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私事ですが、コロナになりました。強制的お家時間でも、特にライフスタイルに変化はなく、「あー」だの「うー」だの呻きながら、暮らしています。 変わらないですね。ちょっとしたブームで、家族間での一人称が「あたしゃ」になっていて、「あたしゃ米を炊いてるんでね」とか、「あたしゃ江戸っ子なんでね」とか、 そういう表現がものすごくナチュラルに会話の中に入ってくる。ああ、くだらない。もとは共通の知り合いのおじさんが「あたしゃ」と言っていて、まあそれに乗っかったわけだ。でも、大体家庭のことなんてくだらなくないですか?あたしゃ、そう思いますよ。あたしゃ。前置きはさておき、体調不良のときほど、何故生産的行動をしようと考えてしまうのだろう?調子が悪いときくらい休めばいいのにね。生産性へのこだわりは、心を守る戦略みたいなもので、これだけやってんだからって自分を安心させたいのかもしれない。ちゃちな達成感で何かをコントロールしている感覚に陥っている。まさに生産性の呪いですね。そもそも経済的な合理性において、さまざまな観点からパフォーマンスに欠けた人間(〝正常な人間〟というのもあれだけど、それと比べて)を、切り捨てるような考え方を持つべきではないと思っている。それは危険な考え方だ。自分がいつまでも生産性のある側でいられると思わないほうがいい。ああ、話の論点からずれている。とにかく神さまがくれた休暇だと思って、療養期間をたのしんでいます。具体的には、ドーナツを揚げたり、クッキーを焼いたり、蒸しパン作ったり……ポケモンの新作がやりたかったけれど、そこまでやると人間的に本当にだめになるかもしれない。今でさえ、肌の治安が乱れ、鼻のかみ過ぎで終始ヒリヒリするし、体重増加が著しい。ああ、はやく元気になりたい。健康って大事。これはカエルくんのつくった〝さいきょうのでことら〟です。躊躇なく、クレヨンでがっつり描いてます。窓にクレヨンで描きたいとお願いされて、「車じゃダメかな…?(震え声)」と提案し、仕方なく妥協してもらいました。やさしい息子ですね。ちなみにカエルくんは今月末までお休み。三郎は二十七日から仕事。持て余した息子をどうしようか、今から悩ましい、今日この頃。
2023.01.26
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なんとなくソワソワして、去勢された犬みたいにあれこれと手をつけていたら、あっという間に夜だった。こういう言い方は、いささか大げさ過ぎるかもしれない。午前中、役所やら友人のところへ行った三郎は、今後やるべきことがいろいろと明確になったらしい。心持ちいい具合にできあがってる、という感じ。どことなくエネルギッシュだった(私は雨の日なのでダウン)。「なんかできそうな気がする」「新しいことって楽しいよな」と車を走らせながら、しみじみと呟いている。その度に「よかったね」とか「人生好きなことやるべきだよ」とか親切に答える私は、隣人としてすごく理想的な人物だと思う。自分で言うのもなんだが。コーヒーを奢ってくれるというので、駅近のスタバに行った。野崎孝訳「ライ麦畑でつかまえて」を読んでいた私は、ホールデンくん、君も大変だよな、なんて思いながら、道行く人を眺めていた。ふいに三郎が立ち上がり、エネルギッシュに羽織を脱いだ——腕を抜き、バサッと私に渡す——ダウンの袖がコーヒーにあたり、コートおよびワンピースが愉快なことになった。コーヒーがぽたぽたと滴る。「まじでごめん」「それにしても何であんな勢いよく脱ぐかな……」しかし私、ちょっと笑えてくる。笑っていけない場面ほど笑いたくなる。「すんません」「ほんとさ、クリーニング代くらい出してよね」「ウッス」「帰りに寄ろうね」「ウス」でも、頭の中では別のことを考えていた。私たちは一瞬一瞬を共有しているのに、まるで違うものを見ているんですね。考えていたのはつまり、ニーバーの祈りなんですけど、ニーバーの祈り神よ、変えることのできるものについて、それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。変えることのできないものについては、それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ。ラインホルド・ニーバー(大木英夫 訳)大仰なことを考えていたのではなく、ただ単に思い出していただけ。コーヒーとラインホルド・ニーバーさんがどう繋がっているかはわからないけど、シナプスだかニューロンが反応して、パッと思い出したわけです。そういうことってありますよね?人の頭は宇宙だ。もともとはマサチューセッツ州のちいさな教会で祈りの言葉にされていたこの言葉は、アルコール依存症や薬物依存のプログラムとして採用されるようになってから、広く知られるようになったらしい。私もどこで知ったか忘れたけれど、時折思い出す。まさに今日のように。「白い服だったら死刑だから」と私は言った。三郎は神妙そうに頷いていて、「高いコーヒーになったなぁ」としきりにぼやいていた。良いこともあれば、悪いこともある。雨はずっと降っていた。執拗に、柔らかな簾のように。三郎、がんばれ、と私は祈った。クリーニング代はもらうけど。
2023.01.16
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ああ、きた、と思う。どぶをさらうような感覚――目を閉じると太陽の光が瞼に映し出されて、視界が赤くなる。思考は粥のようにぼんやりとし、とにかく眠い――、この状態をPMSと呼ぶ。少なくとも、私の場合は。コツはある。まず現状を把握することだ。間違っても誰かにやつ当たりしないように——私はやつ当たりを嫌悪している——、じっと穴蔵の熊のようにやり過ごす。といっても、そう大したものじゃない。普段より少しローなくらいだ。薬はいらない。だいたい世の中、みんなちょっとずつおかしいんだから、騒ぐほどのものじゃない。あたたまった車の中でウォーキングをするか悩んでいた。仕事は午後からでも問題ない。(こういうこと一体私は誰に説明しているのだろう?勝手に休んで、仕事してればいいのに。私も小心者だということだ)行きたくないが8割で、それはただ単にめんどくさいから。残り2割は正気をかき集めて考えれば、ここで歩かなければ、残りの一日はもっと悲惨なことになるだろうという予感。頑張るというよりは、もはや精神衛生のため。結局、30分くらいしてから外に出た。歩けば風がつめたくて、清潔な空気が心地いい。大きな湖には冬特有の淡い空がうつっていた。ドブをさらうような気持ちも、まあまあマシになってくる。こんなことを思い出していた。先日、栗の木の剪定をしていたときのことである。カエルくんの主張はこうだった。ママとの留守番は退屈だと。絵本も読んでくれないし、すぐに昼寝したがる。(まったくもってその通り)だから、僕もパパと栗畑に行きたい、と。まぁそれがああなってこうなって、口先だけの約束が果たされて(邪魔しない等)、結局みんなで栗畑に行くことになった。もうお察しだと思いますが、まったく仕事にならなかった。むしろ休憩時間の方が多かったくらい。ちいさい子どもがいるとそうだろうという経過を辿り、私たちは疲労困憊だった。カエルくんもすぐに寝た。私も寝た。独身だったら、栗の選定などせず、さっさとパチンコに行ったであろう三郎と、野外仕事絶対嫌いマンの私が休日に栗の剪定とは。人生とはわからないものである。付き合いにおいて、主導権を握るのは対象に無関心なほうだ。猫は無関心を競うから、人は猫を愛すのだろう。私たちは剪定中にうろちょろするカエルくんに煩わされ、でも、しゃあないよなってスタンスでいた。ちんたらを歩きながら、そういう煩わしいものについて考えていた。それは生きている私の少し先をいくものであり、それが私を生かしている、と。酸素であり、カエルくんであり、PMSでもある。いや、PMSは違うな。そいつがないほうが世界は間違いなく平和だ。昨日どこで覚えてきたのか知らないが、カエルくんが私に訊いてきた。「ママ、順調?」すっ裸で風呂掃除をしている私に、思案するような顔で。私は少し考えて、「おおむね」と答えた。カエルくんは満足した顔で、すぐにどこかへ行ってしまった。でも、もしかしたら、こう答えたほうがよかったのかもしれないと思っている。「いつだって順調よ。でも、それを時々忘れてしまうってだけで」と。
2023.01.12
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爪が伸びてきたので、切った。しゃがみ込んで、ぱちぱちと切った爪が床に置いたティッシュを通り越して、遠くに飛んでいく。昔から、爪を伸ばすことが苦手だった。薄く脆いというか、きれいに伸ばせなかったということもあるし、テーブルに手をついたときに、先に爪が当たることに苦手意識があった。それでも、整えられた爪を見ることが好きだったし、なにも自分のものでなくとも、友人のものとか、雑誌に載っている女優さんのものでも構わなかった。手というのはとても個人的な感じがするから。日常生活とか衛生観念とか、そういうものが無防備に現れている。だから、興味があったのかもしれない。ジェルストーンなどでごてごてな爪はあれだけど(それも個人の自由だとは思うが)、伸びた爪というものは、ある種の攻撃性をはらんでいると気がする。何故かぶりっ子とか女っぽい子が昔から好きで、例えるなら、女特有の湿っぽいところではなく、カラッと乾いた潔い感じの子が好きだった。そしてそういう子は、一定期間群を離れる動物のように孤立することがある。それがこうして、ああなってというふうに、その期間に彼女たちと仲良くなることが多かった。大人になった今はそんな場面には出くわさないけど(大人になって本当によかったことだ)、そういう女の子たちの攻撃性というものは、やはり警戒を誘うのだろう。長い爪と同じで、わけのわからない防衛本能のようなものが、対象を遠のけるように働くのだ。実際、私の防衛本能はポンコツだった。過去付き合った人は、そういう子(A子としましょう)に告白した後、振られ、私に告白し、オーケーをもらった。私はA子ととても仲が良かった。恋人とのあれこれも、何故かまったく気にならなかっし、むしろ別れた後が本番という感じで、本当にA子と親しく付き合っていた。思えば、私はその恋人よりA子の方が好きだったのだろう。とてもシンプルな理屈で。本を読む子で、互いが内包する深い部分で私たちは繋がっている気がした。そういう人間のことは、なかなか忘れないものだ。今となっては、大人のあれこれで連絡を取らなくなってしまったけど(悲しいですね)、きっと今も、これからも会いたい人だと思う。もう戻れない、過ぎてしまったもの。あらゆるものは通りすぎて、私たちは捉えることすらできない。いざ会ったとしても、多くの語るべきことがあるように思えるし、実際には、語る必要があることなんて何ひとつないようにも思えるのだろう。ねえ、と私は呼びかける。爪を切り、遠く飛んだ欠片を集めながら。私、今でも本を読んでるよ。小説みたいなものも書いている。文字にまつわる仕事をして、四歳になる息子もいる。それでもね、根っこ部分というのはあの頃とまったく変わっていないんだよ。教室で交換した藁半紙や、足首に巻かれたアンクレット、窓際の席から、見上げた空の青に溶けそうになったこと、そういうことが今の私をつくっているの、と。爪はティッシュにおさまることなく、やはり遠くに飛んだ。私は立ち上がり、ゆっくりと欠片を拾った。
2023.01.08
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あけましておめでとうございます。年明けにぐうたらするために、駆け抜けた年末という感じでした。もっと早めにやればいいのにね。毎年そう思う。新年の抱負はまあ退屈なので言いませんが、新しいブーツの裏張りのために百貨店の駐車場で、こうしてちまちまと日記を書いているわけです。ろくでもないですね。手元にはサリンジャーの短編集。「彼女の思い出/逆さまの森」という本で、とてもおもしろい。サリンジャーといえば「キャッチャー・イン・ザ・ライ」で有名な作家さんですよね。日本では「ライ麦畑でつかまえて」のタイトルで有名かな。本編の内容を鑑みるに「ライ麦畑でつかまえるひと」というほうが正解だと思うけれど(村上春樹さん翻訳のものには、あとがきにそう書いてあるのです)、いろいろと曰くのある本で、今度は野崎孝さん翻訳のものも読んでみようかと思う。とにかく、おもしろいものはおもしろい。でも、いまは短編集のほうが好きかな。短編集に話を戻すと、「彼女の思い出」というお話で、とても好きなところがある。男の子が女の子に書きかけの戯曲を読んできかせるというところなんだけど、タイトルは「あいつはばかじゃなかった」。クールでハンサムで、普通にスポーツ好きの若者の話で……いってみれば、ほとんどおれのことなんだが……ロンドン警視庁が窮地に陥っているから、それを救うため、オクスフォードから呼びだされるというストーリーだった。前後の文がないからあれだけど、若気の至りと悲哀とユーモアがきいて絶妙にいい感じ。すごいなぁ、どうしてこんな文章書けるんだろう。うんうん、唸りながら、あたたかい車の中でお店が開くのを待っている。仕事はたくさんあるんだな、これが。家に帰ったらすぐに取りかからないといけない量。でも、今は見ないふりをしている。生きているだけ頑張ってるよな、私。そんなスタンスで今年も生きようと思います。あ、抱負言っちゃった。すみません。
2023.01.06
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