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テーマ: 臨戦刀術(92)
カテゴリ: 臨戦刀術


 罪囚の死屍を切って刀の刃味を試した幕府の首斬り役人、
すなわち御刀お試し御用人山田淺右衞門の事については、
千著『随筆日本刀』に詳記してあるからここには割愛するが、
先祖山田淺右衞門貞武は、信州松本の浪士で、
その昔越後高田七十五万石の城主松平忠輝の家老、山田長門守吉辰のひ孫である。
元禄初年頃、当時のお試し御用人山野勘十郎久秀の門に入り、
次いでその後を継承して、明治十四年七月に斬首刑が廃されるまで、
八代もつづいた首斬り稼業の家柄であった。
 いったいつの頃から斯様な事が行なわれ、
淺右衞門以前にどんな人間がこれをやったかという事を調べてみると、
織田信長の家来に、谷大膳亮という武藝に熱心な者があって、
ある時鷹野に従い山野を行く道すがら、山間に死人を発見し、
それを田の あぜ に据えさせて刀の切れ味を試した。
 これが土壇を築いて囚人の死屍を置き、
刀の切れ味切れ具合を試すに至ったそもそもの濫觴〔らんしょう〕とされ、
土壇据え物等の名が起こったのだといわれている。
 この谷大膳という武士は、武藝にも秀で、信長の没後秀吉の手に属し、
播磨國三木別所の戦で壮烈な最期を遂げた。


 その頃、斎藤山城守の家臣に小池備後という者があって、
刀試しの方法を工夫し、今日でも行なわれている切り柄は、
この人が発明したものであるという。
その合理的な試刀法を伝聞して織田信長がこれを召し抱えた。
 これより以前、安養寺加賀守という武士があって、
夜陰ひそかに墓を発〔あば〕いて死屍を切り試したと書いた本もある。
 小池備後は後に一流をたてて小池流と称した。
それを第一番に習ったのは、関白秀次の小姓小川傳次郎という者で、
この小川は、残忍な秀次に悪用されて、
しばしば罪なき人々を刀試しの名目で屠ったという。


 それが徳川時代に入ってからは、武人間の一種の流行となり、
彦坂小刑部、深尾清十郎、牧野清兵衞、朝比奈源六、都築久太夫、中川左平太という
歴々のお旗本が、名手たる名を高めるに至り、
森川出羽守、石川大隅守などという大名までが、
自己の佩刀を揮って二つ胴を落とすという有様であった。
 旗本の中川左平太は、信濃國の豪族村上清信の二男で、武藝をよくし、
兼ねて中川流試し切りの伝をたて、
千住の小塚っ原でで死罪囚据物試しの端緒を開いた者で、
その高弟の山野加右衞門永久が、初めて幕府の据物試切御用となり、
ここに首斬り稼業が公認となったのである。
 加右衞門の子勘十郎成久もまた名手であった。
この父子の名が記録にあらわれているのは、萬治年間前後からで、
寛文年間には、勘十郎の子の久英という者も登場し、
萬治二年から延寳二年まで十六年の間に、父子三人が、
長曾彌虎徹の試刀だけでも、四十三回四十余刀に及んでおり、
寛文三年八月二十二日には、孫の久英が
虎徹の大刀で囚人四人を重ねて一刀に斬って落とし、
四つ胴落としの真正記録をつくり、
翌々年の寛文五年二月二十五日には、祖父の永久が、
六十八歳の高齢をもって、同じく四つ胴落としを敢行した記録が残っている。






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Last updated  2015年01月15日 03時21分28秒


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