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テーマ: 臨戦刀術(92)
カテゴリ: 臨戦刀術

楽翁公と不昧公

    楽翁公の柔術


 紀元二千六百年の初夏、財団法人楽翁公徳顕彰会の主催で、
頼母木東京市長二荒伯等の名士が集まり、
「楽翁公を現代に生かす座談会」が開かれ、
楽翁公松平定信の尊王精神、七分銀の由来、命がけの御願文、悪風奢侈の禁止、
といったような事蹟を中心として、時局匡救〔じきょく きょうきゅう〕の方策を練った。
 ついで六月十四日には、同会主催で深川霊岸寺の同公墓前祭が盛んに営まれ、
その夜は日比谷公会堂で、楽翁公に関する大講演会が開かれたが、
その講演に現われた範囲が、やはり座談会でなされた話題の範囲外を出ておらなかった。


 楽翁公は、至誠憂國の大政治家であったばかりでなく、
思想家であり、文芸家であり、社会政策経済方面にも詳しく、
さらに武備國防といった点でも一家言を有しており、
彼の台命による東京湾要地の結成と築城の完成、防備配置の計画並びに実施のごときも、
今日そっくり継承施行の形となっており、
その作になる有名な黒船の歌を、文晁の描いたポスターに題し、
次男の眞田侯をして印行領布せしめた國防思想の全国的宣伝普及のごときも、
國防計画の先駆と見てよい。
 それらの事は、深浅の度はあれ一通りは世に現われているのであるが、
ここにまったく埋もれはてていた他の大きな一側面がある。
それは、優れた武道家であったという事である。
それも、単に勝負を争うのみの「競技武術」を排して、
どこまでも「臨戦武術」でなければならぬ。
大きくいえば「國防武術」なくてはならぬというので、
それを「軍法兵術」に結びつけて総合的に完成した事は、
武道が國民学校にも課せられるに至った今日、
楽翁公をこの方面にも生かす必要はないであろうか。


 楽翁公の武道は、世にいう殿様藝の類ではなくて、
戦場往来の藩祖松平定綱が、戦後の腕を撫でしつつ、
君臣合作のもとに実戦の場合からとって編み出した御家流の剣法「甲乙流」が、
久しく中絶していたのを苦心して復興し、かねて、
若年より起倒流の柔術を御旗本鈴木清兵衞について修め、
免許皆伝を得ておられたので、その甲乙流剣法に柔術を組み合わせ、
「新甲乙流」を編み、自ら戦場武藝としてこれを藩士に授けた。
 楽翁公が十八歳ではじめて武道を志した前後の事が『修行録』という御自記にある。

 鈴木清兵衞(御鐵炮御たんす奉行)というもの柔〔やわら〕の道という事をとなへし。
 諸侯にもあまたそれが弟子となりけり。予にもその門に入れよと人々云へども決せず。
 九鬼松翁その頃は長門守といひしが、しきりにすゝめてつひにその道に入りにけり。
 清兵衞の妙術はもとより云ふにも及ばず、剣術十何流柔何流とかを学び究む。云々。

 楽翁公の柔術修行についての一つの逸話がある。
ある時、鈴木清兵衞を召されると、清兵衞は来たらず、
屈強な弟子が二人来てお相手をした。
相手は大名だという遠慮など毫末〔ごうまつ〕もなく、どしんどしんと叩きつけ締めつける。
わざの理論をたずねてもそんな事は知らぬと答えるので、
さすがの楽翁公も むっ となって、わざわざ清兵衞方へ詰問に行かれると、
清兵衞が現われて両手をつかえ、
「武道御修行は斯くの如きもの、御悟りあってこの上なき仕合せ。」と申し上げた。
「わざにこそ理はありけりと知りぬべし障子をあければ月のさすなり」
という武道教訓歌を実地に教授申し上げたので、
果たして公は真意を悟り、爾来一段と精進をつづけたのであった。






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Last updated  2015年01月23日 02時50分28秒


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