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小さな欠片で切り裂くように熟れた果実を切り分けてうすべに色の唇に押し付ける風の行方は過去未来どちらへも過ぎてゆくが今この瞬間 あふれる甘いしたたりが乾いた大地に落ちるまで止まっていて欲しい止まっていて欲しい
2014/01/24
2013/12/03
書き物をしている信夫(しのぶ)の背後から両方の二の腕のあたりを捕んだ者がいた。「左の三角筋の方が張ってるぞ。彼女への腕枕は程ほどにな」警備部の先輩の二星(にせい)だった。「彼女なぞいませんよ。そんな余裕はないです」「じゃあ、気合を入れ過ぎだな」二星は信夫の書きかけの書類の上に、小ぶりのチョコレートバーをぽいっと投げた。「気を抜ける時は抜いておけよ、それも仕事の内だ」二星は陽気で面倒見の良い男で、配属されたばかりの信夫に何かと気を配ってくれる。卓真の配属先を教えてくれたのも二星だった。卓真の性格からして、向こうからは何も言って来ないのは解っていた。信夫は卓真も警備部を希望していたのを知っていた。その警備部に自分が配属され、卓真の配属先がなかなか決まらなかったので、何となくこちらからは連絡が取り辛かった。再会の機会は意外と早くやって来た。先代の村の守護者であった三峰様が村へ戻られる際の護衛の末席に、信夫も連なる事になったのだ。三峰は、今は結界に閉ざされた村と”外”を行き来出来る数少ない者のひとりであった。三峰は”人でない”者であった。かつての『奴等』との戦いの中で、人である事を捨てた代償に大いなる力を得た。兄の竹生(たけお)と共に、最高の”盾”とうたわれた人物であり、稀なる美貌と温厚な人柄で、人でなくなった今でも村人達の尊敬の念を一身に集めている。信夫のような新米には、まさに雲の上の存在である。その日、表向きは古ぼけた古本屋のビルにしか見えない”盾”の拠点の裏手に、黒塗りの三台の乗用車が停まっていた。居並ぶ警備部の”盾”の前を三峰は過ぎていった。すらりとした長身に白き外套をなびかせ、優雅に歩を進めていく。青く甘い香りが漂う。白き髪はふっつりと肩で切られ、花の如き白きかんばせをふちどっていた。信夫も緊張しつつその列に加わっていた。最近はめったに人前にはお出になられぬと聞いていた三峰様が、手の届きそうな所にいる。それだけでも信夫は光栄のあまり、眩暈がしそうな気分になっていた。三峰と目が合った。男女の垣根も何もかも越えた美そのものの顔の、底知れぬ深さをたたえた青くみえるほどに澄んだ瞳から、信夫は目が離せなくなった。三峰の足が止まった。三峰の形の良い薔薇色の唇が動いた。「新顔だな、名は何と言う」咄嗟に答えられずにいる信夫の隣にいた二星が代わりに答えた。「風の家の庵谷(いおりだに)の息子、信夫と申します」三峰はうなずいた。「我が部下であった庵谷の息子か、あれは律儀で良い奴だった。目元が似ているな、父と同じく良い”盾”になりそうだ。お役目に励めよ」三峰は微笑した。そこだけ仄かに光が差したような、そんな微笑だった。自分に向けられた笑みのあまりの美しさに、信夫は陶然とした。甘いおののきが全身を走る。今にも膝から崩れそうなほどに。喉は干上がり、何も言えなくなっていた。二星に背中を小突かれ、慌てて頭を下げるのが精一杯であった。三峰の車のすぐ後ろにつき従う車に信夫はいた。まだ信夫は三峰の呪縛から抜け出せていなかった。三峰の青く甘い香りが自分の芯まで染み込んで支配されているような気がしていた。それは不快ではなかった。むしろ快感に近かった。後部座席に並んで座っていた二星が言った。「お前は運はいいな、早々にお声をかけられるとは」信夫よりは三峰に接する機会がある二星は、今の信夫の状態を良く理解していた。初めて三峰様を間近にした者は、誰もが同じようになる。「三峰様はお優しいお方だ。我らのような者にもお気を配って下さる」(信夫は、これから一層、三峰様への忠誠を深くするだろうな)二星は思った。村の結界を越えられるのは、三峰様だけである。三峰様が村で数日を過ごす間、信夫達は狩衣(かりぎぬ)の詰所で待機する事となった。卓真(たくま)の配属先である。三峰様を送り届けて、詰所にやって来た護衛の中に、卓真は信夫の姿を見出した。信夫は晴れやかな顔をしているように見えた。警戒と称して、田舎道を無駄に巡回しているような己の境遇と、あまりにかけ離れているように思えて、卓真の胸の底に黒々とした澱が淀んだ。ほんのしばらく前までは肩を並べた同期だったのに、大きな川の向こうとこちらにいるような隔たりが二人の間にあるようだった。信夫はそんな事は思ってはいない。卓真だけが感ずる劣等感と無念の思いが、嫉妬に変質していくには、それほど時間がかからなかった。(つづく)
2013/12/03
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「白衣の盾・叫ぶ瞳 第5回」まで更新致しました。その他、オリジナル詩篇「沈黙」他、短歌集その二十四まで追加致しました。私事が立込み、なかなか更新が出来ません。亀よりも鈍い歩みではございますが、今後ともよろしくお願い致します。menesia貴方の仮面を身に着けてHP
2013/08/01
盾”になるのは、佐原の村の中でも”盾の家”と呼ばれる家の者達である。出自で各々の能力と適正が異なる。”盾”の家の中でも、風の家、霧の家、露の家は三大名家と呼ばれていた。風の家は風を操る力を、霧の家は医療の知識と俊敏さを、露の家は術の力に長けていた。他にも家ごとに特技がある。それぞれの家の秘儀は父から子へと教え受け継がれる。それ故に彼らは家の名と父の名をもって呼ばれる。霧の家の朝来の息子、卓真。そのように胸を張って名乗る名がある事が、彼らの誇りであった。朱雀の会社は都心にあった。高層ビルの1階のエントランスはガラスを多用して明るく、受付嬢の並ぶ机の左右に警備部の者が立っていた。彼らはごく普通の背広姿であるが、真っ直ぐに伸びた背筋と張り詰めた胸や肩のあたりに漂う逞しさ、精悍な顔付きが、彼らの職務を見る者に伝えていた。じっと立っているように見えるが、彼らは退屈とは無縁の世界にいた。彼らは周囲への警戒は勿論、視野に入るすべての人物や出来事を記憶しようとしていたし、常に瞬時で臨戦態勢に入れるように、呼吸のひとつもおろそかにしていなかった。腹式呼吸、胸式呼吸、息の仕方ひとつで筋肉の鍛錬も出来れば、精神の緩急も可能であった。幼少より訓練を受けて来た彼ら”盾”は、いつ何時でも、最大限に己を保つ術を身につけていた。本来の警備の役目を果たしながらも、客人や受付嬢に何か尋ねられれば、礼儀正しく答える。手を貸す必要があれば、すぐに駆けつける。大半の盾は人並み以上の容姿を持ち、このような紳士的な態度も心掛けていた為、女子社員に人気があった。(やがて信夫(しのぶ)も、あそこに立つのだろう)先輩の引率で訪れたエントランスの光景を思い浮かべながら、卓真(たくま)は自分に与えられた机で荷物の整理をしていた。スチールの引き出しを開け、わずかな文房具と書類などを入れた。この場所は表向きは朱雀の会社の地方営業所になっている。古い石作りの建物は3階建てで、このあたりでは一番高かった。1階が詰所で、その上が宿舎になっていた。卓真も3階に自室を与えられた。「昨今のコンクリート製よりも頑丈なのだよ」所長の狩衣(かりぎぬ)は言った。狩衣は細身だがしなやかな動きに隙がない。相当の手だれだと、信夫(しのぶ)にも解った。まだ三十も半ばであるのに、早くも髪にかなり白いものが混じり始めているのは、風の力のせいであった。風の力を使うと髪が白くなるのだ。それは己の命を削っている証拠である。その髪が真っ白になった時が命の尽きる時なのだ。そのために風の家の者は力がある者ほど短命だった。その事を気の毒と思うよりも、風の力という強大な武器を持つ身である事への羨望の方が卓真の中では強かった。「ここは一番”村”に近い。事が起きたら、最終の防衛拠点になるのだよ」(それだけ僻地、という事だな)白神のいる古本屋のビルからここまでの距離を思い、卓真は憮然とした面持ちでいた。新人教育のまとめ役の秋武は、白神の信頼の篤い部下だった。恵まれた家柄でもなく苦労人である秋武は、新人の”盾”達の表向きの成績だけではなく、各自の性格や希望もなるべく配慮に入れて配属を決めていた。最近の卓真の性根を入れ替えた態度にも好意的な目を向けていた。しかし教育担当の中には、配属前の点数稼ぎと見る向きもあった。自業自得とはいえ、それまでの印象が悪すぎたのだ。大勢の部署で騒ぎでも起こしたらと心配する者もいた。ならば少人数の所が良かろうと探していた時に、丁度欠員があったのがこの狩衣の詰所であった。秋武と狩衣は同じ部署にいた事があり、今も親交が続いていた。温厚な狩衣なら卓真を上手く導いてくれるだろうとの期待もあった。「すぐに慣れるさ。我らが故郷のそばだ。そう思えば気も安らぐ」故郷が懐かしくないわけではなかった。だが両親を早くに失い、近しい親類もとりたてて親しい友もなく”外”へと志願した卓真には、特に未練のある場所でもなかった。むしろ閉ざされた村よりも、遠くの都会での生活の華やかさを夢見て、彼は”外”へと出たのだ。なのに今は、その離れたかった場所のすぐそばまで、また戻って来てしまった。自棄になって、卓真は机の引き出しを乱暴に閉めた。(つづく)
2013/07/31
古本屋のビルの一角にある”盾”の更衣室は広く作られていた。着替えをする為だけではなく、準備運動や互いに身体を確認する場でもあるからである。”盾”は誰もがスポーツクラブのトレーナーになれる程の知識を身につけていた。姿勢が悪ければその影響が他所に出る。筋肉のバランスが崩れれば剣の技に狂いが生じる。自分では気付かぬうちに歪みが生じ、身体の均衡を崩している。それを互いに確認しあい注意しあうのだ。病気や怪我などの我慢は美徳ではない。即刻申告して治療に専念する。勝利する為、そして生き延びる為に一番必要なのは万全の体調で戦う事、それを徹底させるのが掟のひとつであった。寒露に逢ったその日から、卓真(たくま)の態度が一変した。今までの傲慢さは影を潜め、同僚にも謙虚な態度を取るようになり、訓練にも熱心に通うようになった。(寒露様は、俺の事をご存知だった)その喜びが卓真を変えたのだ。(もし信夫(しのぶ)が二人の名を名乗ったのを聞いただけなら、俺を卓真と呼んだはずだ。朝来(あさご)の息子と寒露様はおっしゃった。俺の父の名を口にされた)卓真(たくま)は下着ひとつで準備運動を終えると、稽古着を身につけた。隣で同じように着替えていた信夫が言った。「張りきってるな」「馬鹿にしてるのか?」信夫は驚いた顔をした。「いや、していない」信夫は実直な性格だった。無駄な嘘もお世辞も言わない。虚勢ばかり張る卓真を批難する事もなく、良き相棒として何くれとなく世話もしてくれた。卓真も気を許し、信夫には本音が言えた。「俺は、寒露様に認められたい」信夫は素早く周囲に気を配った。数人の同僚が、彼らと同じように着替えたり体操をしていた。信夫は小声で言った。「その話はしない約束だ」他言無用と言われた事に信夫は忠実であろうとしていた。「俺は、何も怖くない」いつもの悪い癖が出て、卓真は肩をそびやかして言った。信夫はため息をついた。見習いを終えた盾は、まずは”外”の盾の長である白神(しらかみ)配下となる。その後に正式な配属先が決定する。先に配属が決まったのは信夫(しのぶ)だった。信夫の配属先は朱雀の会社の警備部、新人の”盾”に一番人気の部署だった。朱雀は”外”のお役目に着く者達のまとめ役である。その朱雀が社長である会社は、表向きは普通の会社だが、裏では『奴等』と戦う為の重要な拠点でもあった。中でも警備部は戦闘の最前線に立つ事も多く、精鋭が集められていた。また腕だけではなく、会社員としての仕事もある為、その方面でも有能である事も求められた。警備部への配属は、同期の中でも優秀と認められた証であった。卓真は信夫に言った。「俺の相棒だもんな、当たり前だ」卓真はそんな言い方しか出来なかったが、信夫には卓真が祝福してくれているが解った。「ありがとう」信夫は風の家の出だけに剣術に長けていた。頭も良く周囲への気配りも出来た。卓真は当然だと思ったが、胸の底にちりちりと痛む嫉妬がないわけではなかった。「明日から、向こうに行く」「随分、急だな」「少しでも早く慣れないと」信夫の思いはすでにここにはなく、彼の心が新天地への期待で一杯なのを感じて、卓真の胸底の痛みはさっきよりも強くなった。だがその痛みを振り払うように、卓真はあえて陽気に言った。「頑張れよ」そして信夫の背中を乱暴に叩いた。(つづく)
2013/06/21
後悔を飲み下す 喉が詰まる その方がいい言葉が誰かを傷つける言葉が何かを破壊するやりきれないリフレインが止まるなら何もかも飲み込んで唇を閉ざしてしまおう
2013/04/24
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「白衣の盾・叫ぶ瞳 第3回」まで更新致しました。一介の医師として郊外でささやかな暮らしを営んでいた鍬見だったが・・・若き”盾”が引き起こした事件に巻き込まれてしまう。家族を守る為に鍬見は再び剣を取る。今後ともよろしくお願い致します。menesia貴方の仮面を身に着けてHP
2013/04/23
富士屋ホテル、日光金谷ホテル、万平ホテル、奈良ホテル。ホテルの黎明期から存在し、今も宿泊客を魅了する4つのホテル。日本文化を基盤としながら、西洋との融合により、独特の世界を作り出す場所。著者は富士屋ホテルの創立者の一族の末裔であり、その母はホテルの中で育った人。それゆえに、客としてだけではなくホテルを維持する側の思いをも伝えてくれる。何事も継続するのは大変だ。現状維持のみではなく、常に時代に沿った工夫も必要だ。だが時代に迎合するあまりに、ホテルの財産である伝統を失っては本末転倒である。これらのクラシックホテルズも、この先はどうなるか分からない。富士屋ホテルは、箱根を訪れた際に何度か食事をした事がある。風雅な建物にビールの立て看板が残念でたまらなかった思い出がある。雑多で隅々に目が行き届いていない印象だった。最近は老舗を全面に押し出して、そのあたりは改良されたらしいが。奈良ホテルは2度程泊まった。良い時間を過ごせた。奈良を歩く途中で立ち寄り、タクシーを呼んでもらったり、お茶を飲んだりもした。奈良の都の古き空気の中にぴたりとおさまる風情がいい。万平ホテルは何度か前を通った。寝泊まりは別荘であったので、利用する機会がなかったのだ。意外と小ぶりな建物だった印象がある。様々な伝説だけは街中で聞いていた。両陛下の話、ジョン・レノンの話・・・避暑に訪れた古の優雅な方々の話。伝説を持つホテルが好きだ。物語のある場所にいると、自分のその中の一員として、何かを演じている気分になれる。日常から離れる場所のみが持つ空間の中で、しばし別の自分になれる。この本の中のあれこれ、実際に宿泊して確かめたいものだ。奈良ホテル2階にて
2013/04/20
2013/03/25
診察室に入ると、鍬見(くわみ)は灯りをつけた。寒露(かんろ)は室内を見回した。「あまり儲かっているようには見えないな」鍬見は苦笑した。「三人で何とか暮らしていますよ」郊外の町の小さな医院である。ここが鍬見と詩織がささやかな生活を営んでいる場所である。元々は別の医師が開設したものであった。医師が高齢を理由に引退をした際、縁あって鍬見がゆずり受けたのである。待合室と診察室、奥が住まいになっている。住まいに続く扉が開いた。詩織が顔を覗かせた。水色のナイトガウンを羽織っている。物音に気づいて起きて来たのだ。寒露は笑いかけた。「久しぶりだな、詩織」「寒露さん?」詩織は目を見張った。どこかに警戒する色がある。それを見て取って寒露は再び笑ってみせた。「心配するな、悪い話をしに来たのではない。兄弟として尋ねて来たのだ」「お茶でも」「いや、いい。弟と少し話がしたいだけだ」詩織は鍬見を見た。鍬見が頷くと詩織は笑顔を見せ、奥へと引っ込んだ。「幸せそうだ」「そう思いますか?」「嗚呼、思う。最後に逢った時よりもずっと良い顔をしている」「ありがとうございます」「他人行儀はやめよう、堅苦しいのは嫌いだ」寒露は寝台に腰を下ろし、自分の隣を指差した。鍬見は従った。兄弟は並んで座った。「何故来た、と聞かないのか?」「これから話してくれるのでしょう?」寒露は楽しそうな顔をした。「良かった、お前は変わってない」「兄さんこそ」「俺は変わらない、変われない」”人でない”寒露の時は止まっている。今の二人を比べれば、鍬見の方が兄に見える。妻子を得た落ち着きが鍬見を一層年上に見せていた。「剣の腕、ますます磨きがかかったな」「お恥ずかしい。なまくらでも、私には守らねばならぬものがある」「謙虚だな」寒露は寝台の上に仰向けに倒れた。「お前はこの十年で、千体以上の悪鬼を倒している」寒露は言った。「俺達の仕事が楽になって、助かってるよ」「戦えば、いずれ居場所が知られる事は解っていましたが」「心配するなと言っただろう?俺は断罪に来たわけじゃない」寒露は鍬見を見上げた。鍬見と目が合った。鏡の中の己と良く似ていると、互いに感じていた。寒露はいつも同じ顔が傍らにあった時の事を思っていた。双子の兄の白露(はくろ)と共に佐原の村を率いていた頃の事を。今は亡き兄を。「お前は、本当に白露に似ている」鍬見は戸惑った。「腹違いの私が、ですか?」「そうだ、同じ父を持つお前と白露が。白露はいつもお前のように静かで冷静だった」「私は、白露様のような立派な人間ではありません」「そんな事はない」寒露は起き上がった。「さて、本題に入ろう」鍬見も身を引き締めた。「鍬見」「はい」「お前の事を親父様に話した」鍬見は驚いた。「親父様はお前に逢いたがっている」「しかし、私は村を追放された身です」「親父様は、白露を失い、俺が化け物になり、心の底では悲しんでおられた。霧の家の長である手前、誰にも漏らす事はなかったが。だからもう一人息子がいると知って、大変に喜んでおられた」「しかし」「親父様はご病気だ。親父様も歳には勝てない、めっきりとお身体が弱くなられた」寒露は鍬見の肩を優しく掴んだ。情のこもった手であった。「逢ってくれないか、孫娘にも逢いたがっていたぞ」「そんな事が、許されるのでしょうか」「状況が変わったのだ」(つづく)
2013/03/24
鍬見(くわみ)は奇妙な卓真(たくま)の様子が気になった。鍬見はじっと卓真の顔を見た。卓真は必死な目をして鍬見の顔を見ていた。やがて卓真が言った。「寒露(かんろ)様、寒露様ですね?」今度は鍬見の方が驚いた。「いや、私は」卓真は夢中になって叫んだ。「いえ、そうに違いない。私は幼少の頃より、何度もお姿を拝見させていただきました!」卓真はその場に平伏した。「ご無礼を!ご無礼を!何卒ご容赦の程をっ!」信夫(しのぶ)も驚いた。寒露とは村の守護者であり、先の盾の長でもあった者。歴代の盾の中でも優れて誉れ高き盾の一人であった。鍬見は静かに言った。「私は寒露様ではない。似ているとしたら、私もまた霧の家の出、そのせいであろう」卓真は納得しなかった。地に両手をついたまま顔だけを上げ、卓真はなおも言い募った。「いえ、その御顔は、どう見ても寒露様でいらっしゃいます。寒露様でなければ、どなただとおっしゃるのですか?」不意に月の届かぬ闇の中から声がした。「俺の弟だ」三人は同時にその方角を見た。黒いゆるやかなシャツに黒いズボンの男が影の中から現れた。襟足で切りそろえた髪は絹糸の如く艶やかにまっすぐで、男が歩を進めるたびに顔の半分を隠した前髪がさらさらと揺れた。男は鍬見の傍らで足を止めると、親しげに鍬見の肩を抱いた。「こいつは俺の弟だ。俺の、霧の家の寒露の、大事な弟だ」鍬見と良く似た顔が、いたすらっぽい微笑を浮かべて卓真を見た。「お前が間違えるのも無理はない。朝来(あさご)の息子、卓真」卓真は激しい混乱の中にいた。目の前に崇拝する寒露がいるのだ。卓真は叫んだ。「寒露様!お会い出来て光栄です!」卓真は地面に額を擦り付けた。「寒露様の弟君とは知らず、重ね重ねのご無礼、申し訳御座いません!」信夫も慌てて共に頭を下げた。寒露は軽く笑った。「兄弟が似ていて当たり前だ。二人とも顔をあげろ」二人は素直に従った。「今宵の事、他言は一切無用だ」寒露の目が赤く光った。二人の背筋が凍りついた。今の寒露が”人でない”事を二人は思い出した。「我らは特別なお役目の最中だ。その意味、お前達にも解るな?」再び二人は頭を下げた。信夫が言った。「はい、仰せの通りに」二人が顔を上げた時には、そこに兄弟の姿はなかった。(つづく)
2013/03/22
2013/03/21
月に一度、”盾”の制服を着る。それがこの十年、鍬見(くわみ)が欠かした事のない習慣だった。黒の詰襟に似た制服を着用すると身も心も引き締まった。何よりも制服が着られるという事は、己が鍛錬を疎かにしていない証でもあった。妻の詩織の能力は消えてはいない。『奴等』の手から彼女を守れるのは、今は自分しかいない。その為にはいつも戦う心を忘れてはならない。仕えるべき人を裏切り、その想い人と逃亡した代償として。嫌な気配がした。(近い・・)眼鏡をはずすと、鍬見は木刀を手にした。やりあう影は3つだった。ひとつは悪鬼、後の二つは(”盾”か。まだ若いな)鍬見は木刀に仕込まれた刃を抜いた。今宵の天空に浮かぶ三日月とよく似た閃光が、悪鬼の首を刎ねた。牙をむき出した口から悲鳴が上がり、悪鬼の身体が地面に転がった。しゅうしゅうと黒い煙を上げ、折れ曲がった醜い爪が断末魔に震えていた。防戦一方だった二人の盾は、驚いて鍬見を見た。鍬見の制服が味方であると告げていた。盾の一人が鍬見に居丈高に叫んだ。「貴様は誰だ!」この卓真(たくま)という盾は、見習いを終えて白神配下となったばかりであった。霧の家の出身だが、実力は今ひとつで席次も低い。その為に弱みを見せまいと、横柄な態度に出る若者だった。鍬見は黙して二人を見ていた。今の自分が彼らにどう映っているのか、見定めたい気持ちもあった。「よせ、卓真」もう一人の盾が進み出て、鍬見の前に膝を付いた。「加勢を頂きありがとうございます。同輩の無礼、平にお許しを。我らは白神様配下の者で御座います」懐かしい名前を聞き、鍬見は思わず尋ねた。「白神様はお元気か?」「はい。我らでは、お側に近づく事さえ、めったには出来ませぬが」惨劇を見まいと雲隠れした月が現れ、下界を照らし出した。若い盾達は、自分達の目の前に、壮年の美しい盾を見出した。すらりとした長身、寛いでいるようで寸分の隙もない物腰、端正な顔、理知を秘めた温厚なまなざし。膝をついた盾は確信した。(この方は、”外”の特別なお役目についておられる、名のある盾に違いない)「私は風の家の信夫(しのぶ)と申します」信夫は目顔で突っ立ったままの相方を示して言った。「あれは霧の家の者で、卓真と申します」信夫は小声で卓真を叱責した。「おい、失礼だぞ。お前も膝をつけ」卓真は目を丸くして、月下に輝く鍬見の美貌を見ていた。何に驚いたのか、卓真の唇が震えている。小声で信夫が問いただした。「どうした、卓真」歯の根が合わぬような、妙にとぎれとぎれの声で、卓真は言った。「まさか・・・まさか、貴方は・・いや、貴方様は・・・・」(つづく)
2013/03/20
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「白木蓮は闇に揺れ 第23回(終)」連載がひとつ終わりました。ご愛読いただいた皆様に感謝です。鍬見と詩織のその後の事は、後に書きたいと思います。その前に朱雀の息子のひとり、和樹の話を書いていこうと思います。今後ともよろしくお願い致します。menesia貴方の仮面を身に着けてHP
2013/03/13
鍬見はこの道の先に渦巻いている不穏な気配を感じた。助手席の詩織は何も気づいていない。「何があっても、指示通りの道を行け」朱雀は言った。(朱雀様を信じよう)鍬見は迂回せず、そのまま進む事にした。悪意にどんどんと近づいて行く。それでも鍬見は止まらなかった。不意に圧倒的な気配が前方に広がった。閃光が空をよぎった。白き炎が影を一瞬で焼き尽くしたかの如く、一切の悪意は消え去った。優雅なる白き風は二人の乗る車の上をあっという間に翔け抜けていった。鍬見にはそれが何であるか、解った。(三峰様・・)二人の進む道を白き守護者が守っている。鍬見は心の中で三峰に頭を下げた。無言のまま、車は夜の底を走っていた。不意に詩織が口を開いた。「ねえ、さっき感じたの」「何を?」四方に気を配ったまま、鍬見は聞いた。「夜空に燃え上がる、白く美しい炎を」詩織も三峰の存在を感じ取っていたのだと、鍬見は思った。「白い木蓮が、夜に咲いているのを見た事がある?」「いや、ない」「闇の中に、白く空に向かって開いた花がね、まるで白い炎のようなのよ。それを思い出したわ」ハンドルを握る鍬見の手に、詩織はそっと自分の手を重ねた。「私達を守ってくれる炎だったのね」朱雀と別荘に向かう車中にある時、今後に役立つあらゆる事柄を朱雀は鍬見に教え聞かせた。白神との取引に関しても包み隠さずに語った。野に下り、密かに『奴等』の芽を摘む事、それが鍬見へ与えられた役目であった。それと引き換えに鍬見は生かされたのだ。鍬見の目頭が熱くなった。朱雀が部下としての自分に寄せていた深い信頼ゆえに、こうして何もかも打ち明けているのが伝わって来た。この人になら一生お仕えしたい。鍬見に限らず、朱雀の配下になった者は誰もがそう思う。今その人の下を去らねばならぬ自分が口惜しくてならなかった。と同時にその人の思いを裏切ってはならぬ、詩織を必ず幸せにしなければならぬという決意もまた新たにしたのであった。鍬見は頷いた。「そうだ、私達は多くの方々の手で生かされている」朱雀や三峰だけではない。白神は名刀神星を手にしていた。その真の持ち主は竹生である。白神はあえて刀の銘を口にする事で、そこに竹生の意思をもある事を鍬見に知らせたのだ。「私達が幸せになるのが、何よりもの恩返しになる。だから・・」「大丈夫」詩織は微笑んだ。「大丈夫、私達はきっと・・」白き風が過ぎ去っても、風はどこまでも二人を見守るかの如くに、深まる夜の中を吹いていた。(終)
2013/03/10
詩織が戻って来た。手には水色のトランクを提げていた。朱雀はそのトランクに見覚えがあった。百合枝の物であった。かつて誤解とすれ違いから百合枝が朱雀の家を出た時に、手にしていた物であった。懐かしさが瞬間、朱雀の目を細めさせた。悲劇はあったが百合枝は戻って来た。(求め合う魂を引き裂くなど、出来るものではない)朱雀と百合枝がそうであったように、この二人も又。朱雀は鍬見に言った。「これからはお前ひとりで彼女を守らねばならぬ。それでも二人で行くかね」鍬見よりも先に詩織が答えた。「かまいません。ただずっと生かされているだけよりも、私は鍬見さんと行きます」朱雀は微笑した。朱雀は鍬見の手に車のキーを渡した。一緒に小さな紙切れを渡した。行き先の地図であった。「今宵はそこで休むがいい。これからの事を二人で相談するといい」朱雀は封筒を詩織に渡した。「これは」中には紙幣が詰まっていた。返そうとする詩織の手を朱雀は押しとどめた。「当座の足しにしなさい。百合枝と私からの餞別だ」「ごめんなさい。百合枝お姉さまには、良くしてしていただいたのに」「私達はキミ達の幸せを祈っている」「ありがとうございます」朱雀は二人の車を見送った。テールランプが見えなくなると、朱雀は言った。「さて、私相手に勝算はあるのかね」どこからともなく現れた幾つもの影が朱雀を取り囲んだ。くぐもった笑いが幾つも沸き起こった。「今頃、二人は亡骸になっておるわ」「仲間がこの先に潜んでおったのだ」朱雀は微笑した。「それはありえんな」殺気が朱雀の周囲に膨れ上がった。「何をいう」「強がりか」「戯言よ」頭上から声がした。「そう、ありえぬ」風が吹いた。三日月の照らす天空には白き裾を翻す美しい姿があった。「私が皆、斬り捨てた」三峰であった。三峰を見上げ、朱雀は再び微笑した。次の瞬間、朱雀を囲んでいた影はことごとく地に伏していた。朱雀はいつの間にか愛刀を手にしていた。おそらく、どの影も自分が斬られた事すらも気づかずに絶命したであろう。影は音もなく黒い煙となって消え去った。三峰は優雅に地に降り立った。「これで良いのだな」「我らの未来の選択肢を増やす試みのひとつ」「ただ、肉親の情で動いたわけではないと」朱雀は三峰を見た。稀なる美貌のぬしは、兄の竹生と良く似た切れ長の目で朱雀を見ていた。「”外”に出た時から、それが私の役目」「辛いな」「そう言うな、少なくとも二人を引き裂かずにすんだ」「では」朱雀は言った。「私は自分の車で帰るが、お前はどうする、三峰」「飛んで帰れというのか?」「私の助手席はご婦人専用だ」「お前らしいな」朱雀はにやりとしてみせた「だが、今日は例外を認めよう」(つづく)
2013/03/05
「今の私は朱雀ではない。詩織の親族としてここに居る」運転席で前を見つめたまま、朱雀は言った。朱雀は濃茶のカシミアのコートをまとっていた。それを見て鍬見は寒さを初めて感じた。外の寒気にすら気づかぬほどに緊張しきっていたのだ。車は古本屋を直ちに離れ、郊外へと向かう道を走っていた。深い森の色をした朱雀の愛車ではなく、ありふれた黒い乗用車であった。助手席の鍬見にはその意味が理解出来た。朱雀の部下である前に”盾”である限りは、生殺与奪の権利は白神にあった。さすがの朱雀も関与は許されぬ領域である。表立って動く事は出来ない。だからこそ一人で鍬見を待っていたのだ。「お前は生きて表へ出る事はない、白神は皆に宣言した。だからお前は消えねばならぬ」朱雀はちらりとバックミラーを見た。「追手はいないようだな」朱雀はハンドルを握りなおした。「白神がお前を逃がした事を快く思わぬ者もいる。今の体制では、秘密などすぐに知れてしまうからな。味方の中にも敵がいるようなものだ」鍬見は黙していた。これから何が起きるにしても、受け入れるしかないと思っていた。車は別荘地へと入っていった。瀟洒な建物が森の中に点在している。ほとんどが無人で暗く鎧戸を閉ざしていた。ひとつの家にだけ灯りがついていた。一昔前に流行ったログハウス風の建物である。朱雀はその家の裏手に車を停めた。裏口から二人は中へと入った。廊下には灯りはなかった。暗闇であっても朱雀の”人でない”目には昼間同然に見える。鍬見も夜目が利く。二人は奥へと進んだ。その先の部屋の扉の隙間からから灯りがもれていた。そこは簡単な応接セットとブルーフレームのストーブがあるだけの部屋だった。二人が部屋に入ると、ソファに座っていた女が立ち上がった。詩織であった。目が合うと鍬見は動けなくなった。急激に湧き上がる愛しさとともに罪悪感もあふれ出した。自分のせいで彼女は危険な橋を渡っている。彼女は自分をどう思っているのだろう。側へ行っても良いのか、鍬見には判断がつきかねた。女の方が潔かった。詩織は鍬見に駆け寄ると抱きついた。「逢いたかった」息だけで詩織は言った。声にならない激しさを彼女も抑えているのだと鍬見は感じた。戸惑いながらも鍬見はその肩を抱き寄せた。「時間がない」朱雀が言った。「キミの荷物を取っておいで、詩織」鍬見の胸にすがったまま、詩織は頷いた。そして身体を離すと奥の扉の中へと消えた。鍬見の目はその姿を追っていた。朱雀は鍬見を見ていた。「その格好では目立つ」鍬見は黒い詰襟に似た”盾”の制服を着ていた。朱雀はコートを脱ぐと、鍬見の肩に着せ掛けた。「これを着ていくがいい。お前の着替えを用意する暇がなくてね」「ありがとうございます」鍬見はコートに袖を通した。「これから先、我らがお前と顔を合わせる事はない」「はい」頷くと鍬見は朱雀を見上げた。鍬見も背は低い方ではない。それでも朱雀の方が長身であった。鍬見を見る朱雀の目は温かかった。部下の誰もが尊敬し憧れる社長、いつもの朱雀であった。だが今その目には普段よりも複雑な色があった。(つづく)
2013/03/01
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2013/01/24
鍬見(くわみ)の断罪は、鍬見の完治を待って行われる事になっていた。それは”盾”という組織の正当性を示す為でもあった。金谷(かなや)と久井(くい)が監視の名目でつききりで世話をした。彼らの献身ぶりに大半の”盾”は寛容だった。誠実な鍬見の人柄を知る者は彼に同情する者も多かった。鍬見は仲間の気持ちをありがたく思った。だが掟を破り、詩織を危険に晒した原因を作ったのが自分にあるのは明白だった。それでもたとえ死すべき運命が待っていたとしても、胸を張って死にたいと思っていた。詩織を守りきった、その誇りだけを胸に。それが鍬見を支えていた。自分がいなくなっても鹿沼も千条もいる。朱雀様も百合枝様も力になって下さるだろう。幸彦様が詩織様を幸せにして下さるだろう。何も心配はいらない。そう思いながら、鍬見は黙々と日課をこなしていた。あの病院で再会した日以来、鍬見と詩織とは顔を合わせていなかった。詩織は竹生の屋敷に保護されていた。屋敷にいる限り、誰も詩織に手出しは出来なかった。久井は鍬見に代わって百合枝の主治医をつとめていた。鍬見には言わなかったが、久井は屋敷を訪れた際に、鍬見の容態を密かに詩織に伝えていた。詩織も今は耐える時期だと悟っていた。百合枝は詩織をいたわってくれた。朱雀が立場上、詩織に何も語る事が出来ないのも、詩織は理解していた。鍬見が裁かれる日が来た。鍬見は盾の制服を纏い、車で古本屋のビルに護送された。鍬見は静かに古本屋ビルの地下室へと歩いた。拘束はされず、前後に金谷と久井が付き添っていた。廊下に人影はなかった。鍬見を辱めまいとする、盾達の気遣いであった。扉の前に一人の”盾”がいた。鍬見の知らない顔であった。金谷と久井は廊下に残り、見知らぬ盾と共に鍬見は中へ入った。部屋の奥に椅子があり白神(しらかみ)が座していた。白神の左右に護衛の盾が立っていた。その顔も鍬見の知らない顔であった。白神なりの配慮なのだろうと、鍬見は思った。情を押さえた端正な白神の顔と向き合い、鍬見は長く同僚であった白神にこんな苦い役目を負わせてしまった事をあらためて申し訳なく感じた。役目を離れれば二人は良き友人であり、友人の口調で話す仲であった。導かれるまま、鍬見は白神の前に立った。鍬見は後ろ手を組み、背筋を伸ばして白神を静かに見た。白神も静かに鍬見を見ていた。しばらくの沈黙の後、白神が口を開いた。「霧の家の三郷(みさと)の息子、鍬見に相違無いか」鍬見は胸を張って答えた。「はい」白神が右の盾に頷くと、その盾は懐から書状を取り出し広げて読み始めた。鍬見の罪状がそこに記されていた。その盾はよどむ事無く朗々と読み上げた。(張りのある声、おそらく露の家の出の者だろう。あの家の者は皆、良い声をしている)その声を聴きながら、鍬見は二度と戻れぬ故郷に思いをはせていた。幼くして親を失くした鍬見は、盾の宿舎で育った。そのような子供達は何人もいた。激化する『奴等』との戦いの中で倒れる者は多かったのだ。何の後ろ盾のない彼等には、己の力のみが頼りであった。強くなる事のみが、この村で彼らが生きる為の手段であった。彼らは競い合い、支えあった。「以上、相違ないか」白神の声が鍬見を我に返らせた。再び、白神を見据えて、鍬見は静かに答えた。「ありません」白神は頷いた。「鍬見の処分を言い渡す」努めて無情な声で白神は言葉を続けた。「”盾”、鍬見の命、ここまでとする」鍬見は静かに頭を下げた。特に同期の者同士の絆は深かった。十の歳に彼らは見習いの盾となり、訓練の末に一人前となる。異なる部署に配属となっても絆は切れる事はなかった。それゆえ、同期の千条と鹿沼は鍬見には特別の友であり、彼らに何かがあれば何でもするつもりでいた。事実、千条も鹿沼も今の鍬見に出来うる限りの事をしてくれた。その恩も返せぬ事が今となっては唯一の心残りであった。白神が立ち上がった。左の盾が白神に一振りの刀を渡した。「膝をつけ、鍬見」作法に従い、後ろ手を組んだまま鍬見は膝をつき、首を前に差し出した。白神は鍬見の傍らに立った。「我が風の家の名刀”神星(しんせい)”にて、我が自ら断罪するを、せめてもの慈悲と思え」白神が刀を振り上げた。鍬見は目を閉じた。(つづく)
2013/01/24
扉の前で朱雀が名乗ると、扉はすぐに開いた。普段なら扉の左右に見張りの盾がいるはずだが、今は目立たぬように誰も立たせていなかった。特別病棟は各界の要人の入院も多い。待合室も豪華でそれなりの調度が整えられていた。明るいベージュ色のソファに、幸彦はぐったりと身を投げ出していた。傍らの安楽椅子に三峰がいた。朱雀の為に扉を開けた金谷は、そのまま入り口の側に立った。幸彦は片手を振って、朱雀に座るように促した。朱雀はソファの真向かいの椅子に腰を下ろした。「事情は説明致しました。詩織も理解はしてくれたようです。今は詩織の気持ちも和らいでおります」「そうかい」幸彦の声に力はなかった。まだ痛みを堪えているかのような表情のままだった。「詩織が、幸彦様に謝っておいてと欲しいと。先程は言い過ぎたと」少しだけ幸彦の顔に笑みがよぎった。安堵したのか、体中の緊張が解けたのか、更にぐったりとソファに横たわる形となった。「僕は、二人に幸せになって欲しいと思っている」三峰が口を挟んだ。「ですが、掟を破った鍬見を無罪放免にする事は、”盾”の士気に影響致します」「わかってる」幸彦は短く言った。そして大きくため息をついた。「僕のせいだ、何もかも。村がああなってしまったのも、何もかも。今度は”盾”まで」朱雀がとりなすように言った。「時代の流れです。どうしても”外”の影響を受けずにはいられません。しかし鍬見の件はそれとは別の事です。あれはあれなりに、任務に忠実であろうとしたのです」「そうだね」三峰は金谷に声をかけた。「幸彦様に温かいお茶を頼む。ついでに我らにも」金谷は一礼して出て行った。室内は三人のみとなった。三峰が言った。「”盾”の長である白神(しらかみ)の面子もつぶしてはなりませぬ。ですが、詩織は『火消し』に縁のある者、彼女の願いも無下には出来ぬはず」「駆け引きは、僕は苦手だ」三峰は微笑した。誰もが魅了される笑みが幸彦の顔を覗き込んだ。「ええ、その類なら得意な者がおります」美しき微笑は朱雀に向けられた。朱雀は片方の眉を上げた。「幸彦様がお望みなら」幸彦が言った。「頼むよ」「承知致しました」朱雀は応じた。そして向けられた微笑に劣らぬ微笑を浮かべた。(つづく)
2013/01/07
朱雀は言った。「キミは、人が青い炎で包まれたように、見える時があるのではないかね」マグカップを支える詩織の手に力が入った。詩織は朱雀を見た。朱雀の目は穏やかで優しい光を湛えていた。朱雀に詰問も非難もするつもりがないのが解った。詩織はためらいながら尋ねた。「鍬見(くわみ)さんに聞いたのですか?」「いや、私は鍬見とは話していない」「では、どうしてその事を?」「百合枝も同じ力を持っている」詩織は驚いた。「百合枝さんも?」朱雀は頷いた。「キミ達の曾祖母が持っていた力だ。キミが持っていても不思議ではない」詩織の曽祖父と曾祖母に関して、朱雀はまだ語りたい事が多くあったが控えた。いずれその機会は来るだろうと、朱雀は思った。今は先に伝えねばならない事があった。「百合枝には、もうひとつの力がある。『奴等』の毒を浄化出来るのだ」「毒?」「鍬見を救ったのはキミだ」「私が?」「『奴等』の毒は普通の方法では解毒は無理なのだ。キミの力が鍬見の毒を浄化し、鍬見は生き延びたのだ」詩織は鍬見の身体のあちこちに見えた緑の光を思い出した。(あれが、毒だったのかしら)すべては無意識であった。自分が何をしたのかもおぼろげにしか思い出せない。気が遠くなって、気がついたらこの病室にいた。「私、解らないわ」朱雀はいたわるように言った。「あせらなくていい、今はキミと鍬見が安全だという事だけが理解出来ればいい」「でも、鍬見さんは罰を受けると」今まで黙っていた寒露(かんろ)が口を挟んだ。「”盾”の掟を弟は破った。回復次第、しかるべき場で裁かれる」不吉な思いで一杯になり、詩織は叫んだ。「これも幸彦様の指図なの?」朱雀の顔から笑みが消えた。朱雀は”外”のお役目の長としての顔になった。「幸彦様は、こんな事は望んでおられない」詩織は食い下がった。「では、どうして」「”盾”の掟は絶対だ。それ故の苦渋の選択なのだ」詩織の胸に村への嫌悪が広がった。最初から二人を隔てていた壁、その頂点にいる幸彦という存在。何も知らずに幸彦の好意を受けた。それが彼の”想い人”という扱いになった。あるじの想い人を略奪した部下という汚名と罪状が、鍬見に被せられた。ただ、二人の心が通じ合っただけなのに。再び強張った詩織の顔を見て、朱雀は首を振った。「幸彦様はご存じなかったのだ。キミと鍬見の事を。あの方は今、傷ついておられる」詩織は言い返した。「傷ついているのは、鍬見さんです」「いや、キミには説明していなかったな。あの方は人の負の感情を身体の痛みとして受け取ってしまうのだ」「そんな事がありえるの?」「そうだな、いきなり信じろと行っても無理だろう。キミは憎しみをあの方に向けた。あの方にはとても辛い事だ。あの方は後悔による心の痛みと、キミからの憎しみによる肉体の痛みと、その両方に苛まれているだろう」寒露が呼んだ。「詩織」詩織は愛しい人の兄を見た。「お前は弟の為に、何もかも捨てる覚悟はあるか?」寒露には何か考えがありそうだった。「何もかも?」「家も家族も職も名前も、今のお前のすべてを」詩織は胸を張って答えた。「それで、鍬見さんが助かるのなら」「百合枝や朱雀殿にも、逢えなくなる」詩織は朱雀をちらりと見た。朱雀の顔には温和な笑みが戻っていた。「私達は、何よりもキミの幸せを願っている」深く豊かな声が言った。その声に背中を押され、詩織ははっきりと言った。「鍬見さんと共に生きられるのなら、捨てます」寒露は満足げに微笑した。「その決意、聞き届けた」詩織は不意に疲れを覚え、ぐったりと背もたれにしていた枕に沈み込んだ。朱雀は詩織の手からカップを取ると、テーブルに置いた。しばらく病室には沈黙の時間が流れた。それには当初の重苦しさはなかった。それは何かを越えた後の静けさに似ていた。気持ちが落ち着くと、詩織は幸彦への態度に後悔を感じ始めた。気が進まないのに誘いにのった。幸彦や周囲に誤解を招く行動を取ったのは自分なのだ。「朱雀さん」「何だね」「幸彦様に謝りたいの。私、気が立って酷い事を」「解った。さっそく伝えて来よう」「俺がここにいる。誰が来ようと指一本たりとも詩織には触らせない」寒露はあえてひょうきんに言った。「金谷が診察に来た時は、そうだな、必要な分だけは許してやる」朱雀は寒露と目配せした。先程の「聞き届けた」の意味を正確に理解しているのは、この二人のみであった。(つづく)
2012/11/27
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「社長の息子 第16回(終)」まで更新。連載がひとつ終わりました。ご愛読いただいた皆様に感謝です。今後は「白木蓮は闇に揺れ」の続きとその終了後に新作の予定です。今後ともよろしくお願い致します。menesia貴方の仮面を身に着けてHP
2012/10/25
拓人の出発の日が来た。朱雀は空港まで送って行くと言って聞かなかった。朱雀の多忙を知っている拓人は遠慮したが、朱雀は言った。「父親らしい事をする機会を、私から奪わないでくれないかね」拓人は朱雀の気持ちがうれしかった。欧州の深い森の色をした朱雀の愛車の助手席で、拓人はあらためて不思議な気持ちでいた。ほんの少し前までは、こんな運命が待っているとは思いもよらなかった。飲んだくれの母親と共に、町の片隅で朽ちていくだけの人生だと思っていた。それがいきなり父親が出来、沢山の家族が出来、何もかも満ち足りた生活が送れるようになった。そして諦めていた大学進学の道も開け、それも海外の大学に入学が決まった。夢のようだと思う事もあったが、その夢は現実で、拓人の前には旅立つ日までやるべき事が山積みになっていた。初めての海外に緊張を隠しきれない助手席の拓人に、ハンドルを握りながら朱雀は優しく言った。「向こうに着いたら、鳥船(とりふね)が迎えに来る。現地の社員にも頼んである。何も心配はいらない」今後の事を見据えて、若い"盾"に海外で学ばせようと以前から朱雀は考えていた。拓人の留学を機に、朱雀は鳥船を同行させる事にした。鳥船は若手の中で頭脳明晰な事で一目置かれる存在だった。真彦の警護が主なる役目で屋敷に住み込んでいたので、拓人と顔を合わせる機会も多かった。「だよね」「私にいつでも電話していい。その為の携帯だ」朱雀は拓人の携帯電話を海外でも使える機種に新調してやった。同じ物を真彦と柚木にも与えた。生まれて始めて自分の携帯電話を持った真彦は喜んで、色々と弄り回した。柚木や警護の"盾"達にも教わってメールのやり方も覚えた。「何だ、力を使うよりずっと楽だね」真彦は柚木や拓人とのメールを楽しんだ。周囲の者のアドレスを聞くとメールを送った。執事の桐原にあまりにも頻繁にメールを送ったので、遂にたまりかねた桐原が言った。「お屋敷の中で私に用がある時は、どうか直接お言いつけ下さい」拓人と朱雀は空港のロビーにいた。「行かなくていいの、忙しいんだろう?」「大丈夫だ」「俺はもう子供じゃないよ」朱雀が片方の眉を上げた。「どうかな」素早く両手を拓人の脇の下に入れると、朱雀は拓人を天へと差し上げた。逞しい腕で、朱雀は紫苑にするのと同じように、拓人を"高い高い"した。拓人は慌てた。「よせよ、俺は赤ん坊じゃない、紫苑(しおん)じゃないんだ」「お前は子供だ、私の子だ。紫苑と同じようにな」うれしさと恥ずかしさで、拓人の顔は火照り、真っ赤になった。「分かった、分かったから。おろしてくれよ、親父」地面に足がついた途端、少しふらつきそうになったが、かろうじて拓人はこらえた。目の前の朱雀を見上げると、朱雀は息ひとつ乱していなかった。驚いて立ち止まっていた観衆に、朱雀は魅力的な笑顔で言った。「昔、ウェイトリフティングをやっていてね」朱雀の広い肩幅と背広の上からでも判る太い二の腕のあたりに目をやり、人々は納得して去って行った。「じゃあ、行って来るよ」朱雀はうなずいた。「社長」朱雀に声を掛けたのは、取引先の会社の重役だった。丸く額が禿げ上がった顔に似つかわしい恰幅の良い男である。朱雀は軽く会釈した。男はゲートの奥へと消えて行く拓人の背中を見ながら言った。「お見送りですか」朱雀も視線を拓人の背中に戻した。若い背中に緊張があった。だが同時に誇らしさもあった。「息子が、向こうの大学に留学する事になりまして」「社長の息子さんですか。優秀で羨ましい、先が楽しみですな」朱雀は微笑した。「私の、自慢の息子です」再び男に会釈をすると、朱雀は歩き出した。(終)
2012/10/15
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「社長の息子 第15回」まで更新。短歌集その二十二更新。今後ともよろしくお願い致します。menesia
2012/10/12
取り戻せぬものがあるなら取り戻しに行こう昨日は出来なくても今日ならば出来るかもしれない繋ぐ希望を置き去りにして立ち止まるのはやめよう道は前に作るもの 後ろに残すのはそれからだ甘くていい さみしくてもいい自分は自分なのだと向き合った方がいいすべてが砂に還る前に
2012/10/01
落ちるものは落ち満ちるものは満ちていく残るものは残り巡るものは巡りゆく 刻々と刻々と 万象の掟の下に
2012/09/29
社長室を訪れた和樹に、朱雀は尋ねた。「キミの弟の様子はどうだね、専務」「いつも面倒な事は僕に押し付けるんですね、社長」そう言いながら、和樹には嫌がっているそぶりはなかった。すっかり専務が板についた和樹は、仕立ての良い背広を小粋に着こなしていた。自信に裏打ちされた穏やかな様子には、もはや朱雀に抱き付いた気弱な子供の面影はどこにもない。だが二人の絆は今も変わる事はなかった。和樹は朱雀の机に腰を下ろし、手にした書類をぽんと朱雀の前に投げると、砕けた笑顔を見せた。そして事務的な口調も捨てた。「面白いよ。良い刺激になるよ」「お前の跡を継げそうかね?」「可能性はあると思う」「慎重だな」「柚木に”盾”に専念させたいのでしょう?」「それが一番良いだろう」「あの子が”村”を受け入れる気持ちになったのならいいけど」「問題は母親だ。それが柚木を頑なにしている」「そうだね」柚木の育ての父親の忍野(おしの)が、とある誤解から村中から糾弾された時、母親の真理子は夫である忍野をかばう事をしなかった。後に忍野の件は誤解と判明したが、忍野は帰らぬ人となった。柚木は母の態度を許さなかった。それが柚木の心の大きな傷となり、彼が故郷を出るきっかけとなった。「拓人の問題は、実の父親だ」「今、調べさせているよ」朱雀は微笑した。「私の息子達はそろって優秀だな」和樹も微笑した。「百合枝さんは、良いお母さんですから」朱雀は満足げに頷いた。「何よりも彼女は良き妻だ。私の最愛のな」朱雀が微塵も動じる風もなく切り返したので、和樹は声を出して笑った。「まだかなわないな、お父さんには」和樹の下で、拓人は、仕事や会社経営について、身につけるべきマナー、教養その他、沢山の事を学ぶようになった。佐原の村の事も教えられた。それが真彦との親密さを増す手助けになった。柚木以外に初めて歳の近い人間と身近に接するようになった真彦は、次第に子供らしさを取り戻し、笑顔を見せるようになった。それだけに、拓人が海外の大学への進学を決めた時の落胆は大きかった。「休みには戻って来るよ」拓人は真彦を慰めた。「むこうの美味そうな菓子、送るよ」「子供扱いするな」真彦はむくれた。そんな甘え方も以前の真彦ならしなかった事である。「何だよ、真彦。僕がいるんだぞ」柚木は拓人が羨ましいと思ったが、自分が真彦の側を離れるべきではない事も解っていた。拓人が続けた。「そうだよ、柚木はいるんだ。それに電話ならいつでも話せるしな」「僕、電話は大嫌い」真彦はますますむくれた。拓人は思いついた。「真彦、夢の力を使えば、離れていても俺と話せるんじゃないか?」真彦はふくれっ面のままだった。「出来るけど、むやみに力を使うなと、お父さんに言われてるんだ」「そうなんだ」ふと柚木は風を感じた。風は屋敷の最上階から来ていた。(竹生様・・)柚木は言った。「大丈夫だよ、真彦。無駄な事じゃない。これは僕らにとって必要な事だ。僕が一緒にいるから、『奴等』が嗅ぎつけても、僕が守るから」柚木は天を仰いだ。「竹生様がいらっしゃる時なら、きっと平気だよ」真彦は笑顔になった。真彦も天を仰いだ。「ありがとう、竹生」拓人も顔を上げた。その脳裏には、自分に手を差し伸べた神のごとき稀有なる美貌が、白く浮かんでいた。(つづく)
2012/09/11
月に一度、屋敷の庭でバーベキューパーティが行われる。”盾”の慰労会のようなものである。屋敷の住人は子供達以外はあまり顔を見せない。皆が気兼ねせずに楽しめるようにである。裏庭の炉に炭が赤々と熾り、網の上に大ぶりの肉や野菜が美味そうな匂いをたてている。氷を詰めた桶にビールやジュースの瓶が突っ込まれている。この日ばかりは津代はお客様で、料理自慢の鹿沼が料理の指揮を取る。朱雀がポケットマネーを出して良い肉を大量に鹿沼に買わせるので、若い盾達は楽しみにしていた。賑やかな様子に、拓人(たくと)は目を丸くした。拓人に気がついた若い盾が、拓人の席を作って座らせてくれた。他の者が肉や野菜を山盛りにした皿を勧めた。豪快な焼肉にかぶりつきながら、拓人は不思議な幸せを感じていた。彼らがあまりにも自然に拓人を受け入れてくれたからである。まだ屋敷に来て日が浅いのにも関わらず。それでいて馴れ馴れしすぎる不快感はない。真彦(まさひこ)や柚木(ゆずき)と同じ”お屋敷の大事な子供”として扱ってくれる。「何だ、もう来てたんだ」真彦を連れた柚木がやって来て、拓人の隣に座った。程好く酔いの回った赤い顔をした陽気な五瀬(いつせ)が、後から来た子供達に肉を刺した串を持って来た。真彦は普段の行儀の良さを忘れたかのように、うれしそうにかぶりついた。柚木も同じだった。軽口を叩く者、歌う者、踊りだす者も現れた。芸達者な者が多かった。村に伝わる歌や庭掃除の箒を持ち出して剣舞をやり出す者もいた。拓人は自分が屋敷の住人として認められている喜びに満たされていた。竹生に助けられた次の日から、拓人は屋敷から外へ出ないようにした。そのかわり、屋敷の内部に目を向けた。台所の津代の手伝いを始め、伴野(ばんの)の庭仕事も手伝った。津代は困惑して言った。「拓人様、勿体のう御座います」「いいんだよ、俺は居候なんだし」拓人は茶碗を洗いながら言った。「家事はずっと俺がやってたんだ。お袋がずぼらだったから」自分の姿が見えないのを良い事に、干瀬(ひせ)は何も言わず青い目でじっと拓人を見ていた。数日後、拓人は再び朱雀の書斎に呼ばれた。「私は使用人にする為に、お前を引き取ったのではない」朱雀は言った。安楽椅子に腰を下ろした朱雀の眉のあたりに不機嫌な気配が漂っていた。あえてそれを隠さない事が、拓人に心を開いている証しと受け取れた。朱雀の前に拓人は背筋を伸ばして立っていた。「俺には柚木みたいな力はない。家事の手伝い位でしか恩返し出来ないよ」朱雀が表情を和らげた。「お前は柚木が羨ましいのかね?」「ああ、羨ましい。あいつは生まれた時から選ばれた人間で、将来の目標がある。真面目で熱心で、その為に努力してる」「柚木は、お前を馬鹿にしたかね?」「しない。あいつは誰でも真っ直ぐに見るんだ。俺みたいなレベルの低い人間でも」「レベル?」「この屋敷に来て、俺は思い知ったよ。俺には特別な才能も何もない、平凡な人間だ」朱雀は立ち上がった。拓人は叱責を予想して身構えた。だが違った。大きな暖かい手が拓人の両肩に置かれた。「必要以上に自分を卑下するな」深く豊かな声には拓人への愛があった。「いきなり複雑な環境にお前を置いてしまって悪かった。この屋敷に馴染めぬなら、他の住まいを探そう」驚いて拓人は朱雀を見上げた。「そうじゃない、俺はここが好きだ。柚木も真彦も、百合枝さんも紫苑も、それから津代も桐原も伴野も、それから、それから・・」不意に熱い物がこみ上げて、拓人は言葉に詰まった。解ったというように、朱雀は拓人の両肩を軽く叩いた。「あせるな、少しずつでいい。お前は良い子だ」「貴方は、僕をちゃんと見てくれるんだね」「当たり前だ。引き取った以上、責任を放棄するつもりはない」拓人は言った。「貴方を、親父と呼ぶ事にするよ。俺の人生の先輩で、教師である貴方を、そう呼ぶのがふさわしいと思うんだ」朱雀は片方の眉を上げた。「うむ、実に新鮮だな」(後でその事を朱雀から聞かされた百合枝は「じゃあ、私はお袋になるの?」と面白がった)「進学の事だが、目標は決まっているのかね?」拓人は目を伏せた。「まだ」元々、進学は諦めていた。母親の稼ぎで大学に行くのは無理だったし、母親も早く拓人に職について欲しがった。「明日から和樹の仕事を見学させてもらうといい」「和樹さんの?」「お前が興味を感じる分野が見つかるかも知れない。見つかったら、大学で何を専攻すべきか、和樹に相談するといい」「和樹さん、忙しいのに悪いよ」朱雀は微笑した。「あの子はお前の兄なのだよ、悪い事などあるまい」「だったら、そうしたい」「お前はまだ子供だ。もっと甘えて良いのだよ」朱雀は悪戯っぽい目をして付け加えた。「勿論、悪さをした時は、お尻をぶつぞ」(つづく)
2012/07/21
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「社長の息子 第13回」まで更新。今後ともよろしくお願い致します。 menesia
2012/07/17
摩天楼と呼ばれる高層ビルが、朱雀を長とする”外”のお役目に着いた者達の根城となっていた。最上階は朱雀の住居で、百合枝と結婚してからはここと竹生の屋敷との半々の生活となっていた。多忙の朱雀だが、屋敷には仕事を持ち込みたくなかった。”外”での『奴等』との戦いをサポートするのが朱雀達の役目である。その中には、妻や子供達には見せたくない事柄も多くあった。この世界自体が綺麗事ですむものではない。清濁併せ呑む器量がなければ、朱雀の役目は務まらなかった。朱雀は書斎にいた。机上の小さな金の呼び鈴に手を伸ばすと、朱雀は軽く振った。痩躯の初老の男が入って来て一礼した。「お呼びで御座いますか」朱雀の忠実な執事、進士(しんじ)である。灰色の髪を後ろに撫で付け、細いネクタイと黒い背広を身に付けている。元は朱雀の父の部下であり、自然と息子の朱雀にも仕えるようになった。”外”に朱雀が出ると決まった時も、進んで供を申し出た。律儀で温厚な人柄だが、かつては猛者として鳴らした”盾”でもあった。竹生の屋敷の桐原とは昔馴染みで、同じ執事として競い合っている仲でもある。「竹生様がお見えになる。酒の用意を頼む」「はい」再び一礼して進士は出て行った。竹生の到来の件は連絡があったわけではない。朱雀には感じられるのだ、竹生の風がこちらに向かっている事を。”人でない”者同士の絆がそれを伝えて来る。朱雀は客間に移動すると、ベランダに続く窓を開け放した。吹き込んだ突風の中に、微かに青く甘い香りがした。蒼褪めて冷えた深夜の空に目をこらすと、後少しで満ちる月に小さな、だが美しい影が見えた。影はみるみるうちに大きくなり、白く長い髪と黒い外套をなびかせた長身が、音もなくベランダに降り立った。「ようこそ、竹生様」迎えた朱雀に軽くうなずき、竹生は慣れた様子で客間へと進んだ。「昨夜は、ありがとうございました」「礼には及ばぬ。我が屋敷に住まう者を守るは、我が役目だ」竹生はゆったりとソファに寛いだ。その姿は欧州の巨匠の名画を髣髴とさせ、室内は一瞬にして贅を凝らした王宮よりも優雅な場所となった。グラスを運んだ唇がいつもよりも赤い。”狩り”をして来た証拠である。「良い酒だな」琥珀色に鈍く光る酒もまた赤味を帯び、長年の時を溶かし込んで揺れていた。「お前もやるがいい」朱雀もグラスを手にした。口に含み、朱雀もうなずいた。「これは進士の手柄ですな」「ここへ来る楽しみが、また増えたな」「竹生様のお言葉、進士も喜びましょう」竹生の差し出したグラスを、朱雀は琥珀色に満たした。「護衛が、ああも簡単にやられるとはな」「万が一と思い、手だれを行かせたつもりでしたが」「ふざけたなりはしていたが、”異人”としては出来る方であった」一刀で切り捨てたものの、竹生は相手の力量を正確に把握していた。「あの子が狙われているのでしょうか」「風の力だ。我らと同じ匂いを嗅ぎつけて来たのであろう。”異人”の嫌いな匂いを」「では、あの子は」「手に触れてはっきりと解った。あれは我が一族の血を引いている。末の末ではあるがな」竹生はちらりと朱雀に目を流した。「もっと触れれば、更に良く解るが」「お許しを。まだほんの子供でして」竹生は杯を干した。竹生の杯を満たしながら朱雀は思った。(竹生様は喜んでおられる)竹生の表情は変わらないが、朱雀には伝わるものがある。風の家の者は年々減りつつある。戦闘に役立つ程の風の力を持つ者は元より少ないが、風の家の血が続くする限り、強き風の力を持つ者が生まれる希望は絶える事がない。「我らと接した事で、あれの血が目覚め始めるやも知れぬ」「三隅達に、注意するように言っておきます」「それが良かろう」竹生は杯を置くと立ち上がった。夜明けが近い夜の底は薄い光が水のように広がり始めていた。竹生はベランダへと出た。そして立ち止まり、見送る朱雀を振り返った。風になびく髪の間に竹生の白き美貌が見え隠れする。青き魔性の瞳が朱雀よりも遠くを見据えていた。「我らは多くを失った。だが、新たに得るものもある。大切にするが良い、若き命を」朱雀は頭を下げた。再び顔を上げた時には、黒衣の美影はそこにはなく、ただ青く甘い香りのみが、朱雀を取り巻く風に微かに香るのみであった。(つづく)
2012/06/28
元の住いの最寄り駅で下車したのは、家を見たかったからではなかった。真彦との約束を思い出したからである。アイスクリームの店はアパートの先にあった。柚木が学校に行っている間、真彦は拓人にまとわりついていた。母はおらず父とも離れて暮らす、この少年の抱える深い孤独が拓人には理解出来た。当主という特殊な立場で大人に囲まれ、子供らしさを押し殺して来た真彦の孤独が、私生児として馬鹿にされない為に虚勢を張り続けて来た拓人の孤独と、何処か似ていたからである。夕暮れの商店街を抜けながら、拓人は疎外感を覚えていた。見慣れた風景のはずなのに、まだほんの数日しか経っていないはずなのに。あの惨劇の事を明確に思い出すのは避けていた。母を失った衝撃から立ち直ったかどうか、自分に問う事もしなかった。今は今後の事だけを考えようと思ったからである。朱雀の息子として生きる事、その為に覚える事は沢山あった。会社について、社会について、世界について、経済について。毎朝、柚木の元へ桐原が届けるものがあった。新聞や雑誌、ニュースを数枚の紙にまとめたものである。柚木は登校の途中にそれを読むのを日課にしていた。桐原に頼んで拓人もそれを毎朝もらう事にした。内容の半分も理解出来なかった。だが我慢して読む事にした。「あせらなくていい」朱雀は言った。「そのうちに、自分のしたい事、するべき事が解るだろう」朱雀が”人でない”と知った後も、拓人の朱雀への印象は何も変わらなかった。あの社長室で初めて見た瞬間に感じた、朱雀の優れた人柄と容姿への畏敬の念は変わりようがなかった。朱雀は拓人が人生で出会った中で最高の人物であった。朱雀が”人でない”と明かした直後にそれを口にすると、朱雀は苦笑した。「私をかいかぶりすぎだ」「そんな事はないよ」「これからお前は多くの者に出会うだろう。その後でもお前の気持ちが変わらなければ、私はうれしいがね」この季節は暮れるのが早かった。カフェも兼ねたアイスクリームの店で買い物をして出る頃には、あたりはすっかり夕闇に包まれていた。(遅くなったな。お屋敷に電話した方がいいかな)あの空き地の横の道に来た。さすがに嫌な気持ちが湧き上がり、嵩張る箱を抱えた拓人は足を速めた。「おい」男の声がした。それも頭上から。拓人は聞こえなかったふりをして、ますます歩く速度を上げた。「おい」拓人は襟首を捕まれた。振り回されて尻餅をついた。「無視するなよ、ゴミのくせに」ぐしゃっと音がした。踏み潰されたアイスクリームの箱が目に入った。汚いジーンズにスニーカーの足だった。痩せた男はひょいっと側の塀の上に飛び上がった。そしてへらへらと笑った。「お前もあの箱と同じにしてやろうか?」男の口が耳まで裂けた。「私の家族に、手を出すな」白く長い髪の美影が宙にあった。”異人”は吼えた。「家族?こいつもお前ら化け物の仲間か?」その問いへの答えを”異人”は聞く事はなかった。真っ二つとなっていたからである。何事もなかったかの如く、優雅な黒衣の影は拓人の側に降り立った。「怪我はないか」拓人はうなずいた。顔を合わせたのは初めてだったが、夢の中で見た竹生に間違いはなかった。竹生は無残に踏み潰された箱に目を止めた。「あれは?」拓人はまだ全身の震えが止まらなかったが、ようやく口を動かした。「真彦に・・」「真彦様がご所望されたものか」竹生が微笑した。その顔を見た途端、拓人はすべてを忘れた。恐怖も震えもたちどころに消え去り、恍惚と目の前の妙なる美を見上げた。竹生は白くたおやかな片手を差し伸べた。「立て、店へ案内せよ」その手に触れて良いのかどうか、拓人は一瞬ためらった。竹生は目顔で促した。拓人は竹生の手を握った。竹生は拓人を引き起こした。まったく力を入れた気配はなかった。拓人はふわっと身体が軽くなったような気がした。竹生がアイスクリーム屋に足を踏み入れると、店内の空気が一変した。誰もが突如降臨した天使に出会ったような驚きの目で竹生を見た。そして目をそらす事が出来なくなった。白く長い髪と黒い外套の裾をなびかせ、竹生はショーケースに歩み寄った。ケースの中に並ぶ色とりどりのアイスクリームですら、竹生に見られた途端にとろけてしまいそうに見えた。竹生は、ショーケースの向こうからうっとりと自分を見詰めたまま硬直している男に、声をかけた。「アイスクリームが欲しい」大きな声ではないのに、店中の誰もがその声を耳にした。艶やかな夜空の輝きを秘めたベルベットの如き声を。竹生は青き魔性の目で男の顔を覗きこんだ。男は我に返り、慌てて返事をした。「はい、どれを差し上げましょうか?」「そうだな」拓人はまだ竹生の買い物の恐ろしさを知らなかった。それを知ったのは、翌日届けられたアイスクリームが、屋敷中の冷蔵庫を占領したあげく、朱雀の派遣した冷凍車に残りが積まれて会社へと運ばれた後であった。「お前に覚えておいて欲しい事がある」玄関で冷凍車を見送りながら、朱雀は言った。「竹生様に買い物をさせるな。あの方は、買い物には慣れておられぬのだ」「もう、覚えたよ」拓人は答えた。(つづく)
2012/06/23
身は熱く心は醒めて一人寝の夏の枕に篭る追憶白鷺の呼ぶ声なくばましろにぞ見渡すこの世の境ぞ霞む病葉と思うは紅葉散るままに眺むる庭もなき身となれど水仙の白に降り積む雪の白遠からぬ春隠す如くに庭先の薔薇物言いたげにわずかのみ開きて誘う奥の真実薔薇に酔い閉ざした瞼一面に咲き乱れしは皆赤き花雷雨あり大地は揺れてまほろばのなき世をまたも思い知る朝
2012/06/13
拓人は玄関から外に出た。ホールの脇の小部屋に二人の”盾”がいたが、拓人の姿を認めても一礼しただだけで、特に制止する素振りは見せなかった。薔薇の咲く間の石畳を抜けて、拓人は正門にたどり着いた。少し躊躇したが、瀟洒な鉄製の門の横の通用口を抜けて外に出た。新しい学校へ通い始めるのは一週間後だった。それまでの間、拓人を束縛するものは何もなかった。誰かに会いたくて出かけたのではなかった。どうしても別れを告げたい友達もいなかった。卒なくつきあうという事は、深入りしない事でもあった。拓人が外出をしたのは、幾ら広いとはいえ屋敷の中に居続けるのが息苦しくなったからであった。何処に行くか決めかねたまま、拓人は乗客がまばらな電車に揺られていた。向かいの座席には誰もいない。車両の端の方に老人がひとり、他には主婦らしき二人連れが賑やかに話ていた。灰色のアパート、褪せた瓦、汚れた看板、たまに背の高いビル。心躍る風景は何もなく、このまま終点まで行っても大して変わらぬであろう町並みを眺めながら、拓人は朱雀の語った事を思い出していた。「私は、人ではない」朱雀の言葉を耳にした途端、拓人は足元から床に引きずりこまれるような感覚を覚えた。水の中のように身体中が重く、自由が効かなかった。瞼を開ける事も億劫で目を閉ざしていた。痛みも悪寒もなかった。目を閉じているのに、目の前には景色が広がっていた。まるで映画を見ているようだった。緑に染まる山と田畑、点在する家屋も古めかしい。地方の奥深い田舎の村。(これは・・何?何が起きてるんだ)(これは夢の力、我らが故郷に伝わる力)深く豊かな声がした。朱雀の声だった。朱雀は語った、村の伝説を。結界により封印された山、佐原の村のはずれにある禁忌の山。その山の奥に呪われた者が棲むという。その者の力を借りれば、今しばらくの命と力を得るが、人でなくなるという言い伝えがある。人でなくなるとはどういう事なのかは定かではない。呪われた身に何が起きるのかも。何年かに一人、山を登る者がいる。不治の病に冒された者、更なる力を得たい者、しかし戻って来た者はいなかった。(だが遂に山より戻りし者が現れた。それが竹生様、この屋敷の真のあるじ)拓人の目の前の季節が変わり、当たり一面に桃の花が咲いた。桃の花が散った。降りしきる花びらの中に美しい影が現れた。黒衣に身を包む神の美貌を持つ者。白く長い髪をなびかせて立つ姿は幻と解っていても、拓人は目が離す事が出来なくなってしまった。硬質の陶器の如き滑らかな白きかんばせは、無表情の下にあらゆる表情を隠している。青き魔性に輝く瞳には永遠の光が灯され、こちらを見ている。甘く脳の奥から痺れて行くような感覚の中で、拓人は陶然とその姿を見ていた。(竹生様は試練に打ち勝ち、人である事を捨て、強大なる風の力と人を越えた能力をお持ちになられた。竹生様の身の上に時は刻まれなくなり、永遠にそのお姿のままで生きられる事となった)(不老不死という事?)(似たようなものだ。だが生き長らえる為に、生きるモノの血が必要になった)気がつくと幻は消え、再び拓人はコーヒーテーブルの前の椅子に腰掛けていた。向こう側に朱雀も腰掛けていた。「大丈夫かね?」拓人は頷いた。そして恐る恐る尋ねた。「貴方も、血を?」「我らは狩りをする。我らが敵たる”異人”を。獲物の血が我らの糧となる」拓人は混乱したまま、朱雀を見ていた。「みんな、知っているの?その、貴方が”人でない”事」「この屋敷にいる者は皆知っている」「百合枝さんも?」「知っている」「でも貴方と結婚したの?」「そうだ」「貴方以外にも大勢いるの?」「いや、いない。昼の間、我らは激しい痛みの中にいる。身体を引き裂かれているような。並の人間であれば気が狂うほどの」「今も?」「ああ」「それで、顔色が少し悪いのかな」「良い観察眼だ」「大丈夫なの?」朱雀は微笑した。「多くを得る代わりに多くを失い、更に多くを背負うのだ。その重みに耐えられると竹生様がお認めにならない限り、我らと同じにはなれないのだよ」(つづく)
2012/06/13
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2012/06/08
朱雀が提示した条件は三つだった。朱雀の養子となる事屋敷に住む事柚木と同じ学校に転校する事「養子縁組に関しては、”外”で未成年のキミを守る為に最適の方法だからだ」「”外”?」「我らは村以外の場所をそう呼んでいる」「村の外という事かな」「そうだな」(まだまだ覚える事が沢山ありそうだな)拓人は少し不安になった。竹生の屋敷の朱雀の書斎である。彼の部屋にしてはこじんまりとした印象だった。広々としてスタイリッシュな社長室とはまったく違う。だが書斎机も本棚も選び抜かれた本物の骨董品である。その方面の知識のない拓人でも威厳と重みを感じた。ほとんどは百合枝の曽祖父黎二郎の愛用品であった。対外的に神経をすり減らす事の多い朱雀が寛げる数少ない場所のひとつであった。胡桃材のコーヒーテーブルも黎二郎の気に入っていた物だった。テーブルを挟んで、朱雀と拓人は青い矢車菊の模様の布に詰め物をした椅子に腰を下ろしていた。朱雀は白いシャツの襟をゆるめ、金茶色の部屋着を羽織っていた。ズボンも柔らかい休日用のものだった。部屋履きは部屋着と揃いの生地で作られていた。そんな身なりをしていても、朱雀の魅力は少しも損なわれる事はなかった。「私の息子になっても、私を父と呼ぶ事を強制はしない」拓人は柚木が”朱雀おじさん”と呼んでいるのを聞いた。自分は何と呼べば良いのか拓人には迷っていた。朱雀の息子となる事に抵抗はなかった。今後の為に最善の方法である事が解らない程、拓人は愚かではなかった。「社長・・でいいかな?」朱雀は片方の眉をあげた。こんな気障な仕草も似合う朱雀を、拓人は素直に羨ましいと思った。「そのうち、何か良いように落ち着くだろう」屋敷に住む事も異存はなかった。「元の家はどうなるの?」「すでに処置は済ませてある」「処置?」「『奴等』の痕跡は消した。キミ達親子は転居した事になっている。キミの私物はここに配送される」「そんな、勝手に!」朱雀の深く豊かな声に力がこもった。「キミを守る為だ」「俺を?」「『奴等』に心奪われし者は『奴等』の命令で動く下僕となる。我らは”異人”と呼んでいるが。まずは家族の一人に手を付ける。そして次々と、やがて家族全員を支配する」拓人は異形となった母親の姿を思い出した。背筋に冷たいものが走った。「それじゃ、俺も」「もし私の所へ来なければ、キミもいずれ母親と同じになっていただろう」拓人の怯えを感じ取り、朱雀は包み込むような笑顔をみせた。「ここにいる限り安全だ」「貴方が守ってくれるの?」「勿論だ。私が不在の時はその代わりが。私には優秀な部下が大勢いる」「”盾”の事?」「そうだ」「転校するのも、その為?」「柚木と一緒の方がいい。あの子は強い。それにあの学校は我らの息がかかっている。何かあればすぐに対処出来る。だが『奴等』の事は柚木以外とは話してはならない。すべての生徒が長き戦いについて知っているわけではない」拓人は腹を決めた。「解った、俺はそれでいい」朱雀は立ち上がった。拓人も立ち上がった。向かい合ってあらためて拓人は朱雀の広い肩幅に頼もしさを感じた。朱雀は片手を差し出した。拓人も同じようにした。拓人の手を朱雀の手が握った。温かくがっしりとした手だった。朱雀は拓人の目を覗きこんだ。「今この時より、お前は私の息子だ」拓人は引きこまれるように朱雀の目を見た。「ひとつだけ、お前に話しておかねばならぬ事がある」朱雀の瞳には不思議な煌きがあった。「私は、人ではない」朱雀の言った意味を理解する前に、拓人の意識は闇に飲み込まれた。(つづく)
2012/06/03
柚木が言った。「拓人は百合枝さんの事、何も聞かないの?」漬物に箸を伸ばしながら、拓人は答えた。「知らなくちゃならない事は、柚木が教えてくれるだろう?」柚木は笑った。「まあね」「あの人に直接聞く気にもなれなかったし、皆で楽しく話してたかったしな」「百合枝さんはね、不幸な事故で身体が不自由になったのだよ。自分では寝返りひとつ出来ないんだ」拓人は、椅子からはまったく動かずにいても優雅に見えた百合枝の姿を思い浮かべた。そして献身的な千条の姿も。「それでも、朱雀おじさんは百合枝さんと結婚したんだ」柚木の言いたかった事はそれなのだと、拓人は思った。柚木の部屋には廊下に出るのとは別にもうひとつの扉があった。そこからひとりの少年が顔を覗かせた。「何をしてるの?」拓人には中学生位に見えた。柚木が答えた。「遅くなったけど、夕飯」「ふーん」少年は二人の側に来ると床に座り込んだ。そしてじろじろと拓人を見た。利発そうだが何処か尊大な態度でもあった。「お前、誰?」柚木が代わりに答えた。「彼は拓人、朱雀おじさんの息子になるんだ」「ああ、母親が”異人”になって殺された奴か」拓人はむっとした。柚木がたしなめようとするより早く、少年は先を続けた。「僕と同じじゃないか」拓人は驚いた。「お前も?」今度は少年がむっとした顔になった。「お前って言うな。僕は偉いんだぞ」「生意気な中学生だな」柚木が割って入った。「真彦は僕と同い年なんだ。僕ら、同じ日に生まれたんだ」「じゃあ、俺よりひとつ下か」拓人は真彦に謝った。「悪かったな。もっと下かと思った。お前、女の子にモテるだろ。可愛いものな」「女の子なんて知らないや」真彦はふくれっ面をした。褒められた事が照れ臭いのだと柚木には解った。柚木は拓人の為に補足した。「真彦は身体が弱いから、学校へ行ってないんだ。家庭教師について勉強してるんだ」「そうか。同じ母親がいない者同士、仲良くやろうな」「仕方ないな。お前は村の人間じゃないから、無礼は許してやるよ」拓人も真彦の緊張と照れを感じ取っていた。学校へ行かず、あまり他人に慣れていないのだろうと、拓人は好意的に解釈した。拓人は微笑して言った。「ああ、よろしく頼むよ」桐原が食後の茶を運んで来た。「僕も欲しい。それとアイスクリーム、二人の分も」「はい、真彦様」「お前、アイスクリームが好きなんだ」「好きで悪いか」真彦は拓人にツンとしてみせた。「うちの近所にアイスクリームの美味い店があるんだ。おばさんが一人でやってる小さな店だけどさ」真彦はふくれっ面を忽ちに忘れ、笑顔になった。「僕、チョコレートのが好き」「チョコも美味いけどさ、色んなキャンデーを砕いたのを入れたのが美味くてさ」「食べてみたい」柚木も加わった。「僕も食べてみたいな」桐原は卓上を片付けながら、子供達の様子をそれとなく観察していた。柚木以外に歳の近い友人を持つ事のなかった真彦が、早々に拓人に馴染んでいる。柚木もひとつ年上の拓人へ甘えをみせていた。(朱雀様は、これも見通しておられたのか)桐原は卓上を片付け終わると、一礼して出て行った。(つづく)
2012/05/29
黒く艶やかな闇の中で、白く長い髪が揺れた。「『奴等』も、妙なゆさぶりをかけて来たものだな」「大きな力が使えぬ為、小細工を弄しているのでしょう」竹生の居間である。灯は窓より射し込む月光以外にはない。それも届くのは部屋の半ばまでで、残る部分は漆黒の中にある。だが”人でない”朱雀の目には何の支障もない。漆黒の中に優雅に寛ぐ屋敷の主の姿を、その白く長い髪の一筋まではっきりと見る事が出来た。竹生は愛用の安楽椅子で頬杖をつき、もう片方の手には琥珀色の美酒に満たされたグラスがあった。「あれを屋敷に?」「竹生様のお許しをいただけますなら」「ふむ」竹生はしばし遠くを見るような目をした。天空の月さえも招き寄せそうな妙なる響を含んだ声が言った。「あれには『奴等』の気配は感じぬ」竹生は朱雀にちらりと目を流した。「”味わって”みなければ、しかとは解らぬがな」青き魔性の目と目を合わせた途端、朱雀ですら、背筋を貫いた甘い戦慄に耐える為に、深く息をつかねばならなかった。朱雀は努めて穏やかな声で答えた。「屋敷の内部から何か仕掛けるつもりなら、『奴等』の思う壺でしょう」「お前は、あの子供の身を案じておるのであろう?」「我らと関わった以上、危険がないとは言い切れません」「家族が増えるのは良い事だ。ここに住むからには、我らの流儀をしかと学ばせるが良い」「ありがとうございます」朱雀は頭を下げた。部屋を下がろうとした朱雀に、竹生が声をかけた。「あれは、来るべくしてここに来た」朱雀は怪訝な顔をした。「あれからは我らと同じ風の匂いがする。微かではあるが」「では」「それも『奴等』に目を付けられた理由であろうな」「早急に調べを」竹生は頷くと、杯を干した。シャワーブースが別になった広いバスルームは明るく、良い匂いのバスザルツを入れた湯の心地良さが拓人の疲れを癒した。(明日が休日で良かったな)少なくとも一日は今後の事を思案する時間がある。不思議なほど母の死に感慨が沸かなかった。朱雀を尋ねた事から始まった異常な出来事に、まだ自分が対処しきれていないせいだと拓人は思った。すべてが夢の中のようであった。拓人の知らない優美さに満ちたこの屋敷も異世界と言って良い。それも拓人の衝撃への良い緩衝材となっていた。柚木に借りたスウェットを着て部屋へ戻ると、柚木が待っていた。「僕の部屋で飯を食おう」柚木の部屋は同じ階にあった。ほとんど家具のない部屋で、柚木が広げたちゃぶ台の上に、桐原が運んで来た夕餉の膳が並べられた。美味そうな匂いに拓人は猛烈に空腹を覚えた。二人で卓を囲んだ。拓人は食事に夢中になった。柚木も黙って食っていた。熱い味噌汁は久しぶりだった。珍しい菜はないが、どれもが丁寧に料理されているのが感じられた。しばらくすると柚木が聞いた。「どう、口に合う?」「どれも美味いよ」柚木は微笑した。「良かった。津代も喜ぶよ」(つづく)
2012/05/26
小説用まとめサイト更新のお知らせです。「社長の息子 第7回」まで更新。久しぶりにTOPの写真も変更致しました。モスクワのプーシキン美術館の内部です。いつもお読みいただいてありがとうございます。鍬見の物語の続きも書きたいのですが、余裕がなくて後回しになっております。拓人が落ち着いたら、彼の恋がどうなったのか、書きたいと思います。今後ともよろしくお願い致します。menesia
2012/05/15
「お帰りなさいませ」玄関で出迎えたのは、品の良い老紳士だった。朱雀は拓人をそっと下ろした。「大丈夫かね?」拓人は頷いた。朱雀は拓人の肩に手を置いた。「この子が拓人だ、桐原」朱雀は拓人の方に身をかがめると言った。「桐原はこの屋敷の執事なのだよ。解らない事は彼に聞くといい」桐原は拓人に頭を下げた。「お部屋までご案内致します」拓人の荷物はすでに部屋に運び込まれていた。学校の制服と鞄はクローゼットの中に収納されており、拓人の為に柔らかいネルのパジャマと新品の下着と部屋履きまで用意されていた。「急拵えの部屋で申し訳ございませんが、本日はこちらでお休みを」桐原はそう言って下がった。拓人は一人になると疲れを覚え、安楽椅子に腰を下ろした。柔らかい椅子に身をまかせ、拓人は室内を眺めた。拓人の住んでいた2DKの部屋をすべて合わせたよりも広かった。桐原は急拵えと言ったが、室内は拓人の見た事のない豪奢を漂わせていた。薄い金色の覆いのかかった寝台、黒檀のテーブル、硝子の花弁を組み合わせたようなスタンド、書斎机の上にはペン立てとインク壷。艶やかな深緑色の分厚いカーテンが引かれ、窓は見えない。壁に張られた織物の細かい模様を縁取る金糸や銀糸が、古めかしいシャンデリアの光を鈍く照り返していた。どれもが時代がかって、この洋館にふさわしく思えた。拓人は背広のままだった。疲れたような興奮したような、落ち着かない心持ちでいた。「拓人、入っていい?」柚木の声がした。「いいよ」柚木が入って来た。柚木の顔を見た途端、拓人はほっとした。柚木は白いシャツと砂色の木綿のズボンに着替えていた。柚木はグレイのスウェットの上下と身に付けているのと同じようなシャツとズボンを抱えていた。「これ、僕のだけど使って」「ありがとう、助かるよ」柚木はクローゼットにそれらを仕舞いながら言った。「百合枝さんが一緒にお茶をどうかって」「百合枝さん?」「朱雀おじさんの奥さん。この屋敷は百合枝さんの生まれ育った場所なんだ」拓人は両手を広げた。「この格好でいいの?」「いいと思うよ」並んで廊下を歩きながら、柚木は拓人を気遣うように尋ねた。「気分はどう?腹減ってる?」「柚木の顔を見たら、ちょっと安心した。腹は・・そうだね、さっきサンドイッチ食ったけど、まともな飯が食いたいな」「僕も安心したよ、拓人が元気で。百合枝さんに挨拶したら飯を食いに行こう。津代が用意してくれてる。津代の飯は美味いよ」拓人が尋ねる前に、柚木は教えてくれた。「津代は台所の仕事をしてる。昔は百合枝さんの乳母だったそうだよ」廊下のつき当たりが百合枝の部屋だった。その部屋は、門の前で屋敷を見上げた時、特徴のある緑の窓が印象に残った部屋だと拓人は気づいた。柚木は礼儀正しく扉を叩いた。扉を開けたのは、黒く長い髪を後ろに束ねた浅黒い精悍な男だった。男の態度には柚木と拓人への敬意が感じられた。「百合枝さん、拓人を連れて来たよ」柚木が言った。柔らかな色に満ちた部屋だった。女性らしい香りがした。部屋の奥の椅子に一人の婦人がいた。ゆるやかに巻かれた栗色の髪が肩に落ちていた。その肩には幾重にも淡い色のショールが巻き付けられ、ショールの下から覗く薔薇色のスカートは床に届いていた。「貴方が拓人ね。逢えてうれしいわ」優しい笑顔が拓人に向けられた。拓人は恥ずかしくなり、口の中で「どうも」と言って軽く頭を下げた。拓人の母と同年代だろうが、笑顔も声も若々しく可愛い。あまりにも可憐で何処か守ってやりたくなるような女性だった。朱雀もきっと彼女を大切にしているに違いないと拓人は思った。今は百合枝の側に控えている先程の浅黒い男も、百合枝をとても大切に思っているのが見て取れた。「二人とも、おかけになって」拓人は柚木と並んでソファに腰掛けた。ソファの前の卓上にはお茶の用意がされていた。女主人に似合いの優雅な水色と金に縁取られた茶器と銀のポットに砂糖壷、菓子の盛られた皿が並んでいた。「千条、お茶をお願い」「はい」千条は注意深く二人の茶碗に、銀のポットから茶を注いだ。(彼も”盾”なのだろうか)拓人は思ったが、尋ねる事はしなかった。今はその方面には関わりたくなかった。拓人は和やかな時間を過ごした。香り高い紅茶と焼菓子が美味かった。柚木と百合枝との会話を聞いていると、柚木は百合枝を母というよりも姉のように思っているらしかった。柚木は仏蘭西語を百合枝に習っていると言った。「拓人も一緒に習えばいいよ。おじさんの息子になったら、ここに住むのだろうしね」拓人は戸惑った。「まだどうなるか解らないよ。社長が本気で言ったのどうか、俺には解らない」百合枝が言った。「朱雀が言ったのなら、本気よ」「そうなの?」「あの人はそういう人だから」「貴方は嫌じゃないですか?俺みたいなのが家族になって」柚木が口を挟んだ。「拓人は良い奴だよ、百合枝さん」百合枝は柚木に微笑した。「そうね、そう思うわ」そして拓人にも笑顔を向けた。「素敵な息子が増えてうれしいわ」(つづく)
2012/05/10
車の中で朱雀に聞かされた話を、拓人はその場ですべて理解したわけではなかった。太古から続く『奴等』との戦い、母親は悪鬼と呼ばれる化物になってしまった事、朱雀達はあの化物と戦う者達である事。解っているのは、自分が天涯孤独になってしまったという事だけであった。不安な気持ちがそのまま口に出た。「俺は、どうすればいい?」朱雀の深く豊かな声が、拓人の耳元で聞こえた。「私の息子になればいい」拓人は驚いて隣の朱雀を見た。その端正な顔には、先程の戦闘の跡はみじんもなかった。初めて見た時と同じ穏やかな笑みがそこにあった。「その為に来たのだろう?」すがりたくなる思いをこらえ、拓人は言った。「でも貴方は俺の親父じゃない」あの時、かつて母親だった化物は言ったのだ。拓人の知っている声とは似ても似つかぬひび割れた声で。「あいつがお前の父親であるものか。この女が出まかせに言ったたわごとよ。都合良くこの男は我らが敵。連れて来てくれて助かったよ、お前は親思いの良い子だね」わざと母の顔に戻り、化物は高笑いした。朱雀は鷹揚に頷いた。「そうだな、今までは。これからなればいい、私の息子に」拓人は目を丸くした。「本気?」朱雀は微笑した。「和樹も柚木も、実の父は私ではない。だが今は私の息子だ」朱雀は拓人の頭越しに柚木を見て言った。「そうだろう、柚木」「はい」柚木は答えた。朱雀は拓人に視線を戻した。「血の繋がりはなくとも、情が通えば親子になれる。キミにはまだ保護者が必要だ」青く甘い香りがした。「俺で、いいの?」「私が望んでいるのだ」柚木は二人を見ていた。(情が通えば親子になれる)柚木は心の中で繰り返した。それはかつて柚木と義理の父・忍野を斤量が評した言葉だった。車は瀟洒な鉄の門の前に停まった。とっぷりと暮れた中であっても、大きな屋敷であるのが拓人にもおぼろげに感じられた。車を降りた途端、拓人の足がもつれた。柚木が素早く手を貸した。夢の中にいるかのように、拓人は足元が覚束なかった。朱雀が拓人を抱き上げた。「さっそく父親らしい事をする機会をくれてありがとう」朱雀は拓人を軽々と玄関まで運んで行った。(つづく)
2012/04/25
母親は朱雀を見ながらにやりと笑った。拓人の見た事のない邪悪な笑いだった。「連れて来てくれたんだね、私らの敵を」「母さん、何を・・」言いかけた言葉が喉に詰まった。不意に母親の顔が見えない大きな手で掴まれてくしゃっとつぶれたように見えたのだ。母親の顔は豹変していた。目はつり上がり、口は耳まで裂けた。赤く腫れた唇からは大きな牙がにゅっと生え出ていた。喉の奥で獣の如き唸り声を上げ、前かがみになった身体の前で、引きつった手の指は曲がり、尖った爪が獲物を狙う猛禽類の足のようになっていた。「柚木!」朱雀が鋭く言い放った。「はい!」柚木は拓人に駆け寄ると拓人の腰に手を回した。ふわりと二人の身体が宙に舞い、朱雀の後方の離れた場所に着地した。拓人は驚いて声も出なかった。「風の力だよ」柚木は拓人から腕を解くと、片手を宙に伸ばして呼びかけた。「おいで、時姫」柚木の手に一振りの刀が現れた。拓人は目を丸くした。刀を軽くふるうと、柚木は拓人を見た。「ここから動かないで」拓人は震えながら頷いた。(何が・・一体・・・)朱雀は悪鬼と化した母親から目を離さず、じりじりと動いた。そして悪鬼と子供達の間に割って入る位置を取った。母親はすっかり人間の姿を失っていた。老いた猿のような醜い姿となっていた。赤い目がギロギロと動き、裂けた口からは涎がひっきりなしに垂れていた。最早言葉も失い、喉からは唸り声しか出て来なかった。「哀れだな、心奪われし者よ」朱雀の声は深く、そこには嫌悪よりも慈悲の響きがあった。唸りながらも、悪鬼は朱雀にすぐには飛びかかろうとしなかった。理性を失い本能のみになった獣は、その本能ゆえに朱雀の真の恐ろしさを感じ取っていたのである。先に動いたのは朱雀だった。朱雀は片手を大きく振った。無数の赤い針が悪鬼に突き刺さった。『奴等』を滅ぼす朱雀の血を封じ込めた針である。刺さった箇所から、白い煙がしゅうしゅう上がるのが、柚木達にも見えた。恐ろしい叫び声を上げると、悪鬼は朱雀に襲いかかった。朱雀は空き地へと走った。悪鬼も追って来た。飛び掛った悪鬼の首に鮮やかな朱雀の手刀が決まった。そのまま宙に飛んだ朱雀は、よろめいた悪鬼の腹に蹴りを見舞った。悪鬼は吹っ飛び、地面に転がった。しゅうしゅうと立ち上る煙に黒いものが混じり始めた。「社長!」赤荻は叫ぶと一振りの刀を投げた。朱雀は片手で受け取ると、すぐさま構えた。悪鬼は唸りながら立ち上がった。ぐぉおおお!!と叫びながら悪鬼が走り出そうとした瞬間、悪鬼の身体は上下二つに分れた。拓人の目には朱雀が動いたようには見えなかった。悪鬼は激しくしゅうしゅうと煙を吹きながら、その身体は黒く変色し、縮んでいった。不思議な事に何の匂いもしなかった。赤荻が駆け寄って、朱雀の前に膝をついた。「遅いぞ」「お子様方の前で、社長の見せ場を作らねばと思いまして」赤荻を見下ろしながら、朱雀は片方の眉を上げた。「気がきく秘書で助かるよ」「恐れ入ります」朱雀は赤荻に刀を返した。そして振り返ると、子供達の後ろの方へ声をかけた。「高岡、和倉、後を頼む」「はい、社長」もう一台の車で密かに付き添って来た者達であった。朱雀はゆっくりと子供達のそばへと歩いて行った。二人の前で立ち止まると、並んで立つ二人の少年の顔を、朱雀は均等に見た。一人は冷静なままの顔だった。もう一人は怯えと安堵が入り混じった顔をしていた。朱雀は微笑した。「さあ、帰ろう」それは拓人が初めて耳にした時と同じ、深く豊かな声だった。頼もしくも慕わしい大人の男の声だった。(つづく)
2012/03/11
赤荻が気をきかせて、幾つかの料理を運ばせた。小さなサンドイッチ、コールドミートや果物、チーズで誂えた小品等だった。育ち盛りの二人は喜んで平らげた。拓人にはどれも珍しく美味な物ばかりであった。拓人は柚木と再びとりとめのない話をしていた。拓人は柚木が好きになりかけていた。何も自慢しない。しなくても柚木が上質の人間である事が伝わって来た。何処かに朱雀と共通する雰囲気を感じさせた。(伯父と甥だから?それが血ってやつか?)自分の問題から、拓人はあえて目をそむけようとしていた。初めて尽くしの体験の中で、自分の住んでいた世界の狭さを、拓人は思い知らされていた。「あのビル」幼い拓人の手を引いた母親が、高層ビルのひとつを指差した。「あの会社の社長が、お前のお父さんだよ」母親と二人の生活は裕福とは言えなかった。収入の大半は、水商売の母親のドレスや化粧品に消えた。冷えた弁当が拓人の主食だった。それでも母親は拓人を大事にしてくれた。粗末な食事でも、腹一杯食べさせてくれた。いつも清潔でこざっぱりした身なりにさせてくれた。拓人も母親の愛情に報いる為、努力を惜しまなかった。優等生である事が最大の武器であると悟ってから、拓人はますます努力した。敵を作らないように争いを避ける事も覚えた。だがそんな自分に苛立ちも感じてもいた。何かを変えたいと願う気持ちも、日増しに強くなっていた。そして決行した朱雀への訪問であった。「待たせてすまなかったね」戻って来た朱雀は、二人に詫びると、椅子のひとつに腰を下ろした。柚木が聞いた。「もういいの?朱雀おじさん」「仕事は終わりだ」朱雀は拓人に笑顔を向けた。「後は、拓人の為の時間にした」拓人は咄嗟に返事が出来なかった。朱雀がどういうつもりなのか見当が付かなかった。「さて」朱雀は運ばれて来たグラスを手にした。グラスには琥珀色の酒が揺れていた。「新しい出会いに乾杯しよう」朱雀はグラスを掲げ、二人を促した。柚木は同じ様にグラスを掲げた。拓人もそれに習った。グラスの触れ合う澄んだ音が響いた。夕暮れの街を、黒塗りの車は静かに走っていた。先程と同じに朱雀と柚木の間で拓人は緊張していた。車は拓人の家へと向かっていた。車に乗り込むと住所を尋ねられた。拓人が答えると、朱雀は軽く頷いた。車はすぐに走り出した。運転手の顔は見えなかった。助手席には赤荻がいた。同じような黒塗りの車が後に続いていた。柚木はそれに気がついていたが、拓人は気がつかなかった。これから何が起きるのか、その方に気を取られていたからである。朱雀は母親と顔を合わせて、自分の処遇をどうするつもりなのだろう。母の事も含めて。まだ朱雀は拓人の事を息子と認めたとも認めていないとも言っていなかった。古ぼけた2階建ての木造のアパート。1階の一番隅が拓人と母親の暮らす部屋だった。大通りから少し入った路地には人影はなく、隣には先頃家屋が撤去された空き地があり、まばらに雑草が生えていた。アパートの各々のドアの上に点った電球も曇りがちで、ちりちりと揺らめいていた。拓人が呼び鈴を押した。「母さん、ただいま」拓人の後ろに少し離れて、朱雀と柚木は佇んでいた。鍵の回る音がした。灰色のペンキが所々剥げたドアが開き、女が顔を出した。茶色に白髪が混じった髪を無造作にかき上げ、ピンで止めてある。薄い胸を薄い水色のガウンが覆っている。白い顔は青みを帯びて不健康そうに見えた。「母さん、俺の親父を連れて来たよ」女は黙って拓人を見ていた。拓人は母親から目を離さず、片手で後ろを指差した。「母さん、俺の親父なんだろ?この人が」女は目を細めて朱雀を見据えた。白い顔には感情と呼べるものはほとんどなかった。拓人は母の態度にあせりを感じ始めた。「ほら、あの会社の社長だよ。母さんが言ってたじゃないか。お前のお父さんは、あそこの社長だって」「ああ・・」興味がなさそうに女はつぶやいた。母の何時にない異様な様子が拓人を不安にした。「母さん?」(つづく)
2012/03/07
車は豪華なビルの地下へと滑り込んだ。明るいエントランスの前で停車した。金に縁取られた硝子のドアが開き、薄茶に太い臙脂の線の入った制服を着たボーイが出て来て、恭しく車のドアを開けた。三人が降りると、朱雀はボーイに笑いかけ、何かを言った。ボーイとは旧知の間柄である事が拓人にも感じられた。朱雀は素早くボーイに紙幣を握らせた。そして彼の開けてくれた硝子戸の奥へと進んでいった。柚木も拓人もそれに続いた。フロアには暖色の光が溢れ、絨毯はふかふかで、何処もかしこも拓人の知らない贅沢さに満ちていた。淡い色の背広の朱雀はその場に似つかわしい存在だった。高価な服を着ているからではない、自然なのだ。たとえ密林を裸で歩いていたとしても、朱雀は何処までも朱雀で、その場に馴染んでしまうのでないかと、拓人は思った。柚木と拓人は学校の制服のままだった。柚木の方が少し背が高かった。拓人は柚木の柔らかく波打つ髪に羨望を感じた。拓人の髪は真っ黒で真っ直ぐで、襟足で切り詰められていた。七三に分けられた前髪はやや長く、頬のあたりまであった。フロアの先にショッピングアーケードがあった。どれも大きな店構えではないが、厳選された品物を取り扱っている。朱雀は紳士服の店へ入っていった。ジレを着けた品の良い老人が朱雀をにこやかに迎えた。「急ですまないが、この子達にスーツを見繕ってくれないかね?」老人は二人を見て頷いた。「よう御座います。丁度良い品が届いた所でして」さっさと老人は二人の採寸を始め、奥にいた青年に何着かの見本を持って来させた。朱雀は店の隅の肘掛け椅子に寛ぎ、柚木と拓人を並べて立たせ、見本を当てさせたり、老人の説明を聞いたりしながら、楽しそうな顔をしていた。候補が決まると二人は試着室へ押し込まれた。拓人は背広など着た事はなかった。老人はシャツやネクタイも揃え、さりげなく拓人の着替えを手伝った。ネクタイも結んでくれた。やがて鏡の中には小粋な姿が映っていた。(悪くないよな)拓人は鏡を見ながら思った。店内に戻ると、朱雀が笑顔で言った。「いいね、二人とも一人前の若い紳士だ」店を出て、エレベータで最上階へ上がった。廊下の突き当たりに厚いオーク材の扉があった。先頭の朱雀がたどり着く前に扉は開かれた。三人は奥へと進んだ。黒服の男が朱雀に当惑した顔を向けた。「失礼ですが、ここは」朱雀は軽く片目を瞑ってみせた。「今日は社会見学だ。大目に見てくれないか」「かしこまりました。どうぞこちらへ」薄暗い室内は観葉植物や衝立でそれとなく仕切られ、その間に間にソファやカウンターや酒瓶の並んだ棚がちらりと見えたが、どういう構造になっているのか、拓人には良く解らなかった。拓人は小声で柚木に尋ねた。「ここ、良く来るの?」「僕も初めてだよ」柚木も小声で答えた。通されたのは個室だった。部屋の一面が床から天井まで窓になっていて、夕暮れの街が見渡せた。漆黒の楕円形の卓を囲んでソファや肘掛椅子が具合良く配置されていた。窓際に眼鏡をかけた男が立っていた。男は朱雀を見て頭を下げた。朱雀は男に尋ねた。「和樹は?」「少し遅れて見えるそうです」「では、キミにこの子達の相手を頼む」「承知致しました」朱雀は二人の方へ向き直った。「私は別室で用事がある。それを済ませたら戻って来る」「はい、朱雀おじさん」柚木が即座に答えた。朱雀は柚木に頷いてみせた。拓人は黙っていたが、朱雀は拓人にも同様に頷いてみせた。柚木と平等に扱われている事が拓人を満足させた。男は赤荻(あかおぎ)と名乗った。朱雀の秘書だと言った。赤荻は二人を窓の景色が良く見えるソファへ案内し、自分も椅子のひとつに腰を下ろした。「窓からの景色が綺麗だね」グラスを手にしながら柚木が言った。虹色の輝きをみせるカットグラスは重みがあり、拓人の手に心地良く馴染んだ。中の琥珀色の液体はジンジャーエールではあったが、それも今まで飲んだどのジンジャーエールとも異なる、生姜の新鮮な香りと細かい泡の刺激が爽やかな飲み物であった。「この店でも眺めが良い部屋のひとつです」穏やかな口調で赤荻が言った。(つづく)
2012/01/25
黒塗りの乗用車の後部座席で、右側に朱雀、左側に柚木(ゆずき)の存在を感じながら、拓人は緊張しきっていた。父親に逢いたい一心で来た。その後の事は何も考えていなかった。隣に乗り込んで来た同年代の少年の事も、何処へ連れて行かれるのかも、思う余裕はなかった。朱雀からは青く甘い香りがした。(これが、父さんの匂い・・?)朱雀は黙っていた。窓の外を見ながら物思う風であった。拓人は話かける事が出来なかった。柚木は拓人を気遣う様に話かけて来た。「君は、僕よりひとつ年上なのだね」柚木の顔を見て、拓人はどぎまぎした。(こいつ、女みたいな顔してやがる。うちの高校の女子より綺麗だ)柚木から目をそらすと、拓人はわざとぶっきら棒に言った。「そうだよ」「進路は決めないといけないし、大変だね」(真面目な奴だな。頭が良さそうだし運動も出来そうだ。育ちも良さそうだし、モテるだろうな)拓人は柚木に悪い印象を持つ事が出来なかった。何処か人を引き付ける所がある。朱雀と同じに。「あの、柚木君」柚木は微笑した。「柚木でいいよ、僕も拓人と呼んでいいかな」「いいよ」「ありがとう」柚木の笑顔があまりに綺麗で、拓人は恥ずかしさと居心地の悪さを感じた。(世界が違いすぎる。俺だけが異質だ。でも俺は・・)「さっき息子が三人いる、一人は前の妻の息子、一人は甥、そしてもう一人と聞いたけど、柚木はどれ?」柚木は再び微笑した。その笑顔は朱雀に良く似ていた。「僕は甥。僕の父親は朱雀おじさんの弟、僕の生まれる前に死んだ。だから僕は本当の父親の顔は知らないんだ」(何の不幸もなそうな顔して、こいつも父親がいないのか)拓人は柚木と少しまともに向き合う気持ちになった。「だけど、息子って?」「朱雀おじさんが僕を引き取ってくれたから」「そうか」「前の妻の息子というのは和樹さん。今、あの会社の専務だよ。僕の本当のお兄さんみたいな人。もう一人は紫苑(しおん)の事。朱雀おじさんと百合枝さんの子。百合枝さんはおじさんの奥さん。紫苑はまだ赤ん坊なんだ、可愛いよ。拓人は兄弟はいるの?」「いない。母さんと俺とずっと二人だ」拓人は柚木との会話に楽しさを感じていた。柚木が真っ直ぐに自分を見てくれるから。ホステスの子供というだけで、学校では苛められた。(俺の父親は立派な人間なんだ。お前等の父親なんかより)その思いが拓人を支えていた。勉強も運動も頑張った。いつか父親と顔を合わせる時が来たら胸を張って逢う為に。今がその時のはずだった。拓人は隣にいる朱雀の反応が不安だった。自分を認めてくれているのかどうか。柚木と互いの学校の事など話しながら、拓人は絶えず朱雀の反応が気になっていた。朱雀は何も言わない。だが拓人を疎ましく思っているわけではなさそうだった。むしろ暖かい目で拓人と柚木の会話を見守っている、そんな気配がした。(つづく)
2012/01/23
学校から真っ直ぐにここへ来た。ガラス張りの美しいビル。外からホールを眺めると、洒落たスーツに身を包んだ人々が、忙しげに行き交っていた。拓人(たくと)の知らない世界がそこにあった。拓人はひるむ気持ちを奮い立たせ、ガラスの扉を押した。受付嬢に行き先を尋ねられた。「社長の息子です」と答えた。受付嬢は頷き、受話器を取った。短い会話の後、拓人は受付嬢に奥まった隅にあるエレベータへ案内された。エレベータで最上階まで上がり、臙脂色の絨毯を敷き詰めた廊下の先に、その部屋はあった。重厚な木製の扉、金色のプレートには”社長室”と刻まれていた。(絶対に、逢うんだ)高校の制服に鞄を持った拓人は胸を張った。すんなりと通された事を奇異に思う余裕は、緊張しきった拓人にはなかった。ノックもせず、拓人は中に入った。そうでもしなければ、扉の前で永久に立っていそうな気がした。柔らかな光に満ちた空間、奥には大きな机があり、一人の男がいた。只者ではない事が一目で解った。男は視線を落とし、机の上の書類らしきものを見ていた。拓人はつかつかと机の前へと歩いていった。男が顔を上げた。端正な顔立ち、赤味がかった豊かな髪が知性漂う額にたれる様子も美しい。上等なスーツの広い肩に、威厳と人を包み込む優しさと頼もしさが同居している。男は朱雀であった。朱雀は深く豊かな声で尋ねた。「キミは誰だね?」「俺は・・社長、貴方の息子だ」朱雀は椅子に深くかけ直し、指を折って数えた。「私には息子が三人いる。一人は前の妻の息子、一人は甥、そしてもう一人」朱雀は目の前の少年に微笑みかけた。「キミは、そのどれとも違うようだ」一瞬、少年は怯んだ。だが朱雀を睨み返すと叫んだ。「貴方は、俺と母さんを捨てたんだ」朱雀は微笑を湛えたままだった。「キミとキミの母親の名前を、教えてくれないかね?」「俺は三島拓人、母さんは三島清美」朱雀はじっと少年を見た。少年の周囲を面白そうに歩き回る青い姿があった。干瀬である。この異界の住人の姿は少年には見えない。干瀬はぴょんと飛び上がり、朱雀の机に着地した。しゃがみこんだまま、干瀬はじろじろと少年を見た。「こいつ、食べてもいいか?」少年には干瀬の声も聴こえない。朱雀は首を左右に振った。「もう少し、話を聞こうか」干瀬への朱雀の言葉を、少年は自分への返事と受け取った。「思い出したか?」「キミの母親は、キミに私と何処で出会ったと言ったのかね?」「母さんは高級クラブのホステスだ。社長が一杯来る」「ふむ」「貴方は客の一人だと言った」「何故、私が父親だと?」「母さんには解ったって、俺の父親は貴方だと」干瀬は机の上で目をぐるぐると回転させた。「”ほすてす”とは、何だ?」朱雀は干瀬の質問を無視した。こういう扱いに干瀬は慣れていた。干瀬の事が見えない他人がいる時はいつもそうであったから。干瀬は気にする風もなく、再び少年の側に行き、顔を覗き込んだり、鼻をひくつかせたりし始めた。朱雀は机上のコンソールに手を伸ばした。「高橋君、車の手配を頼む。すぐに出かける」女性の声が応じた。「はい、直ちに手配致します」少年は身構えた。「逃げるのか?」「いや、ゆっくり話せる場所へ行こう」朱雀は干瀬に言った。「留守番を頼む」拓人はそれもコンソールへの言葉だと思った。「承知」朱雀は立ち上がった。二人が出て行くと、干瀬はさっそく朱雀の広い机の上に伸び々々と寝そべった。(続く)
2012/01/21
いつもお越しいただいている皆様、ありがとうございます。小説まとめサイトを更新致しましたのでお知らせ致します。今後ともよろしくお願い致します。貴方の仮面を身に着けて☆めねしあ
2011/11/27
「殲滅に五分とかからぬとは」「一騎当千とはこの事だな」「さすが三峰様の御子」「風の家もこれで安泰」現地の”盾”達の驚愕と賞賛を背に、鵲達三人はホテルへの道を歩いていた。鳥船が言った。「鵲様、さっそく評判になってますよ」鵲は傍らを行く鳥船をちらりと見た。その流し目の色香に、鳥船ですら胸がときめかずにはいられなかった。この美貌、剣術の冴え、風の家の嫡子、羨望の的となって当然である身でありながら、鵲は謙虚であった。「私が思い切り戦えるのは、お前達が共にいるからだ。この賞賛の半分はお前達の物だ」鳥船は一歩下がって歩く高望を振り返り、にやりとした。「だそうだ」「身に余る光栄」愛想でもねぎらいでもなく、鵲が本当に思う事しか口に出さぬのを二人は知っていた。それゆえに一層うれしく思う二人であった。「おかえりなさいませ」「寝ていても良かったのだぞ」「そうは参りません」出迎えた桜子に、鵲は言った。「お前の寝顔を見てみたかったのに」桜子は頬を染めた。「これからは、いつでも見られるぞ、鵲」桜子には聞こえぬ声が言った。「さて、ワシは何か美味い物でも探しに行くか」(異界の者でも、気を使ってくれるのだな)鵲は思い、微笑した。竹生の居間で、美しき”人でない”兄弟が琥珀色の酒を酌み交わしていた。室内には珍しく灯りがあった。手にした極上のカットグラスが、光を照り返し虹色に輝く様を楽しむ為である。「鵲の奴、さっそく花嫁を放り出してお役目に参加したそうですよ」三峰は父親らしく、一応ため息などついて見せた。ゆったりと安楽椅子で寛いだ竹生は、空のグラスを宙に差し出した。見えない手が二人の間の卓上にあった瓶を掴み、琥珀色の美酒が竹生の杯を満たした。天井から野太い声が響いた。「”盾”達は、鵲様の勇姿に感嘆するばかりであったと、干瀬が伝えて来ました」竹生は微笑した。「やはり付いていったのか。好奇心の強い奴だな」野太い声が応じた。「あれは、鵲様と桜子様の御子の守護もする心積もりであるからに」三峰も杯を差し出した。杯はたちまち美酒で満たされた。「我が孫か、気の早い話だな」「我らにとっては、一瞬にも満たぬ時なれば」竹生は杯を干した。そして弟を見た。「我らもまた、見守ろうぞ。我らが血の行く末を」今度は三峰の手が瓶を掴んだ。「まずは、我が息子の行く末の幸いを祈り、もう一杯」三峰は天を仰いで言葉を続けた。「斤量(きんりょう)、今宵はお前も共に飲もうぞ」「承知」空だった肘掛椅子のひとつに、灰色の髪の童子の姿が現れた。「たまには、人の姿も良きものなれば」柚木は机に向かって宿題を片付けていた。真彦は傍らに寝転んで本を読んでいた。真彦が不意に言った。「僕らも、結婚するのかな」柚木はノートから目を離さずに言った。「お前はしないとな。跡継ぎとかいるんだろうし」真彦は口を尖らせた。「何だか、面倒な気がする」「鵲さんが帰って来たら、聞いてみたら?」「それも面倒だな」「お前、贅沢だよ」「だって、当主様だもの」二人は目を合わせると笑った。若い笑い声が、やがて来る明るい朝の予感を漂わせ、屋敷の夜は更けていった。(終)
2011/11/18
林の向こうに廃屋の影が黒く見えた。窓に灯りはない。三人は物影に身を隠した。高望が鳥船に言った。「偵察へ行って来い」「また俺か?」高望は両手を広げ、自分の巨大な体躯を示した。「俺の身体は、偵察には向き過ぎる」二人のやりとりに、鵲(かささぎ)は口元に笑みを浮かべた。そして言った。「鳥船、行って来い」鳥船は、わざと丁重にお辞儀をしてみせた。「貴方のご命令とあらば、鵲様」鳥船は足音もなく、敷地の奥へと消えた。鳥船と高望がこっそりとホテルから出て行こうとした時、二人は月下に白く立つ姿を認めた。満月の銀の粉が散る中、その若者はすっきりとした長身に美しい笑みを浮かべて立っていた。夜の清涼を含んだ声が聞こえた。「長を置いていくとは何事だ」二人は肩をすくめ、素早く駆け寄ってその前に膝をついた。鳥船が言った。「鵲様は、新婚旅行にて当地へおいでです。お役目の為ではありませぬ」「そこに『奴等』の影あらば、私はいつでも戦う覚悟は出来ている」鳥船は苦笑して顔を上げた。「新婚早々、花嫁を置き去りにして一生恨まれたりしないように、気を使ったのに」「そんな事はない。桜子は”盾”の妻として、十分に心得のある女だ」高望がぼそりとつぶやいた。「さっそく惚気を聞かされてしまったな」それを機に二人は立ち上がった。鵲達の宿泊先の近くに、”異人”達のアジトがあるとの知らせが入ったのは、旅立つ直前だった。白神(しらかみ)から敵殲滅の命令が鳥船と高望に下った。鳥船が白神に尋ねた。「鵲様には?」「お知らせせずとも、現地の”盾”と共になら、お前達だけで仕損じる事はあるまい」「桜子様が、ご旅行をとても楽しみにしておられますからね」桜子の亡き父・高遠と長きの同僚であり、今は桜子の父代わりと自認する白神は、若き二人の”盾”に言った。「お前達は、表向きは新婚旅行の護衛という事にしておく。何があるかは分からぬ、心しておけ」鳥船はすぐに戻って来た。「屋敷の中には、報告通りの人数がいる気配。味方は位置に付いております」鵲は頷いた。「手早く済ませる」鵲は部下をちらりと見て言った。「我が花嫁の忍耐にも、限度があるのでな」鳥船は口を尖らせた。「しばらくはご馳走様の連続だな」高望は口元だけ笑い、愛刀を抜いた。最上階の窓辺で潮騒を聞きながら、桜子は夫の帰りを待っていた。案ずるは夫の身の事ばかりであった。百合枝の贈り物である桜色のナイトガウンは絹とレースの豪華な作りだが、桜子の美貌はそれに負けておらず、極上の特別室にあっても、女主人たる品格を醸し出していた。すでに桜子は、未来の風の家の長の奥方として、十分な資質を感じさせていた。そんな桜子を満足げに眺める姿が室内にあった。干瀬がソファに伸び々々と寝そべっていた。干瀬が着いて来た事は、鵲は知っていた。むしろ自分が桜子の側を離れた時の守護に好都合と思ったし、干瀬もそのつもりなのは解っていた。なので、部屋に到着した際、果物や菓子を盛った皿をサービスに注文しておいた。干瀬は自由にそれらを貪り食い、上機嫌でいた。「お前達の息子も、そのまた息子も、ワシはずっと見てやる。今日はその始まりの目出度き日、後は酒でもあればな」桜子に、その声は聞こえなかった。自分に気づかぬ桜子に、それでも干瀬は語りかけた。「そのうちだ、そのうちお前もワシの声を聞くようになる。息子が生まれる頃にはな」(つづく)
2011/10/18
最上階のスイートルームに新婚の二人を送り届けると、鳥船(とりふね)と高望(たかもち)は、自分達の部屋となった場所に荷を解いた。鵲と桜子のスイートには及ばないが、寝台の二つ並んだ寝室だけで、屋敷の自室の三倍はあった。豪華なソファの置かれた居間とキッチンもある。大きな窓の向こうには、プライベートビーチと銀の波頭を見せる海が広がっていた。開け放った窓辺に腰を下ろし、鳥船は愉快そうに言った。「ダブルベッドの方が良かったか?」「その時は、ベッドを真っ二つにしてツインにしてやる」高望がむっつりとして答えた。さっそく愛刀の手入れを始めた所だった。「仕事熱心だな」「遊びに来たわけではないからな」「鵲(かささぎ)様には仕事はさせない。するのは俺達だ」「そういう事だ」鵲と桜子の結婚が決まると、竹生の屋敷は俄かに慌しくなった。二階の改築工事が始まった。二部屋を繋げて夫婦の住まいとする為である。鵲の部屋はそのまま彼と部下の執務室として使用される事になった。「しばらく煩いと存じますが、ご辛抱の程を」桐原は竹生に進行状況を報告した。”人でない”竹生の行動時間は屋敷の他の住人と異なる。彼は昼間は眠り、夜に活動するのだ。黒い絹のシャツとゆったりとまとい、安楽椅子に寛いだ竹生は機嫌が良かった。表情は変わらないが、長年仕えて来た桐原には解った。「斤量(きんりょう)が来ている。工事が幾ら煩くても、ここまで音も気配も届かない」斤量は異界の者である。彼の”手”に覆われた場所には、外部から一切の干渉が出来なくなる。「ワシが斤量に頼んでやった」桐原の足元から声がした。青いひょろりとした影が、床から伸び上がった。それはみるみる人の形になった。肌の色の青さを除けば、その姿は朔也に瓜二つであった。この干瀬(ひせ)も異界の者である。今の桐原には彼の姿を見る事が出来た。津代も干瀬を見られるようになり、楽になったと喜んだ。洗い物でも片付けでも、干瀬はまたたく間にやってのけた。干瀬も津代と話せるお蔭で多くの美味い物にありつけるようになった。今も干瀬の両手には、蒸かしたての饅頭があった。屋敷の警備の”盾”達への差し入れに、津代が作ったのだろう。美味そうに食いながら、干瀬は言った。「すぐに家族が増えるぞ、風の家の跡取りだ。竹生、お前に似た美しい子だぞ」竹生はちらりと干瀬を見た。そして美しい目を流し、桐原を見た。魔性の美に桐原ですら抗う事は不可能であった。桐原の頬に赤味が差した。桐原は取り繕うように頭を下げた。「鵲様のお部屋の件、変更の手配を致します」「頼む」桐原が出て行くと、竹生は干瀬に問いかけた。「何故、未来の話を?」干瀬は床に座り込んで、饅頭の最後の一欠片を飲み込むと答えた。「祝言の前祝いだ」干瀬は天井を仰いだ。「怒るなよ、斤量」野太い声が上から降って来た。「目出度い事であるならば」干瀬は安心してにっこりと笑った。(つづく)
2011/09/14
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