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January 7, 2023
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タイトルの17回目と言うのは僕のわの会への参加開始からの回数で、
わの会は歴史ある会なので会の中での回数表示は(年度+その年度での回数)であり、
今回はわの会令和4年度第7回である。
タイトルを見てしみじみ思うのだけど、もう令和も4年目が終わるんですね。
時が経つのは早いと思う。自身は変わらなくても世の中は前に進む。

令和5年1月5日の「わの会令和4年度7回目」は鎌倉散策だった。
鎌倉の散策も僕が参加してからでも、もう5回目(古くからの会員は10回を超えている?)なので、
もう隅々まで回ったかと思っていたら、歩くと新しい気づきが有るもんだなと思う。
ガイドさん達も気を使って、常に新しい所を紹介してくれるので飽きない。

ルートは下の地図の通り。


いつもよりも距離も短く、高低差が無い楽なルートだった。

まずは鎌倉駅西口時計台広場に集合し、御成通りを南に下る。
前のわの会鎌倉散策では遠めに眺めるだけだった日本基督教団鎌倉教会に初めて入る。



右手には幼稚園も併設されている。

キリスト教会に松なんてのも意外にオツな感じがする。
日本人は本当に順応性が高く、何でも受け入れて日本流に変えてしまうのだなと思う。
前にも書いたけど、神社に狛犬が有るのが良い例である。
狛犬の顔を見ると分かるけれど、元々犬ではない。本当は狛「獅子」である。
元はインドの寺院のライオンの像が仏教伝来時に日本に根付き、
神仏混交により神社の結界として広まったものが何故か寺からは無くなり神社に残った物。

(出雲大社には狛犬ではなく「出雲狛犬」がいる。構え獅子型である。
 武御雷命に負けただけでなく仏教にも負けた?)
ただ、別当寺と言う言葉が残っているように朝廷は仏教伝来以来、
古い豪族を抑え込む目的で神社よりも寺を上に置いたので、狛犬は神社に定着した。
(別当寺(べっとうじ)とは、専ら神仏混交が行われていた江戸時代以前に、

 その主催者を別当(社僧の長のこと)と呼んだことから、別当の居る寺を別当寺と称した。
 神宮寺(じんぐうじ)、神護寺(じんごじ)、宮寺(ぐうじ、みやでら)なども同義
 NHK鎌倉殿の13人で源実朝は別当として鶴岡八幡宮に居た)

鎌倉には教会が多い。
神社、寺、教会が多数混在する都市なんて世界的にも珍しいのではないだろうか?
これでモスクなどが増えたら支離滅裂になりそう。

僕は日本基督教団が大嫌いである。
中学生の頃、北九州に住んでいた僕は小倉の魚町銀天街をよく歩いていた。
するとキレイなお姉さんがさっと花束を渡してくれたので思わず受け取ってしまった。
綺麗なお姉さんだから抵抗はできない。
すると350円払えと言われた。何で?と思った。
花束を受け取ったのだから代金を払うのは当たり前だと言うが、
欲しくてもらった訳ではない。なかば強引に渡されたのである。
でもお姉さんの顔を見て、気の弱い僕は諦めてしまった。1か月のお小遣いの7割が消えた。
でも、お姉さんが悪いとは思わなかった。お姉さんにそんなことをさせる日本基督教団が悪い。
見ると何人かのお姉さん達が同じようにお花を「押し付けて」いたからだ。
それも押し付ける相手はたいてい気の弱そうな中高生の男の子だ。
日本基督教団の組織的な犯罪だと思う。
今話題になっている統一教会と同じである。金額は少ないけれど。
日本基督教団は「私たちは統一教会なんかと違って正しい宗教団体です」と言うが昔は違う。
宗教団体なんてそんなものである。
いや宗教家だって生活があるのだから、常識の範囲でなら「信者から受け取る」のは良い。
でも何の関係もない通りすがりの中学生からお金を巻き上げるのはダメでは?日本基督教団?

まぁ愚痴は置いておいて、下馬の交差点を右に曲がり一の鳥居に向かう。


この通りは若宮大路で左に行くと鶴岡八幡宮、右に行くと一の鳥居が有る。
ここは以前のわの会鎌倉散策でも書いたけれども、佐助川と言う川が有り、
下馬橋がかかっていた正面左に見える銀行前の「欄干」はその名残で記念に残された物。
鎌倉には「鎌倉十橋」と呼び、たくさんの橋がある。
鎌倉十橋については以前のブログを参照。
横浜市金沢区わの会12回目のイベントに参加しました。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)
ガイドさんもあまり詳しくは触れないが、
よく鎌倉幕府がここに開かれたのは周囲を山で囲われていて防御がし易かったからだと言うが、
それはそれで正しいが、本当の理由は市内に川が多く物資の輸送に便利なこともあったと思う。
だからこんな狭い範囲に10も橋が有るのだし、
小さな川は堀のようなもの、物の運搬に便利だし防御にも最適である。
(そう言えば「段葛」も何で「段」なのかと思ったら、
 参道としても1段上がると恰好良いと言う事もあるけれど、
 1段上がることにより水はけが良くなるので雨が降った時に都合良いし、
 NHKの鎌倉殿の13人で「和田合戦」の時には防御ラインとして役に立っていたなぁ。
 何でも目的は1つだけではなく複数の利点が在るのが良いのかも?)
山は確かに敵兵を防ぐには良いが、平和な時には不便で仕方ない。都市には向かない。
それに政治機関が崩壊して滅ぶのは、たいていは外部から攻められるのではなく内側から。
鎌倉幕府を滅ぼしたのは、後醍醐天皇そのものではなく元々は北条氏の仲間の足利氏である。
後醍醐天皇は「ガンバレ!」と言ったかも知れないが、実質は足利氏と新田氏が犯人。
そのせいで鎌倉の周囲の山は(少ししか)役にたっていない。

だから周囲を山に囲まれて防御しやすいことは三番目くらいの理由で、
一番目の理由は「元々源義家の時代からこの辺が源氏の根拠地」だったことで、
前九年・後三年の役以来、源氏一族とその配下の三浦氏や中村氏がこの地に居たからである。
(源氏山のふもと、政子や実朝の墓:やぐらのある寿福寺は元は頼朝の父親の義朝の屋敷跡)
平家物語等のせいで、頼朝の時代に何の脈絡もなくいきなり鎌倉に来たように思う人は多いが、
実は後三年の役やその後の保元の乱・平治の乱でも三浦一族等は源氏の下で戦っており、
三浦義澄や上総之介広常は平治の乱では頼朝の父親の源義朝に従って京で戦っている。
なので、源義朝の子の頼朝の家来になるのは自然な流れなのである。
平治の乱以後、負けた源義朝の家来の三浦義澄や上総之介広常は平家の敵として圧迫されており、
例えば上総之介広常は、平清盛が上総の国司藤原忠清を派遣してきたせいで圧迫を受け、
同じように平家の下で三浦氏等を圧迫してきていたので武士達は領土を奪われると不安になり、
大庭氏や畠山氏は上手く立ち回って平家方についていた。
(なお、大庭氏に関しては大庭御厨の件もあり源氏に敵対していた。)
なので、三浦氏や千葉氏が頼朝を担ぎあげたのは頼朝の為ではなく自分達の身の保全だった。
ただ、北条氏はそのどちらでもなく頼朝を身内にして上手く世渡りをしただけ。
だから義時や時政はよく伊豆に帰っていたのだ。

二番目の理由が今回あげた小さな便利な大きさの川が多いことである。
お米を人間が担いで運ぶのは大変だし、この時代には荷車は貴重品で誰でも持てるものではない。
その点舟はたくさん荷物は運べるし便利。
大船の地名の由来が「粟船」だと言うのもうなづける。

その位にして次は一の鳥居


鶴岡八幡宮には三つの鳥居が有り、いずれも明神鳥居である。
通常の神社では神社に近い方から一の鳥居~二の鳥居~三の鳥居と数えるが、ここは逆。
海に近い方が一の鳥居と呼ばれる。
ガイドさんのメモによれば、
このように海に近い方から一の鳥居と呼ばれるようになったのは、
明治三十七年(1904)8月の内務省告示で「―の烏居が特別保護建造物に指定された時からであり、
江戸時代の鎌倉絵図の多くは
「鶴岡八幡宮の一の鳥居より由比ヶ浜海岸まで十八町(約2km)」と記されているから、
現在の「三の鳥居」を「―の鳥居」と、また「一の鳥居」を「大鳥居」と呼んでいたようである。
鶴岡八幡宮の八幡太神は海を渡つてこられた神様なので、
海から参道に入るのが正式な参拝の仕方であり、
そのため海に近い方に一の鳥居とされたのであろうとされている。

最初の烏居は、『吾妻鏡』治承四年(1180)年12月16日条にあることから、
鶴岡八幡宮の造営と同時に建てられ、以来数度の再建を繰り返してきたが、総て木製であつた。
平成2(1990)年の電線埋設工事の際に、現在の一の鳥居より180mほど鶴岡八幡宮寄りの位置で、
直径 1.6m、円周3m余の柱根が発見され、元の鳥居の柱跡と推定された。
今、「浜の大鳥居」跡の説明碑と丸い柱跡がある。


一番下の写真は道路の反対側歩道の跡で、歩道の真ん中になるので舗装されている。

一の鳥居は高さ約 8.5m、笠石という鳥居の一番上の横石の長さが約13mあり、
柱には「寛文八年」(1668)の 文字があり、鳥居としては数少ない国重文になつている。
また元は木製だったものが石造りになったのには言い伝えが有る。
三代将軍徳川秀忠夫人お江与の方などと呼ばれた崇源院はたいそう鶴岡ハ幡宮を信仰していた。
ハ幡様に祈願して、後の三代将軍家光が生まれた。
それからは、ますます深く信心して、ハ幡様を一生の守り神とするようになった。
そして家光の乳母春日局を自分の代わりとしてたびたび参拝させ小袖やお礼の手紙を納めさせた。
ある夜、崇源院の夢枕に八幡神が現れ、
「大鳥居を石造に改めなさい。その石は備前国(岡山県)の犬島にあります。」
というお告げがあり、
早速、備前の大島に人をやって調べさせたところ、夢のお告げ通りに大きな石があった。
人々は八幡様のご利益に驚いて、鳥居を造り直すことにしたのだそうだ。

なお、大正 12年 (1923)9月の関東大震災で、三つの鳥居はすべて倒壊破損した。
そのため一の鳥居だけは旧来の石を使い昭和 11(1936)年4月着工し同年8月末に竣工したが、
二の鳥居と三の鳥居は旧来の花崗岩を使用することができず、
昭和2年(1927)年 に鉄筋コンクリート製の鳥居として再建されたのだそうだ。
(なお二の鳥居は今回最後に訪問する予定だが前回も言ったので省略)

一の鳥居のすぐ傍には畠山重保の墓が有る。


詳しくは上記の前回ブログで書いたので省略。
ガイドさんは、この辺は前回来た所なのでみんなが飽きると考えたのか別の話をしてくれた。
下の写真の宿り木である。


僕もNHKで見たのだけれど、「宿り木」も最近の研究で従来とは見方が変わってきている。
と言うか宿り木に限らず植物全体の認識が変わってきている。(NHK超進化論)

植物は大地に固定されて動けず、また他とコミュニケーションが取れない物と考えられてきた。
ところが最近の研究では、自ら微量の伝達物質を空気中に発散し、他と連絡しているらしい。
例えば木は害虫(例えば毛虫)にかじられると伝達物質を発散して益虫(テントウ虫等)を呼び寄せ、
その益虫が害虫を食べることにより、自身の身を守るのだそうだ。

宿り木も同様で、昔は一方的に寄生して他の木から養分を奪いとるだけだと思われていた。
ただ葉が有って光合成はするので、栄養全体を木から盗むのではなく、
主たる栄養分は光合成し無機質等の通常地面から吸い上げるべき必要成分は木からもらっている、
半寄生と呼ばれる状態だと思われていた。つまり木の側には被害しかないと。
ところが実は寄生でも半寄生でもない、ただの居候的な着生と言う形態もある。

ノキシノブ等である。よく見かけるこんな植物。


ノキシノブは木に着いているが養分や水分を貰っている訳ではない。ただ居場所を貰っている。
なので寄生でも半寄生でもない。着生。

話は戻って宿り木が宿主の木にとって役にたっている(つまり共生)のかと言うことであるが、
はっきりと訳に立つことが有るわけではない。
しかし宿り木が冬でも葉を落とさずに緑であることに意義がある。
冬でも葉が有るので小鳥たちの住処になるのである。
そのせいで、小鳥たちは宿主に付く虫たちを食べてくれる。つまり鳥を介して間接的に役に立つ。
この間接的に役に立つのをどうとらえるかによっては共生と呼べるのではないかと言う事である。
害虫にかじられた植物が微量物質を発散して益虫を呼ぶ仕組みに似ていますね。

一の鳥居を後にして少し戻ると鎌倉女学院がある。お嬢様の学校。
僕が高校生の頃は女子高なんて入れなかったが、今は学園祭時には入れるのだろうか?
僕等にとっては神秘の世界。


鎌倉女学院は明治の有名な外交官陸奥宗光の長男の陸奥広吉氏の別荘の跡地で、
1904年に陸奥氏から鎌倉女学院に寄贈されたものである。
2004年に陸奥氏の了解を得て一角に大島桜を植えており、写真右の「陸奥桜」である。
鎌倉女学院脇の道路を由比ガ浜の方へ進み、川を渡ると古い家がありギャラリーと書いてあった。


ガイドさんの説明では、昔の酒屋さんで竹腰酒店と言う酒屋さんをギャラリーに改装したらしい。
右下写真を見ると看板に「竹腰酒店」と書いている。
また左下の写真を見ると軒下に恵比須様が飾ってあり、その右上には「鶴」がいる。面白い。

竹腰酒店の次は由比若宮神社に行った。

上の由緒書きにもあるように、この神社は鶴岡八幡宮の元になった神社で、
源頼義(頼義-義家(八幡太郎)-義親-為義-義朝-頼朝つまり頼朝の五代前の先祖)の時代、
源氏はこの地を得て、以来鎌倉は源氏の地となり、それが鎌倉幕府をここに開いた主因である。
ただ、鎌倉時代前までは偉い人は自分では領地にはおらず京都に居て、
地元の有力な家来たち(三浦氏や千葉氏)が現実的には治めていた。
それで三浦義澄や上総之介広常は頼朝の父の源義朝とともに京で平治の乱で戦ったのである。
ただ、頼朝の父の源義朝はその父の為義と仲が悪く、義朝は京から追い払われ坂東で育ち、
応仁の乱では父の為義を殺している。
また源義朝は平治の乱で負けたので三浦義澄や広常はばらばらになって坂東へ戻った。
その後、平清盛は坂東に自分の息のかかった人間を派遣したので三浦義澄や広常は危機を感じ、
それが鎌倉幕府の成立につながるのである。
決して平清盛は悪人ではなくやりすぎただけ。

神社の境内には義家の旗立松が有り、外に出た近くには石清水の井が有る。


石清水八幡宮から勧請したのなら、何で井戸だけ外に有るんだろう???

由比若宮神社(元八幡宮)を後にして、小町大路を北上すると横須賀線踏切脇に辻薬師堂がある。


ガイドさんの説明が無ければ見落としそうな古い薬師様である。
この薬師堂は元は二階堂の東光寺の境内に有ったものが、江戸末期に東光寺が焼失した際に、
この薬師堂だけが焼け残り、明治になって横須賀線が通る際に現在地に移設されたらしい。
覚園寺の12神将は、元この薬師堂に有った12神将をモデルとして造られたと言われており、
この薬師堂は鎌倉時代初期から有る由緒ある薬師堂なのだそうだ。

ここをさらに北上すると八雲神社が有る。


八雲神社と言うと、森高千里の渡良瀬橋を思い出すなぁ。
彼女は20代の息子がいるのに、30代にしか見えない。本当の年齢は秘密。
若かった僕のあこがれで、ミニスカートから伸びる足が長くて格好良かったなぁ。

神社を眺めていて、ふと「新羅三郎源義光公」と言うお名前が気になった。
関東には朝鮮半島由来の地名や人名が多いと思う。埼玉県の高麗郡とか。
埼玉の高麗郡は716年に、
朝廷が駿河等7ヶ国に居住していた旧高句麗からの渡来系移民1,799人を武蔵国の一部に移し、
高麗郡を設置したとされる。
またその際に上総国の渡来系移民もここに移したので、埼玉に上総と言う地名が残っている。
初代郡司は高麗若光で、666年に高麗の副使として天智天皇に貢ぎ物を捧げた人。
えー?時代は違うけれど、また高句麗と新羅の違いはあるけれど「若光」って「義光」と似てる。
参考までに埼玉の日高氏のホームページを紹介する。読むと面白い。
高麗郡建郡1300年の歴史と文化/日高市ホームページ (hidaka.lg.jp)

源氏は渡来系だったのだろうか?
源氏の神様である八幡神は元は新羅の「旗=幡=秦」に関係があるらしいから。
(北九州の八幡の由来は元は新羅から渡って来た人達がたくさんの=八=旗を神前になびかせて
 いたからだとする説が有り、この朝鮮半島由来の神様が応神天皇と習合したと言われている。
 神功皇后も八幡をなびかせて新羅を攻めており、日本→新羅なのか新羅→日本なのか不明。
 五市が合併して北九州市になる前の八幡市時代の市章は八本の旗を円形に並べたもので、
 八幡区内の霊園にを上空から写真を撮るとその名残が分かる。)


とすると桓武天皇はお母さんが百済の王族の娘、なので桓武平氏は百済系。
ならば源平の戦いは百済と新羅の子孫の日本における争い?なんか怖いなぁ。

そうそう上総国の渡来人と言えば、「千葉の柴山古墳の主」も渡来人(多分高句麗)だと思う。
以前のブログで書いたけれども他の日本の古墳から出土する埴輪と明らかに違う埴輪が出土し、
それは朝鮮の服装(特に「カツ=笠子帽」と言う帽子)だから。
「カツ=笠子帽」そのものは後世の李氏朝鮮のものなので直接的には違うが、
その元になった帽子は高句麗の遺跡の壁画に書かれた馬に乗る兵士の絵にも載っている。
北朝鮮の平安南道龍岡郡花上里にある7世紀の高句麗古墳、龕神塚の壁画「着笠騎馬人物図」には
笠子帽をかぶった武士が弓を射る姿が描かれている。
また、宋の使臣、徐兢が高麗の風物を伝えた『高麗図経』には、
大きな笠子帽をかぶって馬に乗る人が描かれている。
朝鮮時代の笠子帽とそっくり。これが後世に伝わり、李氏朝鮮で流行ったのだと思う。
詳しくは以前のブログで書いたから参照。
千葉の柴山古墳群(殿塚・姫塚とはにわ博物館)へ行って来ました。 | 日本を征服だ! - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)

源義光は近江国の新羅明神で元服したので新羅三郎と言われたらしい。何でそんな所で元服?
日本の神社で元服すれば良いのに。新羅明神と何らかの関係が有ったのかなぁ?
永保とは1081~1084年頃の年号。義光は甲斐源氏竹田信義等の先祖である。

<後日追記>
断りなしに北九州市の八幡(やはた)のことを書いたので理解できないと思うので追記。
全国の八幡社の総本山は「宇佐八幡宮」であるが、(有名なのは大人の事情により石清水八幡宮)
その元宮は福岡県の香春にある香春神社(709年造営)である。
中津市の「薦神社(こもじんじゃ)」が元宮だと主張する人もいるが(たぶん)誤りで、
薦神社は元宮ではなく摂社だと思う。
香春神社と宇佐八幡宮の関係は宇佐八幡宮の放生会に象徴される。
神仏習合 | 八幡総本宮 宇佐神宮 (usajinguu.com)
通常の放生会は生き物への哀れみ・弔いに関わる行事だが、宇佐八幡宮は特殊なのである。
薩摩隼人を弔うと言う一面はあるが、大事なのは香春神社との銅鏡を介した関係。
ここで八幡神と新羅の関係が分かる。
よく神功皇后や応神天皇と新羅の関係を言う人もいるけれど、
僕は逆に神功皇后は伝説(日本書紀)に書いているように新羅を屈服させて、
新羅から沢山の技術者を連れて帰り香春岳から銅を採掘して新羅の技術者に武器を作らせて、
その武器で神功皇后と竹内宿禰は麛坂王、忍熊王を打ち破り応神天皇の即位=天皇家につないだ、
それがその5代後の継体天皇まで続いたのだと思う。
で、「八幡(はちまん)」であるが、元は読みは「やはた」である。
それが北九州市八幡区に名前が残っている。
「八」は数が多いことを示し八百万(やおろず=たくさん)の神や八雲(たくさんの雲)と同じ用法
幡は元は神の依り代(ヒレ)で神様の後ろではためく布だ。八幡神は多数の旗(ハタ)で祀る神だ。
また旗は最近は学校で習わなくなったみたいだけれども「倭寇」が船べりに掲げていた旗。
倭寇は昔は日本の海賊のように言われていたけれど、倭と新羅を結んでいた交易船だと思う。
ついでに海賊をしていただけで(笑)、乗組員は倭人も新羅人もいた。
(注.倭寇は一般的には14世紀から16世紀に朝鮮や中国沿岸を荒らしまわった海賊であるが、
 広開土王碑にも「倭寇」の記載が有り、僕の言う倭寇はこれがもと。
 広開土王碑の倭寇は海賊ではなく倭の新羅を含めた対高句麗軍で、
 これが一時的なものではなく後年まで(非公式ではあるが)残っており、
 九州北部の(国に属さない)部族と新羅の(国に属さない)部族が、
 独自の組織を作っていたのだと僕は思っている。
 海の民は自由だからヤマト王権に頼らなくてもやって行けたのだと思う。
 イギリスの海賊と同様に国とは独立して活動していたんだと思う。
 イギリスの場合は王家自体がノルウエーの海賊の子孫と言う話はあるけれど。
 イギリス王室の初代であるノルマンディー公はフランス出身だけど、
 ノルマンディー公家はノルウエーのバイキングがフランス王家の家来になったのがもとだから)
(はちまん)と読むようになったのは神仏混交(神仏習合とも言う)以後である。源氏が原因?
北九州市には(女は神職にはなれないと言われて)神社庁から追い払われたけれど、
代々宇佐八幡宮で神職を努めていた到津家がおり(他には辛嶋家が有名)北九州が八幡宮本家。
なので「八幡」の説明に北九州市八幡市を紹介したのである。

八雲神社を後にしてさらに北上すると妙本寺に着く。
でも、前もそうだったけれども、今回も妙本寺には寄らない。


妙本寺は比企一族のお寺である。
ガイドさんが妙本寺を避けるのは何か意味が有るのだろうか?

妙本寺から西に向かい戎橋を渡ると本覚寺が有る。ここの夷堂が今回の目的地の一つ。


本覚寺は元は頼朝が鎌倉幕府の裏鬼門(西南)に あたる方向の鎮守として建てた夷堂があった。
文永十一年(1274)佐渡配流から帰つた日蓮が一時この夷堂に住み、辻説法を行つた所でもある。
そうかここに日蓮が居たのか。
日蓮はここで活動していた時に鎌倉公方四代の足利持氏に捕らえられ刑場で殺されそうになつた。
しかし、持氏の夢枕に夷神が現れ、お告げがあつたことから許されたといわれる。
このことがあつて持氏は夷堂があったところに本堂を建てて、日出に寄進したとのことである。
寺名は日出上人によつて本覚寺とされた。これがこの寺の由来である。

夷様はイザナギノミコトとイザナミノミコトの間に生まれた夷三郎であるといわれ、
事情(イザナミが間違えて女の方から声をかけてしまった)があつて足が立たない子として生まれ、
小船で現在の九州日向の里から海へ流された。
幸いにも、摂津 (兵庫県)西宮の武庫の浦に流れ着いたとされ、それが現在の西宮神社で、
夷三郎はその祭神の戎様となつたと云われている。
(えびすを漢字で書くと、神仏混交のせいで蛭子や恵比須や胡とも書く)
江戸初期までの夷神は、海辺の岩に座し厳しい表情の神だつたと云われているが、
江戸後期には釣竿と鯛を抱えて微笑んでいる姿に変身し、海の幸をもたらす港の神となり、
更には福の神と云われるようになつた。(七福神中唯一日本の神様である。)
仏教と神道の関係は難しいなぁ。

夷堂を後にしてさらに北上すると蛭子神社の近くに日蓮の説法跡が在る。


夷堂に住んで、近くの人達にここで説法していたんだなと思う。
その先に今回の最後の目的地である妙隆寺が有る。写真右は境内に有る寿老人。


ここは鎌倉幕府の有力御家人だつた千葉常胤の子孫の胤貞の別邸跡と伝えられ、
一般に「千葉屋敷」とも呼ばれる。
胤貞は下総に広く保有する領地を積極的に経営し、
一族とその氏寺である中山法華寺の勢力を不動のものとした。
胤貞が祖先追福のため、七堂伽藍を建立して妙隆寺を創建し、
中山法華寺の日英上人を開山に迎えたと伝えられる。

寿老人は南極星の化身と云われる中国道教の老僧の分身で、
安全、健康、長寿の神と云われており、鹿を随えている。(上の写真右の鏡餅の右側)
妙隆寺は「鍋かぶり日親 (二世)」 という異名を持つ荒行僧が修行していた寺と云われている。
時の将軍足利義教と対立した日親は、さまざまな拷間にも屈せずに82歳の天寿を全うし、
この事に因んでこの寺には寿老人の像が祀られている。

前回の鎌倉散策とルートがかぶるかと思って心配したけれど、
ガイドさんの配慮によって飽きない新しい場所を巡ることができて良かったと思う。
また、新羅三郎源義光を知ることによって、坂東と朝鮮の関係、源平と百済・新羅の関係と言う、
新しい「謎」ができて面白くなってきたなと思った。

だって、地元の人は気が付かないかも知れないけれど東日本と西日本は明らかに何か違うし、
その原因が、百済の影響を受けた西日本と新羅の影響を受けた東日本の関係と考えると、
何となく理解できるから。
殺した相手の首を塩漬けにする習慣はもともとは日本にはなく朝鮮から来た習慣だからなぁ。
平の将門以来、東日本と西日本は争い続け、明治維新に際して天皇が東に来たことにより、
日本は一つにまとまったんだなと思ってしまった。本当はどうなんだろう???






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最終更新日  February 12, 2023 01:06:13 AM
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