全94件 (94件中 1-50件目)
幸いにもその夜雨がはれて、二十八日には、数日ぶりの晴天に恵まれたのであったが、早朝部隊長自身も乗用車に便乗してこの行に加わった。途中、深甚〔しんじん〕な警戒のもとに地盤の堅い所を迂回し、幸いに一輛の犠牲者も出さず、敵兵との交戦もなくて、無事任務を果たす事の出来たのは、まったくの天佑であったが、こうした大輸送の苦しみは、戦う第一線におさおさ(※まったく)劣らぬもので、「戦う輜重隊の苦悶」というものもしみじみと味あわされた事であった。 私が、あの熱病に苦しめられながら、いつの間にか全癒して任務を全うできたのも、まったく不思議な事であった。畢竟〔ひっきょう〕不屈の精神力というものであろうと、今でも信じて疑わないのである。 この困難な輸送中、まだ食物も完全に咽〔のど〕を通らなかったのであるが、途中咽が渇いて水筒の水をのみつくし、兵隊の水筒にも一滴の水もなくなった。ちょうど、沿道の村々では、杏〔あんず〕の実の色づきはじめた頃で、車がとまると、兵隊たちは下車して行って、枝もたわわに実ったのを、そのまま折って来ては喰わせてくれた。あの味と親切とは今もなお忘れあたわぬ事である。 この夜九時頃、この大輸送車隊は、黄河の北岸觀臺〔かんたい〕という小部落に無事到着したのであった。ここの兵站の部隊長はキリキリ舞いの大多忙中、私が蒼白な顔をしてその事務室へまろび込むと、非常に気の毒がり、当番の國枝という上等兵を呼んで、私の宿舎をさがす事、一椀の粥を供すべき事を命じた。私はこの兵隊につれられて、暗闇の中をあちこちと歩き廻ったが、どこもここもすし詰めの満員で、身を横たえるところすらもない。上等兵は、またもとの事務室へ帰り、裏手の一室に案内し、こうりやんがらの寝台にアンペラを敷いて毛布を延べ、飯盒に粥まで炊いてもって来た。 私は、心から感泣して、その粥をすすりながら、窓越しにパッと赤くなって炸裂する砲弾の落下を眺めた。この黄河の南岸に今、土肥原兵団は戦いつつあるのだ。そして、明日は、ここを渡渉して、追及の任務をまず果たすのだと考えながらこの寝室にもぐり込み、半睡半眠の状態から、翌朝目を覚ましてみると、何と國枝上等兵は、寝台下の土間に筵〔むしろ〕をかぶって寝ているではないか。上等兵は、私にこの安楽な寝台を与え、自分はこうして土間に寝たのであったのだ。 私の心は、ただ相すまぬという念でいっぱいだった。匆々〔そうそう〕のうち、この兵隊は、大垣市の出身だという事を知ったのみ、その朝八時過ぎ、黄河河畔まで重い荷物を運んでくれ、「では帰ります。」 と、挙手の礼をして立ち去った。福々しい、雄々しい顔が忘れられない。 その部隊長、その上等兵、今では知るに由もないが、私はいつまでも忝〔かた〕じけなく思っているのだ。陣中には、こうした思い出がことに多い。大陸にある皇兵幾十百万は、誰れもかれも、みなまごころで扶〔たす〕け合いつつ戦っている。翻〔ひるが〕えって銃後を見れば、だた人を押し倒して進まんとする醜さが、依然として依然たりである。真の戦時体制、一億一心というものは、真実から助け合うまごころの確率にある事を、翻然〔ほんぜん〕として自覚しあわなければ駄目であると考える。 終 著者・成瀬関次 略歴 長野県に生まれる。本籍は三重県桑名市。東京外國語學校修学。 かつて公立学校教員及び新聞記者たりし事あり。 古武術及び日本刀の研究に没頭して三十年の久しきに亙〔わた〕る。 支那事変勃発と共に昭和十三年北支派遣寺内部隊兵器部嘱託として従軍、 軍刀を修理しつつ、北支の諸戦場を往来する事九ヶ月に及ぶ。 武蔵野線秋津神社の御神域に隣接する竹林中に草庵を結び、 大半茲に起居して錬武し読書し耕耘〔こううん〕す。 主なる近著左(※以下)の如し。 戦う日本刀 實業之日本社 實戦刀譚 同 日本刀匠譚 同 随筆日本刀 二見書房 古傳鍛刀術 同 臨戦刀術 同 手裏剣 新大衆社 日本刀の話(青少年向) 増進堂 剣者のおしえ(同、近刊)同 武用日本刀(近刊)教養社
2015年08月14日
河南省の首府、人口三十万を有する歴史上でも有名な開封城が陥落したのは、昭和十三年六月五日の夜であった。翌早朝私達は、自動車につらねて北門から入城したのであったが、珍しい事に、市民のほとんどは逃避しておらなかった。老若男女、いずれもあやしげな日の丸の旗を振り、沿道に並んで私等を出迎えた。 それには、いろいろな理由もあったろうが、「土肥原兵団長は支那通だ、支那をよく理解している大人〔ターレン〕だから、その将兵にもよく徹底している。決して危害を加えるような事はない。」とこう固く信じた結果の現れで、案の定、入城するとほとんど同時に、治安維持会も出来、新聞も発行し、翌日から、料理屋も浴場も、色々な商店も一斉に開業するという有様であった。 入城後間もなく起こった例の黄河決潰〔こうが けっかい〕の大事件だが、私の考えでは、これはずっと前からの敵の計画であって、開封が陥落したら、いつもの手で、土肥原兵団は総軍急追撃に移る。うまく兵団本部をやり過ごしておいて、全軍を水浸しにした上、今度こそはにっちもさっちもならぬ本当の孤立無援にして殲滅する、それがこの計画であったらしい。 ところが、こうした地形、こうした事情などは、ちゃんとのみ込み過ぎてござる閣下は、開封が落ちるなり入城し、いつになくどっしり腰を据え、一部隊をして追撃せしめ、全軍はここで骨をやすめ、将軍は久しぶりの支那料理に舌鼓をうち、風呂に浴して垢を落とし、当分滞陣の気配を見せたから、敵はしびれを切らして、やけ糞半分に堤防を決潰したのだが、水までが土肥原兵団を恐れてか、当然流れて来るべき開封城へは寄りつきもせず、反対に、予期せぬ方面へ流れて行って、万頃の沃土〔よくど〕を失い、万民の良民を苦しめたのみであった。 天佑と見れば見られるが、これとても将軍の腹からでた兵略の一つと、私はそう考えている。 ちょっと以前に遡るが、私は軍刀修理のために寺内部隊から第○軍即ち梅津部隊に派遣され、途中共産匪の列車襲撃にあい、石家荘の本部に到着したのは、五月二十日(昭和 十三年)の夜であった。その晩、すぐにこれから土肥原兵団へ行ってくれと、派遣の命令が出た。派遣先のこの兵団は、臨海線上の内黄という所に戦っている。 詳細は前方へ出て承合せよというのであった。ここから内黄までは数十里、その間は彼我交戦区域である。ずいぶん無茶な命令のように思われるが、こんな事は戦場の常で、いかなる事も「不能」と考える事が許されない。最後は死だ。死ぬ前には不能はないのだ。 戦地における「部隊追及」というのはこうしたもので、戦闘以上の苦痛を嘗〔な〕め、時に中途にして殪れる者もあるのだ。 幸いにも、内地への帰還兵をつれて帰り、いま原隊へ引き返すのだという安藏少尉、内地から補充として来た望月少尉、鈴木見習士官の部隊追及と同道で、この遠距離追及を結構する事となった。 途中、進行中の無蓋車上で、病名不詳の発病をし、嘔吐をする事数回、宿舎につくともう動けないという始末で、同行三人の看護を受けるのがいかにも心苦しく、それぞれの重い任務をもつ人たちの手足まといとなるのがつらかった。 飲まず喰わず、一晩中輾轉〔てんてん〕として苦しんだ。翌朝はつとめて起き上がり、佩刀を杖にしてふらつく足を踏みしめ、軍用列車に乗り込みはしたが、ただ前後不覚であった。ようやくにして二十四日新郷に到着、兵舎兵站の新郷ホテルに落ちついたが、熱は依然として去らない。その日から雨降りで、三人は前方の様子をさぐるために毎日出て行った。ここの宿舎の主人夫妻は、大分県の出身者で、親身になっ看病してくれたのは、今でも忘れられない。兵站病院へ入ってはとすすめてくれたが、そうすれば必ず後方へ送還されるにきまっている。あくまで頑張り通した甲斐があって、郷国を出る時、医師である義兄の調剤してくれた薬だけで、だいぶ熱も引き、粥もすすれるようになって、二十六日には軍用列車で道口鎭まで出た。 ここで、土肥原部隊が、黄河の南岸、陳留口渡河点を確保しこれを背にして背水の陣を敷き、大敵に包囲され、かつ弾丸食糧欠乏その極に達しながらも、敢然〔かんぜん〕と戦闘を継続しつつあるという確報に接した。雨は依然として降りつづいている。土肥原兵団からは、米よりも弾丸を送れ、という悲愴な無電が刻々入って来る。しかも、この道口鎭から黄河まで二十数里には、一万余の敵の騎兵が蟠踞〔ばんきょ〕しており、加えるに、数日来の大雨で、道路は至るところ池のように氾濫しているのだ。 この悪路と闘い、また敵の襲撃に備えつつ、弾丸糧食を積載した八十車両の自動車輸送を決行する事となったのが二十七日の夜で、その輸送の責任者は竹澤部隊長であった。この自動車が、はたして黄河に到着し得るや否や、土肥原兵団の死活はかかってこの大輸送にあるのだ。 私が、この自動車に便乗を乞うために、部隊長に面会しつつあった時、地形偵察に出で、泥まるけになって帰って来た将校下士官の報告を聞いて、慄然〔りつぜん〕たらざるを得なかった。道路の泥濘の深さは底知れず、所々に池のような水たまりが出来て氾濫し、加えるに○○は○○して危険の度量り知れず、というのであった。 到底人間業で出来る事ではない。しかし、部隊長の心はすでに動かぬものがあった。「明日決行。」という凛乎たる鉄案は、この冷酷無情な自然と戦い、こうした地の利をたのむ敵と戦いつつ、この大輸送を完了する準備を、夜を徹して行なわしめたのであった。
2015年08月07日
私はまたこの陣中で、いくつかの「日本武士の姿」を見た。到底一大白兵戦は免れない。ただ時間の問題である。皆々そう決心を固めた時、私のところへ獣医部長高橋獣医大佐(今は少将)が見えた。私とは十数年来の知己で、内地では特に別懇にしていたその大佐の用件というのは、日本刀に艶をかける地艶研ぎというものを持っていたら、一かけらほしいというのだ。 殺気の漲〔みなぎ〕り渡っているこの陣中で、さてものんきな話と思いながら、その一かけらをあげた。大佐は喜んで宿所にかえり、自分の佩刀を自分で磨きはじめた。後に部下の一員の話では、どうせ一大白兵戦は免れぬ。その時、この黄河の南岸に屍をさらすとも、日本の武将の佩刀は、かくのごとく明皎々〔めい こうこう〕たるものである事だけでも見せてやりたい、こう大佐は、冗談交じりに語っていたというのだが、秋田県の本荘藩士の家に生まれ、厳格な武士教育を受けた事を知悉〔ちしつ〕している私には、これは、大佐の最後のつきつめた心のうちの一つであったろうと、敬虔な感に打たれたのであった。 私等の石井部長は、後に漢口戦で戦車部隊長として勇名を馳せ、輝く感状を受けた勇将だが、豪傑の例に漏れず、陣中でもすこぶる酒を嗜んだ。よく冗談に当番兵をつかまえ、「おれのな、酒をな、絶やしちゃいかんぞ。酒さえ絶やさなかったら、功績はその、抜群じゃ。」 といって高笑いしたものだったが、時に量を過ごしては陣中に高いびきをあげた。この戦の最中に、袂別〔べいべつ〕の意味でか、私達も会食に招かれ、すこぶるご機嫌であったが、大盃を傾け過ぎて、そのまま卓子〔たくし〕の上に突っ伏せになって寝込んだものだ。私達が宿所へ引き取ると間もなく、伝令が来たようだったが、部長の声で、「当番っ。馬だ。」という声がしたかと思うと、部長は愛馬に跨がって、かつかつと蹄の音をさせながら、どっしりとした態度でいづれかへ出勤して行った。 ある時、この部としては重大な○○の連絡のため、相当な位置の責任者が、砲弾をくぐって某地点へ急行しなければならぬ事件が起こった。「命令を出すべきだが、誰か希望者は……」 という言葉が終るのを待たず、「自分が参ります。」と凛々たる面持ちでその役を買って出たものは岡島少佐であった。少佐は少数の部下をつれて、決死の連絡に出立した。天佑あつく、万死のうちに無地任務を果たして帰来したのであった。美談として兵隊の口々に語りつたえられた事の一つであった。 同じ部の石井少佐は、部隊中随一の水彩画家で、腰に古風な矢立をさし、絵葉書型の画用紙に色々な場面を写生したものを、ある時陣中御差違の侍従武官の目にとまり、武官から、天皇陛下の叡覧に供し奉ったという栄誉を擔〔にな〕った人である。 少佐は、暇さえあれば写生に出た。ある時は、黄河河畔〔こうが かはん〕のトーチカを写し、ある時は支那土民の自用製塩所を描き、逃げ行く敵の姿さえとらえた。「わしの絵は戦争の動態です。わしの絵を描くは戦争の一部ですよ。ハハハ。」 愛馬を下りた少佐は、はるかに遠い戦線を双眼鏡でのぞきながら絵にしていた。時には敵の狙撃を受けた事もあったという。 ある日、少佐は突然私の作業室へやって見えた。その日は敵の十五榴砲弾が、物凄く落ちていた。そうした中で私の作業振りをスケッチしてくれた。写真は、ありのままの形をうつすに過ぎないが、絵だと戦争の気分まで写せる。こういって描いてくれたスケッチ二枚は、今でも大切に保存している。 その他、鬼部隊長といわれた人たちの談話は、数限りなくある。その中の一つだが、土肥原兵団唯一の工兵部隊長岩倉大佐は、後少将に進み対馬警備司令官となり、帰郷して今は閑地におられるが、かの黄河敵前に架橋してこの大部隊を完全に渡河せしめ、曹州城に據〔よ〕る(※たてこもる)敵の、三重の城壁を、この部隊の挺進決死隊が、弾雨下中に爆薬を仕かけ、見事に爆破して歩兵の突撃路をつくり、一挙横山部隊の総突撃によって奪取し、両部隊とも、鬼部隊長の勇名を馳せたが、後、黄河陳留口渡河点ではしなくもこの部隊の勇猛振りを見た。工兵という工兵は、ねぢ鉢巻に褌一つで河の中に立ち、ある所では「生き橋」となり、その岩倉部隊長は、軍服をぬいで腹掛をかけたら、そのまま土方の親分といった恰好で、ここの確保のため縦横に指揮していたが、ある日、敵機の計画的な大空爆を受けた。部隊長は泰然自若して動ぜず、日除けのために張られた河畔の天幕中にあって、あちこちと空爆されてゆく有様を見ながら、極めて沈着な態度で、落ちついて命令を下していた有様が、今でも見えるようである。 敵機が去った後、私達は部隊長の許〔もと〕に駆け込み、黒砂糖湯を一杯ずつ御馳走になって、正気づいた心地がした。部隊長はごま塩頭を振りながらいった。「君等もお土産話が一つ殖〔ふ〕えたて。」 私と同室同寝台に起居を共にしていた釜田という曹長がいた。大包囲陣中の事で、兵隊のほとんど全部は野宿半野宿の有様であった。曹長は、疑似赤痢で、一時は相当重態であったが、野戦病院が自動車上にあるという乱戦中の事とて、部の自動車でつれて歩かれた。これが内地なら大変な事で、伝染性の甚だしいこうした病気なのだから、近寄るのも危険視される。しかるに、上官も、また曹長の部下も、そんな事は一向に介しなかった。 私の宿所がなく、釜田病曹長の寝台を半分わけて貰えといわれた時に、赤痢と心得ていながら、欣然〔きんぜん〕として行ったものだ。その下の土間にアンペラを敷いて、曹長の部下が六、七人も寝ていた。それでいて誰一人として伝染したものがなかった。 明けても暮れても、銃砲弾の落下するこうした戦場では、死ぬという事の原因となるものは、それが敵弾であろうと病菌であろうと、平時に考えているような恐ろしいものではない。砲弾のはげしい日には、この病曹長に、掩蓋壕に避難する事をすすめると、「病気では死にたくない。弾丸で殪れるのは本望だ。自分一人だけは捨て置いて下さい。」 と、何といっても肯じなかった。 かくして、曹長も私等も、赤痢にも死なず、弾丸にも殪れず、ほどなく曹長は全快するに至った。 後に書く私の場合と同じく、強い精神力というものは、病魔をも征服するものだ。こうした精神力の偉大さも、陣中で今さらのごとく気づいた事の一つであった。
2015年07月31日
車上にいた一人の軍曹がいった。「……戦闘部隊に後接して進撃するのが閣下のおとくいだ。○隊長と間違えられたという話も聞いた。○○隊長より前へ出ていた事も珍しくないという。それでいて、鉄砲玉一つうけないのは、まったく天佑だね。だが、心配な事が一つあるよ。もしやしてね。」 あとは笑いにまぎらわした。それは、群敵に包囲される事の危険を言ったものであるのだが、そうした杞憂が次の瞬間に湧いて来た。 私等が、将軍の列に別れたのは、ちょうど昼食後で、一路次の部落へと進んだのであったが、その部落名は、掃街という相当な要地で、ここに敵兵が若干陣地を構築しており、附近には、小屋のごとくに偽造迷装したトーチカも多数あるというので、警戒を加えて前進した。結局は一戦も交える事なく、午後の三時頃、頑丈な土壁をめぐらしたこの小さな町へと入り込み、そこに設営する事となったのだが、不思議と、ここの住民は逃避もせず、日本軍に対してすこぶる好意を示し、野菜や鶏卵などを持って来て歓待してくれた。 まだ日も高いので、低い丘陵の断続しているような恰好の街路を歩いてみると、ある辻の小廟〔しょうびょう〕の壁に貼りこめた敵の宣伝ポスターに交じって、白紙に墨汁の達筆で「生擒土肥原(※土肥原を生け擒〔と〕りにす)」と書いてある。ハッと眺め直すと、その文字が新しく生々しく、今の今しがた書いたもののようにさえ思えるのだ。 車上で聞いた軍曹の杞憂と思い合わせて、一抹不安の気に襲われながら、小さい坂を下って行くと、そこに友軍の兵隊が四、五人かたまって、また別の宣伝ポスターを眺め入っているのだ。それは薄赤い色のザラ紙に「活捉土肥原」と書いてある。「本当だろうか。」「まさか、バカなッ」と一人の兵隊が怒ってびりびりとそれを引き裂いてしまった。 この部落には、つい数時間前まで、敵の三十四師の司令部がいたというから、あるいはひょっこりはいったところを急襲され、閣下は武運拙〔つたな〕く、敵の生け擒りのするところとなり……などと、暗い気持ちで考えたりしたが、ほどなく閣下の御一行が、威風堂々として来られるのに出あったので、私達は、ほっと安心した事であった。 その夜私達の兵器部は、むさ苦しい農家の一室の土間にアンペラを敷いて寝た。部附きの大越中佐(今は大佐)も石井少佐もいっしょだった。今日の見聞について話をすると、大越中佐は釣りこまれたようにこんな事を語った。 それはまだ京漢線を戦いながら盛んに南下していた頃の事であった。すべての橋梁を破壊して我を待った。夜に入ってからそこへ進んだ第一戦部隊は、川をへだてて敵と相対峙し、激戦数刻に及んだが、小癪にも敵は地の利と兵力とをたのんで頑強に抵抗し、一歩も退かない、ちょうど、その戦いつつある部隊の背後、何らの遮蔽物もない、ただ墓の土饅頭の点々としている支那墓地へと、兵団の本部が来てしまった。敵の迫撃砲弾がボンボン炸裂し、銃丸がビュンビュンと飛んで来る中で、閣下はとある土饅頭のかげに座して戦況の進展を待った。 この時、敵はさらに兵力を加え、火器を増加してきたので、このままでは前線は苦戦どころか全滅の状態に陥るやも知れぬというので、陣容をたて直すために、一時後退をしなければならぬと、閣下のところへ、一人の全身泥にまみれた隊長がやって来て、実情を述べ意見を具申した。 自分等は、頭つくだし叱りつけられるものと思っていると、閣下はしずかに聴き終わってから、「我々の先輩は、日清戦争でも日露戦争でも、みなこうした危機を立派に戦いぬいて来ているのだ。そうした嚴乎たる歴史がある。その歴史を無視するわけにはゆかぬ。部隊長に伝えろ、いいか、最後の五分間を忘れずに戦えとな。いいか。」 と、さとすようにいった。意見の具申にやって来た隊長は、納得して帰って行った。それから一しきり、さらに激戦が続き、ついに勇躍一番、我が軍は川を渡って突進し、さしもの敵を破って進んだが、閣下のこうした豪胆なうちにも落ちつきのある温容な態度、常に戦列に近づいて激励する事実に度々接して、自分等は、実戦上まことに得がたい尊いものを提示された。云々。と。 いい話であった。場所が場所、時が時、この話は感話中の感話として身にこたえた。開封へ入城してから、私は偶然の機会から、松田という親友の従弟宮田軍曹に邂逅した。遠山部隊の迫撃部隊にいた軍曹は、常に一線をかけ、開封攻撃中も、北門の最前列にいて、歩兵の突撃にまじり迫撃砲を引っかつぎながら城壁を越えて突入したのだったが、何かの話の序に大越中佐から聞いた話をすると、軍曹は膝を打って、「閣下のそれは実際驚くの外〔ほか〕なしでしたよ。」 と前提して話したことは、やっぱりその頃、敵を急追してある川を夜半に渡った。暗さは暗し寒くはあり、それに工兵の急造した小橋は一つなのだから、一個部隊渡りきるには相当時間もかかる。ままよとばかり、あたりから枯木を拾い集めてきて焚火をしていると、暗闇から大声で、「そこに居るのは支那の兵隊か」と叫ぶものがある。みんな鉢巻をし、ぬれた上衣をかわかしているところだった。声の主は、どこかの隊長だろうと思っていると、それがはからずも閣下だったのだ。「何だ、迫撃砲は先へ進め。橋が渡れなかったら飛び込んで行け。何というざまだ。」と叱咤され、一同あわてて焚火を踏み消し、直ちに進発したのだったが、ああした中で、よもや閣下のお声を聴こうとは、夢にも思っていませんでした。と、その感話にさらに拍車をかけた。 ここの戦で、私は「戦争の姿」というものを、はっきりと見た。 孫子の兵法に従えば、天の時、地の利、人の和が勝ち戦の三大原則なのだが、あの蘭封大包囲陣の我が軍は、ただあるものは人の和だけであった。土肥原閣下の持論たる「一体主義」のそれだけが強く存在していた。敵は地の利を得、しかも大兵を擁していながら、一番大切な人の和をもたなかったと見られる。統一もなく、一体となって働くその精神的中心をもたなかった。すべての条件は彼らによく、加えるに装備兵力の完璧を以てして、不覚にも最後の五分間をささえ得なかったのだ。もう一息というところを本腰になって戦われたら、我が軍といえども逆睹〔ぎゃくと/げきと〕を許さぬものがあったと思う。 人の和というものは、時に臨んで、実に名状の出来ない恐ろしい大きな気力を生ずる。この気力が最後の使命を制するものであるという実情を見た。 実際、日本歴史の伝統というものは、非常の時に臨み、「和して一体となる」という事になる。これが大和魂というものの一つの側面となって働いたもので、「死を怕〔おそ〕れぬ。」という気魄は、こうしたものの一分子である事を如実に知り得た。
2015年07月24日
戦う将士の群像 昭和十四年以来の事であるが、毎年五月下旬に、「蘭封会」という会合が開かれる。徐州陥落の直前から直後にかけ、隴海線上の要衝蘭封附近において、我が土肥原兵団が、湧きあがる蒋介石直系軍に包囲されつつ、孤立無援、悪戦苦闘のかぎりをつくして戦いぬき、万死の中に最後の勝利を得て、一挙開封城を屠ったという感銘忘れるべからざる戦であり、支那事変中においてもまた歴史的な戦であったことを記念するため、当時の兵団及び各部隊幹部、すなわち将校以上が集ってする「思い出の会」なのである。 徐州の包囲態勢が調った頃、遊撃群として長驅黄河を押し渡り、群敵のまっ唯中を押し分け蹴散らして隴海線上に躍り出〔い〕で、徐州の動脈たる鉄道線路を爆破遮断して、漢口からの一大増援軍を阻止し、同時に徐州敵軍の退路を絶った土肥原兵団が、それから直後に展開した有名な蘭封戦は、敵も味方も、固定の陣地を持たぬ流動戦で、かの川中島で行なわれた甲越両軍最後の直戦、八幡原車掛りの接戦の、ちょうどあれを大きく近代化した一大白兵戦が展開され、潮〔うしお〕のごとく、夏雲のごとく湧きたち巻きかえす群敵の中を、卍巴〔まんじ ともえ〕と駆けめぐりつつ荒れ回った。単騎信玄の陣営に迫った謙信のような場面、例えば敵将に銃剣を擬〔ぎ〕し(※突き立て)ながら辷〔すべ〕りこんで長蛇を逸した話、また我が土肥原兵団長の一、二町近くまで敵の突撃隊が迫った話等々、真に急迫そのものの連続で、しかも彼我の兵力の比は、正味十対一、全滅しないのがむしろ不思議なくらいであった。かてて加えて、我が軍は糧食弾薬欠乏し、これを輸送すべき兵站〔へいたん〕路線はことごとく敵兵に遮断され、兵站の自動車隊は、残り少なき糧食と共に、傷病兵を満載して戦う部隊の後に続いてあるくという悲壮な有様であったのに、将兵よく一体となってこの苦難を克服し、六月四日には、最後の五分間を戦い負けた敵軍が、見苦しくも算を乱して敗退し、一路開封城目がけて大潮の引くがごとくに総退却を始めたのであった。 息つく間もあらせず、我が全軍は、得意の急追激戦に移り、歩騎砲工の幾十部隊が、一斉に砂塵を巻きあげて進撃する壮観さは、兵団本部の自動車__同じく疾走してゆく自動車上から眺めながら「よくぞ男に生まれたる。」の感慨を燃えしむるものがあった。 その時、鉄兜を目深にかぶった我が土肥原将軍が、銅のごとくに灼けた顔に、いかつい目をくっきりと見張り、はるかに開封城を睨んで進む馬上の姿は、さながら阿修羅大王の再生かと思われる相貌にも見えた。すぐあとにつづく佐野幕僚の、これまた地蔵菩薩のようなにこにこ顔で、はりきった精悍無比の川崎衛兵長をはじめ、馬上の衛兵、他の幕僚の颯爽〔さっそう〕たる姿は、まさに「戦う将士の群像」とでも名づけたいような一幅〔いっぷく〕の活人画で、私達は、路傍に降り立ち直立して心からなる敬礼をしたのであったが、何だか双手を上げて万歳を叫びたいような気持に満ちていた。「いいなァ、ここんとこをスナップにして起きたいなァ。」 と、右掌を円〔まる〕くして、あたかも撮影をするような恰好で覗き込み、班長の伍長から、いやというほど小突かれて直立し直した。実際この場面は、再び見られない、しかし生涯着せ去らない生きた映画として、その印象はまざまざと残っている。
2015年07月17日
そこで、土肥原将軍の戦争哲学だが、将軍は、この生涯再び経験の出来ぬであろう蘭封戦から教えられた経験だといって、最近しずかに語られた。「ただ一切は真心であった。己れを捨てた純一無雑、上下合致の本当の一心一体が、あの「不可能」を覆して「可能」ならしめたのだ。それ、よく張りつけてある。一億一心なんていう標語のポスターだね。(将軍はここで、新体制だってそうさ、と一言つけ加えたかったろう。)あの闇取り引きに踊る連中のような我利我利亡者の存在しているかぎり、完全な実現はできん。日本人の本当の心の故郷、かんながらの道、まごころに立ち返って、個人主義に毒されて来たすべてものを洗い落とす強力な相互矯正から始める事だね。今度の戦争と紀元二千六百年と転機として、従来の民主主義的な自由主義の殻を根こそぎぶち壊すのだ。日本も戦争前のようなままだったら、本当にあぶなかった。今度の戦争は、支那と共に日本自体を救う戦争なんだよ。日本人の特性の一つとも見るべき、まごころ、つまり皇道だな。個人主義を否定しているその皇道を遵奉具現し、国の生命の本源本質たる 陛下に帰一し奉〔たてまつ〕るのじゃ。(将軍は、ここで、大政翼賛会についていいたかったらしい。即ち、自我を去れ、私心を捨てろ。軍人が実戦場裡に戦っている心になれ。赤裸々のまごころで進むのだ、と。)わしのいうまごころに強いて形をつければ「一体主義」じゃな。全体主義ではない。もちろん共産主義ではない。わしは、一体主義で、あの戦争をしたのじゃ。緊急を要する挙国一致の体制の(と、いいかけてちょっと考えた。私の想像では、この時将軍は、自我の強い連中に一体何が出来るか、というような事を考えておられたのかも知れぬ。)いや、体制は益々強化され、今戦争の大義を偉大ならしめ、八紘一宇の一顕現として、東亜共同体を早く築き上げる事だな。重ねていう。戦う者はまごころだ。その戦う者の先棒をかつぐ銃後国民じゃないか。戦う者と同量同質のまごころにかえって、ぐんと力づよく先棒をかつぎさえすればいう事はない。その境地が本当の一億一心じゃ。」 こういって将軍は黙した。そして次の間に去られたが、間もなく三冊のパンフレットを持って見えた。『新時代を戦う日本』と題した、将軍の書かれたものだ。一冊は支那語訳、一冊は英訳である。 それは、「一切の対立意義を否定したものが、皇道の真精神で、 小我私利の現状を一擲〔いってき〕しなければ、旧体制は葬り得られず、 従って新体制の創建は望めない。 日、独、伊提携して、真の世界新秩序への推進の大きな日本の責任を果たすには、 速やかに、まごころの一体主義を確立し、反省して、 やましくない道を立て、独伊の全体主義をも、 この心域まで進めてやるくらいの気込みをたつべきである。 これこそ、一体主義聖戦遂行の理念だ。」 という事に要約されている。 「ところで、閣下は今度士官学校長に成られたのですが、何かその「士官学校の新体制」というようなこともお考えになっておられるのですか。」とうかがってみた。すると将軍は大きな声で「うむ、考えておる。」といって形を改めた。「個人主義の我利我利亡者の申し子みたいな点取り蟲は採らん。至誠衆にぬきんでた素質のものを挙げる。昔の武士じゃな。武士としての矜恃〔きょうじ/きんじ〕のない者では、第一、上官として部下を信頼させることが出来んじゃないか。いくら部隊長がえらくても、実際に兵隊を率いて戦う少壮士官の人格が出来ておらんければ、部隊長の真精神は透徹せん。わしゃ、あの蘭封の戦でしみじみ考えたね。わしの部下の将兵は、本当によくやってくれた。いや、わしの部隊ばかりではない。どこでもそうなのだが、万人至誠の一体だと、微細な命令が、常に一兵卒にまで徹底する。それではじめて万人が一人のように働けるのだ。これは、私心をまったく離れた純一無我、海ゆかばの古歌にあるあの精神に徹しなければ出来ん事だ。この根本精神を、さらに一段二段と強化し、軍人勅諭を根幹とした新時代の武士をつくる。大いに改良すべき点があるよ。どうかするという具体的な方法はまだ考えておらんが、家庭からして、わが子を本当の武士にしようとする至誠の家に生まれた者を選ぶ。軍人にしたら、なったら、出世が早いなどというものは、極力排除する。土肥原の士官学校新体制はな、わしのいう一体主義の規矩準縄〔きく じゅんじょう〕に、本当に合致したものにするぞ。自我の強い、人を押し倒して、自分だけ一人いい子になりたいというような人間はこの門に入るべからずだ。」 そこでさらに一歩を進め、「いよいよ日支新条約も調印となりましたが何か一つ、國民として心すべき点に一本釘をさされては。」「さぁ、そいつはね。(ちょっと考えて)例えば、軍で管理していた会社や工場を支那人にかえしてやる。そして、改めてそれを日支合併でやらせる。何しろ所有権は先方にあるのだから、いっしょにやってゆく相手を自由に選択する権利も支那人にあるというものだ。それを、無理に圧迫して、こちらから強制的に割り込むというような事が仮にあったら、絶対に禁物だ。軍の権力を笠に着て、支那人を威嚇してやって行こうとすると、協調性が出来ない。せっかく聖戦を戦っても、行って仕事をする者が本当の聖戦意識に徹していない限り、結局は、再び締め出しを喰らってベソをかくのだ。現在のように、日本人が渡支に厳重な制限を設けられている事を、大なる恥とも思わないようではこまる。そんな制限など、自然に取り払われ、彼我自由に相来往し、双方自國同様に往き来するようにならなくては、何年かの後には、またしても外国人にしてやられてしまうのだ。ここのところも、その一体主義で行くのだな。大政翼賛会からは、こうした点を根本的に改める一大自粛運動へ導いてもらいたいものだ。國民全体が猛反省し、皇道の真精神に立ち帰って、非理貪欲、人を押しのけて進む個人主義のアクを搾り去り、徹底的に洗いざらす事だ。」 筆を前に戻す。 開封入城後、間もなく将軍は内地帰還となり、幾多辛苦を共にした将兵と訣別するにあたり、別辞として残された言葉は、「聖戦はこれからだ。まことで行くのだ。日本人のまごころを徹底させるのだ。兵団長はかわっても、まことで行く事だけはかわらぬぞ。それを忘れんように。」 という、声涙共に下った最後の訓辞であった。将士は、粛然としてこれを聴いた。私達は、沿道に並んで、帰館してゆく将軍を見送りながら、なぜか目頭が熱くなるのを覚えた。
2015年07月10日
五月二十九日、黄河陳留口の渡河点を渡河しつつ、堆積〔たいせき〕した黄泥が、ウイロウのようにのたのたと動く中洲を歩いていた時であった。 かなりの高度で、機体は鳩のようにただ白く見えたのみであったが、落とした爆弾は物凄く大きなやつで、それが泥深い中洲に落ちると、さながら竜巻のような泥柱が中空に吹き上げられる。最初は、十二、三間先に落ちたにかかわらず、その吹き上げた泥を、いやというほど右半身にかぶった。不思議に怪我はなかった。ただし附近にいた馬や兵隊には若干の死傷があった。 こうした中を、駈け足で、渡河点の最後の橋のたもとまで来ると、そこに荷物が散乱していた。見るともなく目をやると、一つは同行安藏少尉の行李〔こうり〕と、少尉が内地帰還の折、土肥原将軍夫人から託されて来た将軍宛の小荷物一個とであった。 この場合、少尉の身の上を案ずるよりも、まずこの二つの荷物の処置であると、咄嗟の間に考えた。私はすでに六貫目からの雑嚢〔ざつのう〕を背負っている上に、佩刀水筒拳銃図嚢等々で、この身一つがやっとであるが、そうした場合ではない、矢庭に少尉の行李を左肩にかつぎ、兵団長宛の荷物を右手に提げ、二足三足行きかけると、第二回目の投下爆弾だ。ヒュュューッという笛のような音が上空にしたかと思うとたんに、六、七間のところへ落ちた。ズデデデーンという恐ろしい爆音と共に、破片が目に見えて四散した。今度のは小さなやつであったが、炸裂と同時に、何か耳のあたりをフフッとかすめて行ったものがあり、一つはバシッと右手に提げていた、将軍宛の荷物に当たったらしかったが、そのまま夢中に走った。十七、八貫の荷物を身にして、よくもまあ走りつづけられたと、今から思えばまったく不思議でならない。船橋を駆け渡って大地に荷を下ろした。そこには天幕が張ってあって、勇猛岩倉部隊長が、腕を組んでこの状況を眺めていた。時計を見ると午前九時三十分であった。 その日、その荷物を陣中の将軍へお届けしたのであったが、後で承ったところによると、中には若干のお菓子その他と、夫人からの御手紙が入っていたそうで、開いた時には、菓子はこなごなに砕け、御手紙は寸断されていたとの事で、もしも、夫人の御心づくしの荷物がなかったら、私は少なくとも右足一本は失っていたわけだ。 この陣中で、私は、はしなくも十数年来の別懇〔べっこん〕である高橋獣医大佐(今は少将)に邂逅した。 氏は、まこと古武士そのもののような人格者で、部下にも絶大な信頼をつながれていたが、よく「自分はよい兵団長の下に働く事が出来て幸せだった。将来ある部下にも、生きた手本として、土肥原将軍の陣中振りに見習えといいきかせている。」 といっていた。氏は、最後まで掩蓋壕〔えんがい ごう〕を掘らなかった一人である。石井大佐(今は少将)も、何か給与の不足らしい事でもいおうものなら、「兵団長閣下もそうだぞッ。」 と叱りつけたものだった。やっぱり少しは(否大いに)いける口で、よく私等を呼んでふるまってくれたが、武骨な、号令をかけるような荒っぽい座談のあげく、「わしも将軍の感化のせいか、近頃座談が若干うまくなったように思える。どうじゃ。」 などといって、わっはっはっと笑った。なかなかきかん気の武人型だったが、将軍だけには心から信頼していた。後に戦車将軍として、漢口戦には感状を授けられた勇将だが、土肥原将軍を慕い慕って志願でもしたものか、満州の土肥原兵団に戻って、またもとの兵器部長として仕えていた。 輜重〔しちょう〕部隊長だった、中村中佐(今は少将)が、陣中で将軍からお酒をいただいて、ややいい気持になった時、「閣下、閣下は永らく支那におられて、支那人の表裏の生活をよく知っておられる。権謀術数のその変転の妙所にも、自然精通しておられる事でしょうから、一つどうでしょう、それでやられたらいかがでしょう。」 と切り出したものだ。すると将軍は、いつになく形を改めて、「馬鹿いうな。第一お前がお前自身の部下を、その権謀術数であやつれると思うか。部下の本当に動くのはお前さんの真心からの統率によるではないか。自分の部下さえあやつれぬ術策を用いて、それで支那人が完全に動かせるものではない。権謀術数の国だけに、かえって至心が通じやすい。わしはそれで行くよ。」と、答えたのは案外でもあったが、またこれもある哉〔かな〕と、大いに教えられるところがあったと、直接私に語られた。
2015年07月03日
拙著『戦う日本刀』に、ここの戦況を詳記した中で「戦争は大なる意志で決定され、大なる智慧で計画され、そして大なる感情で戦うものだ。」と述べておいた。感情という文字がいけないというなら、それをまごころと訂正してもよい。将軍は常にいっていた。「まごころで戦うのだ。」 実際、戦場で、知らぬ人間と人間とが、肉親以上の愛情で結びつかるのは、このまごころだ。純情だ。大いなる感情だ。戦場のこうしたもののひとかけらでも、銃後の人の心に通っていたら、新体制運動も、摩擦も何もなくてすんだのだ。 部下愛に充溢した将軍が、時にちょっとした事に、勃然として、あたかも不動様のような顔をして怒る事があった。それが将軍の「戦争哲学」の片鱗なのだから書き落とせない。 ある時、ある城内で、特務兵たちが、しきりに主のいない「鶏狩り」をやっていたものだ。支那の鶏は山鳥よりも高く飛び、豚公は犬よりも早く走る。半野鳥のこの鶏狩りには、並々ならぬ熟練練達を要する。一人の天才児が、今や数羽の獲物を両わきにかかえ込み、得意満々と「我が家」を指して帰る途上、馬上で巡察して来られた土肥原兵団長一行とバッタリ出くわした。 特務長は、かかる時の礼式として、注目しながら上半身をそのまま約二十度の角度にまげ、かたえに神妙に佇立していた。 すると将軍は、件の獲得物を目ざとく見るなり大喝一声、「その鶏は一体誰のものかっ」 と、叱りつけるのだった。「ハイ、逃げ出した支那人のものであります。」「逃がしてやれ、そうすれば許す。」「ハイ 逃がすであります。」 自由を得た鶏は、伝書鳩のように将軍の徳を謳歌しながら四方に飛んだ。 ある時は、野猪のような、主のない豚に馬乗りになって、縄でからげている「今、仁田四郎」を見つけるなり、将軍は馬を駆けらせて近より、下馬して、怒ったことがある。「いいか、今度の事変はな、本当の聖戦だぞ。支那人が敵ではない。敵は米英に踊らされている蒋政権だ。支那人を苦しめるな。真心でゆけ。いいか、わかったか。」 将軍は単なる支那通ではない。支那の黄土のあの粘重な微粒成分のようなねちこさをもつ、本当の支那通であるのだ。将軍から、日本語と大和魂を引きぬけば、そのまま支那の大人〔たいじん ※ターレン〕となり得るといってもよいほどの支那通なのだ。将軍が、複雑な対支問題などを考える時には、直接支那語で考えてるんじゃないかと思われるほど機微な点まで穿鑿するとある将校が語った。将軍のためなら真に何物も投げ出すという「朋友〔ポンユウ〕」がまた所在にいるそうである。このポンユウ心理なるものは、日本人にはちょっとのみ込めない、血より強い信頼意識で、事情によっては近親者を犠牲として顧みないという、不思議な支那民族の特性のひとつだ。 それかあらぬか、将軍には、どこかこう大きい捉えどころのない、天性支那向きの一面があった。およそ日本に関心をもつほどの近ごろの支那人で、将軍と接触をもっておらぬものはまずあるまい。「ポンユウ」の多い事でもまた将軍の右に出づる者なく、だから、将軍ならでは知り能わぬ幾多の情報も手に入り易いわけである。 将軍の支那語ときたら、風俗人情の機微の溶け込み織り込まれているものだけに、兵団本部づきの通訳などは、将軍の前で通訳する時などは、冷や汗が出て困るといっていた。 蘭封戦線の敵重囲中にいて、よくその作戦を誤らなかった原因の一つとして、将軍の支那語熟達による点も、また見のがしてはならない。例えば、絶えず巧妙に敵の動静を捕らえては、敵の先へ先へと手を廻したり、あるいは裏をかく謀計をたてたりした。敵の無電を旁受しながら、六感を働かしているのが御大自身で、多年蓄積の生きた支那学が、あの大胆極まるきわどい戦さをさせたのだとも見られる。 また、戦う先々で、相当な支那人が弾雨下をくぐってよく訊ねて来て、奥深い一室で何を語ってゆくのか、通訳ぬきで直接に応待する事だから、内容はさっぱり解らない。そのせいか、入城しても進駐しても、土肥原兵征くところ、住民はほどんど逃避していない許〔ばか〕りか、驚いた事には、行く先々で路傍に老若男女が集まって、湯を沸かして来たり、鶏卵をうでて来たり、饅頭を山と積んで置いたりして皇軍をもてなした事で、以心伝心といおうか、いうにいわれぬ和やかさとどっしりした安心さで、私等は村々を過ぎて行った。 しばらく、将軍の行くところ、自らなる、しかし大きい宣撫〔せんぶ〕が実施されたのだから、ちっぽけな不なれな宣撫班などがついて歩いたって、百燭の光の下の豆ランプみたいなものだった。かつてある無名部落で、通訳が、「この部隊は土肥原兵団だ。かつてどこかで、兵団長の名を聞いた事があるか。」 と、路傍の青年にたずねると、その答えがこうだった。「土肥原大人を知らない支那人、うそ支那人ある。」 もっと驚いた事は、敵の捕虜でまったくの帰順をし、従軍服に星章の戦闘帽をかぶってついて歩いた某という元支那軍の将校が、私等のところへ来て、片言の日本語で話した事があった。我々は、我々の兵団長を「ドヒハラ」と呼んでいたのに対して、この支那人は「ドイハラ」と呼ぶのが正しいと主張した。後で聞いてみると、なるほど この「ドイハラ」が正しかった。
2015年06月26日
話が戦争めいてしまったが、ここに土肥原兵法を描こうとする中心があるのだから、もう少々我慢して聞いてもらいたいのだ。 黄河を渡った土肥原兵団の最先鋒が、疾風の如く大敵を両断して、隴海線上の内黄附近で鉄路を爆破遮断したのは、五月十四日の事で、徐州にいた敵の主力も、まだ漢口を発した蒋介石直系大増援軍の到着前であり、また唯一の退路でもあるので、顔色を失い、士気まったく沮喪したのであるが、土肥原兵団の主力が、この遮断地点から、敵軍の充溢〔じゅういつ〕する蘭封を攻撃するに及んで、数に於いては、その敵にあらざる○○○であることを看破され、加えるに、徐州増援のための北上軍が、ようやくにして大挙到着したので、「徐州の怨み」とばかり、ここに土肥原軍殲滅への陣容をたて直し、左右前後互いに緊密な連絡を取って、いわゆる皷〔つづみ〕を鳴らして四角八面に攻めかかって来たのだ。 機を見るに敏な将軍は、ここに絶好の機会を捉えた。ちょうどかの磯谷将軍が、徐州を空っぽにさせて、敵の主力を台兒荘の一戦におびき寄せたように、この雲霞の如き大軍を、黄河の一辺に牽制して、やがて徐州から南方を迂回するであろう友軍と呼応して、一挙に殲滅せんとする計画をたて、唯一の黄河渡河点たる補給路陳留口の一点を、開かれた扇子の要にしたような半円形に__その半円の周辺が実に八里にも及ぶという形に、戦線を整理した。すると、敵は「土肥原軍破れたり」と見て取り、隙き間なく囲んで来る。我が方では、この一大背水の陣の戦線をさらに縮小して、黄庄という部落に本部を固めたのであったが、「飢ゆとも米は要せず、ただ弾丸を送れ」という悲壮な有名な無電を発したのは実にこの時で、もし弾丸の補給がもう一日後れたならば「一個兵団の総突撃」という、全世界を震駭〔しんがい〕せしめたであろう一大白兵戦が展開された事と思われる。 幸いに、五月二十八日、決死の竹澤自動車部隊が、八十車両に、糧米、弾薬を満載し、群敵の中を戦いつつ輸送して来て、昼夜を徹して黄河を渡したので、それによって壮烈な場面は出現せずにすんだ。その時、弾丸雨下の黄河をわたす軽重特務兵各隊の壮烈さは、それだけを書いても一篇の戦記となるであろうほど、壮烈極まるものであった。当時の私の陣中日記には、 手より手に受けて黄河をたまわたすは蟻の如けれ特務兵つよし と、短歌の形式で記してある。 弾薬補給の事実を知った敵軍は、同時に、背後遠く我が応援部隊が、徐州から迂廻し来つつある事を察知して、急に焦りだし、遮二無二土肥原兵団を全滅せしめんと、十五榴弾を雨のように降らせて来た。補給がついたのでこちらでも盛んに応戦する。実際この時の陣中には「必死必殺」の気の漲〔みなぎ〕った物凄さが横溢していた。 兵団本部の前に、大きな砲弾が一個落ちて炸裂した。ちょうど歩哨のすぐそばだったので、その兵隊は、弾丸が落ちた刹那、雲散霧消、壮烈な戦死をとげてしまっていた。前夜まぎれ込んでいた敵の便衣隊が、本部の位置を発火信号によって知らせたため、将軍の宿舎近くに集中砲弾が落下し始めたのである。再び兵団長の身辺に危険が迫って来た。峯森副官や中村中佐(今は少将)が、掩蓋壕〔えんがい ごう〕の掘鑿〔くっさく〕を、切に将軍に進言したが容れられない。将軍はいうのだった。「わしが一人生き残って何になる。」 二人は、もちろん各部隊でも掘っている事を述べたが、将軍は聞き入れない。かくて一両日、再度将軍に迫り、「各部各隊の壕が完了致しましたから、御巡閲を願いたい。」 と申し出たので、はじめて壕の掘鑿を許した。筆の序であるが、当時陣中の食事は、明けても暮れても、米麦半々または四分六分、時には全麦の飯に、実のない粉味噌汁というただそれだけ、しかもその水たるや、井戸は涸〔か〕れて一滴の水も出なくなり、仕方がないから、汲水班は大黄河の濁水を汲んで来て、それで茶飯のような飯を炊く。野菜などは、この何里四方に菜っ葉一枚葱一本ないのだ。ここはすでに何万という敵が駐陣していて、何物もきれいに食いつくして去った。そのあとなのだ。 ヴィタミンがどうの、カロリーが何のどころか、その飯その汁さえも、時には減食絶食なのだ。それでいて、肉体はもちろん、精神状態もびくともせぬのだ。将軍もまたその飯その汁だ。ある時、少量の豚肉(一説には野犬の肉ともいう)を手に入れたので、当番だったか、炊事長だったかが、それを煮て将軍に差し出した。すると将軍は、皆にも、即ち兵隊にまでも行きわたったかを訊ねた。然らざる旨を答えると、その時箸を出して、やおらその珍味に一箸つけんとしていた将軍だったが、ふと箸を置いていった。「わしゃ喰わん。」 この一言で、持って行った兵隊は恐縮してまかり下がったというが、将軍はいつもかくの如くであった。 ただ一度、塩っからい、まるで肥料用の干し鰯のような干物が一尾と、指先ぐらいのキュウリのかけらが一つ宛て渡った事があった。兵隊なんぞは、嬉しさあまって、直ちに口に入れ兼ねぬほど珍らしいものであった。後に、将軍は私に、「あの時の、塩っからい鰯な。あれはばかにうまかったなァ。」 と語られた事から推して、将軍の陣中の食膳が兵隊とまったく同じものだったことが知られる。 将軍の当番をしていた秋山という一等兵が、後に私らのところに来た。この兵隊は理髪師で、油断のできないなかなかの茶目坊主だった。「オイ諸君、誰がえらいったっても、この班じゃ俺に及ぶものはなかんべ。閣下の頭を直接この手で、こうおさえたんだからな。」 兵器部へ来てからも、理髪となるとこの兵隊がよく出掛けて行った。かれの話によると、陣中の将軍は、考えるか、読むか、たまに飲むかで、決して出歩いたり、むやみに人を呼んだりしない、そうだ。「本か。小説や講談じゃないぞ。お経みたいな、なんでも、ばかにむずかしい名の本ばかりだったぞ」 かれはこんな事もいった。 ある若い少尉は、将軍陣中の書架に、ガストン・パリの真理探究の書物や、ベルグソンの哲学やらが、老子荘子と並べられていたと語っていた。 将軍は少しはいける口で、ほのぼのと潮がさして来ると、軽快なしゃれも口をついて出て来る。どっちかといえば座談のうまい方で、一座はたちまち あるなごやかさに包まれてしまう。陣中で会食の折などは、若い少尉の前まで行って酒をついでやる。固くなりきっている士官學校を出たばかりの少尉などは、将軍の座談に心なごみ、情のこもった酒をいただいて、かえって感激の度を加える。その当時、陣中でも別懇だった大塚中尉は、先日著者との会談で、「いや、閣下は大きいよ。大きくて とらえどころがないよ。何もかも承知でござって、それでいて細かい事はいわぬ。陣中で、冗談をいいながら酒をついで廻って部下を犒〔ねぎら〕うあのなつかしい態度には、心中泣いて酒をのんだね。死んでも心残りはないと思ってのんだね。」 著者と、統制のきびしい昨今の酒を酌み交わしながら、しちまじめな、武道家の、陣中では「闘牛」と渾名されたこの勇敢一図な中尉が、たえがたい追憶に、泣いて酒を呷るらしくさえ見えた。
2015年06月19日
土肥原兵団が、徐州陥落の直後から開封の直前まで、その間二週間の悪戦苦闘の状況は、まったく筆舌につくしがたい。兵力は○○○(※伏せ字)、それに対して、敵は支那軍中でも装備の完璧をもって誇る近代的機械化部隊で、蒋介石直系軍に加えるに、抗日思想に徹底した中央軍官學校系教導総隊というようなものがその中核になり、兵力、最低に見積もって二十万は下らなかった。 我が軍いかに勇敢なりといえども、兵站路線〔へいたん ろせん〕は完全に遮断されて、食うに糧食がなく、戦うに弾丸なく、これら糧食弾薬類を輸送すべき兵站自動車には傷病兵を満載し、戦列の後に従えて、戦いつつ引き廻してあるくという、まことに悲壮そのものであった。 兵団必死の覚悟をし、新聞記者をはじめ非戦闘員残らずを後方へ引きあげさせた。私はこの中に残された非戦闘員の一人で、かつて土肥原将軍が「蘭封戦線中に在りし、唯一の非戦闘士成瀬。」と、某氏への紹介状に書かれたその栄誉に欲したものであるのだが、報道戦士不在のため、この未曾有にの大背水陣中の模様が、博〔ひろ〕く世に伝わらなかった事は遺憾にたえない。 兵力少なしと見て取ったが最後、恐ろしく猛烈に戦いかけるのが支那軍の特徴であり、それがまた支那の国民性でもあるのだが、ことに、日本でも有数の支那通に加えるに、かの満州國建国に、その礎石を積み固めたという憎しみも手伝って、「目ざすは土肥原一人。」という一語を合い言葉として、遮二無二なだれかかり、三義砦という所では、将軍の身辺○○米突という近くまで、敵の手榴弾突撃隊が迫って来たほどの、今から考えると、実に冷や汗の出るような彼我の物凄い接戦であった。 本記の冒頭にあげた、黄土を深くかぶったさながら粘土細工のような将軍の「戦う姿」は、実にこの時のことであって、その日、兵団本部を次の部落の黄庄に進めるため、将軍は、益田少佐、峯森大尉の両副官を従え、午後九時半頃本部に充てていた民家をたち出〔い〕で、中門のある庭へと降り立った。その日、間諜によって兵団本部の所在悉知した敵は、十五榴の巨弾を将軍の宿営舎目がけて、まるで物をとってなげるように打ち込んで来た。その最中であったのだからたまらない、一弾はアッという間に将軍の身辺近く炸裂して、破片は益田副官の胸にあたったのだ。副官は「オッ……閣、閣下はッ。」と叫ぶなり、一歩二歩将軍の方へ倒れかかる。峯森大尉はよろめく益田少佐をしっかと抱きとめたが、全身から流れほとばしる血しぶきのために、大尉もたちまち血染めとなる。将軍警備のために動作していた丸山軍曹をはじめ、残らずが重軽傷を負い、砲煙土塵の消えやらぬ中に、さながら巨像のごとくつっ立ったまま動かざる土肥原将軍の安泰な姿を見て、みんな声をしのんでうれし泣きに泣いた。この時曳き出されていた将軍の愛馬は、数個の破片を受けて、主人の身代わりとなったのも、あわれ勇ましい最後であった。
2015年06月12日
土肥原将軍 運二策於帷幄之中一 決二勝於千里之中一 この句の心は、幕をうち、その中にいながら さまざまのはかりごとをなして、千里の外の敵に勝つと也。 しかれば、この句を、兵法に、簡要と用う心は、 我が胸の内を帷幄〔いあく〕の中と心得うべし。 わが心のうちに、ゆだんなく、敵のうごきをはたらき見て、 さまざまに表裏をしかけ、敵の機を見るを、 「策を帷幄の中に運す」と心得るべし。 さて、よく敵の機を見て、太刀にて勝つを、 「勝を千里の外に決す」と心得るべし。 大軍を引いて合戦に勝つと、立ちあいの兵法とかはるべからず。 太刀二にて、立ちあい、切り合って勝つ心を以て、 大軍の合戦に勝ち、大軍の合戦の心を以て、立ち合いの兵法に勝つべし。 太刀さきの勝負は心にあり、心から手足をもはたらかしたるもの也。 (新陰流家伝書、進履橋書巻より) 兵者不詳之器也天道レ之 不レ得レ止而用レ之天道也 弓矢 太刀 長刀 是を兵という。是を不吉不詳の器といえり。 その故は、天道は物を活かす道なるに却而殺すことをとるは、 実に不詳の器也。 しかれば天道に違〔たが〕う所を即ち憎むといえる也。 しかはあれど不レ得レ止(止ムヲ得ズ)して兵を用いて 人を殺すを又天道なりという。 (中略)一人の悪に依りて万人苦しむことあり。 しかるに一人の悪を殺して万人を活かす。 (中略)その兵を用うるに法あり。 法を知らざれば人を殺すとして人に殺される。 熟〔つくづく〕思うに兵法といわば 人と我と立ち合うて刀二つにしてつかう兵法は、 負く(負ける)も一人、勝つも一人のみなり。 是はいと小さき兵法なり。 一人勝って天下勝ち、一人負けて天下負く。 是大なる兵法也。一人とは大将一人也。 天下とはもろもろの軍勢也。もろもろの軍勢は大将の手足也。 (中略)太刀二筋にて立ち合うて大機大用をなし 手足をよくはたらかして勝つ如くに 諸勢をつかい得て合戦に勝つを大将の兵法というべし。 (中略)治まれる時乱を忘れざる是兵法也。 國の機を見て乱れん事を知り乱れざるに治む、是また兵法也。 (中略)一座の一人の交わりも機を見る心みな兵法也。 物をいい口論をしいだして身を果たす事 皆機を見ると見ざるとにかかれり。 (中略)兵法の道是にて心得るべし。 百手の太刀を習いつくし、身がまえ目付き ありとあらゆる習いをよく習いつくして稽古するは、致レ知(知るに致る)の心也。 さてよく習いをつくせば、習いの数々胸になく成りて 何心もなき所、格レ物(物を格〔ただ〕す ※1)の心也。 (新陰流家伝書、殺人刀書巻より) それは今から十年ばかり前の事だ。まさに立ち上がらんとするドイツそれ自体を象徴するかのような、印象深いドイツ製の映画を見た事がある(※2)。題名は忘れたが、何でもドイツの科学の精髄に、神秘的な方法で、人間ドイツの精霊を宿らせた一個不可思議な粘土細工の巨人が、こつ然と暴れ出して、旧世界の旧体制、あらゆる闇を、享楽面を、手当り次第に叩きつぶし、踏みにぢりまくった最後に、一人の無心に遊ぶ少女が、巨人の胸の秘密のボタンに接触する事によって、その活動機能が停止し、またもとの一塊の土くれに還るといったような筋であった。私は、この不思議な巨人を思い浮かべるたびごとに、かの徐州陥落直前、隴海線を遮断し、蒋介石ラインの要衝蘭封を攻略して、阿修羅のように暴れ廻った土肥原団長の、ある日ある時の姿を連想せずにはいられない。 その日は、万丈の黄塵〔こうじん〕が吹き捲くっていた。鉄兜も、顔も、軍服も、手の甲から佩刀南葵重國のわざものに至るまで、この黄塵を深くかぶった将軍のお姿は、さながら粘土細工の巨人の如くに見えたのだった。椅子代わりの砲弾箱にどっかりと腰を下ろし、水筒の水をじかに がぶりがぶりと飲んでござる。眼だけが黒く光り、水に蒸れた唇が黄褐色にうるおい、こぼれた水滴が胸から膝へと二、三條の線を描いていた。ただ無言。右手に持ったままのその水筒にも黄塵が深く、時あたかも戦いのまっ最中で、兵団本部近くまで迫って来た敵は、間断なく迫撃砲をぶっ放してしる。その時の姿だ。戦う将軍の一瞬深刻な印象だ。 平常のにこにこした顔が、この日に限って恐ろしくいかつく、あたかも、牙のない不動様の面貌とも見えた。そうして、大地のような沈黙におおわれた、茫漠粗大さ、小細工では捕捉の出来ぬ、将軍の全貌とも見える姿であった。 ※1 『大学』第二節「到知在格物」 ※2 1920年ドイツ制作 "Der Golem" (巨人ゴーレム)であろう。
2015年06月05日
以下第三の奇蹟を語る。 私は、十月十日に九ヶ月ぶりで帰還し、やがてその年も暮れて昭和十四年を迎えた。私一家と、柴少佐とは、相変わらず文通を交わし、ことに小学校の二年生である二男の正次のごときは、たどたどしい仮名文の手紙を毎日のように書いては出し、その都度少佐からも仮名文の返事をよこし、仲よしであった。 翌昭和十五年一月十三日午後四時に、少佐の絶筆が、しかも例になく航空郵便で到着した。それは一月五日の日付けで、中支漢水一帯の激戦地から、十日間で運ばれてきたものであった。後から考えてみると、その十三日午後四時という時刻は、少佐が部隊を率いて、漢水の安陸で強敵と戦い、白兵追撃中に、敵の飛弾を咽喉部に受けて殪れたその時刻だったのだ。 その手紙には、 新春御祝い申し上げると共に年内の御後援を感謝仕〔つかまつ〕り候。 年末には敵の冬季後世有之候て多寶湾方面に転戦仕り候。 敵も予め準備せる故か相当に頑強に候て久し振りの激戦を展開致し申し候。 皆様方日頃の御祈願御加護に依り 身に微傷だに負わざりし事を奉り拝謝の次第にて御座候。 漸〔ようや〕く五日ばかり後れて正月気分を取り戻し 五度という温暖なる春日の下に支那酒に正月気分を漂わせ居り申し候。 東京の昨今は御寒の事と拝察致し候。御自愛の程奉り祈り候。不一。 一月五日 いつもの手紙には、決まって柴少佐と記しているのに、この手紙に限り、柴有時と署名してあったのも、これが少佐から我が家への絶筆であっただけに、何かしら考えさせられた。 少佐は、その重傷がもとで息を引き取ったのは、三日後の十五日午後十時であった。日頃から覚悟を定めていた事とて、取り立てて遺言はなく、部下の軍曹から、何か遺言はといったのに対して、咽喉を負傷しているので、極めて細い声で、「酒を一杯……。」といった。あるいはビールを一杯といったとも聞いたが、最後の一言はただこれだけであった。そして夜二十二時(十時)この一個の大丈夫は、慄然として溘然として逝ったのであった。 ちょうどその日のその時刻相当の日本時間に、私の家に一つの大取り込み事が生じた。 夕食後、次男は何事もなく寝につき、妻は勝手に、私は書斎で書き物をしていると、時刻で正に夜の十時過ぎ、すやすやと眠いっていた次男が、突然大きな叫び声を発した。妻も私も家族一同寝間に駆けつけてみると、次男の顔は紅潮し、半眼を開き、下を噛みしめ、世にいうひきつけの発作である。 驚いて、まず近くに医を開業している妹を呼び、町内の開業医某の来診を求め、つづいてやや遠方の主治医金子博士の来診を求めるというえらい騒ぎとなった。やがて三人の医者が立ち合いで診察してみたが、原因さらにわからず、そのうちけろりと発作もやんで平常に復し、はなはだ妙な恰好のうちに、三人の医師はそれぞれ帰り、その夜は何事もなく、翌日はいつもの登校して終日またいささかの異常もなかった。 かつて左様な事もなく、その後も何事もなかっただけに、不思議に思っていると、数日後新聞で柴部隊長の壮烈な戦傷死が、写真と共に掲げられてあるのを見、その日のその時刻と照らし合わせてみると、次男が発作を起こした時間が、少佐の最後の時間であったのだ。 私はこうした事を、迷信的には考えもせず、また考えたくもない。しかし、ただ事実の暗合というだけでは、そのままにすまされないほど、他の色々な奇蹟と共にまつわり合わさっている。 かつて、昭和十一年八月二十七日に、戸山學校の大道場で、私と少佐とは面接したはずであった。先方では意識的に私を知っていたのだが、私はそれと知らなかった。妻でも次男でも、その他の家族でも、ただ文通し、写真を見たというだけの間柄であるのに、次男などは、常に口ぐせで「柴部隊長にあいたいなあ」とそればかりいっていた。柴少佐もまた戦場の寸暇を割いて、長い長い片かなの手紙を再々よこした。柴少佐は、かくて日頃の念願通り、武道家に相応〔ふさわ〕しい死所を得たのだった。中佐に進み、金鵄勲章を授けられしかして靖国の神となった。 その後、高知市西弘小路三三に老の身を養っておられる故人の母堂モヨ子刀自〔とじ〕から、二人の子を君國にささげた雄々しい日本の母の心事を、幾度も便りとして下さった。 私は何故〔なにゆえ〕にこの題名を「御神助」とつけたか。それは、日本人である限り、死所を与えてその使命を達せしめるという一事が、御神意のあらわれであると考えたからである。
2015年05月29日
九月十九日には張家口にいた。五台山を南方から討つ山西の部隊を北方から牽制するため、後宮〔うしろく〕兵団の各部隊が、五台山の山つづきの北麓に出動している。その一つの中心地蔚縣まで敵中を遠く出張して帰って来たのが十八日で、翌十九日の十九時(午後七時)張家口発の汽車で天鎭の堤部隊へ、助手の今野君と二人で出発して行った。天鎭についたのは二十一時三十分、城内まではまだ南へ一里、夜は途中すこぶる危険だというので、停車場に泊まるようにすすめられたが、城内へ電話してもらったところが、すぐ迎えに行くといってきた。程なく無燈火の貨物自動車で、飛田という軍曹が軽機を持った兵隊をつれて迎えに来てくれ、一里の真っ暗闇の中を、幸いに事故もなく到着する事ができた。 ここは、住民が敵に協力して頑強に反抗した激戦地で、また寸時も油断のならぬところであった。翌日修理工場を開設すると、程なく、平山という戸田隊の軍曹が馬でやって来た。軍刀の修理に来たのかと思っているとそうではなくて、この人はもと柴少佐の部下で、編成替えと共に、少佐は中支へ、そして部下の一部分は蒙疆軍へ所属がえとなったのであるが、かつて北票討伐の折の感激が身にしみて忘れられず、著者が従軍となり、蓮沼部隊へ、ついで後宮部隊へ派遣されているという事を風のたよりに聞き、注意していると、昨日戸田隊についた会報の命令書を見て、著者の名の出ている事を知り、狂喜して来たというのである。平山軍曹のほかに、藤田軍曹をはじめ兵隊数名が交る交る面会に来てくれ、夜はこれらの下士官連が集まって、会食の宴を設けてくれた。この奇縁を知った副官の熊谷大尉までも見えて炊事を督励し、ビールだ清酒だ肉だ卵だと盛んにごちそうをしてくれて、夜更くるまで語り合った事であった。 散会したのは二十二時かっきり、私の音頭という事で、陛下の万歳、つづいて皇軍の万歳、次に堤部隊の万歳、最後に柴部隊の万歳を唱えたのであった。 この時会談で耳にした事は、柴少佐の、いかにも武道家らしい、そして古武士のおもかげのある数々の逸話と、少佐が会津武士の裔である事、御令弟が、過ぐる満州事変に中尉で名誉の戦死をされた事、さらに少佐が、なぜかしら常々死所を求めている様子であった事、それはことによると○○○事件に関聯〔かんれん〕し、何か発憤しておられるためではないかと思う、というような話まで出た。 少佐が編成替えとなって満州を去る時に、著者が居合を奉納して神官からいただいたあの神代杉の御神符と御神盃とは、大切にして持って行ったという事も、この時に知った。
2015年05月22日
御神助 支那事変勃発の年の春である。 私の一家から妻の名で、当時、満州国内匪賊討伐中の諸部隊に贈る慰問袋に応募したことがあった。 すると、二ヶ月ほどして、通化に駐屯している柴部隊の吉澤という上等兵から、慰問袋を入手したというお礼と、その中味の若干を部隊長に差し上げたという事とを通知して来た。ついで、 ……柴部隊長殿は、今年の三月まで陸軍戸山學校の教官をしておられました。 (著者いう。柴少佐は当時銃剣術教士剣道錬士であった。) 在任中の昨年八月、戸山學校大道場において、 成瀬という人の手裏剣術の演武指導があった。 この慰問袋の送り主成瀬御一家は、もしかして成瀬さんのお宅ではないかと、 何という事なしに思われるから、一度伺って見よという部隊長殿からの命で、 この手紙を差し上げた次第であります。云々。 という手紙が来た。 意外な奇縁に驚いて、まさにその一家に相違ない旨の手紙を書き、さらに何かの慰問袋をこしらえて共に出した。 それからしばらくの間吉澤上等兵からの便りもなく、一方支那事変が勃発して、國内挙げて戦時気分となり、間断なく大陸に出征して行く将兵の見送りのうちに、その年も残りすくなくなった。 暮れに迫った十二月下旬、久しぶりに吉澤上等兵から便りがあった。そのしばらくの沈黙の間に、柴部隊は、通化から北支に近い錦縣の朝陽に移動し、事変に呼応して蠢動〔しゅんどう〕する性悪な匪賊を討伐中であるというので、しばらく便りがなかったのも、その為であった事が頷かれた。 私は、特に支障のない限り、毎年大晦日から元日にかけて、神社仏閣に参籠、初詣でする事を例としてきた。 その年、即ち昭和十二年の十二月三十一日の朝は、早めに家をたって、妻及び男児二人をつれ、箱根峠の旧道を辿り、夕刻、元箱根村の金波樓という湖岸の旅館に到着した。 大晦日の箱根芦の湖畔は、雲深く垂れこめ、寒風は湖水を吹き渡り、荒れ海のごとく波浪が高かった。この小さな街に、泊まり客とてほとんどないらしく、春から秋へかけての天下の遊覧地も、ひっそり閑として、名もなかった昔の寒村同然の相貌にかえっていた。 夜半から雪模様となり、夜が明けて昭和十三年となった元朝も、雪は霏々〔ひひ〕として降りしきり、吹雪の気味をさえ帯びてきた。 その吹雪の中を、親子四人が礼装して箱根神社に参拝、まずもって皇軍の武運長久を祈願し奉り、筵〔むしろ〕を一枚神前の雪の上に置いて、そこで家に伝わる桑名藩傳山本流居合術の内の数本を奉納すべく、神官にその許可を乞うたところが、特に拝殿において奉納してよいという事で、その上お祓いまでしていただき、さらに、罷〔まか〕りさがる折りには、神代杉の御神符、神盃、御供物、御守札等までいただいた。 宿へ帰る途中、おみやげの売店に立ちより、干菓子類、玩具等を求め、御神符、神盃、御供物等と共に包装し、立ちながら手紙を書いてそれに入れ、特に柴部隊に宛てて小包郵便として発送したのであった。 月末に至って、吉澤上等兵から一つの奇蹟を報告してきた。 ……一月二十三日、部隊は北票に出没する匪賊の大集団を討伐すべく、 各武装を了し、部隊長から出動命令を待っていた。 すると、そこへ内地からの軍事郵便が到着した。 第一番に、箱根からの御心づくしの小包を開いたところが、 神社の御神符をはじめ、数々の珍菓が出た。 御供物は細かく分〔わ〕かつて一同でいただき、御神盃で冷酒を飲み交わし、 御神符は特に部隊長がこれを背にして、一同勇躍進発した。 ……北票に到着すると、直ちに多数の匪賊と交戦した。 敵も相当数の火器を持っており、案外に頑強、 こちらは次第に犠牲者も出て来るという始末で、 予想以上の悪戦苦闘が数時間にわたり、 ひとまず敵匪を撃退してほっと一息入れていると、 匪賊の退却した方向の遥か彼方から、 馬に乗った新しい敵兵らしき集団がやって来る。 敵匪の加勢が来たという事で、一同緊張して再び配備についたが、 残念ながら弾丸が足りなくなっていた。 ……乗馬の敵兵らしいものが、だんだん近づくにつれて、 敵匪はこれに力を得て盛り返すかと思いのほか、 それらの騎馬兵が、反対に逃げ行く匪賊に向かって発砲している様子に、 一同不審を抱いていると、間もなく、 これは蒙古兵が急を聞いて応援に来てくれたのだとわかった。 吉澤上等兵は、このような事を細々〔こまごま〕と書いた後、 ……畢竟するに、これ箱根明神の御加護によるものと、 部隊長はじめ一同しばし感泣〔かんきゅう〕致し候事にて候。云々。 と結んであった。 部隊は、この蒙古兵の協力を得て、匪賊を潰滅した後、匪首九江なる者を生け捕りにして、悠々と基地に引き揚げたのは翌二十四日であった。その次の日の日付で、柴部隊長から妻宛てに、はじめて次のような手紙を寄せてきた。 前略御便り並びに御恵送の慰問品有り難く拝受仕り候。 小生も昨年の三月までは戸山學校教官を致し居り 御主人様の御演技は戸山校の大道場にて拝見仕りし次第 何等かの奇縁に候可〔べ〕し。 吉澤上等兵は、小生の当番兵として何から何まで世話し呉れ、 時折り御宅様の御噂を承〔うけたまわ〕る次第に候て 度々の銃後の御後援を奉謝候。 御子様達へも一々返事仕可き所、 討伐にて若干の負傷者を出し取り込み中の為め、 何〔いず〕れ後便にて御礼申し上げる可く宜しく御伝言願い上げ候。 不一。 その後、柴少佐から著者への手紙が来、こちらからもやったりしているうち、二月十三日に至って、著者もまた北支に従軍する事となった。 私は、上陸すると間もなく、寺内部隊に属して徐州作戦地域に派遣となり、磯谷兵団の前線台兒荘周辺の第一線に、徐州の陥落する四、五日前までおり、それから土肥原兵団の蘭封の陣中に派遣替えとなり、こうした激戦場を往来して開封へ入城、さらに新郷に出て、七月十日に寺内部隊へ帰った。ついで息つく間もなく、十二日には蒙疆〔もうきょう〕の蓮沼部隊に派遣されて、九月末まで蒙古各地を経めぐったのであったが、その間、一度柴少佐から葉書をいただき、ほど経て、家から、柴少佐は中支に編成替えとなって出征されたという便りを受け取った。
2015年05月15日
その翌月の二十七日には、河南省の首都開封を立ちいでて新郷へと移動した。炎熱焼くがごとき中の大行軍で、水のない旧黄河を渡り、第三李に一泊、それからゆくゆく残敵を掃蕩しながら泊まりを重ねて、二十九日には小翼鎭という所についた。私たちの宿舎にあてられたのは、棺用の材木を商う大きな材木店の奥まった家で、家族が全部いて我々を歓迎してくれた。 この日は途中で小戦闘があり、久しぶりに敵兵の血を見たせいか皆気が立っていて、この宿舎について早くも中庭で試し切りが始まった。途中で拾ってきた未熟の西瓜だとか、頃合の生木だとか、手当たり次第に切った。 この家に二十歳前後の青年が二人いて、熱心に私たちの試し切りを見ていたが、奥から支那特有の薄刃の木剣を出してきて、これで切って見よという。総長三尺ほど、両刃の不動様の持っているような剣型で、木質は何だが知らぬが、松樹の赤節か何ぞのように堅く、それを極めて鋭く削ってある。目方も相当にあり、振って見るに何となく調子がよい。これで、西瓜を切ると、ズイズイと実に具合よく切れ、青草の小束などは金属の刃物ででもあるかのように切れる。 聞いてみると、これは武術用兼護身用として用いる木剣であり、よく熟練したものは、これで突き通す事はもちろん、首ぐらいは切り落とせるといっていた。 隣りの家に宿をとっていた将校や兵隊たちも来合わせて、二人の青年にその木剣で武術をやらせる事となった。ちょうど日本武術の形のような事を「對串」または「對刺」といい、二人の青年は乞われるままに木剣をとって東西に別れ、互いに正眼に構えた。丈の高い方の青年は、やや修練が足りぬらしく、五本目かで頭をかいて止〔や〕めてしまったが、一人が胸をのぞんで突き入ると、ついとそれをかわして相手の剣を叩き落とすようにおさえつけながら、じりじりと突いてゆくといったようなものであった。 丈の低い方の青年剣士は、商品の板に黒いクレヨンのようなもので字を書きながら、次々と一人形をやって見せた。 刺……剣の先を敵に向けて刺す。 剪……刺して下へ斬り下ろす。 劈……上から下へ振り上げる。 斫……胴の斜め斬り。 撩……下から上へ剣先を前方へ突き出すようにしてふりあげる。 挑……剣先を前に出さずに右と同じ動作。 錯……剣先を上から斜めに前方へ斬り下ろす。 摸……水平に横に斬りつける。 抛……垂直に立ち割る。 衞……剣先を下より前より上げざま突き出す。 攔……大袈裟に斬る。 弸……剣先を下から上向きに突き上げる。 桂……平に横に払い斬る。 托……斜めに斬り上げる。 絞……上より斜めに側面へ斬り下げる。 束……斜めに後ろ向きに斬る。 雪……上より左側へ斬り右へ廻す。 この十七の手法が、どうやら支那の刀術の原則となっているものであるらしく、これにまず熟練した後に「對串」を修業するもので、その動作を「舞」といい、槍長刀の類は「操」または「練」であり、これらをすべて「武術」または「國術」と称するのだと、熱心に説明した。 この武術の淵源は、有名な河南省の禅寺少林寺から起こった「小林派」から出ているものかも知れない。青年たちは、大刀會や紅槍會については口をつぐんで語らなかった。そしてこうした武術の修練も、棺材や武器の材料屋だから、一通り心得ているまでだと弁明していた。 ※参考URL:手臂錄 http://www.cos.url.tw/fight/handfight.htm
2015年05月08日
嶧縣に、雑軍の将校で我が軍の捕虜となった山東出身の男が、まったく帰順して苦力として働いていた。色の黒い、うち見たところ三十五、六歳ぐらい、支那人としては丸々と肥えた小男で、毎日水を運んで来てくれたので、いつしか懇意になった。「こうした會の真相などは本当の事は解りっこない。大体はそんなものであろうが、守約の念の強い事だけは、大人(※たいじん・敬称)たちが、天皇陛下に忠義の心の深いのと同じ事で、一旦こうと神符を呑んで誓ったが最後、死んでも平然たる事は、大人たちはすでに度々御実見の事と思う。山東省には、紅槍會及びその末派が多く、河北省の南部河南省の北部には、大刀會一派が多いが、他にはあなりおらない。白蓮教関係の會所へは、うっかり一人で行かぬ方がよい。特にご注意申し上げる。」 とただこれだけで他の事はいわなかった。 この男が武術(國術ともいう)の名手だというので、青龍刀を出してやらせてみた。それを中段(正眼)に構え、静かに突いたり、たち割るような恰好をしたり、十数手ほどやっや後、右手の指四本を青龍刀の鐶〔わ〕の部分へかけて持ち、あたかも水車のごとく、プロペラのごとく振り回して敵を寄せつけない。その合間々々を見ては、ひょいと前方へ突き出す早業は、ちょっとどぎもをぬかされた。 このほかに「對串」といって、二人で相対してやる武術の形があるけれども、相手がないからといってやめた。槍はできないと断った。刀の方は相当なものらしく、日本刀を振って見ろといって渡そうとしたが、なれないものは不安だといって受け取ろうともしなかった。 通訳の話では、この男の身体には、刀痕が二、三ヶ所あるといっていたから、相当の猛者であろう。
2015年05月01日
四月の十八日附で再び徐州の線に派遣を命ぜられ、十九日に北京出発、途中で濟南に一泊して、封戦砲兵廟で、紅槍匪が遺棄していった槍と大刀の押収品とを見せてもらった。 槍の穂先は約七寸から九寸、身幅は一寸二、三分、丸みのある剣型のもので、元のところに棒形のものが左右に出て、その先を内側に巻き込んである。鉄性は鈍重で、柄は九尺から一丈ぐらい、木皮をはいだ自然木である。折れぬためと、柄の表面のささくれの出来るのを防ぐためとであろう。 槍のけらくびの所に、麻製のふさがついている。それは、血のこびりついたような赤黒い色で、それが処女の汚血で染めたものである事はすでに述べた。 大刀は俗にいう青龍刀で、これも大小各種、大なるものは元身幅で二寸弱、先っぽは二寸五分にも及び、総長二尺八寸から三尺ぐらいのものもあり、通常は二尺五、六寸で刃渡り一尺七、八寸、目方は二百五、六十匁から三、四百匁にも余り、さらにこれに三尺ぐらいの柄のついた、日本の昔の長巻のような恰好をしたものもあった。 刃は特有の丸っ刃で、焼きはすこぶる甘く、これで物が切れるのかと思われる程であるが、支那人にいわせると、馘首〔かくしゅ〕百人一つも過〔あやま〕たずだから驚く。つまり刀の自重で叩っ切るのである。 この槍の身や大刀には、洋数字で番号の入ったものが多く、38629 というような長い番号で、いかに数多きかを誇示してある。 さらにこの槍や大刀の柄のところまたは刀身に、 天 門 會 自 衞 靠 天 吃 飯 和 郷 愛 國 守 約 赴 義 等々の文字が、彫刻や鏨彫りで現わされていたり、その中に青や朱の色が施してあったりして、見事なものも少なくないが、多くは、鈍重な人切り道具、といった感じのものばかりである。 五月五日の端午の節句は、嶧縣の小林部隊にいた。ここの部隊本部は、当地随一の豪家で、独立した図書室をもっていた。私は部隊長や某軍医大尉と共に、この図書館で何冊かの稀書を閲覧した。その中に、待望の紅槍會等の内容を調査して秘密に出版したらしい小冊子を発見し、躍り上がって喜んだ。ロール半紙のような紙に石版刷りとした菊半截二十枚ほどのもので、表紙はちぎれていたが、珍しく古文で記されてあった為に、容易に判読する事が出来た。 白蓮會 天理教、八卦教、白羽會、在裡教等に分れ、香を焚き祈祷をなし、 符咒治病に専らにして、今は直接教匪に関係ないものが多い。 然れども、多数教匪を生んだ母体であるから、精神的には関連をもっている。 大刀會 縣を中心として組織され、これを「郷」と称し、郷常備六百二十五人、 村には大小によって「社」「隊」と称するものがあり、 社は常時百二十五人、隊は二十五人、ともに五人を伍として単位とする。 大刀(青龍刀、剣)一人一刀、銃器は有すると有せざるとは任意とし、 各自購入備えつける。紅布及び 「保護閭閻〔ほご りょえん〕」の四文字を以て標識とする。 紅槍匪 組織は大刀會と全く同じ。但し河南省は内部を文武の二系統とする。 長槍一人一本、銃器は拳銃を用い自己の支辨(※弁)を以てこれを携う。 紅総及び「義重郷里」「和郷愛國」の文字を標識する。 黒槍會 組織機能は紅槍會に同じ。 長槍各一人一本、黒総及び「信義奉公」の文字を標識とする。 黄紗會 大刀または長槍を持つ。黄色の総、及び「靠天吃飯」の文字を標識とする。 天門會 小黄色旗に「天門會自衞」と書いたものを携行するほか、紅槍會に同じ。 右諸會の公約 孝行敬老、和郷愛國、保護閭閻、信義奉公、義重郷里、守約赴義、上命服従。 目的 軍閥土匪侵略者の芟除反抗、悪税苛損の拒否、貪官無頼漢の刑罰。 會員資格 十八歳以上家居を有する正当職業者の子弟、入会金一元と共に誓書を呈出する。 訓練 教練、武術、焚香、念咒、軍事、政治。 大体右のような記述であるが、この通り実行されているものか否か、それはすこぶる疑問である。ただし一旦事があれば、相集って郷土を守り、外敵侵略のために戦い、事なければ各その業に安んずるというのが本体であり、それだけに、堅実な農工社会が中心となっている事は、従来の支那政府軍が、多くは無頼漢苦力浮浪者などの狩り集めであったのとは異なっているといえばいえる。 仏教の五大説から出たのが、五の数をもって神秘の単位とし、5人を伍、25人を隊、125人を社、625を郷、3,125人を亭、15,625人を郡、78,125人を路とし、これを一軍と定め、順次五を乗じて鎭、都、方と称し、方は9,765,625人で一省乃二、三省にあたり、48,828,125人を統として、これが領地なき国家、見えざる王国の総守備軍としてある。統長は五人の方長の互選になり、それには幾多の秘密条項があって、その組織が、政治に失望している生産階級自治の血管網に入り交じって、それを保護する神経網となり、敏感に働くように出来ているが、古い歴史をもっているのと、支那人の性格が、こうした秘密結社的活動に適している為とで、形式的な条件の具備せぬ割合に、侮れない勢力となっているのが看過出来ない。
2015年04月24日
今から約六百何十年かの昔、絢爛たる漢族支那の文化は、剛悍にして粗野なる蒙古族、元の蹂躙するところとなり、支那四百州はその暴政に屈服するのほかはなかった。 どこの国の歴史にも、かかる時に異態な怪傑の現われた事が記されてあるように、今の河南省の首都開封に、韓某という怪僧が現われて、仏教を根本とした白蓮教という一宗派を開いた。 これはもと沙門慧遠という者の結んだ白蓮社から系統を引いたものであるが、韓は、元の暴政から万民を救わんがために、それを激越尖鋭化した教條となし、ちょうど我が国の日蓮上人が叫んだ立正安国論と同じような筆法の教義をたてた。その孫の韓山童は、元の暴挙から救われる唯一の途〔みち〕は、この教義を信じ、この教義の下に四億大衆の心から団結ただ一つにあると、祖父のたてた教義を宣伝し、かつ「祖父が白蓮教の教義を宣布したのは、彌勒仏〔みろくぶつ〕の降生のために露払いをしたのであって、我こそは、まさに彌勒仏の変生である。われの此の世に生まれた大なる使命は、万民衆生の苦難を除かんがためである。」といって、香を焚き、呪文経典を誦読し、紅色の布片を記号と定め、「万民団結の方法はまず五の数より始めよ。現世の基は、地水火風空の五大からなる。何事も何事も、五を基として行なう事が教義に叶う行動の一歩である。」とて、五人の団結を基本の一単位として大同団結をつくるべき事を首唱した。 これによって、白蓮教は、元朝覆滅運動の一大潜勢力たらんとする傾向を見せて来たので、朝廷では、軍を発してかれを捕らえ叛乱罪として刑殺した。 山童の子の林兒は、巧みに危難をのがれて行衞をくらましたが、劉福通寺の後援を得て父の遺法をまもり、教義宣伝の域を脱して、ついに武力の叛乱を起こし、小黨所在に蜂起して領土のない国をたて、元に滅ぼされた宋を復興して国号を宋と称し、自ら皇帝の位にのぼり、大衆徒を結束して国内を攪乱した。 これが支那に特有の「匪」なるもののそもそもの発端であって、爾来〔じらい〕、元朝はこの所在に蜂起する匪賊のゲリラ戦術にかかって、漸次兵力の消耗を余儀なくされ、ついに明の太祖朱元璋が起こって元朝を覆滅するに至った、その足だまりとなったのである。 しかるに朱元璋は、この白蓮教の政治的勃興をおそれてそれを弾圧する政策に出たのと、その手段が巧妙であって、いわゆる毒を以て毒を制する策略を用いたので、一時衰退を来たし、ついに純然たる秘密結社となって、明朝二百数十年間を地下にもぐっていたが、清朝に入ってからは次第に政治結社の形となり、嘉慶元年(我が寛政八年)から十年近くも天下大乱の因となり、大清国の基礎もこれがためぐらつき出したので、兵力をもってこれを平定し、白蓮教は爾来国禁となり、犯す者は斬に処せられた。こうした弾歴にもかかわらず、依然として結社の根は立たれず、白羽會、三香會、天理教、八卦教等に変名変貌して所在に流賊となり、ついに大刀會、小刀會、義和団となってまたまた擡頭し、それが国家的に目ざめて、外国人排斥運動を起こし、かの明治三十三年に起こった義和団暴徒は、実にこの白蓮教の成れの果てであった。 後に清朝を滅ぼしたのも、この教匪が革命軍と提携したからである。 民国になってからは、山東河南河北三省に、紅槍匪を主力として隆起した。これは官憲軍閥土匪の暴挙に対する各郷土の自衛から起こったもので、それが各地の自治機関と横の連絡をとり、縣城を中心として村々に及んだ大きな組織を形成し、名称も、紅槍會のほか、黒槍會、黄紗會、天門會、大刀會等々の名を冠し、ついに武力結社として、満州及び北支一円ならびに蒙疆〔もうきょう〕地区の一部にまで伝播するに至った。 北京で知り得た事実はこれだけであったが、例の宿舎の番頭は、僧籍にあっただけに面白い話を一つつけ加えて結んだ。 白蓮教の起原をなすところの白蓮社であるが、これは非常に古い事で、東晋時代の孝武帝太元十一年というから、我が国では仁徳天皇の御宇に、僧慧遠という者が廬山に登って東林寺を創建、名僧知識数十名を会して、西方浄土に往生せん事を誓願の法会を行なった。この寺の池辺に白蓮を植えて、浄土のおもかげをしのんだので名づけて白蓮社といったのに始まるのであるが、この一派の僧澄圓という者が、後醍醐天皇の御代に来朝して白蓮教を伝えたので、泉州に一寺を建立旭蓮社と命名してこの浄土教を広め、その後京都鹿谷の法然院にこの伝統が伝わって今に及んでいるのであるが、この寺は、浄土宗の開祖法然上人にゆかりの旧跡である。
2015年04月17日
この辺に出没する紅槍匪は、肥城を中心に約二万からの数に達しており、軽装して赤黒い庇の房のついた自然木の柄の槍をもち、五人に一人ぐらいの割で火器をもっているほかは、武器とてはただ槍一本だけである。 槍術については、幼少の時から相当の練習を積み、その上、白蓮教から来た一つの宗教的な示願を深く信じ、この教に従って戦う者は、弾丸も刀刃も決して見に入らぬ。もし死ぬる事があっても、即座に人間に生まれ変わるという迷信で、その生まれかわりのまじないとして、槍の房を処女の汚血で赤黒く染めている。 この迷信を徹底しぬいている槍匪は案外強く、殪〔たお〕れる戦友の屍を踏み越え踏み越え、口々に不可思議な呪文を唱えながら、最後の一人になっても平気でやってくる。この命知らずには、さすがの我が軍も、時によっては相当悩まされたと聞く。 さて私たちはこの報に緊張し、油断なく警戒しながら、大紋口の假橋も無事に過ぎ、しばらくして午後二時半頃には、右手の車窓に泰山の雄偉な山容が遥かに見えて来た。山の形がだんだん大きくなり、その山麓の泰安駅のちょっと手前の左窓下の草むらの中に、支那兵の死骸らしい生々しいのが二、三見えた。紺青の服、土黄色の帽子、赤い房の槍、そうしたものの散乱しているのをちらっと眺めた瞬間、これが今暁やって来たという槍匪だな、と考えながら五時近い頃駅についた。 駅からは沢山の兵隊が乗車して、車の中は急に賑やかになった。兵隊の話を総合すると大体こうであった。 つい二、三日前に、砲を有する敵兵約三千が夜襲して来たが、わが泰安守備隊によって撃退された。すると昨夜月明の大暴風を利用し、紅槍匪がいづ方ともなく忍びやかに現われ、我が歩哨にかかって来た。かれらは例の槍と青龍刀とで巧みな小密集隊形をつくり、狼の咆哮に似た声を出して迫って来る。こちらから銃丸を飛ばしても平気の平左で、尋常支那兵とは異なり、近寄られたら始末におえない。結局は撃退したが、一時はあの大暴風の中で、相当物凄い接戦と乱闘とを演じ、我が方にも若干の犠牲を出した。 この事件の見聞から、支那兵の中にも、こうした、死を見る事帰するがごとき者、の存在している別の事実を知った。一死一億の同血族を生かし、悠久の大義に生きる日本武士道の精華には比するべくもないが、一つの教義信条を根本として、義に戦うものには、刀槍といえどもこれを傷つけず、万一死すとも直ちに復生するという信念を持し、「守約赴義」に要約されている支那一流の士道を知り、この士道を体して、大刀紅槍等の白兵武術の練磨の行なわれている事を、車中の誰彼から断片的に聞かされた私は、どうにかしてその本姿〔ほんし〕をきわめて見たいと望んだのであった。 十六日の夜半に北京について、ある兵站宿舎〔へいたん しゅくしゃ〕に入った。主人というのは半島出身者で、ながく教員を勤め、恩給を受けているという人物。使用人の某という五十近い内地人は、かつて一山の仏寺の住職をしたという変わり者。この男が私の北京滞在五日間中身辺の世話をしてくれ、ある晩のごときは、深更まで話し込んで行った。 前身が僧侶だったという事のほかには、何も語らなかったが、相当博識らしく、支那語も達者に話せ、北支各地はくまなく遍歴し、ことに山東省内の事情にはすこぶる明るかった。 この男が、偶然にも紅槍匪の中心思想となっている白蓮教の歴史や教義に精しく、山東省の周村という機業地で、日本人経営のある絹織物工場の支配人をしていた時に手に入れたという『白蓮教始末』と題する古体の文章で綴った写本を見せ、その上見聞した色々な話を聞かせてくれた。 この写本を借りて手写し、それから当時の特務機関の嘱託某氏から手に入れた『山東教匪に関する概略』というガリ版刷りの小冊子とつき合わせ、それにその夜の聞き書きを織り交ぜて見て、はじめてその歴史というようなものを掴む事ができた。
2015年04月10日
紅槍匪〔こうそうひ〕 この一文は現地兵馬の間において見聞したままを記したものであり、従って今は敵としてではなく、同じ大東亜共栄圏内の一国家として提携してゆく支那の国民性の尚武的な一側面を知り、かつ将来日本的にこれを導きこれを強化させなくてはならないものの一として、当時の陣中日記を整理したものである。 昭和十三年四月十三日、私たちは兵馬騒然たる要地兗州〔えんしゅう〕城内の移動修理班にいた。よく晴れた日であったが、午〔ひる〕から風が吹き出し、夕景にはそれが暴風の兆候をあらわして来た。 家主の劉一家は、全家族一所に集まって、いずれも不安そうに目をしばたたいていた。それは風害を懸念したためでもあり、同時に、「風と共に来るもの」を怖れていたからでもある。風に乗じて襲い来る事は、紅槍會匪大刀會匪の常套手段であって、風を一つの「神助〔しんじょ〕」と信じているからであり、ことに春秋のそれはまた一つの行事でもあるからである。 その頃一つの流言が飛んでいた。それは、山東省の西方肥城を中心として、約二万の精悍な槍匪が集結し、日本軍の○○本部をねらいつつあるというのであって、我が方では、春の日のねむけ覚まし、日本刀の切れ味試しには恰好な敵だというので、心待ちに待っていた所へ、この暴風が来たわけである。 当時、徐州作戦も第三期に入り、何もかもただ一図に南を指して進んでいる最中であった。私達もまた翌々十五日には、徐州の線に向け移動するために、この烈風の中で準備に忙殺されていた。 ところが、夜になると間もなく、濟南の部隊長から電報で、私と助手の加古伍長に直ちに帰ってこいというのである。徐州へ入城する日を楽しみに張りきっていただけに、瞬間の失望落胆は甚だしく、消灯をして毛布にもぐり込んでからも、軽い不満に眼が冴えて一向に眠られなかった。 夜半を過ぎる頃から、本格的な大暴風となり、乾燥しきった黄土を大量に捲き上げては吹きつけ、隙き間という隙き間から、それが濛々〔もうもう〕と入ってくるのに噎〔むせ〕せて苦しかった。 夜が明けても依然として風は落ちない。その中を午前十時に兗州駅を出発する濟南行の貨物列車に乗った。前線からの帰りの空車、数十輛もつづいた長い長い列車である。私たちは外のわずか二十数名の将兵と共に後方へと逆行してゆくのであるが、この暴風のために、進行中の列車がそのまま横倒しに吹き倒されるのではないかと思われるほどものすごくゆれて、ために速度も落ち、喘ぐような様子で辛くも進行をつづけていた。 突然、それは曲阜縣駅を過ぎて南駅へかかろうとした頃、けたたましい號笛〔ごうてき〕と共に汽車は急停車をしたので、その反動で空の砲弾用薬莢がくずれかかって、危うくその下積みになるところであった。 何故〔なにゆえ〕の急停車だろうかと、窓からのぞいて見ると、前方の鉄路の枕木が二、三本、青白い烟〔けむり〕をたててブスブスと燃えている。それが折からの烈風に吹き煽られて、一本の枕木はたちまち火焔をあげはじめた。 一人の工兵少尉がまず飛び出した。「皆降りろ。前方へ急行。」と大声でいって走り出したので、全乗員はその後からつづいて現場へ急行した。が、しかし消火用の水もなく、水を汲むべき川も井戸もないので当惑していると、件の少尉は、「各自のホース。」といって風を背に火を風下にして立った。当意即妙、まことに時宜〔じぎ〕に叶った機智だ。風下へ向けた各自のホースのために火は辛くも消し止められたところへ、はるか彼方かの駅から駆けつけた消化隊によって完全に鎮火した。 発火の原因はさっぱりわからなかったが、列車が動き出した時、ここから乗った駅員(兵隊)の一人が、「今暁、紅槍匪が、大挙泰安のわが守備隊を襲撃したそうであります。」 と語った。「いま機関手につたえておきましたが、大紋口の假(※仮)橋あたりを進行する際、特に警戒するようにとの事であります。あそこへも若干出たそうであります。」 少尉は地図を出して見ながら黙って頷づき頷づき聞いている。
2015年04月03日
行蔵の逸話逸事は少なくない。 ある時、厳寒さ中に、一夜中水にひたっても堪え得るや試さんとして、水風呂に入ったが、さすがの行蔵も忍びかねて出てしまった。こんどは睾丸を真綿でつつんで試みたところが、滞りなくためしおおせたという。この我慢強い修業の経歴は、時にまた次のような事をさせた。 同じ長沼流の兵学の同門で、後天下に知られた清水赤城とは親交深く、ある年の厳冬の夜、相携えて両国橋の上を通行した際、赤城はふと思いついて、「寒中水泳はいかが」といい出した。行蔵はすかさず「戦争に季節なし。宜し。」と言下に裸体となってざんぶとばかり飛び込んだ。赤城もこれにつづき、二人は暫時泳いで陸にあがり衣服をつけたが、さすがに寒さに堪えず、行蔵が「一杯どうだ。」と誘うや、赤城すかさず、「戦場に酒屋あらずだ。」と復讐したので、二人はそのまま哄笑〔こうしょう〕して別れたという話もある。 寛政五年に、かれは選抜されて昌平黌〔しょうへいこう〕に入り、五年の修業を終えて、聖堂出役というものから、御譜請見習という勘定役に命ぜられたが、わずか数日で辞職し、そのまま小譜請入りとなった。これは懲罰的な役柄であった。下勘定所で、算盤はじきの有様を眺めた時のことを、 ……子龍此の有様を見て大いに仰天し、こはそも如何なる事ぞや。 潜(行蔵のこと)不敏なりといへども、夙に父母の厳命を蒙り、 明師につきて武藝を演習し、又諸家を叩きて韜略〔とうりゃく〕を講究し、 攻守闘戦の道に於て一點の疑ひなく、 神武の大道に帖立せしものゝかゝる所に至れること、 因果悪縁の致す所かとあきれはてたり。 しやつらが面目には尿〔いば〕りをもたれかくべく唾きをも吐きかくべき思ひ、 ふつふついやになり、身の毛も彌立つ程に、病に託して退仕せり。 と、後に著書の中に書いている。 よくよくいやであった事がうかがわれると共に、かれが、堕落しきっていた時流に敢然と抗して立ち上がった心持ちのほどもよくあらわれている。 六十一歳の年、還暦を祝として樂翁公から絹布の夜具一重ねを下さった。かれは一夜用いてあつくしまい、後再び出して短刀でこれを切り裂き、ことごとく刀袋にしてしまったので、これを伝え聞いた樂翁公は、不機嫌かと思いのほか、さもあるべしと頷かれ、改めて木綿の夜具を運ばせたところが、今度はそれを使用した。 六十七、八歳の頃中風にかかったので、板の上に寝る事だけはやめたが、それでも畳の上にごろ寝して蒲団をかけたのみであった。 知人某が、病を慰めんとして、行蔵自作自筆の詩を巻物に仕たてて見せ、何か希望はないかとたずねると、とてもの事に、これに樂翁公の御染筆がねがいたいといった。幸い、公の家臣でもあり行蔵の門下である青木某が、右の巻物をもって願い出でたところが、樂翁公は一覧してその出来のただならぬを賞され、次の歌を書きつけられた。 書きながすこの水莖に面影を うつして後の世にもつたへよ 文政十一年十二月十四日、眠るがごとく世を去った。行年七十歳、四谷愛住町永昌寺(今は東京都杉並区下高井戸一ノ六八に移転)に葬った。門弟並河鋭次郎という者が、のぞまれて養嗣子〔ようしし〕となったが、この人も行蔵の名を辱めぬ立派な剣者として世を終わった。 文化四年、ロシア艦我が北境を侵略した際には、憂憤やるかたなく、六月には「上執政相公閣下書」を、七月に「上北闕書」を上訴して、わずかにその鬱を遣った。それは、自ら市井の浮浪の徒を率いて外夷を撃退せんというのであって、後かれは人に語り、「あの時は、本当に松前へ出かけて行って夷人どもをやっつけようと上書したのだが、その時着用して行って、夷人どもの目を驚かそうと、甲冑に金箔をつけ、この指物を拵えておいた。」 といって、白地に朱書の隷書で、 皇和忠義平山子龍 と書いたものを示したという。 さらに話をつづけ、「松前へ討手を仰せつけられたならば、三百目筒に乱玉をこめ、立ち放ちにうって、その烟〔けむり〕の下から槍を入れ、毛唐のやつばらを微塵にしようと思ったのに、その事もなくて残念千万じゃ」 と語ったそうである。 行蔵は、泰平の世に生まれて畳の上で死に、その武もその錬達もついに施すの時のなかった事は、かれのために惜しむのだが、しかしその精神は永く生きていて日本を護った。
2015年03月27日
行蔵が心服した人が一人、心から感じた事が一つある。それは、時の宰相樂翁公松平定信の人物と、薩摩の示現流剣法とである。 当時、世間のほとんど全部といってよいくらいにかれを半狂人扱いした中に、樂翁公のみは、かれの真意を見抜いて激励し、心からかれに同情したからであり、 一つは己れのたてた武術に最も似通ったものが示現流の精神であったからである。 その事は、自著『鈴林扈言』に大略次のごとく述べているのでもわかる。 ……古松軒(姓は古川、地理学者)が、ある時六十六部に身をやつして 薩州に入り込んだ時、ある一家で、かけ聲をして木刀の音のするのを聞き、 茶を乞うて喫しながらしばらくながめ廻して居ると、 その先生と見えた人が、 「六部は武藝がすきそうだが何をつかったのか。」 と、たずねたので、小松軒は、 「若い時鞍馬流をつかったが、気合いのおさめ方、などという事があって、 甚〔はなは〕だむづかしかった。 ところで、そなたの御流儀は何と申されるか。」 と、反問した。すると先生は、 「だた御流儀とばかりで別に名はない。また気合いの心持ちということもない。 ただ大音聲をあげて刀を打ち込み、敵軍にかかってゆく勇気を引き興すだけの事だ。」 と、簡単に答えたというが、そこの意味がはなはだ面白い。武藝の根本はここにあって、ここが出来なければ、いかほど手練ができても魂がないから、芝居狂言のごときもので、事に及んで狼狽するばかり、これを、武藝の習いだおれというのである。云々。 行蔵の兵原草廬〔へいげん そうろ〕を描いた二つある。一はその門弟森四郎という者の手記と、一は江戸の学者山崎美成の訪問記とである。 前者の意訳略記すれば、 ……式台には鎧数領、鉄砲十挺程かざり、式台を上って通った稽古場には、 坊主畳三十畳敷で、それから居間へと通るのであるが、ここは十畳敷で、 座の後方には刀架があり、六尺余の大刀に脇差を添え、 左右には、数十の箱に入れた和漢の書籍が置かれ、 具足櫃二、負荷一、数十本の槍がかけられ、床には巻物掛物数々ある。 ……板戸には、武蔵野に髑髏〔どくろ〕を描いた書があり、 それには自筆で、 志士不忘在溝壑、勇士不忘失其頭、 と書いてある。 ……押入れには四斗樽一本を据え、それを時々栓口から出し、冷酒で飲用する。 次の稽古場には、居台付き大筒三つ、四百目位の抱え砲二つ、 二、三十目筒五挺、射込桶があり、鉄棒二挺、長刀、大鑓、木刀しなえ その他数々の武器が押入棚にあって、実に目を驚かすばかりである。 稽古場はあまり破損していないが、居間は甚だいたみがあってきたない。 庭前には草が茫々と茂っている。 山崎美成の随筆を略記すれば、 ……入り口の木戸を入ると玄関のわきには芭蕉が茂って、 羽目には蔦が這いまつわっている。 玄関には、行蔵自筆の「鞱略書院」と認めた額が掲げられ、 掛け札には「他流試合勝手次第、飛道具其外矢玉にても不苦」と記してある。 玄関の次はすぐに稽古場、その次が居間で、 子龍は木綿の袷〔あわせ〕の上に陣羽織を着て机に対していた。 梅漬や漬大根を肴に、冷酒を出し、激談がはずむ。 四辺を見ると、庭の草は縁より高く生い茂っている。 稽古場には、車に乗せた一貫目筒が一挺、 三百目、四百目、百目、五十目、三十目筒が七挺ある。云々。 ……六十一の賀に拵えたという五尺ばかりの角鍔の刀を出して示し、 また關の兼永の作刀一を示す。 中心〔なかご〕には、「馬場美濃」とあり。 裏には、「長蛇三尺之義心、勢如巻風砂」の十二文字を金象眼にてあらわしている。 鉄杖を出し、 「年が寄って今では少々重い。」 と云ったその銘字は、「嗚呼棒根、勢如長蛇、天魔盡殺」とある。云々。
2015年03月20日
さて、いずれの記録にも、剣人伝につきものの立合い仕合いの一節が欠けている。それかあらぬか、ある書には、「子龍の武藝はこけおどかしで、未だ曾て敵と仕合ひたるを聞かず。さればにや、當流に仕合ということなし、と逃げを張るはさもあるべし。云々。」などと記している。 私はこの好漢のために、勝敗はあえて問わぬから、真にせまった立合い記録を求めたいとねがったところが、幸いに入手する事ができた。 これは私ばかりでなく、平山行蔵を尊敬するほどの者の等しく感ずるところであろう。 雲州松江藩士信太英著『淞北夜譚』の一章にあるが、原文は漢文であるから、ここに意訳して揚げる。 出雲藩不傳流居合の達人、上川權左衞門という者が、かつて江戸勤番の折柄〔おりから〕、平山行蔵の名を聞いて往いて訪〔と〕うた。 權左衞門が美服を着用しているのをのぞき見て、行蔵は高らかに、「主人は不在じゃ、帰らっしゃい。」 といった。權左衞門は致し方なく、「然らばまた御訪ね申す。」と、そのまま立ち帰り、数日後同じく美服を飾って案内を乞うた。 そこで行蔵ひそかに思うは、わけに面会せんとするほどの者で、わが人なりを知らぬものはあるまい。然るに、ことさら自ら美服を飾るというには、何か仔細があろう。 あるいは、このわれを試〔こころ〕みるのかも知れぬ、というので、請じ入れて対面した。 話題は直ちに剣法へ移り、權左衞門の説くところはなはだ高く、行蔵これを奇として一手合わせを乞うた。 そこで二人は道場に現われ、門生環視のうちに、木刀大小長短数本を出して選びとらしめたところが、權左衞門は、二尺そこそこの小刀を執ってこれを帯したのに、行蔵は五尺余の長刀をとり、互いに場に登り一礼して構え合った。 行蔵は双手に取って大上段にふりかぶる。權左衞門は片手に柄を握って自若たり。行蔵、大喝一声跳躍し来たって權左衞門の頭上をうつや、たちまち身をかわしてそれを左に受け流し、不傳流猿猴水月の勢いで飛びちがったので、行蔵の木刀、これがために流転〔るてん〕し、余力でしたたかに床上を打ち、かつ前のめりに仆〔たお〕れかかった。 權左衞門は、直ちにその刀を後ろから行蔵の首根に擬して、 「いかに。」 という。行蔵は笑って、 「慚愧〔ざんき〕々々。」と座に戻った。 しかし、この闘いで權左衞門の刀尖五、六寸が折られていたので、あとにそれと気がつき、 「拙者輩の遠く及ぶところに非ず。非凡の技、御見上げ申した。」 と、推称した。 これがその話しである。 出雲藩士が、同じ出雲藩士の武を記したものであるのだから、多少の依子は依怙〔いこ〕はまぬがれぬところで、反対に行蔵側の者たちに書かせたら、この勝負行蔵の勝ちという事にしたかもしれない。
2015年03月13日
ある時、かれは定信の前で、七尺五寸の樫の木刀を大野太刀に使い、七貫五百目もある大鉞〔だいえつ〕(※おおまさかり)を数回振り回し、一貫目筒の抱え打ちをなし、座に帰っても息合〔いきあい〕は常のごとくであったといわれている。 門下中、下斗米秀之進(相馬大作)吉里呑敵齋、小田武右衞門、松村伊三郎の四名は、兵原門の四天王と呼ばれ、中でも、下斗米は南部の義臣として名を千載に残し、呑敵齋は實用流(忠孝眞貫流に対する世間の称呼)として継承している。 門弟中には、あまりにも行事苛烈なため、さすがに庶人の子弟は少なかったが、士人の子弟でも高禄の家の者はほとんど皆無であった。定信の家臣青木某が、行蔵の門にある事三年に及ぶと聞き、定信は驚いてこれに手柄山正繁の鍛えた「神妙」の一刀を与え「大成せずしてその門を去る勿〔なか〕れ」と訓戒を加えたと伝えられている。 また同じ頃、高禄の旗本某の長子が、入門二日目、その家司から贈り物を持参して、座席に座布団を用いる事を許されたいと申し入れたのを怒って、即日入門を取り消したという話も伝わっている。 さて、ここにおいて指南したかれの武術のいかなるものであったかについては、やや詳細に記す必要があろう。 行蔵の著になる武術書『劍説』の巻頭に、「夫〔それ〕剣術は敵を殺伐する事也。其〔その〕殺伐の念慮を驀直端的〔ばくちょく たんてき〕に敵心へ透徹するを以て最要とすることぞ。」 と記している通り、遠回しのたとえ言葉を避け、いかにも驀直端的に、それこそ一刀両断の慨をもってずばりと述べているところに、かれの本領が躍如している。 行蔵は、前にも述べたごとく、眞貫流という剣術を御家人の山田茂兵衞について習った。この流派は、丸目蔵人の心貫流門人、奥山左衛門太夫忠信のたてた一派で、また心貫流ともいう。 元来は短刀術で、その稽古には珍しい二つの方法を用い、一は、紙で張って渋を施した竹笊〔たけざる〕に、両眼だけの穴をあけたるものを面代わりにかぶり、最初は、相手に思う存分頭を打たせてじっと太刀筋を見まもり、遠近の筋合いを覚えさせ、こなたは短い竹刀を持って進むばかりでわざをしない。かくて目が見えるようになってから、敵に打ち込む太刀筋を躱〔かわ〕し躱し、敵にせまって激突するわざを教えるというのである。 もう一つの方法は、背に仏像の光背〔こうはい〕のごとく、円光ならぬ円座を背負って短刀をもち、相手にその円座のふちを真っ向から打たせながら太刀筋を身覚えさせて、あとは、前のと同じく太刀筋を覚え込んでから相手の手許にくり込んで行って勝つという方法である。 行蔵はこの流儀を習い、のち、 ……十四、五歳必ず初陣銘々(各自の事)主人御馬先に於て 必ず討死を遂げ忠孝をたつべき事。 という信条から、忠孝の二字を掲げ、「忠孝なくして武藝の要なし。」とて、その一流を「忠孝眞貫流」と改め、同じく短刀をもってする格闘を建前として、大体次のごとくに述べている。 ……當流の劍術で短刀を用いる事は、特に気勢を引きたてんが為である。 それは、もし短刀をかざして決戦の場に出で、 少しでもためらったり油断があったりすると、 たちまち敗をとる事てきめんである。 よって、敵の撃ち突きにかまわず、 己のこの五体もろ共敵の心臓部を貫いて 背後に抜け通る心で踏み込まなければ、 敵の身体に届かないのである。 ……こうした精進で鍛えあげた者には、 敵は自然とあとずさりをして引き下がるようになる。 かく鍛えずして、敵と真実の勝負などというものは思いもよらぬ事であって、 短刀を以て演習する所以はここに存ずる。 ……しかし、実戦の場に至っては、手に応じ力に応ぜば、 いかなる長い刀を用いてもよろしく、総身の力を揮って打ち込むべきである。 ……當流には仕合という事がない。一々実戦の心である。 當流の本領は、戦場で潔く討死する精神の演練だから、 打ったり打たれたりして、いささかの當りはずれを吟味するものとは、 その相違天地の如くである。 かくて行蔵は、この「忠孝眞貫流」を一層に強化し、これを中心とし、昔の支那武術の例にならって、「武藝十八般略説」なる書を著し、次のごとく道場で教授した。 弓、李満弓〔りまんきゅう〕(駕篭弓)、弩〔ど・いしゆみ〕(大弓)、 馬、刀、太刀、青龍刀(大長刀)、眉尖刀(小長刀)、抽刀(居合)、 槍、戟〔げき〕(十字槍)、鉋(佐分利槍)、鏢鎗(投槍)、 棍(棒)、鉄鞭(鉄扇、十手)、飛鎚(ぶんどう)、 附〔つけたり〕 鎖鎌、拳(柔術)、銃(鉄砲、大砲) これは、かれの得手からとったもので、必ずしも完備とはいわれないが、武士たるものは、武藝一通りは心得ておかねばならぬという理由として、実戦の場に臨んで、無意識的にそれが当意即妙の働きを働かせるものである事は、しばしば私の説いたところであるから、ここではその説明は割愛する。 かれは一生独身を通して婦女子を近づけなかったが、酒はすこぶる好物で、二六時中かれの近くに侍して芬香を放っていた。年六十を数えても、顔は渥丹〔あくたん〕(紅色)のごとく、外出のさまはまた異様で、まず遠出には草履を穿〔うが〕ち、近ければ藁草履__それも足半〔あしなか〕というあれをはいて、鐺〔こじり〕が地に曳くほどの大刀をさし、下部を八角に削った目方四貫目の鉄棒を突き、淫靡蕩々〔いんび とうとう〕たる化政期〔かせいき〕の八百八町を、この姿でのし回ったのであるから、行人はただおそれをなしてこれを避けたという。
2015年03月06日
行蔵の父は甚五左衛門勝壽といい、「武家ながら侠者の名あり。」と書かれており、母は「母性氣厳正、教ふるに義方あり。」また「無鬚〔むしゅ〕の丈夫なり」と記されてあることから、平山一家の家風も自ら知られるのであるが、かれの師として、後年かれの武術の中心をそれに置いたといわれる眞貫流の師範山田茂兵衞は、また聞こえた侠雄快傑で、同じく御家人として御徒士を勤めていたが、ある日、神田佐久間町に失火があって燃え拡がった時、将軍が富士見櫓から遠目鏡でこれを望見しているのを見つけるや、お堀のはたに二王立ちとなって大音あげ、「下民の困難を眺めて御身の慰めと致さるるは、桀紂の暴にも劣らず候。」と罵り、同僚のとめるを聞かず、もとより覚悟の前だといって大手を振って立ち去り、後上書してお咎めを蒙ったという人物であった。 行蔵の祖父梅翁、父甚五左衛門は、ともに剣法にくわしく、自然行蔵の武藝の師匠を選択するにも意を用い、右のほか長沼流兵学では齋藤三太夫、大島流槍術では松下清九郎、渋川流柔術ならびに居合術では渋川伴五郎など、当時錚々〔そうそう〕たる人物で、さらに弓馬水泳鉄砲の諸術まで盡〔ことごと〕くこれを修めしめ、文事もこれに劣らず、昌平黌〔しょうへいこう〕に五年勤学して、儒学をはじめ和学農工の末に至るまで学びつくしたかれであるから、時に監視を賦〔ふ〕し和歌を詠〔えい〕じ、真に文武の両道を修め、かつこれを発揚したのである。 かく生い立った行蔵であった。 当時は、久しい間の泰平安逸から風俗も奢侈〔しゃし〕に走り、士気はさらに振るわず、しかも外艦しばしば北辺を犯すという有様だったので、行蔵は慨然〔がいぜん〕として世を叱り、自ら先駆して非常時日本人のかくあるべき生活を示した。 着物は極寒といえども袷〔あわせ〕一枚、足袋は穿たず、そのまま板敷の上に寝て木枕に一枚の四布蒲団〔よのぶとん〕をかけるのみ。夏も蚊帳を吊らず、草をいぶしてこれを追い、食は玄米飯に生味噌と香の物、茶湯も用いずに冷水ですまし、衣食住は戦陣にある心で、朝、寅の太鼓(四時)に起きるのは、陣触れの太鼓に眼を覚ます事と心得、直ちに冷水を浴びて庭に出で、太刀を抜く事三百本、長さ七尺余の樫棒を揮うこと四百回、風雨寒暑一日としてこれを欠いた事がなく、かつ一刻も時を違〔たが〕えて起きた事がない。 右の定業終わると共に、巻き藁を射、木馬に乗って槍をしごき、武藝十八般、ことごとくその武器を執って一通り演錬し、右終わって机に向かう頃は、冬といえども夜明けて清々しく、そこで和漢の書を読んで朝食し、辰の刻(八時)仕に出づるといった有様で、読書するにも、一枚の渋紙を板敷の上に敷くだけで、それは足指や関節を板に当てて固めるためであった。 兵原草廬(後に運籌堂)という家塾を開いて兵学儒学を講じた頃には、江戸士民の間に「龍門は登るは易く、運籌堂に登るは難し。」といわれた程苛烈厳格なもので、第一、内弟子はすべてここに在って薪水の労をとり、師と同じく行の生活を積まねばならなかったからである。 当時の規則書を見ると、 一、始めて謁見に請う者は、予め紹介をもってその姓名を通じ、 しかして後に相見す。唐突門に踵〔たずね〕る者は之を謝絶す。 とあるをきっかけに、全文十七ヶ条、その大略を書きくだくとこうである。 一、堂に上って先生を拝し、寒暑の挨拶が終わってからは、 ただ粛整を要し、言笑を許さない。 一、威儀厳猛正座して腹肚に力を入れ、 両手の肘が外に向かって張る程に手を膝上に置く。 これまた勇武を養う一端であるからである。 一、先生に向かって物申す時には、手を膝の両方に置き、恭敬でなくてはならない。 一、一々講を聴く時、他の旁聴する者、 己れ了解せぬからといって唐突に質問してはいけない。 一、学年を積み出師(孔明の上奏文出師の表の事)以上の諸篇に及ぶ者は 入室の弟子である。その地位に至らぬ者は同席出来ない。 一、階級差等を凌いで、浸りに講問する者には答えない。 一、國政の得失、官吏の動静を論ずるは一切禁ずる。 一、天下の形勢城堡〔けいせい じょうほ〕の利害を議する事も許さない。 一、不遜倨傲体容を失するものは、席につく事を許さない。 次に細事の規定として、 一、病人のほかは頭巾足袋を用いてはならない。 一、弁当は柳行李をつかい、煎物等の携行を禁ずる。 一、禁煙。 一、稽古中雑談をしてはならぬ。 一、内弟子の会合は稽古場だけに限る。 一、参詣物見遊山に誘い合ってはいけない。 但し事情があって聴許したものは別である。 一、同門中で金銭の貸借をしてはいけない。 武器書物も同然だが、それは許しを得れば格別、 どんな手軽な物でも贈与は一切ならぬ。 以上は大体の意を取ったもので、ここに注目すべきは、休日及び月謝の規定の全然ない事であるが、前者は月々火水木金々を意味し、後者は、庭前の野菜物を抜いて師に献ずるの誠意を諒とするもので、本朝士風の美の一つの現れである。 さて、この規定を一読した普通の人間は、まずそれだけで逃げて近寄らなかったであろうが、「読書竹刀の声音相和し終日これを聞かざるはなし。」と書かれてある程に入門者は多く、一時はその数三千にも及んだのは、時勢に眼覚めている同憂の士の多かったのと、行蔵が自ら行なって天下に範を示した、その徳にもとづく結果であろう。諸侯よりの招きもしばしば受けたが、自ら歩を運ばない限り門下たる事を許さなかった。 時の名宰相松平定信は、微行してこの草庵を訪ね、武術について教えを乞い、酒をはじめ時々物を与えて激励した。
2015年02月27日
行蔵は、徳川の御家人中でも、至って身分の低い、俗に伊賀者といわれる(忍術使いで知られた)下級武士の家に生まれた。四谷に南北伊賀町として町名にも残ったほどに、そこには、この一統二百家のこまやかな集団生活があった。家禄の低い割に一種きかん気と気位とをもち、何かすると、「徳川の御家も二百人の伊賀侍があったればこそだ。何だい。」と伝法肌に出て、上級の旗本を手こずらせるのが常であり、「家禄は。」と問われるや、両刀の柄を叩いてふんぞり返り、「昔は二萬石__だが今は三十俵。」と答えるのが、この連中の判で押したような返答振りであった。 仔細と言うのは、天正十年六月二日、徳川家康が、軽装して少数の供人を従え、河内國飯盛山を観察し、泉州堺から京へ帰ろうとしているところへ、織田信長本能寺において変死の方がもたらされた。 家康はこれを聞き、直ちにそのまま本国へ帰る決心を定め、軽装のまま大和路から伊賀國へ向かう途中、一揆が所在に蜂起して道を塞いだので、主従協力して打ち破りつつ漸〔ようや〕く伊賀國へ入った頃には、一人二人と討ち死にして、お供は軽卒二人となり、かつ家康も身に数ヶ所の疵を受け、ある民家へと難を避けた。 この時、伊賀の郷士二百人が急を聞いて馳せ乗り、家康を守護して、難なく伊勢國白子の濱に出で、それから船を仕立てて無事参州へと送りとどけた。 家康はその功を忘れず、当時の者ども二百人を残らず召し出し、総体に知行二萬石(一家あたり百石平均)を与え、槍の三半蔵として天下に鳴った服部半蔵の組に属せしめた。半蔵は伊賀組頭として江戸の西門(今の半蔵門)を守護した事で有名であるが、事ごとに鼻息の荒い伊賀者を統〔す〕べるに方法なく、ついに事によって半蔵と大喧嘩をしでかした挙句、かれらは二萬石と呼称する特権を棒に振り、半蔵は島流しとなって一事落着したが、双方とも徳川家にとっては忘るべからず者共というので、半蔵は秀忠将軍の養子松平定綱の客分として復活し、伊賀者は別に個々に小禄を給せられ、そのうえ格を落とされ、お先手組として復活したのであった。 行蔵は、寶曆九年、こうした来歴をもつ伊賀武士の子孫として、四谷北伊賀町(今の簞笥町)の組屋敷に呱々〔ここ〕の声をあげたのである。 かれの家の由緒書は、 先祖 平山清左衛門 権現様天正十午年六月伊賀路山越被為成候節、 伊賀者御案内申上伊勢白子迄御供仕、 夫より御船に被為召参州江被遊御入、 同年尾州鳴海に而被召出服部組手に被仰付、 慶長五子年關ヶ原御陣御供仕、 同十九寅年同二十卯年大阪御陣兩年御供仕御歸陣、 以後先手同心江割組被仰付、 寛永三寅年二月十七日病死仕候 というのであるが、前記服部半蔵関係の話と、符節を合わせるように一致しているのがうかがわれる。
2015年02月20日
忠孝眞貫流 平山行蔵を語る 平山子龍、名は潜、行蔵と稱し兵原と號す。 勇力すぐれ、気象はげしき人にして、兵法に精〔くわ〕しく又剣技よくす。 家塾を開き生徒を教授するに、其の塾舎を區劃〔くかく〕して二とし、 一を講堂、二を演武場とす。 讀書の聲竹刀の音相和し、子龍其の間に座して両者を監督す。 常に士風の柔懦〔じゅうだ〕を慨〔なげ〕き、其の徒に教ふるに、 筋骨を勞し、心膽を練るを以て先と為す。 夏冬唯単衣〔ひとえ〕、短袴脛〔たんこ すね〕を蔽はず。 これは雲州松江の藩士信太英の記述になる「文化の三蔵」といわれる者のうちの一人、幕士平山行蔵の寸描である。文化の三蔵というのは、東北外地の探検をもって名高い間宮林蔵、近藤重蔵、そして平山行蔵とを指して言ったものである。行蔵は探検と直接の関係はないが、辺境夷人の撃攘〔げきじょう〕については屢々〔しばしば〕上書したことがある。 私は今から十数年前、行蔵の著なる『〓(原文 金+今、 鈴 か ※)林 巵言〔しげん〕』を読んでかれを知り、次いで芳野金陵の『平山子龍傳』を読むに至って、はじめて、かれが文武両道に達し、かつこれを服膺〔ふくよう〕して実に教え実に導き、常住坐臥戦場に在〔あ〕るがごとき行〔ぎょう〕の生活に終始した、得がたい人間記録である事を知った。 時代に一歩先んずる者は、その時代に容〔い〕れられないものと聞く。二、三の有識具眼者のほかは、ことごとくかれを半狂人扱いにしたのもそれが為であった。かれは世の常の学者ではなく、また世の常の剣者でもなく、百余年後の今の日本あるを知って、身をもって教え残したものと見てよい。 それ以来、私は行蔵の事蹟を蒐集して記し置く一冊の手帳をつくり、今日に至って二冊目の半ばを埋めたのであるが、最近たまたま某誌に青柳武明氏の『實用武術家平山行蔵』という一文が掲げられ、つづいて森銑三〔もり せんぞう〕氏の『平山行蔵』という小伝を見た。二篇ともごく短篇ではあるが、かれの面目を躍如たらしめるものがあり、また新たに得るところも少なくなかった。そこで、私もまた、中間的に私の観察になる子龍の一側面を伝え置く事の要を感じたので、昭和十八年九月二十五日の暁明にこの筆を起こす事とした。それは、私のこの本の題名に、最もふさわしい内容だと思ったからである。 ※『実戦刀譚』P.53 「条件付きの長刀」では『鈴林巵言』とある
2015年02月13日
不昧公は、一指流の管槍にも精通、明和九年には、師範役脇坂十郎兵衞からその奥秘伝を授けられた。 公の槍術修行が、いかに猛烈であったかを語るに足るものとして、ひとつの逸話が記録されている。 かつて、家臣佐々木治太夫を相手として槍術稽古の際、治太夫は勢い込んで過〔あやま〕って公の胸をしたたかに突いた。並いるもの ハッとして思わず顔と顔を見合わせた。稽古が終わると、いつものごとく元気よく公は帰館したのであったが、実はその箇所がひとく腫れた上痛み出し、唾には血液さえ交じったが、武道の衰微せん事をおそれ、あえて人にも語らず、医師にはただ薬を求めたのみで、自ら手当をなし、服薬も自身にされて、一切秘密にした。その後三年を過ぎたある日、近侍〔きんじ〕に克己の精神を教訓し、実例としてその話を聞かせた事から、自然治太夫の耳にも入ったので、かれは恐懼〔きょうく〕のあまりついに病を得て果てた。一説には自害したともいわれている。これを聞いて公は、「取り返しのつかぬ事を致しおった。三年も口外せんかった事じゃによって、話しても大事ないと思ったのは予の誤り、大切な家臣を失ったのは口惜うてならぬぞ。佐々木が後は厚うして取らせい。」と、目に涙をさえ浮かべたという事である。 不昧公の世子後の月潭公、まだ二歳にも満たず、なお襁褓〔きょうほう・きょうほ〕(※小児)の頃から、その教育方針をたて、厳〔おごそ〕かに記して守役に示したものは、その頃の事だといわれている。 鶴太郎、槍剣術稽古之義守役之者能々 心得世話可レ致候 とかく世に申す大名藝に成り實用に立不レ申ものに御座候。 相手致候も相手を致候心得にて無レ之實に 打込稽古可レ致 萬一仕合を専らにいたし怪我致して候ても少しも不レ苦事に候。 實之用に立申候様に無レ之候ては 是こそ己が一命に限りに臨み敵と勝負いたす事故稽古軽く候て 是にてよき事に自身存じ候は其の時の用に立不レ申 命を失ふ事眼前に候。云々。 一読凛然〔いちどく りんぜん〕たる武道訓として、襟を正すベきものがある。最後に、 只名のみの修業にて實入あしき時は預かり候守役共の致方に候間 追々致し稽古の程我等存念に不レ叶節は其方ども不念に御座候。云々。 稽古中多少の負傷ありといえども、戦場に臨むの心をもって真剣に修道せしむべき事を説き、守役の指導當を得ざるに於いては、その責任を問うべしと、秋霜烈日〔しゅうそう れつじつ〕の厳命を下したるあたり、武道家としての公の真面目がうかがわれる。 誤ったとはいえ、公に強烈な突きを入れた治太夫の忠霊も、不昧公をしてこうした武道訓を書き残さしめたのであるから、もって瞑した事であろう。 雲藩武道には、前記五流のほかに、 射法(流名不詳)砲術(菅谷流、小谷流、木戸流、佐々木流)馬術(八條流)拳法(一覺流)棒術(鹿島流)杖術(寄藤流)等が行なわれていた。兵学は越後流で、その道場を母衣町普門院町に設けて大享館と号し、不昧公の著書口術も数種を越えているに見ても、敢道にもまた造詣の深かった事が知られる。 楽翁公は、刀剣武用論の主唱者で、京大阪の刀匠が、徒〔いたずら〕に美術作刀に専念し、武用実用を無視している事を聞かれ、皇居御造営のための上洛を機とし、近畿の刀匠に命じて各一刀を鍛えさせ、それを荒試しに試したところが、果たして武用刀として可なるものは少なく、ただ一人、播州手柄山のほとりから大阪に移住していた、丹霞齋氏繁〔たんがさい うじしげ〕という、当時としては名もない刀匠の鍛えたものが実に頑強であったので、これをお抱え鍛冶とした。後江戸へ移って、手柄山甲斐守正繁と号し、武用専一の剛刀を打った。楽翁公は、「神妙」の二字を書いて与え、会心の作にはこれを切らせた。水心子正秀の「刀剣武用論」にも共鳴されて、かれにも鍛造を命じ、自筆の掛け物を与えた記録も残っている。 不昧公の刀剣関係については、著者寡聞にして筆にするを得ないが、公の領地出雲國は、古くから、日本刀鍛錬用の良鉄即ち「出雲鋼」の産地で、公は鋭意良質多産の奨励をした。年譜によると、公は、明和元年四月飯石郡吉田村の鉄山にいたり、鉄山師田部長右衞門方に二泊して、親しく冶金〔やきん〕の実況を見て奨励したとある。国産品として輸出するというよりも、兵器資源の観点から、採算を度外視してこれを奨励された事は、鉄山の桶茶、即ち出雲名物ボテボテ茶を愛用したことと共に有名なものである。
2015年02月06日
当時不昧公の名君たる事天下に隠れなく、ことに日夜軍を練り兵を磨くので、閣老の中にはこれを疑って、ひそかに公用人の水野半左衛門という者を密偵として松江に入り込ましめた。かれは城下片原町六軒茶屋に江戸料理を始め、半助と称したが、その仮装実に巧妙で、誰一人として気のつく者はなかった。 その年の仲月、月見の宴が開かれ、不昧公は田舎住の家臣たちにも、江戸の食味を賞せしめんとの情から、江戸料理の半助に命じ、即席天ぷら、おでん類を出張料理せしめたのが事の誤りであった。 月は冲天〔ちゅうてん〕に高く、宴たけなわにして、豁達〔かったつ〕な公は、左右に近侍する家老たちを顧み、「万一上方筋から敵兵攻め来たりなば、その方ども如何にして防ぐか腹蔵なく申してみよ」といった。一家老は、「然ればで厶〔ござ〕ります。城外一里津田のあたりに一戦防ぎ候にてこの堅城にこもりべきかと存じます。」と申し上げると、公は大声一番、「何と申す。かかる時は、直ちに隣國米子の城を乗っ取り、国内には敵の一兵ともいえども入るる事まかりならぬのだ。」との一言に、一座はしんとなったが、はるかあなたの幕の中で料理人を差し図していた半助は、フンと怪しく頷いたのであった。 どうも江戸料理が怪しいと、後になって気のついた時、公は、「治に居て乱を忘れざるはこれ将軍家の伝統家法である。われ徳川一族としてその家法を守るは、当然過ぎた事である。」といって、さらに拍車をかけて武事に傾注せしめた。 不傳流居合術の達人に、石倉半之丞という知行二百石の侍があった。日夜この江戸料理に入り浸って、一見放蕩者のごとく見えたので、ひそかに不行跡を公に密告する者があった。賢明な公は、早くも半之丞の意図心底を見て取り、「捨て置け。時が来れば予が自ら訊問〔じんもん〕致す。」といって取り上げなかった。 その翌年は参観交代で江戸に出府したのであるが、石倉半之丞は、決死の志願でお供の中に加えられて東上した。 不昧公が、供揃えいかめしく江戸へ到着すると程なく、月番の老中から差紙が届いた。「不審御尋ねのかどがあるに依って、重役を一人差出よう。」という厳達である。 さてはかねがね噂の通り、何かお家に一大事が惹起されるのかと、藩邸ことごとく憂色にとざされたのである。 時に半之丞は、老中の館に出頭すべき重役の任務は、何卒この身にさせていただきたいと懇願に及んだ。二百石の侍が十八万石の大名の重役として重い任務に就くという事は、当時の慣習上はなはだ差し出た話であって、無論一蹴されるべきものであるが、不昧公は名君、江戸家老の朝日丹波もまた賢宰〔けんしょう〕として聞こえた人物だけに、その願いは許されたのである。 石倉半之丞は、今こそ主君の為に一命を擲〔なげう〕つべき時期が到来したと、妻子なき身の後始末も簡単に、威儀を正して出頭して見ると、公用人の中の一人は、かねて松江に江戸料理を開いていた藩の動静を隠密していた半助。今日は江戸に帰ってもとの水野半左衛門なのである。石倉は心の中にうち頷きつつ平身低頭すれば、半左衛門は声を高め、「松平藩出羽守殿、近頃武藝を講じ軍備を整え、屢々〔しばしば〕訓練に名をかりて隣國に兵を進むるの狀をなす。はなはだ以て不穏の振る舞いこれある由……。」と読みかけると、石倉半之丞はきっと顔を上げて睨みつけ、「黙れ半左衛門、イヤ、江戸料理の半助、汝幕府の隠者として我が藩に入り込み、姦智佞辯〔かんち ねいべん〕を以て我が君を公儀〔こうぎ〕に讒〔ざん〕する曲者。事の仔細は身共日夜客人に化け逆に探偵致し居るぞ。仰々〔ごうごう〕我が君は、徳川嫡流越前家のその一御家、葵の御紋章は勿論、二紺三白の陣幕まで許され、一旦宇内に事ある時は、第一陣に馳せ参すべき一大責任を負える家筋なり。殊に治に居て乱を忘れざるは、神君以来宗家の家法、同族として武を講ずるは宗家の法を守る所以〔ゆえん〕なるに、不穏の振る舞いなどとは、我が君の真意を知らずして、ただ汝が公儀の恩賞にあずからんが為の作為佞言〔さくい ねいげん〕なり。」といい終わるや否や、不傳流居合、不昧公稲生田武右衞門君臣合作の「乾坤の秘傳」中の一手、抜き打ちに半左衛門の右下から斜めに左肩にかけ、払い上げの袈裟切りに打っ放した明らかに「奏者斬り」の一手。しかし、かりにも天下の役人を手にかけた罪、彼はパッと庭に飛び下りるなり、両手を以て己れの首を刎ね落とし、斬首の形となって果てた。 事の次第は、他の一人の公用人から老中へ申し出たので、双方乱心者として事済み、雲州藩とても一旦は石倉の家を取りつぶしたのであるが、後に至って再興となった。
2015年01月30日
公が居合術免許皆伝以後のことである。同じくこの居合術の達人に、稲生田武右衞門という士があった。日々夜々専念これに傾倒するも、なおかつ奥秘に達せず、苦心懊悩〔くしん おうのう〕の末二十一日間の公暇を賜り、山谷深く入って荒業をなし、研技得道せん事を願い出た。公はその熱誠を嘉〔よみ〕し、これを許諾したので、武右衞門は、領内枕木山の嶮〔けん〕を攀〔よ〕じて山堂に立ち籠り、携えて行った黒米少量に、草木の実を拾って一日の食とし、瀧の水を浴び、一心不乱に修業する事二十一日、はじめて大悟得術、一刀を抜き収めて山を下り、その発見したる所を一巻としてこれを公に上〔たてま〕った。 不昧公は、武右衞門が山ごもりをした日から、同じく一室に閉居して出でず、斎戒沐浴して工夫を凝らし、深夜突如その居間にあって「エイッ」という裂帛の気合もろとも空を切る刀の唸りに、宿直の侍も目をさまして、思わず襟を正したという物凄い精進を続け、これを一巻の巻物に認められたのであるが、さて武右衞門の一巻と公の一巻とを同時に開巻し、これを読むに、その得術まったく符節を合するが如くであったという。君臣両者の精霊、場所を異にし、身命をつくしての精進は、共に神明に共通しての事ならんと、聞く者等しく畏怖尊敬したという。 その後、武右衞門の認めたる傳書を『乾の巻』とし、公の認めたる者を『坤の巻』とし、これをもって一藩武術の中心とすべき旨を申し渡し、長く雲藩の指針となったのである。 不昧公例年の行事として、一月九日には西尾圓流寺に東照宮の霊を拝せんがため、正装して、十二挺立の船に乗って圓流寺灘についた時、一人の船頭は誤って櫂〔かい〕を公の頭に当てた。一座驚愕、随行の長は「不届きなりその船頭を切れ」と命じたので、かねて不傳流で鍛えあげた侍臣の本多権八、即座に太刀の柄へ手をかけて身構えると、この時公は大音をあげ、「待て、権八、予が武道では船頭は斬らぬぞ。櫂を斬れ。櫂が無礼をしたのじゃ。」との一言に、権八は樫の大櫂を斜めに切って落とした。この咄嗟の動作こそ、不傳流居合術至妙の顕現で、その精神また武道本然の姿である。
2015年01月23日
不昧公の居合 不昧公といえば、直ちに「茶の湯」を想起せしめ、不昧流茶道流祖として、彼の小堀遠見守などと共に一個の風流大名として喧伝されるに止〔とど〕まっているが、公は、かの楽翁公と時代も等しく、しかのみならず、政治産業武事文学美術等々、各方面に卓越したる不羇〔ふき〕の大材で、楽翁公は廟堂に立ってその識見を広く世に行ない、不昧公は、惜しい事に生涯野に在った為に、池中の龍に終わったかの憾がある。 雲州松江の城主贈従三位少将出羽守松平治郷、これが不昧公であって、徳川家康の長男三河守秀康の四男直政第七代、同じ親藩でも、将軍家より本筋だという越前家の出である。楽翁公は八代将軍吉宗の孫、出でて桑名松平家を嗣〔つ〕いだものである。不昧公は楽翁公より七歳の長、時を等しくしてこうした家柄の大名が、また共に武道の双璧であったという事もおもしろい。 楽翁公の本領が「柔術」を中心とした武術であるのに対して、不昧公のそれは「居合術」を核心としたものであった。 雲州松平家の武術は五流あって、剣術は、不傳流居合を首座とし、他に新當流、(もと神刀流と称したるも、不昧公これを改めて新當の二字を充てたのである。)槍術は、一指流管槍、柏原流鍵槍、柔道は、直信流、(柔術といわずして柔道となしたるは、当て身、活殺等のわざがあるので、精神修養を主流として行なわしめたためであるという。) 右の内、不傳流居合、一指流管槍を、御家流と称し、共に藩主不昧公が兼ねてその師範の位置にいたのである。 この五流の外に、射法、馬術、砲術、火術、拳法、棒、杖があり、水練等ももちろん行なわれたと思うが、記録類には見当たらない。 まず第一に、不昧公の居合であるが、年譜によれば、年十三歳、寶曆十三年五月九日、不傳流師範一川五蔵についてはじめて居合術を学んだ。そして、寛政八年十月、四十六歳の時、一川五蔵はその免許皆伝を公に授けたのである。その間実に三十四年というものを刻苦精励したので、世に言う殿様芸ではなかった事は明らかである。 当時、一川五蔵から不昧公に伝授した伝書の末文に、次の如く記してある。 奥秘に至りて得べきも授くべきもの有りや是を有とも云ふべし、 無とも云ふべし、中とも云ふべし、 是非云はんとするときは、有無中の有、有無中の無、有無中の中也と云ふ也。 是までにては慥〔たしか〕に得心ならず、因て次の一圓相の内に心の文字を顕はし、 其一を曉〔さと〕す也。 干時寛政八丙辰年霜月 日 一 川 五 藏 (印) 正 鄰(花 押) これに対して不昧公は、五蔵に一つの請書に似たものを与えている。 不傳流剣術(居合の事)の巻、兵法目録、外目録、眞剣目録、居相許状、九品傳、指南車、 護狀共に七巻は、従レ古傳所也。奥秘巻は予が正鄰に申して、 後人の理に不レ迷為に眞理を記さしめぬ。 又奥二秘巻是は予が愚案記正鄰に見せたり。尤可とあるに任せ二巻として奥々秘々と號す。 以上當流巻九巻に事理を盡〔つく〕し畢〔おわ〕る。 若し後世に至りて疑しき書も出来らむ事をかなしく思ひ當流こゝに九巻の外無き事を記し授者也。 干時寛政八丙辰年霜月 日 源 治 郷 誌 一川五藏とのへ 前述のごとく時に公は四十六歳であった。当時一川五蔵は老年に及び、一藩子弟の指導意の如ならず、よって公は道場に出で自ら不傳流の教授をなしたといわれている。
2015年01月16日
弘化二年に藩臣田内親輔という人物が編んだ『楽翁公著書目録』中に『甲乙流御傳書』として、次のような解説がある。 鎭國公(定綱)みづから一派を立て給ひて甲乙流と唱へぬ。 久しく中絶したるをむかし御相手となりて ともに研究をしたる山本助之進孫裔今の助之進の家に 其書籍を存し置たれば助之進と共に其形を再興し給ひて それより舊家のともがらを召出て授け給ふ。 扨〔さて〕御若年より起倒流の柔道を 鈴木清兵衞殿に學び給ひて皆傳を得給ひき。 清兵衞殿下世の後は御嫡子幼稚なれば 君みづから眤近〔じっきん〕のともがらへ授け給ひぬ。 其内神山武右衞門、濱川堤、田内蔵田は皆傳を授けられ (中略)甲乙流の極意と起倒流と聊〔いささ〕かもたがふ事なければ 柔道を剣術に附属し合離の事は一際工夫を加え給ひ 傳授の段等も新に製し給ひて是を甲乙流と唱へさせらる。 公致仕し給ひし後は武右衞門を師範に命ぜらる。云々。 藩の兵学は代々甲州流であったが、公はさらに越後流、山鹿流、長沼流から支那西洋の兵書までを探索して、火術を中心とした大小の武備國防を究められ、一流を編んでお家流を開き、甲州流は別に存して二つの兵学を講ぜしめたのである。公の兵学は、火術を主としたものであるから、自然その流儀にも深く入り、三木流、荻野流、中島流、渡部流等いずれも根本的に研究して、銃砲の鍛鋳造から火薬の製法に至るまで、細大にわたりついに「三田野部流」なる一流を立てた。これは右師範四人の氏名から各一時をとったもので、これも御家流の火術である。 居合術は、天明三年藩主となるに及んで、武州の十人山本自見齋から出た山本流を盛ならしめた。この流もまた抜刀太刀打は林崎流を本体とし、後に關口流を加味したもので、前記甲乙流剣合離の点として一致していた。 この居合術には「御工夫の剣」と称するものが厳〔おご〕そかに残されているが、それは公の御創意または応用の手である事はもちろんである。この流の特徴とする点は、通常の居合の如く抜刀抜きつけのほか、柄わざ、体わざ、ことに足わざが多く、さらに相対して抜き合わせ打ち合う方法、白刃取り、抜き手どめ、鎧返し等、徹頭徹尾刀術と柔術の組み合わせで、例えば、最初に刀を抜き合わせ、呼吸をうかがって直ちに組打ちにかかり、短刀を抜いて首をあげるといった、相当にはげしいわざもある。 公はこの流儀にも練達し、帯刀着座したまま、何処から抜き打ちに斬ってこられても、がっちり抜き合わせて寸分の隙も見せなかったと伝えられている。 公はさらに槍術薙刀術にも深く心をひそめ、両者の特徴妙所を綜合して「突刀術」なる一術を開き、自ら師範となって藩士に教習せしめられた。この術のいかなるものなりしかについては、舊藩士で、かつて大審院判事を勤めた故 加太邦憲氏の『自歴譜』に載せてある。 ……突刀は突く薙刀の意にて是は樂翁公の發明にかゝり (中略)槍術の一種にして槍に對して角するもの 即ち八尺程の薙刀を以て二間の槍に對するものなれば 始終攻勢を取りて對手の槍を撥退け 或いは押へて敏速に突入るを主とし 對手をして退却に余儀なくし休構回復の猶豫なからしめ 稀に切る事もあるも普通の薙刀の如くに切る事を主とす 又徹頭徹尾突進的なる點はよく鍵槍に類す。 若し同伎倆の者槍と突刀とにて角する時は突刀の方に利あり。 (中略)曾て樂翁公より直傳を受けたる生沼惣輔当時師範たり。云々。 二十年前、桑名にて士族某々氏等の演武を見たという人の話に、今日軍隊でやる彼の銃剣術と大体において等しい形と気合であったという。 その他桑名藩には数々の武術があったが、以上は楽翁公が編み出されたもので、そのうち甲乙流は中興の祖であり、兵学、火術、突刀術は、いずれも創始の流祖であって、武術家としてもまた卓越したものといわねばならぬ。 かくして楽翁公は、御工夫の諸武道はもちろん、荀しくも藩に採用している武術は御自身の兵学に相関連せしめ、等しく「藩傳兵法」の名の下に厳密に統合し、藩校立教館において教授せしめたのであるが、さらに特に一筆を附加すべきは、武道修業の服装にあって、「兵法の急所は足の働きが五分」と御自身の体験からと、実戦上の心得からして、地に曳〔ひ〕くような袴〔はかま〕をつけてやる事は禁じ、一様に渋染めまたは紺染めの細いももひきのようなくくり袴を創案してこれを用いさせ、足の働きをやかましく批判させたのなども、武道教育上の卓見といわねばならない。 各科の師範役は、専任の指南番を置かず、いずれも兼役で、世襲の家も別に本役を設け、兵学科二員、剣術科五員、槍術及長刀科四員、弓術科三員、馬術科一員、柔術及棒術科二員、居合術科二員、銃及火矢術科五員、遊泳及漕舟科一員、総計二十五員を置き、これを剣、槍、居合、柔各一、弓、炮、各三の道場に配備し、馬及水術は別に学校外に教習所を設け、公御自身は学校の講堂に於いては大學を講じ、武術道場に於いては教科の師範として技を練った。一藩の藩主であり教授であり師範役であったというような例は、かの雲州太守不昧公と共に、他にはあまり類例のなかった事であろう。
2015年01月09日
楽翁公と不昧公 楽翁公の柔術 紀元二千六百年の初夏、財団法人楽翁公徳顕彰会の主催で、頼母木東京市長二荒伯等の名士が集まり、「楽翁公を現代に生かす座談会」が開かれ、楽翁公松平定信の尊王精神、七分銀の由来、命がけの御願文、悪風奢侈の禁止、といったような事蹟を中心として、時局匡救〔じきょく きょうきゅう〕の方策を練った。 ついで六月十四日には、同会主催で深川霊岸寺の同公墓前祭が盛んに営まれ、その夜は日比谷公会堂で、楽翁公に関する大講演会が開かれたが、その講演に現われた範囲が、やはり座談会でなされた話題の範囲外を出ておらなかった。 楽翁公は、至誠憂國の大政治家であったばかりでなく、思想家であり、文芸家であり、社会政策経済方面にも詳しく、さらに武備國防といった点でも一家言を有しており、彼の台命による東京湾要地の結成と築城の完成、防備配置の計画並びに実施のごときも、今日そっくり継承施行の形となっており、その作になる有名な黒船の歌を、文晁の描いたポスターに題し、次男の眞田侯をして印行領布せしめた國防思想の全国的宣伝普及のごときも、國防計画の先駆と見てよい。 それらの事は、深浅の度はあれ一通りは世に現われているのであるが、ここにまったく埋もれはてていた他の大きな一側面がある。それは、優れた武道家であったという事である。それも、単に勝負を争うのみの「競技武術」を排して、どこまでも「臨戦武術」でなければならぬ。大きくいえば「國防武術」なくてはならぬというので、それを「軍法兵術」に結びつけて総合的に完成した事は、武道が國民学校にも課せられるに至った今日、楽翁公をこの方面にも生かす必要はないであろうか。 楽翁公の武道は、世にいう殿様藝の類ではなくて、戦場往来の藩祖松平定綱が、戦後の腕を撫でしつつ、君臣合作のもとに実戦の場合からとって編み出した御家流の剣法「甲乙流」が、久しく中絶していたのを苦心して復興し、かねて、若年より起倒流の柔術を御旗本鈴木清兵衞について修め、免許皆伝を得ておられたので、その甲乙流剣法に柔術を組み合わせ、「新甲乙流」を編み、自ら戦場武藝としてこれを藩士に授けた。 楽翁公が十八歳ではじめて武道を志した前後の事が『修行録』という御自記にある。 鈴木清兵衞(御鐵炮御たんす奉行)というもの柔〔やわら〕の道という事をとなへし。 諸侯にもあまたそれが弟子となりけり。予にもその門に入れよと人々云へども決せず。 九鬼松翁その頃は長門守といひしが、しきりにすゝめてつひにその道に入りにけり。 清兵衞の妙術はもとより云ふにも及ばず、剣術十何流柔何流とかを学び究む。云々。 楽翁公の柔術修行についての一つの逸話がある。ある時、鈴木清兵衞を召されると、清兵衞は来たらず、屈強な弟子が二人来てお相手をした。相手は大名だという遠慮など毫末〔ごうまつ〕もなく、どしんどしんと叩きつけ締めつける。わざの理論をたずねてもそんな事は知らぬと答えるので、さすがの楽翁公もむっとなって、わざわざ清兵衞方へ詰問に行かれると、清兵衞が現われて両手をつかえ、「武道御修行は斯くの如きもの、御悟りあってこの上なき仕合せ。」と申し上げた。「わざにこそ理はありけりと知りぬべし障子をあければ月のさすなり」という武道教訓歌を実地に教授申し上げたので、果たして公は真意を悟り、爾来一段と精進をつづけたのであった。
2015年01月02日
後の首器斬り役人山田浅右衞門は、山野勘十郎成久の弟子とも、またその子吉右衞門後勘十郎久英の弟子であったともいわれている。 久英の居宅は、江戸市ヶ谷の本村にあった。 この久英、腕はよほど冴えていたが、試刀のため伝馬町の牢まで行く事が億劫〔おっくう〕で、罪囚の死屍を運ばせ、自宅の庭に土壇を築いて刀を試した。 それがため、俄か雨の時などは、庭に積んで置いた死屍に雨がかかるのをおそれて、弟子や妻女にまで手伝わせ、死屍を椽〔たるき〕の下などに取り入れたという。 この男は、一面剽軽〔ひょうきん〕なところがあって、乞食などに銭を与え、死屍の下に寝かせて切るに、上の胴は切れても下の乞食にはあたらなかったという。 ある時、自宅へ帰ろうと、津の守坂を下って行くと、前方に大きな西瓜〔すいか〕を肩にのせて行く者がある。久英の物ずきな出来心がこの時むらむらと起こり、えいッと気合いもろ共抜き打ちに件の西瓜を切って落とすと、西瓜は赤く二つに切れてころりと落ち、持っていた男はいささかの傷も負わないのに、「首がおっこちた。大変だ大変だ。」 とわめいて逃げ去ったという。 山野氏は、三代限りで、後継者を欠いてか、あるいは他の理由でか首斬り役人の地位を失い、それに代わったのが門弟の山田浅右衞門であった。 幕府のお刀お試し役人というのは、山野山田二家が主なるものではあったが、他にもそうした家柄役柄があったらしく、延寳七年五月十二日に、八兵衞という強盗を、小石川の山屋敷(キリシタン屋敷のこと)で前島伴右衞門という者が試斬りをした事、同じく六月十二日、駈け落ちした仲間一人を同所で同人が斬った事などから、それと うかがわれるのであるが、その他に、近くは伊予今治久松家で家士須藤五太夫をはじめ、小松原甚右衞門などの名前も、試刀技術家として記録の中に見えている。 最後に、浅草観音の境内に、縁結びの霊神としてもろもろの功徳をあらわしている久米平内様も、その経歴を洗ってみると、立派な首斬り稼業であって、縁結びの神として崇められるような理由は一向に見当たらない。 平内は本姓兵藤平内兵衞長守といって、九州浪人の武藝者で、志を得ずして江戸に来たり赤坂に住居して居合剣術を指南し、千人斬りの悲願をかけて夜な夜な辻斬りを働いた。 承應の頃、旗本の士青山主膳に召し抱えられ、主人が、盗賊改め役であったからその下で働き、苗字も妻の本姓の久米に変え、用人格としてそうした荒仕事に携わった。 青山主膳は性粗暴、後に侍女を井戸の中に斬り込んで一家断絶した番長皿屋敷の主人公だけに、する事なす事が手荒く、盗賊改めは、いかにもその適役であった。 平内は、別職として罪囚の打首や試刀をなし、その斬った首数は二千にものぼり、首塚を二度まで建てて供養したそうである。 天和三年に死ぬる時、「俺が死んだらその死に顔を似せて像を刻み、人通りの多いところへ建ててくれ。生前に人を多く斬った罪を滅ぼすために、晒しものになるのじゃ。」と遺言した。これが浅草に現存する石像の由来であるという。 息を引き取る今わの際まで、大切に抱いて離さなかった長大な愛刀は、宇多の國宗であったという。 平内が死んでから三年後の貞享二年にその妻が死んで、駒込海蔵寺の同穴に葬ったというから、縁結びというような艶っぽい事は、おおかたそんなところから出ているのではなかろうか。
2014年12月26日
この最初の首切り役人山野一家の待遇というようなものの記録として書き残されているところによると、 身分は幕府の御家人で、今日でいう嘱託のような役柄であった。給米は十人扶持というから現米年四十六俵で、同心と同格であったが、このほかに試し銘という不時の収入があったから、相当に豪奢な生活をしていたという。 首斬り役人というよりもむしろ試刀技師といった方が適切で、だから幕府の日記にも、 ……常憲院(綱吉将軍)御代召出され候藝者(諸技藝者の総称)の書付、 おためし御用山野勘十郎、今以て同高、おためし御用山野吉右衞門十人扶持。 などと出ている。 山野一家の素性は判然としていない。出生地も墓所も不明であるが、その試しぶりや逸話は若干伝わっている。 出羽國庄内十四万石の城主、酒井左衞門尉忠義が、ある時江戸下谷の中屋敷に、山野勘十郎成久を呼び、自ら指揮して庭前に土壇をしつらえ、重い罪を犯した家臣某という武士及び仲間一名を重ねて生き胴を試みさせた。 勘十郎は、左衞門尉の佩刀信濃守國廣作一尺八寸五分の脇差を揮い、物の見事にこれを斬って落とし、土壇を払った。この時、下の武士は両断されても死なずに眼を見開き、上目づかいに左衞門尉を睨まえた。 勘十郎が留めを刺そうとするのを押しとめた左衞門尉は、佩刀にそりを打たせながら近づき、「身に恨みを含むと覚えた。左程の魂のある者が、両刀の手前雑人原と交わり悪事を働くとは何事じゃ。重ね胴では軽すぎたわ。」 と、大音に叱りつけたので、その武士は眼をふさいで落ち入った。この時共に臨席して、試刀にねた刃をつけたのは本阿彌光由であった。 同じ寛文の頃、同じ庄内藩での出来事と書いてあるが、やっぱり江戸屋敷での事らしい。渡世は小間物の行商で、声のよい若い男がねらぼうという当時流行の人形をつかって商いをして歩いたが、お屋敷で物を盗んだというので捕われ、同じく生き胴の断罪となった。 (庄内の殿様はよっぽど生き胴がおすきであったと見える。) 最期の土壇場で、この男、一生の尾張だからせめて歌を一口うたって死にたいと切願した。お許しが出て、はさみ竹をはずしてもらい、土壇に腰うちかけて美声を張りあげ、 〽未生己前がなかなかましじゃ 何の因果でしゃばへ出た とうたい終り、「もはや思い置く事は露ほどもござりませぬ。如何様にもお切り試しをねがいます。」 といいながら、再び土壇のはさみ竹に縛された。 この有様を見ていた幕臣の中には、さてもよい度胸だ、赦さるゝものなら助けて、草履とりに使いたい、とささやいた者もいたという。 ある時、北條安房守という殿様から、古刀の極めて細い脇差で二つ胴を試すようにというお沙汰があった。山野勘十郎成久は、その一刀を拝見してちょっと小首を傾けたが、使者に向かい、「これで二つ胴を落とせとは少々御無理な仰せですが、さればといって切らなかったら定めしお叱りの事でしょう。」 といいながら二つ胴を仕かけさせた。 非人どもは心得て、小柄な罪囚の屍体を仕掛けようとするのを見た勘十郎は、「これではいけない、ずんと大きなのを二つ掛けろ。」 といって、その日処刑した中でも一番大男の胴を据えさせ、少々引き下がって件の小刀を抜き放ち、つかつかと進みつつ、やッという掛け声もろ共に土壇を払って切り落とした。 土佐の國主山内侯が、ある時勘十郎の父山野加右衞門永久に一刀を試させた。 それは、山内侯からお祝儀を貰わなかったからだとも、また何か恨みを含んでいたからだともいわれているが、とにかく山内侯の大小姓(侍従武官のような役目。)江田文四郎の持参して来た佩刀を受け取り、二つ胴をかけさせて切りつけたところが、上の胴の半分も落ちなかったので、「さてさて鈍い御刀ではある。」 とつぶやいた。黙って見ていた江田文四郎は、この一言を耳にするや、かっとなって腕をまくった。「天下のお試し役人に切れない刀で、わしが見事に切ってお目にかけよう。」 こういって立ち上がった文四郎は、主君の佩刀を大上段にふりかぶって、物の見事に二つ胴を落とし、その上土壇まで払った。「山野殿は、据え物を切っては天下の名人だそうなが、さてさて心底は卑陋〔ひろう〕千万な御仁じゃ。」 こういい終わると共に、その佩刀を我と我が足にかけ、二つに、次いで四つに打ち折って投げ捨てた。 列座の人々が総立ちになって顔色をかえているのを尻目にかけ、「一旦悪口された刀は、國主大名の差料や持物には成りませぬ。」と大手を振って藩邸へと帰って行った。 かれは、待ちかねていた藩公に斯々〔かくかく〕と復命して罪を待ったが、案に相違して御機嫌斜めならず、文四郎を選んでつかわしたのは、斯様の事のあるべきを思ったからだといって、却〔かえ〕ってご賞美があった。
2014年12月19日
罪囚の死屍を切って刀の刃味を試した幕府の首斬り役人、すなわち御刀お試し御用人山田淺右衞門の事については、千著『随筆日本刀』に詳記してあるからここには割愛するが、先祖山田淺右衞門貞武は、信州松本の浪士で、その昔越後高田七十五万石の城主松平忠輝の家老、山田長門守吉辰のひ孫である。元禄初年頃、当時のお試し御用人山野勘十郎久秀の門に入り、次いでその後を継承して、明治十四年七月に斬首刑が廃されるまで、八代もつづいた首斬り稼業の家柄であった。 いったいつの頃から斯様な事が行なわれ、淺右衞門以前にどんな人間がこれをやったかという事を調べてみると、織田信長の家来に、谷大膳亮という武藝に熱心な者があって、ある時鷹野に従い山野を行く道すがら、山間に死人を発見し、それを田のあぜに据えさせて刀の切れ味を試した。 これが土壇を築いて囚人の死屍を置き、刀の切れ味切れ具合を試すに至ったそもそもの濫觴〔らんしょう〕とされ、土壇据え物等の名が起こったのだといわれている。 この谷大膳という武士は、武藝にも秀で、信長の没後秀吉の手に属し、播磨國三木別所の戦で壮烈な最期を遂げた。 その頃、斎藤山城守の家臣に小池備後という者があって、刀試しの方法を工夫し、今日でも行なわれている切り柄は、この人が発明したものであるという。その合理的な試刀法を伝聞して織田信長がこれを召し抱えた。 これより以前、安養寺加賀守という武士があって、夜陰ひそかに墓を発〔あば〕いて死屍を切り試したと書いた本もある。 小池備後は後に一流をたてて小池流と称した。それを第一番に習ったのは、関白秀次の小姓小川傳次郎という者で、この小川は、残忍な秀次に悪用されて、しばしば罪なき人々を刀試しの名目で屠ったという。 それが徳川時代に入ってからは、武人間の一種の流行となり、彦坂小刑部、深尾清十郎、牧野清兵衞、朝比奈源六、都築久太夫、中川左平太という歴々のお旗本が、名手たる名を高めるに至り、森川出羽守、石川大隅守などという大名までが、自己の佩刀を揮って二つ胴を落とすという有様であった。 旗本の中川左平太は、信濃國の豪族村上清信の二男で、武藝をよくし、兼ねて中川流試し切りの伝をたて、千住の小塚っ原でで死罪囚据物試しの端緒を開いた者で、その高弟の山野加右衞門永久が、初めて幕府の据物試切御用となり、ここに首斬り稼業が公認となったのである。 加右衞門の子勘十郎成久もまた名手であった。この父子の名が記録にあらわれているのは、萬治年間前後からで、寛文年間には、勘十郎の子の久英という者も登場し、萬治二年から延寳二年まで十六年の間に、父子三人が、長曾彌虎徹の試刀だけでも、四十三回四十余刀に及んでおり、寛文三年八月二十二日には、孫の久英が虎徹の大刀で囚人四人を重ねて一刀に斬って落とし、四つ胴落としの真正記録をつくり、翌々年の寛文五年二月二十五日には、祖父の永久が、六十八歳の高齢をもって、同じく四つ胴落としを敢行した記録が残っている。
2014年12月12日
試刀談義 「試し切り」という事については、誰しもただ漠然とそう言ってるだけであるが、よく考えてみると、刀の切れ味を試すことと、腕を試すこととの二つの場合があって一様にはいえない。 いずれも刀術と関係が深いのであるが、前の場合は鑑定または選刀に資するためであり、後の場合は切りなれるという刀術としての手練ということになる。 刀の刃味を試すというのならば、何も見事に切り払うという必要はない。 青竹一本、巻き藁一把、大根一本切っても、落ちついて切りさえすれば十分に試せる筈である。もっとも、耐久力を試すという段になると、数々の、そして別種類のものを切り試す必要が起こるけれども、へたをすると刀を折ったり曲げたり、刃こぼれを出かしたりして、再び試用のできない廃物にしてしまうおそれがある。 腕前を試すというのならば、刀の選択は二の次でもよい。廃物になってもさしつかえないような刀でたくさんである。 昔、罪囚の死屍などを切った時の切れ具合と同じ感じを体験するには、九月頃の芭蕉の茎の太いところを切るのがよいと言いつたえられているので、秋にかこう直前に切り去る部分を乞いうけて、五本ほど切ってみた事があった。職場での見聞経験などから考え合わせて、なるほどよく似ている。 ある時、私はふと思いついて、トウモロコシの実を皮の青いうちにかきとったあとのあの茎を、太いので七、八本、細いので十本ほどをたばにして立て、斜〔はす〕かいに切ってみたことがある。芭蕉の茎を切った時の感触とまったく同じで、腕だめしの試し切りにもってこいのものだと思った。 直径一寸ぐらいの今年の竹を中心に、トウモロコシの青い茎六本程を三ヶ所ぐらい縄でしばり、最初はたてて三段に袈裟がけの練習をし、それをしばり直して今度は台に乗せ、通常藁〔わら〕たばを試すように切れば、それで九太刀ぐらいの練習はできる。藁たばだと、水に漬けたりするのに手数がかかったり、切れ具合に差があったりしてよろしくない。それに感触もいささかちがうように思われる。 居合術をやった人は、試し切りする時分に、やっぱり抜き打ちに切る稽古を忘れてはならない。抜き打ちに切る試し切りこそ、腕試しにはもっともよい方法である。片手抜き打ち、諸手抜き打ち、この二つの手のうち、諸手抜き打ちで向かって右から袈裟に切るわざはもっとも大切な手であると考える。片手では、向かって左から胴を払い上げて切る事、または向かって左から袈裟に切る事の二つ、諸手で又は真っ向真っ二つに切るわざ、それから片手でする抜き突きのわざなど、抜き打ちの試し切りは大体このくらいの手数〔てかず〕であろう。 座してやっても、立ってやってもいずれでもよいが、要は見当を誤らぬという事が大切な心掛けである。 ねた刃をつける事を忘れてはならない。それは、通常小刀などを研ぎつけるあの砥石でよいから、面の平らなもので、水をつける事なく、刃先二、三厘を双方から軽く磨る事である。砥石でなく、檜の柱などにすりつけるようにして引いてもよいといわれている。もっとも、数々の試しものをすると自然にねた刃になる。ねた刃について秘伝とか何とかやかましくいうものがあるけれども、要するに、刃先を目に見えぬくらいの鋸刃にする事である。「試しはねた刃に秘事あり。」といわれているが、秘事とは畢竟この細かい鋸刃の事である。 もちろんねた刃にするしないにかかわらず切れる。本当は白研ぎといって、細名倉という砥石の研ぎ終わったくらいが本当のねた刃の頃合いである。軍刀というものは、このくらいの研ぎがちょうどよいのである。ただ美観という点からいえば、それからさらに内曇砥にかけ、刃艶地艶を施すべきであるが、それにするとやっぱり刃先だけはねた刃にした方がよい。 昔の侍は、指の先ほどのねた刃砥俗に常見寺〔じょうけんじ〕という砥を、矢筈形につくって持って歩いたそうである。一度実戦に使用すると、直ちに調整したものらしい。
2014年12月05日
國體顕現 日本はつるぎのみくに玉の國てらす鏡のくもりなき國 これは宮中御歌寄人故加藤義清先生の御遺作であって、題して「國體を詠〔えい〕ず」としてある。 いうまでもなく、三種の御神器を中心として、永遠に変わる事のない日本の國體の姿を、端的に、日本刀の如くに強く、玉の如くに美しく、鏡の如くに正しいものとして詠じられたのであろう。 私は、日本刀の如くに強く、と書いたが、故 加藤先生は、もちろんもっと深い気持ちで真っ先に剣の御国と歌い出された事と思われる。 古事記日本書紀を繙〔ひもと〕くまでもなく、我が国は、伊弉諾〔イザナギ〕、伊弉冉〔イザナミ〕の二尊が、御夫婦一体とならせ給うて、天神より賜りたる天の瓊矛〔ぬぼこ〕を持ち、天の尾羽張という十握〔とつか〕の御剣を腰にされ、天の浮橋に立たせられて、その瓊矛をもって國をつくり固め給うたので「細戈千足國〔くわしぼこちたるのくに〕」の名に依って起こった原因も、ここに存するのである。すなわち、剣の御國と歌い出した先生の御気持ちの一つもここにあるのであって、後に、御子神の一人、素戔鳴尊〔スサノオノミコト〕が、その十握の剣をもって八岐の大蛇を御退治になり、大蛇の尾の中から得た後の草薙御剣を、御姉神、天照大神に奉献し、それが三種の神器として、今熱田神宮の御神体となっているのである。同じく古事記の中に、天照大神は、御女性ながら、御身に十握の剣及び九握八握の剣を佩〔お〕び御武装遊ばされた事が記されている。この十握の剣というのは、手で握って十掴みの長さで、刀身が大略二尺四、五寸から七、八寸、外装した全長が三尺から三尺五、六寸、俗に三尺の秋水といわれている日本刀の長さの基準は、実に神代から伝わっているのであるのも、またかしこい事の一つである。 次に素戔鳴尊が、大國主命に賜うた「生太刀生弓矢〔いくたち いくゆみや〕」というのは、あたかも生命があるものの如き事をいったもので、日本刀が武士の魂とされたみなもとも、実にここに存し、後世の称呼でないという事を、國民等しくこの際再認識すべきではなかろうか。 日本の軍人が、昔の武士の如く、いや祖先の如く、今も変わらず日本刀を帯して戦場に赴く事は、つるぎの御國である國體を顕現せんが為であって、単なる武器として携行してゆくのでないという事も、やっぱり深く考え弁えねばならぬ事の一つであろう。
2014年11月28日
誰でも、日本刀といえばすぐに刀の刀身だけの事のように考えたがるのであるが、武器としての日本刀は、刀の身と柄と鞘とが完備したものでなくてはならぬ事はすでに述べた。刀の切れ味は柄からも出るといって、柄のこしらえ方が粗雑であっては充分に戦えない。柄がばらばらに碎けたり折れたりすると、肝腎な持つところがなくなって、いかに虎徹の銘刀業ものでも使えなくなる。昔の侍は、刀身同様に柄のつくりも堅固にしたものであるが、世の中が泰平になるにつれてきれいにつくる事ばかり考えるようになった。今度の戦で、私が陣中で修理を担当した軍刀二千余振のうち、その六割までが大なり小なりこの柄の故障であった。濟寧の西の嘉祥というところの戦争で、ある部隊長が敵のねらいうちを受けて名誉の戦死をした。その時、佐野という若い少尉の副官がこれを眺めて残念がり、「おのれ部隊長の仇。」とばかり、軍刀を振りかぶって今の今部隊長をねらいうった敵の中に駆け込みざま矢庭に敵兵三人を斬り殺し、四人目に及ぼうとした時、無念や軍刀の柄が真ん中からぽっきり折れてしまった。少尉はその時負傷をしたが生命には別条なく、ついこの頃輝く金鵄勲章を賜ったのであるが、戦闘の直後に少尉は私のところへやって来て、柄の折れた時の残念無念さを話してその修理を依頼した。このほかに、柄折れのために思わぬ不覚をとった話はずいぶん耳にした事であった。 鞘についてもまさいそうで、西洋のサーベルのまねをした重い金属製の鞘が、一旦砲車や何かにはさまれて“く”の字に曲がったとなると、中身の刀身もいっしょに曲がって、どうしても抜けなくなり、それで思わぬ不覚をとった人もある。ところが、昔からの日本の陣刀の鞘は、木でがっちりと作り、牛の皮などをかぶせて縫いくるめてあるので、かえって強く、よし曲がっても金鞘のような事はなく、その上軽くて便利である。やっぱり先祖の残し教えたるものに限るようである。それで海軍の軍刀は木製を用い、陸軍でも近頃では木製を用いてもよい事になった。 さて次は刀身の事であるが、鞘から抜いて一見すると、刀全体が浅い三日月形に見える。これを刀のそりといって、それは敵に向かって切りつける時分に振りよいためである。このそりは大切なもので、あまり深くてもいかず、そうかといって真っ直ぐな棒のようなものでもいけない。そこが大切なところで、そりの具合一つでつり合いがよくも悪くもなり、いわゆる手に合うか合わぬかの分岐点となる。ただし刀の釣り合いとういうものは、各人の力量とか身長とか好みとかによって異なるので、自分の軍刀を求める時には、幾度も幾度も振ってみて、目方とこのそりとか自分の身にかなったものを選ぶのが大切な事である。刀の先の尖ったところを切っ先といい、背のところをむねといい、むねと刃の間の幾分むねに寄ったあたりのクッキリと高くなったところを鎬〔しのぎ〕と名づける。よくはげしく戦う事を「鎬を削る。」というが、それは双方刃と刃を合わせて切り合うとき、ここのところを削るようにはげしく打ち合うからの事であろう。刀の刃のところは、俗に蛤刃といって、ちょうど蛤の貝のように丸みを帯びていないといけない。刀は単に切れるというだけでなく、戦うこと、つまり鉄兜でも鉄条網でも切る。もし剃刀〔かみそり〕のように平に鋭利に刃をつけておけば、堅い物どころか、骨を切っただけでもバリバリと刃がこぼれる。そこで、こうした蛤形に研いでおけば容易に刃がこぼれない事になる。 かつてこんな事があった。徐州の北の台兒荘という要塞で、わが戦車隊長中島大尉の率いる鉄牛部隊が、東北角から城門へと迫った。敵は道いっぱいに地雷をふせ、その導線を城壁の上に引いて、日本の戦車隊がその上にのぼったら、ただちに電気をかけて爆破しようと待ちかまえていたところへ乗り込んだが、この有様を見た大尉は急に戦車をとめ、部下の山崎伍長と共にヒラリと戦車を降り、日本刀をふりかざしてその地雷原の中に駆け込み、弾丸を雨とふらす中に立って、とっさの間に電気の導火線を残らず日本刀で切りまくって、悠々と戦車に帰り、進撃の命令を下した。この時に一弾来たって大尉の胸を貫き、名誉の戦死を遂げたのである。この刀を後に私は陣中で拝見したが、粟粒ぐらいの小さい刃こぼれは無数にあったけれども、刀身は折れも曲がりもまた大刃こぼれもしていなかったので、よくよく見ると刃は申し分のないよい蛤刃であった。 刀には俗に血流しといって、刀の鎬の方に、雨どいのように樋をかいたものがある。あれは血を流す目的というよりも、刀の折れ曲がりを防ぐためのもので、ちょうど竹の中が空であるがために細い割に折れないのと同じ理くつである。
2014年11月21日
常には抜かず 私が支那の現地にいるうちのことであったが、あちらの少年たちとだいぶ仲良しになったので、ある時私の佩〔お〕びていた日本刀を見せてやると、皆が皆顔色を変えてあとずさりをしたり、中にはそれっきり来なくなってしまった少年もあった。今の石門その頃石家荘といったところにいた時分には、そこにある日本の小学校の少年諸君と知り合いになって、よくいっしょに遊んだが、皆よってきては私の佩刀を見せろといってきかなかった。日本人は少年の頃から皆このように日本刀がすきなのであるが、それは一体なぜか。畢竟〔ひっきょう〕わが國では、古来刀は武士の魂であり、國をまもる霊器であると、これを尊びこれを愛したのに、支那では、あべこべに刀は兇器であり、単に人を殺す道具だ、とこのように昔から考えられていたからの事と思われるのである。 日本刀については、國民學校初等科六年生の國語読本の中に、日本刀は武士の魂として昔から尊ばれていた事、日本刀はよく切れて折れも曲がりもせぬ事、それから世界いずれの国にも此類を見ない美しさと犯すべからざる気品とを持っている事や、古来の刀工は、身を清め精神を打ち込んでこれを鍛えた事などを述べ、最後に平和を愛し美を尊ぶ我が國民の優美な性情と、善にくみし邪を悪〔にく〕む正義観とは、まことに日本刀の精神そのものである、と書いてある。 ごく短い文章で、まことによく日本刀の一切を述べつくしているように思われるが、しかしこれは平和な何事もない時の日本刀の美しい姿とその精神を現したものであって、日本刀が一たび鞘を脱して戦う時の勇壮な姿については一つも記されていない。 昔の武士というものは、大小二振の刀は寸時も身をはなさなかったうえに、武道としては竹刀、木刀をもって打ち合うわざ、すなわち剣術と、日本刀を己が身の一部分同様に、自由自在につかいこなし、正しく切りつける修錬、すなわち居合術とを充分に学んで、いついかなる場合にも敵と相対してひけを取らないように教育されてきたのである。それと同時に、むやみに刀を抜いて斬りつける事は堅く禁じられていた。映画や小説に出て来る侍はやたら人を斬るが、あれはつくり話で、真の武士は決して左様なものではなく、ちょうど今日の軍人のように規律の正しいものであった。そんな場合にもじつに堪忍とするというのが真の武士で、万々一、刀を抜いたが最後、敵を殪すか己れが死するか二つよりほかはなかったのである。 かの明治維新の英傑の一人であった山岡鉄舟は、剣道家として無刀流という一派を開いたほどの達人であるが、生涯一度も刀を抜いて人を斬った事がなかった。勝海舟もまたその通りで、刀は常に元結でしっかりといわいつけてあったそうである。私の知るかぎりでは、西郷隆盛もまた左様であったようである。軽々しく刀を抜いたために、ついに身を誤り家を失ったよい例が浅野内匠頭という大名で、それがために四十七人の家来が、大石内蔵助を大将として仇討ちを遂げたのであるが、その大石もまた最後まで刀を抜いて人を斬った事がなかったのである事に考えを致すべきである。 さればといって、日本刀は敵を斬るのが目的でなく、身を守り抜かざるに敵を畏服するものだと主張する者があるけれども、これはとりようによって大変なまちがいともなる。日本刀はもともと武器であり、悪敵を殪すためのものであって、決してかざり物ではない。ただ前にも述べた通り、むやみに用いないというだけで、その代わり用いる時は断乎として敵を斬る。 それからまた抜かずに勝つといっても、正宗とか虎徹とかいう銘刀を、高いお金を出して買ってただ飾っておいただけで、ひとりでに敵が降参するというものではなくて、刀のもつ一面には、充分に武道をみがいて、いついかなる時でも決して負けないという腕前と精神とを練っておいてこそ、敵が恐れて手を出さぬのであって、つまり武道の達人であればこそ刀も抜かずに敵を威服させる事ができるのである。
2014年11月14日
刃物に非ず 日本刀は刃物ではない。___と言ったら、ちょっと不穏当に聞こえるかもしれないが、従来誤られていた日本刀観を根本的に訂正する、すなわち新体制日本刀観に鍛え直すとすれば、第一に、日本刀は所謂刃物ではなく、また刃物でなかった事から筆をつけるのが順序のように思われる。 榊原長俊の『本邦刀剣考』(※)の中に、源頼朝は太刀を抜いて戦い、その刃がササラのようになったのを自ら小刀で削り、曲がったのを叩き直して再び戦った事、及び、加藤清正の臣福西九郎大夫という者が、数度の軍功に用いた太刀で、その子某が試し切りをしたが、刃の甘い上に丸っ刃であったため、よく切れなかったというような事実を述べ、 ……戦国遠ざかりて後は、放し討といふ事を 武士の覚えに仕〔つかまつり〕たる事になり、 喧嘩の為ばかりの用になりたる故、 武士の刀の切味の詮議をする事になりたるは、 泰平の世の風なり。 (中略) 戦国には甲冑の上より打ちひしぎ勝負を決めたる事なれば、 あまりに鐵利に折れやすからんより、鈍く曲がりたるかた益なるべし。 と結語している。 こうした記録は『太平記』以来の古書戦記中に散見されるのであるが、さらに、日本刀の形体実質を観察考究してみると、そうした記録の裏書きででもあるかのように思える事実が発見される。 その一、二について言えば、古刀時代の日本刀を見ると、多少の異例はあるが、大体において鍛えが柔軟であって、焼きもまた比較的に甘く、刃紋のごときも後来のごとき華やかさではなく、どことなく淋しい感じである点と、形体の美観といったものを度外視して、急所急所が、実戦から得た経験に基づき、念入りに造られているという点とが共通であり、かつ見逃せぬところであると思われる。 ことに、備前物、京、大和物などの太刀の鋩子すなわち切っ先が、刀身に比して著しく小さく、かつ焼き刃も細い上に一段と焼きが甘い点に感づかなくてはならない。現在国宝や重要美術品に指定されているものでも、ほとんどあるかなきかの焼き刃のものがあったり、それが理由で指定洩れとなったものもあるというが、これらは磨滅の結果というよりも、当初から意識的に焼き刃少なに造刀されたものという事を含んでいない限り、よく陥る一つの謬見〔びゅうけん〕であって、武用実用的見地からすれば、むしろ貴重重要な点として取り扱わるべきものである。 なぜかというに、昔、甲冑武士同士が相戦う時、切断困難な鎧や兜の上から切りつける事は、いたずらに刃身を損ずるばかりであるので、近寄って太刀の切っ先で内兜に突き入れるか、綿噛〔わたがみ〕のはずれを突くか、及至〔ないし〕は草摺りの隙き間から突き通すかよりほかに方法はなかった。しかるに、やがてこれを防ぐために鐵の面頰当て等が工夫されたので、そのわずかな隙き間をねらうのが困難となり、自然それに適応した小切っ先となり、折れぬために焼き刃の少ない、しかも焼き甘のものとなったのである。 これらの古い事実から、日本刀というものは、通常考えているような刃物ではなかった事が十分に頷かれる事と思われるのである。 ところが、戦国時代から、いわゆる偃武〔えんぶ〕戦兵の江戸時代に入り、打ちつづく泰平の結果、刀は市井殿中における喧嘩の道具となり下がり、しかも素肌の上から斬るというような実情から、切れ味の詮議がとりわけ示為〔しい・じい〕されるようになった一方、衣服調度品書画骨董同様、華美に流れた結果が、刀身としては、華やかな焼き刃や刀面の彫刻といったものが賞美され、拵え外装も、実用を離れた贅沢三昧のものとなり、はては刃紋に富士見西行や龍田川の紅葉を浮き出させ、刀装に三十六歌仙や雪月花を案配するといったように堕落してしまったのである。 さて、近代戦における世界各国軍人の装備を見るに、鉄兜をかぶる事は異例のない共通の新事実であり、支那兵、ソ連兵のごときは、薬盒帯を左右に肩から×形にかけているから、軍刀の斬撃を受けとめる自然の防具となったり、その他金属製の小携帯兵器の多い事でもあるから、日露戦争時代の装備とは相当に変わっているといわなければならない。私の従軍中、当時助手をしてくれた、加古鍛工伍長(刀鍛冶から応召した兵隊。今は曹長となり再召集中。)今野軍属(同じく刀鍛冶。)その他とも現地でよく研究し合ったことであったが、やっぱり古刀や古刀のもつよい諸点に注意を払ったらしい新刀には、刃こぼれも少なく、あっても小さく、折損等のなかったのに反し、バリバリと焼きの強い、見るからに物凄い形姿の刀に、かえって損傷の多かった事は、前述の事実の生きた証明と見るべきであって、いちばん刃こぼれの多かったのは、ただに硬く鍛え強く焼き刃を施したというものであった事から考え合わせて、現代日本刀匠が、古刀本来の面目に復帰すべき事の要を痛感させられたのであった。 その中でも、俗に刀剣界で「睡〔ねむ〕い刀」といわれていた、漠然とした感じの刀が、案外耐久力の強かった事などからも考えて、日本刀に関する限り、刃物をつくるという考えを全然脱却してかかるべきものである事を痛切に感じたのであった。 私と今野君が帰還して年徐、加古君も帰還となり、共に従軍中の幾多の貴重な経験と見聞とに基づいて、二人は精根を傾けて作刀し、加古君は特に刀質応試用として、今野君は一般作品として、ある日本刀展覧会に出品したが、今野君のは優秀の成績で入選かつ優位に置かれたのに対して、加古君のは、試し切りの結果一向に切れ味が悪かったというので落選の憂き目を見た。 私は刀鍛冶でもなく所謂刀剣人でもないが、武用刀にいつては一個の見をもって研究しているものである。そこで、今度の戦争から生まれた当時の助手二名の作刀の実体を見るために、その展覧会に赴き許しを得て手にとって眺めた。二刀ともよい出来である。特に加古君のは、刃物という観念からまったく脱却した、中ぞりの蛤刃で、焼き刃の淋しい、まったく陣中体験そのままの、いや陣中弾雨下にあって常々私のいった通りの「戦い得る日本刀」の理想をそのまま形にしたものであった。 ところが、巻き藁を切る目的から、まるで剃刀か何かのように、重ねの薄い一見刺身庖丁のような刀が、よく切れたという理由で、第一位に入選となっていたのを見て、いつまでつづくかも知れぬ未曾有の長期戦に、國運を賭しつつある秋の日本刀界のために慨歎〔がいたん〕せざるを得なかったのである。これらの人々は、敵兵は鉄兜をかぶり、装具をつけ、その身中には堅い骨が存在しているという事を忘れた人たちといってよい。 ここに特に一言しておきたい事は、戦地において実見した幾多の斬撃によると、刀術(居合術)の規範をはずぬ限り、通常の日本刀は、実は切れ過ぎる事である。折れぬために刃こぼれのせぬために、蛤刃に刃肉を盛り上がらせ、重ね厚に鍛えた刀にねたば(刃先を荒らすこと。)をかけたものがちょうど頃合いであった事を記憶すべきである。 ※国会図書館デジタルコレクション 『本邦刀剣考』 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536632
2014年11月07日
御神剣を奉祀してある熱田神宮についで名高いのは、奈良県丹波市に御鎮座の官弊大社石上〔いそのかみ〕神宮であって、その御神体は「韴靈剣〔ふつのみたまのつるぎ〕という御剣である。この御剣の御由緒についてもまたあまねく知れわたっている御事実である。 神武天皇が御東征の折、賊の毒氣にあたって、全軍があたかも眠ったようになってしまった時、高天原〔たかまがはら〕から天照大神がこの有様をみそなわされ、これは大変だというので、軍神 武甕槌神〔タケミカヅチノカミ〕(鹿島神)に、早速下向して増援するようにと御下命になると、軍神は、「私が行くまでもなく、かつて大国主命〔オオクニヌシノミコト〕を事向けた時の大刀を降下してやりましょう。」と答えられ、韴靈剣を熊野の豪族高倉下〔たかくらじ〕の倉庫〔くら〕に降され、この御剣の力によって、中毒していた軍兵がことごとく醒め、ついに賊を征伐されたので、神武天皇は後これを石上に神として御祀りになった。これがその御由緒の大略であるが、この御大刀〔おんたち〕は一名「平國之横大刀〔くにむけのたち〕」と申し、かつては刃に血ぬらずして、国土を天照大神に御返還申し上げさせたという事からその名の起こったものである。 天孫の御使、軍神經津神〔フツヌシノカミ〕(香取神)武甕槌神(鹿島神)が、出雲の國五十田狭の浜に御降りになり、十握の剣を抜いて倒〔さか〕しまに地に刺し、その前に座して、大国主神に国土返上の評談をされ、事なく返上となった時の、十握の剣がすなわちこの御大刀なのである。 この時、なぜ剣を抜いて地に刺し、その前に坐されたかといえば、それは単に威容を示されたのだと拝察すべきではなく、「刀に誓う。」という御心を示されたものであって、後世「刀にかけて誓う。」「刀の手前。」というような武士道の中の一つの起源と見るべきである。 この剣の名を韴靈剣(布都御魂)と申した事については、ふつというはふつと断つ事、すなわち物を断つ時の断声であるとする説が多く、この布都から布留に転じ、布留の剣ともいわれ、それからついに「石上」は「古き」という語の枕言葉になったものであるという。 右の石上神宮と同じ神名の神社、石上布都之魂神社という御社が、岡山県赤磐郡布都美村に御鎮座になり、御祭神は素盞鳴尊であるが、御神体として、尊が八岐大蛇を斬られた時の御剣が祀られてあると伝えられている。 日本の神々は、剣を御神体とせると否とを問わず、その御神宝中に、必ず日本刀を数えた事は、すでに垂仁天皇二十七年の文書にも明らかな事であり、文化文政年間の国学者藤井高尚が、「みくにの神は兵器を好み給うと知られたり」と書いているのも、日本刀と神社との関係を率直に表白したものと見るべきであろう。
2014年10月31日
このように、現実の日本刀に宿る神性をまざまざと感じながら、悠久何千年かの神代から伝わるところのもろもろの御神剣に思いをいたすとき、我々日本人は覚えず襟を正し五体を整えずにはいられないのである。 日本刀__三種の神器の一である御剣を御神体として奉祀〔ほうし〕している愛知県の官弊大社熱田神宮は、新古の日本刀を御神体として御祀りしている大小何百座、恐らく千をもって数え奉〔たてまつ〕るであろうほど多数にのぼる神社の、その首座であって、日本刀としては、最古の出現である伊奘諾尊〔イザナギノミコト〕の御神刀天の尾羽張という御剣に次ぐ古い御由緒のもので、日本刀の神性をそのままに歴史に現した尊いご存在である。 熱田神宮に御祭りしてあるこの草薙剣については、おそらく日本國民として誰一人知らぬ者のないであろうほどに周知の事実であるが、この御剣が、太古には、出雲の国鳥上山といった、今の島根県仁多郡船通山から出現したものである事、そして、この地は日本でも有数な良質の砂鉄の産地であって、太古から今日にいたるまで、その鉄をとって精錬し、悠久何千年、その間、連綿としてその溶鉱炉の火を絶えず操業しつづけているという事実については、むしろ知らぬ者の方が多いかも知れぬ。 天照大神の御弟神素盞鳴尊が、出雲の國鳥上の峰に御降りになって、そこにはびこっていた八岐〔やまた〕の大蛇〔おろち〕を退治され、その尾の中から出た天叢雲剣〔あめのむらくものつるぎ〕を、後に御姉神に献上された。この御剣が伊勢神宮に奉安されていたものを、後に、日本武尊が、御伯母倭姫命から拝受され、御東征の途次賊に囲まれ四方から火をかけられ、すでに危うかった時に、この御剣をもって枯れ草を薙ぎ、反対にこちらから火を放って賊を焼き殺したという御由緒から、「草薙剣」と御名を改めさせられるに至ったものである。 出雲の簸〔ひ〕の川上に蟠踞〔ばんきょ〕していた八岐の大蛇については、いろいろな別説があるが、要するにこれは不逞非道な賊徒であって、ここに産する良鉄をとり、日本刀を鍛えていた鍛冶足名椎、手名椎老夫婦が、心血をそそいでつくった良刀をその娘たちと共に奪い取っていたのであるが、素盞鳴尊がこの事を聞かれ、それらの賊徒を誅して最後の娘を救い、良刀を奪回したのだと、こう解釈している学者がある。 とにかく、神代すでに優秀な日本刀が日本鉄で鍛えられていた記録(『古事記』天の安の河原の神州の条にある。)と共に、当時の実物が御神体となって、現にお祀りしてあるという事は、その頃支那ではまだ青銅で刀剣を鋳造していた時代だけに、こうした進んだ鉄器文化をもっていた事の誇るべき金字塔として、また尊い御存在であると見るべきではなかろうか。 日本が神代においてすでに立派な鍛鉄工業を有していたという事も、あまりに知られていないようである。
2014年10月24日
御神剣 天地正大の気が、粹然として神州にあつまり、ひらいては櫻花と咲き、凝っては百錬の日本刀となった。これは幕末の志士藤田東湖の作詩「正氣の歌」の中に詠ぜられているところである。 粹然として神州にあつまった天地正大は、いうまでもなく日本精神〔やまとだましい〕の事で、神気が一つの形として顕現したもの即ち日本刀であるという観念から、日本刀の帰着するところを神と見たのであって、だからこそ、日本刀は単なる兵器兵具ではなく、大にしては國を護り、まつろわぬ外〔と〕つ國を事向〔ことむ〕け、小にしては己をまもり、己を正すところの所謂「武士の魂」とされるに至ったものである。 日本の各神社の御神体として、日本刀をお祀りしてある理由も、これではっきりするのであって、刀に頼り刀に恃む〔たの〕というような心ではないのである。もしそうであったとすれば、日本刀は、外国人の刀剣に対する考え方、すなわち兇器である、断頭器〔ギロチン〕である、という考え方と同じ事になってしまうのである。 それかといって、美術骨董品としての飾り物ではなく、日本刀本来の面目は、どこまでも武器である点に存するのである。ちょうど、仏説でいう不動明王のように、怒った形相で大火焔の中におり、右手に剣、左手に索縄〔さくじょう〕を持ち、見るからに物凄い剣幕であるのも、それは、正しく生きる衆生を悪魔の手から愛護せんがための大慈悲心の現れであった。あの恐ろしげな相貌の中に、実は「無限の慈悲」がひそんでいるそれのように、日本刀こそは、正しきを護るために揮われたる断邪愛念の利剣なのである。「百錬の龍身、一たび鞘を脱すれば大氣凝って霜露を結ぶ。」と形容される日本刀の、秋霜そのもののごとき形姿光芒の中に、正しく強く美しきものが、神性としてこもっているのである。 故に、いやしくも日本刀を揮って敵と戦わんとする者に、一抹の悪念邪心があってはならない。神器日本刀をとって怨敵を斬るという事は、正義と愛念とのために、邪悪なるものの命根を断つ事であって、それであればこそ、日本軍の向かうところ、敵はことごとく破れ潰〔つい〕えことごとく崩れ去るのである。こうした観点から見て、日本軍があらゆる兵器兵具を使用する事は、日本刀を揮うと同じ事になるのである。畢竟、日本刀は日本の兵器の総代であり、その魂の代表でもあると、このように考えてもよろしいのである。支那事変最初の空の尊い犠牲となった故梅林海軍大尉の銅像は、左手に日本刀を捧げ持って大空を睨み、軍神故加藤陸軍少尉の銅像の原型が、また長刀を左手に莞爾として大空を見つめているのも、その海鷲陸鷲を操縦して戦う精神が、どこまでも日本刀を執って戦う精神であった事を、千載〔せんさい〕に伝えんがための尊い表現でなくて何であろうか。
2014年10月17日
支那事変勃発の当時、津浦線を南下して、濟南の手前の平原城に迫ったのは、磯谷兵団の福栄部隊であった。平原城では、城壁城内はもちろんの事、城外にも二重三重に鉄条網を張りめぐらし、全部の防備に費やした日子は三年といわれていた。 最初、砲兵がこれに手痛い攻撃を加えてみたが、びくともしない。飛行機で爆撃しても、かねての防備がものをいって、鳴りをしずめるのは爆撃最中だけである。 そこで、歩兵の福栄部隊が、日本軍独特の白兵戦をもってこれを奪取し、目に物見せてくれようと、城壁の見えるところまでじりじりと迫った。そして、突撃の戦機がまったく熟し、諸般の準備ととのうのを待って、部隊長は○○旗と共に馬を進め、突撃喇叭〔ラッパ〕を吹奏して、一部隊挙がって水火になれとばかり突っこんだ。 この時、先頭に立った隊長も下士官も、一斉に日本刀を抜いて鉄条網を切りまくり、突撃路をとっさの間に開いて、楔〔くさび〕を打ち込むごとくに城内へとなだれ込み、敵が三年を要した防禦を、わずか三十分で完全に占領してしまったのである。 この時つかまえた捕虜の中の一人が、まったく帰順して、後軍夫としてこの部隊につかわれていた者から、私はいろいろと聞いてみた。当時、同じ兵団に私も従軍していたからである。彼のいうには、日本兵は命知らずだから、ある場合には、残らず銃を撃つのをやめ、銃剣をつけて殺されにやって来る。三百メートル、二百メートルと迫って間は、全然銃を打(原文ママ)たぬのだから、こちらは、手榴弾を構えていて、近づいてから一斉に投げれば全滅してしまう。だから日本兵の突撃は怖くはない。と、このように教えられ、それに対応する訓練までしていたにもかかわらず、さて実際にぶつかってみると、日本刀を揮い、銃剣を閃めかせて現われた日本兵を遠くに眺めただけで、じっとしてはいられなくなる。平原城では、指揮官ばかりでなく、督戦部隊までが逃げ足になったので、せっかく張りきったはずの私達は、手榴弾の一つも投げぬ先に、残らずそれを棄てて逃げ延びたところを捕まったのだ。と、臆面もなく、しゃあしゃあと話すのであった。 前述の平原城を、砲撃と空爆だけで攻めたのでは、日本軍の事だから、結局陥落するにきまってはいるものの、少なくとも一ヶ月ぐらいはかかったかも知れぬ。香港でも、バターン半島でも、コレヒドールでも、またシンガポールでも、火器と空爆だけでは、どんな猛烈にやったところで、未だに陥落していないであろう。それを、短時日で落としたものは、実に我が軍の歩兵的な特色である。もっとも適切にいえば、日本刀を揮って斬り落としたのである。 福栄部隊の平原城の総突撃は、大突撃として有名なものであったが、一方、京漢線南下の安田部隊の、南楽城大物斬りの話も、また異色のある白兵戦として知られていた。 南楽という小さな県城へ敵が逃げ込んだ。歩兵部隊が急迫して北門から入り、これを東門外へ追い出す。安田部隊が、あらかじめ東門附近で伏せていて、逃げ出す敵兵を鏖殺〔おうさつ〕する。手筈はこれであって、しかもまったくその予定の通りの手筈に引っかかった敵兵は、我が安田騎兵部隊の林のごとく抜きつらねた日本刀のために、その数百名が残らず殲滅されてしまった。 この時の話を聞くに、我が軍では、城門の東口のここかしこに、半円形に兵を伏せた。かくとも知らぬ敵兵は、我が歩兵部隊のために追われて、東門からちょろちょろと逃げ出してきた。はるかにこの有様を見た兵隊の中には、はやり出して、躍り出ようとする者のあるのを、部隊長は堅く制し、敵がつい目と鼻の先のところへやって来るまでに命令を発しない。先に立った敵の将校らしい者の拳銃が見え、話し声がはっきり聞こえる程度に接近したところで、部隊長は一声、「抜けっ、斬れっ。」と号令を下したので、たちまちのうちに彼我の乱闘となり、物凄い屍山血河を現出した。後で、安田部隊長の語るところによると、「地形の状勢からいうと、機関銃の一斉射撃の方が効果的だったかも知れぬが、それでは兵隊が承知しない。日本人らしい戦争をさせてくれといってきかぬだからのう。」 というのであった。この日本人らしい戦争というのが千鈞〔せんきん〕の重みのある言葉で、白兵戦というもの、殊に日本刀を揮って戦うというような戦闘形式は、日本人という國民性のそのままの表現の一つであって、戦い甲斐のある戦いであり、男子の本懐とする戦いであり、しかして、もっとも効果的な戦いであるのである。 マレー半島メンキボルで、板家隊が、隊長板家少尉の指揮したわずか二十三名の一隊で、敵の有力なる砲兵陣地に突撃して、全員残らずが壮烈な白兵戦を演じて斬り死にを遂げ、しかも大敵潰滅の原因をつくった話は、八月中旬の感状の発表と共に、その認識を新たにした事であったが、この時、もしこの一隊の斯為〔かんい〕極まる行動がなく、彼我徒らに砲撃の交戦をしていたのみでは、いわゆるこう着状態から脱する事が出来なかったかもしれない。これこそは、一隊死んで勝った、真実の「死の勝利」である。このような壮烈な白兵戦で、あるいは局面を打開して、敵軍潰滅へと戦局を導き、あるいは、科学兵器の威力を超越して、堅塁牙城を瞬時に於いて屠った実例は、あまりにも多いので、このくらいにしておくが、こうした戦果の根本こそは、生死を度外視した日本人のみの精神、いわゆる「武士道とは死ぬ事と見つけた。」という精神のわざであり、そうした精神の持ち主に、日本刀という、日本精神の形として縮まったものが加えられて、鬼に金棒となっているからの事である。 前に述べたスペイン内乱の話、欧州戦争に見る、日本人としてはちと歯がゆい進行状態等々から考えて、日本人たるものは、ただ黙して多くを言わず、永遠の日本の確保のために、世界無比の日本鐵である玉鋼をつくり、それから日本刀を鍛える事を中絶せざると共に、白兵戦の基本をなすところの精神の錬成と、日本武道の錬磨とを怠ってはいけない。 人はややもすれば、近代の科学兵器をもってするいわゆる科学戦に、前時代の遺物である日本刀を用いるなんぞは、時代おくれもまた甚だしい、などという事をよく耳にする。こうした考えこそ、甚だもって時代遅れである事の実情は、大体以上に述べた。
2014年10月10日
白兵々力 新兵器、科学兵器というようなものが、質的量的に、どんな進歩発達したからとて、それだけで敵を屈伏させ得るものと考えてはいけない。もちろん、時代遅れの旧式兵器だけで、これに対抗するという事は、それは無謀千万な話であるが、双方共に新兵器をもって戦うとしても、最後の勝敗はやっぱり肉弾戦によって決せられるのである。 そうした事の横断面を、一段とはっきり見せてくれたのは、今度の大東亜戦争、大欧州戦争の諸様相である。 話の糸口は、ちょっと以前にさかのぼる。先年スペイン内乱当時、サン・セバスチャンにいた邦人記者某氏から、私の友人に宛てた手紙の中に、次のような事が書いてあったのを見せてもらった。 ……西班牙〔スペイン〕人同志の戦争というものを見ていると、 我々日本人としては、何だかかう腹だたしくさへなって来る。 昨日、所謂〔いわゆる〕前線なるものを観察して帰って来たのだが、 歩兵戦なんどというものは、いや歩兵という種類の兵隊などは、 薬にしたくても見當らない。 壕を掘る者、バリケードを築く者等々、 ただ敵から掩蔽〔えんぺい〕された設備、 即ち防禦施設の築造に徴発されている種類雑多な人々が、 殆ど身動き出来ない程に密集して動いているのと、 これも、土嚢其の他の掩體で、完全に遮蔽されている安全な箇所で、 機関銃や大砲やを、たゞ盲滅法に撃ちまくってゐるだけの戦争でしかない。 大量な物品消耗戦だ。双方こんな状態だから、 一進一退まことに遅々たるものであり、 いつ戦争が果てるなどゝ見當さへまるでつきかねる。 この手紙の内容から教えられて、私は、戦争の永遠性と、近代戦争の堕落といったような事実とを、対蹠〔たいせき・たいしょ〕的にいろいろと考えていた矢先、柳澤健氏の学芸随筆を見ると、偶然にも、その事実を書いてあるのにぶつかった。 ……西班牙内乱の最中も直後も、度々この國を尋ねてゐるが、 この内亂が、三年にも亙〔わた〕つて、 一方は獨伊、他方は佛蘇英米の、最新式と稱せらるゝ武器を使用して、 尚且つ容易に勝敗が決せられなかつた最も主なる理由として、 双方に於ける人員、殊に歩兵の缺如を擧げてゐるのを、 興味を以て聴いたことがある。云云。 ……歩兵のもつ力といふものは、 取りも直さずその國民の一箇一箇の裸になつた力であらう。 (中略)戦争で最後の勝敗を決めるのは、 廣い意味でその國民性といふ事になるかと思ふ。云云。 スペインの内乱における戦争状態の膠着した原因が、歩兵の欠如にあったという事実の指摘は、同時に、我が日本軍のすべては、広い意味での歩兵であることを強く頷かせる。日本軍の即戦即決的な戦争ぶりは、日本刀の威力と共に、日本の強さの特色であって、我が軍にこの歩兵的な特色が失われ、我が軍人が日本刀をもたなくなった時、即ちそれは日本が亡びる時である。 日本軍の歩兵的な特色というのは、それは、海戦にも、空中戦にも、どんな種類の戦争にもあらわれている白兵戦的なものである。かの藤田東湖の詠じた「天地正大の氣、粹然〔すいぜん〕として神州に鍾〔あつま〕り、 發〔ひら〕いては萬朶〔ばんた〕の櫻と咲き、 凝つては百錬の鐵(日本刀)となった。」という、正気の歌の精神は、一旦緩急の時、日本刀を揮って白兵戦場の花と散る武士たる栄誉をあらわしたもので、この正気の歌のような精神は、日本人には一つの宗教となりきっているのである。このごろ、部下のある大学で、そこの学生に、自己の信ずる宗教は何かとたずねたところが、大半は「無宗教」と書いたといって、悲観している先生があったが、日本人には、実は愛國心が宗教であり、その前には何ものをも犠牲としてかえりみないという強さがある。それが所謂宗教家否かは、自意識的にはわからないから、無宗教と書いたまでであって、日本人のこの簡単な愛國宗こそは、形体としては日本刀として現れ、讃歌としては「海ゆかば」の古歌となり、窮極して決するところ、白兵突撃の精神となるのであって、日本軍の前には、いかなる堅塁堅塞といえども、瞬時にしてこれを陥れざるはなく、こう着状態などという事のあり得ないのもこの純一無雑の精神がさせるわざである。
2014年10月03日
備前刀の功績 自分では、まだつい昨今のことのように思っているのだが、あれから__徐州が落ちてから、もう足かけ七年の歳月が流れた。 南下軍中の中堅となって悪戦を重ねた磯谷兵団の戦線だけでも、実に四十餘里、その要衝〔ようしょう〕である台兒荘一帯の地に敵をおびき出して、徐州の守りを空っぽにさせたと、一口にいっってしまえばはなはだ無造作に聞こえるが、そうした犠牲球打者となったこの兵団の悲壮な苦悶ぶりについては、語るべき多くのことがあるけれども、まだ時期ではない。 当時私が軍刀修理という仕事でこの兵団に配属し、徐州の落ちる四、五日前まで台兒荘周辺の一線におり、時には火線にまでも引っぱり出されて働いていた。帰還後の三年間に、それら陣中の日本刀を主題とした戦話集だけでも三冊も書いた。 もうそれ以上書くこともないはずなのだが「拾遺」といったような書き落とし書き残しが、後から後からといくらでも出て来るのが不思議でならない。 磯谷兵団の将兵中、徐州の最難関であった台兒荘へぶつかったのは、日本刀五代伝随一の故地である古〔いにし〕えの吉備地方の人々が多かったためであったか、将兵の携行して行った日本刀中には、備前刀中のわざものが統計的に見て断然多かった。 現在日本全国に残る古刀新刀中で、量的に、また質的に見て、武用刀として第一に指を屈すべきものは、何といっても備前刀であり、中でも長船刀がその首座を占め、そのまた長船刀匠群の代表者は、古刀新刀を通じて同名を名乗ったもの六十餘名を数える祐定の一類である。 まさに、備前刀徐州を斬って落とす、とでもいいたいところで、事実、白兵戦の多かった戦場だけに、備前刀のあらわした功績もまた少なからぬものがあったことと思われる。 それは昭和十三年四月下旬のある日の一昼夜、天地もゆらぐような彼我の大砲撃戦の直後、赤柴部隊から、山本という一等兵が大叺〔おお かます〕に一つの破損軍刀をつめたものを背負い、鳥井強右衛門よろしくといった姿で、夜の闇にまぎれて修理にやってきた。 その日本刀をすっかり台の上に並べあげた時には、これが刀か、と思わず腕組みをして見入ったほど、ものすごくも痛ましい変貌であった。 単身兵二名をつれたある少尉が、ある夜前方の敵の動静を偵察に出た。軍刀銃剣のほか、身に一物もつけぬ三名が、目的を果たして帰るさ、たちまち彼我の砲撃戦となり、そこは、何らの遮蔽物もない平坦地のこととて、砲弾の破片が盛んに飛び散る。三人は致し方なく、日本刀と銃剣とで壕を掘った。その刀がこれであると、一振りの剛刀を取りあげて山本一等兵はその説明をした。 雄偉な姿の長船七兵衞尉祐定で、切っ先が三分ほど欠け、小刃こぼれ五、六、刀身が少々曲がったきり、びくともしておらぬ。「日本刀で壕を掘った話」__この話はまだ私はどこにも発表しておらぬ。 天長節の前日であった。南下北上の我が両軍によって、いつの日か突破されるべきかの要害ゼークト・ラインの一角を、是が非でも今明日中には突き破れと、南下軍中の兵団磯谷将軍は、前線の一要地である蘭陵鎭まで馬を進め、台兒荘の東につらなる胡山の攻略に自ら指揮をとった。その日、その兵団本部からの要求で、私は将軍が苦慮惨憺しておられる、いぶせき民屋の窓の見えるところに修理工場を開設し、終日幾振りかの破損軍刀を手にした。 その日は、そこの庭一面に天幕を張って、兵団の参謀幕僚が総出となり、胡山を崩しにかかっている最前線を指揮激励していた。無論彼我の砲門は一斉に火を噴き、修理用の水盤には間断のない地ひびきで絶えず波紋を描いていた。 一人の将校が来て、今晩はここへ泊まって、明日は兵団長の佩刀古刀祐定の一刀に手を入れてくれとの事であったが、移動の都合で残念ながら閣下の佩刀を手に取って拝見することができずに帰除した。 翌日は天長節の佳辰であったが、胡山はまだ落ちず、終日の突撃に次ぐ突撃が効を奏し、さしものゼークド・ラインの一角が崩れたのは実に翌三十日の事で、私たちはその朝兵站の自動車に便乗して胡山の山麓へと進発していった。 ちょうど今の今しがた胡山を完全に占領したというところへ私たちは到着した。そこは黄家樓という小部落で、到着すると直ちに修理に持ってきたある曹長の刀が、何とまたこれも新刀備前長船般忠之進祐定という在銘刀であったのだった。 手に取ってみると、何だかかじっとりとして刀全体が水を含んだように重い感じであった。俗にいう血刀だが、これは刀全体が__柄までも血を吸っている本当の血刀で、中心を抜いて見ると、腐った血がたらたらとしたたり落ち、鎺〔はばき〕の下にもまた黄褐色の腐血が固まっていた。数日来の接戦で、敵を斬ること十数名に及んだと持って来た本人が語った。 私は帰還した。当年の磯谷将軍も予備役となられて、世田ヶ谷の一角に悠々自適しておられた。一昨年の夏、将軍からのお手紙に、刀の話に来いとあった。お伺いして見ると、将軍はあたりの畑や森を眼下に見下ろした風通しのよい二階へと請うぜられ、 そこで私は将軍の愛刀長會禰虎徹その他を拝見した。 この刀は、かつて故・内田良平氏の所持品であったのを、氏から将軍に無償で譲られたというもので、真偽の両説があるがどうかというご質問であった。 私は刀剣人ではないので眼識には乏しいが、拝見するところ、出来不出来は論外として、まさに眞物に相違なかった。虎徹の特徴の一つである中心の松葉鑢も動かぬところの一つであった。 同時に出されたのは、将軍の佩刀長船祐定の尤物〔ゆうぶつ〕であった。私はしずかに鞘を払って、思い出深く拝見し、「閣下のこれで徐州を斬って落としたんですね。」といった。将軍はそれについては何も語らなかった。 その将軍に、再び時節が到来して、昨春匆々〔そうそう〕香港総督の恩命があり、将軍は感泣勇躍して任に赴かれた。私は、今度の佩刀は多分虎徹だろうと思っていたところが、やっぱりかの祐定の一刀を腰にして行かれたのだった。
2014年09月26日
釁〔ちぬら〕れたる日本刀 武用刀 今から七、八年前、すなわち支那事変勃発直前頃に、日本刀は武器なりなどと言おうものなら、刀剣社会の人々から声をたてて笑われた。なぜならば、日本刀の切れ味とか、耐戦力とかいった方面の條件は第二のものであって、鉄色、姿恰好、さては刃紋地模様から、錵〔にえ〕匂〔におい〕の妙味等々を穿鑿〔せんさく〕鑑賞するといったような、書画骨董をいじくりまわす事となんら択〔えら〕ぶところのない見地観点から評価されたもので、今日国宝及び重要美術品として指定保護されている日本刀の大部分は、武器として考慮されたものではないのである。こうした人達によって書かれた幾多の刀剣書のほとんど全部といってよいくらい、銘刀なるものの條件を、霊性にもって、戦わずして戦を逎吹く慴伏〔しょうふく〕せしめるにありと結語している。 ところが、前古未曾有の今度の大戦争勃発と共に、日本軍独特の白兵戦において、この日本刀武器としての威力を十二分に発揮し、日本刀ここにありの感をいよいよ深くしたのであって、しかも、刀剣人からは、二流三流駄刀扱いを受けていた新刀鬼塚吉國とか、山城守國清、新々刀の勝村徳勝、長運齋綱俊といったような、どちらかといえば無名の刀が大業を発揮して一躍天下の羨望となり、値段もぐんとつり上がったのなどは皮肉な事実である。 徳川時代の中期から、今次戦争直前頃までの美術刀剣家によって漁りつくされ、評価に評価を加えられてきた日本刀以外の、いわゆる見向きもされずに埋もれはてていたもののなかに、本当の日本刀__武用日本刀が、数々残されているという事実の確認である。つまり、武用的な選刀眼を以て、本当の日本刀を手に入れようとする者の前には、まだまだ無数の武用的な刀が埋もれているのである。 一例を挙げると、雲州松江藩お抱え刀匠長信は、藩の武術師範立ち合いの上で砂利に打ち込み、次に厚い鉄板に切りつけて試さない限りはその刀に銘を切らなかった。伊賀の國名張(藤堂)お抱えの刀匠元宗は、薩州奥元平の系統で、伊賀伊勢の砂鉄を薩州風に自ら吹いて鋼となし、ただ剛刀専一に鍛刀した。幕末に流行した重ね厚淺反りの直刀に近い刀を打って、後に勤皇刀と名づけられた刀匠群のその一人であるが、元宗の剛刀ならば必ず兜が切れるとまでいわれた。しかるにこの二人とも未だに世に現れずにいる刀匠なのである。 武人よ嘆くなかれで、実戦に適するこうした刀はまだまだ幾らでもある。著者は久しい以前からそうした方面に心を潜めて研究してきた一人であるが、たまたま昭和十三年中従軍の身となり、かの徐州戦の第一線に参加し、幾多の白兵戦を見聞きし、其所で用いられた約二千の損傷日本刀を現地において仔細に検討し、日本刀の尊さは、日本人にのみ適応した最高かつ永遠の武器である点に存する事を如実に知った。 しかして、従来幾多の刀剣人によって名刀とされていたものの中に、案外ひどい損傷をこうむったものをまざまざと見せられて、日本刀に対する態度の新体制を確立する事の要を痛切に感じてきたのである。 以上は、日本刀の刀身についての事であるが、武人の手に揮う日本刀である限り、日本刀という観念を、根本的に改めなければならぬとこれも痛切に思った一事がある。それは、世に刀剣人といわれる人たちもまた一般人も、日本刀とさえいえば、日本刀刀身それ自体だけを考えて、その他の事はまったく顧みない有様にあることである。 いかに刀身が優秀であっても、外装すなわち拵えが悪くては戦争は出来ない。早い話が、日本刀を揮っていざ戦うという場合に、刀のどこが大切かといえば、刀身と柄とはむしろ五分五分だと言い得るのである。刀身ばかりで戦い得ない。柄のつくり具合、持ち具合、そこに大切な戦闘機能が伏在〔ふくざい〕している。俗に「刀の切れ味は柄から出る。」といわれている通り、柄の政策が粗末であって、それが戦闘最中にぽっきりと折れたら、刀身の折れたよりも、なおみじめな結果を来たすのである。 古来の戦闘記録を見ると、刀身が折れても柄のしっかりしているかぎり、その短くなった刀を以て敵を殪〔たお〕したという事実と共に、柄の折れた結果、思わず不覚をとったという事実もまた多いのである。 これは、日頃から刀身にのみあまりに重きを置き過ぎて、刀身同様に大切であるべき、外装をおろそかにしたからの事であって、武人たるものは、その点に深く心を潜めて、左様な悔いの起こらないように、一意強靭な外装を加うべきであろうと考えるのである。 剣聖宮本武蔵は、単に武術に卓越していて、戦うごとに敵を破り得たのではなくて、あらゆる事物と機会とを利用して敵に勝ち得た事はすでに屢々〔しばしば〕述べた。その佩刀のごときも「肥後拵」の名において後世にながく残されているあの一種異様な拵えぶりは、実は武蔵拵とでも名づくべきものであって、その発案者は宮本武蔵であったといわれている。 かれは、柄頭〔つかがしら〕の金具から、鍔の製作に至るまで深甚〔しんじん〕の注意を払って、自らこれをつくった。世には、武蔵は単なる余技として、すなわち道楽として金工を手慰んだと説き『肥後金工録』という本には、そうした意味で彼を金工の一人として紹介しているが、著者の考えでは、けっしてそんな道楽半分からのものではなくて、かれは、かれの武術の延長として、その外装の諸金具を製作したのであったと信ずるのである。 これらの事情をもっとも雄弁に物語るに足るべき拵え振りの刀は、京都市岡崎にある大日本武徳會の武器庫に陳列されている。「肥後拵横田流」とあるのがそれで、武蔵の没後、横田某氏が武蔵拵をそのまま模して製作したものらしく、いかにもそれの面目を躍如たらしめている。 まず柄頭の金具は ∧ 形に尖っている。これは柄わざとて、室内または人ごみの中など、刀を抜くに不便なところ、あるいは刀を抜く暇がない時に、急にこの柄頭で敵の急所をあてるのである。 それから、鍔には多くのすかしがあって、その形も碁石のごとくになっている。それは、滑らかに手の甲にあたるから、自然手ずれを起こさせない。 さらに刀鞘に至っては、樫の木でやや太目につくり、鐺〔こじり〕の金具もさながら槍の石突きのごとくに、どっしりとつくってある。 これは、刀が折れたとか、不意に敵に刀を取られたという時には、直ちに刀の鞘を抜いて、それで戦えるように、頑丈に拵えた物と思えるのである。 斯様〔かよう〕に、日本刀は、刀身もさる事ながら、刀身以上に拵えに意を用〔もち〕うべきであって、そうした事全体に心を配るべきことは、武人の嗜みの大切な一つであらねばならぬと考えるのである。 また小野派一刀流の武術の傳書には、刀の下げ緒にまで武用的な説明を加え、第一に、刀の下げ緒は、刀を腰にしっかりと結びつける用をなすものである。 第二には、敵を捉えた時に縛するための準備でもあると述べている。 従来は、たすきとなすものとのみ思っていた下げ緒にも、武用的にはこうした使命もあったのである。 日本刀という称呼には、こうした下げ緒の武用までも包含されているものと見るべきである。従来のごとく、単に日本刀の刀身のみをもって、日本刀なるものの名称のすべてであるかのごとき観念を持たすべきではない。
2014年09月19日
居合術については、書きたい事が多いのであるが、別に『居合術叢談』(仮題名)というものを執筆中であるが故に、これは割愛して、ただ一つ、居合術の本領を誤るものとして伝わって来た次の古記録について意見を述べたい。 『撃剣叢談』にある記録である。 作州森家に仕えて二百石の知行を受け、剣術の御指南番をしている寶山流の剣士淺田九郎兵衞というものがあった。 この國に、東國浪人の三間輿市左衞門が居合を指南していた。 当時のならいで、この地方にいる程の剣術つかいがいずれも仕合いを申し込んで来たが、三間の居合術に勝った者は一人もなかった。神速機敏、電光石火の早わざは、かつて十六歳の頃から、十二社権現の神木を相手にして、二十年間居合術の修錬を重ねたため、ついにその神木はくびれて枯れたといわれ、かくて一流を成就し、水鷗流と名づけて世にひろめたものであった。 この上は、前記の寳山流のつかい手淺田九郎兵衞でなければ相手になれるものはなかろうというので、人々がすすめて、三間と勝負させる事に決定したが、九郎兵衞の弟子共が危ぶんで師匠に向い、「三間の居合は、東國のみならず、諸國の剣者でかつて勝ったためしがないそうでありますが、先生は一体どうした手段で勝たれるお見込みですか。」 とたずねると、九郎兵衞は無造作に、「居合に勝つ事は、むずかしい事ではない。先方に抜かせて勝つまでじゃ。」 と事もなげにいった。この事を聞いた三間は、「淺田先生は聞きしに勝る上手ではある。その一言でもはや勝負は知れた。我等ごとき到底及ぶところではござらぬ。」 といって立ち合いはなかったとの事である。 抜かせて勝つという意味は、居合は抜かぬ先の鞘の中に勝ちをこめて、太刀下で抜き止めて勝ち、あるいは詰めよって柄で止める等のわざで、抜かせてしまわぬうちにこそ勝ち味をもっているのである。それを抜かせてしまえば勝ちは我が剣術にあるという道理であるが、必ず相手を抜かせるようにするにはそこに妙境がなくては叶わぬ。 というのである。 居合術を知らぬ者にとっては、なるほどと頷けそうな話だが、居合術というものは、世間ただ刀を抜きつける独り演武のあの抜刀形だけだと心得ている事から起こる誤りであって、居合の奥はそんなものではなく、一人で抜く抜刀形または抜刀術に充分習熟した者が、甲乙相対し抜き合わせて闘う形の「居合」に入るものであって、本質は一般の剣術と少しも変わらぬものなのである。 ただ特異とするところは、真剣に近い刃引き刀を以てする事、しかも真剣を動物の爪牙角蹄のごとく、__己の身体の一部分のごとく身にとりならわせたものを用いて、実際敵と切り結ぶ時さながらに、鞘の中から抜き合わせて闘う刀術であるという点であって、今日残存して行なわれている両者相対して行なう相居合と称する演武の形式から見ても、そんな生やさしいものではない。 淺田九郎兵衞と三間輿市左衞門の場合を考えると、一は主取りの公人であり、一は市井の浪人である。前者に対して後者が勝った場合は、後々はなはだうるさいくらいは、北辰一刀流の開祖千葉周作ほどの達人でも、一介の町道場の主であるというところから遠慮して、年若い旗本の直心影流の使い手男谷下総守にわざと勝ちを譲った事でもわかる。 かつて、名剣者として名を後世にとどめ、その流儀が今も行なわれている天道流の流祖齋藤判官傳鬼坊ほどのものでも、そうした事理に暗かったがために、勝負に勝ってもついに闇討ちされて、惜しくも散った前車の轍が教えている。 三間輿一左衞門が、闘わずして「到底及ぶところに非ず。」と兜をぬいだのは、よく周囲を知ったもののとったもっとも賢い方法であったと私は考える。 闘わざる先に「抜かせて勝つ。」などという、淺薄な、人を喰った事を宣伝させるような人間は、私はとらない。 果たせるかなこの淺田九郎兵衞は、かつて己れの高弟であり師範代であった都築安右衞門との間に悶着を起こし、安右衞門が別に新流派を起こしたところへ物言いをつけて、なぐり合いよろしく仕合いをしかけた事が、撃剣叢談に出ている。これで九郎兵衞という人の人格もわかり、巧みに遠慮して触れなかった三間輿市左衞門の人柄も知れて奥ゆかしい。
2014年09月12日
話は前に戻る。 上泉信綱が大和國柳生谷を去ってから後の消息については詳しく世に伝わってはいない。『關八州古戦録』には、柳生宗巌方に淹留〔えんりゅう〕し、ついに老死して今に墳墓を遺せりどと、と書いている。かと思えば、『武功雑記』には、柳生の庄を立ち去り関東へ下る道すがら、三州牛久保というところで、牧野氏(当時三千石)の家来山本勘助の京流を破った事、及び勘助はそれを恥じて甲州の武田氏に身を寄せた事などが記されてあるが、慥〔たし〕かと思われる『言繼卿記』『後鑑』等によれば、永禄八年に柳生谷を発足して数年の間中國西國を廻遊、元龜元年に上洛、足利将軍義昭ならびに山科大納言言繼卿以下公卿武士多くをその門人とし、兵法、軍法、軍配を指南した事、及び同年六月二十七日、当時上泉伊勢守藤原秀縄と称していたかれは、武蔵守に任官、姓を大胡、名を信縄と改め、武藝者としては破格の従四位下に叙せられ、七月二十一日 本國上州へ下向のため暇乞いに参り、親王御方から御短冊二枚を拝領、かつ言繼卿より下野國結城氏宛書状をいただいた事などが記されてあるところから、三州牛久保で山本勘助で仕合って敗ったというのはこの関東下向の時ということになるが、年代から考えると根も葉もないそら事である。というのは、元龜元年は山本勘助が永禄四年に信州川中島の八幡原で討死してから、十年後の事であり、仮に信綱がはじめて伊勢國大和國へ来た途中の永禄六年としても、三年後の事であり、信綱が、永禄三年に神陰流をたてた時から十八年も前の天文十二年には、勘助はすでに武田信玄に仕え、一方の将として信州に攻め込んでいるのだから、どうも信じる事ができない。『撃剣叢談』によると、信綱が上洛参内して従四位下武蔵守を賜った日に、その一子は従五位下常陸介に叙位任官し、後井伊家に仕えた。 この時大胡と姓を変えたのは、そもそも信綱の家柄たるや、俵藤太秀郷の後裔で、代々上州大胡の城主であったが、父憲縄の代に城を落とされ、後上州箕輪の城主(今の前橋)長野信濃守の旗本となり、同家が武田信玄によって滅亡した後には一旦武田氏に随身し、その後間もなく辞して上洛したのであるから、従四位下に叙せられると共に、由緒ある大胡の姓に戻ったものである。 信綱は、晩年居合術の達人長野無樂齋槿露について、そのみちに没頭したと伝えられている。この長野氏は、かれの舊主長野信濃守に縁故の者か否かは不明であるが、ただ、『本朝武藝小傳』及び『武術系譜略』によれば、信綱の一子も、この無樂齋も、共に井伊家に仕えた事と、信綱の他の一子上泉孫次郎義胤が、無樂齋の門に入って居合術を修めたという点が見のがせない。 居合術では「勝負は鞘の内」と称し、いかなる敵人と仕合うにも、決して太刀を抜かないで鞘のまま柄に手をかけて構える。即ち太刀を抜いて構えるのは、口を開いて声をかけて来るのに等しく、抜かずに構えるのは黙して策を蔵するに等しいというのであって、これぞまさしく陰から陽に移る一刹那に敵の死命を制する事であって、そこに生命がある。 信綱の一子孫次郎義胤について、近松茂矩の『昔咄』にこんなことが書いてある。 上泉信綱の実子は、その名を權右衛門といった。この權右衛門に対しては、自ら得た神陰流の剣法は授けず、長野無樂齋の弟子として、もっぱら居合術を修めさせた。 權右衛門は後そのみちの達人となり、諸国を武者修業して廻ったが、世は徳川氏の治世となって天下は太平に帰し、一介の街〔まち〕の武藝者では通らなくなったところから、父の弟子柳生宗巌には孫にあたる、当時名古屋徳川氏御指南番柳生兵庫介利巌の許へやって来た。寛永元年頃の事で、權右衛門もすでに七十歳に手のとどく年齢であった。 名だたる上泉信綱の実子であり、己が祖父の師匠たりし正しい系統の人であるから、利巌は丁重に扱った上、自分の道場で居合の指南をさせる事にした。 そこでまず高弟の高田三之亟という無双の使い手と仕合わせたが、最初の一本は權右衛門の抜かぬ先に切り込んで勝ったけれども、二本目からは、いかなる秘術を用いても再び勝つ事が出来なかった。「神妙なる御手の内、私でさえこの通りなれば、他の者は勝てる者はござりますまい。」 といって感嘆した。そこで柳生一門をはじめ、近在からも来〔きた・いた〕って指南を受け、その中で若林勝右衛門というものがもっとも傑出し、藩主徳川光友へも指南する程であった。 後隠居して是入と称し、無刀で生活した。 私はかれこれ八年ばかり前(十九年から)名古屋市の公会堂で、今日まで連綿として残っている柳生一門の演武を見た。その中に居合術があって、なみいる人々に一寸奇異の感を抱かせたが、この一事を知っている私には、是ある哉と頷かしめた。 多少形は異なるが、たしかに林崎流田宮流の系統から来たものである事がうかがわれた。 ことに、柳生流中の居合術のすぐれた一手である、一刀敵の右脇から左肩にかけて、払い上げに切るわざのごときは、居合流各流とも秘剣として重要視している一手で、例えば雲州不傳流の「奏者斬り」のごときもこれであって、この手で先をかけられたら、剣刀をもってしては防ぐ手がないという特異なものであるが、この鮮やかな一手を拝見するに及んで、これがその權右衛門から伝来したものであろうと直感されたのである。 この辺で、ながながと書いた「陰流秘傳」の本筋を終わる事とする。
2014年09月05日
全94件 (94件中 1-50件目)