Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年01月19日
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カテゴリ: 霊魂論
内的霊的衝動の写しとしての美術史
第1講 ドルナハ  1916年10月8日-LXXX以下-4
第196  ラファエロ-聖チェチリア(ツェツィーリエ)
記:聖チェチリア (聖セシリア) は音楽家と教会音楽の守護聖人で、初期キリスト教時代の聖女です。その遺体は、ローマのトラステヴェレ地区にある教会の祭壇下に埋められている。本作は、彼女が聖パウロ、福音書記者聖ヨハネ、聖アウグスティヌス、マグダラのマリアといっしょに天使の合唱を聞いているところが表されています。この祭壇画はボローニャの教会のために委嘱され、現在、ボローニャ国立絵画館に展示されている。なお、「画家・彫刻家・建築家列伝」を著したマニエリスム期の画家・伝記作家ジョルジョ・ヴァザーリによれば、聖チェチリアの足元に散らばっている楽器は、ラファエロの手になるものではなく、彼の弟子ジョヴァンニ・ダ・ウーディネの手になるものであるという。中央の人物、聖チェチリアは、彼女のイメージが画家の心に呼び起こしたような霊感の中で恍惚としているようにもみえる。彼女の深く、暗色の雄弁な目は上を向き、栗色の髪は額から後方へ結われている。手にはオルガンを持っている。彼女の顔は言わば、その情熱と恍惚感の深さで穏やかなものとなり、生命の温かく、輝かしい光に完全に貫かれている。彼女は天国の音楽を聴いており、私が想像するに、ちょうど歌い終えたところである。というのは、彼女を囲む4人の人物たちは、明らかに態度で彼女を指し示しているからである。特に聖ヨハネは、優しいが情熱的な仕草で、深い感情のために物憂い顔を彼女のほうに向けている。彼女の足元には、壊れて、弦が外れた様々な楽器がある
ルドルフ・ジョセフ・ローレンツ・シュタイナー講演
 第7項トライーニの(79)の画においては、なお、アレゴリー的なものが沸き上がってくるように中心人物を置くという試みがなされているのがわかります、そしてアレゴリー的なものが沸き上がってくるなかで人間の魂的生と全世界(宇宙)との連関を描き出そうと試みられているのです。ラファエロの(「聖チェチリ35」 196ア 196)においてさらに私たちは、やはり中心人物が中央に置かれているのを見ますが、すべては既に、アレゴリー的なものがそこで完全に克服され、アレゴリー的なものが消し去られるまでに至っています、そして今日人々は、この絵がチェリアの祝日によせて制作されたことを確認するためにカレンダーを調べさえすればよいにも関わらず、聖チェチリアによって何が表現されねばならなかったのか議論することさえできる程なのです。さらに、ラファエロがこの素晴らしい画のなかに創り出したものすべてが聖人伝説のなかにあること、けれども彼が自然という形成されたもののなかにに、魂的なものと霊的なものを表現する自然の能力にまで到達していたために、本来はアレゴリー的なものとしてその背後に潜んでいるものがもはや気づかれないほどになっていることが見い出されるでしょう。そして、ミケランジェロとラファエロによって支配されたこの時代に見られる偉大さとは、以前の諸潮流、これらがどのような衝動に由来していたのかを見ることができますが、これらの潮流が完全に克服され、そして、私たちを取り巻く現実の純粋にとらわれのないあの時代にとって純粋にとらわれない観照と再現が、自然の物質上の内実、魂と霊にしたがって、実際に獲得されたということなのです。こんにち研究されたこれらの経過に基づく時代がもたらしたもののなかに、これらの絵画、創造そのものを手がかりに見出せるのは、精神(霊)から発して、精神(霊)を外界にも認識することに通じていくというこのような実行が、進化に先立ってあったのだということです。まず精神(霊)が求められねばならず、それから外界に精神(霊)が見出されます。まず魂が体験されねばならず、それから外界に魂が見い出されます。魂と精神を共にまずそのものとして体験できなければならず、それから外なる自然のなかにも魂と精神が見出されるのです。ですから、チマブエにおいてなおも働きかけていた霊的なものが、ジオットにおいても余波を残していたことがわかります。ジオットは自然のフォルム(形態)をそうすることによって理解するために、それを自然のなかへと携えていくのです。そしてまた、ジオットによって霊的なものを手がかりにさらに放射されていくものが、自然という精神(霊)を理解するために後継者たちによってより多く用いられるのを見ます。アッシジのフランチェスコによって、魂的なもの、つまり人間のなかの魂的なものの把握へと到達したものが、キリスト教的な敬虔さを通じて、フラ・アンジェリコにおけるある種の高みとなって芸術的に表現されるのです。これはまたも放射していって、ボッティチェリにおいて本質的なものをつかみます。私たちは、記憶からとでも申し上げたいのですが、全体から、しかし失われてしまった全体から、途上において直接観るということは失われてしまったガイスト(Geist/ドイツ語で「魂」「精神」「幽霊」)、自然を把握する際にその働きを用いることができるために失われたのですが、このガイストが再び全体において働きかけるために、個々のものを全体へと、組み立てる試みが行われるのを見ます。表現が、アレゴリー的なものが求められ、しかもこの求めが、アレゴリーの克服にともなって自然そのもののなかに表現を見出すことに通じていくようすが見られます。単に観ること、外界をとらわれなく観ることが、これを最初に求めた当人に与えてくれる表現です。自然はアレゴリー的ですが、自然はどこであれアレゴリーを直接押しつけがましく認識させはしません。人間は、まず、ある意味で不器用に(ungeschickt)読むことを学びながら、自然のなかに読み取るべきものを、さまざまに学ばなければなりません。私たちがトレーニの画(79)に見るような芸術家の場合、まだ不器用な自然の読みが見られます。ラファエロの「聖チェチリア」(196)において私たちの目の前にあるのは、もはやそのなかにアレゴリーは一切含まれない生、まだその巧みさの完全な高みへと至っていないアレゴリー一般の持つ干からびたものなど含まれない生なのです。このように、この講演によって、イタリアルネサンスの大いなる芸術期がどのように次第次第に育成されてきたかということについて、ひとつの見方を獲得することができたと思います。私が思いますに、人間の眼差しは繰り返し何度も、ほかならぬこれらの時代とこれらの芸術発展に注がれることでしょう、何故なら、この時代は私たちに、芸術的なファンタジーと、この芸術的ファンタジーを通じてとらわれなく自然を再創造しようとする努力とともに、人間の魂における喜び、叡智、愛の働きと生命を、これほど奥深く見つめさせるからです。それは単に自然の模倣ではなく、人間が自らの魂そのもののうちに見出したものとともに、人間の魂の最も内なる体験に親和するものとして自然のなかにすでにあるものを、自然のなかに再び見出す人間の能力なのです。このことを、今日述べましたことを通じて、単にエピソード的で充分でないやりかたではありますが、表現できたのではないかと思います。第1講 桔
第196:ラファエロ-聖チェチリア



記:この絵画には、人間の魂的生と全世界(宇宙)との連関を描き出そうと試みられたアレゴリー的な要素が含まれているようです。ラファエロの「聖チェチリア」(196)において、中心人物が中央に置かれているのを見ますが、アレゴリー的な要素が完全に克服され、アレゴリー的なものが消し去られるまでに至っています。この絵画には、聖人伝説のなかにあること、けれども彼が自然という形成されたもののなかにに、魂的なものと霊的なものを表現する自然の能力にまで到達していたために、本来はアレゴリー的なものとしてその背後に潜んでいるものがもはや気づかれないほどになっていることが見い出されるでしょう。

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最終更新日  2024年01月19日 06時10分06秒
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