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ギャラリーヘイ・オン・ワイさんには、楽しい方がほんとにたくさん来られます。月のブック&グッズフェア『月の兎と月の本』も刺激的な月世界ガーデンの様相を見せてきました。くふふ。昨日ご紹介した「ムーン・キャッチャー」も、一段と輝いておりました(^_^)さて今日も新たなご参加が!ICHIZIKU(イチヂク)さんが、お月見うさぎさんの作品「十五夜」でご登場下さいました。こちら、型押しじゃなくて、なんと手書きなのですよ!のれんに使うようなしっかりした綿布に、染料とアクリル絵の具で描かれたとのこと。白抜き(すすきの部分ね)のきりっとしたライン、対するうさぎちゃん達のぶっくりした愛らしさとお月様のほんわかモード。この洗練された可愛らしさって、なかなかお目にかかれないなあと感じました。そして、何といっても一番の決め手はこのお尻でしょう!!!赤いぽっちりが、たまりません。うっきゃあ~~~♪ICHIZIKUさんは、プロのイラストレイターさん。優しいお人柄と眼差しが、そのまま作品世界に体現されてるようなお兄さんです。猫好きってのも、嬉しいな。作品はこちらで堪能できますよ。大阪の街はこんなに魅力的なのだ!★ヤマグチテツジ イラストレーション★ichiziku.net/*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:**・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:* 期間限定・古本屋さん! 『月の兎と月の本』 9/9(水)~9/19(土) 会期中無休・OPEN/13:00→19:00 10/3は、十五夜です。お月見の前に月の事をいろいろ。 月に関連した書籍を中心に、イラストや月・ウサギグッズ、 和雑貨も併せて展示販売します。 【Gallery HAY-ON-WYE(ギャラリー ヘイ・オン・ワイ)】 〒530-0043 大阪市北区天満2丁目6-3コープ野村天満橋113 http://g-how.net/ *・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:**・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*
2009年09月11日
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9/10月のブック&グッズフェア『月の兎と月の本』の二日目です。 本日は、タロットリーダーのMIKA(みか)さんが参加して下さいました! MIKAさんは、ヒーラーのhitukiさんと一緒に「新月・満月ワークショップ」を 毎月開催してらっしいまして、お月様とは深~い縁を結んでらっしゃいます。 ★詳しいことはこちらで: 「Moon Color/新月・満月ワークショップ」 http://mooncolor.seesaa.net/category/6472693-1.htmlさて、MIKAさんが今回お持ち下さったのは、「ムーン・キャッチャー」なる、 とってもすてきなオリジナルのエネルギーアイテムです。 水晶のブレスレットも(こちらもオリジナル)合わせてお持ち頂きました。 このムーン・キャッチャー、窓辺に吊り下げておくと、月が持つ浄化の エネルギーを受け止めてくれて、お部屋も持ち主にも、優しくそのパワーを 注いでくれる逸品なのです。 見た瞬間、その煌きとデザインの美しさ、存在の清々しさに、もう一目惚れでした。 はっきり言って、めっちゃほしい!!! 材質は水晶やローズクォーツなどの天然石です。 レースを組み合わせていて、フォルダー型になっているところもいい感じ。 ここに手持ちの天然石のアクセサリー(ブレスレットなど)を掛けて、 月の光にあてておくと、そのアクセサリーを浄化してくれるという、 至れり尽くせりの優れモノなのですよ(^_^) ギャラリーの窓辺に掛かったムーン・キャッチャー、しばし見とれてしまいました。 昼間もきれいですが、なんと言っても、夜の存在感は格別です。 蛍光灯の明かりでも清らかなキラキラにうっとりですし、 ライトを消した月明かりの中では、さらにさらに、秘めやかな輝きが 辺り一面にも、見る人にも、沁みわたってきますよ。 このパワー、私の印象では女子力アップに絶対繋がってる♪ ★昼の窓辺のムーン・キャッチャー ギャラリーの外から撮りました。 ★夜の窓辺のムーン・キャッチャー1 このきらきら感にしびれます。 ★夜の窓辺のムーン・キャッチャー2 外の景色が写り込んじゃって、わかりにくいかな。 写真では、繊細さや華麗さ、可憐さ、深さがいまいち伝わらないなあ。 ギャラリーで是非、実物を見て、感じてほしいです。 お越し頂いて、気に入ったものがあれば即ゲットできますし、 なんと、オーダーメイドも可能なんです! 好きな天然石を組み込んだ、世界にたった一つのムーン・キャッチャー! あああ、なんつー魅力的な響き。 自分のためだけに作られたものって、フィット感が違いますよね。 *・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:**・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:* 期間限定・古本屋さん! 『月の兎と月の本』 9/9(水)~9/19(土) 会期中無休・OPEN/13:00→19:00 10/3は、十五夜です。お月見の前に月の事をいろいろ。 月に関連した書籍を中心に、イラストや月・ウサギグッズ、 和雑貨も併せて展示販売します。 【Gallery HAY-ON-WYE(ギャラリー ヘイ・オン・ワイ)】 〒530-0043 大阪市北区天満2丁目6-3コープ野村天満橋113 http://g-how.net/ *・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:**・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*
2009年09月10日
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月を追いかけ、月に惹かれて、月のフェアに参加中です。*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:**・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*期間限定・古本屋さん! 『月の兎と月の本』 9/9(水)~9/19(土) 会期中無休・OPEN/13:00→19:00 10/3は、十五夜です。お月見の前に月の事をいろいろ。 月に関連した書籍を中心に、イラストや月・ウサギグッズ、 和雑貨も併せて展示販売します。 【Gallery HAY-ON-WYE(ギャラリー ヘイ・オン・ワイ)】 〒530-0043 大阪市北区天満2丁目6-3コープ野村天満橋113 http://g-how.net/ *・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:**・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*・゜゚・*:.:*古書だけでなく、足穂の『一千一秒物語』をモチーフにしたアクリル画や、ハガキ、うさぎグッズなどもいっぱい集まって、不思議な月の世界が広がってます。世の中には月に関する本がことのほか多いもので、今回用意できたのは50冊ぐらい。ざっと関連本をピックアップできたのは100冊ぐらいで、これは表紙の写真付きでリスト化。20ページ以上になってしまいました(笑)。ギャラリーにお越しの際は、こちらも楽しんでほしいです。★月の本、50冊集合!★アポロなピータン!★ありさだあきよ氏×タルホ! ポケットから自分を落っことしたお月様♪★お菓子じゃなくて、マグネット(ほんとに)!
2009年09月09日
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昨日のうって変わって、少々に夏に逆戻りした感がある大阪。新月は過ぎ、晴れたけど、まだお月様の姿は見えないなあ。では月棚の第五夜です。---------------------------------------------------------------------我々は、月の女神を降臨させようとしてストーン・サークルを造ることはもはやないが、しかし今もその影響力を思い、月に我々の神秘を捜し求めている。- ダイアナ・ブルートン個人的には、おまじないや魔法は決して絵空事ではないと考えている。近代以前のその時代だけではなく、今現在もなお、その力は効を奏するものなのだ。それは、自身の欲望を外部化し実現するための、一つの知恵であり、有効な方法なのである。同じように人間は神や仏作り出し、神や仏の望む形として国家や国家のマスタープランを作ってきた、と考えている。規模と緻密さが違うだけだ。本書は「月の神秘」「月を越えて」「月の科学」という三部構成で、月に関する神話、文学、民俗、SF、巨石文化に関する考古学、月の探査など、多岐に亘って紹介している。いわば「月の雑学」っぽい本だ。なので、著者(人類学・宗教学を専攻されているらしい)の意見や論があまり強く押し出されていない。平たく言えば、文化史的に深い考察がなされているとは言い難いし、月に関する事例も網羅し尽しているとも言えないのだが、それはそれでいいように思う。上記の通り、神話から科学まで広範囲にフォローされているので、大まかに月とヒトの関わりを追うにはもってこいだ。好きなところからピックアップして読めるし、もっと深く知りたくなれば、別の本にあたればよい。鏡リュウジ氏の文体は翻訳っぽくなくて読みやすいし、原著の間違いも丁寧に修正がなされていたりして、好感度高し。図版もかなりのボリュームがあって楽しめる。お名前にダイアナという月の名前が冠されているからか、月の女神の部分はなかなか面白い。イシスから始まり、セレネ、ディアナ、アルテミスからマリアまで、一通りは押さえてある。さらにそこから、魔女、魔術といったフォークロアへと繋がっていく。紹介されているおまじないや魔法は、人間が月の力をあらゆる方面に使おうとしている様が浮かび上がってくる。月、または月神が持つ、死、水、再生、豊穣、出産、変化といった象徴が、人々の生活の中で月に何を託していたか、月がどれほど多様なイコンとして影響をもたらしていたかが伺える。また、「月の言葉」も興味深い。ほとんど英語の言い回しだけになるが、「月」が関わる慣用句は以外とたくさんある。例えば、こんな風に。 月の輝き:Moonshine:密造者(Moonshiner)によって作られた違法の酒。密造酒。 月光の飛行:Moonlight flit:夜逃げ 月の手下:minions of the Moon:→夜盗 ディアーナの崇拝者:Diana's Worshipers:真夜中に騒ぐ者 月を越えて:Over the Moon:何かに大喜びしていることここからも月をどんな風に認識していたか、イメージが汲み取れる。さて最後にせっかくだから、月の魔法を一つ。「金運を招く月の魔法」 月が満ちていく期間に、皿(できれば銀の皿)に水を満たし、 その中に月が映るようにする。 手を水に浸し、それが自然に乾くようにする。 そして金が自分の方にやってくるよう想像する。 月がまた同じ形に戻る前に、お金は意外なところからやってくる。うまくいったら、是非お知らせ下さい。●『月世界大全』 ダイアナ・ブルートン/訳:鏡リュウジ 青土社 1996
2008年10月01日
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9/28は、かぼすさんのところでほっこり。9/29は、hitukiさんのところで、新月ワーク。お久しぶりの方々、初めましての方々、たくさんの人に出会えて、満腹な日々です。あまりのふくふく感のせいか、今日はちょっと熱出しちゃった(知恵熱だな)。色んな罠(自分の選択なのだが)に、まだまだ軽~くひっかかってしまうことに、しかもその場では全然気付いてなかったことに、今更気付いたりもした微熱トランスな一日でした。しかーし、もうちょっと違うトランスで行くぞう。忘我で没我で、耽溺なのだ。というわけで、無事に復帰したので、月棚4夜目です。----------------------------------------------------------------欠けては満ち、死してはまたよみがえる月の姿こそ、原初の人類の不死へのあこがれと固く結びついたのであった- 石田英一郎本書のタイトルは『桃太郎の母』。一体、月と何か関係あるのか?と疑問に思われる方も多かろう。本書には『月と不死』という論文も併録されているので、月棚としてはそちらがメインといえばメインなのだが、これが「桃太郎の母」へと繋がっていく。ここが本書の醍醐味ともいえる。もちろん、「母」という女性性が出てきているので、そこに月とのリンクがあっても不思議ではない。しかし、その女性性の深いこと深いこと。『月と不死』は、ロシアの民俗学者ニコライ・ネフスキーに捧げられている。ネフスキーには同じく『月と不死』という論文があるのだが、若かりし頃に交流のあったネフスキーに対するリスペクトになっている。ネフスキーの『月と不死』では、月読命と不死、富士がテーマとなっている。石田英一郎の『月と不死』では、『万葉集』に見える変若水(おちみず)の解釈から始まり、月の斑点をどう見るか、日本を含めて各国の俗信から月が抱くモチーフを浮かび上がらせていく。冒頭に挙げた一文の通り、月の満ち欠けは、生と死、再生、よみがえり、そして不死と結びつく。また、月は水とも深い関係を持っている。その源ははっきりしていないようなのだが、世界各地の伝承に、水汲みをキーにした月と人の物語が数多く残っている。水汲みをしていた男が、楽ちんそうに見える月に向かって不平を言って、その瞬間に月にさらわれてしまい、天秤棒に桶をつけたままの姿で月に居るとか。同じように水汲み中の娘が愚痴をこぼしたら、月にさらわれたとか。これが月の斑点が何に見えるかというところに繋がっていくわけだ。日本では、月と水の関係は変若水に見て取れる。これは、中国の嫦娥(じょうが)伝説が背景にあるという。嫦娥は夫から盗んだ不死の薬を持って月へ逃げ、それから月には不死の薬があるという伝説から、月の水=不死の水→変若水という流れができたようだ。薬→水という変換がいまいち理解できないのだが、まあとにかく、水も月と大いに関係があるということだ。個人的には、潮の干満との繋がりで水がリンクしてきたのかもしれないなとも思う。ミルチャ・エリアーデの著作に「月と月の神秘学」「水と水のシンボリズム」というのがあって、ここにヒントがありそうなのだが、未読である。もう一つ、重要なモチーフが蛇である。蛇の脱皮と月の満ち欠けは「再生」繋がりなのだ。世界各地の俗信の中に、月から人間が不死の力をもらうはずが、騙されたり、錯誤があったりして、人間はそれを得ることができず、蛇がその力を持つ、というパターンが数多くあるようだ。不死はムリだから、せめて若返りする力をあげようということで、いわゆる若水を代わりに貰う、というパターンもあるらしい。そこで、表題の「桃太郎の母」。ここでは、桃太郎や一寸法師、瓜子姫といった昔話の中に潜む、大地母神信仰にスポットを当てている。桃太郎や一寸法師など柳田国男の言う「小サ子」は、古くはスクナヒコナという神様を原型に持つ。さらにその「小サ子」には、水や蛇というモチーフが共通しているという。では、その「小サ子」の母とは一体何か?そういうところに思考が及ぶ著者にびっくりだ。普通、あんまり考えないだろう。昔話では、主人公の父や母の情報は多く提供されない。おじいさん、おばあさんとして、主人公の育ての親として現われるだけだ。スクナヒコナは国造りの後、常世の国へ帰る。常世の国にその母がいるはずだ。けれどもそれは語られない。石田英一郎は「小サ子」の背後にそっと顔を覗かせる「母」を追いかけていく。その母には、処女懐胎、人柱、わだつみの女人国、母子相姦などの神話や伝承がもれなくついてくる。女性性がこうもばっちり登場すると、月は無関係ではいられない。こういうリンクのされ方って、まさに人の頭の中にある言葉のネットワークそのままだ。直線的でもあるのだけれど、複層的で、相互関連性が強く、一つ引き出せば、次々と別のものが姿を現す。月にはやっぱり秘密が多い。●『桃太郎の母』 石田英一郎 講談社学術文庫 2007●『月と不死』 ニコライ・ネフスキー 東洋文庫 平凡社 1977●『月と不死 OD版』 ニコライ・ネフスキー ワイド版東洋文庫 2003●『エリアーデ著作集 第2巻』 ミルチャ・エリアーデ せりか書房 1974変若水についての概略はWIKIをどうぞ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%89%E8%8B%A5%E6%B0%B4
2008年09月30日
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昨日、押井守のアニメ『イノセンス』のことを出したら、他のSF系アニメも気になってきましたので、月棚・番外編としてアニメを取り上げますね。土曜日だし(あんまり意味ないか)。---------------------------------------------------------------------すべてを疑い尽くした後にこそ、なにかを本当に信じることができる。- スパイク・スピーゲル-俺達は、誰かに従うために生まれてきたわけじゃない。- ジェット・ブラック『カウボーイビバップ』は、1998年製作のハードボイルドSFアクションアニメ。太陽系を駆け巡る賞金稼ぎ達(スパイク、ジェット、フェイ、エド、犬のアイン)の物語である。月世界とは直接は関係ないけど、月の位相差空間ゲート(どこでもドアみたいなもん)の爆発事故が物語の舞台設定の一つなってるので(そのため地球には月の破片が隕石になって降り注ぎ、地上に住めなくなっているという設定)、紹介しようかなと。な~んてゴタクはどうでもよくって、実際は、ごくごくシンプルに、このアニメがめっちゃ好きってことなのだ。2008/9/1からケーブルTVのアニマックスで再放送してて、全26話が毎日さっくさく見れるという、嬉しい状態である。初回放送当時も見てたのだけど、しっかり毎回逃さずというわけではなく、どっちかというと、偶然チャンネルが合ったら見ていたって方が当っている。しかし、それでもインパクトは大きかった。とにかく、オープニングの音楽と絵が、これ以上はないってほどクールでカッコイイ。ハードボイルドな物語・舞台装置のモードにばっちりなジャズに、赤・青・黄のアメコミ風の原色使いでスタイリッシュな画像。渋くてスピード感のある絶妙な仕上がりで、何回見てもゾクゾクしてくる。どう表現すればいいのかわかんないのだけど、「ルパン三世」をもっと洗練させて「古畑任三郎」をもっとアクション度アップさせた感じ、だろうか。いやいや、こんなんではどのファンの方からもお叱りを受けそうである(笑)。でも、ストーリーやら色々、ルパンと比較されることが多いようなので、お許しを。作曲はあの菅野よう子氏。『攻殻機動隊』のTV版の音楽担当してる人ね。特別にジャズ好きではないのだが、このオープニング曲「Tank!」は一回聴くと離れない。聴くと血が騒ぐ。オープニングだけでなく、各話の音楽もクオリティは非常に高いと思う。ジャズを基調にしながら、テクノやハードロック、フレンチポップス、ブルース、ヒップホップなど、バリエーションたっぷりなのである。無論、ストーリーも毎回毎回、唸らせてくれる。ほとんどが一話完結で、一昔前のアメリカン・ニューシネマっぽいのだけど、シリアスあり、コミカルあり、パロディあり、うるっと来るものありと、様々なテイストが散りばめられている。各話ともスタイリッシュな画面構成と意表をつくプロット、そして洒脱なセリフが満載なのだ。30分足らずの中で毎回これだけの内容を凝縮できたものだと思う。eiga.comによると、ハリウッドで実写版作製が決定したそうである。しかも、キアヌ・リーブス主演というウワサがあり、怖いくらい私の趣味であるが、うーん、キアヌさんがスパイクだと固すぎ・深刻すぎじゃないか、という気もする。でもまあ、オリジナルのストーリーになるのか、音楽はどうなるんだろうとか、他のキャストは一体誰に?などなど、楽しみは尽きないのも正直なところだ。●DVD COWBOY BEBOP (カウボーイビバップ) DVD-BOX 初回限定生産 残念ながらDVDは在庫切れ。再販を大いに希望!●劇場版カウボーイビバップ 天国の扉(DVD)●劇場版カウボーイビバップ 天国の扉(BD)●COWBOY BEBOP CD-BOX Original Sound Track Limited Edition こちらはサウンドトラックCD。あわせてこちらも。●イノセンス スタンダード版●GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊2.0 押井守監督の代表作『GHOST IN THE SHELL/攻殻機動隊』が、監督自身の手によって全編リニューアル! 200/12/19発売!●GHOST IN THE SHELL 攻殻機動隊 こっちは一番最初のもの。●攻殻機動隊S.A.C. TRILOGY-BOX(初回生産限定)(BD) 近未来ポリスアクション『攻殻機動隊S.A.C.』のOVA3部作がBD-BOXでリリース!「The Laughing Man」「Individual Eleven」「Solid State Society」の3作を収録。●攻殻機動隊 S.A.C. STAND ALONE COMPLEX DVD-BOX●攻殻機動隊 S.A.C. 2nd GIG DVD-BOX
2008年09月27日
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今日は、天満橋にあるギャラリー「ヘイ・オン・ワイ」で開催された「平穏亭 落語会」に行ってきました。桂一門の若手噺家さんの桂あさ吉さんと、桂ぽんぽ娘(ぽんぽこ)さんのお二人が2時間に亘って、創作落語を披露して下さいました。恥ずかしながら、落語のライブは初めて。講談は見たことあるんだけどね。しかも一つ目はなんと英語落語。これも初体験。ろくに英語は分からないはずなのに、でも分かって、笑えてる自分が不思議。場に合わせたマクラの軽妙さ、間合いの妙、その後にやってくるオチの快感。あんなに笑ったのは久しぶりっていうほど、爆笑に次ぐ、爆笑でした。落語っていいなあとしみじみした時間でした。で、桂あさ吉さんは不思議なオーラがある方でした。英語落語はNYでも講演なさったとのこと。マクラでは色んな笑えるNYエピソードを展開下さいました。桂ぽんぽ娘さんは、ちょっと天然系で、純粋さがにじみ出てる楽しい方。兄弟子さんやお師匠さん、周りの方みんなにすごく可愛がられているんだろうなあって、想像できる人でした。というわけで、「月棚」三夜目に突入です(いきなり)。-----------------------------------------------------------------------しかし、まさにここに問題が生じるのだ!この瞬間をもって、月世界旅行の作者たちが一途に「それらしさ」を追求するようになり、彼らの惑星間旅行をそれらしく見せるための努力を傾けることになるのである。彼らは科学的原理の適用という点を誇るようになり、テクノロジーの荷物を詰め込む分、彼らと、そしてわれわれの想像力を切り捨てることになった。- マージョリー・H・ニコルソン月知系のエンサイロペディアとして、マージョリー・ニコルソンは外せないだろう。この『月世界への旅』は国書刊行会の『世界幻想文学大系』全45巻シリーズのひとつ(第44巻)。荒俣宏氏の責任編集で、このシリーズのおかげで日本に「幻想文学」というジャンルが定着したとも言われている、名品中の名品だ。この『月世界への旅』では、前回紹介したヨハネス・ケプラーの『ケプラー夢』をはじめ、フランシス・ゴドウィンの『月の男』、ジュール・ヴェルヌ『月世界旅行』、シラノ・ド・ベルジュラックの『日月両世界旅行記』など、数多くの月世界旅行譚が紹介されている。それぞれあらすじや背景などを説明しながら、飛ぶこと、空へ向かうこと、さらに月へ向かうことを求めてきた人間の観念の有り様を丹念に開示しているのだ。ニコルソンは、宇宙旅行は「想像の旅」であり同時に「驚異の旅」であったが、その二つは別のものでもある、という視点を提示している。そのため、月世界旅行譚だけを扱っておらず、スウィフトの『ガリバー旅行記』、トーマス・モアの『ユートピア』、果てはルイス・キャロル『不思議の国のアリス』までも登場する。また、「飛ぶこと」「飛ぶ方法」の模索にも重点が置かれている点も興味が尽きない。「ロケット」が登場するまで、鳥、飛行船、凧、花火など、それこそ宙を舞うものならなんでも!な様子がつぶさに見て取れる。ちなみに、ケプラーが月に行く方法として「精霊」を持ち出したのは、月と地球の間には空気はないという自論があったため、「鳥」は使えなかったから、らしい。さて、冒頭に挙げた一文は、エドガー・アラン・ポーの『ハンス・プファールの無類の冒険』という月世界旅行譚を評して書かれたものだ。ポーがこの作品について「科学的な諸原理を適用して、それらしさを生み出そうと腐心した」と述べたことに対する、痛烈とも言える批評である。想像と驚異。人間の中にそれを呼び起こすのは、正しさや理論とはちょっと違うものなのだ。ふと、最近のアニメの中で、やたらとアニメーション自体のテクニカルだけを追求しているように感じるいくつかの作品を思い出す。凝りに凝ったCGとか、窓ガラスの映りこみの細やかさとか。そこに世界観や物語があるのなら、全く問題ないのだけれど。そういう意味で押井守の『イノセンス』はとっても好きな作品だったりする。あれはSFの形を借りた、観念アニメだと思っている。***マージョリー・H・ニコルソンアメリカの英文学者、教育者。1894年、ニューヨーク州ヨンカーズに生まれる。ミシガン大学卒業(B.A.,1914;M.A.,1918)後、1920年に女性として初めてイェール大学でPh.D.を取得。ミネソタ大学、ジョンズ・ホプキンズ大学、ガウチャー・カレッジで教鞭をとった後、1929年から41年までスミス・カレッジで学部長。次いで1941年にコロンビア大学教授に就任し、1962年に退職するまでの最後の8年間は英文学科主任をつとめた。晩年にはプリンストン高等研究所研究員となる。この間、ジョンズ・ホプキンズ大学で師事したA.O.ラヴジョイの影響のもと、ヒストリー・オヴ・アイディアズ(観念史)学派の中心的存在として、17-18世紀の新科学が文学的想像力に及ぼした影響をテーマに多くの業績を残した。1981年没。(みすず書房サイトより)***観念史(History of Ideas)って何かというと、めちゃくちゃ平たく言ってしまえば、考え方とかものの見方、人間が生み出したイメージと概念の歴史、それを従来の観点とは別の線引きで捉えなおそうとするもの、というところだろうか。翻訳の高山宏氏が本書の末尾に掲載している『コネクションズの魅力-マージョリー・ニコルソンの観念史』に、その辺りの方法論が端的に述べられていて、非常にいい手引きになっている。これだけでも一読に値すると思う。●『月世界への旅』(世界幻想文学大系 44巻) マージョリー・H・ニコルソン 国書刊行会 1986関連本●『月の男』(ユートピア旅行記叢書 第2巻) フランシス・ゴドウィン 岩波書店●『月世界旅行』 ジュール・ヴェルヌ 創元SF文庫 2005●『日月両世界旅行記』 シラノ ド・ベルジュラック 岩波文庫 2005
2008年09月26日
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-われわれ地球の住人が「地球」と呼んでいるところのものを、月の上にいる人々の立場から「ヴォルヴァ」と呼ぶことにした。・・・彼らには、天空にあるこの球体は、それ自身の不動な軸を中心としてたえず回転しているように見える。- ヨハネス・ケプラー月知系の古参といえば、ヨハネス・ケプラーだろうか。彼の『ケプラーの夢』を挙げておきたい。ケプラーといえば、いわゆる「ケプラーの3つの法則」を発見した16世紀の人だ。ケプラーの法則とは、第1法則:惑星は太陽をひとつの焦点とする楕円軌道を描いて公転している。 第2法則:惑星と太陽を結ぶ直線は一定時間に一定の面積を描く。第3法則:惑星と太陽の平均距離の3乗は惑星の公転周期2乗に比例する(太陽から遠い惑星ほど一周するのに時間がかかる)。というもの。かのニュートンは、これがなかったら万有引力の発見には至らなかったと公言してたとか。そんな大科学者ケプラーが記した『ケプラーの夢』は、小説である。自身の月についての考察を、フィクションとして提示したのだ。この時代、あんまりエライこと言うと、大変なことになってしまうからなのだろうか。実際、ケプラーの母は魔女の嫌疑を掛けられ、裁判を受けたという。物語は、ある島で科学者ティコ・ブラーエから天文知識を学んだ主人公が、その母と母が呼び出した精霊の力を借りて、月世界旅行へ向かうというもの。空想科学小説の先駆けってところだろう。本文は非常に短いが、解説がその4倍ほどの量になっている。さすが科学者。小説としてのクオリティは置いといて(笑)、月から見た地球という視点が私にとってはとても魅力である。月(レヴァニア)から地球(ヴォルヴァ)がどんな風に見えるかを淡々と書き綴っている様は、標本ケースを喜色満面で眺めている風情を感じる。ちなみにレヴァニアはヘブライ語で月を意味するレバナ(レヴァナ)から、ヴォルヴァはラテン語のvolvereからで「回転する」の意味とのこと。くるくる回り続ける月から見た地球を夢想しながら、月と地球の二つの動きを同時に見るという、その行ったり来たりの交錯する感覚がなんとも愛おしいのだ。だから、なんで月の住人がヘブライ語やラテン語やねん!というつっこみは勘弁してあげてね。●ヨハネス・ケプラー『ケプラーの夢』(講談社学術文庫) 1985もう一つ、日本語で読めるケプラーの著作。●ヨハネス・ケプラー 『宇宙の神秘』 工作舎 1982関連本はこちら。●吉田武 『ケプラー・天空の旋律(メロディ)―60小節の力学素描』 共立出版 1999ケプラー・天空の旋律(メロディ)●ジョシュア ギルダー 『ケプラー疑惑―ティコ・ブラーエの死の謎と 盗まれた観測記録 』 地人書館 2006ケプラー疑惑●アーサー・ケストラー 『ヨハネス・ケプラー>―近代宇宙観の夜明け』 (ちくま学芸文庫) 2008ヨハネス・ケプラー
2008年09月25日
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真っ当に本の紹介を書いたのはほんとに久しぶりだ。実は8月末に仕事辞めちゃって、今は休養期間。いつ復帰するのか未定だけど、ちょっとずつリハビリ中である。というわけで、本の紹介。いまさらという感もある『ルナティックス』なのだが、まあ、リハビリだからこのぐらいがちょうどいい。もともとお月様好き・月球派な私である。最初の一歩はルナティックに(笑)。しばらく、月関連を「月棚」として続けていく予定なり。では、「月棚」の開始です。--------------------------------------------------------------------------ルナティックであろうとすることは、世の中からの誤解を恐れずに、月光りんりん、断乎として非生産的な夜陰の思索に耽けるということなのである。- 松岡正剛月にはたくさんヒミツがある。そして、自分で光らずに、太陽の反射だけで輝くっていう、なんともいえない奥ゆかしさが、いい。朧で冷徹、薄明かりでトリッキー。ヒトは昔から何かを月に見立て、月に物語を感じてきた。書物というメディアを通して月のプロフィールを、しばらく語っていきたいと思う。月のことで一番気になるのが、その見た目の大きさだ。同じ満月でも三日月でも、「今日の月はでっかいよなあ」と思うことってよくある。しかし。実際の月の大きさは変わるわけもなく、なんで大きく見えるのか、現代科学においてもそれは未解決らしい。ちなみに、これをムーン・イリュージョンという。ヒトが直立歩行した原因に、月が関係しているという学者もいる。60年代に大陸書房からの出版で、超能力や六次元で名を馳せた津島秀彦氏だ。どういう説かというと。今でも月は地球から年に約3センチずつ遠ざかっている。つまり、大昔はもっと月は大きく見えたのだ。月が地球を回るスピードもめちゃくちゃ速かった。で、原始のヒト、というかヒトザルは、月が急に遠ざかっていることにびっくりして、思わずあっと立ち上がってしまった...というのが津島氏の仮説である。木から下りて両手を自由にして直立歩行した、なんていうアカデミックな説より、ぐっときてしまうのは私だけだろうか。こんな話が続々と登場するのが、松岡正剛の『ルナティックス-月を遊学する』という本だ。こんな話だけではない。月読命からイシスやアピス、稲垣足穂にエリアーデ、宮沢賢治、夢野久作、蕪村、マンディアルグ、カルヴィーノ、まりの・るうにい、芳年にデルヴォーその他諸々、神話、文学、美術、科学など変幻自在に世界の「月究派」を渉猟している。数多い図版と月の神々を一同に集めた「月神譜」もすばらしい。月の文化、月の知を極めたこの1冊、読んだ後に見る月は、いつもと違う色艶をまとうはず。●『ルナティックス-月を遊学する』 松岡正剛 作品社 1993ルナティックス●『ルナティックス-月を遊学する』 松岡正剛 中公文庫 2005ルナティックス作品社版の単行本の方が図版が多くて、よりゴージャス。文庫版にはあとがきが追加されており、個人的にはルナティックな一派の台頭を願う一文に拍手。冒頭に挙げたのがその一部だ。
2008年09月24日
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気がついたらもう3月!!この半年、ものすごい勢いで過ぎ去っておりました。あわわわ。引越ししたり、仕事がてんやわんやだったり、その他諸々、もうどーなっちゃってるの?という状況が続き、今日に至っている次第。そんな最中、『春の編集術ワークショップ IN大阪◎IN福岡 ~アタマのなかを覗き込む興奮の3時間!』なる集いをお手伝いすることになりました。詳しくはこちらへ。⇒http://www.isis.ne.jp/isis/2008/03/post_72.html#moreアタマの神経細胞もグリア細胞も、ぐりんぐりん動き出すこと間違いなしの、スペシャルワークショップなり。ご興味ある方は、是非是非!
2008年03月09日
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3ヶ月前、これを原作にした映画『パヒューム』を見逃した。中身はどうあれ、観たい作品である。小説が発表されて20年、ジュースキントには、絶えず映画化の話があったらしいが、絶えず断り続けてきたらしい。ここに来てなにゆえ?監督のトム・ティクヴァは『ラン・ローラ・ラン』を撮った人。確かにこの映画は面白かった。画期的なアイデアがいっぱいだったし。うーむ、気になるなあ。原作について言えば、これはアンチキリストがテーマだろう。キリストがいてこそのアンチキリストであり、その逆もいえる。アンチキリストの存在あってこそ、キリストの正当性が立派に謳えるわけだ。だからこそ、主人公グルヌイユも、自身を「神」として、君臨させることができた。彼の特異な才能によって生まれた香水には、その力がある。善も悪も常識も孤独もどうでもいい人間が神になって、それでどうなるか。愛すらも作り出せる力を持ち、その気になれば人類の王として存在することもできるのだが、最後の最後に、小説は、自己をめぐる究極へとなだれ込んでいく。誰とも世界を共有していない人間の、愛と悪意が交差する結末。一体誰が一番のアンチキリストなのかも、考えさせれる。二元論でありがちな「正義が勝つ」、または「和解」とか「救い」という落としどころにもっていかないのが、この小説のイイところだ。人によってはあれが「救い」だと思うかもしれないけれど。生きるために生きる(生き物を殺して食べて自分が生きる)とか、何かの価値を信じて生きる(なんらかの信念に従って生きる)とか、人間の本来性として説かれてきたことは色々あるだろう。いわばこれは、欲望によって生きる、と言い換えてもいい。『香水』は、自己愛的な極北としての欲望の物語なのだ。プロセスにおいては、なんら疑問や矛盾を感じずに欲望をまっとうしてきたグルヌイユ。神とは、欲望の先端なのだ。ここで示されたおぞましい欲望の姿は、そのまま人間の歴史であろうし、自分自身の姿ともいえる。ひとつの側面、ぐらいの言い方が妥当ではあるだろう。もう一点、この小説の面白さは、舞台となっている18世紀のフランスの描写だ。ロココの宮廷文化が華咲く世界や、科学・啓蒙の世界が、ちらりちらり見え隠れして、グルヌイユが闊歩する香りの道程が、大変ににぎやかに艶やかに迫ってくるのだ。映画のDVDは9月発売らしい。欲望の先端に私も立っている。
2007年07月01日
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ほんとに久しぶりの日記です。リターンです。この3ヶ月は、すごい時間だった。なんか今は、ぼーっとしちゃってる。おかしいなあ、終わったらこんな本読もうとか、なんでもいいから映画観ようとか、いろいろ思ってたのに。ひたすら白紙な状態。ま、いいか。こういう時は掃除に限る。部屋は史上最大にエントロピーがマックスだし。でも明日ね。今日はもう、ゆっくりお風呂に入って寝ることにする。
2007年06月20日
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気がつけば、最早、豆まきの季節である。1月は、いろいろ忙しかったこともあるが、近年稀に見るハードな風邪を引いてしまったことが何より大きかった。今月は元気に楽しく過ごす予定なり(^_^;)そんな中、先日、松岡正剛の『17歳のための世界と日本の見方』を読了した。読みながら、去年問題になった高校の「履修不足事件」が頭をよぎっていた。今の高校の学習指導要領では、世界史は必修、その上で日本史か地理のどちらかを選択履修することになっている。「世界史+日本史」か「世界史+地理」のどちらかの組み合わせで勉強するわけだ。一方、大学受験では、地理と歴史の科目を2つ同時に受験することができない。例えば「世界史」と「日本史」の2科目を勉強しても、受験できるのはどちらか1科目だけである。学習範囲・量とも多い世界史でなく、比較的範囲の絞られた日本史や地理を選ぶ高校生が多いのは当然だろう。学校側もそれを黙認して、必修のはずだった「世界史」の授業をパスしてしまったことが履修不足問題を生んだ。史学科出身の私にとっては、なんとも悲しいニュースだった。一方で、高校で習う歴史が、学問としてどの程度意義を果たしているかも疑問ではある。大学に入ってからは、これまで勉強してきた歴史って一体何だったの?とげんなりすることもしばしばだった。それでも、歴史の授業は必要だと言いたい。年表の羅列でも、出来事の列挙でも、ともかくまずは今現在へと連なる流れの大枠は知っておいて損はない。「げんなり」とは、新発見した時の驚きと喜びとのうらはらでもある。『17歳のための世界と日本の見方』を読むと、歴史ってそういうことか、という妙な納得感と爽快感がやってくる。現在のこの状況を作ってきたものが何か、その底流や裏側や基調が浮かんでくるのだ。人間の意識とか文化とかが、何と関係を持ってきたか、世界と日本の相互作用はどんなものだったのか、そういうことが書かれている。以下、目次を少々お披露目するので、その一端を感じて頂きたい。第1講 人間と文化の大事な関係 「関係」は変化しやすい、「編集」とは何か 、ノックの文化・匂いの文化、 ヒアとザアの世界、母型の違いと文化の違い ほか第2講 物語のしくみ・宗教のしくみ 物語と言語、語り部の記憶、スターウォーズ大成功の秘密、ユダヤ教の光と闇、 一信教と多信教、 ほか第3講 キリスト教の神の謎 生と死の問題、イエス・キリストとは何か、死海文書は誰が作ったか、 悪もキリスト教の産物、魔女というコントロール ほか第4講 日本について考えてみよう 日本らしさとは何か―「コード」と「モード」、日本の神話に戻ってみる 、 カミとホトケの戦い、女人結界と悪人正機説、禅の感覚と引き算の魅力、ほか第5講 ヨーロッパと日本をつなげる 「異教の知」―ルネサンスの幕開け、神秘のヘルメス思想、ゆがみとねじれの宇宙、 ルネサンスの利休、文化とはたらこスパゲティ ほかいかがだろうか。こういう素材や視点をもって、歴史を教えている高校の先生はどのぐらいいるのだろう。いたとしても、指導要領の枠内で、大学受験のせめぎ合いの狭間で、どんなことを語っていけるのだろう。いや、先生に期待してはいけない。自分で読めばそれで済む。その先、何を知りたくなるかを楽しみにすればいい。17歳の人も、ずっと昔に17歳だった人も、これから17歳になる人も、一読をお勧めする。同じ著者の『日本という方法』『情報の歴史を読む』を合わせて読めば、なおよろし。17歳のための世界と日本の見方日本という方法情報の歴史を読む
2007年02月02日
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久しぶりにDVDを買った。フランスのアニメ『ルネ・ラルー コンプリートDVD-BOX』である。コンプリートというだけあって少々値が張るもので、購入には相当な期間悩んだが、まあ、自分へのお誕生日プレゼントということで、先日ついに買ってしまった。そして激しい後悔に苛まれた。もっと早く買っとくべきだったと!ルネ・ラルーとの出会いは数年前の真夜中だった。たまたまつけたTVから流れ出てきた、怪しげなアニメ。最後の10分程度だけ観たのだけど、日本のアニメでは絶対出てこないキャラクターの大洪水、渋い色使い、あんまり滑らかではない動き、微妙な音楽、意味ありげなセリフ、唐突なストーリー展開。それこそインパクトだらけだったのだ。後で調べて、それが『ガンダーラ』という作品だと知った。ちなみに、検索ワードは「フランス 変なSFアニメ」である(笑)。今回、コンプリートで作品を観て感じたのは、その世界観の揺るぎなさだ。監督のルネ・ラルーも、原画のローラン・トポール、メビウスも、彼らのイマジネーションに支えられたモードが侵入してきて、ちくちくと、ぐらぐらと、絶え間なくこちらの頭の中を刺激し続けるのだ。残念だったのは、初期の短編『Les Temps Morts(死の時間)』と『Les dents du singe(猿の歯)』が収録されてないこと。コンプリートっていうなら、全部入れて欲しかった。まあ、『Les Temps Morts』はyoutubeにて観ることができたが。これでローラン・トポールの魅力にどっぷりハマってしまった私である。エンキ・ビラルとかのバンドデシネや、チェコアニメのシュバンクマイエルもいいけど、もう少しいろんなアニメを観てみたくなった。一部ではアート・アニメなんてすかした名前がついているけれども、呼び名はどうでもいい。頭の中をまた掻き乱してくれる世界に浸れるなら、それでいいのだ。『ルネ・ラルー コンプリートDVD-BOX〈初回限定生産・4枚組〉』
2006年12月29日
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地下鉄の中吊り広告で、光文社の「古典新訳文庫」創刊を知った。ふーむ、『リア王』とか『カラマーゾフの兄弟』とか『はつ恋』とか、課題図書とかナントカ100冊に登場しそうな、いかにも名作が並んでいる。その中で目に留まった『マダム・エドワルダ』の文字。へー、バタイユも出すのか。澁澤龍彦、生田耕作にひるまず、出しちゃうのか。などと、ちょびっと感心しておったのだが、「エドワルダ」の文字から改行されてさらに隣に並ぶ文字に改めて気付く。そこには、「目玉の話」と書いてある。並べて書くと、こういうことだ。『マダム・エドワルダ/目玉の話』 ジョルジュ・バタイユめ、めだま?これって、もしかして、『眼球譚』のことか?うへえ~!いくら「新」訳だからって、「目玉の話」でいいのか?原作に忠実翻訳ってことなのか?もしかしたら、別の人の翻訳ですでに「目玉」と使っているのかもしれぬが。なんかなあ。他になかったのかな~と思わず唸ってしまう。鬼太郎とかでてきそうだよう。光文社についてはこんな記事が。http://book.asahi.com/clip/TKY200608120292.htmlキャッチフレーズは「いま、息をしている言葉で」だって。あははははは。もうどうにでもして(-_-)
2006年09月08日
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岩塩や塩湖がほとんどない日本で、山間部ではどうやって塩を手にしてきたか。海から山へどんなルートが誰によって、何によって作られていったのか、想像できるだろうか?売りに行く、買いに行く。言葉にすると単純なのだが、そこには細やかで大胆な、創意と工夫に満ちた庶民の世界がある。材木や木地師、牛、土器や鉄器などさまざまな関係が絡み合い、模索しながら道を作ってきたのだ。生活というものが相互性や複合性をはらんでいること、そしてごくごく普通の生活の集積こそが文化であることを、深く考えさせる一冊である。一文を紹介しておく。----民衆が一つの道をたどっていくということは、今日のように便利ならば、あるいは地図があれば、これをどこへ行けばどうだということはわかっていますが、途中で人に聞くことができない細道の、その行く先を確かめ得たということは、人間の必然的な叡智というものが、そこに働いていたということであります。それを、あとから来る人たちも歩いては踏み固め、大きくして、やがて今日のような道になり、山間の文化をつくりあげていくようになったのだと思います。----地図にない細道を歩いているは、古人だけではない。古人の作った道の上を辿りながらも、私たちもまた、自分でその行く先を確かめる道程にいるのだ。ごく私的な意味においても、この時代を生きている一人の人間としても、自分がいるポイントが、常に次の一歩を踏み出す先端にいること。それを忘れないでいたいと思う。『塩の道』 宮本常一 講談社学術文庫***宮本常一氏は1907年山口県生まれ。「宮本民俗学」といわれるその体系は、主として聞き取りという、フィールドワークによって成されたものらしい。研究を続けた60年近い歳月の中で4000日を旅に費やし、1200軒もの民家に泊まったという。
2006年08月13日
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この4ヵ月、ほとんど本を読んでいなかった。そのかわり、WEB上のとある場所にて、幸福を読書していた。相当に貪欲な読書となった。冒険的ともいえるこの獰猛な幸福は、7月25日で一応の終焉を迎えたのだけれども、それは一つの句読点に過ぎない。形を変えて、まだまだ続くのだ。それにしても読みたい本がどっと増えた。ざっと見渡してみただけで、これだけあった。『塩の道』宮本常一『物語作家の技法』フェルナンド・サバテール『夏の樹(フィオナヴァール・タペストリー)』ガイ・ガブリエル・ケイ『空海の夢』松岡正剛『吉原御免状』隆慶一郎すべて、上記「幸福」の残り香であるが、実はこれだけではない。まだまだあるのだ。遅読という癒えない病と戦いながら、愛しくこれらのページを繰りたいと思う。あ。3月に読み始めた『鬼神』、未だ読了に至らず。
2006年07月25日
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『中世神話』に続いて、手を出してしまった。その前に、別の本に寄り道したが、道草のつもりがえらい大物に当たってしまい、それは途中で放棄してしまった。ちなみにそれは高取正男氏の『神道の成立』というやつ。はっきり言って、読みにくい(-_-;)実はさらにその前、鎌田東二氏の『神道とは何か』を読んでいる。これはさすがに高校生向けということで、さくさく進んだ。とはいえ、神と仏の違いを絶妙にまとめてあったりして、侮ることはできない。そのうち、紹介したいと思う。さて、『異神』。予想通り、すごく関係が錯綜している。京極夏彦の「鉄鼠の檻」のモトネタが登場する。これもたいがい、ややこしい話だが、そもそも大本が複雑怪奇な話だったのだ。できれば図解しながら読んでいきたい一冊だ。今日、やっと第1章の頼豪説話を読み終えた。後三条天皇、山門・寺門、新羅明神、赤山明神。その他諸々、関わりが広すぎて、とんでもないことになる。よくこれだけ調べたもんだよ。読了、いつになるかねえ。
2006年03月14日
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スノーボードクロスには、ほんとに驚いた。スピードとクラッシュ続出に、うおお~っと雄たけびを上げながら釘付けである。どのレースでも衝突、転倒が必ず発生して、そのため最下位か?と思われた選手が終盤一気に上位に躍り出たりすることもある。ゴール直前にアクシデントがあって順位がころっと変わったり、とにかく最後の最後まで気が抜けない。NHKのアナウンサーにして、「タナボタ当たり前のこの競技なんですが~」と言わしめる程の凄まじさなのである。普通、こういう時って「番狂わせ当たり前の・・・」ぐらいが妥当な表現だと思うのだが。彼も我を忘れてたとお察しする(笑)。もう一つ、話題を集めてるカーリング。観てるだけなのに、すんごい緊張してしまう。競技中に発した選手の「(ストーンが)見える?」の会話に、実況アナウンサーが「見えます!」と思わず応答して照れちゃう一場面とか、スノボクロスに負けずこちらもかなりのエキサイト振りだ。大丈夫か?実況&解説!なんかもう、視聴者の突っ込みを意識した実況ではないかと疑ってしまうぞ。オリンピックを観ているヤツは○○○だ!という、おなじみな発言を繰り返しているお方もいるが、やっぱりオリンピックはつい観てしまうものなのだ。ついでに、ほぼ日刊イトイ新聞の「観たぞ!トリノオリンピック」も、読み込んでしまう。納得の爆笑ネタ多過ぎである。
2006年02月20日
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一部で強力に盛り上がっているウワサのジャンル「ワールド演歌」をご存知だろうか。ふふふ、これはまだあまりにハヤくて、人口に膾炙しておらぬ音楽ジャンルである。なんたって気炎を上げているのは今のところ約3名だからな。ぎゃふん。ちなみに口火を切ったのはLOADEDさんである。さて、「ワールド演歌」とは何かというと。ロックとかパンクとか、既存の音楽カテゴライズを離れ、なんかこう、そこはかとなくソウルフルで、日本の演歌に通じるような、どわーんと胸もしくは腹あたりに響いてくるような洋楽のことである。個人的に言えば、ドアーズ。中でも「Waiting For The Sun」はその王道でしょう。うえいてぃーん(じゃっじゃーん)うえいてぃ~ん(じゃっじゃ~ん)♪このサビ、演歌です。ど演歌です。それとか、デヴィッド・ボウイにルー・リードね。マイナーだけどスージー&ザ・バンジーズとか。あと、エミネムも私にとっては演歌だなあ。「ワールド演歌」の「らしさ」、感じて頂けましたでしょうか。そこで!是非とも皆さんの思う「ワールド演歌」を挙げて頂きたい!「ワールド演歌」の意味するところがもう一つわかんなくっても良し、これはどうよ?って感じで、軽く軽く(笑)。さささ、ご遠慮なく~。
2006年02月15日
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ちょっと前に読んでたんだけど、改めてさらっと流してみた。仏教そしてインド哲学の巨匠中村元氏、1970年の著作である。そもそもの発端は昨年12月に、京都にてある方の仏教講義を聞いたことによる。この時のお話は、2億年前の地球の大陸移動から人間の意識の発生に至り、その意識をシャカがいかにコントロールしようとしたか、という壮大なスケールで語られた。さらに、シャカの説いた六師外道や十二縁起とか、あまりに知らないことが多くて、ともかくもうちょっとどうにかしたいと思って駆け込んだ本屋で見つけたのが、これだった。シャカの論旨を読んでいくと、2500年前でも人間の悩みとかって、あんまり変わってないもんだなあというのが、正直な感想である。ともかく、最初の仏教ってこういうもんだったというところは、だいたいの輪郭がつかめ、その後の変転を知りたくなる一冊である。だいたい、無常(この世で変化しないものはない)ってことを認めるのは、結構しんどいと思う。やっても無駄だから~、なんて言い訳ができなくなるもんね。ついでに取り返しのつかない過去のことやまだ起きてもいない未来のことを、どうにかしようとするのは無駄なんだよ、ってことでもある。この「どうしようもないことをどうにかしよう」という、いわゆる「執着」。これを捨てましょーなんてことは、今でも色んなところで叫ばれていると思うけど、その「捨てよう」自体がもう執着です、なんて言っちゃってるのだよね、2500年前に。この頃にはカンタンに「執着を乗り越えてニルヴァーナに至りましょう」、とか言って終わってて、じゃあどうすればいいの?という問いには「正しいことをやりましょう」なんて答えたりしてるので、もうちょっと突っ込んで考えなくていいのかねえ、などど不遜なことを思ったりもする私だが、それでも、無常と執着という観点は、すごいもんだと思う。不確定性と欲望。生まれてから死ぬまで、人間の周りにあること・あるものといえば、これに尽きるような気がする。ノーベル賞に今最も近いと言われる脳科学者の茂木健一郎氏だって「遇有性」という言葉をもって、ほぼ同じポイントをついていると思う。シャカは「こーすりゃいいのさ」と言ってしまうことの危険性を、すごく感じてたんだろうな。でないと「正しい」なんて言い方で終わってないよな。普遍的な「法」とか、「真理」とかにしても、細かく見ると人それぞれで、大枠で見るとどれも同じ、みたいなもんなんだろうなと思う。となると、結局はプロセス、か。原始仏教中村元選集(第20巻)決定版
2006年02月13日
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古代に生まれた神話が、どのように変遷したかを中世に求めた本である。読んでいるうちに、京極夏彦の小説に出てくる京極堂の薀蓄&憑き物落としを聞いているような気になってしまった。というか、京極氏もこの人の著作は参考にしてるんじゃないかなあ。と思って「塗仏の宴-宴の始末」の巻末を見たら、しっかり同氏の「異神」が参考文献に挙がっていた。うはは。この「異神」も気になっているのだが、結構、高いのだ(笑)。上下巻だし。さて、「中世神話」で登場するのは、神話全部のことではない。メインとして「天地開闢」「国生み」「天孫降臨」の三つが取り上げられてる。これらが仏教と繋がり、権威付けに使われ、解釈が解釈を生み、そりゃもう、ややこしいことになってくる。その時代における考え方・捉え方を見据えながら、変容を辿っていくわけで、当たり前だけど一筋縄では到底ムリ。ともかく、古代へ回帰するでもなし、再生するでもなし、この中世という時代に、なんか新しい神話世界を作っちゃってる。そこが面白い。あと、伊勢神道に対する見方がちょっと変わってしまった。その名も高き伊勢神宮が、権威付けのためそんなことをしてたの?とか、内宮と外宮の関係がそんなことに?とか、ちょっとびっくりしたのだ。ようするに、文献を都合よく作成してたりするわけです。まあ、伊勢に限らずどこでもやってるんだろうけど、歴史が造られる一面というやつを、垣間見た感じ。この「編集」パワー、恐るべし。中世神話
2006年02月12日
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時々、ものの形ってものが妙に気になることがある。今日頭をよぎったのは、木の根っこのことだ。根っこというのは、取り立てて言わなくてもご承知千万、土から水分とか養分を吸い取る木の一部分のことである。主として水分を効率的に吸収するための最適な形ということで、ああいうぐねぐねな形状になってるんだろうと思う。でも、実はあの根っこの形状というのは、同時に水の形でもある。木は、木という自身の属性を持ちながらも、一部で水の形、水が流れていく形を持っているのだ。壁を伝う雨水の形、山を縫う川の形、体内を網羅する血液の形。どれもよく似ている。水を流すための形なのか、水が作った形なのか、もはや判然としない感じもしてくる。木も水も、形という名のそれぞれの「型」を持っているのだけど、二つが出会ったとき、関係を持ったとき、どちらか一方の形だけが残るのではなくて、なんとも不思議な交換が起こっているのだ。「型」って、そういうもんなのかもしれない。コントロールしきらない何か。譲りきってしまわない何か。融合ともいえるし、乖離ともいえる。コミュニケーション不全を感じたりするとき、根っこと水のことを、ちょっとだけ思い出そうなんて、考えてみた。
2006年02月10日
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明けまして、おめでとうございます。というには、最早遅すぎ(^_^;)ままま、今年もよろしくお願いします。唐突にこんなニュースを発見して、ちょっと嬉しかったりして、日記にアップしてしまう私。行き当たりばったりな年明けだあ。1/16のyahooニュースより引用です。---【ヴェルヴェット・アンダーグラウンド、ライヴDVD(OngakuDB.com) 】1993年、4世紀半を経て再結成されたニューヨークのカリスマ・ロック・バンド、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド。そのライヴの模様がDVD化されます。3月8日発売予定で、タイトルは『ライヴ MCMXCIII』。ルー・リード(g,vo)、ジョン・ケイル(b,key,vo)、モーリン・タッカー(ds,vo)、スターリング・モリソン(g,b)の4人が、1993年6月15、16、17日にパリのオリンピア劇場で行った再結成ライヴ。当時はCDとVTで発売されましたが、待望のDVD化となりました。<収録曲>・毛皮のヴィーナス・ホワイト・ライト・ホワイト・ヒート・ビギニング・トゥ・シー・ザ・ライト・サム・カインダ・ラヴ・ファム・ファタル・ヘイ・ミスター・レイン・アイム・スティッキング・ウィズ・ユー・アイ・ハード・ハー・コール・マイ・ネーム・ユア・ミラー・ロックン・ロール・スウィート・ジェーン・ウェイティング・フォー・ザ・マン・ヘロイン・ペイル・ブルー・アイズ・コヨーテ ワーナーミュージック WPBR90552 税込み3900円[OngakuDB.com 2006年01月16日] -----ライヴ MCMXCIII3900円。これは、買いかもしれない。モリソンが他界した今、オリジナルメンバーでの再結成はないしね。そういや、ウォーホールが監督(?)したライブのやつって、DVDになってるのかなあ。あー、タイトル忘れた。なんとかプラスティック...。おいおい。ニコがすごいかっこいいのだよ、何と言っても。
2006年01月16日
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またもや、空白続く日記になってしまった。こういうのも雪景色っていうのかねえ。はあ、真っ白。今、花伝所っつーところで、どりゃーっとお稽古中である。締め切りがかっちりしていて、ルーズが人格化したような私にとっては、激しく厳しいのである。にも関わらず、どういうわけか、久しぶりに京極夏彦を手にしてしまった。しかも、比較的薄い「姑獲鳥の夏」ではなく、読み応えたっぷりの「魍魎の匣」である。ああ、人はそれを現実逃避というのでしょうね。実は、ことあるごとに「魍魎の匣」は読み返している。初めて読んだ京極作品ということもあって、そのインパクトはいまだに揺らぎを放ち続けている。多分、今回が6回目ぐらいじゃないだろうか。こう何度も読むと、最初に感じたエッジはさすがに緩んでいて、さらっと通り過ぎ終わってしまうところも多々あるのだが、逆に新たな発見もある。今回、ようやく思い至ったのが、京極小説の仕立て自体が、物語としっかりリンクしているということだ。なんで今まで気が付かなかったのか、不思議である。京極小説は、その物語の中で使われているキーワードが必ず、作品の構造にも使われているのだ。「魍魎の匣」の場合のキーワードは、魍魎、オカルト、箱、そしてバラバラ。この「バラバラ」というのが構造に反映されているのだ。物語ではバラバラ殺人事件というストーリーの主軸の一つとして使われている。構造では、時間的な順番をちょっと解体して置き直していたり、小説中小説の挿入の仕方も、その順序を入れ替えて挟み込んでいったり。さらにもう一つは、いわずと知れた「箱」のバリエーションである。人間の外面と中身、密室、自分と世界、こういったモチーフが物語の中に散りばめられている他、入れ子構造という形で仕立てに活かされているようにも思う。それは、様々なエピソードが「隠されている」という作りになっていることに現れている。無論、どのような物語にも基本的に「秘密」と「秘密の開示」が盛り込まれているのが通常である。京極作品だからといって、ことさら取り立てるものでもないかもしれない。が。その隠され方と開示の方法が、絶妙なのだ。こういうところが、京極小説のスタイリッシュさを際立たせている。物語と仕立てが渾然一体となったとき、超絶と評される迷宮と謎解きの妙が一気にこちらに押し寄せてくるのだ。魍魎の匣
2005年12月16日
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初めて石田衣良を読んでみた。ウエストパークゲートとかはかなり話題になったし、本人も色々TVに出たりしているし、一度は衣良ワールドを体験しておきたいと思っていた。たまたま手に入ったのでかなり期待して読んだのだけど、正直言って物足りない気分になった。「さらりとした感じ」がウリなのだろうが、「さらり」というには、なるほどさらりだなという感触があるはずなのに、そういう手応えがないのだ。『エンジェル』も『波のうえの魔術師』も、構成はよく似ている。あまり社交的でないモラトリアムな青年が主人公が、何かの「きっかけ」で突然行動を起こして、成功して、その後ちょっと苦い思いをして、でも新たな希望を持つ、というパターンである。この、「きっかけ」以降の主人公の行動に、共鳴できない。これまでとは別人のようになって行動し、成功していく、という結果そのものはどうでもいい。きっかけ以前の主人公のテンプレートが、きっかけ以降の主人公の行動にいまいちリンクしていないのだ。過去のテンプレートをばっさり捨て去ることで、これまでにはない行動を取るという図式なのだろうが、その行動があまりに直線的で、どうも違和感を覚える。『エンジェル』の場合は、死んだ主人公が幽霊になって意識を回復する(自分の過去をフラッシュバックして、自分の死の原因を探る)という、「きっかけ」のインパクトは大きいが、それにしても、その後の行動が人間本来の思考・行動パターンであるノンリニア性から隔絶していくというのは、腑に落ちない。前半部分(フラッシュバックによって主人公が自分の半生を追体験する)が丁寧に書かれているだけあって、もったいない感じがする。いわゆる青春小説という分野に入るのだろうが、それなら佐伯一麦の「ア・ルース・ボーイ」にこそ、過去とそれを振り捨てた切実な生がたぎっている。または、「軽さ」を絶妙に物語に織り込んでいく村上春樹の『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』の、さらり感に潜む恐るべき仕掛け。主人公の行動のリニアとノンリニアの間で、読む者は脳の配線まで変わってしまう。または、江戸川乱歩の『虫』に示された救いのない情けなさ。恋という「きっかけ」が主人公にもたらしたインパクトの大きさが、鮮やかに浮かび上がってくる。主人公の世界観。おそらく物足りなさの中心はこれに尽きるのだろう。「きっかけ」を基点に、主人公はこれまでの世界と決別して冒険を始める。新たな世界に踏み込んだとき、見えてくるのはそれまで築いてきた彼の世界観であるはずだ。「きっかけ」と「冒険」によってその世界観の変わったことに説明は不要だ。彼の世界に、どのようにひび割れが入っていったのかを見たいのだ。変わったという事実自体は、何の解説もなく読者が読み取っていくものなのだから。ちなみに、『波のうえの魔術師』は長瀬智也主演『ビッグマネー!~浮世の沙汰は株しだい~』というタイトルでドラマ化されてたらしい。知らんかった。原作よりこっちの方が面白いような気がする。エンジェル波のうえの魔術師ア・ルース・ボーイ世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(上巻)世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド(下巻)江戸川乱歩「虫」は、短編でどこに入っているか不明ですm(__)m
2005年11月30日
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量子論というものにずっと興味があった。なんかすごくかっこよさげに見える世界だからである。SFっぽい要素もふんだんにありそうだ。さりげに「量子物理学の世界では~」なんて一席ぶったりすると、ものすごく頭よさそうに見える感じもする。ハヤくて、イケてそうな量子論。サイバーでサイエンスでハイパーな量子論。ああ、なんとかしてこの論を我が身に移すことはできまいか。書店には、数多くの量子の名のつく本が居並んでいる。どれどれと手にとってみても、のっけから激しく意味不明な言葉が並んでいる。自分が日本語を読み書きしているとは到底思えないほどの、絶壁の拒絶感。物理も数学もどっちも苦手で、常に赤点もしくはギリギリでこなしてきた633の12年。今更どうにもなりはしない。まぶたを閉じて書棚を去るしかないのか。と、おバカの悲壮と宿命に身を震わせる私が見つけたのがコレ、「図解 量子論がみるみるわかる本」なのである。今流行の「図解」である。おまけに「みるみる」である。そして「わかる」である。しかもサブタイトルが「文科系の人でもすぐ理解できる!」である。こんな殺し文句の羅列に欲情しない人はおるまい。厚さも5mm程度と天使のごとき麗しさまで兼ね備えている。ぱらっとめくって、さすが「図解」の名に恥じない、全ページ左側が全て図と絵で構成された潔い体裁。3段組の右ページには思ったよりも文章が詰まっている。シュレディンガー猫のキャラクターらしい、いい加減な造作の猫イラストは、かなりゲンナリするが、952円という価格も気に入り、即購入してみた。中身の方は、一言でいえば量子論クロニクルといった風情である。量子と量子論の概要を冒頭に、プランク、ボーア、シュレディンガー、ド・ブロイ、アインシュタイン、ハイゼンベルグ、ノイマン、ドイチェなど、量子論に関わる科学者達の論旨を時系列で簡略に素描してくれている。「ここまでのまとめ」をしてくれたり、登場した科学者の概略をミニコラムにしていたりと、なかなかの心遣いである。素人には理解不能と思われる部分は「難しいので省略する」などと明言してくる、親切設計もありがたい。最後の最後になってファインマンの「量子論を利用できる人は多いが、量子論を真に理解している人は一人もいないだろう」という言葉を出してきて、めまいを起こしている読者を慰めてくれる優しさまで持ち合わせている。が、各科学者の論旨については松岡正剛氏の「遊学」の該当箇所を要約しているだけのような気もしないではない。このムックを読んでから、「遊学」を再読したら、少しだけ内容の理解が進んだのは嬉しかったが(笑)。それまで量子論関連ページは、何のことやらさっぱりで、手のつけようがなかったのだ。読み通して思ったのは、なんでミクロの世界とマクロの世界(人間が物理的に触れることができる世界)とで、こんなに仕組みが違うのだろう、ということだ。なんかヘンだ。ミクロが集まってマクロを構成しているのに、とことん違うシステム。「有ると無いが同時に重なっている」とか「Aを選択すると、同時にAを選ばなかった世界がパラレルに存在する」とか聞くと、かなり奇妙な気持ちになる。そもそもミクロとマクロという二分割で話を進めていることに問題はないのか。ミクロとマクロの境界はどこなのか。ミクロとマクロを繋ぐ何かはあるのか。階層ではないのか。量子論はどうも時間とかエントロピーと関係しているような気がするけど、どうなのか。こんな疑問が次々と沸いてくる。この先、もう少し量子論の本を読んでみたいのだが、次に何を読めばいいのか、皆目見当がつかない。オススメ本、大募集中である。図解量子論がみるみるわかる本遊学(1)遊学(2)※「遊学」は文庫で1と2の分冊で出版されている。歯ごたえありすぎで、死にそうになって読んだ。紹介コメントは「ピタゴラスからマンディアルグまで、古今東西より選ばれた巨人たち一四二人の消息を、著者自らの体験をまじえ融通無碍に綴った空前の人物譜。六〇~七〇年代のカルチャーシーンに多大な影響を与えた伝説の総合誌『遊』より生まれた幻の大著。1巻にはピタゴラスからエジソンまでを収録。」である。
2005年11月25日
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中沢新一氏の「アースダイバー」という本を読んでいる。まだ読了していない。読みやすい本なのだが、さらさらと進まないのだ。なぜかというと、この本の素材である「東京」という街を、余り知らないことが一つ。そしてちょっと読んでは、巻末についている「アースダイバーマップ」を参照して、感慨にふけってしまうということがもう一つ。原型もそのまた原型についても知識がないので、色んな方面に想像が及び、そうこうしていると、中々読書というものははかどらない。はかどらないが、これがまた楽しい。この本は、東京という土地について考察しているものなのだが、その土台にしているのが「アースダイバーマップ」、つまり沖積層と洪積層に塗り分けられた縄文時代の東京地図である。この古代の地図に現在の東京の姿を重ね合わせて、フィールドワークしていくと、これまで見えてこなかった東京という街の風貌が、新たな振舞をもって立ち現れてくる。そこを丹念に、地域ごとに解説・考察している本なのだ。どこの土地でも、大昔はもっと海は内陸まで来てました、という話はよく耳にする。しかし、これを実際に地図として見てみると、こんなに入り組んだ地形(中沢氏はあえて「フィヨルド状」と表現している)だったのかと驚きを禁じえない。そこには海が干上がった土地である沖積層の触手が、枝分かれを繰り返した形状で、蠢いている。言い換えれば、海が満々と水をたたえていた時代、洪積層だけが地面であった頃、ぐぐっと細長く突き出した「岬」だらけだったのである。本書にも説明が随所に出てくるが、この「岬」=さきっぽにこそ、古代日本人が霊性とか聖性を感受した土地なのだ。ゆえに。神社や寺、古代遺跡などは、この「岬」たる洪積層と沖積層の境界上に存在している。古代から連綿と続くスピリチュアル・スポットが点々とそのサカイを明示しているのだ。当然といえば当然なのだろうが、このマーキングを一覧で見ると、いにしえの人々の敬虔な執着のようなものに、感嘆してしまう。ここから中沢氏の宗教学者としての本領発揮で、古代の息吹がいかに現在にまで深く大きく影響を与えているかを縷々と述べている。中には「そーゆーもんかねー」などと、詳しい根拠を知りたくなってくる場面もあるが、全体的には不可思議ともいえる都市物語に魅了される。遠く1万年以上も前の祖先から受け継いだこの土地から、常に響いているであろう命や死や性といったうねりが、きっと自分にも流れていて、知らず知らずに感知しているに違いない。今現在、この世の表面に浮き出ているミームと言われるものの正体の一端であることは間違いないだろう。そんな大きな流れの先端=「岬」に今自分がいることを直観させる一冊である。なぜヒトは、「岬」にこれほど霊性を見出しているのかを、もう少し考察してもらえれば、もっと楽しい一冊である。アースダイバー
2005年11月24日
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最近、ちょこちょこTVに登場してすっかりメジャーな看板を背負った感のある茂木健一郎さん。著作もどんどん量産体制に入っている。ちくま新書から出た最新作のタイトルは、『「脳」整理法』である。こ、これって野口某のメガヒットハウツー本『「超」整理法』のパクリなんじゃ?と氏の動向に不穏な空気を感じたのだが、最初の数ページでそんなつまらん斜めな視線は、吹き飛んだ。構想段階ではノウハウ本だったらしいのだが、編集者と練っているうちに、「遇有性」という脳科学の概念と生き方について模索する内容になったらしい。「遇有性」とは、「半ば偶然に、半ば必然的に起こること」を意味する。これは「こうすればああなる」という決定論でもなく、サイコロにおける出目のランダムさのような確率論でもなく、その中間にあるようなものといえるらしい。例えば、好きな人とうまくいくだろうかとか、新しい事業で成功できるだろうかとか、「ある程度自分の選択や行動で結果を左右できそうだが、やってみなくちゃわからない」というもの。当たり前なんだけど、世の中の関係はほとんどこれに該当して、人生の面白みも不安さもここに起因する。このような不確実さを楽しむか恐怖するかで人生が決まってくるというのは誰しもなんとなく見当がつくと思う。だいたい、世に溢れる情報の相当量は、この不確実さの不安をいかに解消するかがテーマになっていると言っても過言でないぐらいだろう。さてここで「整理法」の登場である。「世界知」「生活知」という二つの知や「行動・気づき・受容」というセレンディピティなどとの絡みを見せながら、いかにして生命の躍動(エラン・ヴィタール)を輝かせるかを追求していくのが、この本の真骨頂である。色々なところでよく耳にする内容なのだが、その切り分け方、関係の結び方が非常にうまくなされていて、自分が日ごろもやもやと気配だけ感じていたモノに輪郭が与えられたような、そういう納得感を醸し出してくれるのだ。以前の日記に書いた「フロンティア~な人々」での考察と重なるところもあって、楽しく読めた一冊である。「脳」整理法同じく茂木氏のこちらもオススメ。脳とクオリア
2005年11月10日
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7月から始まった編集学校の『破』、本日ついに卒業いたしました!編集学校ではこの卒業のことを『突破』と申します。受講の4ヶ月をしみじみ振り返ると、長かったような短かったような、なんともいえない感慨がどーんと押し寄せてきてます。期間中2つ催される全受講生対象の競作大会「アリストテレス賞」ではそれぞれでアリストテレス賞二席とテレス賞一席をを頂きました。ちなみに、各賞は「アリストテレス賞」「アリス賞」「テレス賞」があり、それぞれ大賞・一席・二席・三席が設けられてます。『守』の時と同じく、一番はもらえなかったけど、受賞そのものはやはり自信に繋がったり、新しい発見(イタイことも含めて)があったりと、嬉しいことこの上なし。編集学校の『守』『破』を終えてざっくりと思うことは、何につけ、一点を追う目線と俯瞰する視線の両方がいるんだなということ。これをひしひしと感じる日々でした。今自分が持っている知ってやつを、どんどん引き出すことも大事だし、それとともに、自分の外に張り巡らされているものに、自分を広げていくということも大事なのだ。自分が見ている世界がこの世の全部であることに違いはない。受け取れるものしか受け取れないというのも、間違いではなかろう。そもそも自分の内と外というカテゴライズ行為自体に無理があるし。自分と世界は、入れ子のように互いを飲み込みあったもの。それは物体でも現象でもなくて、「関係」なんだよなあ。ここに至って、学んだことをどう活かしていけばいいのか、ちょっと悩む。いやいや、悩む必要なんかない。目の前にあること全部に使えばいいんだから。事の大小は関係ないのだ。しかーし、ここで一個ぐらい具体的に表明しておくのも悪くないか。公にすると実現するっていうしね。ええっと、ともかく自分のWEB古本屋「1・2・3堂(うんどすとれすどう)」のサイトリニューアルをやります。年内に完成させます。きゃー、言っちゃったよう!がんばれ、アタシ!!
2005年11月06日
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編集学校の『破』が、あと1ヶ月足らずで終わる。今は最後の「プランニング編集術」というお稽古に入っている。これは、架空の町に対する企画を立案するという課題。理想の町をイメージしているうちに、だんだん規模が大きくなってきて、ちゃんと着地できるのか、妙に心配である。アレックス・カーの本なんか読んでるもんで、ついつい環境系にまで触手を伸ばしてしまった。電線埋設とかね(^_^;)いろいろやっていると、このお稽古がこれまでやってきた課題の総合問題になっているということがよくわかる。文体、物語、クロニクル、全部入っているし、この前の『守』の内容も、押さえてないと回答できない。個人的に一番楽しかったのは物語編集術なのだが、このプランニングは編集工学メソッドを十全に活かせるという意味で、非常にやりがいがある。楽しいと苦しいが、ほんとにちょうど半分ずつという感じで、なんともいえないドライブ感があるのだ。着地することは大事だけど、この疾走する感覚が編集なんだと思う。「創発」というものは、こういう状態にふと、やってくるような気がする。
2005年10月23日
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16日は、かぼすねいさん主催のMMエナジークラブに参加してきた。今回は、私もちょびっとだけお手伝いさせてもらったのだ。それにしても、参加人数がすごかった。40人以上だったと思う。個人が企画している集まりで、これほどの参加者がいるっていうのは、なかなかないんじゃないだろうか。そして2次会にも30人ほどが参加するという、えらい盛況ぶり。個人的にはかなりのハイテンションで、かなーりいい思いさせてもらいました。それはね、参加者でヒーラーのhitukiさんに、ぴったりのアロマオイルをみつけてもらえたこと大きかったのだ!これが今回の大収穫で、涙が出るほどの感動へ突入してしまった(^o^)「YL JOY」という名前のオイルだったのだが、皮膚にすりこんでいくと、一気にエネルギー状態が変わるほどのインパクト。お腹はぽかぽかしてくるし、気分がふわーっとなって心地いい。さらにそこを一瞬にして通り越して、ずーっと笑いっぱなしのアロマ・ハイ状態に(^_^;)ここんとこなかったほど、舞い上がってしまった。こういう、「コレだあっ!これを体がほしがっている!!」っていう、世界を薔薇色の高揚感で押し包むような牽引力は、日常ではなかなか味わうことができないものだけど、アロマはそれを可能にする。ちょっと、不思議な気持ちである。MMエナジークラブにて、エネルギー状態をリフレッシュできていたことも、この出会いに無縁ではなかろう。必要なものとの接触があっても、「わからない」ということが、この世には往々にしてあるからね。機(き)と期(ご)というものを、まさに感じる一時でありました。hitukiさん、ほんとにありがとね!!ここでちょっとお裾分け。 ■ワイエルジョイ■文字を見て呟くと、エネルギーが発動しますよん。--------ご要望にお答えして、全部いっとこか~(^o^) □ホワイトアンジェリカ□ ○ポマンダーピンク○ ☆ヤングヴァラー★
2005年10月17日
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10日のお昼すぎ、事務所で仕事をしていた私に、携帯が鳴った。実家の母である。あーもーまた、つまんねえ用事か~?なんて思っていたら、どうも様子がおかしい。ぽつりと語られた内容は、ななななーんと、9日未明、ウチが泥棒に入られてしまったというじゃないのさ!実家の1階は仕事場で、そこにぽーんと置いていたカバンがやられたらしいのだが、カバンの中には現金の他、印鑑とかカードとか通帳とか、ようするに大事なものが一式入っていたそう。連休中ということで、普段置いてない現金をアテにしての犯行だったようだ。まあ、被害に遭った現金は数万円で大したことはなく、他はなんだかんだ言っても再発行が利くものばかり。警察も、もしそのカバンを置いてなかったら、階上までやってきて、下手すると強盗状態になっていたかもしれないって話してたそうだ(そうでも言わないと、収まりが着かんだろうことは想像に難くないけどね~)。ともかく、今日明日の当面のお金に困るから、すぐ銀行から送金してほしいという母なのだが、やっぱり心配。仕事を途中にして、実家に「お見舞い」することに。実は8・9日は編集学校のオフ会とイベントで東京に行ってたのだが、そのために7日にお金を下ろしていたわけで、でも、その時どういうわけか、必要以上に多くのお金を引き出してたんだよなあ。なんとなく、いるような気がして。これが虫の知らせってやつか?で。かなり落ち込んでいるみたいだったので、これはちょっと盛り上げてやんなきゃなあと、デパートで下鴨茶寮のお弁当なんかを仕入れて向かうと、ほんとにぼーっとした父母が、仕事場にちょこーんと座っておりました。プロの仕業だったらしく、現場は全然荒らされてなかったそうで、ぱっと見全然違和感のないその状態もまた、呆然とさせる要素の一つらしく思われて、私はただもう、怪我とかなくて良かったよ、なんて言いながらお弁当を差し出すしかなかったさ。思いのほか、父母はお弁当を喜んでくれた。ブルーなわりには、二人とも完食である(^_^;)ちなみに、お隣の家にも先日泥棒に入られ、こちらは700万の車をやられたそう。ウチの近所って別にお金持ち地域でもなんでもないのに、どうも狙われている地区って感じ。ままま、ともかく皆様、戸締り用心でございます。
2005年10月11日
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最近、時々エロ系のサイトにトラックバックされる。ちょっと調べてみると、楽天日記内で被害に遭ってる人はたくさんいるようだ。あんまり被害がひどいので、トラックバック機能を止めてしまった人もあるみたいで、そうなるとブログの楽しみは半減だろう。楽天サイドでは、防ぎようもないらしく、なんら手段は講じられていないのが現状のようである。エロ系のサイトがあるのは別にいいんだけど、おとなしくそっち系のポータルで網張って待っててほしいもんだ。このエロ系のトラックバックって、何を基準に日記を選んでいるんだろう。ウチは特別アクセス数が多いわけでもなく、レンアイとかの話題を振りまいているわけでもない。アホな話が主流である。適当にURLを引っ張ってるんだろうか。ランダムを使ってなんとなーく選んでるんだろうか。めっちゃナゾである。なんか、いい方法ないかなあ。
2005年09月24日
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PC作業に気だるく疲れ、ほげーっと布団の上で仰向けに幽体離脱直前みたいな気分でまどろんでいた昨日の夜のこと。12時過ぎである。ちょっとうとうとしていると突然、口の中がぬるぬるしてきた。どこからともなく、唾液があふれてきたような感触である。やおら口の端からつうっと溢れそうな気配がして、手近にあったティッシュで拭ってみる。鮮血である。これぞ赤血球!という感じの、いかにもな真紅が白いティッシュにどよんと大きなシミをつけているではないか。慌てて台所でばっと口から吐き出すと、そこも真っ赤。飛んだ油のテンテン模様も見慣れた洗い場の縁にも、小さな赤い飛沫が、独特の粘性をもって存在をアピールしている。大昔の少女マンガのように、一瞬にして悲劇のヒロインな気分である。なんか悪い病気?余命あと何ヶ月?ハッケツビョウ?イガン?それならこんな鮮血じゃないはず...。などということをアタマの片隅に覚えつつ、口をすすぐものの、一向に血は止まらない。止まらないけど、別段苦しくもなんともないから、だんだん変に落ち着いてきて、ちょっと鏡を見てみることにする。大きく口を開けてみると、歯にも舌にも血が凝って、めでたくバンパイア誕生である。なかなかのリアルな怪奇趣味に、ちょっとびびってしまった。それはさておき、血は相変わらず止まらない。もう一回口をすすいで、鏡を見る。と、口からつつつーっと血が滴ってアゴまで来ている。よーく見ると、上唇の中央右よりの一点から、泉のようにどうどうと赤い液体が溢れて、小川を作り出しているではないか。血は、胃でもなく、肺でもなく、単純に唇から流れていた。そういえば数ヶ月前から唇に小さいできものができてて、気になってはいたのだ。痛くもなんともないけど、ぷつっと盛り上がったカタマリがいやで、どうにかしたいと思っていたのだ。今日の昼間も。それが通じたかどうか、問題箇所がぱっくり唐突に割れて、それでこういう血まみれなことになってしまった。おまけに、どうもうっすら口を開けて寝てたようで、唇から噴出した血が口腔に入り、喉に絡んで、寝ぼけてた私は噴火口の在り処を誤ったと。数分後、それまでの勢いが嘘みたいに、血は止まった。できものは、そのままである。おい。あんだけこっちを右往左往させて、これで終わりなのかあ?!自分の体なのに、なんでこうナゾなんだよ!
2005年09月15日
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この本、アレックス・カーというアメリカ人が書いた日本論である。カー氏は6歳から14歳までを横浜で過ごし、アメリカに戻ってからも日本との関わりをずっと深めてきた人である。この本も前作『美しき日本の残像』も、自身が日本語で書いたもので、いたって読みやすい言葉で表現されている。読みやすいのだが、そこに綴られている内容は、何度も本を閉じてしまうほどに、あまりに過酷で、重苦しいものだ。「犬と鬼」とは、中国の故事に倣ったもので、ある画家が描きやすいものと描きにくいものは何かと問われたときに、前者を鬼、後者を犬と答えたというものだ。これを現代の日本の状況に置き換えて、環境、政治、教育などを論じている。例えば、環境面における「犬」とは、都市も田舎も含めて景観を著しく損なっている電柱・電線の埋設を行わない(技術的にも難しくない)ことである。対する「鬼」とは、回りの風景も考慮に入れずに作られた利用者もいないようなモニュメント系の建築物(ホールや会館の類)を指す。自分で裏づけを取ったりしていないから、なんとも言えないのだが、日本の土木技術は、かなり立ち遅れているらしい。アジア、欧米など世界各国では、環境への被害、景観への損失を最小限に押さえての開発という方向性が主流であるという。しかし日本では、60年代で最新技術の導入が止まってしまい、相変わらず山を削り、おびただしいコンクリートを流し込む、といった方法に終始しているということだ。土木に関するお金は、公益法人や特殊法人という天下りな人々のお財布を満杯にするため、絶対にやめられない。止めようにも、この先天下りする予定の人々が計画を立てていて、自分の私腹のための流れがしっかり出来上がっているから、不可能なのだ。これに加えて、雑誌やTVなどのメディアがプロパガンダを行っているという。際限なく作られるダムや、堤防は「災害対策」の名目であることを、必要以上に訴える。実際には、被害は100年に一回あるかないかのような所とわかっていても、住民の反対があっても、無視される。今回の選挙で、郵政民営化を進めようとしている自民党が圧勝した。郵便貯蓄の無駄遣いは、猪瀬直樹氏などの調査で、明らかになってきている。この無尽蔵の財源から、次々と金食い虫の建物が作られ、収益も上げられずに、赤字を増やし続けている。そのシステムが破壊されることを心から望んでいる。犬と鬼
2005年09月12日
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金曜日と土曜日の夜は、この二本のドラマをついつい見てしまう。いや、かなり意識的にチャンネルを合わせている。見逃すと、ものすごい喪失感を味わってしまうぐらい、はまっている。「ドラゴン桜」も「女王の教室」も、両方に共通しているのは、自分第一主義ともいえる、自己認識の世界観を推し進めていることだ。他人を許すということは、大事なことである。他人を許さずして自分を認めることもないし、その逆もしかりである。自分という存在に対して自分が肯定感を持つことなしに、他人の存在を受け入れることはできないだろう。しかし、ここでいつの間にやら、不可思議な転移が生まれていることがある。端的に言えば、それは「他人を許すのだから、自分も許されるだろう」という、甘え、馴れ合いだ。さらに、自分が許されるために、他人も許すという構造が出現する。「ドラゴン桜」でも「女王の教室」でも、最も愚かな存在として描かれているのが「親」であることは、無関係ではあるまい。実のところ親は、子供に対して、「私を許して」と哀願しているのだといえる。またこれは、「いい人ね」と言われたいがための、「優しさ」の大盤振舞いでもあるのだ。表現の方法はそれぞれだが、子供を罵倒するにせよ、ひたすら庇うにせよ、教師を責めるにせよ、結局は親が自分の責任を回避したいがための手段にしている。誰からも嫌われたくないと思っているのは、他でもない、親なのだ。二つのドラマ、特に「女王の教室」では、親と子が新しい関係を築こうとするシーンが現れる。それは、親、子という属性を一旦おいて、それぞれが一個の人間として、存在を問い直すという作業であろう。自分はまず自分のために存在しているのだという、当たり前の価値があって、そこからしか、お互いがお互いにとって、かけがえのない存在であることを、知りうることができないのだと思う。どちらのドラマももうすぐ最終回を迎える。いかなる結末を提示してくれるのか、大いに楽しみである。
2005年09月10日
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9/4はかぼすねいさんのMMエナジークラブに行ってきた。その中で、木内鶴彦さんの講演会に行ったときの話が出たのだが、それ以来、小さけど抜けない棘が刺さったままである。木内鶴彦さんは、「彗星探索家」である。今までいくつかの彗星を発見し、ご自身の名前もついている。さらに言えば、22歳(1976年)の時には臨死体験(立花隆氏によると「死亡体験」というべき状態だったらしい)という、なかなか興味深い経歴の持ち主でもある。発見された彗星の中には、地球との衝突が予測され、再発見(最初の発見は1862年で、その後行方不明になっていた)すればノーベル賞ものと言われたスウィフト・タットル彗星も含まれている。この彗星を再発見し、1994年の国際会議で発表されたそうなのだが、その時ある植物学者から、「この彗星の衝突は2126年のことだが、2014年には、この地上が標高8000メートルの酸素の量と同じぐらいになる。これは空気が薄いとかいう問題ではなくて、まず死ぬ。」と言われたという。なぜか。夜の街明かりという「光害」によって、植物がストレスを受け、結果としてばたばたと枯れていくからなのだ。2011年から2014年の3年間にかけて、木がいっせいに枯れはじめるらしいが、それまでの期間は変化がない。その変化が目に見え出すの2011年あたりらしいのだが、その時には手遅れなのだという。この3年間で地上から高さ100メートルくらいまで、二酸化炭素で覆われてしまうという、とんでもない世界になるらしい。木内さんは臨死体験の際、この将来の姿をはっきり見たという。60歳くらいの自分が、木もなんにもない砂漠のような所に佇んでいたという。同時に、そこにかすかに、同じ時刻の同じ場所の映像があって、そちらは緑の多いところで子どもたちに星を見せているおじいさんになった自分が見えたという。割合でいうと99.999%は砂漠の自分、0.001%は緑の中にいる自分とのことだ。これをどの程度信じるかは人それぞれだろう。しかし、この日本から緑がどんどん失われていることは、誰の目にも明らかだ。恐ろしく絶望的な世界が、数年後に迫っているのだが、この現実感の乏しさは何だろう。そっちの方が怖い。自分にできることは何だろう。まずは知らせることだ。ネットの中では4等星ぐらいの光しか発してないだろうが、ともかく書いて知らせることだろう。少ない可能性でも、ゼロではない。砂漠には、させない。
2005年09月07日
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先日、母方の大叔父が80歳で亡くなって、葬儀があった。私とこの人とは、あんまり思い出がなくて、特別感慨もないのだが、父を早くになくした母にとっては、いつまでたっても「おにいちゃん」で、かつ母と同じ年代にいる親族達にとっては、長老的な存在だった。仕事の関係もあって、葬儀は参列者が2000人ぐらいにのぼる比較的大きなもので、段取やらシキリやら、相応に大変のようだった。5年ぶりぐらいに親戚の人々にたくさん会うことになって、否応なく、考えてしまうことがあった。母方の親戚の大部分に共通することなのだが、どうも皆、自分のことより他人のこと、という思考様式と行動原則に恐ろしく縛られている気がしたのだ。今回亡くなった大叔父に対しても、家族のことや自分の健康を犠牲にして、介護する遠縁の女性がいたりするのだ。無論、大叔父は「他人」ではない。ここでは、自分以外の人間のことを、そのように呼ぶだけである。話を戻そう。もちろん、この人だけでなく、直接の家族や他の親族も手伝っている。だけれども、中心になって看護してきたというその人には、なにかこう、不自然なものを感じてしまう。結局のところ、この介護した人は家族が入院し、自分もそもそも丈夫ではない。今回も寝込んでしまったと聞く。そもそも私が子供の頃から、この人はそういう状態で生きている。夫も同じような行動パターンを持っているので、さらに拍車がかかっている。彼らの子供が看護婦になって自分から進んでERに勤務していることも、関係ないとはいえまい。ちなみに子供は2人とも子供の頃からずっと病気ばかりしている。そして、この介護を中心になってやってきた人と、ウチの母とは仲がいい。つまり、同じように「自分のことより人のこと」が好きな人種で、私もその影響下に育ってきたといえる。この人種は、自分のことを一番に考えることを、はすごくイケナイことだと思い込んでいるふしがある。ワガママ、ジコチューだと。これは、自分なしに世界を成立させようとしていることのように思える。自分のことから、目を逸らしているように感じるのだ。彼らの考える「優しさ」とか「思いやり」を突き詰めていったら、何が見えるのだろう。そこにこそ、自分で自分の始末をつけられない、ワガママとジコチューがあるように思えるのだが。
2005年09月03日
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なんかやることいっぱいあるのに、どんどん用事がやってくる。なんじゃこりゃ。どうも私は、「ムキになる」性格らしい。うぐぐ。人から見ればどーでもいーよーなことに、つっかかっていったり、拘ってくよくよしちゃったり、というようなことだ。そしてそれは、ある物事にフォーカスし過ぎちゃってて、周りが見えてないということらしい。言われてみれば、そういうところは昔からあって、そして変わってないように思う。ようするに、ひところ言われた地雷女ってヤツじゃん。誰にでもそういう地雷ってあるとは思うし、全くないのも問題だろう。なんでも「いいよ~」なんていう人は、結局何も考えてないし、何も見てないように思う。が。この私の地雷って何だろう。人からバカにされるとどかーんとくる時が多いわけだが、じゃあ、そのプライドみたいなのって、何が根底にあるんだろうか。うーん。結局人から存在を認められたいってことか?認められるために何かしようとするって、無意味だよなあ。その無意味さがわかっていながら、抜けられないジレンマか?どこまでいっても、基準は自分になくて他人に設けてるのか?まあ、いいや。糸口かもしれん。
2005年08月30日
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加悦町というところに行ってきた。百人一首に出てくるあの大江山の麓の町だ。少し離れたところに、天橋立という超有名観光地がある。ここで何をしてきたかというのは、かぼすねいさんや、みっちーさんが詳細を報告されると思うので、割愛(笑)。今回も、お世話になりました。久しぶりに、外で寝た。マットを敷いて、寝袋にくるまり、タオルを枕に、一晩芝生の上で過ごしたのだ。物凄い風が吹きすさぶ夜だったのだが、あんまり満月がきれいだったから、街で見るより数倍眩しく光るお月様に照らし出されて、テントに入るのを止めにした。残念ながら雲が多かったので満天の星空は拝めなかったが、ぽつりぽつりと白銀色の小粒が雲間からのぞく様も、なかなかの趣である。寝転がって、すさまじいスピードで流れていく雲と、真っ暗な空を見ていると、その空の向こうに地球があるような気がしてくる。自分の体は地面に張り付いているんだけど、それをふと忘れ、成層圏よりちょっと上あたりの宇宙に浮かんで、地球を見下ろしているイメージが、ありありとしてくるのだ。実際の自分の位置をほんの少し意識しながら、同時にこのイメージを持つ。両方感覚を行きつ戻りつしながら、その差異を感じるところに、面白みがある。まさに、ゆりかご。そのまま朝まで中空のベッドに、体を任せた一夜だった。空以外に、ほとんど視界をさえぎるものがないという、すばらしい自然があってこそできる遊びだ。また、訪れたい場所である。今度ははたくさん星を見せてもらって、地球から何万光年も旅する夜にしたいと思う。
2005年08月21日
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ミュージックリングがきっかけで、80年代の音楽が無性に恋しくなった。本日はデュラン・デュラン。リ~フレックス♪でノリノリである。いいなあ、ニューロマンティック。そしてデヴィッド・ボウイね。一番好きな「Loving The Alien」でうっとりである。それからバウハウス。なんか今年再結成したらしいと知ってびっくりである。ボーカルのピーター・マーフィーもソロでずーっと頑張っているらしく、最近のアルバムジャケットを見て、涙が出そうになった。年をとって、妖しい感じがやばいぐらい倍増していた。貧血を心配したくなるほど青白くて、目が落ち窪むほど痩せている。でも、瞳はギラギラしてて、口元なんかもきりっとしている。なんだかんだ言って、カッコいいのである。街ですれ違う巷の「オヤヂ」達とは雲泥の差!なのだ。今に始まったことではないが、私はオヤヂが嫌いである。50、60歳代以上なら誰でもお構いなしに、忌み嫌うというわけではない。良い人もいる。年代は同じでも、私が差別と侮蔑を込めた意味で言うところのオヤヂは、許されるのであれば即「吊るし」直行の、どーにかしたい人々のことだ。吊るしてやりたい一番の理由は、マナーだ。公共のマナーが、あまりにひどい。最近の若者は~、なんてよく耳にするが、相対数として若い人の方が、マシなように思う。何で電車の座席に座るのに、あんなにどっかーんと勢いがいるのか。何でこっちが避けても、べったりと腕をつけて平気なのか。何でスポーツ新聞のエロい写真を堂々と見せびらかして読むのか。何でぶつかっても一言も謝らないのか。酔っ払いって集団で乗ってくる灰色のオヤヂリーマンともなると、傍若無人の極みである。海外に行っても、空港で一番恥ずかしい存在に成り果ててることが多いようにも思う。若い頃から、この年代の人々から不快な思いをする事が多かった。仕事怠慢(こっちに尻拭いさせる)、痴漢、セクハラ。全部同じ年代のオヤヂの専売特許だった。何がどうなって、そうなるのかいまいちわからない。自分に対する意識があまりに欠如してるのは確かだろう。どっからそうなったんだろう。自分が何をしているのかを一番最初に知るのは、「自分」だ。だけど、その「自分」は自分なのだけど、「他人としての自分」だ。自意識過剰な神経質野郎も困ったもんだが、この他人としての自意識をもってないヤツはもっと困る。こういう人に限って、説教好きだったりするよなあ。ううーん。オチもないままだが、今日はこれで終わろう。オヤヂ談義、まだ足りないから、そのうちまた書くぞ。
2005年08月19日
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「ミュージックバトン」なるものが回ってきたよ。ともかく書いてみようかねえ。Q1.コンピュータに入ってる音楽ファイルの容量 うはは、0KB! マシンには音符は入ってないのだ。Q2.今聞いている曲 ファンタスティック・プラスティック・マシン(FPM)のアルバム なんだかんだ言って、1枚目が一番好きだな。 マンスフィールドのアルバム 「I SPY」はやっぱ名曲だと思う。 ともかく、感情こもっちゃってるような曲は望んでないのだ。 ひたすらフラット、さりげにラウンジ。 おまけにプリティでポップでちょっぴりエロティック。 その辺りを押さえてんのが、FPMとマンスだと思ってます。Q3.最後に買ったCD ライブで買った歌屋BOOTEEさんのミニアルバム。 その前は多分、「READYMADE art of tea」だと思う。 小西康春はじめ、レディメイドな人々の楽曲が15曲入ってます。 もちろんFPMとマンスも参加。 最近、CDって買ってないなあ。 Q4.よく聞く、または特別思い入れのある5曲 よく聞くのはQ2の通り。 思い入れがある曲なあ。ありすぎて困るよ。 1.ビートルズ「I'll Be Back」 小学校にあがるか上がらないかぐらいだったと思うが、 これがロック知りそめし記念すべき1曲。 2.ローリング・ストーンズ「Ruby Tuesday」 ロックなやつもいいのだが、こういうメロウなのもかっこいいミック。 「悪魔を憐れむ歌」も好きだな。 3.セルジュ・ゲンズブール「Je Tame Moi Non Plus」 これに限らず、「太陽の真下で」「無造作紳士」とか、 フランス・ギャルの「夢見るシャンソン人形」「涙のシャンソン日記」とか、 フランソワーズ・アルディの「さよならを教えて」とか、めちゃはまり してた時期が。 4.バウハウス「She's In Parties」 なんていうか、私が音楽をあれこれ聞きまくっていたのは80年代。 この頃というと、バウハウスとスージー&ザ・バンシーズなんだよなあ。 ニューロマンティックからゴシック、パンクっちゅー、 わかりやすい流れ。この後にフレンチ系に走る。 5.ベルベット・アンダーグラウンド「Fam Fatal」 有名なバナナジャケットです。ニコがやっぱりかっこいい。 「Your mirror」「All Tommorows Parties」も好きだ。 ここを中心に、パンクとの繋がりを求めて、T―レックス、 テレビジョン、ドアーズなんかにもハマる。 今回は洋モノだけにしたけど、和モノもいくつかあるなあ。 戸川純、コシミハル、カヒミ・カリィは確実にランクイン。 次点で椎名林檎か。立花ハジメ、細野晴臣とかも。 別格扱いは美輪明宏ね。 Q5.バトンを渡す5名 すまない。これはパス。
2005年08月14日
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7月の終わりに、編集学校は「守破離」の「破」という第2段階に、猛然として突き進んじゃっているのだ。「守」の時とはちょっと違う、スピード感とドライブ感に、はっきりいって、眩暈と焦りもが。ふおお~。先日のお題は、「インタビュー編集術」。身近な誰かに「私の趣味」というお題で話を聞いて、それをまとめてこいと。あたしゃ迷わずかぼすねいさんに申し込んだよ。結果は大正解!キャンプをテーマに、色々と深いお話を聞く事ができて、お題だってことを忘れてしまうほどでありました。ねーちん、ありがとうございました。しかもおいし~い晩ごはんまでご馳走になっちゃって。幸せ者でございます。それにしても、インタビューって面白いもんだ。ある程度、どういう話を引き出そうとかは考えてても、なかなかうまく導けない。ついつい分岐していった話の方を掘り下げちゃったりして。それでも、まとまった時間に一つのテーマを元に話を聞くと、それまで意識していなかったことに発見があって、どんどん立体化していく。なんか、インタビューが趣味になりそうである。せっかくボイスレコーダも買ったしな。使い方を忘れないうちに、やっとくべしってか?さっきBBSを見たら、ミュージックバトンなるものが、回って来てたぞ。しばらく日記書いてなかったからなあ。ううーむ、これまたある種のインタビューか?明日にでも書こうかね(^o^)
2005年08月04日
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本屋に行くたびに、気になって仕方がない本ってないだろうか。本棚から出してぱらりぱらりとめくって、結構面白そうと思うけど、結局買わないで終わり、また1週間ぐらいすると気になってきて、同じ事を繰り返したりする。「脳はなぜ「心」を作ったのか」(前野隆司)という本が、まさにそういう本だった。3000円未満の本ならあんまり躊躇せずに買ってしまうタイプなのだが、どういうわけか、1900円のこの本には迷ってしまった。そもそも、脳とか心の話って、専門用語が多くてわかりにくい。新説も次々出るし、一歩はまると続々と新しい情報を仕入れなきゃいかんという、強迫観念にも似た気分になってしまう(私だけか?)。マンネリな連載コミックを、ラストが気になるというだけで延々と購入し続けるのと、似てる感じね。やめりゃーいいじゃんと思うのだが、どうも気になるというのが人情である。おまけにトンデモっぽいのはご免です、という損得勘定も働いている。しかし。人間いつ死ぬかわかんないし、思い切って買うことにした。さて本書であるが、「心の天動説から地動説へ」というコペルニクス的大転換をやってみました、というふれこみである。言われるまで誰も気がつかないけど、言われたらすごく普通だ、というノリ。ごく簡単にいうと、自分で意識してやっていると思っていたことが、実は自分の意識でやっているわけではない、という説なんである。全部、錯覚。その錯覚すらも、プログラム。そして人間は蓄積されたパターンで動いているだけ。じゃあその実体は何なのさ!というところを本書では色々と解説してくれている。例示が多いし、専門的な表現は最後にまとめて1章作ってくれているので、比較的読みやすい本である。ついでに言えば、あくまで仮説であるという観点なのだが、なんとなく体験的に、納得できる内容なのだ。自分で自分をコントロールしたいができないぞう!と悩んでいる方には、こういう考えもあるのかという新機軸の情報という意味で、意義があるかもしれない。脳はなぜ「心」を作ったのか
2005年07月24日
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ハッピーハッチャンのトークライブなるものに行ってきた。前々から不思議な人だなあと思っていたが、そのナゾは深まるばかりである。40万円の壷や250万円の教材とか買っちゃってるし。あやしげな宗教団体に巻き込まれたりしてるし(現在は脱却)。そういうのが、ふふーんと数えただけで60ぐらいはあるらしい。現代社会に潜む罠という罠に、ひっかかりまくっているのだ。でも。ご本人の口から、彼らを恨む言葉は出てこない。ごっつい不思議である。これまでの経験からして、自殺とかひきこもりとかの事態になっていてもおかしくないらしいが、そういうことも一切ない。めっちゃ不可思議である。第2弾のトークライブはあるのだろうか。今度はもう少しフォーカスした感じでお話を聞きたいものだ。ちなみに、ハッチャンの夢は、クイーンエリザベス号で世界一周することである。叶えてほしいと、素直に思う。
2005年07月23日
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昨日は、一日エネルギーな時間であった。楽し、をかし(^o^)●ひまわりとお水。共鳴させると、ひまわりをお水に「転写」できる。そうすると、微妙ながら、お水の味が変わる。なんとなく、爽やかな風味で、温度は低くなった感じ。人間とお水。これもまた共鳴できる。そしてお水の味が変わる。今度はキリッとした感じ。なんでできるのか、わからない。そして、お水の成分が変わっているのか、飲むこちらの感覚が変わっているのか、そこもよくわからない。感じた事が、現実。●最近、その人その人の表現というものを通して、その人の持つ「編集方法」というものを見ていこうと考えている。その人の話とか、行動とかを見ていくことで、その人の考えていることの原型みたいなものを感じ取るとか。しかし、まだまだ人間ができてないせいか、感情が先に立ってしまう。情動を感じると同時に、情報収集と考察するのは、ちょっと難しい。特に、むかついたときには。一体、なんのメタファーなのか、象徴なのか、お知らせなのか、よくわからんが、なにがしかの情報を持って、その人は私の前に現れた。己の映し鏡とすると、かなり、イタイ。ああもう、わかりましたっ。●鬼太郎さんに、出会えた。ちゃんちゃんこは、やっぱりかっちょいい。●沖縄の話をたくさん聞く。無性に、ソーキそばが食べたくなる。●「十年一日の如く変わり映えのない」と、ある輩から指摘される。納得いかない。が、現象として現れたことに違いはない。一応、受け取ろう。そのうち、勝つ。それがきっと、宇宙の法則。アクロス・ザ・ユニバース。●発熱した。朝には、復活した。
2005年07月11日
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レーモン・クノーの「文体練習(exercices de style)」という本を読んでみた。クノーという名前は知らなくても、映画「地下鉄のザジ」ならご存知だろうか。この映画の原作を書いたのがレーモン・クノー。おフランスのおじさんだ。「文体練習」は、どうってことないある短いエピソードについての話である。内容はかなり、お粗末である。しかし、それを99通りもの書き方で著してみたらどうなるか。というのがこの本のメインテーマなのだ。そのどうでもいいエピソードはこんな話である。『ある人がバスの中で見かけた妙に首の長い男。そいつが周りの人に足を踏んだといちゃもんをつける。2時間後、別の場所でまたその首長男を見かける。彼は友達からコートのボタンの位置のことでアドバイスを受けていた。』これだけ。コレだけである。少々要約してみたが、だいたいこんなもんである。ほんとにどーでもいい内容のこの話を、あれこれと手を変え品を変え、様々な文体で表現しているのだ。例えば、語り手を変えてみたり、やたら専門用語を並べて「哲学風」にしてみたり、ホメロス調で荘厳なノリでやってみたり、罵倒語をふんだんに盛り込んだり。「前から後ろから」なんていうフレーズを単語の間にやたらめったら入れてみたり(これだけでちょっとエロ~い文章になるから不思議)。果ては、特定のルールで語順や言葉の位置を組み替えて、まったくワケワカな文章にしてみたり。つまり。内容が問題ではないのである。「方法」の問題なのだ。そして、いかにその「モード」を醸し出せるか、なのだ。99種類も並ぶと、かなり壮観である。比較してくことの面白さが、なんとも小気味いい。この本、出版されたのは1947年なのだが、フランスでは、以来ずっと版を重ねている人気作品だそうだ。外国人がフランス語を勉強するのにも、役立つテキストらしい。さらに、よくこんな本を日本語に翻訳できたもんだと思う。当然なんだが、「翻訳不可能」というものも存在する。例えば「ぱっと見、英語なんだが、声にだしてみたらなんとなくフランス語っぽい」文体とか。ギリシア語風な造語を散りばめた文体とか。どんな風に「変奏」されているかは、是非実物を読んでもらいたい。翻訳者である朝比奈弘治氏による解説が巻末に詳細なので、本文を味わいながら、この辺りも大いに楽しめる。表紙の装丁もスタイリッシュでおしゃれだし、本文の各ページに施されたちょっとしたお遊びも、なんともいい風情である。文体練習
2005年07月06日
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1週間ぐらい前から、自宅マシンのモニタが梅雨入りである。ありていにいうと、ナゾの現象に悩まされてるのだ。突然、わけもなく、画面全体が紗がかかったように、グレーになるのだ。なんで「紗」かというと、グレーの後ろにうっすらと、元の画面が見えるから。数分おきに、このグレー状態になって、数秒そのまま。それがずーっとくりかえされている。目がちかちかするし、すごく疲れる。原因は不明。電磁波のせいかなあ。近くで工事とかしてるし。でもウチの近所は工事が多いけど、こういう現象ないし。それともモニタの寿命?スパイウェアのせいかなと思って、スキャンしたけど変化なし。ハードの容量が少なくなってきてるからか?と思ってデフラグして、画像とか別ドライブに移したけど、やっぱり同じ。ううううーん(-_-;)困った。どなたか、思い当たる原因とか、対処方法とか、ご存知ないでしょうか?-------日記を書いて直後、グレー時間があまりに長くなって、ほとんど使えない状態に。思い立って、昔使っていたモニタを接続してみた。な~んら、問題ない(-_-;)ううーむ。やはり、モニタに原因アリ、か。天寿をまっとうなのか?それとも、救える命なのか?
2005年06月28日
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6月27日午前0時をもって、すべての回答受付が終わった。私が受講している「守」では、卒門するのに特別に試験とかはなくて、とにかく全問回答することが条件である。この数日前に、お題38問全てを回答して、無事卒門とあいなった。めっちゃうれしいっ!ともかく、4ヶ月120日間、「何か他に方法があるはず!」とか、「絶対、何か思いつくはず!」とか、そういう風に考えてきた。しかもごく自然に。信じられない!この私が!こんなに前向きに生きてるなんて!ポジティブシンキングとか、すごく胡散臭いんだが、結局のところそれは、自分が体験を持ってないからなんだと思う。ようするに、自分なりにポジティブにやってみて、うまくいった、満足した、っていう体験だ。今回について言えば、「何か他に方法があるはず!」なんてことを思いながらお稽古に挑み続けて、ふと振り返れば、「これっていわゆるポジティブシンキング?」という風に後付けしただけのことだ。さて、これからどうするか。ここで学んだ事をどういう風に活かして行けばいいんだろう、ってことをずっと考えている。今のところ、「せっかくべんきょーしたんだから!!」みたいな、妙に損得勘定の入ったノリで、お稽古の内容を意識して仕事とかに当たってしまうことがある。ちょっとづつでも、意識しながら囚われないようにやっていこうと思う。ワードだってエクセルだって、少しレベルの高い操作を覚えた時って、全然応用とかできないもんだし。日々毎日、生活全部が編集なんだってことを、ほんとに感じる。だから毎日お稽古で、そして毎日が本番。編集お稽古のお題に毎回必ず、こういう文言が書いてある。「編集に正解なし。すべて仮留め。動かそう。」なんか、オーバーに言えば、人生も同じなんじゃないかな、なんて思う。ともかく、続けてのレベルアップは「破」という講座になる。「守」「破」「離」(しゅ・は・り)という3段階の真ん中だ。受講しようかどうか迷ってたんだが、とりあえずやってみようと思う。ついていけるかどうか、わかんないけど、それもやってみないとわからないし。開講は7/25だ。それまでの間、がつんがつん、色々やるぞう。って、とりあえずさっさと俊敏に新着の古本アップしようよ、私!!
2005年06月27日
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