ぎる」「僕の声・・ですか?」間人も小声で言った。「無意識なだけに強い力が、お前の声にあるのだ。そのうちそれの制御も覚えねばならぬ」「はい」(力に目覚めたとはいえ、僕は知らない事ばかりだ)間人は思った。竹生は台座に近付くと、横たわる者の隣に間人の身体を丁重に横たえた。間人はそろそろと傷が痛まないようにその人の方へ身体を向けた。懐かしい横顔が目の前にあった。それを見ているだけで涙が滲んでくる。「さあ、呼んでみよ。静かに」間人はその人の首を抱くようにして耳元へ口を近付けた。「三峰様、僕です」竹生はそれを聞いて微笑んだ。「声に出さずとも良い。心で呼びかけるのだ。先程、私を呼んだように」間人は目を閉じ、心を落ち着けた。暗い闇の中に三峰の意識を探ろうとするかのように想いを集中した。(三峰さま・・三峰さま・・)闇の中で幽かに光が揺れた。(お前・・ああ・・聞こえる・・か・・)(ああ・・三峰様のお声がする・・)竹生は言った。「三峰は弱っているのだ。これ程に近くいないとお前の声も聞こえないし三峰の声も届かない」(生きていらしたのですね、三峰様)(生きているというのだろうか・・こういう有様で・・)(僕・・それでもこうしているだけで・・)涙で言葉がつまった。こうして言葉が交わせるだけでも、僕はうれしい。(私は試練を越えられなかったのに・・呪われた者が情けをくれたらしい)間人と別れた後、動かぬ身体を無理に動かし、山道を這いずり登った。遂に限界が来て、最期だと思った。失われていく意識、暗くなる視界の隅で自分を見下ろしている黒い影を見た。次に気がついた時はここに寝ていたのだ。身体を動かす事はおろか、声を出す事も出来ない。ただ意識だけがある。それも時折、とぎれとぎれの・・なすすべもないままに時が過ぎた。或る時、竹生の声が聞こえた。三峰はその声に向かって呼びかけた。竹生はやって来た。そして弟を見つけたのだ。(ずっと、このままなのですか?)(それも・・わからぬのだ・・)間人は悲しくなった。しかし明るく言った。(幸彦様がお目覚めになれば、何か方法を探していただけるかもしれません。マサト様がお目覚めになれば、何かご存知かも・・・)言いながら再び涙があふれてきた。(もしこのままでも、僕は・・三峰様とこうしてお話出来るだけでも・・うれしい・・です)(すまん・・お前を泣かせてばかりだな)(いえ、うれしい時も泣きます。僕、泣き虫ですから)微笑む気配が伝わった。(ああ、そうだ、お前が村を救ったのだな。良くやった)(あれは幸彦様のお陰です、それに三峰様の。僕なんか・・)(今、村はどうなっている)間人はためらった。白露様の事をまだご存知ないのだろうか。竹生様はどこまでお話になっているのだろう。「村は復興に努めている。来たるべき戦いに備えて」竹生が言った。竹生にはこの会話が聞こえているらしい。間人の気持ちを察したかのように竹生は言った。「我等は同じ血の絆を持つ者、想いが通じるのだ。忘れたか、その首の証を」間人はずっと首に巻かれている黒い布に手をやった。「特に私と三峰は兄弟ゆえに絆が深い。そしてお前と三峰もどうやらかなり深い絆があるようだな」竹生の声は暖かかった。「私も希望を持とう。私の命の限り、弟よ、お前を見守っていこう。誰もお前の身体には触れさせぬ」そして間人を見て言った。「お前は別だ、私と弟の”特別な子”だからな」(竹生様・・ありが・・と・・・)三峰の声が幽かになり、聞こえなくなった。「三峰様?」竹生は台座の上から間人を抱き上げた。「三峰も疲れたのだろう。これでしばらくは意識がなくなる。また来よう」外に出るとまだ村は闇に包まれてはいたが、夜明けの気配が東の空に感じられた。「少し急ぐぞ」夜の主は言い、佐原の屋敷を目指して走った。間人は寝台に降ろされた。「三峰の事は私以外に語ってはならぬ。他の者の不安を煽るだけだ。それでは三峰も苦しむ。あれはやさしいからな」「はい」「あれがいつか本当に目覚める事があれば、その時は・・」「その時が来るのでしょうか」「信じると言ったのはお前だ」「ああ、そうですね」竹生は横たわるその身体を抱きしめた。間人の寂しさを埋めるように。「これは弟の代わりだ」「竹生様・・竹生様と三峰様は、香りも似ていますね」竹生は笑った。身体を起こし、片手で髪をかきあげた。「お前を可愛がり過ぎると、三峰が慌てて起きるかもしれんな」竹生は冗談めかして言うと、闇の中へ消えた。「アナトールが来たそうだ」「宣戦布告?」いつもの部屋で神内はサギリの珈琲を味わっていた。小物の『奴等』を退治して戻ったばかりだった。「いや、警告だろう。親切な事だ」「アナトールは・・」「言うな、今は何の役にも立たない感傷に過ぎん」「そうね」「じゃあ、俺が起きたのは正解だったな」聞き慣れた声がした。扉が開いていた。そこに立つ小柄な姿。「マサト」神内は複雑な思いでその名を呼んだ。マサトは神内に片目をつぶって見せた。身軽に部屋の中を進み、いつものソファにどっかりと腰を降ろした。「起き抜けに何かもらえるのかな、サギリ」「ケーキを持って来てあげるわ」「しばらく留守にすると、待遇が良くなるんだな」マサトは笑って、サギリを見た。サギリは顔をそむけるようにして出て行った。「神内」「なんだ」「幸彦を起こしに行くぞ」「ああ」神内はマサトの覚悟を感じていた。言葉にしない方が良い事ばかりが有り過ぎるな、と神内は思った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/18
願うは暁~歩み出す者遠い日の思い出が・・私を呼ぶ。私・・俺・・僕?かつて自分を何と呼んでいたのか、もう忘れてしまった。長い歳月があった。まもなく訪れる時の為に。この暗い山の奥で、待っていたのは未来。かつて私は人間で親も兄弟もいた。呪われた身に成り果てても、夢の中で出会うのはそれらの面影なのだ。ただ一人の人の為にこの命を捧げると誓った時から、この心は狂気に満たされた。過去への逃亡もすべて愛しい人の為・・生き物は近寄らない。喰らわれる命達。その命を捕らえ我が物にする。そうして生きて来た。村の守護者に封じられた時から、この身はここを離れられないのだ。知っていたはずだ・・夢は未来を見ていた。知っていて忘れた。あまりにも長く生き過ぎた。あまりにも長く待ち過ぎた。だが罪の意識だけは消えず、何の罪であるかも忘れたというのに、苦しみだけはこの身を苛み続ける。許される事はない罪・・許されないという事だけ覚えている。大きな力だ。あれは懐かしい力・・まもなく終わりが来る。寒露(かんろ)は目を開いた。避難所の壁にもたれたまま眠ってしまったらしい。毛布がかけられていた。古びた屏風が足元に置かれ、周囲の目を遮っていた。篠牟(しのむ)がしたのだろう。身体を起こして座り直した。夢の残渣が頭をよぎる。寂しい夢だった。何かを待ち続ける者の夢・・(あれは、俺なのか・・それとも・・こんな夢を見るなんて、白露がいない事が思ったより堪えているな)寒露は自嘲した。二人が離れる事など考えた事がなかった自分を。ずっと一緒にいるのが当たり前だと思っていた。”盾”であれば何時その身が倒れるかの覚悟もあったろうに。それでも二人は離れる事はないと何処かで思っていた。三峰様を失うと知り、これ以上もう誰も失いたくないと思っていた。なのにお前を失ってしまった。白露、俺はこんなに弱いのだ。お前も弱かった。だが俺も弱いのだ。背負わせるな、これ以上・・お前、無事で生き延びてくれ。いつか再び巡り合えるなら、俺も生き延びてみせるから。お前はまだ生きているだろう?お前が死んだと俺は感じていない。俺は夢の力はないが、お前の事なら解る気がする。お前は何処かで生きているだろう・・お前も俺を感じているはずだ。間人(はしひと)の為に、奥座敷のそばの部屋が与えられた。竹生が指示したのだ。「私の目が届いた方がいい」竹生は言った。「間人を守るには、その方がいい」寒露は間人の安全と共に自分の負担を減らそうとする竹生の思いやりを感じた。今の盾には間人の為に人を割く余裕はなかった。村の再興を第一としていた。竹生は白露の事は何も言わなかった。老医師も口を噤んでいた。村の者達は白露が建物の下敷きになってしまったと思っていた。これ以上村に動揺を与えない為に公にされないのだろうと。幸い坂の家の被害は少なかったから、久瀬は間宮の許可を取り母親の萱(かや)を呼び寄せ、間人の身の回りの世話をさせていた。間宮同様、萱も竹生を畏れずに口を聞ける女であったから、何の不都合もなかった。竹生も「今の間人には、母親のような手があった方が良いだろう」とそれを認めた。間人は目を覚まし、自分を覗き込む顔に気が付いた。寒露だった。一瞬、白露かと思った。あの病室で目を覚ますといつも白露の笑顔があり、いつもやさしく髪を撫でてくれた。なのにどうしてこんな事に・・「具合はどうだ」「大分、良くなりました」どんなに多忙でも、一日に一度は寒露はこの部屋に顔を見せた。間人はようやくか細い声を出せるようになった。それまでは口も碌に聞けない程に弱っていた。間人は聞きたかった事を言葉にした。「寒露様・・寒露様も、僕を恨んでおられるのですか?」寒露の笑顔も優しかった。白露も寒露も失ったものが増えるたびに更に優しくなったように見えた。「恨んでいるものか。そうなら、お前を助けたりしない」双子故に、竹生と三峰よりも、白露と寒露はもっと似ていた。寒露を見ると白露を思い出し、間人は命を取り留めた自分を哀しく思う。それと同時にいつも自らの身体を命を張って自分を助けてくれる寒露への感謝の思いもある。腹の傷がしくしくと痛んだ。涙があふれてくる。「白露様・・いつも優しくして下さったのに・・」「ああ、白露はお前を本当は恨んでなどいなかったのだ。あれは弟が増えたように思い、お前を愛していたのだから・・なのに」寒露は身をかがめ、間人の顔を間近に覗き込んだ。「白露を許してくれとは言わない。だが白露も辛かったのだ。あれは誰よりも慕う方を亡くしたのだから・・あの方を失った痛み、お前にもわかるだろう」「はい」寒露は萱が置いていったらしいタオルを取り上げ、間人の涙を拭いてやった。「お前があの方を失い哀しんだように、お前が死んだら同じように哀しい者がいるのだ。哀しませるな、もうこれ以上・・」寒露様も哀しいのに、耐えておられるのだ。三峰様も白露様もいなくなり、今は寒露様はお一人で何もかもなさらねばならない。「寒露様・・僕が元気になったら、寒露様のお手伝いをさせて下さい」寒露は笑った。寒露は間人の額を人差し指で突付いた。「お前はもう、俺の手伝いなどする事はないのだ。お前はこれから幸彦様と同様に佐原に大切な人間になる。俺はお前を守る盾なのだ」「僕は僕です。そうでしょう?僕は寒露様のお手伝いをしたい。白露様がいない分、三峰様が残していかれた分、少しでも・・お役に・・」言いながら、間人の目に新しい涙があふれて来ていた。三峰の名を口にした途端、抑え切れない涙が湧き上がって来たのだ。寒露は痛ましげにそれを見た。解っているというようにうなずくと、間人の髪をなでた。そして明るい調子で言った。「わかった、わかったよ。じゃあ、今からでも出来る事をお前に頼んでいいか?」「何でしょう」「三峰様はお前の笑顔が好きだった。俺だって疲れたり調子が悪い時はあるのだ。そういう時、お前の笑顔を見せてくれ。お前の身体が良くなったら、もっと出来る事を考えてやる。今はそれでいい」間人はうっすらと微笑んだ。寒露の心が、自分への思いやりが、たゆたう霧のように暖かく自分を包むように感じた。「はい」寒露も笑顔で間人を見た。「あせらなくていい、少しずつ何でも進んでいくのだ。村もきっと元通りになる、俺がしてみせる」その目が三峰に似ていると間人は思った。寒露は三峰の従兄弟だった。この方も身の内に三峰様のかけらを持っている方なのだ・・間人は失くしたものを探そうとするかのように、寒露の目を覗き込んだ。寒露はその目を優しく見返した。「明日は朝が早いのだ。俺は帰って寝る。いつまでもくよくよするな、俺はもう悩むのはやめた。お前の笑顔があれば、それでいい」それはいつもの寒露だった。冗談とも本気ともつかぬ軽い口調で、間人をからかうように何かを言う。どんな悩みや困難があろうと明日へ進もうとする寒露の健康な生命力は、間人の心にも明るい力を与えてくれた。(僕は・・すべてを失ったわけではなかったのだ・・)間人は寒露の目の中に踊る暖かい光を見ながら思った。寒露が去ると、間人は思った。(三峰様は生きておられるかもしれない・・それを白露様がご存知だったら)あれ以来、三峰の声は聞こえて来なかった。どうしたらもう一度三峰様に自分の声が届くのだろう・・間人は感じる世界が広がったのは何となく理解したが、それをどう扱って良いのか解らなかった。あの時も幸彦の声のままに動いていただけであったから。目を閉じて意識を集中した。様々な雑多な気配の中で、一際強く感じられるものがあった。竹生であった。今は夜であった。竹生は奥座敷にいる。(竹生様・・)間人は心の中で呼びかけた。竹生の気配が変化した。こちらを見ているような気がした。(竹生様・・)竹生の気配が揺らぎ、風が間人の周囲を取り巻いた。カーテンがはためいた。「この私を呼びつけるとはな」寝台の傍らにいつのまにか現れた竹生が言った。「すみません」見慣れているはずなのに、いつも美しいと思う顔が間人の上にあった。怒ってはいないようだ。佐原の力を操ろうとし始めた間人に興味があるという風に見えた。間人は思い切って尋ねた。「竹生様、あの時、僕が見たのは・・」「お前は何も見ていない」間人の言葉を遮るように竹生は言った。静かだが堅い拒絶があった。その目が間人を見ている。間人は竹生の青く光る目が怖かった。しかし間人は黙らなかった。僕だってこのままではいたくない。真実を知って先へ進みたい。「教えて下さい、鷹夜(たかや)様」竹生の顔に笑みが広がった。青い光が柔らかくなった。「お前はとうとうそう呼んでくれたか。私の名を教えても一向に呼んでくれないので、嫌われているのかと思ったぞ」「いえ、あまりにも畏れ多くて、僕などが呼ぶには・・」「呼んで良いから教えたのだ、春彦」竹生は毛布ごと間人を軽々と抱き上げた。「行こう、あれの所に」風が吹いた。窓が開け放たれた。なびく白い長髪が月光にきらめいた。ふわりと窓から飛び出すと、竹生は間人を抱いたまま夜の野を風のように走った。足が棒のようだ。同じ道をずっと彷徨っているように思えた。時間の感覚もなくなっていた。時計などない。低く垂れ込めた雲に遮られ、太陽の位置も定かではない。疲れてはいるのに空腹は感じなかった。白露は大きな木の根元に座り、幹に身を預けた。(僕には無理か・・)白露(はくろ)はその木が三峰と間人が最後の別れをした場所だとは知らなかった。知らないままに、慕い続けた三峰がしたのと同じように幹に身をもたせかけ、空を見上げていた。捨てて来た村が懐かしかった。寒露の軽口めいた声を思い出した。鏡を見るように同じ顔。二人で守ると誓った村を僕は・・だからこそ、もう戻れない。罪の重さに白露はうなだれた。せめて最後の望みだけは捨てまい。知る事が出来たならそれを伝えてからだ、この命を落とすのは。死にたいと思い、ここに来た。だが白露の中でそれは少しずつ変化していた。死を願いつつ明日に何かを残そうとしている。白露はそれを矛盾とは感じていなかった。やがて来る朝があるなら、その朝に何かを語りたい。寒露、お前も知りたいはずだ。きっとあの子も・・それが僕に出来る最後の事だ。(まだ諦めるものか・・)白露は目を閉じ、やがて眠りに落ちた。その白露を見下ろす黒い影があった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/14
裏切りの残光~裂かれる者老医師は、椅子に這い上がって身を落ち着けた。「病の事を隠したのは、三峰様のご意志だった」老医師はゆっくりと言った。床に座り込んだまま、寒露は白露の身体を抱いていた。「それだけで白露がこんなになるとは思わない。何があったのだ?」白露は震える手で握り締めた書類を寒露の目の前に差し出した。寒露は白露の身体から腕を解き、それを受け取り目を通した。それは亡き藤堂の書いた物だった。そこに書かれていたのは、幸彦を亡き者にし、間人を当主として自分が実権を握る事に関する覚書のようなものだった。そして三峰のカルテ。病は『奴等』の毒気に寄るもの。幸彦をさらわれた時に現れた『奴等』の本体に触れた為だったのだ。床を見詰めたまま、白露はつぶやいた。「間人さえいなければ・・三峰様は・・寒露、僕は憎しみに押しつぶされそうだ・・」「白露?」部屋の中に異様な力が広がっていく。白露を中心に。窓ガラスがビリビリと震える。白露の中の『一角』の力が膨れ上がっていく。「白露!よせ!」寒露は白露の肩を掴んで揺さぶった。白露は空ろな目をしていた。「間人さえいなければ・・」「白露!何を言ってるんだ。藤堂のせいだ、間人のせいじゃない」「あれほど憎んでも、憎みきる事が出来なかったのに・・今は・・」「やめろ!白露!」寒露も力を解放した。二つの力がぶつかり合い干渉した。部屋中が震えた。窓は激しく鳴り、棚からカルテがこぼれ落ちた。老医師は机にしがみついた。二人を中心に見えない力が膨れ上がり、どんどんと大きくなっていく。(駄目だ、白露を押さえ切れない・・)寒露は白露を抱きしめた。こんな強い力を白露から感じたのは初めてだった。「やめるんだ、白露、やめてくれ」風が吹いた。バタンと激しい音が響き、扉から飛び込んできた影があった。白露の肩を掴んだ手が、寒露から白露を引き剥がした。当身をくらって白露は床にころがった。窓の鳴る音が止まった。寒露は力を解放した反動で息を切らせ、その場に膝をついた。竹生がそこに立っていた。昼の痛みが激しい時間であるのに異常を察知して飛んで来たのだろう。「竹生様、白露を止めて下さり、ありがとうございます」「何があった」寒露は床に落ちた紙を拾い上げ、竹生に差し出した。「藤堂の残した書き物と三峰様のカルテです」竹生は受け取り、目を通した。寒露は白露を助け起こした。「白露は、間人さえいなければ、三峰様は死ぬ事はなかったと思ってしまったのです」「え?僕が?」寒露が振り返ると扉に掴まるようにして寝巻姿の間人がいた。今の異様な気配を感じ、目を覚ましてやって来たのだろう。「どういう・・事ですか?」よろよろと、間人は白露と寒露のそばに近付いた。白露は立ち上がり、間人を睨み、うめくように言った。「お前さえいなければ・・藤堂はあんな事をせず、三峰様も『奴等』の毒気に侵される事もなく・・」今にも間人に飛び掛らんばかりの様子だった。「お前が当主の血筋でなければ、藤堂はお前を当主にする為に、幸彦様を敵に売る事もせず・・」「よせ、白露!」寒露も立ち上がり、白露の肘を掴み引き寄せた。白露はなおも間人を睨み付けたまま、声を荒げて言った。「三峰様が幸彦様をかばって、『奴等』の毒を受けて、あんな病気になる事もなかったんだ!」間人の顔が真っ青になった。「三峰様が・・僕のせいで・・」竹生は白露の頬を打った。白露は再び床に転がった。「馬鹿者!我が父義豊(よしとよ)への憎しみが藤堂に罪を犯させた。お前も憎しみで道を誤るな」白露は床に這いつくばったまま、愛しい人の名を呼んだ。火を吐く程に激しい慟哭だった。「三峰様、三峰様!」「三峰は盾だったのだ。幸彦様をお助けする為に、その命を捧げるは宿命なのだ」竹生は言った。間人は震えていた。「僕の・・せい・・」寒露は間人に近寄りながら言った。「お前のせいじゃない、すべては藤堂の計画だ」「僕さえいなければ・・」「そんな事じゃない、そうじゃない」その肩を掴もうとした寒露の手を振り払い、間人は竹生に向かって叫んだ。「償いをします!」間人は寒露の腰の刀を素早く抜くと、逆手に自分の腹に突き立てた。血がその服を床を汚した。「馬鹿!」寒露は刀を取り上げ、ぐらりと傾いだ身体を受け止めた。「こんな事、償いじゃない!誰がそんな事を喜ぶ!」寒露は叫んだ。苦しい息の下で、間人はつぶやいた。「やっぱり・・僕は・・生きてはいけない者・・」「馬鹿!死ぬな!白露、白露、俺達の、三峰様の特別な子が死んじまう!」寒露は間人を抱き上げると救護室へ急いだ。「死ぬな、俺の命をやってもいいから、死ぬな・・」寒露はつぶやきながら走った。竹生は静かに言った。「白露、これで満足か、お前はうれしいか」白露は答えなかった。ああ・・絶望が・・・・・白露の力が爆発した。佐原の屋敷の建物が次々と崩れ落ちていった。竹生は奥座敷へ一路走った。寒露は崩れ落ちる建物の中で間人を庇いながら走った。村中の大地が揺れた。崩壊する家も多くあった。「地震?」「な、なんだ?」「敵か?」気配を察知した篠牟が機転を利かせ、ただちに指示を出して避難させたので、人々の多くは難を逃れた。佐原の屋敷も酷い有様だったが、奥座敷に被害はなく幸彦は竹生と共に無事であった。寒露は間人と共に瓦礫の隙間に身を潜めて助かった。間人の手当てが急がれた。事故の為の怪我と見なされ、誰も間人が自らを殺めた怪我とは思わなかった。間人を救護の者に託すと、寒露は篠牟と共にすぐさま後処理に駆け回った。白露の姿はどこにもなかった。もつれた足取りで禁忌の山の道を進む者があった。「ああ、僕は何と言う事を」佐原の屋敷から逃れた白露であった。服は破れ、何処もかしこも泥と埃にまみれていた。身体が重かった。力の発動が体力を消耗させていた。もう村へは戻れない。村の長が村を崩壊させてしまうなど、許される事ではない。それも忌むべき力で。見つかれば寒露は自分を罰しなければならない。寒露の哀しみを更に増す事になる。弟よ、僕の為にいつもお前は哀しい目を見て来たに違いない。きっと僕の知らない所でも。今の白露に残されたものは、呪われた者の元へたどり着く願いだけであった。どうせ生きていられぬのなら、あの者に逢ってから死のう。三峰様の事を聞きたい。僕が出会う事が出来るならば。あの者ならこの山の出来事を知らぬはずはないだろう。どこかにいるはずだ、竹生様がお戻りになられたのだから。残された建物を調べ、使える場所は臨時の避難所にした。寒露はそのひとつの建物に入ると、壁に疲れた身体をもたせかけた。篠牟が隣に同じように腰を降ろした。「大体の被害の状況は、把握出来ました」「ああ」今は寒露がすべてを取り仕切る立場にいた。やるべき事は山積みだった。寒露は心の痛みを感じる暇もなく、追い立てられていた。それをあえて望むように寒露は精力的に動き回った。篠牟は白露の不在を寒露に問う事はしなかった。ただ忠実に寒露の補佐に務めた。人々は自分の事に精一杯で、村の長の失踪にまで気がついていなかった。こうして考える暇が出来てしまうと、寒露の思いはどうしても白露に向かってしまうのだった。あれ程に追い詰められる前に、何とかしてやれなかったのか・・苦い後悔ばかりが湧いてくる。俺が他の事にかまけすぎていたのか、白露の心の傷を思いやる余裕もない程に。白露も三峰様のご意志を理解していると思っていた。村の事、盾の事、俺達は忙しかったはずだ。嗚呼、今ならもっと良く解る。多忙であっても心の痛みは和らぐ事はない。むしろ傷口が広がっていくようだ。白露、どこにいる。お前はきっともう戻らないだろう。戻れば俺はお前を裁かねばならない。そうならないように、俺を哀しませないように、お前は一人で消えていくつもりだろう。俺はお前の後を追いたいのだ、もしもこの村をこんなにしたのがお前でなければ・・これは俺の償いだ。お前の心を守ってやれなかった俺の。お前のした事は俺がすべて背負うから。村を元通りに、お前の為に俺が出来るのはそれだけだ。それでも、白露・・俺はお前が大切だったのだ。俺達は二人でひとりとしてこの世に生まれたのだから。その絆だけは永遠に俺達二人だけのものだから。「私は永遠と共におり、その永遠も私の手から離れてしまう」寒露はつぶやいた。白露の好きだった古典劇のセリフだ。「はい?」篠牟がこちらを見た。「いや、何でもない」寒露は壁に頭を持たせかけ、目を閉じた。サギリの店の奥で、高遠は神内に村からの連絡を伝えた。「幸彦は無事なのだな」「はい、新たな『奴等』の攻撃かもと」「わかった、ご苦労。『奴等』の事は心配するなと伝えてくれ」「はい」高遠が立ち去ると神内は奥の部屋へ向かった。サギリはそこにいた。椅子にもたれ宙を見据えるような目をしていた。遠くを見ているのだ。「良くない方へ、風が吹いてしまったようだ」「目の前の哀しみに囚われると、人は道を見失うわ」「誰もがお前のように良く見える目を持っているわけではない」サギリは首を振った。「私だってすべてを見るわけではないわ」「白露はもう戻らないだろうな」「そうかもしれない、そうでないかもしれない」「今、俺達に出来る事は、ないな」神内は部屋を出て行った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/11
ささやかな異端~俯く者「篠牟(しのむ)、『火消し』の所へ行ってくれ。高遠と交代してくれ」寒露の言葉に篠牟はすぐには答えなかった。眼鏡の縁に手をやり直すような仕草をしてから、篠牟は静かな声で言った。「今、私が村を離れるのは、良くないと思いますよ」「何故だ」「寒露様は白露様の分までお役目をこなしておられる。盾に関しては私がいた方が良いでしょう。幸彦様に加え、間人様の警護もあります」執務室に白露の姿はなく、寒露と篠牟だけだった。白露はここ数日ふさぎがちで身体の不調を訴えていた。今までには有り得ない事だった。事実、顔色が悪く熱がある。寒露は白露に寝ているように言ってやった。身体より心の病なのだろうと解っていたが、それを口にはしなかった。寒露は仕事については部下に配分して場を凌いでいた。三峰の代理を務めていた経験で、村の長としての仕事もそれなりにこなす事が出来た。わからない事は報告も兼ねて部屋に戻ってから白露に聞けば良い。それでも普段より多忙なのは確かだった。「高遠は白露の信頼する部下だ。今の白露には高遠がそばにいた方がいい」「そうですね」篠牟も原因はわからぬながら白露の様子がどこなくおかしい事には気がついていた。「でも私がいた方が、寒露様の為にも”盾”の為にも良いですよ。風の家に不穏な動きがありますから」「風の家に?」「ええ、三峰様亡き後、当主となるべき者がないままです。鵲(かささぎ)様はあまりにもお小さい。保名様は露の家の出で、鵲様の後盾となるべき方もいない。他の者を担ぎ出そうとする動きもあります」「うむ、お前はどうなのだ?」「私ですか?私は風の家でも分家の出ですよ。当主などにはとてもとても」篠牟は微笑んだ。「それに、私はトップより次席が好きなんです」寒露も笑った。「お前らしいな」篠牟は笑いを消して言った。「風の家の動揺が盾にも影響して来ています。家の意識が強くなっている中、霧の家の寒露様に反発する者も出て来ないとは限りません」「うむ」「風の家に風の力を使える者がいない。それが何よりの不安なのです」「なるほどな。竹生様はすでに我等とは異なる世界で生きていらっしゃる」「私の感じるに、鵲様はとても強い力をお持ちです。だがそれを見せないと納得しない者も多いでしょう」「誰もがお前のような感覚を持つとは限らないしな」「ええ」「だが、誰かを高遠の代わりに行かせねばならない」「忍野(おしの)はどうでしょう。神内様の所で幸彦様をお守りした経験もありますし」「忍野か。竹生様の下にずっといた者だな」「ええ、あれは露の家の出で、少しなら結界も術も使えます。火急の際には役に立つかと」「わかった、そうしよう。忍野を呼んでくれ」「はい」篠牟は頭を下げると出て行った。白露は間人の病室にいた。自身も熱があったが、起き上がってここへ来ていた。間人は眠っていた。あの日からずっと、ほとんどうつらうつらした状態が続いていた。身体の衰弱が酷いと老医師は言った。いきなりの力の解放が、かなりの負担であったのだろう。おそらく何の心の準備もなしに。『一角』の力もそうだ。使うには体力を消耗する。竹生の話では武器のないままに、その力で異人と戦うしかなかったらしい。だがその忌むべき力をあれほど嫌っていた間人が何故それを使ったのだろう。白露は聞きたいと思ったが、今の間人には聞くのは酷な気がした。「白露・・様?」目をゆっくりと開いて、焦点のさだまらない目で、間人は白露をぼんやりと見ていた。「ああ、気分はどうだ?」「すみません・・僕、ずっと身体がだるくて・・」「無理はしなくて良いのだ」「はい、ありがとうございます・・」うっすらと微笑む顔は、幼い。愛しいと思う気持ちのどこかに突き刺さる棘のような鈍い痛み。白露はそれに気がつかないふりをして、微笑み返した。白露の心は当主を守る気持ちから遠く離れていた。村すらもどうでも良い気がしていた。(僕には本当に守りたいものがないのだ・・)三峰様がおられる時はお仕えするのが喜びだった。山へ登られた後も三峰様のお留守を守っているような気持ちでいた。けれども今は・・失ってしまったものの大きさだけが感じられた。そして目の前の”特別な子”。あの方の愛を一身に受けた幸福な子。当主の血筋だからと三峰様はおっしゃった。あの言葉は僕らへの言い訳も含んでいたように思えた。たとえこの子が当主の血筋でなくても、三峰様は慈しんだろう。僕ですらこの子を守りたいと思ったのだ、あの優しいお方なら。この子は悪くない、ただ健気で素直なだけだ。なのに僕は胸が泡立つのが抑えられない時がある。(僕がいなくなっても寒露がいる。寒露はスペアだと自嘲したが、それはいつでも僕の代わりになれるという事だ)山へ登りたい。今からでも三峰様の後を追いたい。あれだけ探しても何もなかった。試練への道は志した者にしか開かれないという。あの探索の時にはどこにも不審な道も場所もなかった。禁忌の山であるのにそんな気配すらなかった。それはきっと誰も志を持たなかったからだ。封ぜられし者はその姿を現す事もなかった。今度は逢えるだろうか・・僕が試練を乗り越えられるかどうかはどうでも良い、三峰様の事を聞きたいのだ。あの山のどこにあの方が眠っておられるのか。もしも最期を見届けたなら、それはどんなであったのか・・呪われた者が欲するなら、この命と引き換えでもいい。僕は知りたいのだ、あの方の選んだ道がどうであったのか。再び目を閉じ、うとうととし始めた間人を見ながら、白露は目から伝う自分の涙を知らずにいた。村のはずれの野原で、時折、そぞろ歩く二人連れを見る事があった。一人は華奢な身体に白い服をまとった青年で、春の風のようにふわふわと歩いていた。もう一人は長い白髪をなびかせた黒衣の青年で、白衣の青年の傍らに寄り添う様に歩を進めていた。野原を吹く風の中の光を集めて形作ったような不思議な二人連れだった。人である事をやめてしまった者と人ではなくなってしまった者であった。村の誰もがそれが誰であるかを知っていた。そして誰もが畏敬と哀しみをこめて彼等を見送った。遅い午後の日が沈もうとしていた。夕焼けに彩られた空の下を歩む二人に、近づいて来る影があった。赤い陽を浴びてもその髪が金色である事が見分けられた。それが誰であるか、竹生にはすぐに解った。そして戦いの為に現れたのでない事も。その影は二人の傍らで立ち止まった。「お別れを言いに来ました」金髪の異人は言った。薄い茶色のスーツの左袖がひらひらと風になびいていた。その左腕は肩からすっぱりと切り取られていた。「貴方のその腕・・」「幸彦を逃がした罰を『奴等』に受けたのです。もうピアノは弾けない」「やはり貴方が。道理で・・通路に敵が、あまりにもいなさ過ぎた」大人しく二人の会話を聞いていた幸彦が手を伸ばし、金髪の異人の頬に触れた。咲き始めた花のような笑顔で異人を見て、その名を呼んだ。透き通った声が夕暮れに響いた。「アナトール・・」異人も微笑んだ。『奴等』に自らを売り渡した者には思えない、まだセバスチャンと共にあった頃のような微笑だった。「これで思い残す事はない。次に会った時は僕は僕でなくなっている。『奴等』が完全に僕の心を奪い取ってしまうから」アナトールは竹生を見た。「その時は貴方が僕を倒してくれますね。守りきってみせて下さい、貴方の大切な人を」夕闇の中に、異人は消えた向こうから人が歩いて来る。さすがに仕事を休んで出歩く姿を見られるのは気が引ける。白露は廊下から手近な部屋にすべり込んだ。埃臭い部屋だった。ごたごたと荷物が積んである。ずっと人の出入りした形跡がない。鍵もかかっていないから大した物は置いていないのだろう。建て増しを重ねた屋敷の内部は、白露ですら余り足を踏み入れない場所も多かった。それぞれの役目のままに、人々はそれとなくいる場所が分かれていた。もちろん位置は把握していた。だから病室からの帰り、人目をなるべく避けられそうな道を選んでいたのだ。薄暗い部屋の中で棚にぶつかった。普段の白露ならそんな不用意な事はしない。熱でぼうっとしていたせいもあるだろう。床に落ちた荷物が散らばった。書物や手紙の類だった。歴史や古い物に興味がある白露は、ふと気を引かれ、それを手に取った。読み始めた白露の顔に、怒りとも悲しみともつかぬ表情が浮かんだ。眉間の皺が神経質な程に深くなったり浅くなったりした。いきなり白露は狂ったようにその棚の荷物をかき回し始めた。その顔は”仮面”をつけたあの顔だった。紙の束を掴み、内容を確かめる、時折懐にねじこむ。その作業を繰り返した。服も手も埃にまみれたが、そんな事は気にする風もなかった。(こんな事の為に、こんな事の為に・・・)狭い棚同士の隙間には、今や多くの本や紙が散乱していた。白露はそれを踏みしめながら、なおも棚を漁り続けていた。篠牟は忍野と並んで歩きながら、向こうを過ぎていく影を素早く見た。(あれは、白露様・・)身体中から黒い煙があがっているような、異様な気配に包まれていた。篠牟の背筋が寒くなった。寒露と共にいれば白露とも接する機会は多くなる。しかしあのような白露は見た事がなかった。横を見る。忍野は白露に気がついてはいたが、その様子の異常さまでは気がついていない。これで『火消し』の所へ行かせて大丈夫だろうかと篠牟は思ったが、自分が推薦したのだから仕方ないとも思った。他に手駒はなかった。(白神(しらかみ)に忍野の補佐を言い含めておこう)篠牟は先に向こうでお役目に付いている部下の内で、気働きの利く者を思い浮かべた。白露があれでは寒露をこれ以上煩わせる訳にはいかない。(高遠でも、もう無理かもしれないな)それでも急いだ方が良さそうだ。篠牟は歩く速度を上げて、執務室に向かった。白露は再び病室の方へ戻って行った。そして三峰を診ていた老医師の部屋の扉を叩いていた。扉が壊れそうな程に激しく拳を打ち付けていた。通りすがりの者達は、驚きの目でそれを見ていた。何が起きたのかわからないままに、一人の若者が寒露の元に走った。「寒露様、白露様が!!!」寒露が駆けつけた時は白露は老医師の部屋にいた。老医師は白露に喉元を掴まれ青褪めた顔で睨みつけていた。寒露は素早く扉を閉めた。これ以上この事を誰かに見せてはならない。「白露!どうしたというのだ」寒露を振り返った白露の目には異様な光が宿っていた。「僕は・・許さない・・許すものか・・」白露はそうつぶやきながら、手に力を籠めた。老医師の身体が痙攣した。「寄せ!!」寒露は白露に飛び掛り、老医師から引き剥がした。二人は床に転がった。そのまま寒露は白露の肩を掴んでゆさぶった。「白露、お前らしくないぞ!」白露の口元が歪んだ。「僕らしいよ・・これが僕なんだ、僕なんだ・・・」白露は寒露にすがりついて泣き出した。「助けてくれ、僕は押しつぶされそうだ・・」「白露・・」これが白露なんだ・・寒露はそれを知っていた。知るからこそ辛いのだ。寒露は白露を抱きしめながら、苦い思いを噛み締めていた。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/09
宿命より遠きもの~涙する者間人はかつて三峰の病室だった部屋へ運ばれた。佐原の力に目覚めた以上、間人の扱いは幸彦に次ぐようにするべきだと白露が主張したのだ。竹生は反対はしなかった。むしろ興味深げに、看病をする白露を見ていた。「お前も大変だろうに。この子が大事か」「三峰様が特別な子とおっしゃった子ですから」白露は眠る間人の髪を撫でた。寒露は戦いの後始末に追われ、まだここには来ていなかった。本来なら白露もやるべき事はあったが、今は部下にまかせ、多少の事には目をつぶり動かない事に決めた。「私より寒露ですよ。私達と間人・・同族なのはご存知ですね」竹生はうなずいた。「今の私は佐原の事なら何でも知っている」「寒露の方が一族の血が濃い。その為に不安も抱えているのです。それがこの子に執着をさせるのかもしれません。この子なら自分を止めてくれると」「お前はどうだ?」「弟が増えた気持ちです。不思議ですね、この子を見ていると守ってやりたくなる」「そうか」白露を見る瞳に深い色があった。「その気持ちがあれば、お前は大丈夫かもしれぬな」「私・・ですか?大丈夫とは?」白露はその意味を量りかねていた。間人ではなく自分に大丈夫と言われるとは。竹生は黙って白露を見つめた。その夜の主の面差しを美しいと白露は思った。思うと同時に今も忘れえぬ人の面影をそこに見た。失ったものの大きさに気がつかぬように激務の中に身を置き、間人をかまって来た。だがそれで癒される哀しみではなかった。寒露はすでに間人を守ると心に決める事でそれを乗り越えようとしていた。白露はまだ先が見えないままにいた。(竹生様は、それをご存知なのか・・)「私は弟の意志を継ぎ、この子を”特別な子”と呼んだ。だが弟の宝であったお前も大切に思う。お前はこの村にかけがえの無い身体になったのだ。それを忘れるな」「はい」「自分一人の為には生きられぬ。私達はそう宿命付けられている。それを辛いと思うなら辛いと言うがいい、私になら。お前は村の長になった時から孤独になった。三峰がそうであったように」三峰の名を聞き、白露の中で何かが崩れた。白露の唇が震えた。白髪がふわりと宙を漂い、白露の周囲に舞い踊った。淡く白くけぶる闇と幽かな青味を含んだ甘い香りが白露を包んだ。竹生は白露を抱きしめた。普段の白露なら軽くいなしたであろう。何よりも竹生がこのような事をするなど見た事も聞いた事もなかった。だが今の白露は大人しくその腕の中にいた。「これが弟の代わりに伝える気持ちだ。弟にはお前がいた。お前と寒露がいた。それに感謝している」「三峰様の・・」「私もお前を見守っていよう」「ありがとうございます」(そうだ、お前の行く末を。お前が選び間違えないようにな。白露よ)竹生が身体を離した。朝の気配が竹生の身体中に痛みを与え始めていた。「私は戻る」間宮が部屋に入って来た。竹生に会釈して、わざと大げさな身振りで白露に言った。「白露様、何をしているのですか。ここは私どもにまかせて、少しはお休みになって下さいな」間宮は子供に言うような響きを含めて陽気に言った。「ちゃんと寝て下さいよ。白露様は竹生様とは違うのですから」竹生は口元に笑みを浮かべ、間宮を見た。「確かにな」間宮は赤くなった。竹生は白露と目を合わせうなずくと出て行った。「白露様も、さあ」白露は再び間人の髪を撫でた。そして間人を見下ろしながら言った。「ああ、もうすぐ寒露が来るだろう。そうしたら部屋に戻る。話があるのだ」「わかりました。ご無理はなさらないで下さいね」「ああ、ありがとう」間宮は出て行った。三峰の名を聞いた時から白露の中で膨れ上がる何かがあった。今は一人になりたくなかった。(寒露、早く来てくれ・・)奥の部屋の扉が開いた。深い場所から戻って来た神内と和樹をサギリが迎えた。「真夜中にご苦労様、本当なら和樹は起こしてはいけないのだけれどね」サギリは神内にいたずらっぽい目を向けた。加奈子をなだめるのが大変だったのだろう。「佐原の村が襲われたのでなければ、起こさなかった」いつもの椅子にどさりと腰を降ろして、神内は憮然として言った。和樹はソファに座り、背を後ろにもたせかけた。サギリは神内にはコーヒーを和樹にはココアを入れたカップを渡した。温かいココアをすすり、和樹はほっとした。疲れてはいるが感じた事を神内達に話しておきたかった。「神内さん」「ん?」「間人さんが夢の力に目覚めたんですね。『奴等』はそれで出て来た」「ああ」「幸彦さんの気配がしました。幸彦さんが封印を解いた」神内は眉間に皺を寄せていた。何かを考えている。「神内さん、間人さんて・・」「幸彦が目覚めれば、皆解る」和樹の言葉を遮るように神内は言った。「もう、今日は寝ろ。明日は学校だろう」神内は和樹の不満そうな顔を見て、更に言った。「口にしない方が良い事もあるのだ。特に今は何もかもが不安定なのだから」サギリが口をはさんだ。「和樹、不用意に言ってしまうと貴方も巻き込まれるから。『火消し』はそれを心配しているのよ」「貴方達は何でもわかっているんですね」「馬鹿を言うな、俺達は神様じゃない。わからない事だらけだから、夜中に残業手当もなしに働いているんだ」神様だとしたら、カヅキを死なせたりするものか。マサトをあれほど傷つけたりさせるものか・・神内の思いが和樹に流れ込んだ。はっとして和樹は立ち上がった。「僕・・今・・ごめんなさい、神内さんの心を」神内はにやりとしてみせた。「お前の力はどんどん大きくなっている。だから今は余り首を突っ込むな。そのうち、色々なやり方を覚えるだろう」「ええ、マサトさんに又教えてもらわなくちゃ」和樹は笑顔になった。「じゃあ、おやすみなさい」和樹が出て行くとサギリは言った。「今度、マサトが起きた時は・・」「ああ、たぶん最後の戦いになる」「幸彦は間に合うかしら」「その為に間人を目覚めさせたはずだ。危険を承知で」「もう『奴等』にもわかってしまったわね」「ああ」「守れるかしら、あの子を」「その為の村だ。お前らしくないな、何が不安なのだ?」「悪い気配があるの。この先に」「それは、確かなのか」「まだわからない。これからそれが大きくならないように願うわ」「竹生は気がついているか?」「ええ」「じゃあ、任せよう。あそこは彼の領域だ」「そうね」寒露がやって来た。白露はベッドのそばの椅子に腰掛け、間人を見ていた。「お前、まだいたのか」「ああ」「そうだとは思っていたがな」寒露は部屋の片隅から椅子を運んで来て白露の隣に置いて座り、間人の寝顔を覗き込んだ。「具合は?」「ずっと大人しく眠っている」「そうか」「竹生様が先程までいらしていた」「もう朝なのに」「ああ、あの方もこの子が心配なのだろう」寒露は話しながらも白露がどこか空ろな様子なのに気がついていた。「白露」「何だ」「何が気になるのだ?」白露は足元に視線を落とした。「竹生様は、三峰様は孤独だったとおっしゃった」「三峰様が?」「長となられた時から孤独になったと。今の僕もそうだと」「白露、お前には俺がいる」「ああ、だが僕らはそれぞれに役目がある。だから一人の為には生きられない」「それは、そうだ」「一人の思いはずっと隠しておかねばならない」白露は間人の寝顔に再び目をやった。「山へ登られた三峰様の後をこの子が追って行った時、僕は本当は羨ましかったのだ。何もかも投げ捨てて、三峰様の事だけを思い、追って行ったこの子が。僕には・・それは出来なかった」寒露は白露の横顔を見た。いつも表情のないように見えるのは、白露がそれを自分に課しているからだと、寒露には解っていた。人一倍揺れる心を隠す為に。最近の白露はその仮面をはずしてしまう事が多い。特に二人でいる時は。「俺らは三峰様の跡を継がねばならなかったからな」「そうだ。村の為に、当主様の為に」自分一人の為には生きられない・・でも僕らも又人間なのだ。「僕も追って行きたかったのだ。あの方の最期の言葉を聞きたかった。竹生様は三峰様が僕らに感謝していたとおっしゃった。でも・・本当にそうだったのだろうか。三峰様の孤独は僕らでは癒す事は出来なかったのではないだろうか」「三峰様は弱気を人にお見せになる方ではなかった」「ああ・・だからこそ。今ならわかる。僕は孤独だ」「白露、俺がいる」「寒露、お前も孤独だ」「どうしたのだ?白露」「お前はこの子を守る事に心を割くだろう、僕よりも」「幸彦様がお目覚めになるまでは、この子を守るのは当然だろう」「そういう意味ではない。お前はわかっているはずだ」「白露、お前は疲れている」「ああ・・そうかもしれない。一寝入りするよ」「そうしろ、俺もすぐに寝る」「ああ」白露は立ち上がった。薄明かりがカーテンを通して射し込んでいた。その身を包む白い戦闘服が更に白く見えた。白露は足音を忍ばせて出て行った。寒露は間人の顔を見ていた。子供のような寝顔だった。どこか遠くに行っているような気がした。夢の力を操る者はどんな夢を見るのだろう。目が覚めたら聞いてみたいと思った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/06
その刃はささらの如く~奔る者この気配・・囲まれている。「あ・・異人?」武器も持たずに来た事を間人は悔やんだ。三峰様のお身体に傷でもつけられたら。(あの声は確かに三峰様だ。生きておられる、お守りしなければ!)間人は身構えた。影が階段を降りてくる。何か武器になるものはないか、周囲を見渡したが何もない。(どうしよう・・)素手でかなう相手ではない。絶望に間人は目を閉じた。(あるではないか・・お前には力が・・)励ますような優しい声。その声を聞いて、間人は身体の奥底に勇気と共に湧き出る力を感じた。禁忌の力、自ら使わぬと誓った力。しかし三峰様はおっしゃった、竹生様も自分も必要があれば使う事を命じると。(今こそ、お前のその力を・・使うのだ)間人は目を開いた。『一角』の力に洞窟が揺れた。異人達は外へ吹き飛ばされた。間人は台座に捕まり身体を支え、荒い息を吐いた。力の反動で身体が震え、足元がふらついていた。息を整えながら思った。ここに異人が来たという事は、村が襲われているはずだ。村はどうなっているのだろう。先の戦いで盾が受けた損害は大きかった。寒露様の努力があっても未だ以前の八割にも満たないはずだ。僕は、僕はどうしよう。幸彦様の元へ行かねば。でも三峰様をお見捨てするような事は出来ない・・どうしよう。(君には君の役目が、出来る事があるよ・・)三峰とは違う声が間人の中に響いた。「え・・」(皆の心を守って。やり方は僕が教える・・)「その声は・・幸彦様?」(さあ、夢を・・・)「僕にそんな事が・・?」(君の声が三峰に届いただろ?・・大丈夫。君の心を・・僕に合わせて・・)(お前なら・・出来るはすだ)間人は目を閉じ、感じるままに幸彦の想いを辿っていった。「上の組、俺に続け!中の組は篠牟(しのむ)に従え!」寒露は叫びながら走った。「寝込みを襲うとは『奴等』も馬鹿じゃないな」寒露は傍らを共に走る篠牟に言った。篠牟は眼鏡の縁に手をやり、歪みを直すようにした。「何かが起きたようですね。風がおかしい」風の家の出身の篠牟は、竹生や三峰のような大きな力はないが、多少の感覚は備えていた。「原因はこの村にあるという事か」「たぶん、竹生様ならお気づきかもしれません」「必要なら教えて下さるだろう。今は敵を迎え撃たねば」「寒露様」「なんだ」「徽章が曲がってますよ」走りながら寒露は笑った。「白露みたいな奴だな」白露は執務室で各部署に指示を与えていた。その身体はあの白い戦闘服に包まれていた。白露は伝令に言った。「先代の盾の方々にも、動ける者は出てもらえ」「はっ!」伝令が走って行った。すぐに双子の父親である霜月(しもつき)がやって来た。「坊主、我等にも出番をくれるのか」「お願い致します」白露は頭を下げた。長と言えども親は親なのだ。「霧の家の者は最前線に出る、寒露と共に」霜月はこの真夜中の急襲にもかかわらず戦闘用の正装をきっちりと着ていた。「この腕はまだ錆びておらんぞ、磨くのを怠った事はないからな」豪快な笑いを残し、霜月は出て行った。白露は寒露に与えられた二人だけに通じる無線機にこっそり語りかけた。「寒露、親父が行くぞ」「うへえ、『奴等』よりやっかいだな」「まあ、頑張れ、盾の長よ」「はいはい」感覚の鋭い者の報告では、異人の群れの背後に『奴等』の気配があると言う。小物だが捨て身で来るつもりらしい。ここまで『奴等』が出てくるとはかなり大掛かりだ。前回といい何と言う事だと寒露は思った。村がこれほどの攻めにあった事は今までなかった。『奴等』の戦い方は三峰と共に幸彦を守る中で体験していた。しかし今の村には結界も当主の防波堤もない。盾の長としての初陣には、余りにも荷が重い気もした。だが躊躇している暇はなかった。夜が明けるまでにはまだ間があり、闇の中では竹生以外はこちらが不利だとしても、大人しく村を蹂躙されるわけにはいかなかった。なるべく壁のそばで食い止め、後ろの『奴等』が出て来るのを防がねばならぬ。だが壁のそばに寄るほど『奴等』の影響を受けやすくなる。(まずいな、心を奪われると)寒露は当主の不在を今更ながら無念に思った。その時、村中の人々の脳裏に声が響いた。明るい声が・・(僕が皆の心を守るから・・戦って・・)「幸彦様?じゃない!まさか!」寒露は驚いた。(幸彦様の代わりに、僕が守るから・・)「間人、頼んだぜ!!!」寒露は空に向かい叫ぶと、盾の者達に言った。「我等に夢の守護が戻った、畏れるな!いけ!!!」寒露は冴枝丸(さえだまる)を握り締め、先頭に立ち、異人の群れに切り込んだ。異人と切り結びながら、竹生と久瀬は隠された洞窟の奥へ進んだ。階段を駆け下りた先の小部屋で久瀬は信じられない物を見た。台座の上に。「三峰・・様」竹生はその声を無視するかのように叫んだ。「久瀬、間人を守れ!」「はい」久瀬は台座のそばに座り込んで動かない間人に駆け寄った。「起こすな!今は皆の心を守っている」竹生が叫んだ。(間人、本当だったのだ。当主様の血縁・・)「私の弟、私の特別な子に手は触れさせぬ、異人どもよ」竹生の髪がなびき、鮮やかな手さばきで襲い掛かる異人を倒していった。その手には『奴等』をも切り裂くという”黎明”が握られていた。「黎明」は一見黒味を帯びた長い木の棒のように見える。中国拳法の棒術に使われるような。しかしそれはカヅキが自らの銀の身体を封じて作った物、マサトが自分の一部を小鳥に封じて和樹達の守りとした礼にマサトに贈られた物だった。マサトは幸彦と佐原の村の為に竹生にそれを託したのだ。寒露は奮戦していた。三峰のように空から敵を急襲する事は出来ないが、彼には速さがあった。『奴等』の力で強化された異人であっても寒露の速さにはかなわなかった。盾の長は先頭に立つ。長としての初陣で成果を見せねば、今後の立場にも影響して来る。無理を承知で前へ出ようとする寒露を霜月はそれとなく援護していた。霜月は経験豊かな盾であったし霧の家の者達は特殊な訓練を受けた者も多い。寒露の周囲の敵はたちまちに駆逐されていく。(後でお説教をくらいそうだな)寒露は横目で霜月を見ながら思った。篠牟も良い動きを見せていた。風の家の者達は霧の家の者に負けまいと篠牟と共に戦った。『奴等』の気配が消えたと白露から連絡が入った。『奴等』を感じる力を持つ物見からの報告だった。彼等は見切りは早い。本来は無駄な事を嫌う。寒露は叫んだ。「一気に押し切れ!!!!」『奴等』の後ろ盾がなければ、異人の力は激減する。動きの鈍った異人達に引けを取る”盾”ではなかった。遂に異人は壁の向こうに撤退した。ただちに壁が塞がれた。久瀬はがっくりと崩れるように床に倒れこんだ間人を抱き起こした。間人は目を開いた。「あ・・久瀬?ありがとう」間人は久瀬を見て弱々しく微笑んだ。いきなり力を解放したせいだろうか。疲れが酷い。身体がだるい。間人は自力で起き上がる事が出来ず、久瀬に支えられた。竹生がその傍らに膝をついて間人を覗き込んだ。「良く頑張ったな」竹生は微笑んだ。間人は気が遠くなりかけていた。それでも竹生に答えようとした。「幸彦様のお陰です。それに・・」間人は言いかけて、気を失った。「おい!しっかりしろ!」久瀬は抱きかかえた間人の身体をゆすった。「かなり消耗したようだな、無理もない」竹生は久瀬の手から間人を受け取り、その腕に抱くと立ち上がった。そして久瀬をひたと見据えた。「久瀬、ここで見た事は他言するな」「え?」「間人とも話すな。お前は何も見ていない・・いいな」その目には粘るような殺気を含んだきらめきがあった。豪気なはずの久瀬の背筋が凍った。「は、はい」怯えで詰まる喉から声を押し出すようにして、久瀬は返事をした。こんな所に三峰様のご遺体があるのには何か訳がありそうだ。だが竹生様は教えて下さらないだろう。確かなのはそれが大変な秘密だと言う事だ。漏らしたら殺される、竹生様なら確実にそれをなさる、それが竹生様だ。それより間人が心配だ・・久瀬は頭をよぎる思いを追いながら、意識のない間人を抱いて歩き出した竹生の後に付き従った。間人の心に声が響いていた。(良くやった・・春彦)(ありがとうございます・・誠志郎さま・・)夢の中で間人は微笑んだ。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/03/02
手放した夢~還る者間人は起き上がって胸を押さえた。最近良く夢を見る。眠れない夜が多いのだ。それは三峰様を失った哀しい夢ばかりでなく、もっと苦しくなるような、暗く重い濃密な夢。何かが僕の中で争っている。押さえ込もうとする力、出て来ようとする意志。幸彦様がお元気なら、きっとそれが何であるか見ていただけるに違いないのに。間人は三峰を失った衝撃から完全に立ち直ったわけではない。手足の傷もまだ痛むのだ。けれども少しずつ何かをしようとして、間人は竹生に役目を与えてくれるように申し出ていた。竹生は昼間の幸彦の世話を再び間人にさせるようにした。間人の立ち直りの手助けと共に、間人の存在の幸彦に与える影響をも考えていた。幸彦の真なる目覚めの為に。世話といっても、最近の幸彦は眠っている事の方が多い。眠る事で幸彦自身の中で癒そうとする力が働いているようだった。起きていても馬鹿げた甘え方をしないようになった。静かに微笑んでいるばかりだ。その表情もしっかりとしてきたように見えた。幸彦が元に戻るかもしれないという事は、まだほんの一握りの者しか知らされていなかった。間人は幸彦に仕える以上、変化があった時の為にその事を教えられていた。何より彼自身が幸彦の力を取戻す”鍵”だと言われていたのだから。何の力もない自分がどう役に立つのだろう。間人は疑問だったけれど、はっきりした事は誰にも解らない。しかし『火消し』の言葉は今までも間違いであった事はなかった。村の人々はそれだけは良く知っていた。幸彦のそばにいた日ほど、眠れない気がした。(どうしたのかな・・)眠れないままに、服を着て夜の庭に出てみた。執務室の灯がまだ点いていた。白露か寒露が、或いは二人共がまだ仕事をしているのだろう。正式に白露が村の長を寒露が盾の長を継いでから、まだそれほど日が経っていない。やるべき事が山積みなのだろう。それにも関わらず、二人は間人の気を引き立たせようと、外へ連れ出したり、一緒に白露の手料理で食事をしたりした。そういう時、何故か三峰が見守っているように三人が感じる時があった。誰も何も言わなくても、そう感じているのがお互いにわかった。まだ間人は三峰を思い出し泣きたくなる時もあった。「我慢しなくていい」寒露は言って傍らにいてくれる時もあった。白露は間人の好む菓子などを持って来てくれる事もあった。子供扱いされたようで悔しいが、白露の作る菓子は美味かった。多忙な中で彼等が自分の為に時間を割く事がどんなに大変な事か、この頃の間人には解って来ていた。しかしそのような遠慮を間人が示すと、返って二人の気分を害した。「お前の世話を焼くのが、僕らの気分転換なのだ」「俺達の楽しみを奪うなよ」二人は冗談とも本気ともつかぬ事を間人に言った。その言葉には兄の温かさがあった。星の明るい夜だった。間人は裏門を出て少し遠くまで行ってみようと思った。落ち着かない気持ちのまま布団に戻っても、どうせ眠れそうになかった。三峰が本当の名前を教えてくれたあの道の途中まで行ってみようと思った。竹生の本当の名前も教えてもらったけれど、畏れ多くて呼べない気がした。竹生は時折、間人の本当の名を呼ぶ。それは三峰を想う時のようだった。(竹生様は、本当に、三峰様を大切に思われていたのだ)間人は今になってそれを強く感じた。生きている時はお互いの立場もあり、そういう態度をあえて出さずにいたのだろう。子供の頃の竹生の弟への溺愛ぶりは、上の年代の者達には語り草になっていたらしい。三峰も又、兄を慕っていた故に兄の影に徹していたのだろう。白露と寒露も兄弟だ。一人っ子の間人は羨ましいと思った。思い出の道を辿る。あの時はもう三峰様はご自分の病をご存知だったのだ。あの涙はそのせいだったのだろう。僕は何も知らず、気がつく事も出来ず、ただただ驚くばかりだった。群青の家の雪火(せっか)様はお分りだったのだ、三峰様のお身体の事を。だからあんな風におっしゃったのだ。僕はなんて迂闊だったのだろう・・ぽつりぽつりと浮かぶ想いもすべて三峰の事ばかりだった。久瀬は交代の時間が来て部屋に戻った。間人はいなかった。又三峰様の部屋にいったのだろうと思った。最近は少なくなったが、それでも時折あの部屋で夜を明かす事があるのを久瀬は知っていた。三峰の私室は”ゆりかご”の間宮(まみや)が心をこめて清掃をしていた。保名の手がそこまで回らぬのを知っていたし、山へ行ったとしても竹生のように戻って来るかもしれないという希望を捨てきれない者達を代表して、生前のままにしておこうとしていたのだ。間人が出入りをしているのも知っていた。この当主の血筋の子の事も間宮は不憫に思っていた。間人が誰よりも三峰を慕っていたのを知っていたからだ。間人が寝台に寝た後も丁寧に直した。直しながら間人が元気になる事も願っていた。先日来た『火消し』に連れられた少年と間人は幾つも違わないはずだった。まだ父も母も必要な年頃であるのに、優秀な盾であるが故に、子供らしい事から引き離され、数奇な生い立ちが柔らかな心を傷つけていった。今度見つけたら、厨へ連れて行って何か美味いものでも作ってやろうと思った。(あたしには、それくらいしか出来ないからね)坂の家の萱(かや)も間宮同様に間人の心配をしていた。久瀬に言い付けて新しい衣類等を間人の分まで持って行かせた。そのような心配りをする者が周囲にいないのを久瀬に聞いていたからだ。雑駁なように見えて久瀬も物事をきちんと見ている男だった。久瀬は豪腕と共に坂の家の未来の長となる度量をも兼ね備えていた。久瀬は幽かな不安を感じていた。今夜の空気のどこかに違和感がある。異なる何かが。季節の変わり目の不安定さとは違う。異質ではあるが、どこかで感じたような。思い過ごしならいいが。(最近は俺も落ち着きを失っているのかもしれない。三峰様を失い、村全体が浮き足立っているようだ)幸彦の目覚めが近い事は、まだ一部の者しか知らない。大半の村人は不安の中にいる。(それにしても今夜は変だ)着替えもせず、久瀬は窓から空を見上げた。間人は何かに呼ばれたような気がした。その方向には森がある。民家はない。その先には禁忌の山がある。その為にめったに誰も立ち寄らない場所である。妙に興奮したような神経が、そう感じさせただけだろうか。間人は気のせいかもしれないと思いながらも、そちらの方向へ足を向けた。何かが心の片隅で疼いているかのようだった。何なのかは分からない。竹生の気配ではなかった。竹生ならもっとはっきりと呼びかけるはずだった。森は暗かったが、今夜は星が明るい夜だった。木々の間に落ちる星明りをたよりにそろそろと気をつけて歩けば、進めない事もなかった。間人は肌にひりつく夜気を掻き分けながら、奥へ進んだ。厚手の上着を着てくれば良かったと思った。萱がくれた衣服にそのようなものがあったのを思い出したのだ。禁忌の山の手前から細い道があった。星があるのでかろうじて見えた。(こんな道があったっけ?)その先にそびえる崖があった。崖に沿って進むと、低い位置に隠された扉のようなものがあった。押してみると鍵はかかっておらず、開いた。中はぼんやりと薄く明るい。岩肌にこびりついた苔が仄かな光を放っていた。階段が見えた。間人は身をかがめると扉の中に入った。岩をくりぬいて作ったような穴だった。最近のものではない。磨耗した様子が床にも階段にもあった。不気味に光る苔に照らされ、間人は地下に続く階段を降りていった。降り切ると奥が広くなっており小部屋になっていた。奥に台座のようなものがある。周囲に気をつけて近付いた。台座の上には白い外套のようなもので包まれた人型のものが見えた。横たわるその人は瞳を閉ざしていた。その面差しは・・間人の心臓が早鐘のように鳴り始めた。駆け寄りたい気持ちを我慢して一歩一歩踏みしめるように近付いた。台座の傍らに達すると、恐る恐る胸の上に組まれた手に触れてみた。ひんやりとした、しかし柔らかい感触があった。人の肌の感触だった。その頬にも触れてみた。なだらかな線を辿る頬骨。それは懐かしい良く知るものだった。息はしていない。でも死体とも思えない。間人はわからなくなった。山で別れたはずなのに、何故こんな所に・・眠っているかのような顔。ひざまずき、耳元に口を寄せて呼んでみた。「三峰様、起きて下さい」多くを守り多くを愛し慈しむ決意を背負った顔。その人生は苛酷でなくて何であったであろう。間人は再び呼ぶのをためらった。この眠りを乱してはならないのかも知れない。ようやく手に入れた平穏の時を。「でも、僕は貴方が恋しいのです。三峰様・・」間人はその胸に顔を伏せた。心臓の鼓動を聞くかのように。僕が本当に幸彦様の血縁なら、夢の力を操れるなら、今貴方がどんな夢を見ているのか、見てみたい。僕の想いを貴方の夢の中に届けたい。三峰様、僕の声が貴方に届いたらどんなにうれしいだろう・・三峰さま・・間人の脳裏に彼によく似た顔が浮かんだ。その顔は哀しげにうなずいた。(さゆら子様・・いや、お母さん?)臥雲(がうん)老師の言葉が思い起こされた。お前は母に似ている・・と。浅葱らしき女人の唇が動いている。何を言っているのかは解らない。やがて彼女は抱えていた何かを放つように、その腕を間人の方へ開いてみせた。その身体から光があふれ、間人の視界一杯に広がった。間人の感じる世界が急激に広がった。「な・・何?」様々な想いが雪崩れ込んでくる。原色の幻が目の前にぐるぐると渦巻いてゆく。混乱する心を間人は必死で落ち着かせようした。顔を伏せていた胸にしがみついた。眩暈が襲う。体の力が抜けてゆくようだ。「助けて、助けて下さい!誠志郎様!!」思わずその人の名を呼んだ。(お前・・お前か・・・?)「え?」頭の中に声が響いた。懐かしい声・・・「ああ・・」なおも流れ込む多くの想いの中で、その声だけがはっきりと間人の中に響いた。(はるひこ・・)「僕です!」その動かぬ人の耳元で叫んだ。懐かしい声が聞こえた時から、間人の心に平静が甦って来た。澄んだ想いに満たされ始めた心の奥に、喜びが湧き上がって来た。三峰様は生きていらっしゃるのだ。このようなお姿になっても、生きていらっしゃる。「僕です、三峰様!」その冷たい身体にすがりながら、間人は何度もその名を呼んだ。村中に地鳴りが響いた。壁の管理者の群青の家から急使がやって来た。「壁が、壁が震えている!『奴等』がやって来る!!!!」竹生は奥座敷で眠る幸彦を見つめながらつぶやいた。「間人が佐原の力に目覚めた。『奴等』がそれに気がついた・・」竹生の髪がなびいた。魔の者の瞳が青く輝いた。火高がいつの間にか傍らに控えていた。「火高、ここはお前にまかせる」「はい」火高はすでに武器を手にしていた。「更紗(さらさ)、斤量(きんりょう)、火高と共にここに残れ」姿の見えざる者が返事をした。「はい」気配を察知した久瀬が走りこんで来た。竹生は叫んだ。「久瀬!!来い、間人が危ない!!!」掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/25
人の世の哀しみの果てに~虚ろなる者目が覚めると消毒薬の匂いがした。白い天井が見えた。双子の顔が見えた。白露が言った。「骨が折れてる。しばらく動けないぞ」「僕・・」寒露が間人の顔を覗き込んだ。「見つけるまで、手間取ったぞ」「三峰様は・・」双子は顔を見合わせた。寒露が言った。「見つかったのは、お前一人だ」白露は間人の額に手をあてた。「今は寝るがいい。何も心配するな。お前には僕と寒露がいる」「あいつもいる」寒露が指差した方を見ると、床に丸くなるようにして久瀬が寝ていた。「久瀬はお前を探して山を歩きまわり、その後も一睡もしないでずっとつきっきりだったんだ。俺達がどんなに言っても離れなかった。とうとうぶっ倒れたのであそこに寝かせてある」白露は間人の髪を撫でながら言った。「良い友だな」寒露は笑った。「坂の家の者達も見舞いに来てたぞ。綺麗どころばかりだ。お前、もてるんだな」白露も寒露もやつれた顔をしている。彼等も余り寝ていないのだろう。ただでさえ仕事が増えているはずなのに。三峰の事は誰も口にしなかった。山へ登った者についてはそうするのが習慣であった。執務室は白露と寒露が使っていたが、三峰の私室はほとんど手付かずのままだった。退院した間人は、松葉杖をつきながら部屋の中を歩き回った。どこに触れても三峰の気配が残っているような気がした。寝台に横になった。懐かしい三峰の匂いがした。三峰の腕に抱かれているようで、間人はいつしか眠ってしまった。目覚めると暗かった。すっかり日が暮れるまで寝入ってしまったらしい。起き上がると窓のそばに人影が見えた。見覚えのある影・・「三峰さま!!!!」駆け寄ろうとして倒れた。松葉杖が床に叩きつけられ、けたたましい音をたてた。その影が近づき、間人を助け起こした。「三峰は逝ってしまった」竹生であった。「ああ・・」がっかりしたのと同時に、山で見た三峰の最後の姿を思い出し、涙があふれてきた。あの時どうしてあのまま一緒にいなかったのだろう。「弟はお前が生きる事を望んでいた」「生きる、生きるって・・何ですか?」「私には答える資格はない」「僕は・・どうしてあの時、三峰様のおそばを離れてしまったのだろう。戻った時にはもう三峰様はいらっしゃらなかった。どうして僕はここで一人で生きているんだろう・・三峰様はいらっしゃらないのに」間人はその場に倒れ伏して動かなくなった。竹生はそれを見下ろし、痛みを堪えるような顔をしていた。臥雲長老は三峰を失ってからめっきりと老け込み、寝込む日も多くなった。或る日白露と寒露に間人を連れて来させた。「春のようだ」と三峰が愛した面影はどこにもなかった。「わしの後の後見を決めねばならん。白露と寒露では若すぎるだろう」「長老がお決めになるなら、私は何も依存はありません」間人は言った。抑揚のない機械的な声だった。「そうか」「私自身はここでは無用の存在です。幸彦様が正気に戻られたら私を解放して下さい」「間人?」「誰も私を、私自身を見てくれないんです・・ここでは身体は生きていても死人同然なんです。誰も私を見ない、いないのと同じなんです」虐げられ傷つけられた記憶と佐原の血を守る為と強調された事が、間人の中で彼自身の存在の否定になってしまっていた。「私に死ぬ自由を下さい。三峰様のおそばに行ける自由を下さい」間人は手をつき、深く頭を下げた。「このまま生殺しのように生かしておくのは、もうやめて下さい。お願いです、死なせて下さい」「ああ、何と言う事を・・」白露と寒露も言葉がなかった。自分達の言葉を振り返って、間人をどんなにそれが傷つけていたか、恐ろしい程に思った。間人は出て行った。長老は呻いた。「何という事だ。佐原の為に、確かにそうだ、その為にあれを守ろうとした。だからと言ってあれの人となりを否定したわけではない。いや、あれにはそう思えたのか・・わしらは何という・・」久瀬は竹生に訴えた。「間人が部屋に戻らないんです。三峰様のお部屋にずっといるのです。夜も・・」竹生は何も言わなかった。だが久瀬を見てうなずいた。久瀬は竹生がどうにかしてくれるだろうと思った。竹生は表立って目立つ事は何もしないが、部下である者達を大切にしているのを久瀬は感じていた。新しく来た更紗(さらさ)や斤量(きんりょう)についてもそうだった。(間人の事もきっと何とかしてくれる)久瀬は祈るような想いを込めて、そう信じようとした。「人の世は美しい、人の命は甘美だ」竹生は言った。三峰の部屋は月光に照らされていた。「人でない身になってあらためてそれを感じる。三峰はお前にそれを知って欲しかったのかもしれない」「そうでしょうか」「そして覚えていて欲しかったのかもしれない、自分が生きていた事を。誠志郎は・・三峰の本当の名を知るのは私たちだけなのだ、間人」「はい、竹生様」「お前は生きて、皆に伝えてやるのだ。三峰という人間がいた事を、強く優しい長がいた事を・・」竹生は間人に近付き、その顔を覗き込んだ。「お前の名は何と言う」「春彦です」「覚えておこう、私の弟が特別な子と呼んだ、春のような子の事を」「竹生さま・・」「誰をも幸せにする笑顔と明るい声の子だと・・誠志郎は私に言った。その子が生きて、更に多くの幸せを皆にもたらす事を、弟が望まないわけがないではないか、春彦」「ああ・・」「この鷹夜(たかや)も、弟の意志を継いでお前を”特別な子”と呼ぼう」「え、竹生様?」「誠志郎と私しか知らぬ。弟の代わりにこの名をお前が覚えておけ」「ありがとうございます」「お前は私の特別な子、弟になれ」「私では三峰様の足元にもおよびませんが、兄と慕わせて下さい」「あれより、お前の方が可愛げがある。あれは真面目過ぎてな・・」竹生は笑顔を見せた。それはおそらく三峰にしか見せた事のない優しい笑顔だった。(竹生様もこんなお顔をなさるのだ)間人はその笑顔に三峰の笑顔をも見た。この方は分かって下さっている、三峰様と僕の魂がどんなに寄り添っていたか。間人は心安らぐ思いがした。分かって下さる方がいるのだ。「今宵はここで二人で夜を明かそう。お前の知る三峰について話してくれ。私はあれの子供の頃の事を話してやろう」「はい」竹生は、間人の足が痛まぬようにそっと抱き上げ、寝台に寝かせた。自分はその傍らに横になり頬杖をついて、間人の顔を覗くようにした。竹生は語り始めた。優しかった弟の事を。二人で過ごした日々の事を。間人は大人しく聞いていた。そして竹生は言った。「盾の家の者達は皆、お前を探すのに奔走したのだ。お前を良く思わない者はほんの一握りだ。お前を心配する者も大勢いたのだ。坂の家の者も手分けして手伝ってくれた。寒露は何も言わないだろうが、お前を助ける時に腕に大怪我をしたのだ」「知りませんでした」「今もまだ傷が治りきっていないはずだ。白露もお前が目覚めるまで、ほとんどつきっきりで看病していた。久瀬と一緒にな」竹生は笑った。「三峰亡き後、あの二人が村を支えるというのに、あれらはお前の事の方が大事らしい」その笑顔は月明かりの中で美しかった。「お前は本当に多くの者に愛されている。もう、死ぬなどと言うな」間人はその顔を見ながら三峰を思った。思いながらも多くの人々の心を受け入れようと思い始めていた。「はい」小さい声ではあったが、その声には明るさが戻っていた。「寒露様、お怪我の具合は如何ですか?」「誰がお前にしゃべった?」「竹生様です」寒露は苦笑いした。「竹生様じゃ、殴るわけにもいかないな」「僕の為に、申し訳ありません」「気にするな」「いつか償いを、あ・・」不意に抱きしめられた。「そんな事はいい、早く元気になれ」「寒露さま」間人は頬を染めた。それを見て、寒露は間人の心に少しとはいえ健康が戻って来たのを感じた。「あれで良かったのか?」(私の声は今は貴方にしか届きません・・この指ひとつ動かす事もかなわぬ身では・・)「私を通して、あれを見たか?感じたか?」(はい・・あんなにも傷心でいるとは・・)「元気になると良いな」(ええ・・)「あの者は何故、お前に情けをかけたのだろうか。単なる気まぐれかもわからぬが・・何はともあれ、私はうれしい。たとえこのような姿でも、お前の心が無事であるなら」(貴方がそう思って下さるなら・・私もうれしい・・)掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/23
叫ぶ子供~追い縋る者白露が看病を交代して間人に寝るように言った。間人は素直に出て行った。二人きりになると三峰は白露に言った。「寒露を呼べ」すぐに寒露がやって来た。三峰は身体を起こし、用意してあったものを取り出した。「お前達に、これを」白露に白い戦闘服を渡した。「お前と私は背格好が同じ位だ、着られるだろう」寒露には愛刀冴枝丸(さえだまる)を与えた。「これに活躍の場を与えてやってくれ」三峰は重ねた枕に寄りかかって、言った。「すまんな、他に良い物がなくて。せめてお前達二人には何かやりたくて」白露は服をおしいただくようにして頭を下げた。「いえ、ありがとうございます。頂戴いたします」寒露がふと問いかけた。「間人には、何かやらないのですか?」三峰は寒露を見て微笑んだ。やつれてはいても美しい笑顔だった。「うむ、私の一番の宝を与えてやろうと思う」白露の顔が暗くなった。それを見て三峰はいたずらっぽい目をして白露を見た。「私の一番の宝、それはお前達だ」「三峰様、それはどういう・・」白露は”宝”を言われたうれしさと、与えるという意味の不確かさに、眉を寄せていた。「お前達は”盾”でも最高の者達だ。その二人を組の者とした私は幸運だった。お前達がいなければ、私は長の務めも果たせずにいただろう。あらためて礼を言う」二人は黙って頭を下げた。三峰は深く息をした。どこか苦しいのだろう。「私が長になった時、マサト様から伝えられた事がある。サギリ様は間人の、あれの未来を見たのだ」「間人のですか?」白露が聞いた。「ああ、あれが幸彦様を助け、村を救うだろうと。その時はまだ間人の素性は知らず、その意味すらわからずにいた。素性がわかり、おそらくあれが佐原の力に目覚める時が来るのかもしれない、幸彦様がこのままでいらっしゃるなら、それが必要な時が来るのかもしれないと思うようになった」二人は黙って聞いていた。「先日の『火消し』の神内様と和樹様のお陰で、幸彦様がお戻りになる事がわかった。お前達も聞いているな」二人はうなずいた。「そして、幸彦様のお力を取戻す為には間人が必要だという。和樹様がそうおっしゃった、間人を死なせるなと・・」その事については、白露も寒露からすでに聞いていた。「お前達に間人を守って欲しい。間人を、佐原の血を・・村を守る為に。私の一番の宝であれば、それを成し遂げてくれるだろう」白露は言った。「では、間人の事は最初から」「ああ、それゆえの”特別な子”でもあるのだ」寒露は三峰が公正であろうとしているのを感じた。長としての意志の裏に隠した想いも感じた。それは自分も抱えているものであった。白露は三峰の意志だからあの子を守る。俺はそれと共に俺の意志であの子を守りたいと思っている。「わかりました、俺達があの子を守ります。これまで以上に。俺と白露が必ず」「ああ、私の一番の宝よ・・頼んだぞ」三峰が決意をしているのを、白露と寒露は感じた。近々に山に登るおつもりだ。二人は無言で目を合わせ、うなずきあった。二人を帰すと、三峰は着替えて出て行った。老医師にはすでにその事を伝えてあった。間人には知られないようにと、夜半に出る事にしたのだ。三峰は保名と鵲の家に立ち寄った。盾の家の生まれらしく保名は三峰の決意を聞いても取り乱しはしなかった。「私はお前にすまないと思う」「いえ、貴方は私に長の妻という栄誉と鵲を与えて下さいました。私の上に起きた事はすべて私の軽率な行為のせいです。貴方のせいではありません」「保名、お前は良い妻だ。お前を残していく私を許してくれ」三峰は保名を抱きしめた。病室にも本来なら保名が三峰に付き添うべきだが、盲目で赤子を抱えており、まだ完全には許されたとは言い難い身では、それはかなわぬ事であった。保名は久しぶりの夫の胸に顔を伏せたまま、言った。「いいえ、良いのです。それが貴方の決意なら」三峰は眠る鵲(かささぎ)を抱き上げた。「この子は父親似だと、皆が言います」「そうか、強くなると良いな」「ええ、きっと。貴方の子ですもの、大きくなったら村中の女の子が憧れるでしょう。貴方がそうだったように」三峰は笑った。「はは、それは知らなかった」「貴方は真面目でいらしたから」腕の中の小さな柔らかい命を、三峰は愛しいと思った。そして父を亡くす子を不憫に思った。三峰は我が子をそっと布団に寝かせ、その枕元に竹生から譲り受けた父の刀を置いた。「鵲、これをお前に譲る。風の家の宝だ、大事にせよ」大人に言うように、三峰は鵲に語りかけた。「父が戻らぬ時は、お前が母を守り、村を守れ」その夜は親子三人で寝た。まだ暗いうちに三峰は発った。保名はその足音が聞こえなくなっても、ずっとその後姿を見送るように、立ち尽くしていた。三峰は着慣れた黒い戦闘服を着ていた。幾多の戦いをくぐり抜けて来た服だった。竹生の組の者として、兄と共に戦えるのはうれしかった。兄の後をいつも追っていた。今もそうなのだろうか。(これは私の意志だ。同じ道を辿るとしても、その行く先は異なるのだ)三峰は山と外界とを隔てる柵を精一杯の力をこめて壊すと、禁忌の境界を越えた。以前なら息も乱さずに走り切れた距離を、今はゆっくりと歩むしかない。それすら止まりがちになる足を励ましながら進んでいく。病に根こそぎ体力を奪われた身体は、重い石ででも出来ているかのように三峰には思われた。風はもう吹いてこなかった。かつては軽く飛べた空を、三峰は立ち止まって見上げた。衰えた身体には、もはや風を呼ぶ力は失われていた。まだ山に入り幾らも歩かぬというのに、三峰は立っているのも辛くなった。休みながらも、それでも立てるうちは進もうとした。山道はまだ果てしなく続くように思われた。三峰は大木の根元に腰を降ろし、幹に身体をもたせかけた。ここまでか・・私には無理か。三峰は目を閉じた。「三峰さま!」藪を掻き分けて駆け寄って来た者がいた。小柄な身体が三峰の傍らに跪いた。三峰はこれを予感していた自分を感じた。喜びと哀しみが同時にやって来た。逢わずに別れようと思った顔を見られた喜びと、やはり追って来てしまったかという哀しみと。「間人・・」「お一人では行かせません」「馬鹿・・」「僕は、村も佐原の家も、そんなもの・・三峰様の事だけが、それだけが・・」「お前は大切な身体だ。生きねば・・」「嫌です、ただ生きるだけなら。心が死んでしまっても生きろと言うのですか?」「お前に嫌われるべきだったな。お前が私がいなくても生きていけるように・・」「無理です。こんなにお慕いしているのに・・」間人は三峰にすがりついた。このぬくもりを失ってしまうなんて・・間人は必死で三峰の身体を抱きしめた。三峰はその髪を優しく撫でた。「私を慕ってくれるなら、頼む、私の分も生きてくれ。村の未来を、鵲の成長を、幸彦様の事を・・私の代わりに見てくれ」「そんな・・」「私はもう動けない。私の願いを聞いてくれ、私の”特別な子”よ」「誠志郎さま・・」三峰は微笑んだ。「その名を覚えていてくれ・・お前にしか教えていないのだから」「ああ、誠志郎さま・・」何度も何度もかんで含めるように言い聞かせて説得した。幸彦の復活の為にはどうしても間人を生かしておかねばならない。自分と一緒にここで朽ち果てさせてはならないのだ。長としての三峰は間人を帰したかった。だが一人の人間としての三峰の心はこの子と離れがたかった。それでも三峰はこの子に生きる道を選ばせたかった。とうとう、泣きながら間人は去って行った。三峰は一人、空を見上げた。(竹生様、私は貴方のように試練を越える事は出来そうにありません)三峰は心の中で兄に頭を下げた。共に生きようと誓ったのに・・竹生を思い浮かべ、三峰の中にあの誇り高い兄の勇気が注がれたように思えた。少しだけならまだ動けるか。這いずるようにして、三峰は山道を登り始めた。まだ少し、あと少し・・黒い影がその姿を見下ろしていた。間人は山を降りかけたが、やはり三峰の事が気になり、今降りて来た道を戻った。(僕には、やはり三峰様しかいない。あの方を失っては生きていられない)だが先程の場所に三峰の姿はなかった。あたりを見回しても人の気配はない。「三峰様!!どこですか!!三峰様!!!!」狂ったように叫びながら間人は山の中を走った。(あのお身体では遠くへは行けないはずなのに)他の生き物の気配すら、どこにも感じられなかった。この山の禁忌の意味は何だろうとふと考えた。だがそれもすぐに吹き飛んだ。三峰の面影だけが間人の心にあふれていた。泣きながら、間人は山を彷徨い続けた。涙と汚れで顔が縞になった。手足は枝や岩で掻き傷だらけになった。誰もが生きろという。でも誰も自分を見てくれない。いつもそうだ、藤堂の息子、当主の血筋・・そんなものではなく、僕自身を誰か・・三峰様だけが、僕を見てくれた。僕そのものをあの方は受け入れてくれた。三峰様と僕は、何もかも脱ぎ捨てて裸の魂のままに触れ合う事が出来た。幸彦様と竹生様がそうであったように。きっと今もそうであるように。幸彦様のお世話をするうちに、僕にはそれが分かったのだ。そして僕も三峰様にそれを感じたのだ。だから、離れてはいけない・・「三峰さまぁーーー!!」疲労で走れなくなっても、間人はなおも進もうとした。足が滑った。崖を転がり落ちた。衝撃と激痛の中で間人は意識を失った。(誠志郎・・さま・・)掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/21
営みは日々の賑わい~真に強き者和樹は座敷に敷かれた布団に寝かされた。(無理をさせ過ぎたか・・)高遠が側に来た。「私が付き添っております。神内様もお休み下さい」「ああ、すまんが飯だけ食わせてもらう」「はい、お部屋をご用意させます」「いや、厨(くりや)で何かもらう」高遠は驚いた。「それではあまりにも・・」神内は笑って立ち上がった。「その方が俺は楽でいいんだ。広い部屋でぽつんと座り、給仕が控えているなど、窮屈で食べた気がしない」高遠も口元に笑みを浮かべた。「わかりました。ごゆっくりどうぞ」厨の者達は仰天した。『火消し』がいきなりやって来て「何か食わせてくれ」と言うのだ。村では最上級の賓客がである。「どんぶり飯でいい。それと漬物でもあれば」ここのまとめ役は”ゆりかご”の間宮(まみや)だった。この初老の女は度胸も気風もある女丈夫だったから、すぐに気を取り直し、言われた通りに飯を盛り、手早く温め直した味噌汁と煮物等を添えて並べた。自分達の領域にこのような偉い人が来る事はめったにない。女達は好奇心の塊だし、遠来の客は珍しい。何より神内はなかなかの好男子だ。盾には美しい男が多かったが、神内は彼等とはまったく別の魅力を女達に感じさせた。飯を食いながら、神内はそんな女達の話相手もしてやっていた。最初は遠巻きにしていた女達も、気さくな神内にたちまちに慣れ、周囲に集まって来た。「三峰は良い奴だし、皆も心配だろうな」神内は言った。話題を与えられれば、女達は止まらない。「そうなんですよ、早く良くなって欲しいと皆思ってますよ」「間人という者が、ずっと看病しているようだな」よくぞ聞いてくれたとばかりに、間宮はしゃべり始めた。「間人は幸彦様の従兄弟と最近明かされたのですよ。本当なら間人様とお呼びするべきでしょうが、以前のままに扱えというお達しなんです」「誰のだ?」「後見人の臥雲長老ですよ。偉い人の考えなど私らにはわかりません」「素直そうな子だな」「ええ、小さい時から知ってます。昔から明るい良い子でね」他の女達が割り込んだ。「あの子は訳ありで可愛そうな子ですがね、厨の者は皆好いていますよ」「家族をなくした後は、三峰様を兄の様に慕っていましたから、今は辛いでしょうねえ」間宮が聞いた。「お替りはいかがですか?神内様」神内は丼を差し出した。「ああ、もらおう」話に夢中のようでもしっかり気配りはしているようだ。ほうじ茶のたっぷり入った湯のみも添えられて来た。漬物も補充された。「この沢庵、美味いな。味噌汁もいい」神内がそういうと女達は大喜びだった。宿舎にいる盾の家の者は、若者の気取りもあって、食事には無頓着を装うのは粋だと思うらしく、何も言わないのだ。量だけ充分あれば良いのだ。皆が怖いと言う白露だけが間宮に時々料理の事を聞きに来る。その為、白露の評価は男と女ではかなり違うらしい。寒露も食材などを運んでいると気軽に手伝ってくれるので、受けが良い。そんな事も分かった。女達のお陰で神内はたちまちの内に佐原の村の情報通になれたような気がして、心の中で苦笑しながら面白がった。和樹の為に握り飯を頼み、後で届けてもらう事にした。部屋に戻ると和樹は目を覚ましていた。高遠は立ち上がり、神内に頭を下げ出て行こうとした。「高遠、お前の恋人は村一番の美人らしいな」高遠は頬を染めてうろたえた。「誰がそのような事を・・」神内は片目をつぶってみせた。「『火消し』に隠し事は出来んよ」高遠は慌てたように出て行った。神内は和樹の布団の側に座り込んだ。そして優しい声で言った。「気分はどうだ」「はい、良くなりました」「無理をさせて、すまんな」「僕がいい気になって長くい過ぎたんです・・幸彦さんが止めてくれたんです、たぶん」「幸彦が?」「はい、僕を戻してくれたんだと思います」「そうか」和樹は何か考えているような顔をした。「あの人・・」「誰だ?」「三峰さん、もう余り長くは・・」「ああ」「間人さんとあの人は、深い絆で結ばれているみたいで・・僕はそれに巻き込まれて」「心の領域に?」和樹はうなずいた。「きっとうまく切り替えが出来てなくて、踏み込んでしまったようです」「それで、何を感じたのだ?」和樹は神内を見てはっきり言った。「三峰さんが死んだら、間人さんは死ぬつもりです」高遠を呼び、寒露を探してもらった。寒露がやって来た。「少し話をして来る。高遠、すまないが和樹を頼む」神内は寒露をうながして部屋を出た。「どこか静かに話が出来る所はないか」「俺の部屋へ行きましょう」二人は渡り廊下を抜けて母屋の裏手へ出た。その向こうに盾の宿舎があった。寒露の私室はその片隅にあった。寒露は神内を先に入れると鍵をかけた。神内に椅子を勧めた。「珈琲はいかがですか?」「ああ、もらおう。ここで珈琲が飲めるとはな」「白露が凝り性ですからね。良い豆がありますよ」良い香りがして来た。神内は話を始めた。「今の三峰には負担をかけたくないのだ。お前に聞いて欲しい」「どんな事でしょうか」和樹と幸彦のやりとりを聞かせてやった。まだ竹生と三峰以外は知らない事だったから、寒露はその吉報を喜んだ。「幸彦様が元にお戻りになる。それはうれしいですね」「ああ・・だが、本題はこれからだ」病室での事を話した。間人が幸彦の力を取戻す鍵になるらしいと。神内は淹れたての珈琲を飲んだ。「美味いな。ここは飯も美味いが珈琲も美味い。ああ、珈琲はいつも飲むのも美味いが」サギリが覗いているかもしれないと思い、神内は付け加えた。そして顔を引き締めて、寒露を見た。「間人を死なせないで欲しい」「どういう事ですか」「和樹が感じたのだ。三峰が死んだら間人は死ぬだろうと」寒露は軽く唇を咬んだ。そしてやや経ってから言った。「どうして白露ではなく、俺を呼んだのですか?」「お前の方が、間人に心を砕いてくれると思ったからだ」寒露は苦笑いをした。「『火消し』の情報網は凄いな。今度から厨の連中に口止めしておかないと」「それは無理だろうな」神内は笑い、すぐに真顔になった。「間人の動きに気をつけてくれ。幸彦の為にも」「わかりました。俺の、俺達の”特別な子”を死なせません」部屋へ戻ると高遠一人がいた。「和樹はどうした」「白露様と間宮が、厨に連れていってしまいました」食事を運んで来た間宮と挨拶に訪れた白露と、和樹の好物の話をしているうちにどうやら菓子作りの話になり「それでは」とばかりに厨で作製する事になったらしい。厨へ行くと、和樹は粉だらけになって楽しそうに生地を練っていた。「あ、神内さん」和樹はすっかり元気になっており、笑顔で神内に呼びかけた。「白露さんにパウンドケーキをおそわっているんです」白露は神内にエプロン姿を見られて、さすがにきまり悪そうな顔をした。「マサトさんが起きたら、僕の作ったのを食べてもらいたくて」何のてらいもなくそういう和樹に、神内は何とも言えない気持ちになった。マサトが目覚めるのは何時の事か・・マサトの名を聞いて、厨の一同は神妙な面持ちになった。和樹はそれに気づかず、楽しそうに粉を練っていた。「うまく焼けたら、三峰さんにも持って行きたいな」傍らの長身の白露を見上げて、和樹は言った。「ねえ、僕のが失敗したら、白露さんのを食べてもらえばいいですよね」無邪気に語りかける和樹に、白露はいつもの無表情の仮面をはずして、笑顔を見せた。「ええ、そうしましょう」今日の厨は珍客ばかりだった。『火消し』がどんぶり飯をねだりに訪れ、次期の長と不思議な力を持つ少年がケーキ作りにやって来た。しばらくの間はこの話題で厨は賑やかだろう。白露がきまり悪がっても、白露のケーキの出来栄えは数日のうちに村中に広まるに違いないと、神内は思った。サギリの元に戻ったのは夜も遅くなってからだった。「カナが、随分とおかんむりよ」サギリが意味ありげな笑顔で言った。わざと大げさな笑顔を作って、神内の不安を煽ろうとしている。神内は首をすくめた。和樹はそんな事よりも初めての旅行の興奮で一杯だった。「お母さん、お土産だよ、僕の作ったケーキ・・」はしゃぎながら駆けて行く後姿を見ながら、父親の気持ちとはこういうものかも知れないと、少しだけ神内は思った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/19
残された太陽~出会う者奥座敷で竹生が神内と和樹を迎えた。和樹は竹生を見て、まずは心を奪われた。月の光を集めて作り出したような美貌となびく白い髪の村の守護者。動いてもそこに現実にいるとは思えない、遥かに人間離れした者。事実、人ではないと神内には聞いていた。「遠い所をありがとうございます」その者は言った。「和樹が幸彦に会いたいと言ったのだ」神内が言った。和樹を見て竹生は微笑んだ。和樹は竹生から目が離せないでいた。この強烈に心惹かれる想いはなんだろう。それは自分の奥深くから湧き上がる想いだった。「和樹様、幸彦様はこちらです」その声で和樹は我に返った。幸彦は一段と高く作られた褥で眠っていた。「この頃再び、幸彦様は眠る時間が長くなっておいでです」竹生は愛おしさを含んだまなざしで幸彦を見ていた。和樹は幸彦の寝顔にマサトの面影を見た。和樹はマサトを懐かしく感じた。「和樹、大丈夫か?」奥座敷へ入ってから妙に黙り込んでいる和樹に、神内が言った。ここは神内でも気圧される様な雰囲気に満ちている。長きに渡り積み重ねられた佐原の想いのこもる場所なのだ。だがそれが和樹には好都合だった。幸彦の夢の感触がここの雰囲気に似ていて、入り込みやすい。「はい、大丈夫です。行けそうです」和樹が答えた。竹生が和樹に近寄ると、その腕に和樹を軽々と抱き上げた。白い髪がカーテンのように和樹の視界を流れ、覆い隠した。幽かに青く甘い山百合のような香りに包まれた。驚く和樹を竹生は幸彦の隣に横たえた。「和樹様、幸彦様を・・」そして幸彦の片手を褥から取り出すと、和樹の手を取り、重ねた。その竹生の手は白く誰よりも繊細だった。和樹はここへ来てから綺麗な人ばかりに会っていると思った。出迎えた寒露も奥座敷の前にいた火高も、それぞれに異なる美を持っていた。傍らの幸彦も優しい整った横顔を見せている。(俺の息子と仲良くしてくれよ・・)そう言ったマサトの声を思い出した。和樹はちらりと神内の方を見た。神内がうなずいた。和樹は目を閉じ、幸彦の手を握りなおした。『奴等』の領域へ降りるのとは異なる緊張があった。誰かの心の奥の領域へ入り込むのは初めての事であった。流れて行く思い出や記憶が、和樹に無断で秘密を覗いてしまった後ろめたさを感じさせた。寂しさが渦巻いていた。哀しみが和樹を取り巻く。和樹は泣かないようにこらえた。こんなにも孤独な時を長く過ごしていた人なのかと、和樹は思った。優しげな女性の面影があった。とても大事に想う感触が伝わって来た。幸彦の母であろうか。マサトの顔がその面影に重なった。二人は同じ夢を抱いていた。暖かな薄紅色の夢だった。奥へ行くに連れて暗くなった。灰色の靄のようにまとわりつく哀しみも深くなった。それは和樹の中にも染み込んで来た。胸が痛い。目頭が熱くなり、和樹は知らず知らず涙を流していた。和樹も又、孤独な心を、幸彦と同じくマサトへの思慕を抱えていたから。共感する思いが幸彦の心を開いてゆくようだった。和樹は導かれるように進んで行った。暗い行く手に白くけぶる影が浮かんだ。竹生だった。侵入者を阻むようにその影は立っていた。幸彦の中心に近いのだと和樹は感じた。幸彦の竹生に対する信頼と情の深さが見て取れた。心の世界でも竹生は幸彦の守護者なのだ。そして誰よりも側に寄り添う者なのだ。ここまで受け入れられる誰かを持つ事を、和樹は羨ましいと思った。和樹は今までそのような人物に巡り合った事はなかった。肉親の情とも神内やサギリの庇護とも異なる、これ程の想いを分かち合える者。和樹が近寄ってもその影は微笑むだけだった。和樹が敵でないと理解しているらしい。その先に闇があり、どこからか一条の光が降りていた。光の方へ進んだ。光の落ちる丸い場所に、幸彦のかたちをした心があった。その身体には無数の闇色の蔓がからみついている。目を閉じている。だがその顔には安らかな色があり、悪い影はなかった。その傍らまで進んだ。そしてそっと呼んでみた。「幸彦さん・・」幸彦は目を開けた。そして和樹を見た。その瞳は青く澄み、怖いほどに深かった。だが嫌な恐怖ではなかった。真冬の湖を真上から覗いたような、そんな気がした。「幸彦さん・・」もう一度呼んでみた。その瞳に穏やかな光があふれるように見えた。凍りついた顔が溶けるように微笑を浮かべた。するすると蔦が後退した。幸彦は半身を起こした。「やあ、はじめまして」幸彦は再び微笑んだ。「僕は和樹と言います」「知っているよ。お父さんの夢の中で見たから」「マサトさんの?」「ああ、僕は夢の世界は今でも行き来出来るのだ。他には何も出来ないけれど」「幸彦さん、マサトさんには時間がありません」幸彦の笑顔が消えた。「そうだね」「元気な貴方と会わせてあげたいんです」幸彦は俯いた。「僕も会いたい」「外へは出られないのですか?」「今は・・もう少し傷が癒えるのには時間がかかりそうだ」「じゃあ、もう少ししたら、僕らは現実の世界で会えますか?」「ああ、その時あらためて君と友達になりたい。僕のお父さんに本当に良くしてくれてありがとう」和樹も笑顔になった。「いいえ、僕は父がいないので。マサトさんが色々と教えてくれました」「お父さんはカヅキさん、君のお父さんの事をとても大事に思っていたから。神内さんもそうだけれど」「神内さんは、貴方の事もずっと心配しています」幸彦は光の射して来る方を見上げた。「必ず戻るよ、みんなが待っていてくれるなら」暖かい光が更に増し、降り注いで来た。沢山の人々の影が幸彦を取り巻いた。和樹の見覚えのある人々の影もあった。その中に一際明るく輝く姿があった。金色の光に包まれていた。先程見た幸彦の母らしき人に良く似ていた。「この子が僕の夢の力を取戻してくれる。どうかこの子を死なせないで。この子は硝子の様に脆くて儚いから・・」「それは誰なんですか?」幸彦の姿が不意に消えた。光の中に和樹だけが取り残された。「幸彦さん?」声だけが響いた。「戻ってみんなに伝えて。僕は必ず戻る・・」和樹の意識は闇に飲み込まれた。「和樹、目が覚めたか」神内の声がした。和樹は横向きに幸彦の隣で寝ていた。その手は幸彦の手を掴んでいた。「ああ・・」和樹は大きく息を吐いた。まだ身体に感覚が戻って来ない。ふわふわと頼りない。「もう夜が明けてしまった。あまりに戻って来ないから、心配したぞ」「そんなに・・時間が・・」和樹にはほんの数分に思えた間に、長い夜が過ぎてしまったのだった。「幸彦様は、いかがでしたか?」竹生が和樹を覗き込むようにして言った。その美しい顔が青褪めている。この人は今はここには本来はいられない時間なのだと、和樹は思い出した。おそらく全身を苛む苦痛と戦っているはずだ。それすら耐えようとする程、幸彦の事を思っているのだ。あの心の奥に立っていた影を和樹は思い浮かべた。「幸彦さんは、必ず戻るとみんなに伝えてくれと」竹生の顔に微笑が浮かんだ。和樹はうっとりとしてそれを見上げた。夢の続きを見ているような、この世には在りえないはずの美がそこにあった。「それは・・何と喜ばしい」起き上がろうとした和樹の身体を竹生は抱きしめた。幽かな良い香りが再び和樹を包み込んだ。「和樹様、ありがとうございます」そして竹生は和樹を抱き上げ、下へ降ろしてくれた。ふらついた和樹の身体を神内が支えた。「良くやったな、和樹」神内は言った。「この子を少し休ませよう。それから長の所へ行こう」病室は清潔で明るかった。寝台に横たわる人を見て、和樹は竹生を思い出した。それは枕に広がる白髪のせいだけではなく、顔立ちもあまりにも似ていたからだった。病にやつれてはいても、やはり美しい人だった。「神内様・・」その人は起き上がろうとした。神内が制した。「そのままでいい、三峰」「このような有様で、申し訳ありません」「いや、気にするな。これが和樹だ」和樹は頭を下げた。三峰は和樹を見て微笑んだ。「竹生が、兄が教えてくれました。幸彦様の事を、ありがとうございます」兄・・では、あの人の弟なのか。似ているはずだと和樹は思った。「おはようございます」明るい声がした。小柄な人影が走りこんで来た。「あ、すみません」神内と和樹に気がついて、その人物はぴょこりと頭を下げ、窓際に歩み寄った。「お天気が良いので、カーテンを開けますね」まだ朝の太陽が窓から射し込んだ。光を浴びてその小柄な姿がきらきらと金色に光って見えた。和樹はあっと声を上げた。「貴方だ、貴方だったんだ」いきなり叫んだ和樹に神内は言った。「和樹、どうした」「幸彦さんの言ってた人です。幸彦さんの夢の力を取戻してくれる人、この人を決して死なせてはならないって」「間人が・・ですか」三峰の白い顔が更に青褪めたように見えた。間人と呼ばれた者も目を見張り、和樹を見ていた。「硝子のように脆くて儚い人だから、死なせてはならないって・・」和樹は目の前が急に暗くなった。身体中から力が抜けていった。「死なせないで・・」そう言うと、和樹は気を失った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/18
あの空の向こうに~阻む者神内は高遠(たかとお)を呼び寄せた。高遠は和樹の警護の為に佐原から派遣された盾のまとめ役である。「和樹を連れて行くと、佐原に知らせてくれ」「はい」「長が病気だそうだな」「はい」「竹生がいれば、村に心配はあるまい」高遠は強い目で神内を見た。「お言葉ですが、我等は皆、三峰様をお慕いしております。あの方が病に伏しておられるのは、村で一番の心配事でございます」三峰はそれほどまでに村の者に慕われているのか。神内は思った。「すまん、不用意な事を言った」「いえ、私も余計な事を。失礼致しました」高遠は深く頭を下げ、出て行った。笠原に車を出させる事にした。この生臭坊主はこういう時は役に立つ。向こうも神内に恩を売っておきたいからだ。黒い外車がやって来た。「坊主とは儲かるものだな」神内は皮肉を言ってやった。「古本屋よりはな」笠原もすでに汗をかいている太った顔を拭いながら負けずに言い返した。神内と和樹が後部座席に乗り込んだ。助手席に高遠が座った。笠原は自分で運転をすると言って聞かなかった。何か面白い事がありそうだと思ったようだった。高速に乗った。高遠は笠原の話相手をしている。人当たりの柔らかい高遠は笠原のどんな話にも、心底から興味がありそうな顔をしてみせる。返す言葉にも頭の良さが感じられる。(良くもこれだけの人材がいるものだ)神内は思った。今まで出会った盾達も人並み以上の人物ばかりであった。あの時の間(はざま)の村は他と交わる事が無い為に、良い遺伝子が残されているのだろうか。「あと、どの位掛かるのですか?」和樹が聞いた。高遠が振り向いて答えた。「早ければ、1時間ですね」「早ければって、途中で渋滞でもあるの?」和樹は不思議に思った。周囲に車の姿はほとんど見当たらない。広がる田園風景とその向こうに山があるだけだ。視界に占める空の割合が圧倒的に大きくて、和樹は不安にかられた。街で育った彼には、空はいつでも見上げてようやく見える水色の切れ端でしかなかった。ここでは向こうまで空だ。「怖い・・」心のつぶやきが声になった。「どうした」神内が眉をひそめて和樹を見た。「空が、空が広すぎるんです」「和樹君は都会っ子だからな、田舎には慣れておらんのだろう」笠原の大きな声は、後部座席にも充分に届いた。「僕は旅行に行った事がないんです」「学校の旅行とかあったろ?」笠原が聞いた。「お母さんが行かせてくれなかったんです」「よっぽど君が大切だったとみえるな」笠原が笑った。和樹が誰であるか、余計な詮索はしない。それが神内とのつきあい方だと彼は心得ていた。不意に高遠が前方を指差した。「ここです」忽然と左に折れる道が現れたように、和樹には思えた。左折して直進した。和樹が後ろを振り返ると、そこにはどこまでも続く真っ直ぐな道があった。前も見ても同じだった。誰も不思議だと思っていないらしい、僕もどうやらそうだ。和樹はわずかの間に奇異な出来事に動じなくなってしまった自分が可笑しかった。弱虫で友達もいなかった自分だったのに。「楽しそうだな」そんな和樹の様子を見ながら、神内は言った。和樹の思い付きが本当に幸彦の正気を呼び戻す事が出来るのか、和樹も自信などないのだろう。(それでも望みがあるなら、やらせてみるさ)マサトはこのまま数年は起きないだろう。少しでも手持ちのカードを増やしたい気持ちが神内にはあった。まだ子供の和樹には無理はさせられない。いくら傷の治りが早くても、危険な事には変わりはない。高遠の指示で車は進んだ。民家が少しずつ増えて来た。やがて車は大きな門の前に止まった。数名の男達が居並び、頭を下げていた。「高遠様、お帰りなさいませ」「ああ」高遠はかしずかれるのに慣れている様に見えた。「神内様、ようこそ。そちらが和樹様ですね、長旅お疲れでしょう」和樹はどうして良いのかわからず、ぴょこんと頭だけ下げた。笠原は鷹揚に振舞おうとしているようだった。元々傍若無人な男だけに、特に苦労はしているように見えなかったが。「和樹を少し休ませてやってくれ」「はい」一同は奥へ進んだ。和樹はこんな古い大きな家を見た事がなかった。中心の母屋の他に敷地の中に幾つもの家が並んでいた。形も色々ある。それぞれに違う用途の家なのだろう。これだけ人が大勢いるのに、何故か活気よりも静寂が支配していた。前を行く案内の男に神内は言った。「用事がすんだら、長を見舞ってやりたいのだが」男はうれしそうに神内を見た。「神内様がおいでなのにお迎えのご挨拶にも出られない事を、長は苦にしておられました。ぜひ、長にお会いになって下さい」高遠は傍らの村の者と小声で言葉を交わしていた。「私はここで失礼致します」高遠は神内に頭を下げ、急ぎ足でどこかへ行ってしまった。和樹は突然、胸に挿されるような痛みを感じてよろめいた。その身体を神内が抱きとめた。「大丈夫か?」「ああ、はい・・」「どこかお加減が?」先導の男が心配そうな顔をした。「いや、疲れただけだろう」神内は和樹を抱き上げた。「神内さん・・」「ああ、出られるか?」神内は奇妙な事を聞いた。「大丈夫です」和樹は答えた。神内は和樹を抱えたまま、今来た方向へ向かって走り出した。門から走り出ると、あたりの景色は一変した。灰色の靄に包まれた様な世界。「余程、俺達を行かせたくないらしいな」「みたいですね」神内は和樹の身体を降ろした。「さすがに『火消し』を騙すのは無理でしたね」靄の中に金色の髪が光った。「久しぶりだな、アナトール」金髪の異人は氷のように冷たく微笑んだ。「よく出来た世界だと思っていたのですが」「長が俺を出迎える事などない。俺が会いに行くんだ」アナトールは再び笑顔を見せた。「なるほど、それはこちらのミスですね」「それと、高遠が俺と並んで歩くわけはない」「古本屋より探偵業に鞍替えされた方がよろしいのでは?」神内の右手に青い剣が握られていた。「そして、無駄話をしている暇もない」異人に向かい斜めに剣を振り下ろすと、異人の姿は消え、切り裂かれた空間の裂け目から光が差し込んだ。「行きます」和樹は神内の肘を掴むと、裂け目に飛び込んだ。そこはどこにでもある田舎道だった。道の脇に黒い外車は止まっていた。中を覗くと二人がいた。意識を失っている。神内は助手席のドアを開け、高遠の身体を掴み、活を入れた。高遠は気がついた。「ああ、神内様、申し訳ありません」「気にするな。空間を移動する瞬間を狙ってきたのだ」「罠に気がつかないとは迂闊でした」「和樹が空に感じた不安は、そのせいだったかもな」神内は和樹を振り返った。「お前も成長したな」ほめられて和樹はうれしそうに笑った。その顔がカヅキに似ていると思い、神内は胸に痛みを覚えた。この子は死なせてはならない。カヅキと同じにしてはならない・・「高遠、ここから歩いて行けるか?」何かを見定めるように、高遠は宙を見据えた。「おそらく」「では、行くか」神内は歩き出した。「笠原さんはどうします?」和樹が聞いた。「放っておけ。起きたら帰るだろう」運転席で大口を開けて寝ている笠原を見て、ちょっと気の毒だなと和樹は思い、神内の後を追った。「今度は大丈夫です」高遠は言った。「そのようだな」先程見た風景とそっくり同じだった。その先に見覚えのある大きな家があった。違うのは活気がある事だった。ここに暮らす人々の賑わいがある。寒露が出迎えた。「ようこそ。用向きは高遠から聞いております」「すまないが、和樹を休ませてやってくれないか」「はい、長旅でお疲れでしょう。それに夜半までお待ちになった方がよろしいかと」幸彦の守護者が目覚める時間の事を言っているのだ。「そうだな。後で長に会えるか?」「はい、お伝えしておきます」しばらく休めると分かり、和樹はほっとした。高遠の言い方だとすぐだと思ったのに、あれから三時間も歩き続けていたのだ。神内も高遠も涼しい顔をしていたが、和樹はへとへとだった。(僕も少し鍛えないと駄目かな)傍らの神内の厚い胸を見ながら、和樹は思った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/09
捧げよ熱き乱心~逝く者うららかな日和だった。歩くのには丁度良い。佐原の屋敷内から出るのは久しぶりだった。「三峰様、どちらに行かれるですか?」呼ばれて三峰は振り向いた。間人だった。「群青の家まで雪火(せっか)様に会いに行くのだ」「お一人で?」「皆、忙しくてな。お前こそお役目はどうした」「私は非番です」「では、着いて来るか」「はい、お供致します」板の間に正座していても三峰の背は真っ直ぐで、彼の誠実がその背中にも滲み出ているようだった。群青の長の雪火は三峰を好いていた。しかし老婆の物を見通す目は、この折り目正しい美丈夫の不幸をも見てしまった。(なにゆえに神は、このように優れてある者に痛ましき道を用意されるのかの・・)「先の戦いで破れた箇所は、今少しかかるぞ」「はい」雪火は後ろに控えてかしこまる間人にも感ずるものがあった。「あれが、隠された佐原の末か」「浅葱様の遺児で御座います」「隠された者、隠された力・・まったく秘密ばかり多いな」「これも『奴等』を欺く為」「そればかりではないな」雪火はじっと三峰を見た。「私はお前を子供の頃から知っておる。我慢強い子だった」「いえ、そんな事は。兄に比べて私は弱虫でした」「しなくても良い無理はするなよ」三峰は雪火と目を合わせ、それから深く頭を下げた。「疲れた。少し休んで行こう」帰り道、三峰は言った。間人は三峰の顔色が少し青いような気がした。風もなく暖かい。二人は柔らかい草の上に腰を降ろした。遠くまで広がる静けさの中に鳥の声が幽かに響く。三峰は何か思う事があるのか、黙り込んで遠くを見ている。間人は少し遠慮がちに、しかし思い切って三峰に話しかけた。「三峰様の本当のお名前は何とおっしゃるのですか?」「私のか?」「あ、すみません、むやみに教えてはいけないのですよね」間人はちょっと口を尖らせ、悪い事をした子供のように俯いた。盾の家の者は普段は呼名を使っている。本当の名前は家族や親しい者にしか明かさない。三峰は空を仰いだ。澄んだ色の空だった。つぶやくように三峰は言った。「私は誠志郎(せいしろう)という」間人は顔を上げ、うっとりと見上げるように三峰を見た。「誠志郎様ですか」三峰はとても照れたような顔をしていた。「古臭い名だろう」「いえ、三峰様らしくて素敵です。僕は春彦です。春夏秋冬の春です」「春彦か、それもお前らしいな。お前は春のようだから」大切なものを見るまなざしで、三峰は間人を見ていた。「お前を見ていると、胸の内が暖かくなるような気がするのだ」間人を見ている三峰の目から、すうっと涙が流れた。「三峰様、どうされたのです?」間人は驚いた。「涙が・・」「ああ」三峰は指で頬を拭った。「さあ、なぜだろうな」三峰は微笑んだ。三峰は夜半に竹生に呼ばれた。奥座敷へ入ると間人が傍らに控えていた。「来い」竹生に従い、一同は裏手の建物の方へ行った。「あれを見よ」屋根の上に何かが見えた。槍のようなものだった。「あの汚れた気配に、誰も気づかないのか?」先の戦いでの敵の置き土産であろうか。三峰は恐縮した。結界をなくしてから、そのような気配を感ずる者達は、あまりここにはいなかった。「申し訳ございません。その手の事を感ずる見回りの者ももっと配置致します」「これは寒露の役目だろう。言っておけ」「はい」「間人、あれを取って来い。お前なら穢されまい」「はい」丁度屋根から伝う綱があった。間人は身軽に登り、屋根を走った。それは黒い矢尻のついた物だった。清浄にされた布に包んで小脇に抱えた。降りようと綱にぶら下がった途端、綱が切れた。間人の身体が宙に舞った。(ああ!)その身体が抱きしめられた。地面に激突したのは三峰の身体だった。間人はその腕の中で無傷だった。「誠志郎さま!」思わず間人は叫んでしまった。竹生の眉が吊りあがった。「何故その名を知っている!」(あっ!)間人はその場にひざまずきながら、三峰の本当の名を口走った事を後悔した。三峰は苦悶のうめきを上げながら半身を起こし、跪いた間人の肩をかばうように抱いた。「これを、お怒りに・・ならないで下さい・・」竹生の顔には何の表情もなかった。見上げた三峰の顔には張り詰めた想いがあった。「私がお前にこれをまかせると言ったのは、そういう意味ではないぞ」「いえ、貴方が幸彦様を守ると誓ったように、私もこの子を守ります。私達兄弟はその為にこの身を捧げたのですから」「それがお前の覚悟か」「はい」竹生はじっと三峰をみつめた。「お前の覚悟が現実にならぬように、私は願う。そして最善を尽くす」「私も出来る事はすべて・・当主様の・・村の為に」「そうだな・・我等は”盾”だ」「はい」竹生は身を翻した。「間人、三峰の怪我の手当てを」三峰の怪我は思ったより酷く安静が必要だと医師は言った。詳しい事はそれ以上言わなかった。この老医師は余計な事は元々口にしない者だった。知らせを受けてやって来た白露と寒露に付き添われて私室に戻ると、三峰は薬が効いてきたのか、眠りに落ちた。間人は眠る三峰を見ていた。どうして僕をかばったのだろう。僕の方こそ長の為に身を投げ出さねばならないのに。「どうして・・」白露と寒露は間人を見た。「三峰様はその身を挺してお前を守った。だから俺達もそうする。俺達はお前を守ると言ったろ?」白露は静かに言った。「わからないか?幸彦様が正気にお戻りにならない時は、残された佐原の血はお前しかいない。竹生様と三峰様はそれを考えておられるのだ」「僕は・・幸彦様のような力はありません」「お前にはなくても、お前の子にはあるかもしれん」寒露の言葉に、間人は顔をこわばらせた。「ああ、そんな」寒露はふっと笑った。寒露は間人の頭に片手を伸ばし髪をくしゃくしゃにした。「お前は俺達みんなの弟なのだ」「三峰様のお気持ちを無駄にするな」間人が出て行った後、白露は小声で言った。「三峰様がお怪我をなさるなんて。何故、風の力を使わなかったのだろう」寒露が何かを打ち消すように、首をゆっくりと左右に振った。「寒露、お前、僕が何を思ったか解るな」「ああ、白露、俺は怖い」「僕も怖い」数ヶ月は大きな出来事はなかった。神内達からも何も言って来ず、幸彦の様子にも変化はなかった。村の整備は進み、盾は寒露を中心に再構成が進んでいた。三峰は夜遅くまで仕事をしていた。そして夜の主がやって来た。「三峰・・」「はい」その膝の上に薬の包みがぱらぱらと落とされた。「貴方には隠し事は出来ませんでしたね」竹生は黙っていた。「あと半年と・・」「三峰・・」「村の事は白露と寒露がおります。保名と鵲には私の持てるものはすべて譲り残して行きます」三峰は村の長としての役割を白露に、盾の長としては寒露を後継に考えていた。白露には高遠(たかとお)が、寒露には篠牟(しのむ)が良き部下として着いていた。高遠は白露達と同じ霧の家の者で、頭が良く物事もわきまえていた。篠牟は武術に優れ、年少の盾の家の者達の指導もしていた。「心残りだろう」「死ぬのは怖い事です。ましてや私は凡人ですから、心残りばかりが・・これが貴方の弟の正体です。笑ってやって下さい」「何故、間人の事を言わぬのだ」三峰は膝の上の薬の包みを見た。「竹生様・・私の亡き後、間人を貴方にお願いしたいと思っても、貴方には幸彦様がおいでになる」「私が山を登った時は後に何の憂いもなかった。お前がいてくれたからだ。お前にすまないと思う。こうなるとわかっていたら」「いいのです、誰も未来の事などわかりません。誰も・・」竹生は闇の中へ去って行った。三峰の心の隅で日増しに強くなる思いがあった。私も山へ登るのだ。登れる体力のあるうちに、すべての区切りをつけておかねば。膝の上から拾い上げた苦い薬を飲み下しながら、三峰は思った。(急がねば・・)掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/04
片側の微笑~託す者加奈子と和樹は『火消し』の元に戻った。二人はサギリの元で生活を始めた。和樹は自分の力と役割を覚え、戦いの中に出て行った。それが本当に「やりたい事」かどうかはまだ和樹にもわからないが、新しい世界は和樹を夢中にさせた。加奈子はそれを見守りながら、複雑な思いを抱いて日々を過ごしていた。加奈子はサギリの店の手伝いをするようになった。和樹は加奈子の希望で学校へは今まで通り通っている。塾にも。マサトは数人の”盾”を呼び寄せ、行き帰りの護衛に着けていた。和樹はその姿を見た事はないが、マサトが言うのだから守られているのだろうと思っていた。学校は変わらない。戦いの事などあまりにも非現実過ぎて、学校にいる時はほとんど忘れている。それでも”別の顔”を持った事が和樹に良い意味で自信を持たせ、それが和樹の態度に現れた。以前より学校も苦にならなくなった。友達も増えた。それからしばらくして佐原の村で大きな戦いがあり、『奴等』を倒す為に奥へ降りたマサトが倒れた。幸彦の来訪の後、マサトが深い眠りについてから、和樹は寂しさを感じていた。今ではマサトが外観通りの人間ではない事を理解している。しかし二人でいる時は同世代の友達のように思っていたのだ。マサトの気取らない性格が和樹には好ましかった。彼は長く生きた分多くを知っており、その話を聞くのが楽しかった。そして自分の生い立ちや力の使い方や役目について、彼から教わった事が沢山あった。母親の加奈子は父親のカヅキについては語ろうとしない。思い出すのが哀しいからだろうと、和樹はあえて聞こうとはしなかった。マサトの語る父は優しくて思いやりがある人物だった。マサトは和樹の中に父親のカヅキの魂があると言っていた。マサトとカヅキは共鳴し、より安定した力になる。それを和樹にも感じると。幸彦の事についてもマサトは教えてくれた。一族に伝わる夢を操る力、それを守る村の事、哀しみから幸彦が心を閉ざしてしまった事も。マサトが言った。「俺の息子が元気になったら、お前も仲良くしてやってくれよ」そういう時のマサトは大人の顔をするけれど、寂しそうだった。宿題をやりながら、思いついた事があった。宿題が終わると神内を探した。彼はいつもの部屋にいた。ソファに寝ながら外国語の本を読んでいた。古い皮の装丁がしてある。「神内さん、お願いがあるんです」「何だ」「佐原の村に行って幸彦さんに会いたいんです」「あそこは、普通の人間には行かれない」「だから、連れて行って欲しいんです」神内は起き上がって、本をテーブルに置いた。「何故、幸彦に会いたいのだ」「戦いの中で『奴等』の領域を知るうちに、それが夢の領域と似ているのに気がついたんです。幸彦さんの力の領域です。僕なら幸彦さんの夢をたどって心を呼び戻せるかもしれない」「マサトに言われたのか?」「いえ、でもマサトさんとお父さんが共鳴するのなら、幸彦さんと僕にも通じるものがあるかも知れない」神内は考え込んだ。「お前を連れ出すと、カナがうるさい」「お母さんがどう言っても、僕は行きたいです」「どうした、えらく張り切っているな」神内はからかうような口調で言った。だが和樹は真剣な面持ちで答えた。「マサトさんに時間があるうちに、元気な幸彦さんと会わせてあげたいんです」「そういう事か」神内も表情を引き締めた。マサトは幸彦の事がずっと心にあった。和樹と話している時、息子と話しているように思う事もあったのだろう。敏感な和樹はそれを感じていたのかもしれない。「しばらくは大きな物は来ないとサギリさんも言ってました」「そうだな、考えておこう」マサトの所から戻ると、幸彦は昼間は起きているようになった。やはり自分から何かをする事はない。ほとんど言葉も口にしない。あまり動く事もしない。昼の間、竹生は間人に幸彦の身の回りの世話をさせる事にした。どういうわけか竹生以外に間人には反応を見せるのだ。子供が甘えるようなそぶりすら見せる。小柄な間人が幸彦の世話を焼いているのは、傍から見ると微笑ましいものがあった。臥雲長老が奥座敷に様子を見に来た。何故か幸彦は間人の首に腕を回し、そばから離れなかった。「幸彦様、長老の前です、大人しくして下さい」間人の困った顔を見て、臥雲長老は笑った。「幸彦様とお前は、こうしてみると良く似ているな」「そうですか?ああ、幸彦様、駄目です」間人は幸彦の手を解こうと、悪戦苦闘していた。「お前はますます浅葱様に似て来た。つまりさゆら子様に似ているのだ。幸彦様がお前に甘えるのもそのせいかもしれん」「僕が母に?さゆら子様に?」「古い者はさゆら子様を覚えている。お前が当主の血筋と言われても誰も疑わなかった。さゆら子様のお優しい顔立ちに、その目も良く似ている」僕は母の顔を知らない。幸彦様は幼い時に別れたとはいえ、お母様を覚えておられるのだろう。それにしてもこんなにくっつかれても困る。今日は特に酷い。「いつも、ここまでではないのですが」「うむ、何か落ち着かない事がおありなのだろうか」石牢では、女達が慌ただしい様子をしていた。保名が産気づいたのだ。額に汗をして保名は陣痛に耐えていた。医者が呼ばれた。三峰にも使いが出された。その身は罪人とはいえ、長の子が生まれるのだ。霧の家の跡取りである白露は、三峰の事を思い、一族の薬師も待機させた。霧の家は特殊な薬や治療法を伝える家でもあるのだ。夜半になり、仕事が一段落したのを機に、三峰は石牢に向かった。ぐずぐずと躊躇していたのを寒露に説得されたのだ。罪人である保名に自分の子が出来るのを三峰は重い気持ちでいた。しかし保名の身と腹の子が心配である事には変わりない。寒露はそんな三峰を慮り、後を自分にまかせるように言い、無理矢理に執務室を追い出したのだった。三峰の訪れを待っていたかのように、保名は男の子を産んだ。夜が更けても幸彦は床につかなかった。こんな事は珍しいと思いながら、間人はそばを離れるわけにもいかずにいた。不意に幸彦が立ち上がった。奥座敷を出て、歩いて行く。「どちらへ行かれるのです!」間人は慌てて追って行った。幸彦はどんどんと歩いて行く。石牢の方へ向かっている。「幸彦さま、幸彦さま、そちらはいけません!!」門番があっけに取られている横をすりぬけ、幸彦はすたすたと石牢の奥へ進んでいく。「幸彦さま!」間人の声が石牢に響いた。三峰は驚いた。いきなりの当主の来訪に一同は慌てた。幸彦はいつもの夢見るような顔をしていた。そして保名のそばに行くと、抱かれている赤ん坊に手を伸ばし、自分の胸に抱き上げた。「鵲・・かささぎ・・・」赤ん坊より無垢な笑顔で幸彦はそう言いながら、その柔らかい頬に自分の頬を寄せた。「かささぎ・・」いつのまに現れたのか、竹生が三峰の傍らで言った。「幸彦様が祝福されている。この子の名はかささぎ」「幸彦様が・・」幸彦様の心を傷つけた我らを許して下さるのか、この子に祝福を与えて下さるのか・・三峰は目頭が熱くなった。「鵲は橋をかける者、すべての記憶を宿す月の異名。この子に村の未来を託されたのだ」竹生はそう言って、三峰の肩を祝福するように抱いた。「ありがとうございます、幸彦様」保名は床に手をついて、深々と頭を下げた。「三峰、保名、この子を大切にせよ」竹生の言葉に二人はうなずいた。間人はその場に跪き、三峰に向かい頭を下げた。「こんなになられても、幸彦様は皆の心配をして下さっているのだ」竹生は幸彦を見ながら言った。そこにいる者は皆涙した。(けれども幸彦様が元に戻られるまでは、我等の罪が本当に許される事はないのだ)三峰はあらためて心に己の罪を刻みなおした。(その日が来るまで、村を守る為にこの身を尽くすのが私の償い・・)石牢での出来事は、すぐに知れ渡った。保名の家族達も肩身の狭い思いから少し解放された。鵲は三峰の嫡子として盾の家の三峰の生家”風の家”に受け入れられた。臥雲長老は曾孫と跡取りの誕生を喜んだ。罪と喜びと・・幸福と不幸は人生の両側でせめぎあっているかのようだった。”壁”をはさんで『火消し』と『奴等』が対峙しているように。それでも今は一同は幸福に微笑んでいた。だが風の家にはすでに別の風も吹き始めていた。三峰はそれをまだ誰にも言わなかった。「行くなら今しかないわね、なるべく早く」サギリは言った。「和樹に危険はないか?」「あの子がやるというのなら、やらせてみるしかないわね」「カナには何と言う」「『火消し』の意志と」「ああ、そうだな」「気が進まない?」「まあな」「マサトなら躊躇わないわね」「あいつの非情は俺の比じゃない。それが必要な役目であったからな」「その分、傷ついてる、多くを失っている。心から笑えなくても、マサトはいつも笑顔でいようとしたわ」「ああ、だからこそ、幸彦を」「そうね」時が過ぎていく。その果てにある何かを探そうとするかのように、サギリは遠い目をした。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/02/02
金糸雀は夜に啼く~見出されし者久須美和樹(くすみかずき)は、アパートの三階までエレベータに乗らずに階段を駆け上がった。上の階で止まっているエレベータが降りて来るのを待つよりその方が早いのだ。ドアの並ぶ反対側は下半分が鉄柵になっている。夕暮れの街が和樹の横に流れて行く。片側の壁に和樹の影が長く映る。どこからかカレーの匂いがする。ひとつのドアの前で立ち止まった和樹は、鍵を開けて鉄の扉を思い切り引いて開けた。誰もいない部屋は暗い。母親は夜まで帰って来ない。彼には父親がいない。和樹が中学生になってから母親は帰りが遅い時が多くなった。教育費など色々かかるから仕事を増やしたらしい。塾なんて行かなくていいと和樹は思うけれど、母親は行きなさいと言う。学校の成績はそんなに悪くないけれど、和樹は何をして良いのかわからない。やりたい事がないのだ。入ってすぐの左側に和樹の部屋がある。扉を開けてカバンを放り込むと、和樹はそのまま突き当たりの部屋に行った。キッチンと六畳程のダイニングになっている。入ってすぐ横にキッチンとテーブル、一番奥にささやかなベランダに出られる窓、その横にテレビが一台、右側の壁に幾らかの棚。左側に母親の部屋の扉があった。テーブルの上におやつがある。今日はカステラが皿に乗っていた。それを抱え、冷蔵庫からジュースを出して、テレビの前に並べた。テレビとゲーム機の電源を入れた。カーレースのゲームが始まった。オンラインだから世界中からエントリーしている。アメリカ人がチャットをしながらダラダラ走っている。その横を和樹の車がすり抜けると「FUCK!!!」等の文字が画面に躍る。アメリカ人が悔しがっているのだ。彼等は面白くないとすぐにレースを途中でやめてしまう。どんどんリタイアしていくのが表示される。日本人は大抵最後まで走り通す。そういう所でも世界というものに関する勉強が出来るような気がする。ふとベランダ側の窓に吊り下げられた鳥籠が目に入った。小鳥が一羽、静かに止まり木にいた。物心つく前から家で飼われていたが、その小鳥が鳴いたのを和樹は聞いた事がなかった。歌を忘れた金糸雀(カナリア)なのだ。本当にカナリアかどうかもわからないが、母親の加奈子はそれがカナリアだと言っていた。ばたばたと音がした。ゲームの手を休め、和樹は鳥籠を見上げた。小鳥が暴れている。こんな事は初めてだった。「どうした?」カナリアが鳴いた。初めて聞く声は警笛のように部屋中に響いた。籠の中を狂ったように飛びながら、カナリアは鳴き続けた。和樹は立ち上がって鳥籠に近付こうとした。窓の外に何かが見えた。夜の闇に浮かぶ黒い影、笑う不気味な顔。背筋がぞっとした。(何・・)それを見た途端、和樹は身体が固まったように動けなくなった。それが手を伸ばして来る。動けない・・ガラスなど無い様に、手を伸ばして来る。「伏せろ!!」声と共に和樹は床に倒された。頭の上にガラスの破片が降って来た。和樹をかばうように大柄な男が覆い被さっていた。影は狂ったように部屋の中を飛び回った。割れたガラスの隙間から数人の黒い人影が入り込んだ。青い小柄な影が、和樹とその黒い影の間に立った。閃光が煌いた。貫かれた影が飛び散る。最初に現れた影が叫びを上げ、外へ飛び去った。「逃がしたか」和樹をかばっていた男が言った。右手に青い剣を持っている。それ以外は背広にネクタイのごく普通の大人に見える。「危ないなあ、無防備過ぎだよな」小柄な青い服の人物の方は和樹と同じ歳位か少し上にみえた。鳥篭に手をのばすとカナリアを捕まえた。「返してもらうよ」小鳥がその手に吸い込まれるように消えた。少年は振り向くと和樹に声をかけた。「平気か?」「今の何?君は誰?」玄関で物音がした。お母さんだと和樹は思った。久須美加奈子は部屋の惨状を見て目を見張った。「よう、カナ、久しぶりだな」青い服の少年が言った。僕と同じ年位のくせに、お母さんに友達みたいな口を聞く。こいつは誰なんだ。「『奴等』が、とうとう和樹を見つけた」背広の男が言った。落ち着いた低い声だった。「まだ、この子は何もしてないわ」「お母さん、何を言っているの?お母さんの知り合い?」和樹は母親に話しかけたが、答えはなかった。酷く深刻な顔をしている。「ここは危険なのだ、カナ。ここではお前達を守ってやれない」「もう、おしまいなのね」「ああ、残念だが。それに今は和樹の力が必要だ」力?僕の?和樹は思わず口を挟んだ。「僕の力って?」振り向いた母親の顔はとても怖かった。怒っているというより泣きそうな顔だった。青い服の少年が言った。「『奴等』を滅ぼす銀の身体と、深い場所へ行ける力さ。『火消し』と共に戦う力、お前の父親譲りの」「お父さん?」お母さんはお父さんの事を話してくれない。彼等は僕のお父さんを知っているのだろうか?「カヅキは俺達の仲間だった。俺は木波マサト、こっちは『火消し』の神内威」少年が言った。「まあ、いいや。後は落ち着いたらゆっくり説明する」神内と呼ばれた男は、説得するように話しかけた。「カナ、ここは危険なのだ。和樹が危ない。分かってくれ」「そうね、和樹の為に」マサトが勝手に台所の電話をかけていた。「あ、朱雀?俺。カナの所の窓を直してくれ、なるべく急いで。うん、頼むよ」電話を切るとマサトはにっこり笑った。「これで良し。さあ、行こうぜ、和樹」「どこへ?」「お前が安全な所までだ」加奈子はこの日が来るのを恐れていた。カヅキが死んだ日から今まで、すべてを忘れて平凡な暮らしをしていたはずだったのに。だが解っていた。和樹は銀色の身体を持っていた。和樹が生まれた時、加奈子の目にはそれがはっきりと見えた。それが運命だった。『奴等』に見つかれば殺されるだろう。窓の鳥篭のカナリアはマサトの一部だった。カヅキが加奈子と預言された自分の息子の為にマサトに頼んだものだった。『奴等』が来たら知らせる為の物だった。「この鳥が鳴くまで、好きにすればいい」そう言って神内は加奈子を送り出してくれた。母子のささやかな暮らしは今終わった。又戻らねばならないのか。和樹の身を案じる生活が始まるのか。「着替えだけでも用意させて」「そうだな」神内は頷いた。「和樹、学校の用意を持っていきなさい。ゲームは駄目よ」「えー」不満な声を上げながら、和樹は自分の部屋へ行った。何が始まるのかはわからないが、宿題はしなければならないようだと思うと、うんざりした。ふと見た鏡の中にいつものように自分の姿と重なる銀色の影が見えた。他の人には見えない銀の身体。お母さんも一言もこれについては言った事がない。僕も誰にも言った事がない。でもあのマサトという奴は知っていた。『奴等』って何だ?僕の父親って?「和樹、早くしなさい」お母さんの声が聞こえた。「はーい」和樹は鞄に教科書を放り込んだ。骨董品を扱う店らしい。出て来た女の人とお母さんは知り合いみたいだと和樹は思った。二人は部屋に案内された。寝台と簡単な家具があった。「向こうで話をしてくるわ、宿題はやっておきなさい」厚い木で出来たテーブルに和樹が塾のテキストを広げていると、マサトが入って来た。「宿題やってるか、見に来た」「お母さんに言われたの?」「ああ、お前の成績が余程気がかりらしいな」マサトは面白そうに言った。良く見ると綺麗な少年だった。クラスで一番もてる片桐より良い顔をしていると思った。椅子を引いて座る動作も踊るようで身軽そうだ。体育が苦手な和樹は羨ましかった。マサトは和樹が問題をやる様子を眺めていた。歴史の宿題だった。「それ、違うぞ」マサトが和樹の筆記用具を取り上げると答えを書き直した。和樹が後ろの回答を調べるとマサトの方が正解だった。「凄いね」「だって、俺、見てたもの」三百年も前の出来事を?和樹は冗談だと思った。僕と同い年位に見えるのに。和樹の手が止まっているのを見て、マサトが言った。「おい、ちゃんとやれよ。成績が下がるとカナがうるさそうだからな」加奈子は神内とサギリと向かい合って座っていた。あの部屋だった。戦いに赴く為の部屋。「マサトは命のあるうちに色々和樹に教えたいと言っている」「じゃあ、マサトは・・」「ああ、あいつにも時間がない」「そうなの」加奈子は俯いた。「あの子は自分で癒せるのね」サギリが言った。「そのようね、さゆら子は元気?幸彦は?」二人の押し黙った雰囲気から、加奈子は何かを感じた。神内がようやく言った。「さゆら子は『奴等』に食われた。幸彦は正気を失っている。今は佐原の村で眠らせてある」「私のいない間に、色々あったようね」「ああ、マサトをいじめないでやってくれよ。あれも精一杯元気に振舞ってはいるが」「和樹の良い友達になりそうだわ」加奈子はわざと明るい口調で言った。「なるかな」神内も調子を合わせた。サギリが立って盆を手に戻って来た。珈琲の香りがした。「はい、カナはミルクだけね」「ありがとう、貴方の珈琲も久しぶりね」「子供達には紅茶とケーキにしましょう」「マサトも子供扱いなの?」「だってお菓子ばかり欲しがるのですもの」「相変わらずね」「そうね」サギリは深い目をして加奈子を見た。「相変わらずよ」「そう」加奈子は珈琲を飲んだ。懐かしい、苦い味がした。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/01/22
隠された末裔~虐げられし者三峰の熱は高かった。子供の頃の身体の弱さが戻って来たように熱が下がらなかった。「お疲れがたまっておられたのでしょう」額に乗せた手拭を取り替えながら白露は言った。確かに様々な雑事を含め、仕事は多忙を極めていた。長老は今や一切の事を三峰にまかせていた。先の大きな戦いの後処理もまだ終わっていなかった。盾の建て直しも急務だった。「情けないな」「そう思わずに、今はお休みを」神内からの連絡で今は『奴等』の大きな動きがない事、幸彦の身辺の警護については竹生がいる限り抜かりがない事がわずかに三峰を安心させていた。「お前にこんな世話をさせては・・」「好きでやっている事ですから、お気になさらずに」白露は細々した家事が好きなのだ。寒露はいつも「いい嫁さんになりそうだ」とからかっていた。今もかいがいしく、汗で濡れた寝巻きを着替えさせたり、食欲があるかを尋ねては食べられそうな物を作って来たりしていた。普段の白露はその無表情で冷たい様子から怖がられている事の方が多い。何を言うにしても頭の切れる彼に勝てるものはいない。(今の白露を見たら、目を丸くしそうな者が多いだろうな)三峰は自分に世話を焼く白露を見ながら、笑みを浮かべた。「何を笑っておられるのですか」「お前、前掛けが板に付き過ぎてる」「そんな軽口を聞けるようなら、早く良くなって下さいね」そう言いながらも白露は三峰の布団を具合良く直してやった。寒露は執務室で三峰の代理を務めている。この双子は三峰の為にそれぞれの役割を心得ていた。白露がそばにいるのは誰かがやって来て三峰をわずらわせない為だった。何か言われれば三峰一人だと起き上がって仕事をやり始めてしまい、きっと熱が長引く事になるとわかっていた。(まったく長に気を使えない奴も多いからな)長であっても生身の人間なのだ。竹生様やマサト様とは違うのだと何故わからないのだろう。白露は心の内で怒る時もあった。(それでなくてもお気を病む事も多いのに)三峰が保名の腹の子の事が気がかりなのも白露にはわかっていた。二人に同情的な者達が保名の身に気を配っているが、保名はいまだ罪人として幽閉の身の上なのだ。だからこそ長としての責務を必要以上に果たし、身を粉にする事で償いをするかのように見える。寒露が入って来た。手短に報告をする。それに指示を与えていた三峰が急に黙った。「三峰様?」「すまん、寒露、眩暈が・・」三峰は額に手を当てた。今流れ込んで来たのは確かに間人の想いだった。何かがあったのだ。竹生と絆で結ばれた者同士は、お互いを感じる時がある。特に三峰は竹生と間人の想いを強く受け取ってしまう。それは竹生の意志であったのかもしれない。脳裏に竹生のうなずく顔が浮かんで消えた。(まかせると竹生様はおっしゃられた・・)「寒露、間人を探してくれ、ここへ連れて来てくれ」白露と寒露は三峰にその絆についてはそれとなく聞いていた。それでなくても彼等は三峰が意味もなく何かを命じる人間でない事を知っている。寒露は道具部屋で倒れている間人を見つけた。乱暴された痕がある。大した怪我ではないがリンチのようなものだろう。間人は抵抗しなかったに違いない。寒露の胸に怒りが燃えた。盾として恥すべき奴等め。だが間人は誰にやられたか口を割らないだろう。寒露は間人を抱き上げると歩き出した。わざと人の多い場所を歩いた。視線を感じた。怯えた、うかがうような目・・(あいつ等か)寒露はちらりとそちらを見た。慌てて目をそらした顔をしっかりと確認した。寒露はそういう事が得意だった。間人は三峰の隣で目が覚めた。「大丈夫か?」肩肘をついて半身をこちらに向け、三峰は間人を覗き込んでいた。「ああ、三峰さま!!」間人は慌てて起き上がり、床にすべり下りると、そこにひれ伏した。「ご無礼を申し訳ありません!」「いや、良いのだ。私が寒露にお前を連れて来させたのだから」間人は倒れた時の事を思い出した。殴られ、蹴られた。意識を失った後、誰かの腕に抱かれて運ばれたような記憶が薄っすらとある。白露と寒露は寝台の傍らに立っていた。「寒露様、ありがとうございます」間人は寒露に向かい頭を下げた。「礼なら三峰様に言えばいい。三峰様がお前を助けるようにお命じになったのだ」寒露は間人の腕を引っ張り立たせた。「お前に確かめたい事がある」三峰が言った。「何でしょうか」間人は緊張の面持ちで言った。犯人を聞かれても言うつもりはなかった。「藤堂が竹生様に遺言を残した。竹生様はその処理を私におまかせになった」「遺言・・ですか」「お前は自分の出自を知っているか?」間人は真っ青になった。唇を震わせ、何も答えようとしなかった。「お前は藤堂の本当の子ではないな?」間人が後ろへ飛びすさった。白露と寒露がその身体を捕まえた。白露が片手で後手に間人の手首をねじりあげて束ね、もう片方の手を間人の後頭部に当て、その頭を三峰の枕に押しつけた。寒露が間人の編んだ髪を解き始めた。「ああ!!それにさわらないで!!駄目です!!」間人は抗った。だが白露の手はびくともしない。解かれた髪の中から、一房の赤い髪が現れた。白露が頭を押さえていた手を離すと、黒髪の中に赤い細布を流したような鮮やかな赤い髪を隠すかのように、間人は激しく首を振った。「やはりな。お前は『一角』だったのか」白露が言った。間人はうなだれた。その目に涙が浮かんでいた。「何故、力を使わなかった。触れずとも僕を投げ飛ばす事など簡単だろうに」「僕は・・力を使わないと誓ったのです。誰も・・傷つけたくないから」しゃくりあげながら、間人は言った。かつて異能の力を持つ一族が山奥にいた。今は禁忌の場所である山に。一族はその髪に一房の赤い髪を持っていた。誇らしげにそれを高く編み、目印としていた。彼等はその角を思わせる髪から『一角』と呼ばれた。その力ゆえに災いをなす者として彼等は狩られ、やがて滅んだとされていた。だが周辺の人里に紛れ込んだ生き残りがいた。人と交わり一族の血を残した。村にも時折赤い髪と念動の力を持つ者が生まれた。その者は忌むべき者として幽閉されるか密かに殺された。さゆら子には妹がいた。その妹の産んだ子が赤い髪を持っていた。その事は隠され、産褥で亡くなった彼女の赤子を藤堂は貰い受け、我が子として育てたのだ。それを竹生に明かし自分の亡き後の間人の身を託したのだった。間人の出自はともかく、赤い髪である事がわかれば間人の死は免れない。だが竹生なら道を見つけてくれるだろうと思ったのだ。最初はその力を利用する事を目論んでいたとしても、育てるうちに情が芽生えた間人の事が最期の心残りになったのだった。竹生は間人の盾の家での立場を思い、三峰にまかせる事にしたのだ。白露は手を離すと泣いている間人を起こし寝台に座らせ、自分も傍らに腰掛けた。三峰は半身を起こし、寝台の頭の柵に身体を持たせかけ、間人を見ていた。「間人、お前はさゆら子様の妹の浅葱(あさぎ)様の子だな。長老に聞いた。さゆら子様は双子で、妹の浅葱様は養女へ出されたと」三峰は言った。再び間人は寝台から床に降りてひれ伏した。涙で声が詰まったが間人は必死で言った。「盾の家の者ではない私は、ここにいる資格はありません・・せめてものお慈悲をいただけるなら、三峰様の手で私の命を絶って・・僕を・・殺して・・」「何を言うのだ」三峰は寝台を降りて、間人の身体に手を添え、起こしてやった。間人の身体が震えていた。再び寝台の白露と自分の間に座らせると、落ち着かせるようにその肩を抱いてやった。「お前の命を奪う理由など、どこにもない」「ぼ、僕は・・忌むべき・・者・・だから・・」三峰は首を振った。「お前は私の”特別な子”なのだ。誰にもお前を殺させはしない」「三峰様・・」寒露は間人の前に片膝を付き、その小さな顔を覗き込むようにして言った。「乱暴をして、悪かったな」その言葉に思いがけない優しい響きがあるのを聞き、間人は驚いて寒露の顔を見た。いたわるような笑顔がそこにあった。「三峰様がお前を”特別な子”だとおっしゃった。だからお前は俺達にも特別な子だ。それに・・」寒露は後ろに束ねていた髪を解いた。白露も同じようにした。赤い髪が現れた。「ああ!!」間人は目を見張った。「僕らも同じなのだ」白露はそう言いながら間人の髪をいとおしむように撫でた。三峰は間人の肩を抱きながら言った。「天涯孤独と思うな。これからは我等を家族と思え」寒露は間人の小さな手を取ると、両手で挟み、言った。「白露と俺はお前と同じ血を引く者だ。兄と思えばいい」怖いと思っていた白露と寒露の温かい心に触れて間人はうれしかった。何よりも三峰が自分を特別と言ってくれた事がうれしかった。「ありがとうございます。でも、私は掟に従いここを出ます」この幸せな気持ちをありがたくいただいて、僕は・・消えよう。三峰は間人の決心を感じ取り、眉をひそめた。「お前は”盾”ではない。お前は”結界”だ。盾の掟に従う必要はない。気の良いお前の同僚も坂の家の者だ。お前が出て行く必要はない」「でも・・」三峰は公の場で見せる厳しい表情をしていた。「お前は幸彦様を守る決意をしたのではないか?」「はい」間人は小さな声で答えた。「竹生様はおそらく、お前の素性をご承知の上でお前を取られたのだ。あの方は幸彦様の為なら非情になれるお方だ。たとえお前が拒もうと、必要ならその力を使う事をご命令になるだろう」「竹生様が・・」三峰は間人の顎に手をかけ、自分の方を向かせた。「私もだ。お前が『一角』と知ったからには、村の為にお前に力を使う事を命ずる時が来るかもしれない。それは白露や寒露にもだ」熱でうるんでいる為、なお美しく見える三峰の瞳に間人が映っていた。慈愛に満ちた光に包まれた自分の姿を見ながら、間人はうなずいた。「竹生様が、三峰様が、そうお望みになるなら私は従います。この力が本当にお役に立つのなら」三峰の顔が和らいだ。「私の”特別な子”よ。私はいつでもお前を見守っている。白露と寒露は本当の兄のようにお前を守るだろう」「三峰様・・」藤堂の幽閉後、冷たい視線の中で孤独な身に耐えていた間人は、三峰の胸にすがって泣いた。三峰はただ微笑んで、その髪を撫でた。「お前は泣き虫だな。まあ、良い、我慢しなくていい。泣く場所ならここに沢山ある」白露も寒露も同族と分かった少年に親愛の情を感じながらその様子を見ていた。白露は間人の髪を編み直して結んでやった。「お前をいじめる奴は、俺達が許さないよ」寒露がおどけた口調で言った。それは本当だった。間人に乱暴を働いた連中は皆病院送りになった。彼等の家族達はその罪状を恥とし息子達の仕業を間人に詫びた。間人が藤堂の息子ではなく当主の血筋の者である事も明かされた。後見には臥雲長老がなった。それを機に間人はそのような目に合う事はなくなった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/01/18
盾の家の子~定められし者間人は休暇を許された。藤堂の件を含め、身辺の処理の為という理由だった。「すみません、俺にも休暇ももらえませんか」久瀬の申し出に竹生は訳を問う事もなく頷いた。「ああ、三峰にも言っておけ」「はい、ありがとうございます」久瀬はその足で三峰の所へ行った。「了承した。竹生様がお許しなら問題はあるまい」久瀬は頭を下げて出て行こうとした。三峰が呼び止めた。「久瀬、ここの暮らしにはなれたか。面倒な規律やしきたりが多いだろう」「はい、間人が色々教えてくれます」三峰は笑顔で久瀬を見た。竹生を見慣れて来たとはいえ、三峰のその顔はやはり綺麗で少し胸がどきどきした。「間人とはうまくやっているようだな」「凄く良い奴です」「あれは可哀相な子だ、仲良くしてやってくれ。私の手の届かない事も多いのだ」「はい」盾の家で暮らすようになって、久瀬は間人に対する彼等の扱いも知るようになっていた。幸彦を敵に売ろうとした藤堂の息子である事や、他に身内を持たない事もあるのだろう。三峰様は優しい方だから、それをかばっておられるのだろう。坂の家の自分に対する侮蔑や嫌がらせも、三峰様がそれとなく防波堤になって下さっていると間人から聞いた。「三峰様」「何だ」「俺にまでお心遣いを、ありがとうございます」「お前達が安心して戦えるようにするのも、私の務めだ。礼などいいのだ」こういう方だから皆に好かれるのだ。久瀬は竹生を尊敬していたが、三峰の人柄に触れ、三峰にも好意を持つようになっていた。「君の家に?僕なんかが行っていいの?」「ああ、俺の自慢の同僚を家族に紹介したいんだ」「明日までに、片付ける事をすませてしまうよ」坂の家に戻るのは久しぶりだった。竹生様に声をかけられ、佐原の屋敷内に移ってから初めての里帰りだった。坂の家の者達はこの出世頭の若者を大騒ぎで向かい入れた。間人も歓迎された。「久瀬が可愛い子を連れて帰って来たわよ」「わあ、女の子みたい。凄い美少年じゃない」女達は代わる代わる部屋を覗いては騒いだ。間人はそんな事は知らず、無邪気に皆と話していた。囲炉裏を囲んで、心尽くしのご馳走が並べられた。こんなに賑やかな食事は間人は初めてだった。盾の家にはこういう家族というものはないのだ。久瀬に良く似た大柄の父親と気の良い福々とした母親は、息子の同僚の間人に何くれとなく世話を焼いた。明るい素直な間人を、坂の家の者は皆好きになった。夜更けになっても宴会は続いていた。空には月が輝いていた。ちぎれ雲が薄くたなびき、流れていった。皆の集まっている部屋は縁側から外に続いていた。外から声がした。一人が立ち上がり、障子を開けた。美しい影が立っていた。賑やかだった部屋がしんと静まり返った。風がその白髪をなびかせ、黒いコートの裾が翻っていた。月の光がその美貌を照らしていた。皆その姿を魂を抜かれたように見つめた。夜を渡る夢のような声が言った。「部下の家に挨拶に伺った」間人は素早く軒先に出て、飛び降り、その足元に跪いた。「竹生様」久瀬も慌てて席を立ち、同じようにした。竹生様、竹生様が・・さざなみのように、人々の口にその名がささやかれた。間近で竹生を見た者は、この家にはほとんどいなかった。美しいとはこういうものか。女は元より男ですら見とれてしまう。ぽかんと口を開けて、言葉もなく目を丸くしている。奥から老人がころがるように出て来た。この家の長老だった。「竹生様、ようこそお越しを。ささ、どうぞ奥へ」竹生は穏やかな顔を老人に見せた。「いや、私はここで失礼する」人々は竹生が人でないのを思い出したが、それでも竹生から目を離す事は出来なかった。「そちらが久瀬のご両親か。久瀬はいつも良くやってくれている。礼を言わせて貰う」竹生はかしこまっている夫婦に声をかけた。「良い息子をお持ちになった」「もったいないお言葉を・・ありがとうございます」久瀬の父親の嘉人(よしと)はそう言い、平伏した。母親の萱(かや)もそれに続いた。「今日は間人まで世話になってすまない。間人は家族を失った。この子も久瀬同様、息子のようによろしく頼む」「はい、うちの馬鹿息子よりずっと良い子ですよ、竹生様」萱は朗らかに言った。女のしたたかさでもう竹生に慣れ、軽口めいた事を言う。「これは母の愛を知らない子だ。可愛がってやって欲しい」それでもそう言いながら竹生が笑顔を向けると、萱はぽおっとのぼせ上がった顔になった。こんなに優しい顔をした竹生を久瀬も間人も見た事がなかった。人々はこの奇跡の意味を知らぬままこの美しい者を幸せな気持ちで眺めていた。「お前達も席に戻れ」竹生は二人にも優しく声をかけた。人々は二人が席に戻ると杯や皿を持たせた。萱は縁側の端に上等の敷布や座布団を運んで重ねた。そして愛想良く竹生に言った。「さあ、さあ、竹生様もせめてこちらのお席をどうぞ。ここならそんなに明るくもありませんよ。少しでもご相伴下さいまし」男達の中には、あまりの無礼さに竹生が怒り出すのではないかと青くなる者もいたが、萱は平気だった。奇跡はまだ続いていた。「では、杯だけ頂戴しよう」と、そこに腰を降ろしたのだ。一同は感激した。先の盾の長であった方が坂の家でもてなしを受けている。今は村の守護者となられた方が・・盾の家の者はいつも坂の家を下に見ていた。竹生はその中でも格式の高い家の者なのだ。「ありがたい、ありがたい・・冥土に良い土産が出来た」長老は涙ぐんだ。宴は一段と盛り上がり、竹生はそれを静かに見ていた。そのような柔らかい目をした時の面差しが三峰と良く似ていると密かに間人は思った。そしてこの破格の行動の裏に久瀬と自分に対する配慮を感じた。久瀬は坂の家で大いに面目を施し、自分も又この家に受け入れてもらえるようにと。三峰は子供の頃の夢を見ていた。おもちゃの飛行機を飛ばして、高い木の枝に引っ掛けてしまった。木の下で泣いている三峰に「泣くな」と言い置いて、竹生は風に乗って空に舞い上がった。そして飛行機を取って降りてきた。小さな身体に大きな力を使う事は負担になる。普段は禁じられていた。「兄さん、髪がまた白くなってしまいます」三峰は兄が渡してくれた飛行機を抱えたまま泣いた。自分の命を縮めると知りながら兄は飛行機を取ってくれたのだ。後で父に厳しく叱られる事も知りながら。「良いのだ、これくらい。お前の為なら」兄はそう言って笑顔を見せた。美しい笑顔だった。兄は美しく何でも出来た。そして優しかった。三峰はそんな兄を慕っていた。(あれは、まだ私が六つで兄が八つだった・・)盾の家に生まれた者は、その命を当主に捧げる事を定められている。二人もその為に幼い頃から訓練を義務付けられ、学校に上がると宿舎に入れられ、子供らしい事はあまり許されなかった。長じて盾となった時から兄と呼ぶ事も禁じられた。やがて二人の仲は組の長と部下になった。それでも兄と共に盾である事はうれしかった。同僚の火高は寡黙だったが、竹生を尊敬しており三峰とも気があった。竹生の組が盾の中で最高の組と言われる事が三峰には誇らしかった。人の気配を感じた。三峰が目を開くと、そこには兄の顔があった。「兄さん・・」夢の続きのままに三峰はそう呼びかけた。竹生は月下に咲く花のように微笑んだ。「お前にそう呼ばれるのは、どのくらいぶりだろう」「ああ、申し訳ありません。今、夢を見ておりました」「どういう夢だ」「まだ父も母も生きていた頃の・・飛行機を取ってもらいました」「ああ・・」竹生もその頃の事を思い出したようだった。寝台の端の枕元に腰を降ろし竹生は三峰を見下ろしていた。「お前は泣き虫だったな。可愛い奴だった」「貴方はいつでも優しくして下さいました」「間人を見ていると、あの頃のお前を思い出す」「行って下さったのですか」「歓迎してもらった」「ありがとうございます」「私の意志でもあるのだ。あれらは私の元にいるのだから」三峰は身体を起こそうとしたが、竹生は手で制した。「そのままでいい、今は夜更けだ。お前は寝る時間だ」竹生は子供をあやすような言い方をわざとした。三峰は口元に笑みを浮かべ枕に頭を戻した。「藤堂の遺言だが」「はい」「あれはお前にまかせる」「はい」竹生は立ち上がった。「家族とは温かいものだな。私にはそれでもお前がいたが」「私にも貴方がいました」「お前には温かい家庭を作って欲しい」「それは・・」三峰は枕の上で首を振った。「私は盾の長です」「それでも、お前の子に愛を与えてやれるだろう。我等の父のように」「しかし・・」「良いのだ、罪はいつか許される。幸彦様はきっと許して下さる」「その日が来るのであれば、私はうれしい・・」「ああ、来る、きっと来る。私達が希望を捨てなければ」久瀬は故郷の肌慣れた空気の中で久しぶりにのびのびと身体を伸ばして寝ていた。間人も深い眠りの中にいた。竹生は夜空の下を彷徨い、昔住んでいた家に立ち寄ってみた。あの頃あんなに高いと思っていた木のてっぺんまで竹生は軽々と飛び上がった。そこから見渡す村は夜の静けさに沈んでいた。明日はどんな夜明けが来るのだろうか。私の夜が明ける時はあるのだろうか・・幸彦様、貴方の夢は戻って来るのでしょうか。もう一度私に見せて下さい、あの幸せな夢を。私達が喜びと共に生きていく為の夢を・・幸彦様。今は眠る当主に心の中で竹生は呼びかけた。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/01/16
還り来るは春の夢~命ある者意識を取戻したマサトは、沈痛な面持ちで例の部屋のソファに横たわっていた。神内(じんない)が言った。「マサト、少し寝ろ」マサトは横になったまま、神内をにらんだ。「今寝てしまったら、きっと数年は起きない。その間に・・」さゆら子を寝ている間に失ってしまったように、幸彦(ゆきひこ)を失いたくないのだ。それ以上はもう誰も何も言わなかった。マサトの意志を変える事は出来ないと解っていたから。普通の睡眠でも多少の回復はする。だが深い眠りを取らないと本当の回復にはならない。今のマサトは残された命を更に削り取っている状態なのだ。それでも今は眠るわけにはいかないと、マサトは思っていた。幸彦がこんな事になるなら、最初から村に閉じ込めてしまえば良かった。泣いてもわめいてもあそこから出さねば良かった。いや、だとしたら、藤堂の手で『奴等』に渡されて、今はとっくに食い尽くされていたかもしれない。これが幸彦の運命だとしても、今はまだアイツは生きている。守る者もそばにいる。俺もあと少し生きて『奴等』をやっつけてやる。俺は感じる。この身体の長くはない事を。あと少し・・さゆら子、お前も力を貸しておくれよ、俺達の息子の為に。俺の命が持つように祈っておくれよ。せめて今年も村のはずれのあの桃の花を見られるくらいまで、俺が生きていられるように。「術が破られたわけではない」褥に横たわる幸彦を調べた長老は困惑していた。「何故、目を覚まされたのだ。皆目見当がつかんわい」竹生(たけお)は傍らに控えていた。隣に三峰(みつみね)もいる。竹生が言った。「正気を取戻されたのでもありません。お力も戻っていない」幸彦が必死な目で竹生を見て言った。「お父さん、お父さん・・・」(マサト様に何か?幸彦様はマサト様を心配しておられるのだ)竹生が三峰を振り返り、言った。「幸彦様をマサト様の元へお連れする」「竹生様!いけません!」幸彦に手を伸ばそうとした竹生を、三峰が制した。「お前にはこの叫びが聞こえないか。幸彦様はマサト様の元へ行きたいのだ。お連れしなければならない」「しかし・・」長老が言った。「それが幸彦様の望みなら、行くが良い」竹生は幸彦を軽々と抱き上げた。「参りましょう、マサト様の所へ。三峰、後を頼む」火高(ひだか)がそれに続いた。表には久瀬(くぜ)と間人(はしひと)が控えていた。マサトは蒼褪めた顔をしてソファに横たわっていた。竹生の腕に抱きかかえられた幸彦を見て、マサトは心底驚いて起き上がった。「馬鹿な、どうして・・」竹生は幸彦をマサトの傍らにそっと降ろした。幸彦はすべてを捨て去った純な光だけが残る目でマサトを見た。正気も力も失ったと言うのに、何故マサトの危機を知ったのか。「お父さん・・」幸彦はマサトの首に腕を回し、頬を寄せてつぶやいた。「お父さん、お父さん・・」マサトの中に薄紅色の夢が流れ込んで来た。満開の桃の花、村の春・・マサトの身体が暖かいものに包まれ、楽になって行くのがわかった。マサトも幸彦を抱きしめた。「そうか、お前はこの夢を届けに来てくれたのか」「お父さん、お父さん・・」(さゆら子、ありがとう・・)それはさゆら子の夢、最初に二人が出会った時の夢だった。冬は去り、又春が巡り来る。二人は時を追いながら、そうやって夢をはぐくんで生きていたのだった。あの懐かしい日々・・今この腕の中にいるのは、それらの夢の結晶、暖かく優しく息づく者だった。それは誰にも触れられない命そのもの。この命の運命はこの者だけのものなのだ。そしてこの命を守る為に、多くの命が回りを取り巻き、慈しんでいる。俺だけではない・・「竹生、久瀬と間人を呼べ」竹生は頭を下げた。程なく彼等はやって来た。二人はマサトの前に跪いた。久瀬はマサトを目の前にするのは初めてだった。(この方がマサト様・・)久瀬は光栄のあまり目がくらみそうだった。マサトと顔を合わせる事が出来るのは、ほとんど長と長老に限られていた。ましてや坂の家の者には、雲の上どころか伝説の中の人物でしかなかった。”盾”とはいえ末席だった間人も、こんなに間近にマサトを見るのは初めてだった。「いつも幸彦が世話をかけているな、すまない」少年の姿をしながら、その小さな身体から発する威厳は長老以上だった。二人はひれ伏した。「久瀬」自分の名を呼ばれ、久瀬は大きな身体を畏れに縮み上がらせた。「は、はい」「俺はお前が生まれた時、なんて大きな子だと思ったよ」マサト様が俺をずっと知っていたなんて・・久瀬は誇らしさで一杯になった。「思った通り、こんなに力強くなったな。これからも幸彦をよろしく頼む」「はい、精一杯お仕え致します!」久瀬は床に頭をこすりつけんばかりにして、もう一度ひれ伏した。「間人」「はい」「お前が藤堂の息子であろうとなかろうと、お前はお前の信じるように生きればいい」マサト様もわかって下さっている。竹生様と三峰様と同じ様に。間人はうれしかった。「そして、あまり父を恨むな。あれもあれなりに村の事を思ったのだろうから」あの日から父の罪の為に疎んじられた自分だけではなく、マサトのいたわりが父にまで及んでいるのを知った時、間人は不覚にも涙を禁じえなかった。「私には・・厳しいけれど、優しい父でもありました・・・」「父親とはそういうものだ。俺も幸彦を得てから、そう思うようになった」俺も藤堂と同じだ。幸彦を守ろうと、してはならない無理を通そうとした。「お前にも頼む、幸彦を守ってくれ」「はい・・」間人は、村に戻ったら幽閉されている父に会いに行こうと思った。マサトは疲れた顔をしてソファにもたれかかった。竹生が言った。「行け」二人は立ち去った。神内とサギリは、いつもの安楽椅子で事の成り行きを見守っていた。マサトは幸彦を抱いたまま、そちらを振り返った。「俺はしばらく眠る事にするよ。後は、あいつらにまかせる」サギリはほっとしたように微笑んだ。神内は軽くうなずいた。「もう少しだけ、こいつを抱かせておいてくれよ」幸彦はうれしそうにつぶやいた。「お父さん、お父さん・・」「ユキ、お前は本当に親孝行だよ」無垢な子供に戻ったような幸彦と少年の身体に父親の想いを宿したマサトは、幸彦の望んでいた親子の愛情と睦まじさを、この時になってようやく得る事が出来たように見えた。「お父さん、お父さん・・」甘えるように繰り返す幸彦の声を聞きながら、サギリはそっと目頭を押さえた。狂った息子と死を間近にした父との、あまりにも哀しく美しい抱擁だった。「お父さん、お父さん・・」幸彦はマサトに頬を寄せたまま、繰り返した。竹生もさりげなく目を伏せた。マサトの頬を伝う涙を見たからだ。その涙は幸彦の頬をも濡らし、流れていった。村に戻った竹生は三峰の部屋を訪ねた。寝台と箪笥と机があるだけの簡素な部屋だった。とても長の私室には見えない。三峰は長である事での特別待遇はあまり好まなかった。「これをお前にやろう」竹生は三峰に一振りの刀を差し出した。「これは、父の・・先代の”盾”の長の刀ではありませんか」「そうだ、義豊(よしとよ)様より私が譲り受けたものだ」「私にはいただけません、これは竹生様が持つべきものです」「私にはもはや持つ意味はない。私にはこれを伝えるべき未来はない。だからお前に与えるのだ。お前からお前の子に渡すが良い」まだ誰も知らないはずの保名の懐妊を竹生様はすでにご存知なのだ。三峰は怖くなった。しかし人を遥かに超えた感覚を持つ者なら、どこでそれを知っても不思議ではないのかもしれない。そしてこれは叱責ではない。竹生なりの祝福だと三峰は感じ取った。「ありがたく頂戴致します」銘は兼定、名刀である。深夜、間人は一人、離れへ向かった。見張りの者は何も聞かず、間人を中へ入れた。彼が竹生様の直属である事は、皆に知れ渡っていた。それは間人が望まずとも或る種の権限が彼に与えられているようなものだった。藤堂はまだ起きており、不意の来訪者が誰であるかを知ると、驚きの表情を見せた。間人はあの日以来初めて父の顔を見た。削いだ様な頬に老いを見て、間人は胸に痛みを覚えた。牢の格子をはさんで、親子は正座して向かい合った。「私は貴方の望んでいた”盾”ではなくなりました。竹生様の元で、幸彦さまの”結界”と呼ばれています」間人は言った。「何と呼ばれようと、私は誇りを持って生きていきます。これは私の選んだ道ですから」藤堂は黙って聞いていた。「マサト様にお会いしました。マサト様は貴方を恨むなとおっしゃいました。貴方も貴方なりに村の為を思ったのだろうからと・・」「そうか」藤堂は短く言い、下を向いた。「私は貴方の罪の為に、同僚達にこの身を汚され、屈辱を受けました。けれども竹生様も三峰様も、マサト様も・・私を慈しんで下さいました。あの方達の守りたいと願う方を、私もお守りしていきます」藤堂は顔を上げた。そこにはかつての父の優しい顔があった。「お前は本当の意味で盾になったな。私の手を離れて、お前はこんなに立派になった」間人は父への想いにあふれる自分の心を感じていた。あんなに憎悪していた父を、今は愛していると。「ありがとうございます」間人はあの日から初めて父に笑顔を見せた。父も笑顔で答えた。その次の朝、藤堂が自害しているのを発見された。三峰の部屋に呼ばれ、それを告げられた時、間人は一瞬目を見張っただけで、後は冷静な顔で、三峰に向かい黙って頭を下げた。そこに白露と寒露がいなければ、間人は三峰の前で涙を見せたかもしれない。しかし、父の最後の言葉が間人の胸にあった。立派になったと言ってくれたのだ、僕はそれを裏切りたくない・・部屋に戻ると、それとなく事態を察知した久瀬が、心配そうな顔で待っていた。この自然の声を聞く大柄で優しい同僚は、間人の深い哀しみを感じとっていた。彼のそばでは、間人は我慢をする事をやめた。少年めいた様子を残した可憐な顔が、泣き顔になった。「お父さん、お父さん・・」幸彦がマサトを呼んでいた声が脳裏に甦った。いつしか間人もそれと同じ言葉を口にしていた。「お父さん、お父さん・・」寝台の端に腰掛けて泣きじゃくる間人の肩に、久瀬は毛布をかけてやった。「泣くと寒くなるからな」大きな手が背中を撫でさするのを感じながら、間人の目から又新しい涙があふれ出た。その手には、幼い頃に父がそうしてくれたのと同じ暖かさがあった。「お父さん、お父さん・・」間人が泣き止むまで、久瀬は父親の様に間人の背中を撫でてやった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/01/12
「燃える指」人物紹介神内威(じんない たけし)『火消し』と呼ばれる。青石剣を持つ。『奴等』との戦いを運命とし、転生を繰り返す。サギリ『道標』(どうひょう)と呼ばれる。『奴等』との戦いの為に転生を繰り返す。木波マサト(きなみ まさと)青の退魔師。その霊力で『奴等』を倒す。神内と共に転生する。狩野幸彦(かのう ゆきひこ)夢狩人。夢を操る力を持つ。幼少時に両親を亡くし神内の元で育つ。カヅキ火消しの仲間。転生を繰り返す。銀色の身体を持つ。久須美加奈子(くすみ かなこ)カヅキの銀色の身体を癒せる人物。竹生(たけお)幸彦を守る”盾”と呼ばれる集団の長。風を操る力を持つ。三峰(みつみね)幸彦の盾の一人。竹生の組の者。竹生の弟。火高(ひだか)幸彦の盾の一人。竹生の組の者。セバスチャン・メルモス壁の管理者。アナトールと深い因縁を持つ。神津恵美子(こうづ えみこ)壁の管理者の一族の娘。セバスチャンと暮らす。神津初子(こうづ はつこ)壁の管理者。恵美子の伯母。アナトール魔に魅入られし者。藤堂(とうどう)先代の盾の一人。佐原の家のまとめ役。臥雲(がうん)佐原の一族の長老。村の長(おさ)間人(はしひと)盾の家の者。幸彦の結界となる。久瀬(くぜ)坂の家の者。幸彦の結界となる。保名(やすな)佐原の村の女。三峰の恋人。白露(はくろ)幸彦の盾の一人。三峰の組の者。寒露(かんろ)幸彦の盾の一人。白露の双子の弟。
2006/01/11
盾と結界~迫り来る者午後の訓練を終え、部屋に戻ろうとした久瀬は、胸を押さえてうずくまった。何だ、この嫌な気配は・・不快な、とても強い悪意・・抵抗する、声にならぬ叫び・・そうだ、これは・・「どうした?」間人が心配そうに彼の背中に手を当て、聞いた。久瀬は不快な感覚に耐えながら、うめくように言った。「西の壁が、悲鳴を上げている・・」久瀬の感知した気配は竹生にもすぐ伝わった。「遂に来たか・・」地下室で横になっていた竹生は、暗闇の中で目を見開いた。(三峰!!!!)竹生の声が三峰の脳裏に響き渡った。三峰ははっとして長の椅子から立ち上がった。「来たぞ!!!西だ、寒露、先陣はまかせる」「はい」寒露はすぐに上着を羽織ると出ていった。何故それが解ったかと聞くほど、寒露は馬鹿ではない。外の世界で科学を学んでも、すべてがそれで割り切れるものでない事を、充分に承知していたのだ。三峰は手早く戦闘服に着替えた。簡素な詰襟に見えるが、特殊な軽い金属糸で編まれている。白露も同じ物を着ている。三峰の服は白だが、他の者は黒である。三峰は愛刀冴枝丸(さえだまる)を掴んだ。白露が聞いた。「お出になるのですか?」「当たり前だ」白露は三峰のそばを片時も離れまいと思った。竹生の忠告が胸にあった。(敵も馬鹿ではない。頭からつぶそうとする・・)走りながら、三峰は指示を出した。「上の組は寒露と共に戦闘配置へ、中の組は私と来い!」屋敷内を伝令が走り回る。「ゆりかごは緊急の結界を用意、いつでも張れるようにしておけ」「白の組、急げ!」奥座敷で竹生はその様子を感じ取っていた。(三峰、良くやってるな)間人も戦闘服を身に着けた。久瀬は普段着のままだった。青いデニム地のシャツの袖を肩までまくり上げ、下は厚手の作業用のスボンだった。袖なしの革の上着を羽織っていた。「君は着ないの?」「俺は慣れてる格好の方が動きやすい」「そうか」間人は黒い帯のような物を取り出すと、それを久瀬の腹に巻きつけた。「なんだ?」「本当は戦闘服の下に付けるものさ。多少の防御にはなるよ」「ありがとな」久瀬は素直に礼を言った。間人はにっこりと笑った。奥座敷へ行くと、竹生は二人に言った。「お前達は表で盾の最後尾で戦え」二人は頭を下げた。竹生は久瀬を見ながら言った。「浮かれて敵に突っ込むなよ。我等は最後の砦なのだ。久瀬、お前は初陣だ、盾を良く見て動け」「はい」「間人、久瀬の面倒を見てやれ。無理はするな」「はい」「行け」二人は走り去った。火高がその背中を見ながら言った。「血が騒いでおりますね、竹生様」竹生は微笑を浮かべた。「お前はここから離れまいな」「ここが私の持ち場ですから」ふわりと竹生の髪が舞い上がった。「まずはお手並み拝見といこう」”壁”が裂け、異人が雪崩れ込んで来た。地表から飛び出した無数の杭が異人を串刺しにした。それと同時にきらめく粉が散布された。「ぐ、ぐわあああ!!!!」異人達は喉を掻き毟った。それは悪鬼や悪鬼になりかけた異人に効果がある粉だった。以前、火高がアナトールに用いたのもそれと同じ物だった。製法が難しく量が作れない為、いざという時にしか使えない。異人の半数はそこで倒れた。罠を抜けて来た敵と盾が激しくぶつかり合った。盾達は奮戦したが、これほどの戦いを経験した者は少なく、どことなく浮き足立っていた。(多いな・・)後方で様子を見ていた三峰は思った。こんなに大群で来るとは、かつてなかった事だった。マンションの件と言い『奴等』は何かを焦っているのか。”盾”が押されている。三峰は刀を抜いた。風が吹いた。空高く舞上がった三峰は敵陣の真ん中へ飛び込んだ。異人を切り裂きながら、三峰は叫んだ。「下がるな、下がるな!!!!」長の参戦に士気を鼓舞された盾達は、異人を押し返し始めた。どれほど敵を切り裂こうと、三峰の純白の戦闘服は血飛沫を浴びる事がなかった。風が彼を取り巻き、守っていた。以前の三峰なら出来なかった事だった。兄が与えてくれた力だと三峰は思った。この身に流れる血と引き換えに。例の部屋で、神内達も戦いの為に立ち上がっていた。神内は手に青い剣を握り締めて言った。「俺達が操っている『奴等』を倒せば、異人は赤子同然になる」「そうすれば、幸彦さんを守れるのですね」見知らぬ少年が言った。どこかで見たような顔立ちをしていた。マサトはまだソファに座ったままだった。顔色が酷く悪い。「お前がいるから奥までいける、必ず仕留められるさ」そう言いながらマサトは立ち上がった。神内は眉をひそめた。「無理をするな」「いや、行く・・幸彦の為だ」サギリも不安な表情を隠さなかった。「寝てないからよ」マサトはそれには答えなかった。少年の方を向いて言った。「カズキ、俺達を導いてくれよ」「では行きますよ」奥の壁の扉をカズキと呼ばれた少年が開いた。虚空に続く道がそこにあった。三人はその中へ入っていった。扉が閉まり、サギリが一人残された。間人は左右に片手刀を逆手に持ち、走っていた。力のない小柄な彼は素早さが身上だった。久瀬は両手に、これは斧を握り締めていた。「離れちゃ駄目だよ」間人が言った。「おう」砂煙の向こうに敵味方が入り乱れていた。その中央に白い姿が一際はっきりと見えた。「三峰様だ、さすがだね。ああやって味方を率いておられる」時折高く飛び、風に髪をなびかせ宙を舞い、敵をなぎ倒し道を切り開いていく。そばには双子が寄り添うようにして戦っている。「白露様と寒露様がおられる。あそこは中心だ、僕らは後ろへ下がろう」間人はくるりと向きを変え、又走り出そうとした。いきなり、何かが飛んできた。間一髪で久瀬はかわした。異人の投げた剣だった。二人は数人の異人に囲まれた。久瀬は一声吼えると、目の前の異人に斧を振り下ろした。間人はあざやかな体裁きで攻撃をかわしつつ、敵を切り裂いていた。敵を倒し、二人は再び走り出した。遠い戦場でも戦いが続いていた。神内の剣が『奴等』を切り裂き、マサトの閃光が貫く。やがて戦いが終わった。「かなりの奴だったな。中ボス登場ってとこだな」マサトが軽口を叩いた。「さあ、帰ろう・・・」マサトの身体がぐらりと傾いだ。神内が駆け寄り、素早く受け止めた。カズキが叫んだ。「サギリさん、マサトさんが大変です!!」異人の動きが止まった。皆空ろな目をしたかと思うと、バタバタとその場に倒れこんだ。(マサト様達が『奴等』を・・)三峰は、愛刀を天にかざし、声を張り上げた。「我等の勝利だ!!!!」盾達の雄叫びが村中に木霊した。奥座敷で竹生と三峰が向かい合っていた。「良くやった」「竹生様の風が、私を守って下さいました」「私ではない、お前の力だ。お前が成長したのだ」「私にはあれ程の力はありません」「いや、あるのだ、今のお前には。お前を長と慕う者達の想いが風を呼ぶ力になる」「そういうものなのですか?」竹生は三峰の肩を掴んで引き寄せ、顔を覗き込んだ。三峰の目の前に、優しい兄の微笑があった。「そうだ、もっと自信を持て」「竹生様・・」「お前は私の弟だ、弱いはずはない」「ありがとうございます」その時、何かを感じて、二人は同時に振り返った、白い褥から天井に向かい、細い腕が伸ばされてた。まるで宙にある何かを掴もうとするかのように。「そんな・・」三峰は驚愕のまなざしでそれを見つめた。竹生は無表情のままだった。「お父さん、お父さん・・」か細いが、はっきりとした声が聞こえた。「幸彦様がお目覚めに?」三峰の声が震えていた。眠らされた者が自然と起きるなど、聞いた事がない。二人は褥に近づき、横たわる身体を見下ろした。澄んだ瞳が見開かれていた。(幸彦様・・)竹生の胸にとめどなく幸彦への想いがあふれ出した。しかし竹生はそれを押さえ、三峰に命じた。「長老にすぐにお知らせしろ」「はい」三峰は出て行った。竹生は幸彦に恐る恐る触れてみた。痛みはない。力が戻ったわけではないのだ。しかし何故という疑問よりも、二度と目覚めぬだろうと思っていた幸彦様が目覚めた喜びが竹生を支配していた。竹生は褥に覆い被さるように身をかがめ、幸彦の身体を抱きしめた。「幸彦様・・」今は誰もいない、今だけこの幸せを噛み締めよう。これが吉兆なのかそうでないのかは、直にわかるだろう。幸彦は竹生の首に腕を回し、耳元でささやくように繰り返した。「お父さん、お父さん・・・」せめて、今だけは・・幸彦様・・掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/01/07
重ねられた未来~備える者久瀬(くぜ)と間人(はしひと)は奥座敷の側に部屋を与えられた。あまり広くはないが、寝台と洗面所とシャワー、最低限の家具はある。久瀬から見れば贅沢にさえ思えた。誰かと同室である事もあまり気にならなかった。ずっと男兄弟と雑魚寝状態であったから。間人は久瀬に対して何の偏見も持たず、竹生(たけお)の前でそれぞれに名乗った時も、真っ直ぐな目で久瀬を見た。それがこの若者の良い所だった。気後れしていた久瀬はそれで救われた思いがした。竹生は間人に久瀬に色々と教えてやるようにと言い渡した。「その為に僕らを同じ部屋にしたんだね」「そういうものか」「君は、まず、覚えるべき事が沢山あるから」「うむ」「どうしても必要な事はすぐに覚えてもらうけど、あとは段々でいいよ」「敵は待ってくれないだろうから、何でも教えてくれよ」間人はにっこり笑った。「やる気満々だね」間人は不意に久瀬の手首を取り、その大きな身体を寝台に押し倒した。「なんだ、おい」「動けないだろ?」久瀬よりはるかに小柄な間人が押さえているのに、久瀬の身体はびくとも動かない。「僕ら盾の家の者は、子供の頃からこういう体術を仕込まれるのだ」久瀬は少し不安になった。「俺、平気なんだろうか。こんなお役目をいただいてしまって」間人は久瀬の手を引っ張って起こした。「君には君の戦い方があるだろ?」そういって間人は又にっこりと笑った。久瀬は盾の家の者であっても気取らない間人を好ましく思った。盾の長であり村の長である三峰(みつみね)がその部屋を訪れた事も二人を感激させた。経緯はどうであれ、盾から間人を結果的に追い払ったようになった事を三峰は気にしていたのだ。そして兄の選んだ坂の家の者を見ておきたい気持もあった。三峰は二人に新しい役目について短い言葉をかけただけだが、二人にとっては本来は口を聞く事も、まして久瀬など顔を見る事もない人物なのだ。三峰は二人の首に巻かれた包帯を見た時にだけ、少し哀しげな顔をしたが、後は長らしく威厳を持って彼らに接した。三峰が出て行くと、間人は頬を上気させうるんだ目をして言った。「三峰様は素晴らしいお方だ」「竹生様の弟君だろ?」「そうだ、あの方達は盾の家でも”風の家”と呼ばれる特別な家の出だ。だから風を操れる。建物の三階位までなら風を呼んで軽く飛び上がれる。竹生様の影のようにしておられたが、三峰さまは本当はとてもお強いのだ。それを表に出すのを余り好まないだけなのだ」「凄いな」「君だって。坂の家の者は僕らより多くの自然の声を聞くらしいね」「うーん・・他の者と比べた事がないから、わからんけど」「竹生様が君を選ばれたのは、きっとその為だと思うんだ。敵のどんな気配も逃さない為に」「買いかぶられすぎるもの恐いな」久瀬は肩をすぼめて言った。自信があるかと言われれば、ない。さっきも簡単に間人に倒されてしまった。そんな久瀬の思いとは別に、間人にも間人の思いがあった。「あのさ・・」「なんだ?」「僕が藤堂の息子である事は知っているよね」「ああ、それがどうした?」久瀬はさらりとそう言った。素朴なこの若者が本当にその事を気にしていないのが、間人にもわかった。間人はうれしかった。「ありがとう」礼を言われる意味がわからず、久瀬は奇妙な顔をした。(竹生様、三峰様・・ご配慮に感謝致します)間人は心の中で二人の頭を下げた。初めて二人は奥座敷へ通された。入り口に立つ火高は、身体こそ久瀬の方が大きかったが、みなぎる気力の凄まじさに、一瞥されただけで二人は身体がすくんでしまった。中へ入るとぼんやりとした灯の中に竹生の姿が浮かんでいた。思わず見とれてしまうほどに美しい影が動いて、無言で彼等を手で指図した。奥の一段と高く作られた白い褥の前に彼等を並ばせた。闇が甘くささやくような声がした。「幸彦様だ。我々が守るべきお方だ」間近で見るのは二人とも初めてだった。枕に広がる柔らかそうな髪、華奢に見える体は白い寝巻きに包まれていた。その胸は生きている証に微かに呼吸と共に波打つ。ほの暗い中に浮かぶ白く透き通るような顔、その寝顔は穏やかであり気高さもあった。生まれて最初に見た夢は何であったろう。覚えているはずがないのに、幸彦を見ていると思い出せるような、安らかな懐かしい想いが二人の胸に満ちて行く。それが夢を操る者、佐原の一族の末裔、最後の当主幸彦だった。長いまつげが頬に影を落とすのを見ながら、二人は敬虔とはどういう気持であるのかを知った。(竹生様が、命をかけてお守りしたいと思われるのも、無理はない)久瀬は思った。間人もすっかりこの当主に心を奪われてしまった。幾ら掟があろうとも当主そのものに価値を感じなければ、盾と言えども機能するとは限らない。間人は人より強烈な盾へのこだわり故に、当主を守る事への意志も強い。そしてそれが幸彦をこうして見た事で更に強くなった。(嗚呼、僕はこの方を守るのだ。このすべてをかけて守りたい・・たとえ僕一人では無理であっても、せめてその為の役に立ちたい)心ここにあらずという様子で部屋に戻った二人は、それぞれの寝台に腰掛けたまま、しばらくしてから、ようやく我を取戻した。久瀬は情けない顔をして言った。「ほっとしたら、腹が減ったな」「何か探してくるよ」間人はそう言って出て行き、握り飯を幾つか乗せた盆を持って戻って来た。「厨(くりや)で貰って来たよ」「へえ、顔が聞くんだな」「僕は子供の頃からここにいるのだもの」盾の者はほとんどこの佐原の屋敷内で過ごす。顔を合わせるのも決まった人間だけなのだ。久瀬はうれしそうに握り飯を頬張った。間人は久瀬に確かめたい事がもうひとつあった。「君はあの日、竹生様は戻られた日、どうしてあそこにいた?」坂の家の者は、普通はあの奥の間には入れない。「臥雲(がうん)様が、薬草を至急にと使いを寄越したのだよ」奥で何やら騒ぎが起きている様子だったので、好奇心の強い久瀬はこっそりと忍び込んで覗いていたのだ。「ああ、そういう事か」間人は合点がいった。長老は先を見ておられたのだ。藤堂に全ての実権を奪われてはいても、布石をされていたのだ。あの場で何か言うとなれば、藤堂へ恐れを感じない者でなければならない。坂の家の者である久瀬は盾の家の者と違い、藤堂を怖がる理由がない。自分の直接の上の権力者ではないからだ。だから平気で物を言った。あの時の村の長は久瀬にとってはあくまでも長老なのだ。そしてこの率直な性格が黙っていられる訳がないと、長老はきっと読んでおられたのだろう。何となく大きな掌の上で踊らされているような気がしないでもない。だが間人は先程の幸彦様の姿を思い起こした。胸に何かが湧き上がる。(それでも、僕らは幸彦様を守る為に、ここに来たのだから・・)「おい、何だよ、急に黙りこんで」久瀬は不審な顔をした。間人はあわてて首を振って言った。「ううん、何でもないよ」ひとつの未来に向かい、幾つもの未来が動き始めていた。それは偶然であれ、必然であれ、さける事の出来ない戦いに向かう道でもあった。間人は自分が長く生きるとは思っていなかった。すでにここ数ヶ月の間に先輩や同輩が幾人も命を落としている。握り飯をたいらげる久瀬を見ながら、生まれたての彼との友情が少しでも永く続けば良いと思った。それと同時に、幸彦様の為に落とす命を惜しみたくないという思いもあった。(たとえ盾と呼ばれずとも、僕は幸彦様をお守りする者なのだ)そして今朝の事を思い出した。そこは間人も知らない部屋だった。闇が支配していた。闇の奥で声がした。「間人か」怖くはなかった。その声は夜の安らぎに似た響きを含んでいたから。「三峰様のお言葉にて参りました」間人はその声の方に向かって言った。「そのままこちらへ来い」間人は歩き出した。暗闇に慣れた目に人影が感じられた。見覚えのある影、憧れを持っていつも見ていた影だった。白くしなやかな手が間人の肩に重ねられた。「幸彦様の結界になると誓うか?誓えば後戻りは出来ないぞ」間人はこれから起きる事を、三峰からそれとなく聞かされていた。三峰の首の黒い布が何よりそれを示していた。間人は躊躇わなかった。「誓います」「では・・その証をお前に刻む」首筋に近づく息遣いを感じた。首から全身に激痛が走った。間人は耐えた。これで竹生様と特別な絆で結ばれる・・痛みが喜びになった。父をなじり竹生の足元に跪いた時から、間人はこうなる日をどこかで望んでいたのかもしれない。これから段々と自分は人で無くなるかもしれないと思っても、悔いはなかった。三峰は二人に自分と揃いの黒の縮緬の布を残していった。それの意味する所を彼等は悟っていた。その布を巻く者は竹生様と絆を持つ者、その身体を血潮を命を幸彦様の為に捧げた者なのだ。間人を白眼視していた者達も、彼を羨望のまなざしで見るようになった。幸彦様に命を捧げる、盾のその決意を何よりも明確に表したものとして、その黒い布は彼等の目に映ったのだ。間人も久瀬も誰にも引け目を感じる必要はないように、三峰はしてやりたかったに違いない。又、三峰は部下の盾達に叱咤激励した。「”結界”に戦わせるは”盾”の恥と知れ」と。群青の家の雪火(せっか)の前で、白露(はくろ)と寒露(かんろ)は正座をしていた。冬の板の間は冷たいが、彼等はその程度は苦にしていなかった。それよりも不機嫌な雪火の顔色を伺う方が大変であった。「”壁”が『奴等』を感じたら知らせろというのか?」「そうしていただけると助かります」白露が言った。雪火は歯の無い口を開けて笑った。「竹生様の所に、すでにおる。ほれ、あの坂の家の者が」寒露はあっと小さな声を上げた。「あれなら、感じ取るだろうよ。村の壁の異変など」群青の家を辞しての帰り道、寒露はぼやいた。「竹生様には、かなわんな」白露も苦笑いした。「かなわんな」寒露の目がきらりと光った。「俺達ももっと先を読まないとな」「うむ、そうでないと面白くない」「三峰様にご安心いただけるように、早くなりたいものだ」「そうならないと、僕達がおそばにいる意味がない」双子は顔を見合わせると、意味ありげに笑った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2006/01/05
汚れても香る花~望む者畑を掘り起こしていた久瀬(くぜ)は、何かを感じて顔を上げた。せまる夕闇よりも黒く、その影は立っていた。白髪が夕焼けに赤く染まり、風になびいていた。「竹生様」久瀬はその場にひれ伏した。坂の家の者は盾の家の者より身分が低い。何より竹生は先の盾の長であり、マサト様の後の村の守護者なのだ。「立つがいい」並ぶと長身の竹生より久瀬は更に大きく、広い肩から胸も腕も堅く厚みがあった。竹生を間近にして、久瀬の心臓は飛び出しそうな程に速く打っていた。野生児のような粗野な容貌ではあったが、頭の回転は早く仲間内の面倒見も良かったから、坂の家の者の中でも兄貴分として信頼されていた。腕っぷしにも自信がある彼は盾になりたいと思っていた。そして盾の家に生まれなかった事を残念に思っていた。そんな彼にとって竹生は憧れの存在だったのだ。宵闇を漂わせた声が言った。「お前は幸彦様をお慕いしているか?」「幸彦様は大事なお方です」久瀬はあせってどもりそうな勢いで言った。「幸彦様をお守りしたいか?」「もちろんです。俺は坂の家の者だけれど、幸彦様は俺らの当主様です」久瀬は一生懸命しゃべった。うまく言葉が出ない自分がもどかしかった。久瀬の力んだ様子を見て、竹生は微笑んだ。「お前の命を私にくれるか?」久瀬は今の竹生が何であるかを思い出した。咄嗟に返答が出来なくなった。竹生は久瀬の勘違いにすぐに気がつき、笑顔のまま言った。「何もお前を私が食おうというわけではない。幸彦様をお守りする為に、私と共に戦えるかという事だ」久瀬の全身に喜びは湧き上がった。それは長年の願いがかなうという事だ。「戦います!」「ではお前は私に従え。私達は幸彦様の結界だ。最後の砦となるのだから」「はい!」竹生の微笑が消えた。冷徹な戦士の顔になった。「誓ったら、後戻りは出来ないぞ。その命、幸彦様の為に捧げよ」盾と呼ばれなくても、何と呼ばれようと、竹生様と共に幸彦様の為に戦える。久瀬は降って沸いたような幸運に踊り出したい気持ちだった。「この腕が折れようと戦います。俺の斧で敵をぶん殴ってやります」竹生が久瀬の肩に手を回し、その身体を引き寄せた。たとえ男であってもこのような美しい者に抱き寄せられて、久瀬は一瞬ぼおっとしてしまった。「これが誓いの証だ」久瀬の首に竹生の牙が食い込んだ。激痛に身体を硬直させたが、久瀬は逆らわなかった。「これでお前と私は、特別な絆で結ばれた」竹生は身体を離した。朱に染まった唇が、夕焼けに更に紅く染まり、たとえようも無く美しかった。「お前がどこにいても、私にはお前がわかる。そしてお前は私の声を聞くだろう」久瀬は震えながらうなずいた。「明日、佐原の奥へ来い」竹生は踵を返すと歩いていった。久瀬はその視界から竹生の後姿が消えるまで目を離す事が出来なかった。(竹生様と一緒に、幸彦様をお守りするんだ)誰に見せるわけでもないのに、久瀬は腕を曲げ力瘤を作った。堅く張り切ったそれに満ちる力を存分にふるう時が来るのだろうか。もしそうなった時は戦いの時だ。敵が村を襲う時だ。久瀬は鍬を持ちなおした。自分の仕事をやるだけやっておこう。明日から変わる人生でも、今はまだ坂の家の者だ。畑を耕し実りを得るのが仕事だ。それでも喜びに浮き立つ久瀬の鍬はいつもより高く上がり、力強く大地を耕していった。深夜、三峰は石牢から戻る途中の廊下で竹生に出会った。夜は竹生の世界だ。三峰は竹生を見て決まりが悪い思いがした。自らの手で断罪したとはいえ、やはり保名の事が気がかりであり、時折様子を見に行っていたのだ。竹生はそれについては見て見ぬふりをしていた。立ち止まり頭を下げると、竹生は尋ねた。「間人(はしひと)は誰の組にいる」「今は一人です。藤堂の息子ですから、誰も組みたがりません」「私が貰い受けて良いか?」「はい、そうしていただけると助かります」「本人に咎はない」「私もそう思うのですが、人の心は難しいものですから」「それは良かった、私は人ではないのだから」竹生が冗談を言った。三峰にはそれが兄のいたわりである事が解った。「私達”結界”は幸彦様の最後の砦となる。私達に戦わせるなよ、三峰」”盾”だけで食い止める気でいろと竹生は言っている。自分を当てにするなと。「竹生様のお心に副う様に致します」三峰は再び頭を下げた。竹生は音も無く歩み去った。次の朝、諸事を行う部屋で三峰は白露と寒露に竹生の件を伝えた。この家には珍しく椅子と机のある部屋である。板の間に絨毯を敷いて、長の為の机が奥にある。手前に長いテーブルがある。会議の時の為だ。壁際の本棚と引き出しの多い家具は数世代の長が用いてきた年代物だ。奥の机の前に寒露と白露が並んで立っていた。すらりとした長身でどちらも長髪を後ろで束ねている。端正な顔立ちと三峰に似た切れ長の目をしている。彼等は三峰の従兄弟でもあった。三峰の組の者、白露と寒露は双生児だった。二人は親しい者でも時に間違えるほど外見は似ていたが、中身はかなり異なる二人だった。兄の白露は歴史を愛し古い戦記や兵法を好んでいた。何に対しても論理的な解決を求めた。戦いには一番周囲の条件に左右されない技として体術を極めた。寒露は村には珍しく外の大学で機械を学んだ。古い因習の村にあっても現代の技術は必要であったから。通常の機械のみではなく、武器や兵器にも精通していた。寒露は状況に応じて武器を使い分ける。二人は優秀な盾であると同時に、三峰の補佐としても重要な人材であった。「間人は竹生様の元へ行かせる」白露はうなずいた。「それは良い事ですね。竹生様らしい」「出来れば”盾”で食い止めろとおっしゃる」戦いの話は自分の領分だとばかりに、寒露が口を開いた。「術的な結界はなくても、村の周囲に罠を仕掛ける事は出来ます」「『奴等』はかかると思うか」三峰に尋ねられて、寒露は自信ありげににやりと笑った。「壁の協力があれば、可能です」この村の付近の壁は、佐原の一族に深い縁がある群青(ぐんじょう)という家が代々守っている。現在の当主は雪火(せっか)という老女だ。気難しいと三峰は聞いていた。「お前が説得出来ればいいがな、寒露」寒露は隣の白露をちらりと見た。「説得なら白露がしますよ、俺より口は達者だ」「僕はご免ですよ。雪火様はご高齢ですが、頭はぼけるには程遠い位切れますからね」白露はさらりとかわした。「頼りがいのない兄貴だな」寒露はふてくされた。三峰には白露が本気で言っているのではない事は解っていた。必ず二人でやり遂げるだろう事も。「その件は二人にまかせる」二人は頭を下げた。久しぶりに大きな事が出来そうだと、寒露はわくわくした。白露は三峰の事を気にかけていた。笑顔を失ってから、三峰は以前のように他の盾と親しもうとはしなくなっていた。長として距離を置くというより、万事につけ他人を避けるようになっていた。それに引き換え、竹生は人でなくなってからの方が身軽に見える。出会う事はめったなかったが、魔性になり更に美しく人を引き付けるようになった竹生を一目見た者は誰かにそれを語らずにはいられないのだった。すでに彼はこの村の伝説になりつつあった。保名の件も三峰に皆への距離を取らせる原因になっているようだった。三峰と保名の仲を知る者も多かったからである。幸彦様を狂わせたきっかけを作ってしまった罪悪感から三峰は抜け出せないと同時に、目を奪い幽閉した保名への罪の意識も背負い込んでいた。保名は単純な女であったから、己の行為の反省をすると、それ以上他人のせいにしたり誰かを憎む事もなかったが。(もっとお気を楽にして差し上げたいものだ)白露は思った。だが今出来る事があるとすれば、せいぜい雑事の手伝い位だ。寒露は兄の心配事には興味を持たない。自分の計画を成功させる事で頭が一杯なのだ。しかし双生児の不思議で伝わるものがあった。廊下を持ち場へ移動しながら、寒露は言った。「俺達がうまくやれば、三峰様の心配事も減るかもな」「僕に雪火様を説得しろという事か?お前の為に」「俺の為じゃないさ、三峰様の為、幸彦様の為だ」「ふん、お前の方が策士だな」間人が長の部屋に呼ばれた。三峰の机の前に立ち、竹生の元へ行くように言われた彼は、不満を顕わにした。自分が”盾”から追い払われると思ったからだ。「やはり、私が藤堂の息子だからですか」彼は率直に切り出した。間人は男としては小柄な方だ。しかし細く見える体は敏捷で手合わせをしても同年輩の盾に負ける事はほとんどなかった。長髪を片側にまとめて編み、縛っている。手先も器用なのだ。能力ではなく他の理由で不遇である事は、負けず嫌いの彼には耐え難い事だった。三峰は堅い声で言った。「お前は、私がお前を疎んじていると思うのか?」「いえ・・」間人は目を伏せた。竹生が長であった時も三峰が長になってからも、二人の自分への態度に変化はない。それは知っている。間人は竹生を尊敬していたが、盾である事へのこだわりもあった。藤堂は義豊の息子達に負けぬように間人を鍛え、盾である意義を強烈に叩き込んでいた。「盾でなければ男でない」と言い切る程に。今は憎悪する父の教育であっても、それが間人に染み付いていたのだ。「出来るなら、私がお前の代わりに行きたい位だ。幸彦様の最後の砦となる為に」村の長としての役目がなければそうしたいと三峰は本心から思っていた。竹生の元で役目を果たす事が彼の一番の幸せであったから。「最後の砦、ですか」どういう事だろうと間人は思って聞いた。「幸彦様の一番おそばを守るのだ。結界がない今、生身で結界の代わりとなる者が必要なのだ」「幸彦様の・・」間人のこだわりに気づいている三峰は諭すように言った。「”盾”の役目は何だ?幸彦様をお守りする事だ。たとえ盾の名で呼ばれずとも、それと同様、いや、それ以上のお役目だ。ただし危険でもある」間人は心を決めた。「わかりました、竹生様の元へ参ります」間人はそう言うと、三峰に向かって頭を下げた。竹生は幸彦の寝顔を見ていた。守られる価値がないと幸彦様は嘆かれた。だが、力などあってもなくても私には関係ない。貴方がいて下されば、それで良いのです。幸彦様・・いつかきっと、貴方の笑顔を取戻して差し上げたい。それが私の望みです。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/29
この先にある哀しみは~血を分けし者幸彦が竹生と過ごす間は、結界はいらない。保名(やすな)は暇になる。三峰は見回りに行っている。他の盾もそれぞれに役割がある。話し相手もなく、保名は退屈してしまった。保名は女だから盾ではない。盾達ほどの幸彦への思い入れはない。たまたま力を持った故にこうしてお役目をいただくけれど、本当は他の女達のように家の事でもしながら、普通に暮らしている方がいいのだ。今の長は三峰だから、それでも一生懸命お勤めをしようとは思っている。保名は昔から三峰が好きだった。いつも笑顔で穏やかな彼が。反対に竹生は苦手だった。保名は竹生の笑顔を見た事が無い。三峰は優しい兄だと言う。幸彦様もあれだけ頼る程だ、きっと他には見せない顔を三峰や幸彦には見せるのだろうと保名は思った。保名は三峰が好きだけれど、残念ながら竹生の方がずっと美しいのは認めざるを得なかった。村中の女を探しても勝てる者はいない。だから冷たい横顔しか見せなくても、竹生に憧れる女は多かった。保名の同輩の芹羽(せりは)もそうだった。竹生自身は女達の熱い視線にまったく興味を示さなかったが。(どんな顔をして幸彦様とお話するのだろう、あの冷血男が)保名は芹羽のみやげ話にこっそり見てやろうと思った。あの偉そうに物を言う美しい男の弱みを見てやりたいという気持ちもあった。気配を消すのは慣れている。少しだけなら気がつかれないだろう。竹生の胸に寄りかかり幸彦は目を閉じていた。皮肉な事だった。力も何もかも失った故に戻って来た唯一の幸福だった。だがその安らぎさえ、幸彦を不安にするのだ。夢を操る力あっての佐原の当主なのだ。今の自分には守られる価値がない。こうして竹生にそばにいてもらう資格がないと・・幸彦は伸び上がり、竹生の首に腕を回して引き寄せた。「僕の血、あげる」「何を言うのです」竹生は驚いて、幸彦を傷つけない程度に身体を離した。「竹生がそれで生きられるならあげる。僕はもういつ死んでもいい」竹生は幸彦の身体をゆっくりと寝台に横たえた。「貴方が死んでしまうのでは、私の生きている意味がありません」雲の間にけぶる月にも似た竹生の微笑が幸彦の上にあった。幸彦が竹生を見上げた。幸彦は怯えた子供のような目をしていた。竹生は幸彦の孤独と絶望の深さを感じた。肌蹴た寝巻の襟から胸元にかけて、まだ治りきらない傷跡が赤く幾つも見えた。竹生は彼の受けた心の傷を思いやった。横たわった幸彦の身体を竹生は大切な物を扱うように静かに抱きしめた。竹生の温もりが堅く強張った幸彦の心をほぐしてゆく。幸彦は安らかな想いでいた。保名は細く扉を開けて中を見た。正面に置かれたベッドの上に幸彦様は寝ていた。竹生がその身体を抱くようにして何かを言っている。とても綺麗な優しい横顔。あの人もあんな顔をするのだ。二人はまるで恋人同士のようだ。肘で上半身を支えるようにして半身を起こしていた竹生が、美しい肩越しに保名の方を見た。それは恐ろしい目だった。(気づかれた・・)保名は逃げようとしたが身体が動かない。保名は気丈な娘だったが、竹生の怒りに燃える目の恐ろしさに足がすくんでしまったのだ。あんな怖い目は初めてだ。人殺しでも何でも平気で出来る目だ。幸彦様の為ならきっとこの人はそうする。何かのはずみで扉がぎいっと音を立てて開いてしまった。幸彦も保名に気がついた。かばっと跳ね起きた幸彦は大きく目を見開いて保名を見た。生な恐怖が浮かんだ目が不意に閉じられ、幸彦は喉を搾り出すような悲鳴を上げた。最も他人に見られたくない姿を見られた事で、幸彦のずっと張り詰めていた神経の糸が切れてしまった。叫びながら暴れる幸彦を抱いたまま、竹生は叫んだ。「三峰!三峰!」急いでやって来た三峰が見たのは、泣きじゃくる幸彦と竹生の目に射すくめられて動けない保名だった。泣き声がやんだ。幸彦は竹生の胸にがっくりと崩れ落ちた。そして薄れていく意識と共に幸彦の正気も失われていった。「お前は浮ついている」片手で幸彦を支えながら、竹生は三峰にそう言い放ち、もう片方の手で窓を指差した。窓にべっとりと黒い手形がついていた。三峰の顔が蒼白になった。幸彦は程なくして目覚めたが、何にも反応を示さなくなっていた。竹生の事だけはわかるらしい。それ以外の者が話しかけても無反応だった。硝子のような目を見張り、まったく物も言わず、ほとんど動く事もない。急を訊いて駆けつけたマサトを見ても、それは同じだった。マサトの暗い顔を三峰は初めて見た。竹生を幸彦の傍らに残し、マサトは三峰を連れて部屋を出た。扉を閉めるとマサトは小声だが激しい口調で言った。「幸彦が動けるようになったら、村へ連れて行け。幸彦を眠らせる」「マサト様、それは」三峰が思わず叫んだ。それは罪人に使われる方法だった。彼等は起こさねば何年も何年も死ぬまで眠り続ける。それが罰なのだ。「安全の為だ。佐原の生き残りはあれだけだ。『奴等』を俺達が倒すまで、幸彦を生き延びさせねばならない。今度は付け入られるような事はするな。不審な者は容赦なく殺せ、幸彦を守れ」三峰は非情であるとは何か、マサトの顔に見た。それが長年の役目を背負った者の在り方なのだ。佐原の真の守護者の。「俺はもう長くない。後はお前達しかいない」数世代の長に渡るその長き守護者が、今消えようとしている。三峰は思った。私はそれに代わる何かを作らねばならない。それが私の役目。竹生の顔が浮かんだ。生きる事を諦めさせてはならない、あの方がたとえ罪深くなろうと。あの力を無駄にしてはならない、初めて山を降りて来た者の。どんな命でも捧げよう、生き延びてもらうのだ。私は鬼になれるか?なるのだ・・幸彦様の為に鬼にでも何でもなるのだ。私には覚悟は足りなかった、竹生様のような、兄のような。「承知致しました。必ず今度こそお守り致します」三峰は深く頭を下げた。地下室で竹生と三峰は向き合っていた。幸彦には火高が付いている。「好奇心から命令を破った。それがどういう事であるかわかるか。ただの命令ではない、マサト様のあれほどのご命令をだ」三峰は一言もなかった。「お前が保名を処罰せねば、盾が崩壊する。もし平和な時であれば、私はお前達をいくらでも祝福しよう。だが今は違う」自分の甘い態度が保名を増長させたのだ。三峰は悔やんでいた。その心の隙を『奴等』に付けこまれた。力はあっても経験のない保名を、本人の気づかぬうちに操る事は『奴等』にはたやすかったろう。ほんの少し、保名の好奇心を刺激してやれば良いだけだったから。苦い思いで竹生は言った。「私達は二人とも甘かった。私はもう迷わない。鬼にもなろう。その証をお前に刻む。私は幸彦様の為にお前の命をも削り取る、その覚悟の印を」それが何を意味するか、三峰はわかっていた。三峰も又同じ気持ちであった。私も鬼になる、ならねばならない。兄だけに手を汚させてはならない。「はい」竹生の手が三峰の肩にかかった。「目を閉じるな。かつて兄だった者の所業を見届けるのだ」竹生の唇が開き、歪んだ口元に禍々しい牙が見えた。三峰は目をそらす事はしなかった。それは三峰の首に近づいた。激痛が三峰の首から全身に広がった。三峰は倒れまいと気を引き締めた。痛みも証、兄弟の決意の証なのだから。やがて竹生が顔を上げた。血に染まる口を拭おうともせず、三峰を見つめた。先程までの厳しさはそこにはなかった。青く見える程澄んだ瞳に深い哀しみが沈んでいた。「私は・・とうとうお前に手をかけてしまった」兄は三峰を優しいと言った。だが本当はそれ以上に優しい兄なのだ。盾の家の子として生まれた時から、兄弟は捨てねばならぬ物が多くあった。そして今も・・三峰は兄の身体を抱きしめた。そのような事は今までした事はなかった。今だから、それをする。「竹生様、生きて下さい。幸彦様を、村をお守り下さい。私のすべてを貴方に捧げます」「三峰・・」竹生も三峰を抱いた。盾の家の子達は人でなくなって初めて、人らしい愛情の示し方をお互いにした。かたく抱き合ったまま二人は最後の涙を流した。もう泣くまい、すべてが終わるまでは。二人は無言でそう誓い合っていた。これから先は修羅の道しかないのだから。夜のとばりが下り、竹生は痛みから解放されて地下室から幸彦の部屋へと移動した。保名を謹慎させた今、そこには結界はなかった。寝台の傍らに椅子を置き、マサトは幸彦を見守っていた。その背中に滲む苦悩を竹生は感じ取った。「結界などいらない。お前が幸彦の結界になれ。お前が負ける程の敵なら、なまじな結界など最初から役に立たない」横たわったまま何の表情もない幸彦の顔を見下ろしながら、マサトは竹生に言った。「幸彦のそばにいてやれ。お前ならずっと一緒にいてやれる。罪も罰も思うな。幸彦を守る事だけを考えろ」「はい」「お前にまかせた」他の命を奪ってでも生き延びろと、マサト様は言っているのだ。先程の三峰と同じ事を。嗚呼、たとえ異人を喰らってでも生き延びよう。幸彦様を食いたいと願う者をこの私が喰らい尽くしてやる。その肉体は人なのだ。心を奪われし者達よ。この肉体は人でないのだ。そして私の心は幸彦様の物だ。「幸彦様、村に帰りましょう」深夜、密かに幸彦は竹生に付き添われ車に乗り込んだ。後部座席で幸彦は竹生の胸にもたれるようにして、目を閉じた。数日の間に更にやつれた頬を見て、竹生は居たたまれない思いがした。火高がハンドルを握っていた。助手席に三峰がいた。二人とも首に包帯を巻いていた。佐原の家の奥に半地下の通路がある。その先に奥座敷があった。幸彦はそこで眠る事になった。一段と高く作られた白い褥に幸彦は横たえられた。幸彦は逆らう事もなかった。臥雲長老が処置を施す間、どういう精神の作用があったのか、見守る竹生を見て、一度だけはっきりと「竹生」とその名を呼んだ。そして笑顔見せて、深い眠りに落ちた。その寝顔は以前の幸彦のままだった。優しい皆の主人である幸彦の。それ故かえって竹生は胸をえぐられるように感じた。保名は目をつぶされ、石牢に幽閉された。三峰は保名の瞳を自らの手で切り裂き、断罪した。その日から三峰の顔から笑顔が消えた。彼の首には黒い縮緬が包帯のように巻かれるようになった。それは彼自身の縛めの印でもあった。敵は必ずやって来る。今度こそ佐原の当主を守り抜かねばならない。”盾”の長であり村の長でもある三峰の肩にそのすべてがかかっている。三峰は父を思った。義豊(よしとよ)はさゆら子様を守る為に命を落とした。そしてさゆら子様は・・父の無念を晴らす為にも、幸彦様を守り抜かねばならない。(父よ、先代の盾の長よ、私をお守り下さい。そして人ならぬ身となった兄と私を共にお導き下さい。この村を穏やかな美しい村のままにしておけるように・・)奥座敷に眠る幸彦の傍らに竹生がいた。入り口には火高が門番のように立っていた。春はまだ遠く、寒気を孕んだ風が村の枯野を吹き過ぎていった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/26
傷ついた指~心閉ざす者目を覚ますと見覚えのある部屋だった。傷には丁寧に包帯が巻かれ、清潔な寝巻を着せられていた。「気がついたか」マサトが幸彦の顔を覗き込んでいた。「もう大丈夫だ。ここは神内の家の、昔のオマエの部屋だ」幸彦はうなずこうとして気がついた。何も聞こえない、感じない・・誰の心もわからない、夢が流れて来ない。幸彦の顔が絶望に歪んだ。「お父さん・・何も聞こえないんだ」マサトはそれを予想していた。幸彦の力が失われる事を。何よりも『奴等』は幸彦の心を壊そうとするだろうと。三峰にもあらかじめ伝えておいた。マサトは幸彦を安心させるようにやさしく言った。「お前は大分弱ってるからな。身体が回復すれば元に戻るさ」「お父さん・・」「ここは結界の中だ、安心しろ。村の者が来てくれた」では竹生はここにいない。三峰が枕元で頭を下げた。「お守りできずに、私の力が足りないばかりに、こんな・・申し訳ございません」「ううん、お前のせいじゃないよ」幸彦はそろそろと手をのばして、彼の手に触れた。「お前はいつも出来るだけの事をしてくれている」そう言われると、三峰はもっと切なくなった。「じゃあ、俺は戻る」マサトは出て行った。「三峰」「はい」「竹生は近くにいる?」「はい、しかし・・」「わかってる」結界がある限り、ここには入れない。「ありがとうって伝えて」「はい」出て行こうとした三峰の背中に、弱々しい幸彦の声が聞こえた。「僕はもう、お前達に守ってもらう価値はないよ・・」「何をおっしゃいます!」三峰は思わず叫んだ。寝台のそばに駆け戻った。「どうであろうと幸彦様は幸彦様です。私は一生おそばにおります。私も竹生も幸彦様をお守りするのが・・」言いかけて、三峰は口をつぐんだ。我等の不甲斐なさが、幸彦様をこのようにしてしまったのだ。守りきれなかった、守りきれなかったのだ、大切な方を・・そして引き裂かれてしまった哀れな心・・・竹生の背中は無残にも黒く焼け爛れていた。火高ですら目をそむけたほどだった。「かなりご無理をなさいましたな」「幸彦様の為だ」痛みで荒い息をしながら竹生は答えた。地下室とはいえ見張り番の者が表にいる。火高は他の者に聞かれないように低くささやいた。「遠慮せずに、私を」竹生は躊躇する顔を見せたが、哀しげにうなずいた。火高はこの頃ずっと巻いている首の包帯をはずした。異様な噛み傷が現れた。「失礼します」姿勢を低くして、弱った竹生を抱き寄せた。喉元に竹生の唇が来るように。「すまない・・・」竹生の唇から牙がのぞいた。竹生の痛みと火高の痛みと、二つの痛みは身体だけではなく、心まで響いた。こんなものに成り果てた己の痛み、そうまでして生きる事を選んだ者をいたわる痛み・・・火高の喉元から顔を離すと、竹生はうめくように言った。「私もあれと同じだ」「竹生様?」「幸彦様を喰らおうとした奴と」火高は血を失い蒼褪めた顔を振って否定した。「これは私が望んだ事です。私達は幸彦様の盾ですから」「火高・・」「己の闇に負けた者と誇り高い貴方を一緒にしてはいけません」火高は普段は無口だ。これだけの言葉を話すのは、よほど今の傷ついた竹生を慰めたい気持ちの表れなのだろう。それは彼の血の中にもあるように竹生は感じた。赤く温かい慈しみ・・「お前も良い盾だ」「ありがとうございます」「夜まで眠る。後はよろしく頼む」竹生は壁に寄りかかると目を閉じた。火高は頭を下げ、出て行った。地下室の扉が開いた。三峰だった。竹生は右半身を下にして床に横たわっていた。背中が痛むのだろう。白い顔が更に蒼褪めて見えた。竹生が目を開けた。「三峰か」「はい」「幸彦様がお目覚めになられました」「そうか、良かった」疲れた声であったが、ほっとした明るさが漂っていた。「幸彦様が力を失われました。回復されても以前のように戻れるかは・・マサト様は難しいと」「うむ」竹生は起き上がった。そしてそこに立つ三峰を見上げた。「どうなろうと、私達の幸彦様には変わりない」「はい」一度は失う事を覚悟した兄。変わり果てた姿でも、戻ってくれた喜びは抑え難かったのに。「幸彦様は、自分にはもう守られる価値はないと・・」三峰はもう涙を抑える事が出来なかった。哀しみが次から次へとやって来る。「私に竹生様のような力があれば・・幸彦様を・・私はお守り出来なかった」盾としての役目、長としての重責の中で三峰は必死でここまで来たのだろう。「三峰・・私の前では泣いていい。だが他の者には涙は見せるな。今はお前が長なのだ」竹生は立ち上がると三峰の肩に手をおいた。「お前は一人で戦っているのではない。私が天を翔ける時は地には火高が、そしてお前が幸彦様をお守りしていた。だから私は安心して戦えたのだ。私達は一人一人が盾だが、皆合わせて幸彦様の盾なのだ。それを忘れるな」三峰はうなずいた。涙で声が出なかった。「お前は優しい。本当は戦いに向いていない。しかしお前は視野が広い。頭も良い。私は戦う事しか出来ないが、お前なら村全体をまとめていけるだろう。三峰、お前がいてくれて良かった」だから私は安心して逝ける。「竹生様・・」あの日・・あの風の中で竹生を見た時、僕は竹生の心を感じた。竹生の心は広くて誰よりも澄み切っていた。その心の奥にあの夢を見つけた。それは大切に大切にしまわれていた。竹生がどんなにこの夢を宝に思っているか良く解った。あれは最初の約束の夢。それを知った時から僕は竹生を信じるようになった。そしてそれは間違ってはいなかった。僕の命を守る為に何もかも差し出してくれた竹生・・僕は今も誰よりも竹生に僕のそばにいて欲しいと願っている。願っているのに・・平穏な数日が過ぎた。三峰は幸彦の部屋の前に立っていた。保名がそばに来た。「保名、どうした?」「いつまで続くのでしょう、こんな日々が」それは三峰にもわからない。「マサト様達が『奴等』を倒して下されば、数年は平和になる」「そうですね、その日が早く来て欲しい。そうしたら私、三峰様の・・」保名は頬を赤らめた。三峰はまぶしそうに目を細めた。保名は美しい娘だった。それは彼女の内からあふれる生命が輝いて、そう見えるように思えた。「すべてが終わったら・・」三峰が言いかけた時、幸彦の悲鳴が聞こえた。「幸彦様!」三峰は寝室に駆け込んだ。幸彦はベッドの上で丸くなり、耳を押さえている。怯えた目で三峰を見た。「聞こえないはずなのに・・でもあれだけは聞こえるんだ」ピアノの幻聴が幸彦に訪れるようになったのだ。「幸彦様、ここは大丈夫です、大丈夫ですから」震える幸彦を落ち着かせようと、三峰は何度も繰り返した。「ここは大丈夫ですから」三峰は幸彦が何かをつぶやいているのを聞いた。「竹生、竹生・・」これはマサト様に言うべきだと、三峰は思った。引き合う魂を引き離すなんて無理な話だ。幸彦と竹生がそうだ。幸彦はあの力を持って生まれた時から孤独と向き合って来た。他人の無意識の感情がアイツの心を傷つけるから。竹生はすべて受け入れる広い心を持つ者。すべてを幸彦に捧げる者。さゆら子が俺を求めたように、幸彦も竹生を求めた。愛だの恋だの、そんなんじゃない。互いに補いあい互いに高めあうもの、そしてどこまでも行けるもの。その先にたとえどんな過酷な運命が待ち受けていようと共に歩んで行くのだ。さゆら子、俺がお前を失ってからどんなに寂しいか・・でもお前は幸彦を残してくれた。だから俺は幸彦を守りたい・・俺の尽きようとしている命をすべてかけても・・保名達の力では幸彦の寝室に結界を張るのが精一杯だった。その隣室に幸彦と竹生はいた。マサトは竹生といる事が幸彦の精神の安定に繋がるだろうと、二人で過ごす時間を作る事を指示した。幸彦が結界を出ていられる時間は危険度と体調を考えてわずかな時間に限られていた。まだ幸彦は一人で立つ事さえ出来ずにいた。幸彦が他の盾やマサトの前では、心配をかけないように気丈に振舞おうとしているのが、マサトにはわかっていた。それが幸彦を更に追い詰めている。幸彦が心許せるのは竹生だけなのだ。マサトは幸彦と竹生が二人で過ごす時を、誰も邪魔してはならないと厳命した。「決して部屋に近づくな」と。そうしなければ、本当に幸彦が安らぐ事は出来ないだろうとマサトは思っていた。壁際の寝台の上で、二人はその短い時を共に過ごしていた。壁にもたれた竹生の胸に幸彦は身を預けていた。「僕が力を失ったおかげで、お前とこうしていられるのだね」「はい」「今はお前の心を感じる事は出来ないけれど、お前の胸は暖かい」幸彦は目を閉じた。再び触れる事の出来た竹生の感触を確かめるかのように。「竹生・・こうして二人で死ねたらいいな。春がいいね、桜の木の下で」幸彦の身体が震えている。「そうしたら、もう・・『奴等』の事も、異人の事も、何も考えなくていいんだ」幸彦の頬に涙が伝った。あの異人の元でどれほど過酷な目にあったというのだろう。囚われの身の最中に何があったか、あえて誰も聞かないようにしていた。それを思い出させる事は、今の彼にとって残酷な事に思われたからだ。「幸彦様」竹生は腕を回して幸彦の身体をかばうように抱いた。「今は何もお考えにならずに。私がこうしておそばにおります」「うん、お前がいてくれる。竹生・・お前がいてくれる」竹生は幸彦を抱きながら、深い心の傷から幸彦が立ち直るのを願った。しかしそれは再び二人を隔てる事でもあった。幸彦が治るという事は、竹生がそばにいられなくなる事であったから。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/23
愛しきはその叫び~奪い取る者冷たい灰色の部屋の真ん中にグランドピアノがポツンと置かれていた。温かみも調和を忘れ去ったような部屋。アナトールの弾くピアノの音が部屋中に響き渡る。グランドピアノの上に横たわるのは幸彦だった。引き裂かれたシャツに血が滲んでいる。こめかみも血に染まっている。幸彦が意識を取戻したのを感じたのか、アナトールはピアノを弾く手を止めた。「術より薬の方が効くでしょう?キミには」頭が朦朧としている。手足が重く身体の自由がきかない。冷たいピアノの感触が背中に感じられる。幸彦はようやっと声を出した。「ピアノ・・僕がいると蓋が開かないよ」「いいのです。全部開けて弾くと、皆が嫌がるのでね」アナトールは立ち上がり、ゆっくりと歩き、幸彦の側に立った。そして幸彦にのしかかり動けない幸彦の頬に触れた。幸彦は彼の邪悪な意識の裏に、何かを感じた。孤独、絶望、そして助けを求めるか細い魂の声・・・「あ!」幸彦はびくりと震えた。アナトールの手が彼の身体をまさぐり始めたのだ。幸彦の剥き出しの胸にアナトールは手を置いた。心臓をいきなり鷲掴みにされたような感覚がして、苦しさのあまり幸彦の身体が反り返った。息が止まった。「”刻印”がないキミは、僕らの本当の敵ではないけれど、美味しい餌には変わりない」アナトールに触れられた所から、幸彦の生気が吸い取られていくようだった。幸彦は意識がますます朦朧として来た。アナトールの手が離れた。幸彦は荒い息をした。「アナトール・・僕を殺さないの?」アナトールは楽しそうに言った。「すぐには殺しません。キミが気に入ったのでね。少しずついただく事にします」そう、キミが僕の名を呼んだ時、僕は決めたのだ。キミのどこかに僕の欲しいものがあるのだ。キミの母親のように一気に食うのはもったいない。神内の書斎は狭い。神内とマサト、竹生と三峰、火高だけでほぼ満員だった。神内はテーブルの上に地図を広げて一箇所を指差した。「”壁”からの連絡で『奴等』の通った場所はわかった。その先にあの異人のアジトがある」『奴等』が力を使えば壁が感じとる。「アジトって、神内、TVじゃないんだからさ」マサトは面白そうに言った。「お前と違って、俺はボキャブラリーが少ないんだ」神内は憮然とした面持ちで言った。マサトはふざけているのではない。幸彦を奪われた失態に悔やむ盾達に、これ以上プレッシャーを与えたくなかったのだ。マサトが真面目になれば彼等はますます緊張する。彼等が冷静な判断を常に保てる状態にしておきたかったのだ。マサトは続けた。「それはあの金髪の家だけど、地下から奥は別の領域だな」「そこの”壁”だけ一時的に穴を開けて通路を作る」「誰の壁だよ、平気なのか?そんな事して」「恵美子が責任を持つと言っている」「セバスチャンの壁か・・・」十五年前の苦い記憶がマサトの脳裏をよぎった。アナトールの背信で壊れた壁を命をかけて封印したセバスチャン。その壁を壊さねばならぬのか。神内は続けた。「人数はそんなに入れない。盾は精鋭の者を集めろ」三峰は頭を下げた。マサトは昼の痛みに耐えている竹生に声をかけた。「竹生」「はい」「幸彦を感じるか?」「はい、まだご無事です」それが唯一の救いだった。幸彦がどこにいても感じとる。それは盾としての能力ではない。あの夢を共有した為だろうか。理由はわからないとしても、今の竹生にはどうでも良かった。自分が感じる幸彦の存在がまだ消えていない。それだけで良かった。「まだ食われてないって事だ。俺はお前達と一緒に行く」マサトは神内を見た。「悪いな、そっちを留守にして」「お茶菓子の文句を言われない分、サギリもほっとするだろうよ」「戻ったらケーキ位買っておくように、言ってくれよ」「呆れるあいつの顔が目に浮かぶようだ」「お前のネクタイの換えは、いつも用意しておくのにな」「日頃の行いの差だ」マサトは神内のわき腹を小突く真似をした。灰色の小さな部屋に幸彦は幽閉された。アナトールと異人達の繰り返される責め苦の中で、どのくらい過ぎたのかも解らぬ時が流れた。今は薬がなくてもほとんど身体を動かす事も出来ない。異人はほとんど言葉を話さない。しかしアナトールは他の異人とは違った。折を見てこの部屋で彼と二人で何かを話す。親しい友人のように、ぐったりとした幸彦の肩を抱いて、子供時代の事、音楽の事・・幸彦が聞いていようといまいとかまわぬように、色々と独り言の様に話すのだ。それがどういう事であるか考えるのも億劫な程、幸彦は弱っていた。ぼんやりとした頭で幸彦は思っていた。どちらしても彼は僕を食い尽くす。お母さんのように。苦痛は短い方がいい。「アナトール、僕を殺して・・今すぐに」アナトールは幸彦をあやすような口調で言った。「そんな事を言わない方がいいですよ。死は遅かれ早かれやってくる」幸彦の苦痛を楽しむように、アナトールはその手で幸彦の身体を弄る。苦痛と遠くなる意識の狭間で、幸彦は次第に失われていく自分の命を感じていた。アナトールの手が止まった。苦痛から解放された幸彦はアナトールが何かに気を取られているのを知った。何だろう。寄せた眉根に不機嫌の影が見える。『奴等』からの声だろうか。今の幸彦には何もわからない。何も感じず、何も出来ない。ここは彼等の領域なのだ。アナトールは幸彦から離れ、扉の方へ歩き始めた。「キミとゆっくりしていたかったけれど、どうもそうもいかないようです」暗い洞窟を走っていたマサトが立ち止まった。「竹生」「はい」「幸彦を感じるか」「はい」「ここから先は負の感情が強すぎる。他の盾は心がもたない」人ならざる身である竹生は彼等に近い分、まだ耐えられるとマサトは考えた。「一人でいけるな」「はい」竹生ははっきりと答えた。そして己の感覚の示す方へ飛ぶ様に走って行った。マサトは振り返ると他の盾達に言った。「お前達、騒ぎを起こすぞ。もし耐えられないと思ったら、すぐにこの場から退け。無理をして心を取られるな」三峰と火高が左右に走った。”異人”の気配が増えた。かなりの数がいる。「いけ!」マサトから発した青い閃光が四方に散り、異人を貫いた。盾達が異人の群れに目掛けて突進した。半ばうつ伏せるように、幸彦は床に横たわっていた。裸の背中も肩も傷だらけだった。「竹生・・」「幸彦様、お可愛そうに。さあ、参りましょう」竹生はマントを脱ぐと幸彦の身体を包んだ。「駄目・・僕・・動けないんだ」「私の背中に」「でも」「かまいません」どさりと幸彦の身体の重みがかかると激痛がやってきた。竹生は歯を食いしばった。「走ります。どうかつかまっていて下さい」痛みに耐え、脂汗を流しながら、竹生は走った。ここへは他の盾は入れない。負の感情が強すぎるのだ。心を取られてしまう。だが人でない竹生は、それゆえに耐えられるのだ。幸彦の身体に触れている背中の痛みに気が狂いそうになる。「竹生、辛いだろう・・」朦朧とした意識でも幸彦は竹生の痛みを理解している。「いえ、お気にせずに」貴方を失う方が、もっと辛いのです。竹生は痛みと共に伝わる幸彦のぬくもりを自らの支えとして、走り続ける。敵に見つかれば、万事休すだ。(マサト様達が時間を稼いでいる間に・・)竹生は必死で走り続けた。正面から駆けて来る影があった。今狙われたら勝てない。竹生はそう思いながらも歩を緩めなかった。「竹生様!」それは火高だった。「どうしてここへ来た」「幸彦様は私が」火高は竹生の背から幸彦を自分の背中に移した。「急ぎましょう」彼等は出口へ向けて再び走り出した。走りながら火高は言った。「私も少しこちらに近くなったようです」竹生に噛まれ血を与えるうちに、彼の身体にも変化が来たしたというのか。「すまない」「いえ」二人は更に足を速めた。グランドピアノの傍らにアナトールは立っていた。キミの命・・もう少し生き延びておくれ。僕はまだキミを死なせたくないんだ。『奴等』は怒るけれどね。また僕の名前を呼んでおくれ。キミは僕に食われながら僕を恨まなかった。だから僕はもう少しだけ、キミを生かしておいてあげる。アナトールはグランドピアノの蓋をすべて開けた。椅子の具合を確かめ、彼は弾き出した。激しい調べを哀しい音で。僕の弾くはずだった旋律・・僕のものだったはずの未来・・セバスチャン、僕らはどこからすれ違ってしまったのだろう。ねえ、セバスチャン、もう一度キミに逢いたいよ。異人達の動きが急に鈍くなった。何が起きたのだろう。今は原因を考えるより先にやる事があった。奥から走って来る竹生と火高の姿が見えた。マサトは叫んだ。「戻るぞ!」一同は後退して、”壁”の穴に飛び込んだ。穴は瞬時に塞がれた。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/20
熱望の災禍~急ぎし者珈琲の香りが漂う。キリマンジェロを好む神内の為に、サギリはいつも豆を用意している。年代物のミルで挽き珈琲を入れる。これも年代物の珈琲茶碗に黒く熱い液体が注ぎ込まれる。サギリは誰の好みも尋ねない。知り過ぎる程知っているからだ。この時の止まった部屋で飴色を帯びた家具に囲まれ、彼等は不思議な憩いのひとときを過ごしている。「貴方でないマサトなら、お菓子がないと機嫌が悪くなるけれどね」「すみません、僕も甘い物は好きです」サギリは声もなく笑い、どこからかチョコレートの箱を出して来る。「ここのはクリームが違うの、気に入ると思うわ」「ありがとうございます」トリュフ型の塊を箱からつまみあげ、マサトはうれしそうに頬張った。こういう時の彼は見かけ通りの少年にしか見えない。大いなる力を持ち、人の何倍も生きているようには見えない。神内は呆れたようにマサトを見た。「太るぞ」「僕はここ数十年、体形が変わった事はないんですよ」さざなみの様な気配が伝わって来た。室内の空気の色が一変した。「出て来たな」神内の顔に緊張が走った。「かなり大物ですね。壁の悲鳴が聞こえる」マサトはそう言い、珈琲を飲み干した。そして白いナフキンを取り上げ丁寧に唇を拭った。サギリは深く安楽椅子に沈み、遠くを見ている。「若い壁を狙っているわ。『奴等』も馬鹿ではないわね」「行きますか」マサトは立ち上がった。壁にひびが入ると小さな『奴等』が這い出してくる。それを叩くと又別の壁にひびが入り、『奴等』が出て来る。小物ばかりだ。確かにその裏には大きなモノがいる。壁を脅かす程の。けれども一気に押し寄せて来ない。神内はどこかおかしいと思っていた。「何故、こんなわかりやすい事をするんだ」「本当の狙いは・・」マサトから発した閃光が『奴等』を打ち砕いた。二人は同じ事を考えていた。マサトは感じた。身近な気配の異変を。崩れていく幻影を。予測していたとはいえ、こういう形でやって来るとは。「僕の結界が完全に消えました」彼等が退いたら後ろにいる奴が出て来る。今は動けない。「やはり、そういう事か」神内は青石剣を振るいながら叫んだ。「そういう事か!」凄まじい負の感情がやって来た。幸彦は周囲に夢の防波堤を築いた。皆が心を奪われないように。だが、何かが邪魔をしている。異人ではない、もっと大きな何かが幸彦の中に食い込んでこようとしている。些細な感情ですら受け止める幸彦の神経に、それは楔のように打ち込まれて行く。心の苦痛が身体の苦痛になっていく。悪意が幸彦を蝕んでいく。竹生の不在が彼を傷つけていた。その弱った心を見せないように張り詰めていた精神の負荷が、今一気に押し寄せてきた。眠れない夜が続いた身体は、負の感情の圧迫に抵抗しきれなかった。「幸彦様!」大きくゆらいだ身体を三峰が受け止めた。手を出しかけてその手を見つめて、竹生は一瞬暗い顔をしたが、決然と顔を上げ、三峰に言った。「来るぞ、私は行く。幸彦様を頼む」竹生が窓を開けた。窓の外にあの影がいた。金髪の異人アナトールが。今夜は月はなかった。「今日こそ一緒に来てもらいますよ、幸彦」「アナトール、僕は行かない」幸彦は答えた。アナトールの表情が動いた。それを笑顔と言うのなら凄惨な笑顔だった。「もっと連れて行きたくなりましたよ、キミを。幸彦」竹生は風を呼んだ。空に舞い上がった。幸彦の部屋の玄関に押し寄せる人々の叫びが聞こえた。鉄の扉が紙で出来ているかのように簡単に壊され、内側に倒れこんだ。人々は室内に我先に入ろうと揉み合った。それは異人ではなかった。彼等を押し戻しながら火高が叫んだ。「ここの住人が操られています」「手を出しちゃ、駄目だ」幸彦が叫び返した。「僕が・・遅かった」幸彦より先に彼等がここの住人の心を占拠したのだ。失策だと幸彦は自分を責めた。何と言う事を、僕がぼんやりしてたばかりに。結界が消えたというのに、僕は油断していた。竹生の事に気を取られていた。部屋へなだれ込んだ操られた人々が幸彦に飛び掛って来た。後から異人達もやって来た。火高はマンションの住人と異人の間に滑り込み、異人と戦い始めた。三峰は幸彦に群がる人々を掻き分け、幸彦を守ろうと必死だった。「貴方は前と変わったようですね」アナトールは竹生を面白そうに見た。「それほど大切ですか、彼が」竹生は答えなかった。アナトールの身体から発した赤い閃光が竹生を貫いた。竹生は宙でよろめいたが、落ちる事はなかった。竹生とアナトールがぶつかり合った。激しい力があたりに飛び散る。街灯が割れた。竹生はアナトールがどこか捨て鉢なのを感じた。戦い方が荒すぎる。一度手を合わせた相手を竹生は忘れない。このような者であるならなおさらだ。これは彼の好むやり方ではないという事か。だが今はそんな事を思っている時間はなかった。倒さねばならない。それが竹生がここへ戻って来た理由だ。竹生がアナトールの腕を掴んだ。アナトールは竹生に顔を寄せてささやいた。「僕はこれでも慈悲深いんですよ」「貴方が慈悲深いというのなら、私はどこまで堕ちても平気ですね」「やはり、面白いですね、貴方は!」爆発した力が竹生を地面に叩き付けた。竹生はすぐに空に駆け上った。負けるわけにはいかない。負ける為に戻って来たのではない。部屋に異変が起きていた。空間が歪んでいる。「これは」幸彦は頭を押さえた。きりきりと差し込まれるような痛み。苦痛の中に更に広がる違和感と嫌悪。こんなに強い力を直に感じた事はなかった。人ではありえない、異人でもない。「『奴等』だ」幸彦の力が妨害されていた原因。形すらなく、気配と負の感情があたりに渦巻くだけの存在・・存在と呼べるかどうかも定かでないもの。『奴等』がやって来る。それはありえない事だった。直接この世界に来るなどありえない事なはずだった。しかし今、その気配が歪んだ空間の向こうから近づいて来る。操られた人々がもがき苦しみ始め、ばたばたと倒れていく。戦いながら竹生もすぐに気がついた。黒き力がやって来る。悪しき物が近づいて来る。幸彦の隣に・・「幸彦様!」身を翻した竹生の前にアナトールが立ちはだかった。「貴方の相手は私ですよ」目に見えぬのに、そこに有ると感じる。悪しき気配。ぎりぎりと身体中を締め上げられるような苦痛。精神の負荷が肉体にまで及ぶ。抵抗しようにも出来ない圧倒的な負の感情。三峰も火高も倒れた。三峰はその場で両手を床について起き上がろうとしたが、身体が言う事を聞かない。傍らで頭を押さえうずくまる幸彦を見ている事しか出来ない。異人達が幸彦を担ぎ上げた。幸彦に触れた場所から黒い煙が噴出す。しかし彼等はそんな事は気にしていないらしい。彼等は人としての感覚や機能がどこまでも欠落してしまうのだろうか。「幸彦様!」三峰は空しく叫んだ。幸彦が連れ去られてしまった。『奴等』が崩壊し始めた。この世界ではそのままでいる事は出来ない。断末魔の声のない叫びがあたりに響いた。頭の芯から痺れるような苦痛が人々に広がった。苦痛の中で人々は意識を失っていった。それは竹生にすら届いた。身体を貫く激痛と衝撃に竹生は地面に落下した。アナトールは笑い声を残して消えた。倒れ付した人々の中に、神内とマサトが立っていた。破壊され尽くした室内。それは火高と異人の戦いと『奴等』の出現の痕跡だった。「『奴等』がここまで出て来るとはな」マサトは幸彦を奪われた怒りと悔しさで一杯になっていた。出て来たのは小物だとしても、自ら滅びるのを承知で出て来た。壁を破る際にも仲間が犠牲になっているはずだ。それほどまでに幸彦が欲しかったのか・・『奴等』の親玉は。「今までとは違う、違い過ぎるな」神内はあたりを見回した。建物ひとつを巻き込む騒ぎを起こすなど、今までは考えられなかった。『奴等』は目立たぬ事を好む。マサトは倒れている住民を調べた。心の手で。「操られた時間が短かったから、後遺症はないだろう」マサトは三峰の頭に手をかざした。三峰は意識を取戻した。火高にも同じようにした。起き上がった火高にマサトは言った。「お前は竹生と戻れ。竹生の傷も深い」火高は頭を下げ、素早く出て行った。三峰はその場にひれ伏した。額を床に強くこすりつける程に。「申し訳ございません」マサトは堅い表情をしていたが、三峰にかけた言葉に怒りはなかった。「向こうの作戦勝ちだ。お前は後始末をしろ。ここを引き払う」マサトは神内を見た。神内はマサトを見た。「俺の家を使え」マサトはここに来て初めて笑顔を見せた。「そう言ってくれると思ったよ」マサトはまだ頭を下げたままの三峰に言った。「片付けが終わったら神内の家で作戦会議だ。幸彦を取戻す」掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/17
時の代償~還りし者闇の奥深く、異人は立っていた。深く沈んだ夜の底にある静寂がその空間を満たしていた。「僕は忙しいんですよ」金色の髪の異人が異議を唱えた。更に深い闇の向こうに常人の目には捕らえられぬ影があった。「そうですね、あと三日あれば。あれはとても強固だから」影が不満げに身悶えした。「あれは貴方も知る者が編み上げたのですよ。容易ではありません」異人がよろめいた。激しい怒りの波動が彼を突き刺したのだ。「わかりました。出来るだけ急ぎます」すべてが闇に包まれた。竹生が姿を消して一月が過ぎた。幸彦はもうその名を口にする事はなかった。大きな『奴等』の気配はなく、時折どこからか這い出した小さな『奴等』を片付ける事で、神内達は暇をつぶしていた。彼等は待つ事には慣れていた。慣れていないのは幸彦だけであった。部屋から出られない苛立ちがつのっているのが、三峰にも感じられた。だが彼にはどうする事も出来ない。幸彦の神経を逆撫でしているのは、どこからともなく聴こえて来る不協和音のせいもあった。それが何なのかはわからない。しかしそう遠くない所からそれが響いて来る。そしてだんだんとはっきりと聴こえて来るようになった。「やばい」マサトは例の部屋でいきなり立ち上がった。「誰かが俺の結界に手をかけている」「『奴等』か?」神内はマサトが震えているのを見た。どういう事なのだろうか。「いや、異人が自分の仲間を生贄に結界を破ろうとしている。無茶しやがるな」「幸彦の所か」「ああ、あれを今から張りなおすのは無理だ」マサトは部屋を出て行った。行く先は地下室だった。ここの地下室にアイツを連れて来てある。強靭な意志が災いして、変化した身体と精神が融合せず、ずっと苦しんでいる。光の届かない夜なら、幾らかはましになるとはいえ、苦痛が全身を苛み続けている。もう一度アイツに思い出させるのだ。何の為に生きようとしたか。苦痛を乗り越えるきっかけになるかもしれない。新しい哀しみがあるかもしれない、苦しみがあるかもしれない。けれども今はその力が必要だ。たとえそれが呪われた力であっても。守らねばならないのだ、俺の息子を。見張りに立ってた三峰はすぐに結界の異変に気がついた。彼は感受性が強い。急いで秘密の合図を火高に送った。その彼も気づかぬ影が天空より幸彦の部屋の窓辺に降り立った。部屋の中にすべりこんだ影は、美しい人の形をしていた。影は白髪を夜の灯にほのかに光らせ、幸彦の眠る寝台に近づいた。彼はその片手を幸彦に伸ばした。白く繊細な手を。幸彦に触れようとした瞬間、強い電流に触れたような痛みが走った。寝顔を見下ろし、彼は己のした事を悔やんだ。人ならぬ身になった事をではなく、幸彦のそばに舞い戻った事を。幸彦が不意に目を開けた。「竹生!」叫んで幸彦は竹生の手首を掴んだ。激痛が走る。竹生の顔が苦痛に歪んだ。「お・・離し下さい・・」「いやだ」幸彦は起き上がった。気を失いそうなほどの痛みが手首から全身に広がる。「僕のそばからいなくならないと誓うなら、離してもいい」「それは・・・」脂汗が背中を伝う。「貴方の身近におりますから。幸彦様が危険な目に遭われたら、すぐにお助け出来る距離に」「嘘だ」苦痛が我慢の限界を超えそうだった。手を振り解こうとすれば、幸彦を傷つけてしまうかもしれない。「必ず・・お助けします・・」掴まれた場所から黒い煙が上がり始めた。幸彦ははっとして手を離した。「お前・・」竹生は黒く爛れた手首を押さえ、苦しげな顔のまま、立ち尽くしていた。「このような身体では、おそばにお仕えする事はかないません」「何があったんだ」竹生は答えない。「幸彦様!」三峰と火高が飛び込んで来た。竹生の姿をそこに見出すと二人は驚きの表情を隠せなかった。「結界が消えた」竹生は二人に言った。幸彦は二人が竹生の変化を知っているのを感じた。「竹生、お前は人ではないのだね」幸彦と竹生の間に三峰が割って入った。「竹生は貴方との約束を果たす為に人である事を捨てたのです。どうか彼をお許し下さい。竹生の出来ない事は私がいたします」三峰はその場にひれ伏した。「どんな事でもいたしますから、兄を・・どうか、お許し下さい」幸彦は三峰の肩に手をかけ、立ち上がらせた。「僕は誰も罰する事はしない」「竹生、見てご覧」美しい夢が竹生の意識を包み込んだ。「これは・・」あの夢だった。「僕が初めて人に送った夢だ。そう、お前に」「覚えていらしたんですか」「お前の中にこの夢を見つけた時、思い出したよ」「幸彦様・・」幸彦様が覚えていて下さった。それが竹生にはうれしかった。「お前の心を守ると言ったのに、こんなにお前は一人で悩んで・・ごめん」竹生は首をふった。「いえ、幸彦様は今も私の支えです」「僕がころんだ時、手を取って起こす事が出来なくても、僕が一人で起き上がる間、守ってくれる事は出来るだろう?だからそばにいておくれ」「はい」「三峰も火高も、他の盾もいる。そしてお前がいてくれるなら、僕はもう怖くないよ」結界がない今、竹生がここに来られたように『奴等』もやって来る。火高を部屋に残し、竹生は三峰を隣室へ連れて行った。竹生は三峰にささやいた。「白露と寒露、それと保名を呼べ」「保名を村から出してはなりません」「かまわぬ、幸彦様は今はここにいらっしゃる。マサト様のご負担を減らす事が第一だ」保名は村の結界の要だ。それを不在にしては村の守りが疎かになる。しかし幸彦には結界が必要なのだ。その為に強い力を持つ者がいる。「白露と寒露はお前の元に置け。私と火高の代わりに。お前の組を作れ」「竹生様!それは」「私はすでに死んだ身だ。火高も長くはない」竹生は何を言い出すのだろう。三峰は混乱した。「火高の次は私の命をと、申し上げたはずです」「私は他の命を奪って生きながらえる事は、やはり出来ない。お前の命まで奪う事は出来ない」「竹生様、それが私の気持ちです。私は幸彦様の盾、貴方の組の者です」必死な思いで三峰は言葉を探した。試練を乗り越えて戻って来たというのに、又逝こうとするのか。「生きて、幸彦様をお守りするのが盾の役目だ。そして村を守るのもそうだ」「ですから、竹生様、生きて下さい」竹生は三峰や親しい者だけに見せる笑顔を見せた。冷徹な長ではない顔を。「三峰」「はい」「私の亡き後は、お前が幸彦様のおそばにお仕えするのだ」「竹生様、そんな事を言わないで下さい!」「弟よ、お前が私の代わりに幸彦様のおそばにいておくれ。私はもうあの方には近づけない体なのだ。幸彦様を一人にしないと誓ったのに」竹生は黒く焼け爛れた手を差し出した。三峰は胸が詰まった。呪われた身体。決意したとはいえ、その身を持って生きながらえるのはあまりに残酷な事なのだ。「わかりました・・それが竹生様の誓いなら、私もそう誓います」火高は幸彦の傍らにいながらも、この兄弟の痛ましい想いを感じていた。人でない身になってまで守ろうとしたのに、それすらかなわぬと悟った竹生の苦しみと、誰よりも慕う兄との遠くない別れを感じている弟の悲しみを。そして自分の血を捧げて得られる時間が少しでも長くあるようにと、祈らずにはいられなかった。交錯する不安の中で、幸彦は遠い音楽を聴いていた。不協和音のような音は今やはっきりと聞き取れるようになった。それはピアノの調べだった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/15
闇の中の永遠~決意する者村の奥の禁忌の場所に竹生は入り込んだ。山の奥は道すらない。鍛えられた竹生でもたどり着けるかどうかわからない奥まで進まねばならない。その洞窟がまだあるのかもわからない。伝説でしかないかもしれない。そう思いながらも竹生の足は止まる事はなかった。動物たちの気配がした。しかし彼を遮る者はいなかった。それらの生き物の気配すら途絶えた先に目的地はあった。本能が生き物をここへ寄り付かせないのだ。生き物の命を喰らう者の住処へ。途中で日が暮れた。竹生は野宿をする事にした。持参の防寒布に包まり、窪地で身を横たえた。このような状況も竹生はあまり苦にしていなかった。快適であるかどうかより体力を回復する方が優先だった。そして目的を達する事が何より大切だった。空には星はなかった。低くたれこめた雲のおかげで、山の冷え込みは幾分和らいだ。あれは私が三つの時だった。さゆら子様の”盾”の長だった父は、生まれてまもない幸彦様の許へ私を連れて行った。横たわるさゆら子様の傍らで、幸彦様は眠っていた。「お前はこの方を守る盾になるのだ」と父は言った。私はその私の主となる小さな人を誇らしい気持ちで見ていた。いつか父の様になる、それが私のあこがれであったから。幸彦様は目を開けて、私に向かって手を伸ばした。私はその手を握った。すると美しい夢が私の中に流れ込んできた。それはありふれた野原のようであり、どこにもない約束の地のようであった。汚される前の楽園だったのかもしれない。静かで清らかな場所・・幸彦様はどこからその夢を得たのだろう・・さゆら子様はすぐに気がついて「この子が力を使ったのは貴方が初めてよ」とおっしゃった。あの小さな手を取った時から私の運命は決まっていたのだ。何があってもこの方をお守りしようと。美しい夢を下さった人を。幸彦様はその事を覚えていらっしゃらないが、そんな事は問題ではない。これは私の誓いなのだ。たとえ呪われた身になっても、あの夢が私を支えてくれるだろう。幸彦様がいなくなられた後までも・・いや、私は後に残る。たとえ1日でも1分でも幸彦様の後まで生き延びる。その為に、私は山を登るのだ。日が昇ると竹生は又歩き始めた。いつの間にかひとつの方向へ導かれるように歩いている自分を感じた。草をかきわけ、つるや枝を切り裂きなから竹生は進んだ。すると道が現れた。あきらかに人の手で作られた跡があった。竹生はそれを辿り、更に登って行った。どの位の時間が経っただろう。山に入った時から時計は止まってしまった。竹生は時間に対する訓練もされていたが、今はそれも役に立たないのを感じた。身体の疲労が長時間歩き続けている事を示していたが、空腹を感じる事もなかった。普段の感覚から遠く隔てられたような違和感が、ここにはあった。禁忌の場所。ここには何か仕掛けがあるようだった。そこまでは言い伝えにはなかった。一種の結界なのだろうか。しかしそれを追求するつもりはなかった。目的地までたどり着く事が先決だった。そして竹生は遂に見つけた。忌むべき者の住まう場所を。洞窟の入り口に彫られた文字は磨耗していた。かつては何と書かれていたのだろう。竹生は恐怖がその奥から流れて来るのを感じた。竹生の強靭な心すら怖気づかせる程の恐怖がこの奥にある。ここには風はないのに、彼の髪は不可思議な乱れ方をした。(幸彦様・・)恐怖を払いのける為に、竹生は幸彦の事を思い浮かべた。そして奥へ進んで行った。暗い中をその恐怖の源に向かって。ともすればすくんで足が前に出なくなる。一歩一歩が果てしなく重く感じる。進めば進む程、足が重くなる。それでも竹生は必死で前に進んだ。やがて何かのうごめく気配を感じた。それが恐怖の根源だった。異人ではない。もっと別のものだった。カミソリの刃をあてられているような恐怖。一歩でも動けば切り裂かれそうな。竹生は自分に言い聞かせた。ここまで来て何を恐れるかと。薄く光る岩壁がその姿の影を作っていた。影が動いた。こちらを見た。竹生は遠くなりそうな意識を保つのが精一杯だった。その影は言った。「何が望みだ」竹生の目には朧にしか捉えられない影。「私の罪はまだ許されないのか?」狂った魂がそこにあった。流浪の果てにここに流れ着いた者。呪われた者。生きる為に命を奪う者。この山に封ぜられし者。「贖いを私に。私に貴方の呪いを下さい」竹生の言葉に影は動いた。そして近づいて来た。それは痩せた男の形をしていた。まとわりつく恐怖と狂気がなければ、平凡にすら見える姿。ぼろ布を巻きつけたような衣服にだけ時間が感じられた。男は呻く様に言った。「それで許されるのか?」「貴方の罪を私がもらい受けましょう」竹生は今にも逃げ出しそうな恐怖を打ち消すように、大きな声ではっきりと言った。「貴方には安息を、私には永遠を」「永遠?永遠には苦痛しかないぞ」「それでもかまいません」男は笑った。錆付いたような声で。「良い決意だ。来るがいい、我が地獄へ」男の手が竹生の胸元に伸びた。衣服の引き裂かれる音がした。白い喉許に男の顔が近づいた。竹生は目を閉じ、立っていた。何かが首に食い込む激痛の中で、意識は薄れていった。(さようなら、私にはもうあの夢の場所へ行く資格はありません・・・)「私は永遠と共におり、その永遠も私の手から離れてしまう」それが洞窟の入り口に刻まれた言葉だった。竹生の変化した目にははっきりとそれが見えた。目を覚ました時は洞窟の出口の近くに倒れ伏していた。あの者が運んだのであろうか。奥からの狂気のような気配が消えている。自分が試練を乗り越えたのを竹生は知った。喉元に手を触れたが傷はなかった。だがあれは夢ではない。身体が冷たい。手足がバラバラになりそうな違和感。一度解体した人形をもう一度繋ぎ合わせたような。ようやっと力を込め、よろよろと立ち上がり、竹生は洞窟を出た。こんなにも光とはまぶしいものなのか。真昼の陽射が痛い。身体の動きには影響は無いが、全身を針で刺されるかの如き痛みだけがある。絶え間ない痛み。それが呪われた身体に与えられた罰。振り返り、竹生はあの刻まれた言葉を読み取った。そして・・道すがら竹生は兎を見つけた。竹生の放ったナイフはそれを的確に仕留めた。まだ温かい獲物の身体を拾い上げると、生れたての牙を食い込ませた。赤い血潮が喉許を流れ、胸を汚し、地にしたたり落ちた。咀嚼のような微かな音。しばらくして獲物から顔を離し、血だらけの口元を拭おうともせず、竹生はそこに膝をついた。そして膝をついたまま泣いた。痛みは身体だけはなかった。すでに動かぬ獲物が心に針を立てる。「ゆきひこさま、ゆきひこさま・・・」それだけが救いの祈りの言葉の様に、竹生は繰り返し彼の名を呼び、泣き続けた。大いなる力を持つ者が一族に時折現れる。彼等はその力と引き換えに短命である。その命が尽きようとする時は、その髪が白髪となる時。定めに従い生を終える者もいるが、より長く生きたいと思う者は山を登るのだ。その山の奥に呪われた者が棲むと言う。その者の力を借りれば、今しばらくの命と力を得るが、人でなくなると。人でなくなるとはどういう事なのかは定かではない。呪われた身に何が起きるのかも。その者は生き物の命を喰らい生き続ける者。長い流浪の果てにここに辿り着いた者。その者は山の生命を啄ばみながら、今も罪を悔いているという。その罪が何であるかは誰も知らない・・村に伝わるおとぎ話だ。おとぎ話でありながら、何年かに一人、山を登る者がいる。不治の病に冒された者、更なる力を得たい者・・しかし誰も戻って来ない。長老ですら戻った者がいたかどうか知らないのだ。心研ぎ澄ました者は、山の奥にいる者の嘆きの声を聞く時がある。それは余りにも激しい絶望の慟哭で、聞いた者は一生忘れないと言う。竹生達の母はそれを聞いた。哀しい声だったと、幼児にして力の片鱗を見せていた竹生の頭を撫でながら、その話をしたのを竹生は覚えている。(もしもお前があの山に登る時が来ても、私は止めはしない。あの哀しみを受け止められる程にお前は強くなるだろうから)その母もすでにない。人の気配がした。竹生は顔を上げた。マサトがそこに立っていた。「マサト様・・」「サギリに送ってもらった。お前の行きそうな場所へ」「ここをご存知とは」「俺はお前の何倍も生きてる。佐原の事は何でも知ってる」竹生はゆらりと立ち上がった。マサトは口元を血に染めた竹生を痛ましそうに見た。竹生は顔を伏せようとした。「恥じるな、それがお前の決意なら」マサトは言った。竹生は身体を震わせた。恥じるなと幸彦も同じ事を言った。顔を上げ胸を張り、竹生はマサトを見た。「アイツの為に、ここまでしてくれたお前に礼を言う。ありがとう」「マサト様・・」「俺は又眠る。お前も来い。昼間の太陽は今のお前には辛いだろう」二人の姿が揺らいで、消えた。静寂が戻った山の森に、兎の骸がひとつ、残された。「竹生、帰って来ないね」竹生は一週間を過ぎても戻らない。三峰はずっと幸彦のそばに控えていた。何事もなく時は過ぎていた。アナトールとの戦いの衝撃から立ち直った幸彦は、いつもと変わらない態度で三峰に接していた。時々竹生の不在を嘆く時だけ、不安な顔を覗かせた。三峰は本当の事が言いたかったが、それは禁じられていた。それでも竹生の想いだけは幸彦に伝えたい気持ちを押さえられなかった。「竹生は幸彦様を誰よりも大切に思っています。何があってもそれだけは、それだけはどうか忘れないでいて下さい」竹生に何が起きたのか、幸彦は聞きたいと思った。三峰の真剣なまなざしの裏に哀しみがあった。同時に三峰は何も言わないだろうと悟った。幸彦は竹生を信じようと思った。たとえ見えない所にいようと、それは自分を守る為に竹生が選んだ事なのだ。三峰をそばに残していったのも、彼の気持ちなのかもしれない。そう思いながら幸彦は竹生が懐かしかった。三峰の心中は更に複雑だった。竹生はここにはもう現れる事はないのだ。彼はここには存在する事は出来ない。人でない身になった竹生は結界を越えられない。何よりも幸彦のそばにいることさえ・・「うん、わかった」幸彦は窓の外を見た。雨が降っていた。冷たい雨だった。こんなにも誰かが大切だと思った事はなかった。誰かの不在を哀しんだ事はなかった。父親と解ったマサトを別にして。(お父さんにとって、神内さんやサギリさんが特別であるように、僕には竹生が特別なんだ)風が出て来た。窓硝子に激しく雨がぶつかるのが見えた。幸彦には窓が泣いているように見えた。そして竹生もどこかで泣いているように思えた。届かないと知りながら、幸彦は竹生の名を呼びたいと思った。今は三峰がいる。後で一人になったら、声を出して呼んでみたいと思った。竹生が来るはずはない、そう解っていても、呼んでみたかった。心の内で繰り返すより、耳に届く言葉にしたかった。そうしなければ永遠に竹生は帰って来ない気がした。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/11
裏切りの行方~残されし者幸彦は深く眠っている。初めての大きな敵を間近にした緊張は相当のものだったのであろう。竹生は密かに火高と三峰を幸彦の部屋の居間に呼び寄せた。「私は山へ登って来る」「竹生様、そこまでのご決意を」火高はそう言って堅い顔をして目を伏せた。三峰はいつもの笑顔を消して激しい口調で言った。「私達がおります。竹生様はご無理なさらずに。そうすれば少しは」山へ登る・・その意味する事は盾なら誰でも知っている。竹生は三峰をやさしく見た。彼が自分を心配してくれる気持ちがうれしかった。同じ家に生まれ、共に学び共に生きて来た彼。普通の家庭なら弟と呼ぶのだろう。「三峰、私の髪を見ろ。もう時間はないのだ。マサト様よりも早く私が逝くかもしれない。少しでも長く生きながらえる方法があるなら、それを試さねばならない」「しかし」「私は、あの方を一人にしないと誓ったのだ」三峰はうなだれた。自分達の役目、叩き込まれた鉄則は彼の中にも生きている。だが竹生の決意はそれをも遥かに超えていた。決められているからやるのではない。彼が彼自身として幸彦を守りたいと望んでいるのだ。それがあるからこそ、竹生は”盾”の長なのだ。「もし私が戻れたら、お前達の命を私にくれ」火高も三峰もうなずいた。火高が言った。「私達は幸彦さまの”盾”です。どうか竹生さま、あの方の事を」「すまない」竹生の目から涙が流れていた。「お気になさいますな。我等の命、元から幸彦様のものです」「ありがとう・・不甲斐ない長の私を許せ」夜が明けた。「村に寄って来る。確かめたい事がある」そう言い置いて、竹生は出て行った。竹生は佐原の家の奥で藤堂の正面に正座していた。板の間ではあったが、この家の大事を取り決める特別な場所である。周囲を主だった家の者が取り巻いていた。藤堂はゆったりと胡坐をかいていたが、突然の竹生の帰還に苛立たしい表情を隠せなかった。「これ以上、勝手な真似はさせぬぞ」藤堂は渋い顔で言った。竹生は冷たい美貌を更に凍りつかせたような顔をしていた。「では、尋ねる。誰が幸彦様の居場所を教えた?『奴等』の使いとどんな取引をした?」藤堂の顔にひるんだ表情が走った。「佐原の姓を名乗らせず、マサト様も神内様も幸彦様が誰であるか隠し通して来たはずだ」「それが、何だと言うのだ」「先代の盾よ、さゆら子様を失った時にその誇りも失ったのか?」藤堂の顔が歪んだ。「小僧・・・もう時代は変わるのだ。こんな生活を続ける意味はない」竹生は立ち上がり、周囲を見回した。顔を背ける者、彼をにらむ者・・「変わらない、変わってはならないのだ。私は戦い、それを思い知った。『奴等』に支配された惨めな者達と。お前等もそうなりたいか?『奴等』の操り人形になるのが、お前達の望みか?」一人の若者が走り出た。彼は竹生の前に膝をついた。「私は竹生様と共に参ります」「間人(はしひと)、お前は藤堂の息子ではないか」彼は振り返り、父に激しい目を向けたまま、言った。「盾の誇りを捨てた者を父とは呼びません。ましてや幸彦様の命と引き換えに自分を守ろうとするなんて」もう一人の若者が前に出た。粗野にすら見える身体から発する強い意志が周囲を圧した。「そうか、道理で最近おかしいと思ったら、そういう事か」「久瀬(くぜ)、ここはお前の入れる場所ではない!」藤堂が激しく叱咤したが、久瀬は面白そうな顔をして彼を見た。「当主様を敵に売った奴こそ、ここにいる資格はねえんじゃないの?」藤堂は怒りに燃えた顔で久瀬をにらみつけたが、何も言わなかった。「藤堂・・父亡き後にまとめ役をまかされたお前が、こんな風になるとはな」竹生はつぶやくように言い、顔を上げて宣言した。「ここを出て行きたい者は出て行くがいい。ただし、我等の邪魔をするな。邪魔をすれば一族と言えども容赦しない。幸彦様を売り渡そうとした者は、それ相応の報いを受けよ」飛び掛った藤堂を、竹生は優雅な手さばきで畳の上に倒した。「恥を知れ」竹生はあくまでも穏やかだった。「間人、久瀬、藤堂を離れに連れて行け」藤堂はもはや抵抗はしなかった。「出て行く者はいないのか?」竹生はもう一度言った。「申し訳ありません!!!」「竹生様、すみません!!」口々に叫びながら、皆、そこにひれ伏した。「迷った我等の心に、つけこまれたわい」部屋の隅から老人の声がした。「臥雲(がうん)長老、ここで何があったというのですか」「金髪の悪魔が来たのだよ」「やはり、そうでしたか」老人は壁に寄りかかり、溜息をついた。「ワシは床に伏せっていた。実際には藤堂と奴の間に起きた事だ」「奴が入り込むなぞ、そこまでここの結界が弱っていたのですか」「うむ、奴はさゆら子様を食った奴だ。強くなっていた、前よりも」竹生は手を振った。人々は素早くその場を去った。「保名(やすな)は残れ」「はい」応じたのは、若い娘だった。娘は立ち止まりその場に膝をついた。「お前は仲間と結界を張りなおせ。幸彦様が戻られるまで頑張ってくれ。辛いだろうが」「いえ、竹生様のお役目に比べたら辛いなぞと。それに・・」「それに?」「知らずに藤堂に従っていた自分が悔しいのです」「そうか、ではその分の償いも含めてよろしく頼む」「はい、お任せ下さい」保名は頭を深く下げると、立ち上がり去って行った。後には竹生と老人が残された。「私は幸彦様の元に戻らねばなりません」「どれ、老体に鞭うって働くとするか」「お願い致します。マサト様はとても大きな物が来ると」「うむ、それはそうだろうな。ここへ幸彦様を連れて来られた位だからな」「あの異人、アナトールに憑いている奴は、かなり強い」「それだけ人間としての哀しみが深い子供だったのだろうな、あの子は」「だとしても、同情はしません」「それが正しい。知っているか?藤堂はお前の父にいつも嫉妬していた。それはお前の父が死んだ後にも続いていたのだ。死んだ相手に勝つ事は出来んからな」「馬鹿な事を・・」「それが人間なのだ。だから『奴等』はどこからでもやって来る」老人は竹生を見た。「竹生」「はい」「髪が白くなったな」長老は気がついてると竹生は思った。自分が戻って来た本当の理由を。「三峰を幸彦様のおそばに置いて来ました」「そうか、それは良い事をしたな」「三峰なら私以上の長になれるでしょう。私は盾以外にはなれないが、あれはもっと広く村全体を見る目を持ち合わせている」「いや、お前も立派だ」「ありがとうございます」「ここへは、もう戻らぬつもりだな」「はい」竹生は素直に答えた。老人は愛しげに竹生を見た。「お前は私の一番の自慢の孫だ」竹生は老人のそばに寄ると跪き、その手を取った。「いつまでもお元気で、お爺様」「竹生はどこに行ったの?」幸彦は三峰に聞いた。今朝、目覚めると竹生はいなかった。いつもならリビングで幸彦を待っているのに。代わりにいたのが三峰だった。「竹生は急用で村に戻りました」「長くかかるのかな?」三峰は微妙な表情をして答えなかった。その面差しが竹生に似ているのに、幸彦は気がついた。漆黒の髪をふっつりと肩で切りそろえた髪型に違いがあるが、細いおとがいも切れ長の美しい目も。幸彦の出会った盾は何故か皆それぞれに美を持っていた。過酷な使命を担ったものへの神の恩恵であろうか。中でも竹生はずば抜けて美しかった。三峰は軽く微笑んだ。その笑顔もどこか竹生を思わせた。「お前は竹生に似ているね」「私達は同じ父を持ち、同じ母の元で育ちました」「じゃあ、兄弟なの?」「ええ、竹生は私の兄です」三峰が竹生の弟と知り、幸彦は彼に対して親しみが湧いて来るのを感じた。「竹生が早く帰って来てくれるといいな」今まで以上に打ち解けた口調で言う幸彦に、三峰は黙って頭を下げた。まるで顔を隠すかのように。村での出来事は連絡を受けた火高から知らされた。すでに竹生が家を出た事も。(竹生様・・)竹生が必ず戻ると三峰は信じたかった。それまでは自分が竹生の代わりに幸彦様をお守りするのだ、しっかりせねばならないと三峰は自分に言い聞かせた。山に登って戻った者はここ数十年誰もいないと知ってはいても・・掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/09
過去からの悪意~偽る者「ここが幸彦様のお住まいですか」竹生が室内を物珍しげに見回した。鍛え上げられた冷徹さと相反する子供っぽい面が同居している、不思議な青年だ。「うん、僕とお父さんの・・」言いかけて、幸彦は胸がつまった。マサトとはもう逢えないかもしれない事を思い出したのだ。竹生は頭を下げて出て行こうとした。「どこへ行くの?」「外で見張ります」幸彦は今は一人になりたくなかった。「ここにいて」「しかし」「お前の仲間もここにいればいい。他の盾にも逢いたい」竹生は厳しい顔をした。「盾の事は幸彦様ご本人にも知らせてはならないのです」「なぜ?」「貴方が敵を知る時は、敵も貴方を知ります。私達の事もあちらに知られる可能性があるのです」幸彦はうつむいて、抗議した。「でも、僕を一人にしないと言ったじゃないか」竹生は表情を和らげた。「では私の組の者だけならよろしいでしょう。何かの時には私の代わりとなる者達ですから」”私の代わり”竹生はどこかで感じていたのだろうか。自分の運命を・・竹生は後にその言葉を深く噛み締める事になった。そして掟をあえて犯した事を悔やまずにすんだのだった。「うん、ここは広いから寝るだけなら四人でも十分だ」竹生はベランダに出ると、微かに手を振った。ドアのチャイムが鳴った。二人の若者がやって来た。ごく普通に友人宅でも尋ねるように、彼等はやって来た。”盾”という非現実な役割とその落差が、幸彦には面白かった。一人は浅黒い肌の逞しい精悍な若者で、もう一人は華奢でしなやかな体つきをしており、肩で切りそろえた漆黒の髪をしていた。”盾”は三人ともタイプは異なるが並外れて美しい容姿を持っていた。特殊な生き方を課せられた代償に、彼等はこのような美しさを与えられたのであろうか。浅黒い若者は火高(ひだか)、もうひとりは三峰(みつみね)と竹生は幸彦に紹介した。二人は黙って頭を下げた。奇妙な同居生活が始まった。竹生はほとんど幸彦と共にいた。それを幸彦が望んだのだ。後の二人はマサトの寝室を交代で使っていた。彼等が見張りをしているらしく、どちらかがいつも不在だった。食事はほとんどが自炊だった。買い物も彼等がした。幸彦は外に出られなかったが、不自由とは思わなかった。竹生とも他の盾とも徐々に打ち解けて、話が出来るようになると、同年代の友達を余り持たなかった幸彦には、楽しくさえ感じられた。今の状況を忘れてしまいそうになるほどに。彼等は博識で豊かな心の持ち主だった。数日はそのように穏やかなまま過ぎていった。神内達からも何も音沙汰はなかった。それは突然やって来た。空いっぱいに見える程、満月が大きく輝く夜だった。結界の中にいてさえ苦しくなる程の負の感情がやって来たのだ。幸彦は胸を押さえてその場にうずくまった。(予兆だ、何かが来る・・・)竹生が幸彦を支えると、部屋にいた三峰は竹生と目で何かを語り、そのまま出て行った。サギリの言葉を待つまでもなく、マサトもそれに気がついていた。例の部屋でマサトは優雅に安楽椅子に腰掛けていた。「まずはあちらに揺さぶりに行きましたね」「俺達には挨拶なしか」神内はソファに寝そべって新聞を読んでいたが、それをテーブルに投げ出した。「雑魚はまかせておきましょう。僕らが親玉を叩けばそれでいいんですから」「雑魚かどうか、な」「幸彦と”盾”がいます。大抵のものは大丈夫でしょう」マサトは何かの気配を感じた。どこかで感じた覚えがあるもの、それが更に強く・・「これは」神内もそれに気がついていたらしい。「諦めが悪い奴が出て来たな。お前はどうする?」「もう一人の僕が大丈夫だと、幸彦達にまかせておけと」「じゃあ、いい。アイツがそう言うなら」「すみませんね、僕では頼りにならなくて」マサトはわざとおどけた調子で言った。「そう言えるだけの余裕があるなら、それでいいさ。お楽しみはこれからだ」神内は手を伸ばして新聞を拾い上げると、仔細な顔をして読み出した。「ただ、幸彦は知らないんですよ。アイツに母親を食われたと」神内は新聞から目を離さずに言った。「それで心を乱される位なら、結界があった所で役に立たん。最後に自分を守るのは自分だからな」彼は満月を背に空に浮かんでいた。羽根があるわけでもなく。宙に苦もなく立っていた。金色の髪が、月光にきらめいていた。その青年は”異人”であった。「僕はアナトール、君を迎えに来たよ、幸彦」竹生は立ち上がった。「幸彦様、決してここから動かないで下さい。この建物の住人に夢を。誰も気がつかないように」「わかった」竹生は窓を開けた。竹生の髪がふわりとゆれ、その身体が窓から宙へ飛んだ。竹生はアナトールと対峙した。「面白い術ですね」アナトールは笑顔を崩さなかった。片手を挙げ、掌を竹生に向けた。何かの衝撃が竹生を吹き飛ばし、マンションの壁に激突させた。竹生はふわりと元の位置に戻った。風が彼の周囲を取り巻いていた。それがクッションとなり彼を守っていたのだ。「貴方こそ」地上が騒がしくなった。異人達と盾が戦っている。人でありながら空ろな目と恐ろしい怪力を持つ者達。火高を中心に盾達は戦っていた。それぞれ得意な武器を手にしている。「三峰、幸彦様を!」三峰が窓から飛び込み、幸彦の前に立った。三峰はいつも笑顔をたやさない青年だったが、今は違う。それが敵の強さを幸彦に知らしめた。アナトールは言った。「下の人間達をご覧。出ておいで、キミの力なら彼等の心を救えるよ」「嘘です。自ら望んで心を明け渡した者は、幸彦様でも救えません」竹生はアナトールに飛び掛った。何度か宙でぶつかり合い、激しい力がせめぎ合った。竹生はアナトールを捕まえた。アナトールから膨れ上がった力が、竹生を吹き飛ばそうとした。だが竹生は踏み止まった。竹生はアナトールを蹴り飛ばした。不意を突かれ、アナトールは地面に激突した。竹生は上空から言った。「身体を使う事では、私には勝てませんよ」アナトールはよろよろと立ち上がった。「貴方達を甘くみていたようですね」火高がアナトールに槍を突き立てた。串刺しにされたアナトールはにやりと笑った。「すでに悪鬼と化しているのか」火高はそうつぶやくと、懐に手を入れ、取り出した何かを彼に振り掛けた。「ぐあああああああああ!!!!!」アナトールが白目を向いた。海老のように反り返り、槍と共に宙に跳ね上がった。「今日は帰ります。いずれ又」声を残してアナトールの姿が消えた。他の異人の姿も消えた。盾達も何処となく去っていった。竹生が窓辺から部屋の中に降り立った。月光をまとい天使が降臨したかのように。竹生は幸彦を見て微笑んだ。「思ったより疲れました」三峰は心配そうに竹生を見た。竹生の髪はほとんど真っ白になっていた。部屋には幸彦と竹生だけが残された。月夜に静寂が帰って来た。「竹生は強いね。お父さんとどっちが強いだろう」「私は誰より強いとか弱いとか、そういう事には興味はありません。貴方を守るのに十分な強さがあれば、それでいいのです」竹生らしい答えだった。「竹生、僕を捕まえられる?」「いつでも」簡単に竹生が幸彦を押さえ込んだ。力を緩めると幸彦は逃げようとする。それをまた竹生が手足を巧みに使い、逃がさない。幸彦は笑い声を上げながら、竹生の戒めが緩むと同時に身をよじる。二匹の子犬がじゃれるように二人はそれを繰り返した。遂に竹生は幸彦をしっかりと押さえ込んだ。幸彦の顔のすぐ真上に竹生の顔があった。けぶる月のような美貌が自分を見ていた。幸彦はふとこみ上げる想いを感じた。どちらかからともつかぬまま、唇が重ねられた。不意に身を起こし、離れようとした竹生を幸彦は抱きしめた。竹生は身体を堅くした。「恥じるな」幸彦は凛とした声で言い放った。「僕を守ってくれ。『奴等』に食われないように。お前の心は僕が守るから」竹生はうなずいた。私はお仕えすべき人を間違えなかった。この方の為に私は生きていこう。竹生はあらためて心に誓った。「親ってやつは不思議な気分だな」マサトはいつのまにか”交代”していた。神内はソファで本を読んでいた。「俺は親になった事はないからな」「あいつ、守られるだけではなく守る事を覚えたらしい」「いい事じゃないか」幸彦が生まれた時、マサトは眠りの中にいた。さゆら子が夢の中に幸彦の誕生を知らせて来た。それからもさゆら子は幸彦の成長を夢で届けてくれた。幸彦はみんなの希望だった。彼なら自分達よりも遠くへ行けるだろう。そしてもうひとつの希望が、カナの中にあった。同じ未来を繰り返さぬ為に、皆の願いを担う”純潔の嫡子”が。「俺の手を離れていくのは、さみしい気がするよ」「喜んでやれ、幸彦は俺達なしでも立派に生きていけるようになるさ」「そうだな、その方がいいものな」掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/06
薄氷の壁~15 years ago「初子さんが・・死んだなんて」サギリは店に尋ねて来たセバスチャンの言葉に青褪めた。「アナトールがわざと『奴等』に侵入させたのだ」「そんな」初子は『奴等』に心を奪われまいと抵抗したが、老齢の彼女の身体はその争いに耐えられなかった。壁を修復する事に力を割いていた為に『奴等』を退ける余力がなかったのだった。「彼もそこまで大事になるとは思っていなかったろう」奥の部屋である。重厚な古い西洋の調度品はセバスチャンにはしっくりと馴染んで見える。彼も又アンティークのような佇まいでそこにいた。しかし今は風雅とはほど遠い難しい顔をしていた。「神内にはまだ言わないでくれ。僕の方で出来る事はする」「わかったわ、でも時間はないわよ。初子さんの後継者はまだ駄目なの?」「あの子は不安定過ぎる。僕が二人分請け負うよ。しばらくの間はね」「無理よ」「他に方法はない・・それに、僕のせいだ。僕が彼を追い詰めてしまった」「あの子は、そういう子だったのよ」「だとしても、それを僕が引き出してしまったのだからね」アナトールをもう少しかまってやるべきだったのだ。彼ともっと話すべきだった。彼の絶望がここまで深いとは思わなかったのだ。迂闊な自分をセバスチャンは責めていた。彼には音楽があり、それが彼の心を占めていると思っていた。陽気で良く話す明るいアナトール。でもそれが仮面だったのだと、何故気がつかなかったのだろう。「終わったよ」奥の扉が開き、カヅキが姿を現した。初子を死に至らしめた『奴等』を退治してきたのだ。彼の銀の身体が痛ましいほどに傷ついているのが、セバスチャンの目にも見えた。そういえばカナの姿がない。カヅキを癒す事が出来るカナがいないという事は・・セバスチャンはますます気持ちが暗くなっていくのを感じた。悪い方へ、すべては転がり始めているのか。最初の識別を誤ったが為に。カヅキは安楽椅子にどすんと腰を降ろした。疲れた顔をしているが、可憐なやさしい表情はそのままだった。「自分を責めないで、セバスチャン」カヅキはいたわる様に言った。彼はいつも他の誰かの心配をする。自分がこんなに傷だらけなのに。自然に治癒する傷もあるが、それも限度がある。カナがいなければカヅキはどんどんと弱っていくのに。「神内には知らせた方がいいよ。もっと大きなのが来る。僕だけでは無理だ。マサトも起こさないと」「そうするわ」サギリは立ち上がり、出て行った。「ねえ、アナトールはもう戻れないのかな?」「わからない。彼がどの程度『奴等』に支配されているか」セバスチャンは部屋を訪れた時のアナトールの様子を思い浮かべた。大きな哀しみと深い憎悪が入り混じり、その場を汚染していったあの・・暗い気配。僕は彼を傷つけた。わかっていたのに、そうしてしまった。僕は彼の好意が師に対するものでないと気がついていた。少し冷静にさせようと距離を置いたのが逆効果だった。恵美子は僕の姪だ。アナトールはそれを知らない。家族の秘密を、恵美子の身内が隠したいものを、僕が明かすわけにもいかなかったのだ。遥か昔の海の向こうのロマンスに、こんな形で復讐されるとは。日本人に恋人を奪われた仏蘭西の男の魂が、同じ祖国の血を持つアナトールに作用したとでも言うのか。恵美子の祖父は僕の父。僕の血は半分はこの国のものなのだ。アナトールと同じだけ、この地に結ばれている。しかし今はそんな事は意味がない。”壁”の向こうに半身を捧げてしまったアナトールには。大切なのは二度とアナトールにあやまちを繰り返させない事だ。「僕は壁を守る。今は何とか処置してあるが、又来られたら破られる」「お願いします。僕もちょっと疲れて・・」カヅキは弱く微笑んだ。かなり傷は深いようだった。廊下に出るとサギリがいた。「神内はカナを迎えにいったわ」「彼女、戻ってくるかな」「わからない」「君にわからないなんて」「イレギュラーな事が多すぎるわ」「何かが変わろうとしているのだろうか」「出来れば、良い方に変わって欲しいわね」「マサトも子供を持つなんて初めてだな」「ええ」サギリは何かを払うようにかぶりを振った。「今は出来る事をしないと。迷っている時間はないわ」「では、僕は行くよ」表に出れば、そこは普通の世界。僕らの生きる世界がある。しかし誰も知らない哀しみが覆い尽そうとしている世界でもある。僕らはそれを阻止出来るのか?いや、しなければならない。僕のつぐないを・・・。恵美子はいない。初子の葬儀の為に実家に戻ったのだ。表向きは心臓発作。それでも可笑しくない年齢だ。誰も本当の事は知らない。恵美子にも教えない。彼女を解放しなければ。そうすればアナトールは彼女を狙わなくなるだろう。そうなって欲しい。遅いかもしれない。僕の過ちが広げた災禍は、僕の弱い心の表れだ。僕はアナトールを裁く資格はない。僕もまた分断された者なのだ。この身体と心は、もはや一緒にはいられない。心だけ、僕は心だけで旅立とう。壁を永遠に守る為に。誰かを守れるなんて思っていない。そんな事が出来るとは思っていないから、誰も僕はそばに置かなかった。壁を守る役目を自覚した時から、僕はそれだけを考えて来たはずだった。なのに・・それがこんな結果になるなんて。それは儀式だった。型通りの。セバスチャンだからこそ効力を持つもの。遥かなアストラルの視界の奥を、影がよぎった。(あれは・・)アナトールの気配がする。ここまでは来られないはずだ。今ここはセバスチャンが守っている。彼はどこに行こうとしているのだ。あの向こう、僕の絆を辿ろうと・・いけない!恵美子の領域に行こうとしているのだ。ここを離れる事は壁を放棄する事だ。セバスチャンは迷った。そうだ、その動揺をアナトールは待っている。僕はここにいよう。『奴等』は彼女に手は出せないはずだ。それだけの用意はさせてある。初子の最後の守護もまだ生きている。今は壁を守ろう。それだけが、僕の望み、最後の願い・・・葬儀の途中で外出した恵美子が暴漢に襲われたのは、その夜だった。僕は現実を生きていないが、この世界の悪意は良く知っているよ。セバスチャン・・異人達はね、まだ人間の時の欲望を覚えている。心のたがが外れた分だけ、いっそう激しくね。だから君の大事な人は、ボロボロにされてしまうよ。命を奪う事はしない。僕の望みは彼女の心を壊す事・・君のそばに行けないように。『奴等』の敵となれないように。壁はもうお終いだ。愚かな血筋の末裔がその役目を忘れた時から、それは始まっていたのだ。僕らですら、きっかけに過ぎない。戻れないよ、もう・・君に彼女は救えない。僕と同じように。君は誰も救えない。壁は崩れ、『奴等』がやって来る。君のそばをわざと通り過ぎた時、僕は感じた、君の心。君は優しいのに優しさを表に出さないでいる事が良き事と思っている。僕以上に誰かを愛する事を怖がっている。セバスチャン、残念だよ。もっと早くそれに気がついていたら、僕が愛してあげたのに・・愛されたいと思うこの気持ちは幾らでもそう変えられたはずだ。僕は君が大切だったから。僕らはお互いにすれ違い、壁の両側に対峙し、せめぎ合う間柄になってしまった。生きる事は放棄したとしても、役目までは放棄しない君。そうだね、君はそういう人だ。さよならを言う相手も持たず、君は逝くのだね。その君の行為は崇高でも何でもないよ。僕がすべて徒労にしてあげる。君の命をやりとげるべき事をすべて無駄にしてあげる。それが僕の望む事。きれいな夢は見ないよ。見るつもりもない。カナを連れ帰った神内は、最悪の事態を予測していた。”壁”が崩れる。セバスチャンの跡継ぎに異変が起きていると、壁の全体が告げているのを感じた。セバスチャンが乱されている。他の者にも余力はない。一気に押し寄せる『奴等』を越えさせてはならない。おそらくこれがカヅキの最期になる。マサトが目覚めてもそれは一時しのぎに過ぎない。せめて数年の時間を稼ぎ、次の力を待つしかないのか。壁を固定する手段を探すしかないのか。様々な思いの中で、神内の青い剣は『奴等』を切り裂いていった。それだけが彼の出来る事であったから。そしてそれこそが彼のすべき事であったから。そうして戦いは始まり、神内達は『奴等』を押し戻したが、カヅキは還らず、マサトも眠りに着いた。カナは何処へか消えた。残ったのは神内とサギリだけだった。勝利であるかどうかは、誰にもわからない。今は危機は去った。しかし平穏が保たれるのはわずかな時間でしかないかもしれない。「セバスチャンが・・・」サギリは神内に彼の死を告げた。彼は自室の床に横たわり、冷たくなっていた。最期の儀式が完了したのだ。彼はその命と引き換えに二人分の壁を永遠に封印したのだ。彼の傍らに恵美子がいた。彼の遺書がその手に握られていた。今朝の郵便で届いたそれを持って、恵美子はここに来たのだ。アナトールの悪意は彼女に届かなかったのだ。身体の傷を心にまでおよぶ事はなかったのだ。アナトールには彼女の強さが解らなかったのだ。何が彼女を強くしているのか・・それはアナトールには永遠にわからなかった。セバスチャンが語らずとも、恵美子は初子の死の原因を解っていた。この地に深く根ざして生きている者は、この地を守ろうとする。だから私は、この地と繋がる私は、この世界の生命を守りたいと願うのだ。誰もが同じように生きて・・死ねるように。恵美子はセバスチャンの遺書を読んだ。苦い悔恨の言葉。しかしそれはもう良いのだ。彼はその身を役目に捧げた。最善であろうとした彼。彼女はセバスチャンの守ったものを自分も守ろうと決意していた。神内とサギリは、彼女の家族と語らい、彼女を庇護する事にした。初子の死が彼等に途絶えかけた役目を思い出させたのだ。アナトールは道端に立ち、セバスチャンの部屋の窓を見上げていた。今度こそ二度と彼は僕の名前を呼ぶ事はなくなった。さようなら・・今は世界は変わらなくても、僕は絶望なんかしないよ。僕は待つ事は苦にしない。君の気配が残っている世界を僕は今少し愛しく思うよ。愛しいから・・いつかきっと・・僕らの物にしたい。閑静な住宅街の片隅の大きな家からピアノの音が流れていた。鎮魂歌の調べが、その窓からあふれた。まるで世界を満たそうとするかのように。誰にも知られない哀しみを覆い隠そうとするかのように。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/12/03
望みは何と訊かれたら~15 years ago買ったばかりの楽譜を抱えて、駅前の大きなヴィジョンを見上げた。スポーツの祭典が映っている。もうすぐこの国のチームが勝利する。僕もそこに立ち尽くす群集に混じって成り行きを見守った。勝利の瞬間、歓声が駅前に沸きあがる。ハイタッチの手が踊る。僕も手を差し出したが、相手は僕を見る一瞬ひるんだような顔をして、それから手を合わせるのだ。それはこの金髪と顔のせいだ。この国で生まれて育ったのに、ここには僕の居場所はないらしい。帰宅すると玄関からそのまま佳代さんの部屋へ行った。母が亡くなってから僕の面倒を見てくれている婆やだ。福々した身体を丸めるようにして、佳代さんは手習いをしていた。硯にたっぷりと墨を磨り、お手本を見て何かを書いていた。僕は硯に手を突っ込み、その指を頭になすりつけた。黒い色が僕の髪を染めていく。「何をなさるんですか!」佳代さんは丸い顔の中の小さな目を見開いて、僕を見つめ、立ち上がると僕の手首を掴み風呂場へ連れて行った。「きれいになさいまし」「自分でやるから、いいよ」僕は佳代さんを押しのけ、風呂場のドアに鍵をかけた。シャワーに流された黒い水が排水溝に飲み込まれていく。たとえ髪を黒くしたって、この漂白したような皮膚は変わらない。細いとがった鼻もくぼんだ目も。瞳だけは母譲りの黒だ。でも僕の瞳を覗いてくれる人なんていやしない。皆、何故かよそよそしい。父は毎朝の食卓で新聞を読み、珈琲を飲む姿を見せるが、それはいつも同じで、繰り返し流される映像のようなものだ。段々と古びていってはいるが、そこで行われる事は変わらない。僕への言葉も。「変わりはないか」「いいえ、何も」たとえ何かあったとしても、父にとって僕の変化など無いに等しいのだ。だから僕はそう答えるのだ。「いいえ、何も」僕と向き合ってくれたのは、セバスチャンだけだった。彼も又この国からはずれた人間であったが、彼を隔てる境界は国境ではなく、もっと別のものだったのだ。僕と同じ悩みを彼は持たなかった。彼のピアノの音色は優しく、過去を歌っていた。僕は未来を聴きたいと思ったけれど「それは君の役目だ」と彼は言った。彼の手ほどきで僕はピアノを弾き、そして僕の望みをその音から聞き取ったように、やがて彼は別の事も教えてくれるようになった。僕の越えたかった境界について。僕はただ、それで良かった。彼の支える壁まで越えてしまおうなどとは思ってもいなかった。一緒に守る事を夢見ていただけなのに。それはどんな言葉で呼ばれようと、変わらぬものだった。魔術という言葉を僕は嫌悪した。セバスチャンは僕に基本となる法則を教え、示してくれた。世界がこんなに広いなんて・・僕は狭い垣根の中で悲しんでいた自分を捨てて、もっと先まで行きたくなった。そんな僕の性急さを彼はいつも注意していた。「急がないで、ころばないように」僕がもっと本格的にピアノを学べるようにと、父はセバスチャンを解任し、他の教師を連れて来た。僕らの親密さが気に入らなかったのかもしれない。父は愛情はなかったが嫉妬はあったのだ。母も同じ目に遭っていた。生前の母の涙は大抵はそのせいだった。美しい母は誰にでも好かれた。それが父には気に入らなかった。僕も又誰かに愛される前に、いつも父に引き裂かれていた。僕の愛犬が死んだ朝を覚えている。八歳だった僕は昨日まで抱きしめると僕にぬくもりを与えてくれたものが、冷たくなって地面に横たわっているのが理解出来なかった。しかし母と同じく、もう二度と動かず僕の前から消えてしまう事だけは朧げに理解していた。僕の後ろの窓の向こうに父の冷たい影がある事も。その後もセバスチャンと僕は繋がっていた。それは目に見えないつながりで、それまで断つ事は父には出来なかった。僕はそれで良かった。彼はまだそばにいてくれる。僕といてくれる。そう感じるだけで。やがて僕らの周りに影が現れ始めた。セバスチャンはそれを”異人”と呼んだ。「カヅキがそう呼ぶから、僕らもそういうようになったのだ」カヅキ・・僕ら・・・セバスチャンには僕の他に、身近な誰かがいるのだ。それを思うと胸が張り裂けそうになった。僕には君しかいないのに。この他所から来た影が何であるか、どうすればいいか、セバスチャンは僕に理解させようとした。胸の奥の黒い渦を必死に鎮めながら、僕は彼の言う事を聞き、僕に何を望んでいるかを知ろうとした。いつの頃からか『奴等』は存在し、人の心を支配しようとしていた。『奴等』の侵入を防ぐ”壁”を守り維持する事がセバスチャン達の役目。”壁”を越えてしまったものを退治する役目の者もいる。みえない世界の戦いは、僕を夢中にさせたけれど、その頃から僕とセバスチャンの繋がりは、少しずつ弱くなっていった。僕は気がついていたが、それに気がつかないふりをした。表向きの僕はとても良い子だ。父の言いつけを守り、ピアノの練習を欠かさず、学校にも通う。もうひとつの顔をした僕は、セバスチャンの壁を維持する為に祈り、決まった儀式を繰り返す。心の旅をし、壁のほころびを見つけたら、報告する。いつのまにか、僕らは事務的な会話以外、交わす事はなくなっていた。アナトール・・僕は彼に名前を呼ばれるのが好きだった。彼が僕の名前を呼ばなくなる頃、彼は一人の少女を連れて歩くようになった。恵美子はセバスチャンと一緒に壁を守る老婦人の姪だった。その家系はずっと壁を守って来たが、今の時代、それは忘れ去られ、その初子という老女だけがその役目を担っていた。恵美子はその家で生まれた久しぶりの壁の管理者の力を持つ者なのだった。迷信を嫌う家族達は初子と恵美子の接触を嫌った。セバスチャンは初子の代わりに彼女に教えを与える事にしたのだ。しかしそれだけではない。僕らの敏感な繋がりは、その先の彼の心まで伝えて来ていたから。特別な感情・・・僕に向けられた事のないもの。僕らはすでに生身で逢う事はなくなっていた。そして僕は彼女と連れ立って歩くセバスチャンを見た。僕が声をかけると、彼は複雑な顔をした。僕の瞳を覗き込んでくれた、あの優しい光は消えていた。僕は半ば強引に二人を自宅へ連れて行った。彼は彼女の聞こえない場所で、あれが僕の跡継ぎだと言った。・・・未来は僕の役目ではなかったの?僕は心の世界を巡り、壁を巡回するいつもの作業をした。小さなほころびを見つけた。でも何も言わなかった。次の日、そこから『奴等』がやって来た。初子さんが死んだ。セバスチャンは僕との繋がりを断ち切った。僕のした事に気がついていたのだ。『奴等』の誘惑がやって来たのは、それからすぐだった。僕は喜んでそれに手を貸す事にした。もう望みは絶たれてしまった。僕は未来を失った。彼と生きていく未来を。だとしたらこの世界に何の未練があるだろう。僕の世界はどこにもなく、それは『奴等』も同じ事だった。人の心を盗むのは安住の地を得たいからなのだ。僕はそれを知った時から、『奴等』と共にいる事を決意した。僕はこの世界の敵になった。この世界が壊れたら、未来を消してしまえたら、僕はもう泣かなくていい。だって望みが決してかなわない事を、思い出さずにすむのだから・・・アナトール・・僕は君に名前を呼ばれるのが好きだった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/11/29
なにゆえにその子は~15 years ago~時々、すべての音が苦痛になる。そんな時は大好きなスタインウェイのピアノの音色さえ拷問になる。普段の僕なら、半ば恍惚とした表情でうっすらと口を開け、その口で語るよりも雄弁に、僕の感情、僕の思想、僕の精神を、その鍵盤の上に表現する事が出来たであろうけれど。こんな時はシーツにくるまって、雨だれの響きにすら、神経のふちをこすられる様な不快感に耐えなければならないのだ。 たったひとつの音をのぞいては。それは「彼」セバスチャンの声だった。アナトール・・彼が僕の名を呼ぶ。四分の一が日本人、半分がドイツ人、残りの部分はきっと天使で出来ているような彼。僕と同じく混じり合った血を持つ彼はどこの国境にも心を分断される事はなかった。堀河・アナトール・亜津佐、それが僕の名前。あづさと呼ぶ者も多いが、彼はいつもアナトールと呼んだ。今の僕は半分が人間、半分が悪魔。僕の魂は切り裂かれてしまった。どうして僕は選ばれなかったのだろう、壁を守る為に。セバスチャンと一緒にいたかったのに。僕の方が強いのに、どうしてあんな女を選んだのだろう。ミセス・ハツコの血縁とはいえ、僕の呪縛ひとつ祓えないのに。異様な気配が、その寝室に満ちていった。まだ夜はそれほど深くないのに。恵美子は読んでいた本から目を上げた。薄黄色の簡単なサマードレスは夜用におろしたもので袖なしだが、今の季節の夜に寒さを感じさせるものではない。けれども全身を悪寒が包みこんでゆく。何がどう、という事はわからない2DKのアパートに、邪悪さが密度を高めていく。ある種の人間ならそれを「呪術」と呼ぶだろう。普段ならそんなものは入って来られないはずなのだ。この部屋の主の結界を突き破るだけの強さを持つ力など、そんなには存在しない。けれども彼は今ここにいない。私一人で何が出来るだろう。中途半端な感受性と身につけた護符と、わずかに習い覚えた方法など、こんな強力な力の前ではライオンとウサギより分が悪い。だが、やらねばならない。東側に扉がある。そちらを向いて寝室の中央に立ち、恵美子は目を閉じた。意識を集中する。頭上に描いた光の球から滝の様にエナジィが流れ込んで来た。最初の聖なる名が恵美子の口から発せられる。「そんなもので、OKだと彼が教えたの?」聞き覚えのある声・・目を開くと、そこには金色の髪の少年が立っていた。「あなたは・・」「彼の大切な人なら、もう少し出来るものかと思っていたよ」少年は夜だというのに一分の隙もない薄色の背広姿で、口の端だけ持ち上げる独特の微笑をしてみせた。その独特の微笑・・恵美子は思い出した。あれは半年ほど前、季節はまだ冬だった・・午後の陽射しが柔らかく差し込むサンルームの中までは、寒さはやって来なかった。独逸製のピアノは古き良き時代の音色のままで、西洋と東洋の出会いが生んだ少年の指先から流れ出していた。「素敵ね」恵美子はうっとりと同じソファの傍らにいるセバスチャンにささやきかけたが、彼は黙ったままだった。ピアノを弾く少年アナトールと彼は旧知の仲らしかったが、この再会をお互いに心から喜んでいないらしい雰囲気があった。アナトールは彼の最初のピアノの教師がセバスチャンだったと語った。もっと専門的に学ぶ為に今は他の教師に代えたのだと。けれどもそれだけではない何かが二人の間にはあった。都心には珍しく街路樹の続く道を歩いていた二人に声を掛けたのは少年の方だった。あきらかに異国の顔立ちと日本人の日本語を持ち合わせている彼は、その両方の血を受け継いでいるのが見て取れた。セバスチャンは一瞬戸惑いの色を見せたが、恵美子の意向を問うてから、彼の家への招待に応じたのだった。表面上は何もなかった。恵美子がかつての贅沢が忍ばれる壁の絵や調度を見ている間、二人は静かに話していた。声を荒げる様な事もなかった。「あなたはあの時の」「そう、僕はアナトール。彼が見捨てた仲間の一人です」「見捨てた?」「何も知らないんだね、彼の事」青年の笑顔は一変して恐ろしい形相になった。「あなたを痛めつけに来たんです」悪鬼の如き顔は、すぐにまた笑顔に戻った。「けれど、あんまりに手応えがなくて、拍子抜けしてね」恵美子は不意に気がついた。「どうやって入って来たの?」「霊的には万全ですが、泥棒には駄目ですね。鍵は簡単に開きましたよ」アナトールはあっさりと答えた。「まあ」先程の邪悪な気配が彼の送り込んだ物とわかっても、恵美子はどうも彼を悪く思う事が出来なかった。この神経質に見える細い体の少年の中には、悪意以上に何かがあった。悲しみなのか苦しみなのか。恵美子の目覚め始めた感性に、それはそこはかとなく伝わって来た。「彼の大事な弟子をやっつけて、悲しませようと思ったけれど、どうやら僕の勘違いですね。門外漢を僕等の争いに巻き込んで、卑怯者のレッテルを貼られてもつまらないし。」玄関の方で物音がした。セバスチャンが帰って来たのだ。彼は異変に気づいていた。奥にいるアナトールを見て険しい顔になった。アナトールは彼を見ても動じる気配はなかった。「さすがは君のお弟子さんだね。身につけている物はすべて護符になっている。何気ない指輪もイヤリングもすべて・・」「弟子じゃない」アナトールは黒い瞳に皮肉の光を宿していた。セバスチャンの後ろに隠れる様に身を引いた恵美子の方を指差した。「だけどみんな君の力を帯びている。ほら、あのペンダントも」二人のやりとりを見ながら恵美子が無意識にいじっているのは、いぶし銀の鎖の先にトパーズを填め込んだメダイヨンが下がっている、古いが美しい物であった。「最初は僕を守る為に彼女がいるのだと思っていた。だが僕の方が彼女を守る為にいるのだとわかってきたのさ」「いいのかい、そんな事を僕に言って。僕を見捨てていった君を、まだ許していないかもしれないんだよ」セバスチャンは答えなかった。「あのペンダントの元の持ち主は僕等の先生だった人だと彼女は知っている?教えてはいないね。君は自分の事は何一つ、彼女には教えていないんだろうね」セバスチャンはアナトールの黒く光る目を見据えた。彼の栗色の目の奥で怒りが燃えていた。見えない攻防がそこにあった。「彼女に手を出すな」「おやおや、恐いね。恋人・・じゃないね?でも、どうやら大切な人らしい」アナトールは笑った。悪魔の笑いを。「退散するよ、今日はね」アナトールが出て行った後、セバスチャンはようやく表情を和らげて、恵美子を見た。「怖い思いをさせてしまったようだね」「いいえ、ごめんなさい。私が満足に何も出来ないから」「いいんだ、そんな事は。彼の狙いは僕だから」壁を守る役目にアナトールを選ばなかったのは、こうなると解っていたからだ。『奴等』に魅入られやすい、脆い心を持つ者だったから。今の彼は『奴等』の手先だ。この世界に干渉出来ない彼等に代わって、何かをする為に。アナトールは僕の手の内を知っている。(僕のやり方が良くなかった。彼を悪い方へ行かせてしまった・・)「識別は第一の美徳」であらねばならないのに。誤った選択がどこかでなされ、アナトールはセバスチャンの壁の向こうへ行ってしまった。暗い部屋の中で、アナトールは身体を丸め毛布に包まっていた。先程の訪問の様子を記憶の中で振り返っていた。セバスチャン・・彼は僕の名前を呼ばなかった。僕はそれが聞きたかったのに。彼女の事なんて、本当はどうでもいいんだ。壁はすぐに壊れる。『奴等』がやって来る。この世界に不幸を運んでくる。それだってどうでも良い事だ。僕はずっと悲しくて、ずっと寂しいままだから。何も変わらない、変わることはない。僕の愛したもの、僕の守りたかったものがすべて消えてしまっても。遂に僕のものにならなかったものは消えてしまえばいい。僕にはみんな無いも同然なものなのだから。無くなってしまえばいいのだ、僕の目の前から。誰か僕の名前を呼んで・・昔の彼のように。優しいテノール、柔らかい響き。あの、独特の歌うようなアクセント。アナトール・・・誰か、誰か僕の名前を呼んで・・壊れた魂の奥で、泣いている僕の為に。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/11/21
止まり木の鳩~stool pigeonこの部屋はまるで過去の亡霊の様だった。古びて折り目正しい。何度も彼等はここから戦いに赴いたのであろう。その時は今の身体でも名前でもなかったかもしれない。この場所は時を刻んでおらず、外の雑踏に流れる時間とは異なる流れの中で生きている。『火消し』とその役目を担う者達と共に。それぞれが室内の思い思いの場所に腰を落ち着けた。竹生だけがドアのそばに立っていた。幸彦はソファのマサトの隣に座った。マサオが幸彦に言った。「お前は俺達と同じになるな」「僕は貴方の役に立ちたい、貴方と一緒にいたいんです」幸彦は必死で繰り替えした。マサトはうつむいて、歯の間から押し出すように言った。「俺達は消耗品なんだ」『奴等』が何処から来たのか、何時からいるのかわからない。それは何処とか何時とか人が言える場所でも時間でもないのかもしれない。そして何時からか”壁”を守る者、『奴等』と戦う者が存在した。人の心に忍び込む『奴等』・・心を奪われた者は悪鬼と化す。多くの血が流される。かけがえのない命が失われていく。『奴等』の進入を阻止する”壁”はいたる所に張り巡らされているが、余りにも薄い。ひとたび破られると『奴等』は容赦なくやって来る。『火消し』は『奴等』の災難を人知れず消す者。神内の手にある青い石の剣は『奴等』を切り裂く度に短くなる。その剣が消えた時、神内は役目から解放される。力をすり減らし死ねば又生まれ変わる。自分の役目が終わるまで。どのくらいの間それを繰り返すのか・・神内の剣のように目に見えてわかるものもあるが、大抵の者はそれすら知る事は出来ない。ほとんど彼等は過去の自分を覚えていない。『道標』は彼等を見つけ出し、役目を思い出させる。そして彼女だけが、何度生まれ変わっても過去を忘れる事はない。遠い昔、身の丈に余る青石剣を抱え、放浪していた最初のアウル-神内の事もサギリは覚えている。何度も出会い何度も死が二人を分かつカヅキとカナの姿も。呪われた身体のままに大人になる事がないマサトの事も。皆、何かを背負った者達である。どんな罪が彼等にあったと言うのだろう。それはサギリにもわからない。自分が何故ここにいるのかも・・しかし今の彼女にはやるべき事がある。それだけが彼女を生かしてる。「俺達はこの身をすり減らして死んでいく。そして又生かされる。そんな事をお前にさせたくない」「お父さん・・」マサトは暗い顔を少し和らげ、ちょっと照れたような顔をした。「そう呼ぶな」幸彦はこんな状況でも幸せを感じていた。少なくとも今はここに貴方がいる。こんなにもそばに。幸彦の視線をさけるように、マサトは竹生に声をかけた。「竹生、お前の髪はもうこんなに白いんだ、無理するな」「ありがとうございます、マサト様」「髪?」竹生の視線がマサトを見た。マサトはうなずいた。「私達も力を使う度にこの身を削るのです」「力?僕の足を止めた風は、お前の?」「はい。そして髪が白くなっていく。私は大きな力を操れますが、その為に若くしてこんな髪になってしまいました。この髪が真っ白になった時が、私の命が尽きる時です」幸彦は驚いた。「じゃあ、お前は・・」竹生は幸彦の言いたい事を察して遮った。「私は"盾"です。貴方をお守りするのが役目です」彼も又、僕を残して行ってしまうのか・・「無理は駄目だ。僕の為であっても」「はい、ご命令とあらば」竹生はそう言って優雅に頭を下げた。しかし彼が幸彦の為ならどんな事でもするだろうと、そこにいる誰もが思っていた。幸彦ですら自分の言葉が無力である事を感じていた。マサトの様子がおかしくなった。身体が震えている。「どうしたんですか?」幸彦があわてて聞いた。「・・あいつが交代しようとしている」「え?」「こっちの俺はケンカは強くないから、守ってやってくれ・・」座ったまま身体を折り曲げ、膝に顔を埋めるかのように伏せ、マサトは荒い息をしていた。「大丈夫ですか?」不意にマサトが上体を起こした。「ええ、大丈夫ですよ」外見はそのままだが、明らかにそれは今までのマサトとは違っていた。彼を包んでいた空気の色が違う。マサトは幸彦を見てにっこりと笑った。唇を開かず口の端をあげるだけの、幸彦が見た事のない微笑だった。いたずらっぽく楽しそうに笑う、あの笑顔ではなかった。「こちらの僕は初めてでしたね」幸彦がうなずいた。「僕等はこうして時々交代するのです。記憶は共有していますから、僕は貴方の事をすべて知っていますのでご心配にはおよびません。『奴等』に対する力は僕の方が上なので、出て来たのです」サギリが珈琲を配りながら言った。「近いのね、『奴等』が」「もうかなり・・カヅキなら行けるでしょうが、僕等には無理ですね」「カヅキの事は言うな」珍しくピシリと神内が言った。「すみません」マサトは素直にあやまった。失った仲間の事は誰もが傷みとして抱えている。特に神内はいつも彼を助けられない宿命を激しく憎んでいる。『奴等』を始末してもカヅキは帰って来ない。少なくとも”今の”神内の元には。カナは再び姿を消した。彼女の役割は終わったが、彼女の人生は終わっていない。そしてその命の尽きるまで彼女はカヅキを想い続けるのだ。「君はこちらの僕があまり好きではないようですね」幸彦は返答に窮した。確かにそうだ。あの大人のようで甘ったれたようである、あのマサトと今のマサトは別人だ。「まだ慣れないだけです。ずっと、その、向こうの貴方しか知らなかったので」「最初は誰でもそうでしょうね。サギリはこちらの僕の方が良いようですが」「だって聞き分けがいいもの」サギリがソファとテーブルをはさんで向こう側にある安楽椅子に座った。神内の隣だ。「すみません、”僕”がいつもご迷惑をおかけして」おどけた調子でマサトは謝るふりをした。だが、どんなに軽口を叩こうとも空気は緊張したままだった。「まだ時間がかかりそうだ。幸彦は自分の部屋に帰った方がいいですね」「どうしてですか?」「あそこは半年かけて僕が築いた結界がまだ生きている。しばらくは安全です」「じゃあ、その為に僕の所へ?」マサトはうなづいた。「竹生、他に誰か来ていますか?」「私の組の他はまだです」竹生は答えた。「組?」「私達はひとりで行動する事はありません。三人で一組です。それぞれの組はリーダーがいてその名前で呼ばれます。”竹生”は私の名前であり、私の組の名称でもあるのです」「じゃあ・・あそこから後の二人も着いて来たの?」「私に着いて来いとおっしゃった以上、彼等も一緒です」「気がつかなかった」竹生はうれしそうな顔をした。「私の組は優秀です。気配を感じさせずに貴方をお守り出来る」幸彦は少し傷ついていた。周囲の気配には気を配っているつもりだったのに、今まで気づかなかった自分に。この甘さをお父さんは見抜いていたのだろうか・・命取りになると。「竹生、幸彦をお願いしますね」竹生はお辞儀をして、幸彦をうながした。「参りましょう」今は素直に帰るべきだと、幸彦も悟っていた。店の外に出ると、街は夕暮れの慌ただしさに包まれていた。哀しい戦いの事など、誰も知らない世界。それが日常。そしてそれを壊さないように、彼等は戦っているのだから。表通りから路地に入ると、夕餉の支度をする匂いや風呂場の石鹸の香りがした。今日も多くの営みがあり、人々は明日が当たり前にように来ると思っている。あの部屋で今も座っているであろう彼等の事を思いながら、幸彦は重い足取りで歩いていた。人の多い場所では人々の想いの破片が幸彦の心に突き刺さる。払いのけようとしても粉雪の様に降って来る。それらのすべての想いからも幸彦を守ろうとするかのように、竹生は幸彦の傍らを共に歩いて行った。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/11/19
「風を纏う者~記憶の足音」目が覚めると肩が冷たかった。山の秋の朝は冷える。僕は夜具を引き上げてもう一度目を閉じた。又あの夢を見た・・人の夢は操れるのに、どうして僕自身は哀しい夢ばかり見るのだろう。薄青い闇の中で、ずっとお母さんを待っている僕・・あれは僕が幾つの時だっただろう。神内さんの所にお母さんは僕を置いて出て行った。(迎えに来るからね)そう言ったのに、そう言って出て行ったのに、お母さんは帰って来なかった。神内さんは何も言わず、僕もまだ問い質す言葉を持たなかった。子供の頃、こうして横になったままで僕は良く耳をすませていた。お母さんが帰ってくる足音が聞こえないかと。いつの頃からかそれをやめてしまった。諦めたのか、それとも決してそれがやって来ない事を知ったのか・・今となってはわからない。忘れてしまうほどに幼い、昔の事だ。半年前に、神内さんが木波マサトなる人物に僕を引き合わせた時、僕は一目で彼が誰だかわかった。外見は僕より若く見える。でもそんな事は問題ではない。あの人を取り巻く何かが僕と良く似ていた。懐かしい、懐かしいと思った。僕は人といるのは苦手だ。多くの意識の残滓をひろってしまう僕は、他人が苦手なのだ。僕のそばにいても苦痛でない人間は、強靭な意志を持つ神内さんと不思議な目をしたサギリさん位だ。そしてあの人は・・あの人の周囲はいつも澄んだ空気で満たされていた。僕はその中でとても楽に呼吸が出来る。安心していられる。なのに・・今はそばにいない。迎えに来ると言って出て行った。お母さんと一緒だ。もう逢えないかもしれない。お母さんのように。そう思うと胸が痛い。僕等には15年の空白がある。僕は15年待ち続けた。迎えに来る人を。また待たねばならないのか。お父さんもいなくなってしまえば、もう待つ意味すらなくなる。誰もいなくなってしまったら。僕は起き上がって服を着替えた。僕が迎えに行こう。もう僕は大人だ。待つのではなく、僕から迎えに行こう。たとえ喰われたとしても、その前にあの人に逢ってから喰われたい。僕はずっと待っていたのだから・・・僕は家中に夢を送った。誰も僕が出て行くのを邪魔しないように、深い眠りを送った。あまりやりたくない事ではあったが、彼等が素直に僕を行かせてくれるとは思えなかったから。玄関を出ると突風が僕の足を止めた。長身の人影が立っていた。黒いコートを纏い長い髪を風になぶらせていた。僕と同じ位の歳にみえたが、その髪は白髪に近い灰色をしていた。「君は誰?」「私は竹生(たけお)、幸彦様の”盾”の一人です。」「君には夢は効かなかったの?」「あの程度なら。幸彦様に本気になられたら防ぐ事は出来ませんが」竹生は笑顔を見せた。しかし笑っていながら彼には隙が無い。何か特別に鍛え上げられた身体と心を持つのだろう、”盾”と呼ばれる者達は。「君は僕を止めるの?」「どうか、君などと呼ばないで下さい。お前とでも呼んで下さい」「そんな失礼な事は言えないよ」「いえ、幸彦様に”君”と呼ばれる方が、私には苦痛なのです」”盾”はそういう精神の持ち方を躾けられているのだろうか。僕にはまだよくわからない。「お前・・僕を守るのがお前の役目なの?」「はい」「では僕と一緒に来てくれないか。僕を守って欲しい」竹生は驚いたようだった。「一緒に・・ですか?」「僕の言う事は、聞いてもらえないのだろうか」「ご命令とあらば従います」「では、行こう」駅への道を歩きながら、竹生は言った。「藤堂が知ったら激怒しますね」「それが怖いの?」「いいえ、私が怖いのは貴方を失う事だけです」今度は僕の方が驚いた。「初めて逢ったのに、何故そんな事を?」「私は貴方の盾です。貴方を失う時は自分の役目を果たせなかった時ですから。そして守るべき者を失ってしまえば、盾は意味がない。私は私の存在する意味を失うのです」一体、彼等は何なのだろう。この信念はどこから来たのだろう。彼も又、そばにいても僕の苦手な意識を撒き散らさない人間だった。しかし彼の奇妙な言動が、僕を困惑させた。電車を乗り換え最寄の駅に着いた。繁華街を抜けて行くと、人々の視線が彼に集まった。「どうして私は見られているのでしょうか」モデルの様に均整の取れた長身、豊かな灰色の髪、端正な顔立ちの中でも特徴的な切れ長の目、女の子でなくても目を奪われる美貌を持ちながら、彼にはその自覚がないらしい。「君が魅力的だからじゃないかな」彼は首を傾げた。「そういうものでしょうか」「誰かに言われた事はないの?」「私は村から出た事はなく、顔を合わせる人間も限られていましたから」彼は僕の耳元でささやいた。「私には、幸彦様が一番美しい」いきなりそう言われて、僕は赤面した。彼は身を離すとそ知らぬ顔で続けた。「電車にも初めて乗る事が出来ました。幸彦様、ありがとうございます」彼は自分の美貌を言われるより、そちらの方がうれしかったらしい。彼等はどういう暮らしをしているのだろう。古い因習と規則。しかし彼はそれに縛られているという気配はなく、むしろ自分の役割に誇りを持っている。神内さんの店は閉まっていた。僕は竹生と共に「アマルティア」に向かった。サギリさんは扉を開けてくれたが、僕を歓迎する顔はしていなかった。サギリさんは僕等を奥へ導いた。初めて入る部屋だった。古い重厚な家具が並んでいる。いにしえの貴族の応接間に似つかわしい豪奢な造りの物ばかりだった。お父さんはそこにいた。神内さんも一緒だった。ソファから立ち上がり、お父さんは僕を見ると眉をひそめた。僕の後ろの竹生を見ると彼に激しい声を浴びせた。「お前が付いていながら、何故ここに来させた」竹生は静かに応じた。「幸彦様が行くと仰ったのです。私はどこまでもお守り致します」お父さんは僕を見た。そして又、竹生を見た。「竹生、お前達だけでは幸彦を守れない。ここには『奴等』を遮る結界がない」安楽椅子に座りテーブルに足を投げ出していた神内さんが言った。「来てしまったものは仕方ない。だが、これから先は俺達の言う事を聞いてもらう」「はい」僕は頷くしかなかった。神内さんの言葉にも苦いものが含まれていたからだ。僕はどこかで後悔していた。いいつけを守らなかった事を。しかしお父さんの姿を見て、安心すると同時に、朝のあの寂しさが甦って来るのを感じた。こみあげる想いが激しい言葉となって僕の中から溢れ出た。「僕はもう置いて行かれるのは嫌なんです!!!お母さんのように貴方まで僕を置いていってしまうなら、僕は待っていたくなんかない!!!!貴方のそばで・・」涙が喉をつまらせて、後が続かなくなった。お父さんがそばに来て、僕の肩に手を置いた。僕よりも繊細で華奢な手を。「俺はお前が大切なんだ。俺が死ぬのを見せたくなかった。お前にその覚悟があるなら、ここにいていい。ないなら、竹生と戻れ」死ぬ・・やはりそういう事か。迎えに来る約束は果たされる事はないのだ。たった半年で僕は又ひとりになるのだろうか。「マサト様、幸彦様は私がお支え致します。苦しい時も哀しい時もずっと」「竹生?」お父さんにすら、彼の事が理解出来ないらしい。竹生は真剣な顔をしていた。僕はどこかの寺院で見た天使の顔を思い出した。「幸彦様を決して一人にはしません。ですから、心置きなく戦いを」竹生は深々と頭を下げた。お父さんは苦笑した。「ユキ、お前はいい盾を持ったな」僕は何と答えたら良いかわからなかった。しかし彼のおかげで、僕はここにいて良い事になった。竹生は心からそう思っていたのだ。僕を一人にしないと。それが解ったのはもっとずっと後の事だった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/11/14
「盾とゆりかご~守られし者」狩野幸彦(かのうゆきひこ)はマンションのドアを開け、中に入ると、ほっと大きく息をついた。空気が澄んでいる。排気ガスの類の話ではない、霊的な不純物の無さだ。ある種の神社や寺院の奥深い神聖な場所にあるような清められた空間がそこには広がっていた。幸彦のように鋭敏な感覚を持つ者には、何よりもそれがうれしい。それは木波マサト(きなみまさと)の能力のおかげだった。彼はそこにいるだけで空気を浄化してしまう。いわば彼のいる場所はいつでも聖域なのだ。生意気な口を聞くこの一見少年のような外見を持つ人物は、邪なる物を寄せ付けない。マサトは青が好きらしい。好んで青い服を着る。ギリシャ彫刻に東洋を混ぜたような美しい顔立ちに漆黒の髪と瞳を持つ彼に、それは良く似合っていた。「青は俺の色だから」と彼は言った。それは彼の本質や役割を示す色でもあったのだ。彼は”青の退魔師”と呼ばれていた。身寄りのない幸彦は、幼い頃に神内に引き取られて育った。独立して一人暮らしをするようになってからも、彼の仕事の手伝いをしている。本業の古本屋の店番兼神内の仕事の手伝いだ。それは『奴等』に心を奪われた人間を見つけ出し癒す事。幸彦は夢をあやつり、人々の心を正常に戻す事が出来た。反対に恐怖を与える事も可能だった。”夢狩人”それが彼に与えられた名前だった。そんな呼び名は笠原が勝手につけたものだ。仕事の中には『奴等』の仕業でないものもあった。心霊現象の相談の類であった。本業よりそちらの裏家業の報酬が、主に神内達の生活を支えていた。大抵は笠原からの依頼だった。大きな寺のでっぷり太った住職で絵に描いたような生臭坊主だ。心霊現象の大家のような顔をしてTV番組でえらそうに話してしているが、ほとんどが誰かの受け売りに過ぎない。実際に相談事を持ち込まれると神内に泣きつくのだ。しかし抜け目のない笠原は、あたかも自分が多くの手駒を持っているかに装う為、幸彦達にもったいぶった呼び名をつけて、相談者をありがたがらせているのであった。「おかえり」マサトがソファから振り向いて、こちらに笑顔を見せた。マサトは幸彦の不在の間は、寝ているかTVを観ているらしい。冷蔵庫はおろか室内の物にはなるべく手を触れないようにしているようだ。幸彦のマンションに同居するようになってから半年が経ったが、それが幸彦の領域を侵したくないという、彼なりの礼儀なのかもしれない。「古本屋はどうせ暇なんだろ?」「そうですね」「明日は定休日だろ?」「ええ」「一緒に行きたい所があるんだ」マサトがこんな事を言うのは初めてだった。幸彦は少しうれしかった。「行きましょう、一緒に」「明日は寒くなるな。風に冬の匂いがしている」「僕のコートじゃ、大きいですよね?」「何でもいいよ」マサトは機嫌の良い顔で言った。神内の用事以外で幸彦は彼と出かけるのは初めてだ。彼は近所の店に買い物に行く事もしない。何故一緒になのか、その理由を聞く気にもならなかった。都心から電車で2時間程の所でローカル線に乗り換えた。見た目には仲の良い兄弟が旅行でも楽しんでいるようだった。どこへ行くのか、幸彦は尋ねなかった。神内は余計な事は言わないが目的を持たずに行動する事はない。マサトもそうだと幸彦は思っていた。何もないなら動く事はない。小さな駅で降りると、マサトは周囲を見回した。「変わってないな」平凡な田舎町。田畑と山並みが見える。「お前の母親のふるさとだ」幸彦は驚いた。「僕の?ここがですか?」「行くぞ」マサトはさっさと歩き出した。後を追いながら、幸彦は不思議な気がした。顔すら覚えていない母の故郷を歩いている。もし親戚がいたとしても、僕の事を知る者はいるのだろうか。竹薮の間の道はぬかるんでいたが、マサトはどんどん歩いていった。奥に小さな社が見えた。マサトは立ち止まった。「いるんだろ?」マサトは宙に向かって叫んだ。囲まれている!幸彦は咄嗟に身構えた。幾つもの気配が周囲にある。今まで気がつかなかったとは迂闊だと思ったが、マサトの様子は変わっていない。「ユキ、敵じゃない」「じゃあ、誰ですか?」「お前を守る者達だ」「どういう事ですか?」「お前の母親を守る者達だったが、これからはお前を守る」一人の男が進み出て幸彦に頭を下げた。白髪で地味な身なりだが精悍な男だった。「我々は貴方様の”盾”です」その社の先に大きな民家があった。昔は豪勢な家だったのだろう。古びてはいても贅沢な造りが見て取れた。二人は先程の男の案内で中に入った。応接間らしい部屋に通された。座布団に座ると、中年の女がお茶を運んで来た。「ここがお前の母親の実家だ」幸彦は戸惑っていた。色々と問いたい事があるのに、どう切り出して良いかわからない。「しばらく、ユキはここに居ろ」「何故ですか?」ようやっと質問をした。「戦いが始まる」マサトは見た事もない暗い顔をしていた。先程の男が進み出た。彼は藤堂と名乗った。「マサト様は幸彦様を心配しておられます。この佐原の家は貴方のお母様、さゆら子様がいらっしゃらない今、幸彦様が当主です」「どういう事なのか、わかりません」「この家の男達は貴方の盾となり戦い、女達は貴方を守るゆりかごになる。それがこの家の掟です」「僕を守ってどうなるのです?そんな価値があるのですか?」「あるよ。『奴等』はお前が食いたいんだ。さゆら子もそうだった」マサトは言った。「お前の力はこの家の血の力だ。『奴等』はそういう人間が食いたいのだ」「食いたいって・・・」「それが『奴等』の力となるのだ」『奴等』との戦いが始まれば自分の命が危うくなる。それは解った。しかし・・「神内さんや貴方がいれば、僕は大丈夫じゃないんですか?」「本当の戦いが始まれば、俺達はお前にかまっていられなくなる」僕はここに置いて行かれる。幸彦は悲しかった。せっかく逢えたのに。心のどこかでずっと探して、ずっと待っていたのに。「僕は貴方の役に立ちたい、貴方と一緒にいたいんです」マサトは幸彦を見た。きれいな微笑を浮かべて。「僕にだって力はあります」「わかってる、他の誰よりもお前の事は俺がわかってる」「神内さんは・・」「神内はお前を頼りにしている。だかお前を連れて行く事を望んじゃいない」マサトは再び微笑んだ。幸彦がずっと探していた笑顔がそこにあった。「お前は、ここに居ろ」マサトは立ち上がると、出て行こうとした。「いやです!僕も行きます。貴方と一緒に!」立ち上がった幸彦を藤堂達が制した。その手を振り解こうともがきながら、マサトの背中に幸彦は叫んだ。「お父さん!!」マサトは足を止めた。振り返り、もう一度幸彦に微笑みかけた。「迎えに来る、必ず」そして再び歩き始めた。幸彦はなおも叫び続けたが、マサトはもう振り返らなかった。掲載小説のまとめサイトはこちらです
2005/11/07
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