Tough Boy-World of cap_hiro(Subtitle:sense of wonder)

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2024年06月06日
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カテゴリ: 霊魂論
ルドルフ・シュタイナー
ゲーテの自然科学論序説並びに精神科学(人智学)の基礎(GA1)
第10章 ゲーテのアイデアというその光の下での認識と行為1-5 佐々木義之訳
5.倫理的、歴史的な科学
 私たちは、認識とは何かという問いに答えることで、世界に対する私たちの関係についての何らかの明晰性に至りました。この問題を取り扱う中で私たちが発達させてきた観点は人間の行為の価値と重要性にも確かに光を当てます。私たちが私たちの人間としての役割をどのように考えるかによって、私たちが世界の中で成し遂げることがらにどのような意味があるかが決定づけられることになるでしょう。私たちの最初の仕事は、人間の活動の本質を調べるということになります。人間の行為がもたらす影響は宇宙的なプロセスにおけるその他の出来事による影響とどのように比べられるでしょうか。二つのこと、つまり自然の産物と人間の創造、例えば、結晶と車輪について考えてみましょう。どちらの対象物も概念として表現され得る法則の結果として私たちの前に現れます。唯一の違いは、結晶はそれを規定する自然法則の「直接の」産物であると考えるべきであるのに対して、車輪の場合には概念(法則)と対象物の間に人間が介入している点です。自然の対象物が有する現実性の根底にあると考えられるものが、人間の活動を通して、現実の中に導入されるのです。私たちは知るという行為を通して感覚的な経験を決定づけている原則を経験します。すなわち、私たちの思考が現実の内部に既に存在している「アイデア」の世界を明らかにするのです。私たちは、絶えず産物を生じさせていますが、もし、私たちの思考がなければそれら自身の内に永久に隠されたままに留まるであろう主体を呼び出すことによって、世界のプロセスを完成させるのです。とはいえ、私たちがまだ実現していないアイデアの世界を現実へと導入することによってこのプロセスを補足するのは、私たちの活動を通してです。私たちはアイデアがすべての存在の基礎、それを決定づける条件であり、自然の意図であることに気づきました。私たちが世界プロセスの傾向、創造の意図を私たちの自然環境の中に含まれる兆候の中で把握できるようになる地点にまで私たちを導くのは私たちの認識です。私たちはそれを行った後、私たちの行為の中で、その意図の実現に向けて個人として働くように促されます。ですから、私たちの行為はその種の生産性の直接的な成就として現われるのです。つまり、それらは世界の根底から直接流れ出すものなのです。そして、それにもかかわらず、私たちの行為とあの自然の活動とはいかに異なっていることでしょうか。自然の産物はそれらを支配しているように見える理想的な法則性を決してそれら自身の内に担ってはいません。それらはより高次の何か、人間の思考との出会いを求めています。そして、支配する原則が「この思考」の前に現れるのです。人間の活動においては、アイデアが活動的な対象物の内に、つまりは、人間の中に直接宿っており、その点で異なっています。そして、より高次の存在がそれに出会うとすれば、この存在は私たちの活動の中に私たち自身がそこに置いたものだけを見出すことができるでしょう。すなわち、完全なる人間の行為とは私たち自身が意図したものの結果であり、他のものではありません。ある自然の産物が他の産物に影響を及ぼすのを見るとき、私たちはひとつの効果を見ます。その効果は概念として表現し得る法則によって決定づけられます。けれども、それを何らかの法則に結びつけるだけでは、その効果を理解するには不十分です。私たちは第二の知覚可能な事物、それもまた私たちは完全に概念へと帰着させることができなければならないものを必要とします。地面に穴があいているのを観察するならば、私たちはそれを作った物体を探します。こうして私たちは、ある現象の原因が別の外的な知覚として現われるときに活動している主体に関する概念、つまり、「力」という概念へと導かれます。私たちが力に出会うのは、あるアイデアがまずひとつの知覚対象の中に現れ、そして、その形態において、別の対象に影響を及ぼすときだけです。これとは対照的に、そのような媒体が抜け落ち、直接アイデアが感覚の世界に近づく例があります。そのような状況では、アイデアそのものが原因をなす主体として現われます。私たちが「意志」について語るのはここにおいてです。「意志とは、力として捉えられるアイデアそのものなのです。」意志を独立した主体として語ることは全く容認できません。人間が行為を遂行するときに意志がアイデアにつけ加えられる、と言うことはできません。そのように語る人がいるとすれば誰であれ、関係する概念についての明確な理解に至っていません。人間の個性とは、もし、それを満たすアイデアの世界を度外視するならば、結局のところ、何なのでしょうか。もちろん、それは活動的な存在です。それを別様に、死んだ惰性的な自然の産物のように考えるならば、生命のない石のレベルにそれを置くことになります。とはいえ、この活動的な存在性は抽象的なものであり、具体的な現実ではありません。それは掴むことができず、実体のないものです。もし、私たちがそれを掴み、それに内容を与えようとしても、私たちは活動に携わるアイデアの世界へと立ち戻るだけです。エドゥアルト・フォン・ハルトマンはこの抽象性をアイデアに次ぐ第二の世界を構成する要素とします。けれども、それは顕現した形態におけるアイデア以外のものではありません。アイデアを欠く意志は「無」です。このことはアイデアについては言えません。何故なら、活動はその要素の一つであり、一方、アイデアはそれ自身で自立した存在だからです。
アイデア(IDEA):イデアはidea; Idee;と表現され、語源的にはギリシア語の「見る、知る」という意味の動詞変化形ideinによる。ギリシア語の日常的用法では「見えているもの、姿、形」の意でした。ピタゴラス学派では,感性的な図形と区別された図形の本質そのものを意味した。プラトンの対話篇では、ソクラテスの定義運動で確認された「物それ自体としての存在」、すなわち、もろもろの感覚的存在を超越し、ただ思惟によってのみ把握されうる自己同一的な存在としての真実在をイデアと呼んだ。これはエイドスとともにプラトン哲学の中心概念の一つであり重要です。しかるに、このいわば客観的実在として考えられていたイデアが、中世以後次第には精神内容,意識内容として解されるようになります。現代語のイデー,アイディアは理想,理念,観念などと訳され,プラトン的イデアとはほとんど無縁となっています。ルドルフ・シュタイナーは、「アイデア」に非常に深い意味合いを持たせています。彼の哲学である人智学では、物質的な世界だけでなく、精神的な世界も重要であるとされています。シュタイナーは、目に見える物質的なものだけを追求する現代社会の限界を指摘し、人間の精神や魂の探求を通じて、より高次の真理や普遍的なアイデアへと到達することを目指していました1。彼の考えでは、「アイデア」は単なる思考の産物ではなく、人間の内面に存在する霊的な真実や普遍的な法則を反映しています。シュタイナーは、自由、平等、博愛という価値を社会の三つの領域(政治=法領域、経済領域、精神=文化領域)に適用し、それぞれの領域が独立して機能することで、真の社会的調和を実現すると考えていました。また、シュタイナーは教育や芸術、医学、農業など多岐にわたる分野で、アイデアの具体化を図りました。特にヴァルドルフ教育では、子どもたちの個性を尊重し、彼らが自由な自己決定ができる人間として成長することを目指しています。シュタイナーの「アイデア」は、目に見えないが、人間の成長や社会の進歩に不可欠な精神的な要素を含んでおり、それを理解し実践することで、より豊かな人生を送ることができるという意味合いを持っています。彼の思想は、現代においても多くの人々に影響を与え続けます。ルドルフ・シュタイナーの「アイデア」は「ものの観念」の意味合いが強く「形相・形質・本質・形姿」が大きく関わってきます。
 さて、今まで述べてきたことから必然的に生じてくるような人間の活動における別の特徴について考えてみましょう。私たちが自然の出来事を説明するとき、私たちはそれをその条件にまで辿っていきます。つまり、与えられた産物の「制作者」を見つけようとします。私が一つの効果を観察するとき、その原因を探すだけでは不十分です。これら二つの知覚だけでは説明を求める私の必要を満足させません。むしろ、私は「この」特別な効果を有する「この」特別な原因が従っている法則に立ち返らなければならなりません。ここでは決定する法則性そのものが活動を担っており、産物を形成する原因となる主体が登場します。この顕現する実体の場合、私たちはその根底に横たわる決定要因をさらにそれを超えて探す必要はありません。私たちが芸術作品として体現されたアイデアを認識するとき、私たちはその作品を理解するのであって、アイデア(*原因)と効果(作品)の間の法則的な関連を超えるものを探す必要はありません。私たちが政治的な指導者の行動を理解するのは、私たちがそれらの背後にある意図(*アイデア)を知るときであって、それ以上のことを調べる必要はありません。「こうして、私たちは自然のプロセスと人間の行為とを区別します。自然のプロセスにおいては、法則は表現された存在へと至るものの背後にあって、その根底に横たわる決定要因である一方、人間の行為においては、存在そのものが法則となり、ひたすらそれ自体によって決定づけられます。」したがって、あらゆる自然のプロセスにおいて、私たちは決定づけるものと決定づけられるものとを区別することができます。決定づけられるものは必然的に決定づける要因の後に続きます。ところが、人間の行為はそれら自体によってのみ決定づけられます。それが行動の「自由」です。自然の意図(そして、それらは表現されたものの背後にあってそれらを決定づけています)が人間の中に入るとき、それらは隠された原因によって決定づけられるのではなく、表現されたものとして自らを開示するのです。すべての自然のプロセスがアイデアの表現であるとすれば、人間の活動は行為の中のアイデアそのものなのです私たちは、私たちの認識論の中で、私たちの意識は単に世界の根幹に関するイメージを形成するための手段ではなく、この基本的な法則性自体が私たちの思考の中でその最も主要な形態において自らを開示しているのだ、と結論づけました。ですから、人間の行為の中にもこの主要な法則性が無条件に活動しているのが分かります。私たちは私たちの行為に目的と方向性を付与するために世界の導き手を必要としません。世界の導き手はその力を放棄し、人間の手にすべてを委ねました。つまり、彼は独立した存在性を放棄し、その仕事を続けることを私たちの使命として割り当てたのです。私たちはこの世界にあって、自然を観察し、何かより深いもの、隠された法則と意図―がそこに示唆されているのを認めます。私たちの思考が私たちに気づかせるようにしたそれらの意図は私たちの精神的な所有物となります。私たちは今や世界の根底へと貫き至り、それらの意図の実現に向けた活動に取りかかります。ですから、ここで提示された哲学は真の「自由の哲学」なのです。人間活動の領域において、それは自然の必然性も外的な創造主あるいは世界の指導者の影響も認めません。何故なら、いずれの場合にも人間は自由ではあり得ないからです。もし、自然の必然性が、他の存在の場合にはそうであるように、私たちの中で機能していたならば、私たちは強制の下で活動していたことでしょう。そのような活動を理解するために、私たちはそれらを規定する外的な要素を探さなければならず、自由は問題外だったでしょう。もちろん、私たちはこの範疇に入る無数の人間活動があるという事実を排除するものではありませんが、ここではそれらについては考えません。人間は自然の存在である程度に応じて、自然のプロセスを支配する自然法則の意味でも理解することができるでしょう。けれども、厳密に自然法則の観点から人間存在を考えるとしても、認識する存在あるいは真に倫理的な存在としての私たちの活動を説明することにはなりません。私たちが自然のできごとの領域を実際に乗り越えて行くのはこの点においてです。ここで立証したことが当てはまるのは私たちの最も高次の可能性についてであり、それは現実的というよりはむしろ理想的なものです。人が生きる途上には、自然存在であることから今お話ししたような存在に向けての私たちの進化が含まれています。すべての自然法則から自分たちを解放し、私たち自身の法則を自分たちに付与することが私たちの使命なのです。私たちはまた他の世界から人間の運命を導くものをも拒絶しなければなりません。私たちがそのような指導による存在性を担うやいなや、私たちはもはや真の自由について語ることはできなくなります。そのような力は人間の活動を決定づけながら方向づけるので、人間は方向づけられたようにせざるを得なくなります。こうして、私たちは私たちが自分で設定した理想としての私たちの行為の動機づけではなく、あの力による戒律としての動機づけを経験することになります。そこでの私たちの行為は自由というよりも、決定づけられたものとなります。私たちは外的な強制から自由ではなく、それに依存している、より高次の力による意図のための単なる媒体としか感じられないでしょう。私たちが見てきたような教条主義は、私たちの主観的な意識の外にあって、それにとっては接近不可能な主体を求めることによって、何かが真実であることの理由を見出すよう努めることを含んでいます。一方、私たちの観点がひとつの判断の真実性を確認するのは、私たちの意識の中に含まれ、その判断へと流れ込む概念の中にその理由が存在しているからです。私たちのアイデアの守備範囲を超えたところに世界の基盤を考える人たちは、私たちが何かを真実であると認める理由はその真実性のための客観的な理由とは異なるものであると信じていなければなりません。こうして真実はドグマとして思い描かれることになります。倫理の領域における戒律は科学の領域におけるドグマと同じものです。自分の行いを戒律の上に基礎づける人たちは彼らが定式化したのではない法則にしたがって活動します。つまり、彼らは彼らの行いのために外的に処方された規範を求め、「義務」から行動するのです。義務について語ることに意味があるのはこの文脈においてのみです。私たちが外的なものとして動機を経験するとき、私たちは「必然性」に屈服し、義務から行動しながらそれに従うのです。人間の本性が道徳的な成熟に達したところでは、私たちの認識論はこの種の行為の正当性を認めることができません。私たちはアイデアの世界の無限の完成度を認めます。つまり、私たちは、私たちの行いのための衝動は私たちの中にあるこの世界から輝き出してくるということ、したがって、唯一の倫理的な行いとは私たちの内部にあるそれらに対応するアイデアから直接輝き出してくるものであるということを知っています。この観点によると、私たちが行為を遂行するのはそれを実現するための内的な必要性を感じるからに他なりません。私たちは外的な力ではなく、私たち自身の意欲が私たちを動機づけるからこそ行動するのです。私たちがその概念を形成するやいなや、私たちの行為の対象が私たちを内的に満たし、それによって、私たちはそれを遂行するように活発に努めます。私たちの行為にとっての唯一の動機づけはアイデアを実現しようとする衝動、目的を達成するための意欲でなければなりません。私たちを行動へと駆り立てるものであれば何であれ、まず私たちの中でアイデアとしてその生命を展開しなければなりません。そして、私たちは義務や盲目的な本能からではなく、「私たちの行為が向けられている対象への愛」から行動します。その対象は、私たちがそれについて思い描くとき、その本性にしたがって、私たちの中に行為への意欲を呼び起こします。これが、そしてこれだけが自由な行いです。もし、対象への興味を超えた別の動機があるとしたら、私たちは行為のためだけにではなく、「何か別のこと」を達成するために活動していることになります。そのときの行為は何か私たちが本当には欲していないもの、「私たちの意志に反する」行為でしょう。私たちがエゴイスティックに行動するときには、これが当てはまります。そのとき、私たちは行為そのものに興味はなく、それが私たちにもたらすものへの必要を感じているのです。けれども、そのとき、私たちはある種の強制を感じるのですが、それは私たちが望む利益を得るためにはその行為を遂行しなければならないからです。行為そのものへの必要性は感じられず、もし、利益がもたらされないのであれば、私たちはそれを行うこともないでしょう。しかし、そのためだけに遂行される行為でなければ自由な行為ではありません。「エゴイスティックな行為は自由ではありません。」行為自体の客観的な満足以外の理由から為される私たちの行為はいずれにしても不自由です。私たちが「それ自体のために」行為を遂行するとき、私たちは「愛」から行動します。「私たちの活動への愛、つまり、客観的な世界への献身によって導かれるときにのみ、私たちは真に自由なのです。」もし、そのような無私の献身ができないのであれば、私たちは決して私たちの行為における自由を経験することはないでしょう。もし、人間の活動が私たち自身のアイデアの実現以外のものでないとしたら、もちろんそれらのアイデアは私たち自身の内に存在していなければなりません。私たちは内的に生産的でなければなりません。結局のところ、私たちの心の中で形成されるアイデアを除いて、私たちを動機で満たすものが他にあるでしょうか?そのアイデアがより明確に、より鮮明に輪郭づけられていればいるほど、それはより多くの実りをもたらすでしょう。私たちはひとつのアイデアとして十全に形成されたそれらの行為の実現に向けて力強く駆り立てられます。漠然と考えられた不明確な理想は行為への動機として適当ではありません。もし、それらが生き生きとして明確なものでなかったとしたら、どうして私たちの熱情に火をつけることができるでしょう。ですから、私たちの行為への動機はいつでも個人的な意図として生じなければなりません。人間が行うあらゆる実り多きことがらは個人的な衝動に発するものです。すべてに適用される普遍的な「道徳法則」や倫理的な規範は全く無価値です。もし、カントの言うところにしたがって、道徳性が法則として誰もが受け入れることができるものからのみ成り立っているとしたら、私たちのそれに対する答えは、もし、誰もがすべてに適うことだけを行うべきであるならば、前向きな活動は止み、偉大さは失われるであろう、というものです。そうではなく、行為は漠とした一般的な倫理規範によってではなく、最も個人的な理想によって導かれなければなりません。誰もがそれを望むことができるものなど存在しません。望みは人によって、それぞれの天命にしたがって、様々に異なります。「カントにおける倫理的な自由」(ベルリン、1882年)という随筆の中で、J.クライエンビュールは次のように述べています。「もし、自由が実際に私の自由であるならば、つまり、もし、ある道徳的な行為が私のものであるならば、そして、もし、善や正義が私を通して、この特別な個人の行為を通して実現されるのであれば、あらゆる並列する状況や要求を顧慮しない一般的な法則、あらゆる行為に先立ってそれを導く動機が普遍的な人間本性の抽象的な規範に合致するかどうか、そして、それが私の中に生きて働くとき、振る舞いの一般的な標準になり得るかどうかについて、私が検証する一般的な法則で私が満足することはあり得ない・・・。このような仕方で一般的に受容可能なものに適応することは、あらゆる個人の自由、通常的で偏狭なものを越えて行く進歩、そして、意義深く、顕著で、そして、画期的ないかなる倫理的成果をも不可能にしてしまうだろう。」このことはいかなる倫理体系にとっても答えるべき問いに光を当てます。通常、それらは倫理が人間の活動を方向づけるための規範の集合であるかのように取り組まれます。この観点からすると、倫理は自然科学の、実際、現実を扱うすべての科学の対極に置かれます。科学が存在するものの法則を示そうと努めるのに対して、倫理は存在すべきものの法則を私たちに教えると考えられているのです。倫理はあらゆる人間的な理想、「善とは何か。」という問いに対する詳細な答えを包含する行動規範であると期待されているのです。その種の科学は不可能です。この問いに対する普遍的な答えはありません。倫理的な行いとは個々人の内に生じるものの産物です。それはいつも個別の場合に生じるのであって、一般的に生じるのではありません。人が行うべきこと、あるいは行うべきでないことについての一般的な法則はありません。人は様々な国の法律をそのような仕方で見るべきではありません。つまり、それらもまた個別的な意図の表現以上のものではないのです。ある人が道徳的であると感じたものが国全体に移されて「その土地の法律」になったのです。すべての民にいつの時代にも通用するように企図された普遍的な自然法則はひとつの怪物です。法哲学や道徳の概念は国によって、あるいは人によってさえも移り変わります。結局のところ、決めるのはいつでも個人です。ですから、このような仕方で倫理について語ることはできないのです。とはいえ、倫理という科学が答えることができる他の問いがあります。それらの問いにはついでの折に触れてきましたが、具体的には、人間の活動と自然の事象の違い、意志と自由の特性、等々です。これらはすべてひとつの問い、つまり、人間はどの程度本質的に倫理的であるかという問いに集約されます。これは簡単に言えば人間の道徳的な本性への洞察に関する問いです。その問いは、人間は何を為すべきなのかではなく、むしろ、人間がその内的な本性にしたがうときには何を為すかというものです。すべての科学をあらゆる存在するものについての科学と何が存在しなければならないかについての科学という二つの領域に隔てていた壁がこうして取り払われます。「あらゆる科学と同様、倫理とは何が存在するかについての科学なのです。」この意味で、すべての科学に共通するもの、つまり、それらは所与のものから進み出て、それを決定づける条件へと発展するということがあります。とはいえ、人間の活動についての科学は存在し得ません。何故なら、そのような活動は不定で、生産的で、創造的なものだからです。法学は科学ではなく、ひとつの国家の個別性に適う法的な慣習についての「記録の集成」です。個人としての人間は、自分自身に属しているだけではなく、二つのより大きな全体に属しています。まず、国家の一員として、個々人は社会的な慣習によって結びつけられ、共通の文化、言語を有し、観点を共有しています。しかし、個人としては、私たちは歴史の市民でもあり、人類進化の偉大なプロセスに参画しています。この偉大な全体に対する二重の忠義は私たちの自由な人間活動を制限しているように見えます。私たちの活動は個人の産物であるだけではなく、私たちが私たちの国家と共有しているものによっても条件づけられているように見えます。私たちの個人性は国家的な性格によって根こそぎにされているように見えるのです。では、もし私の行為が私の個人的な性質の表現としてだけではなく、大部分が私の国籍の表現としても説明することができるとしたら、私は自由なのでしょうか。私がある一定の仕方で振舞うのは、たまたま自然が私をこの特定の国家共同体の一員にしたからなのでしょうか。人類史の中での私の位置についても同じことが言えます。私は私の時代の子供として、私が生まれてきた文化的な時代の影響を受けることになります。けれども、もし、私たちが知識と行為の両方を有する存在であるとしての私たち自身を眺めるならば、その矛盾は自ずと解消します。認識能力は、私たちが私たちの国民としてのアイデンティティーの特徴を理解し、私たちの仲間の市民がどこへ向かおうとしているのかが分かるようにしてくれます。私たちを決定づけているように見える要素こそが、正に私たちが超越し、十全たる意識をもって私たち自身の中に取り込むべき要素なのです。そうすれば、それらは私たちの中で個別的なものとなり、自由な行為における個人的な特徴を獲得します。私が私の位置をその中に占めるところの歴史的な進化についてもそれは言えます。私が私の時代の支配的な考えや道徳的な力への洞察を獲得するとき、それらはもはや私を決定づけるのではなく、個人的な動機となります。私たちは私たちの時代や文化に活発に貫き至ることによって、私たちがそれらに導かれるのではなく、私たち自身が導くようになる必要があります。私たちは私たちの国家の特徴によって盲目的に導かれるのではなく、それを理解することによって、私たちの国家精神において「意識的に」働くことができるようにならなければなりません。私たちは文化的な発展に押し流されるのではなく、むしろ、私たちの時代の考えを自分のものとすべきなのです。そのためには、まず私たちがその中に生きる文化を理解しなければなりません。そして、私たちは自由の中で私たちの時代の使命を果たし、適切な文脈の中で私たちの努力を傾注することになるでしょう。私たちが人文科学(歴史、文化的かつ文学的な歴史等々)を必要としているのはここにおいてです。人文科学において、私たちは人類が達成したもの―文化、文学、芸術、等々が成し遂げたもの―を見ます。そこでは、精神が精神的なことがらを把握します。人文科学の目的は、偶然が私たちを個人としてどこに据えたのかを私たちに認識させるということであるべきです。私たちは何が達成され、何を成し遂げる必要があるのかを認識しなければなりません。人文科学は私たちが世界の働きに参加するための正しい場所を見つけるのを助けてくれます。私たちは文化的な世界を認識し、それにしたがって私たちの貢献を決定しなければなりません。グスタフ・フレイタグは彼の著書「ドイツの過去のイメージ」(ライプチヒ、1859年)第1巻の中で次のように言っています。「国家的な力によるあらゆる偉大な創造物―伝統的な宗教、慣習、法律、そして政府―は、もはや個人的な人間が達成したものと見なすことはできない。それらはより高次の生命の有機的な創造物であり、どの瞬間を取ってみても個人を通してのみ目に見えるようになるもの、どの瞬間を取ってみても個々の精神をひとつの偉大な全体へと統合しているものである・・・。したがって、それについては神秘的になることなく民族魂について語ることができる・・・。しかし、個人の意志とは異なり、国家の生命は意識的には働かない。歴史の中で自由で理性的であるものは個人によって代表される。国家的な力は原初の力の暗い強制とともに飽くことなく働いているのだ。」。もし、フライタグが国家の生命を検証していたとしたら、彼はそれがその個人たちの行為の総体へと自らを解消するのを見たことでしょう。彼らは無意識的であるものを彼らの意識へと上昇させることによってこの暗い強制を克服します。彼は正に彼が民族魂と呼び、暗い強制として記述するものがいかに意志という個人的な衝動、人間の自由な行為から生じるかを見たはずです。とはいえ、私たちは個人的な人間の国家の中での働きにおけるさらに別の側面について考えてみなければなりません。個々人は精神的な可能性、力の総体を表しており、それらはその活動を展開する可能性を求めています。ですから、個人としての私たちは私たちの働きが国家有機体の中に有意義に組み込まれ得る場所をそれぞれ見出さなければなりません。私たちが私たちの場所を見出すかどうかを偶然にまかせるわけにはいきません。国家の憲法の目的は各人が適当な活動場所を見つけるのを保証するということです。国家とは国家有機体がその中に生きる形態のことです。人類学と政治学の使命は、どうすれば人々が国の中で個人としての能力を発揮することができるかを見出す、ということです。憲法はその国の最奥の存在から生じなければなりません。最良の憲法とはその国の特徴を明確な形式において表現するものであるはずです。政治的な指導者たちは憲法を国民に強制することはできません。彼らは彼らの国の性格を最も深いところにまで検証し、適切な憲法を通して潜在的な傾向に通じるチャンネルをつけなければなりません。ある国の大部分がそれ自身の性格とは対立する方向へと引っ張られる、ということが起こり得ます。ゲーテによると、そのとき国家の指導者たちはその国によって自らが導かれるように強いられるのであって、大多数の一時的な要求によって導かれるのではありません。そのとき彼らは、国家に対して、国家の最奥の特質を代表すべきなのです(散文の中の韻)。ここで歴史的な探求の方法について一言つけ加えておくべきでしょう。歴史学は、歴史的なできごとの原因は個々人の個人的な意図、計画、等々の中に見出される、ということをいつでも心に留めておかなければなりません。歴史的なできごとをその根底に横たわる計画にしたがって説明するのはいつでも間違いです。一定の個人たちの目標、彼らが取った道筋、等々について、いつも問わなければなりません。歴史学はいつでも人間的な性質、人間的な意志、人間的な傾向に基づいていなければならないのです。私たちは今、ゲーテ自身の言葉によって、倫理的な科学について述べられてきたことを実のあるものにすることができます。理性の世界は偉大かつ不死の個として考えられるべきものであり、止むことなく必要なことがらを行い、そうすることによって、偶然のできごとさえ使いこなす。(散文の中の韻)私たちがこれを理解できるのは、私たちが記述してきたような個々人と歴史的な進展との間の関係という意味においてのみです。彼が次のように言うとき、ゲーテは歴史における個々人の積極的な活動に言及しているのです。いかなる種類のものであれ、絶対的な行為は破産へと導く・・・。私たちは誰も、その能力と技術の限界内で活動する限り、完璧ではありえない・・・。(その国民や時代の指導的な考えへと自らを高める必要性に関しては)我々一人一人が我々の時代に働きかけるために、我々が有するどの器官が使用可能であり、かつ使用すべきかを我々自身に問いかけようではないか・・・。我々は我々自身がどこに立っており、他の人間たちがどこへ行きたがっているのかを知る必要がある・・・。(私たちの義務に関する観点が確認されるのは)「義務」とは、人が自らに行うように命令したものを愛するときのことである。(散文の中の韻)私たちは認識し活動する存在としての個人の独立性を一貫して確立してきました。私たちはいかに私たちのアイデアが世界の根底と一致するかを示し、私たちが行うあらゆることがらは私たち自身の個別性からのみ輝き出すことができるということを認めてきました。私たちは存在の核心を個人的な人間の内部に求めます。誰も別の人間に教条的な真実を明かすことはできず、誰も別の人間に行動を強制することはできません。私たちは個人として、私たち自身に立脚しています。個人としての私たちが何者であるにせよ、他の人たちの力によってではなく、自分自身の力によってそれにならなくてはなりません。私たちは、私たち自身の幸せの源泉を含め、あらゆるものを私たち自身から産み出さなければなりません。私たちは、私たちを導く力、方向性や私たちの存在の内実を決定づけ、私たちに依存を強いる力は問題になり得ないということを見てきました。もし、私が幸せを見出すべきであるならば、それを生じさせることができるのは私だけです。何らかの永遠の力が私の行動規範を前もって処方することはあり得ません。また、そのような力は私の中に満足の感情を目覚めさせる能力を事物に付与することもありません。私はそれを自分で行わなければなりません。私にとって満足や不満足が存在するのは、まず私がそれらの感情を私自身の中に目覚めさせる力を対象物に帰属させていたときだけです。私たちに満足を与えたり、何も与えなかったりするものを外から決定するような創造主がいたとすれば、私たちを鎖に繋いで引き回すことになっていたでしょう。あらゆる楽観主義や悲観主義はこうして反駁されます。楽観主義者は、世界は完全で人に最大限の満足を与える源泉である、と考えます。もし、私がそれを真実と仮定するならば、私はまず達成され、そしてそれによって満足させられるべき必要を「私の中に」発達させていなければならないでしょう。私が世界の対象物から要求するものを、私が引き起こさなければならないでしょう。一方、悲観論者たちは、世界とはいつも私たちを不満足のままにしておくものであり、幸福は不可能であると信じています。もし、自然が私たちに外から幸福を許諾するものであったとしたら、人間とは何と哀れな生き物であったことでしょう。地上の力は、私たちがまず私たちを引き上げ、そして私たちを幸福にする魔法の力をそれに貸与していなかったとしたら、私たちに満足を与えることはないという事実を考えてみるとき、私たちを満足させ損なう存在や厳しい世の中についてのあらゆる不平は終息するに違いありません。幸福とは、私たちが事物から私たち自身で創り出すもの、私たち自身の創造行為から生じるべきものなのです。これだけが自由な存在に値するものです。    (第10章-5了)
参照画:グスタフ・フレイタグ(Gustav Freytag/1816年 - 1895年)




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最終更新日  2024年06月06日 06時10分09秒
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