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「生の欲望の発揮」とは、よりよく生きたいという自分の欲求に従って、実際に体を動かしていくことだと思います。いろんな人がさまざまに解説されていますが、私は次の4点を挙げたいと思います。1、 健康と生命維持への欲求健康で長生きしたい。安全を確保したい。子孫を残したいという欲求です。生きるために必要な食欲、性欲、睡眠欲などはすべてこれに入ります。そのためには、仕事、家事、育児、雑事などをきちんとこなしていくこと。森田ではこれを重視しています。日常茶飯事、雑事、規則正しい生活をするなどです。2、 良好な人間関係を作りたいという欲求ストレスのない温かい人間関係を築きたい欲求です。心の底から愛し、愛されたいという欲求です。そのために、石原加受子さんは、他人中心で生きるのではなく、自分中心で生きてゆきましょうと言われています。他人中心というというのは、いつも他人の言動を気にして、相手の顔色をうかがったり、相手に合わせていく生き方です。彼が迷惑するから、彼が困るから、彼には時間がないから、彼が嫌がるからなどの理由で、電話をかけることを我慢したり、自分の気持ちを抑え込んだりすることです。また、昼時間になりさあ昼ご飯を食べに行こうと思った時、同僚からちょっとこの仕事を手伝ってくれないといわれたとします。自分は昼ご飯を食べたいのにその気持ちを我慢して相手の意向に沿った行動をとる。これも他人中心の行動だと言われています。他人の気持ちを思いやるということは、悪いことではありません。良いことです。肝心なことは順序を間違えてはいけないということです。自分中心というのは、自分の感情、気持ち、欲望、意志を第一に優先するということです。どんな状況でも、自分の気持ちを大事に考えるということです。私たちが生きていくのが苦しいときは、いつも他人中心になっています。他人中心は、自分を否定し、無視し、抑え込み、我慢し、耐えています。自分をないがしろにして、他人の人生を生きていこうとすると、自分の意思ではないので苦しくなるのだと思います。森田理論で、自分の感じから出発する。自分の好き嫌い、人情から出発する。そのあとで、理知で調整していく。この原則を無視すると人間関係のストレスが高まってきます。3、 課題や目標を持って達成してみたいという欲求好奇心に沿って、興味のあることに取り組んでみる。困難や障害物を乗り越えてコツコツと努力してゆきたいという欲求です。自己成長、自己実現の欲求です。また自分の能力を高めたいとか、人に認められたいといった欲求です。こういう状態は生きている充実感に満ち溢れています。4、 味わい深い人生を楽しみたいという欲求五木寛之氏曰く。「私たちは日常の中で自分の好きなこと、そのことが自分にとってすごく気持ちがいいとか、自分が幸福感を感じることをもっと大事にしないといけない。そんな小さな幸福感も、こんなきびしい時代に、私たちに生きる力になっていくのではないか。」神谷美恵子さん曰く。審美的観照(自然芸術その他)、あそび、スポーツ、趣味的活動、日常生活のささやかなよろこび。この中には、生きがいと本人すら意識しないものもあろう。毎日生活していることが楽しい。生きていること自体が生きがいである。これらの欲求を充足したいと思えば、普段から五感を磨き、感受性を鍛えてゆくことが大切です。そのためには、物質的な豊かさを追い求める態度をある程度抑制してゆくと効果があります。
2015.06.28
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岡田武史さんの話です。日本のサッカー選手は指示を守ることにきわめて忠実です。ボールを持った敵の選手をふたりでマークする場合、一人は接近してプレッシャーをかけ、もう一人はプレスをかけた味方が抜かれたときに備えて、少し離れた場所でカバーリングに回るのがセオリーです。でも相手のボールの持ち方が不安定なら、二人が同時にボールを奪いに行ってもいいんですよ。その時々で選手が判断すればよいのです。そうしないとせった試合では、とてもではないが勝てない。つまり基本はしっかりと理解しておくことは必要ですが、状況に応じて基本は臨機応変に変化させていく方がよいのです。ところが、私がそれを指摘すると、「いろというところにいたんですが」「じゃあ、ミスをしてもいいんですか」という選手が多い。つまり、指導者から「ここにいろ」という確たる指示か、そうでなければ「ミスしてもいいから思いきっていけ」という保証を欲しがっているんです。慎重策にしろ積極策にしろ、失敗したとは指導者による指示によるものだという責任回避のための保証です。どちらにしても、そこに自分の判断と責任でリスクをとりにいく自主性は存在しません。いつまでもその殻から抜け出せないようでは困る。またサッカーの監督が、選手を指示でがんじがらめにして、ロボットのように忠実に動かすことだと考えている限りJリーグでは勝てても世界水準の試合では勝てない。勝つためには、選手個々が、その時々の突発的な気づきや発見をベースにした行動や判断が重要になるのです。基本あっての臨機応変な応用力が必要なのです。この話は森田理論を深めるうえでとても参考になります。仕事でも家事でも指示された事だけを機械的にこなしていけばよいと考えて、イヤイヤ仕方なしに取り組んでいる限り進歩や発展は望めないということです。そのうち興味を失い、仕事や家事を続けることが苦痛になってきます。ストレスがたまり続けてきます。そのうち仕事から逃げたりさぼることばかり考えるようになります。四六時中そんなことばかり考えていると、生きていくのが苦痛そのものになってきます。岡田武史氏は基本はしっかりと身につけないといけない。でも一旦見つけたあとは、その基本を打ち破っていく応用力が必要になる。そのためには「ものそのもの」になって取り組んでみる。なにもかも忘れて一心不乱になってみるということです。そうしていると何らかの感じが生まれる。気づきや発見がある。すると意欲ややる気に火がついてくる。失敗してもいいじゃないですか。その失敗が肥やしになってまた進歩成長できるのですから。そこまでの選手は見ていてもすぐに分かる。森田でいうとそこにこそ生きていく意義が隠されているというところでしょうか。(勝負哲学 岡田武史&羽生善治 サンマーク出版 81ページより一部引用)
2015.05.24
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私たちはどんな状態の時を「幸せ」というのだろうか。私は4種類あるのではないかと思う。1、 アルコール、セックス、ギャンブル、過食、薬物などによる「つかのまの快楽」を味わうことによる「幸せ」。これらは適度な節度を保つことができれば、生活を活性化してアクセントとなる。でも刹那的な刺激を求めることばかりに偏っていると、依存症に陥って生活そのもの、健康や人間関係を破綻させてしまう。こういうものは森田理論でいう、精神拮抗作用で制御機能を働かせるということが大切である。成長の過程で制御機能は元々獲得してくるようになっている。ところが制御機能が働かない人がたまにいる。制御機能が元々働かない人は、そういうものには近づかないことが肝心だと思う。2、 つぎに宝くじに当たった。親の遺産が転がり込んできた。生命保険が転がり込んできた。土地の収用で大金が入ってきた。株や投資信託、FXの値上がり益により大金が入ってきた。親や知り合いの紹介により大手企業に就職することができた。生まれた時代、家、国に恵まれていた。日本に生まれたということは、ある意味「幸せ」なことである。こういう「幸せ」もある。運がよいのである。これらは、自分の努力によって「幸せ」が達成されたというわけではない。外部環境の状況によって幸運が偶然に転がり込んできたのである。しかし、宝くじで高額当選金を手にした人のその後の生活は、必ずしも順風満汎とはいかないようである。土地収用で大金が入った人がギャンブルに凝ってすべてをなくして、体調も悪くなった人もいる。投資でも一度でもよい思いをすれば、再投資して最後には大切な財産を失う人も多い。自分の努力ではなく、ラッキーな幸運が天から降って湧いて来たような場合は、自助努力がない分、逆な面に振れてしまう恐れがあることは心しておきたいものである。3、 自分が目標や夢に向かって地道な努力を重ねて、設定目標を達成することができた。困難な目標であればある程、得られる喜びは大きい。また自分の行動によって多くの人を勇気づけたり、利益をもたらすことができたというような「幸せ」。マズローの欲求5段階説によると、最高位にランクされている「自己実現」の欲求である。これは異論をはさむ余地はない。「生の欲望の発揮」に邁進している時は、自己実現の欲求そのものである。森田理論の行くつく先も同じところである。4、 大病をして健康のありがたさが分かる。会社が倒産したりリストラされてはじめて仕事を持っていた幸せに気づく。窮地に陥った時支えてくれた人の親切さが分かる。つつましい生活ながら、生活する中に小さな喜び、楽しみをひしひしと感じながら生活していることによる「幸せ」。例えば、道端に咲く名もない花に心動かされる。あるいは他人のちょっとした思いやり、心遣い等に対して自然と感謝の気持ちが湧いてくる。これらは最低限の生活を経験することによる幸せではなかろうか。私は1、2、3に比べてはるかに幸せ度は高いのではないかと思う。そのためにはまず、小欲知足、我唯足知という生活態度を維持していることが必要であろう。我々神経質者の特徴は、心配性である。裏を返せば感受性豊かな人である。感受性を高めるためには小欲知足、我唯足知という生活態度を堅持することがとても有効である。次に、いつも投稿しているように、日常茶飯事、雑事を大切にして「ものそのものになりきる」という生活態度を維持することだと思う。感じの発生、気づきや発見、意欲ややる気の高まりという段階を踏んで生活していくこと。これが幸せに生きること言うことだと思う。実現できると「幸せ」の質が全く違うものになると思う。
2015.05.07
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森田先生は「人生の目的は、限りない進化発展であり、その目的に達する方法手段は努力である。従って、人生の目的は努力ということができ、人生の実際もこの努力である。そして、生物はみな快を求め、不快を避けようとして機能を発揮している。これが努力である。」(「恋愛の心理」より)運命はただ耐え忍ぶばかりがよいのではなく「生の欲望(向上発展欲)」に乗りきって、粘り強く、切り開いていくものである、という森田療法の根底に流れている教えを貫徹することが大切である。直す必要のない神経質の症状を、何としてでも治さなければならないと、無駄にエネルギー(時間とお金、気力と体力、等)を使い果たして、人生をむなしく過ごしてしまうのではなく、せっかく人として生まれたのだから、二度とないあなたの人生がかけがえのないものとなるよう生命を燃やし、少しでもよいから世のため人のためになるような活動ができ、日々の生活がさらに充実し、具体的・建設的に進んでいくように努めていきましょう。(生活の発見誌26年10月号の61ページより引用)どちらも生の欲望に沿って生きていくことの重要性が述べられています。この「生の欲望の発揮」を無視しているとどうなるのか。まず意識や注意が外に向かわずに内へ向いてきます。いわゆる自己内省してきます。そして課題や問題点、夢や目標に向かって努力している人をあこがれを持って眺めるようになります。イチロー選手、黒田博樹投手、錦織圭選手などです。その人たちを参考にして自分も努力精進して成長したいという気持ちはほとんど湧いてきません。むしろその人たちと比較して自己嫌悪、自己否定で自分の存在自体を許せなくなってしまうのです。次にカリスマ的な強いリーダーの登場を待つようになります。自分のアイデンティティを確立していない。自分の進むべき道を確立していないので、そういうリーダーのもとに引き寄せられてしまうのです。リーダーの取り巻きとなり、リーダーの指示通りに行動するようになります。自分の意志や主体性はないのです。そういう仲間集団に所属していないと不安で仕方なくなるのです。リーダーは人格者ばかりとは限りません。ヒットラーのような独裁者の後についていくと自分の人生はめちゃくちゃにされてしまいます。最後に、そういう人たちが寄り集まって共通の攻撃対象を作り上げていくのです。学校でいえば、その場の空気を読んでまとめ上げるリーダー的役割を持った人のまわりに人が集まります。リーダーとその取り巻き集団ができます。子どもたちはどうにかしてその仲間に加わろうと努力します。孤立することは耐えられないからです。でもどうしてもその場の空気を読めないで、自分勝手な行動をとる子供がでてきます。当然仲間に入れてくれません。みんなでその子どもを無視したり、あからさまに排除しようとします。一匹狼的に生きていけるような人は問題はありません。問題は孤独で一人ぼっちにされた子どもたちです。仲間に溶け込めない子どもたちです。こうなるとすぐに学校に行けなくなり、不登校につながります。仲間に加わっている子供も何かのきっかけでいつ排除されるかもしれないので、気を抜くことはできません。こうしてみんなびくびくしながら、人の思惑に右往左往する人間になっていくのです。森田理論ではこの「生の欲望の発揮」ということをことさら重要視しています。日常生活を丁寧に規則正しくすることから、目標や夢を持つことまで実に幅広いことを言っています。ここが森田理論の土台部分となります。
2015.04.29
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神経質の人はプライドの高い人が多い。自尊心、自意識、自己愛、選民意識のことである。誇り高き人々なのである。森田では唯我独尊という言葉がある。どんなに困難なことがあっても、自分に対する確固たる信頼や自信が持てれば立ち向かっていけるはずである。他人にどういわれようが、どう扱われようが右往左往することはないはずである。ところが、症状で苦しむような人は、他人から注意、非難、拒否、無視、否定されるとナメクジに塩をかけたみたいにたちまち萎縮してしまう。これは仮面をかぶって生活しているようなものだ。仮面をつけて一見誇り高き自分を装ってはいるが、仮面の下には他人の言動に振り回されて苦しんでいる弱弱しい自分がいる。そういう人の特徴は、本来外部に向かうべき意識、目的や目標に向かうべき行動が、内部や自己内省に向かっているのである。こういう人の特徴として、「生の欲望」がとても弱い。そういう気持ちがあっても、執着性が弱い。困難や障害に会うとすぐに腰砕けになってしまうのである。努力をやめるといったん楽になるのですが、それは麻薬みたいなものです。すぐに効果が無くなり、その後は自己嫌悪、自己否定で苦しむことになります。腰砕けになった時の自分の注意や意識はどこに向かうのか。2つある。一つはふがいない自分の心や身体に向かう。もう一つは、努力を放棄して自分の求めていた最終的な理想を夢見るようになるのである。自己否定と「かくあるべし」に振り回されて葛藤が深まり、苦悩するようになるのである。これはもとはと言えば「生の欲望」の取り組みが甘すぎるのである。森田の「生の欲望の発揮」は難しいことはありません。雑事を丁寧にする。日常生活に真剣に取り組む。規則正しい生活を続ける。これが基本です。土台です。何だそんなことかと思われるかもしれません。取り組もうと思えば誰でもできることです。でも1年365日継続することはとても大変なことです。そうしようとする強い意志が必要です。これを日々きちんとこなしていく。まずはこれから手をつけて発展させていく態度が大切です。
2015.04.05
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ソチオリンピックで浅田真央さんはショートで16位と出遅れました。この時点でライバルキム・ヨナ選手に大きく引き離されました。メダルの可能性もなくなりました。こうした場合あなたならどうするでしょうか。私ならあっさりとあきらめて、フリーは棄権するかもしれません。次の世界選手権に標準を合わせるでしょう。フリーを上手く滑れるわけもない。なんといっていっても、優勝候補といわれていたプライドに傷がつく。みじめな姿を全世界の人に見られるのはなんともやりきれない。浅田選手も寝つかれなかったことでしょう。でもみなさんご存じのとおり浅田選手は滑りました。それもフリーでは自己新の142.71の得点をたたき出しました。トリプルアクセル、その後フィニッシュまでの6種類8度のジャンプをすべて成功させました。総合順位は6位まで上げてきました。信じられません。この演技に世界中の人が感動しました。どういう心境の変化があったのでしょうか。きっとフリーは今まで準備したことをそのまま出しきることだけを考えていたのではないでしょうか。それにしても多くの人に勇気を与えました。それを称えた歌があります。DREAMS COME TRUEのAGAINです。失敗にくじけることなくもう一度立ち上がれというような意味でしょうか。この歌の歌詞にこんなことがあります。私の好きなところを紹介します。ショートで意気消沈した、浅田選手を励ますような歌です。風には負けて、雨には泣いて、転んで起きて、ここへ来たよねひとりで悩んだ時も、流されるしかなかった頃もその時やれる精一杯で超えてきたのをみんな知っている何にも考えず、ただ楽しかっただけの頃より今は何倍も強いから、迷ってその度、ぐっと進んでくる嵐に顔を向ける姿も、陰でこぼした涙も全部もう一度、今のあなたで、やりきった、あの涙をもう一度、今のあなたで、悔いなんてまるでない、あの最強の笑顔をAGAINこれは森田に通じる人生の応援歌ですね。
2015.03.27
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2008年6月青森県弘前市のリンゴ園に「ひょう」が降った。リンゴはピンポン玉ぐらいの大きさだった。大きくなって出荷すれば、表面の傷は小さくなり、中身の味はまったく変わらないのだという。だが、表面に少しでも傷のあるリンゴを都会の消費者は買わない。そうなるとジュースにしかならない。ジュースにするリンゴは二束三文となる。それによって得られる収入は、冬の暖房費にしかならない。生活できない。農協への借金が返せない。工藤貴久さんもそんなリンゴ農家だ。工藤さんの農園では328本の木すべてに「ひょう」が降った。甚大な被害だ。このままでは3000万の借金を抱え込むことになる。この困難な状況に、工藤さんはどう立ち向かっていったのか。工藤さんはこれまで土作りをしておいしいリンゴを作って、それを消費者に直接販売していた。その消費者に向けて宣伝用チラシを作った。工藤農園は周囲の農家の中でも被害が大きかった。つまり「ひょう」の的中率が高かった。それを逆手にとって「予想的中リンゴ」と名づけて、年末ジャンボ宝くじを一枚入れて販売したのである。「予想的中リンゴ」はすべて完売したそうである。正直なところお客さんに泣きついて「助けてください」とすがりつきたいくらいだったという。しかし相手はお客さんだ。泣きつくわけにはいかない。売り手と買い手という距離を保ちつつ、自分の窮状を訴える方法はないものかと考えた。そんな中で「予想的中リンゴ」は縁起がよさそうだとひらめいたのだという。これはまさにピンチをチャンスに変えたのである。ピンチの隣にはチャンスが眠っている。そのいい例である。普通は悲観的になり、自暴自棄になるのではなかろうか。事実自殺者が何人もでたそうである。神様は自分が乗り越えられないような困難や問題、運命は与えないという。そんな厳しい状況の中でも常に前を向いて打開策を見つめていく生き方。口で言うほど簡単ではない。いつもそんなことはできない。何回失敗しても、くじけそうになってもよい。悲観して人生を嘆く期間があってもよい。でもいつかここに戻ってくることが分かっていればよい。森田を学習するとそのことが分かってくると思う。森田が目指している「生の欲望の発揮」を放棄すると、すぐに「かくあるべし」人間に陥ってしまう。「かくあるべし」人間は自分を苦しみの人生へと引きずりこんでしまう。森田理論学習で理解してほしいところである。(こころが折れそうになったとき 上原隆 NHK出版参照)
2015.03.07
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意欲とかやる気、モチュベーションの高まりはどうしたら出てくるのか。この点森田理論での説明は明快です。本来人間の行動は、まずそのきっかけとなる外部の出来事があり、次にそれに対して感情が湧いてきて、最終的に意欲ややる気に火がついて、自主的、積極的な行動へとつながります。たとえば、火事になった時のことを考えてみてください。建物の中にいると火災や煙で身の危険を感じます。そこで急いで脱出という流れになります。また、「腹がへった」という出来ごとに対して、「ご飯をたべたい」という欲求が湧いてきます。それから「食事を作るか食べに行く」という行動につながります。つまり「食べる」という行動には「腹が減った」という動機が関わっています。でも動機が直接的に行動へと結びついているわけではありません。あくまでも「ご飯を食べたい」という「自分の感情の発生や高まり、意志の力」が介在しているのです。ここで注目していただきたいのは、人間が生きていく上において、「動機の発生」、「感情の高まり」は、やる気や意欲の発生にとても重要な役割を果たしているということです。意欲的、自主的、積極的、創造的行動においては、必要不可欠なものといえます。「かくあるべし」でこうしなさい、ああしなさいと他人からの指示を受けて行動するということは、「動機の発生」もない、「感情や意志の発生もない状態」で、いきなり「行動を押し付けられる」ということになります。これではやる気や意欲に火をつけることはできません。最近コーチングの重要性がよく叫ばれます。テニスの錦織圭選手がマイケルチャンコーチの指導を受けて、なかなか破れなかったトップテンを果たしました。現在の世界ランキングは5位です。上背で見劣りのする錦織選手の活躍は痛快です。マイケルチャンコーチは、錦織選手のメンタルサポートを重視しました。つまりこんな言葉をかけて錦織選手を刺激し続けました。格上の選手のプレーを羨望のまなざしで見ていてはたして試合で勝てると思いますか。体格のよい選手と同じようにコートの後ろに構えていて互角の勝負ができますか。つまり錦織選手に刺激を与えて自ら考えさせたのです。その結果、自ら現状を変革するアイデアを錦織選手が考え出してきたのです。意欲ややる気に火がついたのです。これは森田理論の教えている通りだと思います。
2015.02.02
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論語に「君子は和して同ぜず、小人は同じて和せず」という言葉がある。森田先生もこの言葉を引用している。修養のすすんだ人は、人の気持ちを思いやったり、協調して仕事や家事などをなすことができる。でも、決して人の道に外れたこと、道理にはずれたことに同調することはない。また自分の正直な気持ち、意見、意志、希望はしっかり持っている。安易に妥協して、相手に合わせるということではない。相手の思惑に合わせて我慢したり、耐えたりすることではない。ここで大事なことは、自分の感情、五感の感覚、気持ち、気分、思い、体の感覚、欲求、意志、希望を大切にすること。それらを第一に優先して考え、行動していくことではなかろうか。自分の気持ちが楽か、自分の体が楽かを重視する。自分の気持ちに正直に向き合うということです。どんな自分であっても認める。理想としては自分を大好きになる。自分のどんな感情、どんな気持ちも受け入れて味わい、実感する。自分の意志を尊重し、それを実感する。自分のために、自分を自由に表現して生きる。そのためには、自分の気持ち、感情に気づく自分の○○したい。○○したくない、といった欲求に気づく自分の「好き嫌い、快、不快」といった感情を基本にする相手よりも、自分の意思を優先する自分の気持ちを基準にして「断る、引き受ける」を心から認める。これは自分中心の生き方です。森田で言う「生の欲望の発揮」です。まずは車のアクセルを踏み込むことに力を入れる。これが重要です。我々は少しスピードがでればすぐにブレーキを踏みこむ習性があります。だからこの際ブレーキをかけることは忘れてもよい。アクセルを思い切って踏み込むことによって、はじめてバランスがとれた正常な状態に戻っていくのだということを意識するべきだと思います。我々の当面なすべきことは、ブレーキをかけることではありません。アクセルを思い切って踏み込むことなのです。
2015.01.31
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私の田舎のお寺の住職さんは、毎月その時々の思いを手書きの文章にして檀家や近所の人に配布されている。その中にこんな話をされている。中国で、あるお金持ちの夫婦に一人の男の子がいました。父親は自分の子どもに、この生活がどんなに有り難いことかを知らせるために、3日間貧しい田舎の家に預けることにしました。都会の快適な生活が当たり前になっているこの子には、田舎の生活は3日間が限度だろうから、3日間いれば、今の生活がどんなに幸せか思い知るだろうと思ったからです。3日間、田舎の生活を体験した息子が帰ってきました。お父さんは息子にいいました。「ここでの生活とは随分違っただろう」すると息子は答えました。「パパ、その通り全く違っていたよ。パパ、家にはプールがあるけど、田舎にはもっと大きな池があったよ。水がとてもきれいでそこには魚がいっぱいいるんだ。パパ、家には犬が1匹しかいないけど、田舎の家には4匹いたよ。それも首輪をなんか付けてないで自由にどこでも走り回っているんだよ。パパ、うちの家は塀に囲まれているけど、田舎の家には塀なんてないんだ。どこまでも田畑や野山が見渡せるんだよ。パパ、家では音楽はCDで聞くけど、田舎は鳥のさえずりや風の音が生できこえてくるんだ。パパ、家ではパソコンや携帯電話で連絡しあうけど、田舎では人と人が直接話し合うんだ。身振り手振りでね。パパ、家ではパパが忙しいから、いつもママと二人で食事するけど、田舎の家は違ったよ。食事の時は近所の人まで来て、わいわい楽しく食事するんだ。パパ、僕はとても貧しいところにいたんだということを思い知ったよ。でもパパ、最高の3日間ありがとう。」人間だれしも便利で裕福で快適な都会の暮らしにあこがれます。自分では何もしないで楽をしたがるのです。現代ではお金さえあれば、そうした生活を誰でも手に入れることができます。でも、豊かで快適で便利な生活なのに、精神を病んでうつになったり、自殺者が多いというのはどういうことでしょう。反対に、アフリカのその日の食べ物にありつけるかどうかという子どもたちの方が活き活きとしています。目の輝きが違います。飢餓や病気で亡くなる子どもは多いですが、精神を病んで自殺する子どもはいません。神経症になる子どももいないでしょう。これは一体どういうことでしょうか。それは日々の命をつないでいくために懸命に生きているからではないでしょうか。我々はそんなにあくせくと食べ物を求めて働いていません。そのため考える時間が多すぎるのでしょうか。我々は考え方を改めないといけないのではないでしょうか。物質的生活の豊かさを追い求めることは、少しセーブする必要があるのではないでしょうか。そして、自分の身の回りの日常茶飯事は人に依存しないで、自分で賄っていくことが大切なのではないでしょうか。お金を払って人任せにしていると、自分の精神状態はしだいに病んでいくのではないでしょうか。森田ではこのことを「凡事徹底」といいます。これは人間の生きる原点なのかもしれません。田舎の住職さんは、このあたりのことがよく分かっておられる人だと思いました。
2015.01.03
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シンガーソングライターの植村花菜さんのお話です。将来結婚し、子どもが生まれ、子どもに物心がつき、自分の夢を持つ。パン屋さんになりたい、お花屋さんになりたい、作家になりたい。あるいは私のように歌手になりたいというかもしれない。子どもはいろんな夢を持つだろう。そのときに私は、子どもの夢をちゃんと応援してあげられるお母さんになりたい。そのためには、自分自身がんばっていないと、ちゃんと応援してあげられない。自分ががんばり、よくても悪くても何らかの結果を出すところまでやっていないと、大きな背中を見せてあげられない。「お母さんは、8歳の時歌手になりたいと思って、一生懸命、歌の練習をして頑張ったのよ。そして、夢をかなえることができたのよ」と胸を張って伝えたい。夢を叶えられるか、叶えられないかは、正直、それほど重要なことではないと思う。もちろん、夢はかなっている方が説得力はあるのだけれど、夢を持って、そのためにどれほど努力し、どれほど頑張ることができたか、それによってどんな結果が出せたかが大切だ。たとえよい結果でなかったとしても、がんばったこと、努力したことで得たものはたくさんあったはず。だからとにかく、「あなたの信じた夢を追ってがんばりなさい」と、子どもにちゃんと言えるお母さんになりたいのだ。そんなお母さんになりたいから、これまでも、人に後ろ指をさされないような生活をしようと思ってきたし、幸せな家庭を築くために、もっともっと成長してゆきたい。これは森田理論の生の欲望に沿った素晴らしい生き方だと思い、ここに紹介いたします。(トイレの神様 植村花菜 宝島社 169ページより引用しました)
2014.12.20
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「陽はまた昇る」という映画がある。この映画は実名で企業名が出てくる。松下電器、ビクター、ソニーなどである。VHSという家庭用ビデオの開発の物語である。主人公の加賀谷静男はビクターの事業部長だった。西田敏行が演じていた。会社の経営は悪化しており、リストラの嵐に巻き込まれていた。会社の存亡がかかっていた。この分野ではソニーが一年も前にベーターマックスを発売していた。通産省もベーターマックスの1本化を進めていた。すでに時遅し。勝ち目がないように思えた。ただ唯一の欠点はベーターマックスは録画時間が1時間と短かった。そこでVHSは2時間録画を目指して開発を進めた。そして完成すると、開発技術を惜しげもなく公開していった。その後日立、三菱電機、東芝などの日本の電気メーカーを二分する戦いとなった。しかしその後松下電器がVHSを採用するに至り、ソニーはついにベーターマックスから撤退していった。この主人公には燃えるような情熱があった。脆弱な会社でリストラ、経営の黒字化、新商品の開発など大きなハードルが次から次へと襲い掛かった。自ら第一線の営業マンとなり販売の拡大に取り組んだ。さらにVHS開発を指揮していったのである。この映画を見ていてアップルのスティーブ・ジョブズと一緒だと思った。彼も燃えるような情熱を持っていた。そして強くて明確な目標、ビジョンを持っていた。自分のやりたいことに集中して妥協を許さない強い意思を持っていた。そして多くの社員に一つの目標に向かって努力させるリーダーシップを持っていた。どれひとつ欠けても成功はおぼつかない。これは生の欲望の発揮を目指している我々も参考になるのではなかろうか。
2014.11.05
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スーパーチャイルドという言葉があります。スーパーチャイルドとは岡本太郎やスティーブ・ジョブズのような人を言うそうです。ごく限られた大人の人です。チャイルドは幼い子どものことです。両者に共通するのは、どちらも好奇心旺盛で活動的なことです。特に新しいもの、珍しいものには目がありません。どんなことにも果敢に挑戦する熱意も意欲も素晴らしいものがあります。ただしチャイルドには、残念ながら成功や失敗の体験があまりありません。反対に豊富な様々な経験をスーパーチャイルドは持ち合わせています。スーパーチャイルドは人生の艱難辛苦を数多く経験しています。それらは記憶として大脳側頭葉にたくさん蓄えられています。この記憶は意志の力で消し去ることはできません。普通の大人とスーパーチャイルドはどこが違うのでしょうか。普通の人も豊富な経験は数多く経験しています。ところがその経験がマイナスに働いているケースが多いのではないでしょうか。世間の常識や思惑、自分の欠点、過去の失敗やミスにとらわれ過ぎて身動きできない状態に陥っているのではないでしょうか。スティーブ・ジョブズはアップルコンピーターの設立者であるにもかかわらず、無情にも仲間から解雇されました。彼にとっては人生最大の危機であったことだろうと思います。しかしその後アップルが経営危機に陥った際、再びアップルの求めに応じて戻ってきました。そしてアップルの驚異の再建を成し遂げたのです。これは音楽事業に参入したこと、iPhoneの発売が大きく寄与しているようです。特にiPhoneは世界中の人に受け入れられ、アップルの総売り上げの50%を占めるまでになった。彼無くしてアップルの再建はなかったと思われます。彼は2011年に膵臓がんで死去している。それが彼の人生にとっては唯一の誤算だった。しかし、彼の生涯はスーパーチャイルドの生き方そのものであった。好奇心を持って人生に立ち向かったこと。また過酷な運命に翻弄され続けたにもかかわらず、常に挑戦の人生を貫き続けることができたこと。これこそは森田理論学習では最高の生き方だと思います。我々神経質者は彼の生き方を参考にして少しで近づきたいと思います。
2014.10.15
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2014年のノーベル物理学賞は青色発光ダイオードを(LED)を開発した赤崎勇・名城大学終身教授、天野浩・名古屋大学教授、中村修二・米カリフォルニア大サンタバーバラ校教授に決まった。赤崎教授は記者会見で若い人に、「好きなことをやりなさい」と言われていた。成功するとか偉くなるとか、金儲けになるとかいうことではなく、自分の好きなことをやっていれば、失敗してもめげないといわれていた。自分の好きなことに情熱を燃やすということは、森田では「生の欲望の発揮」と言います。天野教授は窒化ガリウムという物になるのかもわからない物質に目をつけて、難しくて他人が研究から手を引く中、長期間、粘り強く基礎研究を続けられた。試行錯誤、暗中模索の研究の過程で、失敗の数は3000回以上に上ったという。そのあとでの、たった1回の成功であったといわれている。森田でいう執着性がいかんなく発揮された例である。途中で投げてしまえば、永遠に失敗という結果だけが残る。あきらめなければ失敗ということはない。挑戦しているという状態が続く。その状態は努力即幸福である。そして最後に成功すれば、すべての失敗は消去される。それはオセロゲームで劣勢な状況なのに、最後に大逆転で勝利を掴むようなものである。自動車の飛び込みセールスでも確率的には100分の1ぐらいと聞いたことがある。その30倍の報われない研究にもかかわらず、情熱と努力を積み重ねることができたということが驚きである。森田理論の「生の欲望」との関連でいえば、目標に向かって努力している限り神経症に陥ることはない。ところが途中で苦しいからといってあきらめてしまうと、自分のふがいなさを責めるようになり、注意が自己内省に向かうので神経症に突き進んでしまう。中村教授は若い人へのメッセージとして、何が自分は一番好きなのかを見つけることが大事といわれていました。そのためにはいろんなことにアンテナをはり、好奇心を持って対応すること。尻軽に手を出して挑戦してみることが大切だと思います。そのうちに、自分の好きなことを見つけることができるのではないでしょうか。またその際、「ものそのものになりきる」という姿勢で丁寧に取り組むことも大切だと思います。すると気づき、アイデア、ひらめきが発生して、創意工夫や楽しみにつながり、行動に弾みがつくことになります。これを継続することによって、後で振り返ると自分にとって天職に巡り合ったということになるのではなかろうか。森田理論学習で見ても参考となる快挙であった。
2014.10.14
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月刊誌「生活の発見」の27ページにこう書いてあります。不安の裏側には欲望がある。だから、不安はそのままにして、欲望にそって行動しましょう。「生活の発見会」では耳にタコができるほど言われます。でも、自分の欲望が何なのかよく分からない。欲望というと、何か立派な価値のあることでないと欲望と言えないのではないか、と構えてしまう人もいるようです。なるほど。森田先生の言われている欲望は次のようなものです。1、病気になりたくない。死にたくない。長生きしたい。2、よりよく生きたい。ひとに軽蔑されたくない。人に認められたい。人に褒められたい。3、いろんな知識を広めたい。勉強したい。4、偉くなりたい。幸福になりたい。5、向上発展したい。つぎに生活の発見会相談役の山中先生は、欲望について次のように指摘されています。「われわれが欲望と呼んでいるものの中には、世間から押し付けられたいろいろなものが、入ってきている。森田先生は、人並みに自動車が欲しいとか、世間的にもっともらしい配偶者を得たいなどというのは、かならずしもその人のほんとうの欲望ではない、といわれます。いわゆる神経症的な欲求なのか、ほんとうの自分の欲求なのかを見極めるよう心がけて、あまり世間常識にふりまわされないことが大事です。」普通世間では欲望というと、食欲、物欲、性欲、睡眠、安全欲などのことを指しているのではないでしょうか。これらは人間の基本的・生理的な欲求であると思う。山中先生はこういうものは森田でいう本来の欲望ではないといわれているのです。たしかに物欲、所有欲の果てしない追及は、我々の長所である豊かな感受性がどんどん削られていくことになります。少々のことでは感動、喜びを感じることができなくなります。また低次の欲望にしがみついていては、高次の欲求である「自己実現」「向上発展」等の本来の欲望の発揮に向かうことはありません。山中先生は、そうしたところに森田の言う「生の欲望」はあるのではないかと指摘されているのです。自分の持っている物、備わっている能力を活かして、一歩高い夢や希望、目標を設定して、命あるかぎり前を見つめて挑戦していくこと。こういうことではないでしょうか。自分にないものを求めるのではなく、今現在の状況の中から出発することが大切です。森田でいう努力即幸福ということです。たとえば凡事徹底という言葉があります。自分のできる日常茶飯事や雑事は、なるべく人任せにしないで自分が手足を出して処理する。物そのものになりきって丁寧にこなしていく。そんな小さい欲望なんてと思われるかもしれません。神経質者はともすれば、大きな夢、希望、目標を設定しがちです。クリエイティブな創作活動、大勢の人から注目を浴びるようなことばかりに目が向きがちです。でもそれらはどこから手を付けたらよいのかわからない。反対に小さなことは馬鹿にして最初から無視してしまう、という人が多いのではないでしょうか。神経質な人はホームランバッターよりも、バントやシングルヒットを打つことが向いているように思います。それは感受性が強く、いろんなことによく気が付くという特徴があるからです。その特徴を活かさない手はありません。そのためにはちょっとした気づきやアイデアをきちんと捕まえなければなりません。メモやボイスレコーダに記録しておかないとすぐに忘れ去ってしまいます。結果として自分の長所は活かされないことになってしまいます。大きな夢や希望、目標は、小さいハードルを一つ一つ超えていくうちにしだいに見えてくるものです。とりあえず、欲望は常に自分の身の回りに存在するということを忘れてはならないと思います。
2014.10.05
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生の欲望の発揮においては、意欲とかやる気、モチュベーションの高まりは不可欠である。神経症やうつに陥るとこれらがほとんど機能しなくなる。これを最近の脳科学の立場から説明してみたい。脳科学者の池谷裕二さんによると、その決め手は「淡蒼球」であるという。大脳基底核にあります。青い色をしている器官であるという。これが電気信号によって活性化すれば、意欲が高まり、やる気につながるのである。しかし淡蒼球は残念ながら意思の力で活性化することはない。外部から刺激することが必要なのだ。池谷氏によると淡蒼球を活性化するために4つの方法があるという。まず体を動かすことです。面白い実験があります。ペンを口にくわえてマンガを読みます。くわえ方に2つあります。一つはストローのように口をすぼめてくわえる。もう一つはペンを噛んで加える。これは有名な実験だそうです。噛んで加えると歯が見えて笑ったような状態になる。口をすぼめてくわえるとしょんぼりした状態になります。マンガにもよりますが、顔が笑った状態で読むほうがより面白く感じるというのです。だから不快なことがあっても、笑い顔を無理して作ることは意味があります。顔さえ笑えば、脳の淡蒼球も後からついてきて活性化する。意欲もやる気も出てくるのだ。笑う門には福来る。やる気もチャンスもじっと待っているだけではだめです。とにかく体を動かすことが大切です。特に森田理論では、凡事徹底といって、日常茶飯事を丁寧にこなしていくことを勧めています。2番目。いつもと違うことをすることだそうです。マンネリを打破するということです。スピードスケートの清水宏保さんは、「筋肉は結構賢いのです。それにずるいところがある。何度も負荷を与えていると、筋繊維に組み込まれた知覚神経が学習してしまって、それほど変化しなくなってしまう。だから毎年、トレーニングの内容は変えています。スポーツ選手が間違いを起こしやすいのは、自分に満足してしまって同じメニューを何年もずっとやってしまうとか、昔調子がよかったころのものをやってしまおうとするから、スランプに陥ってしまうのだと思う。常に新しいことに挑戦してゆくと、それが自信にもなる。」と言っています。マンネリ化する、退屈で手持無沙汰であるというのは、やる気や意欲が減退してきます。マンネリで意欲が衰えてきたら、新しいことに挑戦することです。森田では目の前のやるべきことは30分から1時間経過すると、別なものに取り組むというのがあります。3番目。目標を達成したときはご褒美を用意する。多いのは食べ物。飲物。欲しいものを自分にプレゼントする。その他では、人から評価されること。ほめられること。あるいは自分で目標を持って達成感を味わうこと。小刻みにゴール地点を設定して、そのたびごとにご褒美を用意しておくことです。わざと自分を苦しい状態に追い込んで、そこから抜け出すというのはとても良いことです。人から評価されたり、褒美があれば、弾みがついてますますやる気に火がついてきます。4番目。形から入ってなりきること。スキーでも服装を決めて、道具もきちんと決めるとやる気がみなぎってきます。魚釣りでも、帽子、サングラス、服装、靴、釣り道具などをきめて海に行くと、それなりに意欲がみなぎり、なんとなく釣れるような気がします。動作そのものがきびきびとして、様になってきます。森田では、「外相ととのえば内相自ずから熟す」といいます。靴が整理されてくると、心も整理されてくるというのも同じことです。淡蒼球は、それ自身は活性化しませんが、身体の動きに応じて次第に活性化してきます。意欲が出ない、やる気がわいてこないというときは、以上の4点を試してみてください。きっと良い結果がついてくると思います。(のうだま 上大岡トメ&池谷裕二 幻冬舎参照)
2014.09.10
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脳科学者の茂木健一郎さんがある企業で講演をした時のことです。「あなたの人生には、これから先もいろいろと不確実なことが起こります。あなたはそれを楽しみたいと思いますか、それとも不安に思いますか」その時ほとんどの人は不安だと答えました。これは脳が不健康な状態だといわれるのです。これを突き詰めていくと、「あなたはもし20代に戻れるとしたら、もう一度人生をやり直したいと思いますか。あるいは生まれ変われるとしたら、再びこの地球に生まれてきたいと思いますか」という質問にもなると思います。いやもう決して20代に戻りたいとは思いません。ましてや生まれ変わるなんてとんでもないことです。このまま歳をとって早く死にたい。もう生きていくのはこりごりです。あの世に行ったら、もう生まれ変わらずにそのまま暮らしたい。茂木さんは、日本人全体が不確実を避けようとしており、不確実性に希望を抱くことができなくなっているということです。何が起きるか分からない不確実な状況が、楽しみであるというよりも、不安や恐怖であるというのが今の日本人の姿だとすれば、日本人の脳は、大変不健康であるといわざるをえません。こういうふうに考える人は、自分の理想がこの世で実現しなかった人かもしれません。努力の途中で夢を早々とあきらめてしまったのかもしれません。そしてリスク、不安、恐怖を避けて、いつも安定した安全な道を歩もうとしたのかもしれません。将棋でいえば防御一辺倒で負けないことばかりを考えていたのでしょう。将棋の目的は相手の王将をとることです。その気持ちがないと何のための将棋なのか。目標をすっかり忘れて、迷路に迷い込んで抜け出すことが困難になってしまったようなものです。ただ生命維持が唯一の目的のようなものです。守勢一辺倒の人生は苦しいばかりであり、将来への希望は見いだせないと思います。生きていれば楽しいことうれしいことも起きます。反対に苦しいこと、悲しいことも数多くあります。いいことばかりの人生、悪いことばかりの人生はあり得ません。喜怒哀楽は誰にもバランスを持って訪れます。要はこれらに対してどう立ち向かっていくのか。その向かい方が人生を楽しめるのか、不安になるのかの境目になると思います。これから将来起こるであろう様々な出来事に対してスリルを持って楽しむ希望やゆとりを持てるかどうか。あるいは失敗やミスに対して、それを将来に活かしてみたいという意欲が持てるかどうか。また好奇心を持って、いろんなことに果敢に挑戦してみたいという情熱を持てるかどうか。森田理論学習でいう生の欲望の発揮に向かってどれだけ真剣になれるかどうか。ここが肝心なところとなります。そしていつも運命を切り開いていく姿勢が問われているのだと思います。生の欲望の発揮とはどういうことなのか、森田理論学習の中で深めていただきたいと思います。(脳と心の整理術 茂木健一郎 PHP参照)
2014.09.08
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集談会などでも老人介護の話はよく出てきます。介護のために仕事を辞めた。毎日つきっきりで、食事の準備、入浴、体を拭いてあげたり、下の世話、散歩に連れて行ったり、病院などの送り迎えなどをしている。それも自分の両親ではなく、夫の両親を何年も世話している人がいます。介護する人にとっては、大変な重労働であり、心身のストレスは想像を絶するものがあります。でも放っても置けないし、誰もが通る道なので仕方ないのです。これは子どもの当然果たすべき義務です。私たち日本人はそのことを疑うことなく自然に受け入れているようです。アメリカなどでは、アルツファイマーや下の世話をしなくてはならなくなると家族の手から離して、専門家に任せたり、専門施設に入れるのが一般的なようです。私が要介護状態になった時もそのようにしてもらうことが希望です。娘や妻に負担をかけるというのはどうも気が引けます。というより絶対に嫌だと思うのです。老人介護について森田理論ではどのように言っているのでしょうか。寝たぎりになったり、痴呆になった親の介護をするというのは、憂鬱な気持ちになるのは当然です。いやだいやだと思いながらも仕方なしに、食事の準備をしたり、世話をすることを勧めています。するとしだいに行動に弾みがつき、憂鬱な感情は流れて、親の気持ちが分かるようになります。つまり思いやりの心が出て来て、やさしくなれるものだといっているのです。私は、これは感情の法則を説明しているのだと思います。確かに感情は諸行無常、変化流動しています。一つの不快な感情、憂鬱な感情にこだわっていることはできません。どうにもならない感情はそのままにして、目の前の介護の仕事に目を向けていくことは何より大切なことです。すると今までの不快な感情、憂鬱な感情は流れて行ってしまうのです。この感情の動きと流れを体験することは極めて大切なことです。ある意味森田の根幹をなす考え方です。これは感情の法則で何度も学習したことです。これが実践できるようになることはとても意味のあることです。でもここで私があえて言いたいのは、自分の嫌だという意思、自分の素直な気持ちを大切にしましょうということです。いやだという気持ちを無視したり、抑圧したり、否定していると、いずれはその反動が来るのではないかと思うのです。それが自己犠牲の上に成り立っているとすると、とても大きなストレスになりますし、心身に多大な悪影響を与えてしまいます。この場合まず自分の気持ち、思い、意思を第一番にたてることだと思います。これが出発点です。これは森田理論でいう「生の欲望」をはっきりとさせるということです。自分中心の生き方を出発点にするということです。これがない状態で、不快な感情を受け入れるというのは本末転倒です。我慢して、耐えるというのと何ら変わりがありません。まず自分の意思がはっきりしている。でも現実に突き付けられた問題によって、自分の意思が捻じ曲げられてしまう可能性がある。そこに不安、恐怖、不快な感情が沸き起こってくるのです。こういう時は、あらゆる選択肢を列挙して、比較検討する必要があります。その上で最善の策を決定し実行する必要があるのです。この手順を踏む必要があります。すると、親の意思を確かめる。自分が介護する。兄弟姉妹で協力して介護にあたる。デイケアなどのサービスを利用する。老人ホームに入る。特別養護老人ホームに入る。グループホームに入所する。ヘルパーさんを頼む。などなどいろんな選択肢が出てくると思います。不安や不快な感情はすべて受け入れるのではないのです。不安に学び、前もって手を打たなければならないものがごく一部分あるということです。そのためには、普段から自分の気持ちや意思をいかに育てて行くのかということが大切なのです。普段から自分の気持ちや欲求について意識を持たないと、しだいに分からなくなってしまうのです。森田理論の土台というのは、生の欲望の発揮ということです。これを抜きすると森田理論は成り立たないということです。ここは微妙なところですが、きちんと整理しておく必要があるように思います。
2014.09.03
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田島隆宏さんという人がいる。出産時、頭頂部に内出血があり、生後20日に脳性小児マヒによる四肢障害となる。口と舌しか使えない。にもかかわらず、バッファロー号という電動移動車に横たわって元気に活動されている。プロのカメラマンである。「地上50センチ見た世界」からという写真展で有名になった人だ。今では花や虫を撮っておられる。その田島さんがこんなことを言われている。ぼくはわがままですから、人に迷惑をかけてもやりたいことをやる。障害を持った人の中には、それを負担に思っている人がいる。それはダメだよ。たとえば施設に入って1日中テレビを見たり、パソコンをやっている人がいる。自分が好きでやっているのならいい。でも手が使えないから、我慢してそうしている。外に出たくても、我慢しようとか、もっとパソコンでいろんなことをやりたいけど手伝ってもらわないとできない。じゃ我慢しようか。そういう人がほとんどだと思うんですよ。生きていくうえでは、みんな何かしら迷惑をかけて生きているわけですよ。そういう関係の中で、友情が育まれたり、愛情が生まれたりするわけですよ。時には利害関係で衝突したりもするけど。だからこれをやりたいと思ったら、やる。出来ない部分は人に頼んでもやる。やらないで後悔しても遅いですよ。そうやって生きれば、人生に悔いることはないと思うわけ。やっぱり一生懸命生きていることは、何かに夢中になって、それこそまわりのことも目に入らずやっちゃうことだと思う。ぼくは単刀直入に頼む。頼んで悪いなと思うと、逆に中途半端な他の味方になっちゃうでしょ。これはいつも他人の思惑を気にして、自分の気持ちや意思を抑え込んで生きている人にとってはショックな発言です。自分のできることは自分でする。出来ないことは遠慮なく人に頼む。そして希望や夢に向かって前進する意思を持つことが大切なのだなと思いました。森田理論でも自分の「生の欲望の発揮」が一番重要です。そのあとで、相手の気持ちを思いやって調整をしていく。その生き方で間違いないのだと思います。田島隆宏さんのホームページがあります。ぜひご覧ください。この投稿は「ぼくはここにいるよ」学研を参照しました。
2014.08.05
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北京五輪では、日本のシンクロはさんざんの成績だった。1984年のロサンゼルス大会から6大会連続で全種目のメダルを獲得してきた。北京ではデュエットこそ鈴木・原田組が銅メダルを死守したが、チームは5位に終わった。優勝はロシア、2位スペイン、3位中国であった。井村雅代ヘッドコーチが率いる3位中国には大差をつけられ、カナダにも抜かれ5位に終わった。ここで注目すべきは、日本で優秀な指導者として知られていた井村氏が、中国のコーチであったことだ。本来は日本選手団のコーチとしてメタル獲得のために努力してしかるべき人が、中国のメタル獲得のために精力を注いでいたのだ。井村コーチの指導は中国の団体の銅メタル獲得に大いに貢献したことは間違いない。中国はもともと日本に対しては敵対心が強い。すべての面で日本に勝ちたいのだ。銅メタルをとって、「してやったり」という思いだろう。日本恐れるに足らず。我々のほうがもともと素質も技術も能力も上なのだという気持ちだろう。日本を応援している我々からしてみると釈然としない。嫌悪感を持つ。井村コーチは日本人なのになぜ中国のために尽くすのか。日本で培った高い技術や指導方法をなぜ勝手に持ち出すのか。そして日本人を不愉快にさせるのはけしからんというのである。これは個人の利益のために、日本の技術を海外の国に流失させて、日本企業を倒産や衰退に追いやっている裏切り者の技術者と同じではないか。裏切った人も、相手国が日本の技術、トレーニングや指導方法などのノウハウをものにしてしまうと即刻お払い箱になるのは目に見えていると思う。その結果我々日本人はみじめな気持ちになるだけではないのか。こんなことはプロ野球でもよくある。無名の選手だったのに、頭角を現すとフリーエージェントで他球団に移籍する、大リーグに挑戦する選手は後を絶たない。すると元の所属チームでは超一流選手なので、戦力低下が避けられない。すると負ける確率が高くなって、自分が不愉快な気持ちにさせられる。負けが込むとこんな感情を抱く。お前はもともと無名な選手だったのに私たちファンが応援してきた。我が球団に一から育てられた。そして超一流選手になったのだ。その恩を忘れたのか。けしからんやつだ。育ててもらった選手は一生一つの球団で骨をうずめるのが礼儀というものではないのか。それを目先の金に釣られて勝手に移籍するとはどういう了見だ。これらの事例は、自分たちや日本に不利益を与えて、不愉快にさせるので気にくわないのである。これは勝ちたい、勝って優越感を味わいたいという気持ちが強いからこそ出てくるものである。つまり負けず嫌いなのである。そういう生の欲望が強いからこそ、達成されない時に強い不安や不快感が出てくるのである。森田理論に立ち返って考えてみよう。森田理論の「欲望と不安」の相互関係を思い出してほしい。森田理論ではライバルがいるからこそ、自分が成長できるという。ライバルがいないと勝ちたいという気持ちがなくなり、積極的な意欲はわかない。自分の成長は止まり、現状に甘んじてしまう。その結果生きがいは持てなくなってしまうのだ。だから相手がどんどん強くなる。相対的に自分が弱くなる。これは生の欲望の強い人にとってはとても良いことなのだと思う。フィギアスケートの浅田真央もキムヨナも、お互いを意識して切磋琢磨したからこそ頂点に立てたのではないだろうか。だから相手に対して劣等感を持って、相手を批判してこき下ろす前にすることがある。劣等感を糧にして、生の欲望の2段ロケットに点火する。さらに努力、精進していくという態度が必要なのではなかろうか。森田先生は言われている。少々人からまぬけな奴だと思われてもいい。それでも他の人たちに役に立てる人間になる。そんな気持ちがなくなると自分がみじめになるだけである。
2014.07.05
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NHKで55歳からのハローライフ「人生の再出発・村上龍原作ドラマ」が始まった。定年を迎えてその後の人生をどう生きていったらよいのか。家族との人間関係をどう築いてゆけばよいのか。その問題に切り込んでいる番組である。今回の番組では定年後キャンピングカーを買って、妻と2人気ままな旅に出て余生を楽しく暮らそうと考えた人の話である。妻や娘に反対されて、やむなく昔のつてをたどって再就職先を探し始めるがうまくいかない。そのうち精神的に落ち込み心療内科にかかるようになる。たくさんの退職金や親の遺産が転がり込んだ人が陥りやすい生活パターンである。むしろ働かないと生活に支障があるという人のほうが、精神的な落ち込みはないのかもしれない。第2の人生を始めるにあたって、今まで仕事で苦労してきたのだから、もう働かなくてもいいだろう。趣味で生活を充実させたい。のんびりと生活を楽しみたい。グルメ三昧、観劇、コンサート、ドライブ、旅行、ゴルフ、釣り三昧、囲碁や麻雀などを存分に楽しみたい。海外旅行にもゆきたい、出来れば世界一周旅行。できれば海外のコンドミニアム暮らしも体験したい、豪華クルーズ旅行にも行ってみたい。経済的に余裕のある人の考えそうなことである。高級マンションや監視カメラの付いた豪華な一戸建てに住んでいる。高級車に乗って、最新の家電製品に囲まれて何不自由なく暮らしている。これ以上ないぜいたくな生活のようだが、精神的には何か物足りないものを感じる。いつも心の中を冷たい隙間風が吹き抜けているような気がする。森田理論を学習している人は、なぜそんなことになってしまうのかすぐに分かると思う。人間が生き生きと生活するためになくてはならないものがあります。それは自分に与えられた課題、達成したいと思う目標、希望、夢です。乗り越えることが可能な、自分に与えられた問題点、不安、恐怖、ストレスの存在です。それがあるのかないのか、持っているのか持っていないのかが決定的な差となります。それに向かって対象に働きかける永遠の努力、実践、行動こそが生きがいとなります。それが全くない。他人に依存して消費するだけの人間には、生きる喜びはありません。経済的にはうらやましく思われるかもしれませんが、本人にとっては精神的にとても悲惨な状況となります。仮によって立つ財産を失うようなことがあった場合、もう一から立ち直って生きていくことはできないでしょう。この番組はまだ続きます。そんなことを考えさせてくれる番組です。
2014.06.14
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これは森田理論で言えば、不安や恐怖に取りつかれて、なんとか払拭しようと努力をしてみるものの、どうすることもできずにうなだれて意気消沈しているようなものです。手段の自己目的化を起こして、神経症にまっさかさまのパターンです。そうなると本来の目的である生の欲望の発揮は置いてきぼりになります。過去に悩み将来に取り越し苦労していると、今現在がおろそかになります。エネルギーがそちらのほうに浪費されるからです。今現在をおろそかにして、どうにもならないことに精力をつぎ込むことはいかにもばかばかしいことです。また、人間はもともと完全、完璧という存在ではありません。ミスや失敗をしないような人はいません。自分の生存欲求を満たすために、ある意味では自己中心的です。また、生の欲望が強いということは、それだけ強いエネルギーを持ち意欲的であるということです。その結果として、間違った行動は必ず発生します。これはあなただけではなく、すべての人が経験していることなのです。いつまでも記憶に残ったその強烈な不快感をなんとか取り除きたいと思うことは、生の欲望の発揮を忘れて不安と格闘して神経症になるようなものです。我々が心がけたいことは、その多くの忌まわしい記憶を反省材料として、今に活かすことだと思います。どこがよくなかったのか、どうすればよかったのかと原因を分析して、失敗を今後のために役立てることです。今現在の子どもとの関係、親との関係、夫婦の関係、会社や学校での人間関係、目標への取り組み方、職業の選び方、金銭の使い方、時間の使い方、自分の所有物の活かし方、欲望の制御方法などに活かしてやればよいのです。忌まわしい過去を現在に活かすことができれば、過去の忌まわしい出来事はそれによって相殺されるようになります。本来、記憶の機能が人間に備わっているというのは、その記憶を活かして現実をよりよいものに変革していくためのものです。文化や文明の発達というのはそういう歴史の繰り返しのことを言います。ですから過去の忌まわしい、消し去りたい記憶は、それらに学び今現在の自分の生活に活かすという態度で臨みたいものです。自己否定、自己嫌悪、罪悪感から解き放されるためには、そうした生活態度が欠かせません。
2014.06.11
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森田先生は「前に謀らず、後ろに慮らず」といわれている。「前にはからず、うしろにおもんばからず」と読む。昔の失敗やミスを思い悩まず、また将来のことをあまり取り越し苦労しないようにして、現在の生活に打ち込むことをいっている。「たとえば、私が自分がこんな病気がなかったらよかろうに、あの大正10年に、流感をおして、講演をやらなかったのに、さては一昨年、あの夜、活動写真を見に行かなかったら、肺炎にもかからなかったろうに、とか既往の失策の繰り言を言わないのを「前に謀らず」と言います。「後に慮らず」とは、自分は旅行の途中で、つい大患にかかったら、九州で死ぬようなことがあっては、というふうに未来の取り越し苦労をしないことである。結局は自分が欲望に乗り切るために、その現在現在において、戦々恐々、注意に注意をして、間違いのないようにし、そのうえもしいけないことがあれば、それは天命であって、倒れて後やむのである、というふうに、その時々の現在になるのである。」私も子育てのこと、親不幸な行動、弟妹への仕打ち、上司として部下に対しての不謹慎な言動や仕打ち、先物取引で大失敗をしたこと、安易な職業の選び方、自己中心で他人に迷惑をかけたことなどが折に触れて思い出され、いたたまれない気持ちに追い込まれる。私たちは自己内省性が強く、心配性であるので特にその傾向が強い。自分の過去の行動を否定して、自己嫌悪に陥るのである。今更反省したところで、過去を塗り替えることなどできないのはよく分かっているのだが、つい思い出しては後悔している。
2014.06.11
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マズローの欲求5段階説を自分に当てはめて考えるとどうだろう。まず人間には性欲、食欲、睡眠欲などの本能的欲望がある。ほぼ満たされている。これが満たされると、自分の身の安全を求めるようになります。今の日本ではほぼ達成されている。すると家族を持ちたい、仲間とつながっていたい。集団に帰属して群れることを求めるようになります。暖かい集団に属していると安心感がある。これもその気になれば達成可能だ。次に自分が人よりもすぐれていることへの自信、能力への確信、達成への実績、自立の確認。こういったものによって自尊心を満足させたいという欲求。さらに、そういったことを他者からも認めてもらいたいという欲求です。相手が非難されたり、拒否されたり、無視されたり、否定されることは耐えられない。この欲求の充足は不満が残る。自分に自信が持てない。他者からいつも非難されているような気がする。対人恐怖の人は特に当てはまる。そして最後に自己実現の欲求です。これは「自分のなれる可能性のある最高の存在になりたいという願望をもつ」ということです。自分の課題や目標などを持って取り組んでいるとなんとか達成されている。こうしてみると自尊心を満足させて、人から重要視されたいという欲求はまだまだだ。これは逆に言うと、自分が他者を評価したり、重要視していないといえないだろうか。他者がミスをしたり失敗をすると、馬鹿な奴だと陰で笑っている。利害関係がある時は相手を非難したり叱責する。三度三度の食事を用意してくれたり、毎日の掃除や洗濯をしてくれている妻に対しては当たり前のことをしているだけだと思い、感謝の気持ちはぜんぜん湧いてこない。言葉に出して「ありがとう」といったことはない。母の日や誕生日にプレゼントしたこともない。ねぎらいの言葉や感謝の言葉がない。評価や称賛の気持ちが全く湧いてこない。完全に依存しており、熟年離婚に追い込まれるかもしれない。これは夫婦の間柄だけではありません。会社や学校の人間関係にも言えることです。いつも他人を批判したり、無視したり、否定していると、他人にとっても自尊と評価されたいという欲求はいつまでも満たされないことになります。それが相手だけではなく、回りまわって自分の欲求も阻害されているような気がする。「ありがとう」という感謝の言葉をかける。他人の立場にたって、相手の話に謙虚に耳を傾けることを実践するようにしたい。
2014.06.10
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シドニーオリンピックの女子マラソンで優勝した高橋尚子さん。この快挙は小出義雄監督の力が大きくかかわっている。これは森田理論の「生の欲望の発揮」を学習するときの参考になる。小出監督はオリンピックで優勝するためには、まず選手個々の特徴や体調を知り管理することを重視されている。選手の体調管理、精神の安定、バイオリズムなどである。そのためには選手一人一人をよく観察してよく知ることだ。高橋選手はオリンピックで最高の状態に持っていくためには、最低でも1年半はかかるそうだ。また高橋選手のすぐれた特徴は筋肉の質にあるそうだ。彼女の筋肉は普通の人に比べて大きくて太い。だからレース直前でも、普通の選手のように一旦練習量を落とすことは命取りになる。本番前でもガンガン行ったほうがよい選手であるという。次にコースを知るということ。コースに合わせた練習をする。高橋選手は現地で練習をする中でコースの中の1キロごとに目標物を頭の中に叩き込んでいたという。とりわけシドニーはアップダウンの多いコースであった。特に勝負どころの後半はアップダウンの連続である。ここで勝負がつくと見ていた。十分な下見の結果、練習は標高3600mのアップダウンの多い高地トレーニングを行った。そのためにアメリカのボーダーに家を買い、専用の調理師を用意したという。現地を下見して、小出監督は本番以上に条件の悪いところを練習場所として選んだのである。最後に他の選手との駆け引きをシュミレーションする。シドニーオリンピックで勝つためにはハイペースにはならないと考えていた。スピードをつける練習ではなく、14マイル(約22キロ)で4分遅く走れるような練習を意識して組んだ。そしてその余力は後に残し、最後のアップダウンで勝負できる持久力強化の練習を繰り返した。そして最終的には、17キロ付近では5人くらいの先頭集団に入る。28キロ付近では3人の先頭集団に入る。マークする選手はロルーペ選手。あと10キロで彼女についてこられたら負ける。そう踏んでいた。テレビを見て応援している人は、そこまでの努力は分からない。氷山の一角を見ているようなものだ。しかし困難に挑戦して、それなりの成果を上げる人は並々ならぬ努力をしている。森田理論でいう「生の欲望の発揮」には、まず目標を明確にする。そして、達成のための自己分析、対象や障害物、ライバルの分析と、あくなき創意工夫と実践が大切なのである。それが生きがいを持って生きるということにつながっているのである。
2014.06.05
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もう一つの失敗は仕事をしているときに侵すミスである。うっかりミスのことである。人間である以上すべて完璧にこなすということはあり得ない。それなのにあり得もしないことを求めて、その方面に意識を向けていると集中力がなくなる。意識を向けていると、さらにミスを連発するという事態に追い込まれる。特に神経症の人の場合、これをこっそりと隠そうとする傾向がある。人に見つからないようにごまかそうとするのである。上司から叱責を受けたり、同僚から能力のない奴だとさげすまれることに予期不安を感じるからである。本来ならミスをしたときはその内容を正確に把握する。上司や関係部署に早く連絡する。相談したり、指示を仰いだり、自分で対応策を考えたりして素早く対策を講じることが大切である。そうしないと事態はどんどん悪化をたどる。森田理論でいえば、最初の失敗は「生の欲望」の発揮の仕方が絡んでいる。大きな目標や課題は簡単には達成できない。時には失敗や停滞を余儀なくされる。一回の失敗で投げ出してしまうことはとても残念なことだ。大きな感動、成功、自信は失敗を反省材料として果敢に挑戦する中に生まれてくるものである。2番目の失敗は事実を受け入れて、事実に服従するということが絡んでいる。普通失敗やミスをしたときは、初一念として「しまった。やってしまった」という気持ちになるはずだ。ところがそれはすぐにかき消されてしまって、「上司に叱られるのが怖い。同僚に無能力者扱いされるのが嫌だ」という気持ちが出てくる。これを初二念という。初二念は認識の誤り、「かくあるべし」を含むものである。森田理論では「純な心」で初一念から出発しないといけないとくどいくらいに勉強したはずである。「純な心」を生活に応用していないといつまでたっても、同じ過ちを繰り返すのである。森田理論は観念上の学問ではない。どこまでも実践体得の理論である。森田理論学習で、ぜひとも苦しみから抜け出す道を切り開いてほしいものである。
2014.05.14
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失敗するということを考えてみたい。2種類あると思う。一つは自分で目標を決めてとりかかったのはよいが、高い壁に跳ね返されて、早々にあきらめてしまう場合である。神経質者はたったの一回の失敗で退散してしまうことが多い。優秀セールスマン聞いたところ、見込客にたいしての営業は5回目以降に成約に結び付くことが多いそうだ。それなのに1回の断りで、その見込み客には2度と営業をかけないという営業マンが多いという。「あの人は絶対に買ってくれない」と早々に決めつけて、見込み客のリストから外してしまうのである。こうなると営業成績は上がらなくなってしまう。営業のやり方を創意工夫して営業成績を上げたいという考えは湧いてこなくなる。その時そのセールスマンの意識はどこに向くのか。まず成績よい先輩や同僚に向く。あの人たちのようにたいして苦労をしなくても、営業成績を上げる方法はないものだろうか。観念の世界に浸り、地道な営業努力を怠るようになる。プロセスよりも結果だけを求めるようになる。そして見込み客をランク分けして、最上級の見込み客しか訪問しなくなる。その他大勢の見込み客に対してコンタクトを取ろうとしなくなる。営業成績が上がるはずもないのである。自分で自分の首を絞めているような状態だ。そういうパターンにはまり込むと、成功体験は数多く持てない。ノルマは達成できない。上司からはいつも叱られるという状況になる。針の筵に座らされているようなものだ。自己嫌悪、自己否定で自分を自ら傷つけるようになる。
2014.05.14
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ただし神経症の人は、この制御がかかりすぎているということが問題です。アクセルを踏み込みながらも、ブレーキを踏み込み、さらにサイドブレーキも効かせている状態です。これでは消極的になり前進することができません。前進するためにはブレーキを緩めてやることです。ブレーキを緩めるためにはどうすればよいのでしょうか。いくつかの提案をしてみましょう。その前にどのような時に意欲がなくなるのかということを考えてみましょう。パブロフの条件反射というのがあります。犬に音など刺激の後で餌をやりますと唾液が出ます。そのうち音を聞くだけで唾液が出るようになります。次に音を聞かせても餌をやらないとどうなるか。犬は次第に元気がなくなり、無気力になるということです。犬を元気にしてやるためには、見返りを与えるということが有効です。人間も物質的報酬がモチュベーションを高揚するために役立ちます。自分に対して自分で褒美を与えるのです。さらに人間には物質的満足だけではなく、精神的な満足感も大切です。自分で自分をほめてやるのです。目標を達成してみたい。自分もできるという自信を持ちたい。そして人間として成長したい。また他人からよく見られたい、評価されたいという欲求があります。それらが得られるとすると、意欲に火が付きます。次に、神経質者は好奇心旺盛ですから、四方八方にアンテナを張り、前向きに、外向きに意識を持っていく事が大切です。そういう生活態度を堅持していくことです。好奇心が行動を呼び、次第に弾みがついて意欲的な人間に変わってゆきます。さらに、同じことをずっと続けていると、マンネリ化が起きて意欲が減退してきます。神経質者はなかなか手を出さないが、一旦やり始めると一つのことにのめり込むという特徴があります。意欲という面から見ると、それに意欲を持てなくなった時の反動が心配です。マンネリ化を防ぐためには、「なすべきこと」を、時間を区切って次から次へと変化させ行くことが有効です。30分から1時間で仕事や勉強内容を変えていくことが役立ちます。意欲をかき立てるために、以上3点をご紹介しました。
2014.05.12
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意欲と脳の働きについて考えてみたい。まず目の前の出来事に対して五感が反応します。見る、聞く、匂う、味わう、触れることである。その情報は大脳旧皮質に届けられる。不安、恐怖などは扁桃体、楽しさ、うれしさはエーテン神経に伝えられる。喜怒哀楽などの感情が発生するのである。これはほとんどの動物に備わっている。衝動的な行動は、大脳旧皮質の働きによるものである。次に人間などの場合、その情報は大脳新皮質の前頭前野に送られる。前頭前野は蓄えられた記憶と連携して、喜怒哀楽などの情動を監視したり、修正したり、調整をしている。いわゆる理性を働かせているのである。その後前頭前野は、その時の状況を見極めて、適切な行動のための指示を出しているのである。この一連の流れの中で問題になるのは、大脳旧皮質と大脳新皮質の関係である。まず我々の行動は、扁桃体やエーテン神経で沸き起こった喜怒哀楽から出発しなければなりません。決して前頭前野の理性から出発してはならない。理性から出発することは順序が逆です。森田先生も常に感じから出発することを強調されています。次に喜怒哀楽が暴走をしないように、理性によって制御をかけるということも重要になります。最低限の調整は必要です。幼児は人の迷惑も関係なしに、本能のままに行動しますが、大人になると許されなくなります。
2014.05.12
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イチローに面白いエピソードが残っている。プロ入りしてすぐに結果が出せたわけではない。バッティングフォームが悪いということで、2軍で矯正させられている。コーチはこういった。「これが最後のチャンスだ。俺の言うことを聞くのであれば教えてやる。聞かないのであれば、後は勝手にやれ」これは最後通告のようなものです。こんなコーチについていくと最悪の結果を招く。しかし、これを受けてイチローは涙を浮かべてこういった。「自分のやり方でやりたい」普通の人は言えない言葉である。イチローは、「自分の好きなスタイルを失いたくない。コーチに合わせていたら、自分が結局どんな選手かわからなくなってつぶれていく。プロとしては最悪のパターンなんですよ」という。自分の道をはっきりと見つめている人は、他者とのかかわり方が違ってくる。いつも自分が中心になっているのである。自分中心の生き方は石原加受子さんが提唱されていることですが、森田理論学習を進めている我々こそが身につけないといけない考え方である。感情も自分のやりたいことも自分の無意識にほとばしる気持ちを最優先していく考え方である。
2014.04.03
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イチロー選手は小学校の時から野球選手になりたいと周囲の人に話していたという。小学校3年生からはお父さん相手に本格的な練習を開始している。そして愛工大名電ではピッチャーとして甲子園のマウンドに立っている。早くから自分の将来進むべき道を持っていたというのはうらやましい限りである。人間は自分の体力、能力、境遇などに応じて、それぞれの道を早期に確定していくのが、最重要課題の一つではなかろうか。早くからいろんなことにチャレンジして、将来につながる一つの道を見つけ出すことはとても大切だと今になって思う。一つの道を選ぶということは、他の可能性は捨てるということだと思う。未練はあっても捨ててしまうのだ。一本に絞った道を愚直に歩んでいく。それが生きがいのある人生へとつながっていく。私は大学に入っても将来の本当に取り組む道を見つけることはできなかった。気分で就職先を決めて失敗した苦い経験がある。以前紹介した京都の堀川高校が群を抜く進学率を誇っていたというのも、多くの生徒が高校時代に自分たちの将来進むべき道を見出せたというのがその原動力となっていた。そのために学校の授業にの中に、自分たちのやる気を喚起させる自由研究のようなものが組み込まれていた。モチュベーションが高まってきて、その目標をクリヤーするためには、どこの大学で何を学ぶかという選択をしているのである。一般的な大学の選び方とはちょっと違う。自分のこれをやりたいというものを見つけた人は、迷いがない。人に忠告されても、意見として聞くが、自分に合わないと思うと、また自分に立ち戻ることができる。
2014.04.03
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淀川工科高等学校の吹奏楽を指揮している丸谷明夫さんという人がいる。全国大会でゴールド金賞を24回も受賞している。全国最多である。楽器をうまく扱えない生徒を短期間で、地区大会、全国大会へと導くのである。音楽の先生ではない。本職は技術の先生だ。丸谷先生はいつもにこにこしている。でも厳しい言葉も吐く。丸谷先生曰く。「子供たち一人ひとりがその気になって本気でかかってきよったら、少々下手な者同士でもかなりいいところに行きますよ」「指揮棒に合わせて完璧に吹くだけなら型どおりの演奏にしかならない。それぞれの持ち味を生かしながら、結果として合わさった音が生き生きしてくる」「中途半端な苦労している奴でひねくれているのがよくいますが、もうズタズタに、生きるか死ぬかの苦労をした奴は、そんなものをも超越してしまって本当に純粋になるのでしょう。そういう子に育てたいのです。」「子供は喜びや幸せは誰かが運んでくれるような気でいるんですが、そんなはずはないわけで、苦労したものが苦労しただけちゃんと喜べるようになっている。」「我々もとかく効率のいい方法やすぐ、上達する方法を考えがちなんですが、そういうものはなくて、やっぱり変わった手、相撲でいえば猫だましなんかを使わず、がっぷり四つの寄り切り、譜面に書いてあることにきちっと応える王道、それを貫いていくしかないと思うんです。」(致知 2012年11号 特集一念、道を拓くより)高校野球でもそうですが、カリスマ指導者といる人がいる。その人と一緒にいるだけで自分の目標が自然と達成されるのである。そういう指導者はどこが違うのだろうか。目標が明確で共有化できている。教え方がうまい。などいろいろあるだろうが、一番はやる気を掘り起こして火をつけるのである。自分から動き出したくなり、工夫や改善が次から次へと生まれてくるのである。それが他の人に伝播して、その集団がやる気に満ちてくるのである。職場でも営業マン一人一人が、仕事に燃える集団を作るととてつもない力を発揮する。森田理論でいう生の欲望の発揮である。高校生でこうした経験を持つと大人になって生きてくると思う。
2014.03.27
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「良寛禅師奇話」第43段にこんな話がある。国上山の庵に泥棒が入りました。しかし庵の中には盗めるようなめぼしいものはありませんでした。仕方なしに泥棒は良寛さまの寝ている蒲団を盗み出そうとします。良寛さまは、すやすやとよく寝込んでいるように見せかけ、引きやすいようにわざと寝返りを打って、うまく盗ませてあげたのでした。その時詠んだ句がある。「盗人にとり残されし窓の月」布団がなくなり、さぞかし寒い思いをされたことであろう。文芸評論家の小林秀夫さんの鎌倉の自宅に泥棒が入ったことがあるらしい。その時「家には大した金がないが、持っていくならレコードの名曲版でいいものがたくさんある。それならいいだろう。」とこれを盗ませた。良寛さんと同じ対応かと思った。ところが泥棒が退去した後、すぐに警察に電話したため、やがて強盗は逮捕されたそうだ。これは小林氏だけではなく、普通の人すべての対応であろう。良寛さんと普通の人はどこが違うのだろうか。良寛さんは物質的な欲望は極限までそぎ落とした生活をされていた。すると何もない良寛さんの家に来て、盗みを働かざるを得ない泥棒の身の上のことがかわいそうになるのである。また冬寒いとき一束の薪のありがたさが分かる。その日食べるものがあることを感謝するようになる。戦後の日本人は、消費は美徳のもとに家電商品をはじめ家にはいきらないぐらいのものを買い集めて物質文明を謳歌してきた。今では都会で夏にクーラーがない生活をしている人がいるだろうか。冬にこたつや暖房のない生活をしている人がいるだろうか。冬に冷たい水で顔を洗っている人がいるだろうか。それらがあるのが当たり前になると、ありがたみは湧いてこない。感謝することはできない。むしろないことが苦痛になってしまう。森田理論では感性、五感を大切にという。でも欲望にどっぷりと浸かった生活の中にいると感性や五感は十分に発揮されないのだということを自覚すべきではなかろうか。感じから出発するといっても感性が鈍ると、自分が何をどう感じているのか全く見当がつかなくなってしまうのである。感情が沸き起こらない人間は恐ろしい。
2014.02.28
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キューリー夫人の生き方は、「生の欲望」の発揮という面では大変参考になる。1867年生まれ1934年67歳で死去されている。森田正馬先生は1874年生まれで、1938年64歳で死去されているからほぼ同時代を生きた人であった。ポーランドで生まれている。頭脳明晰であったが、8歳の時母がなくなっている。兄が一人、姉3人の5人兄弟の末娘として生まれた。勉強をしたかったが家計が苦しく、姉の勉学の支援のため住み込みの家庭教師などをしていた。15歳の時にパリに出て本格的に勉強を始めた。27歳の時ピエール・キューリーと結婚。1902年苦労の末、夫とともにラジウム塩の単離に成功。ノーベル賞を授与されている。その研究室はジャガイモ小屋と家畜小屋を足して2で割ったようなところだったという。経済的には相当困窮していた。生活費を稼ぐため、研究だけに没頭してはいられなかった。それなのに、ラジウム発見は医療にも役立つものであったため、特許をとるとか、権利を確保すれば億万長者になれるはずであったが、それをあっさりと拒否している。何も特許を取らず、研究の成果、調整方法は余すところなく公開した。キューリー夫人のすごいこところはこれだけにとどまらない。1914年第一次世界大戦が勃発。負傷兵がたくさん出た。銃弾や破片などが人体に食い込んでいる場合、それまでは手探りの手術が行われていた。彼女は放射能については詳しかったが、エックス線の専門家ではなかった。にもかかわらず、彼女は自動車にエックス線投射設備と発電機を搭載して、自ら運転免許を取得して戦場を駆け回っている。彼女が設置したレントゲン設備は、病院や大学など200か所。また公的、私的の車を手配し、改造して20台の移動レントゲン車を作ったという。また、自分の貯蓄の相当額を戦債購入に充て、さらにノーベル賞を含む数多いメダルを寄付しようとしていたという。自らは、多年にわたる放射能研究のため白血病で亡くなっている。詳しくはピアニストの娘であるエーヴ・キューリーさんが、「キューリー夫人伝」で詳しく紹介されている。興味のある方は読んで見られるとよいと思う。
2014.02.03
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玄侑宗久さんの「まわりみち極楽論」からの引用です。確かアメリカだったかと思いますが、「老化するのは気のせいではないか」という仮説で真面目に研究している研究者たちがいるそうです。彼らが行った実験は80歳以上の人を50人集めて、彼らが20台頃の環境を再現した場所に確か50日間住んでもらった。環境のすべてが60年前の景色ですから、テレビをつけてもラジオをつけてもそのころの番組をやっている。そのころの音楽が流れる。カーテンの柄も当時のものです。ともかく彼らが青春を謳歌した環境をそのまま再現して、そこで共同体みたいに暮らしてもらったんですね。人間の老化度を測るのに、もっとも信頼できるのは「皮膚圧」らしいですね。肌の張りです。そこで50日前の皮膚圧を測りまして、50日後にまた調べた。すると80代の人の30パーセントの人が20代の皮膚圧に戻っていたというんですね。これを聞いて私は思いました。集談会でも60代の後半から70代になるともう集談会には出てこないという人が多いようです。理由はよくわかりませんが、自分で自分をもう歳だからと言って追い込んでおられるようです。まだ脳が正常に働いている、心臓がほぼ元気に動いているというのにもったいないことだと思います。一般社会でも65歳ぐらいになると、仕事から完全撤退して悠々自適の生活に入る人もいます。別に仕事をしていないのがけしからんというつもりはありません。でもそれが、自分で自分の生活を縮小して、こじんまりと生きていく方向にシフトされているのでしたら、残念ですというしかありません。20代だろうが、50代だろうが、80代だろうが、まだ生命が宿っている限り同じ人間です。尊いのは年齢がいくつだろうが、自分のやりたいことに懸命に取り組んでいる姿勢だと思うのです。森田を生涯学習として取り組んでいる人は、自分で自分の限界を勝手に設定しないでほしいのです。それは生の欲望の発揮ということで森田理論が強く強調していることではありませんか。
2013.12.23
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対人恐怖で苦しむ人は学校や会社などで、仲間外れにされてはいけない。なんとか無難に人間関係を保たなければいけない。と「かくあるべし」で自分を鼓舞しています。でも、やっぱり人付き合いは苦手だなあ。自分の思いを打ち出せば、みんなから非難ごうごう。最後には自分が傷ついてしまう。だから自分の気持ちは抑えて我慢する。一人孤立してみんなから白い目で見られることは、とてもではないが耐えられないから。私も以前は、常に他人の目を意識して、びくびくしながら毎日を送っていました。毎日恐怖との戦いです。生きる意味なんてありません。私は苦しむために生きているんです。心も体もカチカチに凍り付いた状態です。さらに自分の中にいるもう一人の自分が、現実でのたうち回っている自分を否定しているのです。自分を責めてばかりいるのです。踏んだり蹴ったりです。この世の地獄ですね。そうならば、あなたはいったい自分というものをどう考えているのですか。生きとし生けるものは存在価値があるといいます。自分という存在を大切にして、どこまでも自分の味方になり、自分本位の生活に立ち戻ることはできないのでしょうか。森田理論学習はそれを可能にしてくれると思います。自分に湧いてきたすべての感情を素直に受け入れ、さらに自分の欲望に沿って生きていく。他人の思惑からではなく、常に自分の好き嫌い、生の欲望から発想する。そういう生き方を早く身につけようではありませんか。
2013.12.13
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石原加受子さんの本は森田理論を考える時に大変参考になる。「もっと自分中心でうまくいく」「彼女がいつも人から愛される理由」を読んだ。その中に書かれている事は、他人中心で生きるのではなく、自分中心で生きてゆきましょうということだった。他人中心というというのは、いつも他人の言動を気にして、相手の顔色をうかがったり、相手に合わせていく生き方です。彼が迷惑するから、彼が困るから、彼には時間がないから、彼が嫌がるからなどの理由で、電話をかけることを我慢したり、自分の気持ちを抑え込んだりすることです。また、昼時間になりさあ昼ご飯を食べに行こうと思った時、同僚からちょっとこの仕事を手伝ってくれないといわれたとします。自分は昼ご飯を食べたいのにその気持ちを我慢して相手の意向に沿った行動をとる。これも他人中心の行動です。反対に自分中心というのは、自分の感情、気持ち、欲望、意志を第一に優先するということです。どんな状況でも、自分を打ち出していくということです。自分の気持ちに素直になって行動するということです。私たちが生きていくのが苦しいときは、いつも他人中心になっています。他人中心は、自分を否定し、無視し、抑え込み、我慢し、耐えています。自分をないがしろにして、他人の人生を生きていこうとすると、自分の意思ではないので苦しくなるのだと思います。森田理論でいうと、常に自分の感じから出発する。自分の好き嫌い、人情から出発する。そのあとで、理知で調整していく。この原則を忘れてはなりません。
2013.12.07
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地球には寿命がある。太陽が死を迎える時、どんどん膨張して地球は太陽に飲みこまれてしまうという。でもその前に、人間が地球で生命が住めないような不毛な惑星にしてしまう可能性が高い。いずれにしても地球も太陽も永遠の存在ではない。また人間の命もたかだか100年ぐらいのものだ。永遠に生き続けることはできない。つまりどんなに努力しても、頑張ってもいずれは死を受け入れざるを得ない。視点を変えれば我々は負け戦をしていることになる。そういう視点を持って、今を生きるということはとても大事なことだと思う。限りある命の中でどう生きていくのかと、腹をくくることができると思う。森田先生は、亡くなるまで「まだまだ研究しなくてはならない。時間がない、時間がない」とおっしゃっていたそうです。この心意気に学びたいと思います。反対にいつまでも命があるかのように生きていると、今をとても粗末に扱うようになる。そして毎日退屈を持て余すようになる。生きがいが持てず、ついに脳や体が廃用性萎縮を起こしてしまう。これは森田的な生き方の対極にあるものです。
2013.11.30
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伊能忠敬は人生を二度生きた人だった。伊能忠敬は江戸時代の後期に千葉県で漁師の子として生まれた。働き者として認められて、当時没落しかけていた地元の商人、伊能家の養子となった。するとたちまち家を再興させて、37歳で佐原村の名主に推挙され、39歳で名字帯刀を許されている。押しも押されぬ大商人となったのである。これで一仕事終えて悠々自適の生活で、余生を過ごすのが普通であろう。ところが50歳の時、「この家での役割は終わった。これからは自分の好きなことをさせてくれ」といって江戸に出て、学問と測量の研究を始めた。当時の平均寿命が50歳ぐらいだったから、本来は楽隠居してもよい歳であった。74歳で没したが、56歳から72歳まで全国各地を測量して回り「大日本沿岸興地全図」を完成させた。史上初の日本全図である。伊能忠敬の活躍がなかったら日本は正確な地図を持つことはなかったのである。自身は喘息を持ち、たびたび病気にもかかり、また歯が悪く満足に食事もとれない状態であった。しかし当時としては長生きをして、大きな仕事を成し遂げた。これは台風のたびに氾濫する利根川をなんとか食い止める方法はないかと、家業の傍ら常に治水、天文、土木、算術、測量の研究をしており、それに火が付ついて弾みがつき、次のロケットに点火できたことが大きかった。伊能忠敬は好奇心の旺盛な人であった。この点我々神経質者と同じである。森田でいう生の欲望を発揮して、最高の生き方ができた人である。我々も伊能忠敬に学び、亡くなるまで燃えるような情熱を持ち続けたい。神経質性格を活かして、森田理論学習を続ければその可能性は高いと思われる。
2013.11.29
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人間の脳には快楽を感知する部位があり、人間の行動はほとんど快楽を求めている結果なのだという人がいる。面白い考えである。確かに、快楽につながる行為にはやる気、意欲がでてくる。人間の三大欲求といわれる、食欲、性欲、睡眠も、元はと言えば快楽を志向している。それらが満たされる満ち足りた気持ちになる。森田理論は常に感じから出発せよと教えている。マズローに安全への欲求がある。自分の身に危険が迫って来た時、弱い相手には力で屈服させ、強い相手からはすぐに逃げるという行動をとる。人間には相手と闘争するという本能がある。それが発展したものが征服欲求である。これらの行動は、決して後ろ向きではない。常に快の感情を伴う。快楽を求めたごく自然の行為なのである。また仲間と楽しく過ごす。仲間とともに協力して助け合う。これも快楽の元になる脳内モルヒネがたくさん出てくる。最終的には、自分の能力を発揮して、自分のできうる最高のことをめざして、みんなから一目おかれる存在になりたい。これは究極の快の感情が生まれてくる。この快楽をキャッチしているのは、主として大脳辺縁系(一部大脳新皮質)からなるエー・テン神経であるという。どちらかというと他の動物も持っている神経である。快楽を求める本能があるからこそ、人間は意欲を持つことができ、成長発展できるのである。ところがそれがいったんやみくもに暴走を始めると大変危険なことになる。人間が他の動物と大いに異なり、大脳新皮質が高度に発達している。それで調整してバランスを取らないと破たんしてしまう。これは例えば包丁と同じで、うまく使えば料理を作る時に役立つが、反対に悪く使うと人を殺す道具にもなる。使い分けのできない人にとっては危険きわまりのないものとなる。だから快楽を求めるにあたっては、必ずきちんとした制御が働かないと、自分自身の破滅を招いてしまう。神経症にしても、不安、恐怖から一時的な快楽を求めて逃避するということが多い。それが癖になり、逃げまくってばかりいると、症状として固着してくる。世界の出来事を見ると戦争、侵略、本能丸出しの目をそむけたくなる行為が多発している。現代人は、自らを律する生き方の探求とそれにもとづく行動の確立が重要であると思う。日本には、言葉はあまり良くないが新渡戸稲造氏の提唱した「武士道」の生き方というものがあった。その精神だけは受け継いで行きたいと思う。
2013.11.24
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それは他人や地球環境に迷惑をかけないような「目標や課題」を持って、日々努力していくその過程の中に秘密が隠されていると思う。まずは日々、日常生活を人に頼らないで、きちんとこなしていく。これも小さな目標や課題に取り組んでいることです。そのうち好奇心を発揮して、さまざまなことに挑戦してみる。すると一生涯取り組んでみたい目標や課題が見つかることもあります。NHKのプロフェッショナルの番組を見ているとそんな目標や課題を見つけ出した人ばかりである。森田理論ではこのことを「努力即幸福」といっている。そういう意味では、子育ては「いたずら」を目いっぱい容認して、好奇心いっぱいで、自主的な子どもに育てる必要があります。「かくあるべし」で子どもを押さえつけてはいけません。また会社などでも、挑戦する人、意欲のある人を支援して伸ばしてあげるような人材育成が大切だと思います。「不安やストレス」もそれを解消しようする限りにおいては、生きがいにつながるものです。これはエネルギーや意欲がなければ、取り組むことはできません。馬力のある人が挑戦しているのです。ただ不安については、解消するために積極的に頭を使って考え、手足を動かした方がよいものと不安に服従し受け入れていくしか方法がないものとに分かれます。その比率は松下幸之助によれば1対9になるといわれています。無駄なことに手を出すと徒労に終わるばかりです。そして精神交互作用によって抜き差しならぬところに迷い込んでしまいます。ストレスも人間が生きていく上になくてはならないものです。しかしあまりにも強いストレスを自分で抱えていると自滅してしまいます。この場合は、人の手を借りたり、早く逃げたり臨機応変な対応が必要になります。いづれにしろ心豊かに生きようとすれば、目標や課題、不安やストレスが心の食料としての役割を担っているのです。
2013.10.28
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人間はどう生きたら満足できるのだろうか。ある会社の社長さんで、退職後瀬戸内海の小島の温かい土地に家を建てて、モーターボートを買い、毎日魚釣りやグルメ三昧の生活をしていた人がいました。一見うらやましい生活に見えましたが、体調を崩し、精神も不安定になり、精神科にかかっています。会社ではストレスが多く、ストレスのない老後を過ごしたいと思われていたのです。ところが実際はストレスがないということが、逆にストレスとなって身の上に降りかかってきたのです。お金をたくさん蓄えて、好きなものをふんだんに食べられて、欲しいものはなんでも手に入れて、やりたいことや趣味ばかりに集中して、申し分のない家族と毎日楽しく暮らす。こんな生活は実際にはできないが、こんな生活にあこがれている人は多い。これが人間の満足できる生き方だと思っているとしたら、それを目指してきた人たちの顛末がどうなっているかをよく観察した方がよい。決してバラ色の人生とはいえないのである。先ほどの元社長さんのように、むしろ暇を持て余し、心の病気を抱えるようになる。どうも心も体も健康で、自由に活き活きと生きていくというのは別の要件が必要だと思う。
2013.10.28
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寝たきりのお年寄りを見ていると、病気やけがをして入院してベッド生活が始まりそのまま寝たきりになることが多いそうだ。人間はもともと動き回るようにできている。動きをしばらく怠ると、筋肉は急速に廃用性萎縮へと進行してしまう。そのスピートは驚くべ早さである。2、3日で立てなくなってしまう。自分の体を甘やかせてしまうともう取り返しがつかなくなる。二度と二本の足で立って歩くことはできないのである。横になって休むことは、一時的には楽だが、そのまま自分を甘やかせていると大変なことになるのだ。我々元気な者でも、夜目が覚めたり、朝起き上がるのはしんどい。重力に逆らって起きることは気力や体力が必要なのである。しんどいからといってそのまま寝ていれば、いずれ寝たきりとなるだろう。子どもを甘やかせる人も後を絶たない。その後どんなに子供に苦労を背負わせているのか分かっていない。子どもが自らできることややるべきことを親がなりかわってやっている人がいる。また子供が言うがままに、お金や欲しいものをふんだんに与えている人もいる。これは甘やかせるというよりも溺愛である。子どもの自主性、やる気は育たず、欲求不満になる。わがままになり、依存的生活が身について、たくましく一人で生きていくという自立性は育たない。今日の子どもの教育をめぐる問題は、甘やかし教育の弊害と思う。会社でもリーダーが部下を甘やかせて、なかよしグループのような組織がある。今日のような時代ではノルマを達成することはできない。本来部下は実績を上げなくてもよいと思っている人はいないはずである。ノルマを達成して、責任を果たし、できるだけ長く会社に在籍して、家族の生活を支えてゆきたいと思っている人ばかりだと思う。でも困難な状況、大きな壁が立ちはだかっているとつい逃げたくなる。やる気が失せてくる。ついさぼり癖がついて、気がつけばどうにもならないところに足を踏み入れている。そうならないためには、リーダーが部下をよく観察して、援助したり、叱咤激励してエネルギーを鼓舞しないといけない。決して甘やかせてはならないのである。いつもモチベーションを保てるように見守り、刺激を与えて、目標に挑戦させ続けなければならない。甘えるということは麻薬のようなものだ。一時的には楽ができほっとできる。その時はハイな高揚した気分になるが、最後には心と体をズタズタにしてしまう。甘えというのは詐欺にあって、全財産を奪い取られて、息の根を止められるようなものである。
2013.10.27
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海洋冒険家の白石康次郎さんの本から森田と関係のある言葉を紹介したい。「夢って育つものなのです。一つかなえれば次の夢、次の夢をかなえればまた、その次の夢が生まれます。僕はいつも、素直にその夢を追いかけているだけです。」森田でいう生の欲望の発揮は弾みがつくことを言われています。集談会で私は欲望なんて何にもないという人がいます。なにもやりたいという感じがでてこないといわれるのです。これは症状によって神経が過度に敏感になり、生の欲望に振り向ける余裕がなくなっているのだと思います。神経質性格を持っている人であれば、症状から遠ざかるにつれて生の欲望がむらむらと高まってくるものと考えられます。我々神経質者は普通の人よりも、元々強い欲望をもっています。いったん生の欲望に火がつけば1段ロケットが燃え尽きれば、次に2段ロケットの点火というふうに弾みがついてくるものだと思います。生の欲望で大切なことが一つあります。「過ぎたるは及ばざるがごとしです」経済的にも、精神的にも満ちたりた生活が続いていると、生の欲望はどんどん衰えていくという関係にあります。お金には不自由した経験がない、現在も不自由していない。心に悩みなどを抱えて苦しんだ経験を持たない、今も心の悩みとは無縁である。一見うらやましそうに見えるこの状態はとても危険な兆候を示しています。満ち足りていると欲望という感情は湧き起ってきません。するとそれに対応する行動も縮小再生産されることになります。だから絶えず小さな不安、違和感、問題、イライラ感を抱えているということはとても大切なことです。それは我々が生きていくための貴重な食料とともに、心の食料となるものです。心の食料が継続的に補給されないと、我々はまともに生きていくことができないのです。そのためにはせめて物質的な欲望を手放しに追い求めることは慎みたいと思います。むしろ必要最低限の欲望に抑制していくという生活態度を身につけることが大切です。ここにもバランス感覚を前面に出して生活するということです。調和がとれていれば破綻することなく、継続できます。そこに「生の欲望」が健全に育つ糸口があります。
2013.10.09
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今月号はほぼ全部読み終わりました。何点か取り上げてみたい記事がありました。まず「私流森田の読み方」より世にはある種の人は、初老期になって、早職を退き・閑地に隠居するものもあるが、科学者や哲人の中には、往々にして、死にいたるまで、自分の仕事を念頭から離さず、その業績を続ける人がある。余も少しなりとも、これ等の人々にあやかることができるかと思えば、自ら心ひそかに満足を覚えるのである。私もこの世では生涯森田を極めてゆきたいと思う。たいした能力もないので、大きなことはできない。しかし微力ながらも、一人でも二人でも人の役に立って生きてゆきたい。時々気分本位になって、いろんな発見会の世話役を降りたいなと考えることもある。でも一つを降りれば、どんどんと人生が縮小再生産に陥ってしまうことは目に見えている。発見会で昔はすごく活躍した人でも、役職を降りて光り輝く人を見ることは少ない。どんどん生きがいが小さくなっているような気がする。それは世話活動を縮小することで、情熱も衰えてしまうからである。正岡子規は死ぬ間際まで病気の苦しさを抱えながらも、創作活動の情熱は失わなかった。森田先生もそうである。水谷先生もそうだった。死ぬまで燃えるような情熱を持っておられた。私たちは苦しみやしんどさを抱えながらも、運命を切り開いていくという態度が大切だと思う。決してしんどいからといって安易な道に陥ることは慎みたい。その生き方が森田的生き方につながるのではなかろうか。
2013.10.01
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戦艦大和はアメリカ空軍によって東シナ海で沈められた。広島県呉市から打たれた主砲は、四国の愛媛まで届いたという戦艦大和がもろくも沈んだのである。護衛の航空部隊もつかない出撃は、自殺行為であり、作戦として形をなさないというのは多くの人が分かっていた。それなのになぜ出撃させて多くの若者の命を無駄死にさせたのか。戦艦大和の出撃に関して、小沢中将は、「全般の空気よりして、当時も今も大和の特攻出撃は当然と思う」(文藝春秋1975.8)といっている。この戦時下では、全体の空気が日本を重苦しく支配して、反対の意見を述べようものなら即時戦犯として処刑される運命にあったのである。特攻隊員にしても同じであった。この時代は自分の意志は全体の空気によって一方的に押し切られていったのである。いまの時代はその当時とは違って形式的には自由に自分の意見を述べることができる。しかし「空気読みの達人」を目指している人が依然として多い。いつも周囲の目を気にして、周囲に合わせるという立場をとり続けている人が多い。この生き方はとても苦しい。空気を読むということは、読めないよりはよいのは決まっている。しかし、もっと大切なことは、人に合わせる前に自分の意見をしっかりと持つということだ。自分の「生の欲望」に正直に従うということだと思う。曲がりなりにも「生の欲望」を持つことができれば、次に相手の意向との妥協点を探すという段階に入ることができる。森田理論学習は、「生の欲望」の発揮を横においては成り立たない理論である、ということをよく学習してほしい。
2013.09.19
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Aさんは30歳の女性です。独身です。4年生大学を卒業して、東証一部上場会社に入社しました。最初は飲み会などにもよく誘われていました。ところが最近はケースに自分が呼ばれることがなりなりました。かっての同僚たちは結婚してどんどん退職し、自分よりも若い人たちが増えてきました。顔のシミやシワも気になって自分が嫌になるそうです。若手女子社員が雑談していると自分の悪口を言っているのではないかと不安になるというのです。エステやカルチャーセンターに通ってみてもむなしさを感じて長続きしないというのです。この例は自分が歳をとっていく不安もありますが、自分の生きる方向が定まっていないことの不安が大きいと思います。周囲の人は結婚、子育て、キャリアウーマンとして自分の生き方を持っているのに、自分はいまだにそういう核になるものを見つけ出していない。そういう不安です。自分に信頼が寄せられないのです。NHKにプロフェッショナルという番組があります。この人たちは自分のすすむべき道をしっかりと持っている人です。その道を突き進んでいる人です。そうした人は失敗が気になりません。失敗は次の成功のための餌のようなものです。自分のアイデンティティをしっかりと確立させています。自分を信頼し自信を持っています。他人の悪い評価は自虐ネタとして笑いの種にする事ができるようです。自分のやりたいこと、進むべき道を見つけることは、自分の生きていく土台作りのようなものです。それがないと、他人の顔色をうかがいながら生きていくことになります。ストレスがたまるばかりです。森田では自分の感情を大切に扱うことを重点的に学習します。私はそれに加えて自分のこうしたいという意思を大切に扱うこと。それを前面に押し出して生活する態度を身につけること。なければそうしたものを養成して確立していくこと。これも森田理論の学習に通じると思います。大切なポイントです。
2013.09.17
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アメリカでは子供が悪いことをすると家に閉じ込めてしまう。自由で勝手気ままな行動を制限して罰を与えるのである。アメリカでは自由を奪われるということに苦痛を感じる。反対に日本人は子供が悪いことをすると家の中に入れずに外に出してしまう。つまりもう保護の対象ではないから、自由に一人で生きていけと見放してしまうのである。日本で見放される、外されるということは社会的な死を意味している。だからみんな恐れているのである。これは文化の違いだと言えばそれまでだか、それぞれに長所短所が入り交じっている。いずれも偏り過ぎると、さまざまな問題として表面化される。日本の問題に絞ってみてゆこう。こんな事件があった。「佐世保小六女児同級生殺害事件」である。小学校6年の女児が学校内で、同級生をカッターナイフで切りつけて殺すという事件である。この被害者と加害者は普段から仲の良い子供として周りから見られていたそうである。殺害のきっかけは、加害者が教室で被害女児におぶさった時、「重い」といわれた事や、ネットで悪口を書かれた事といわれている。どちらかというと殺人事件にまで発展しそうな問題だとは思われない。これは息苦しいまでに学校では、毎日友達に気を使って生活しなくてはならない中で起きた事件のような気がする。お互いに縛り縛られあって、やれ携帯メールだといって「つながってなくちゃなんない症候群」の状態にあったという。(小林道雄氏「感受性の未熟さが非行を招く」)閉塞的で窒息状態にあったのである。自分の行動が常に相手によって監視され、価値判断を下されるということは考えただけでも重苦しい。このように自分の勝手な自由な行動が制限されると、ちょっとした不快な出来事であってもすぐに耐えられなくなり、爆発するのである。我慢に我慢を重ねた最後に大爆発するのです。大人でも会社の中で、周りの人の動向ばかりを気にして、仕事がうわの外という人がいる。悪化すると出社することができなくなる。佐世保の事件と同じ構図である。本来人間は、他人の思惑を気にすることは二の次にして、自分気持ちを大切にし、やりたいことに自由にのびのびと取り組んでいる時に、この上ない快感を覚えると思う。それを封印して、人に合わせること最大の価値を置いて、他人に気を使うということは、その自然の流れに反することだ。水は上から下に流れるのに、無理やり下から上に流そうとするようなものだ。ここは森田の出番だ。自分の「生の欲望の発揮」を第一に考えること。これが重要である。これをないがしろにすることは、生きることがつらくなる。まずは一つでもそうしたものを持つことが大切だと思う。最終的には自分の「生の欲望」の発揮と他人への配慮がバランスが取れていかないと、まともな生き方には結びつかない。でも神経質者の場合はその前に、自分というものを前面に打ち出して生きるという姿勢が持てないということが問題である。「生の欲望の発揮」は森田理論の根幹である。十分に学習してほしい。
2013.09.15
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やる気というものはどうしたらでてくるのでしようか。森田では物事を観察し、見つめていたり、なりきることによって感じがでてくる。感じがでてくればやる気がでてきて、自発的に行動するようになる。創意工夫がでてくればさらに感じが高まる。どんどん好循環が始まるといいます。意欲がでてきたり、モチュベーションが高まることが活き活きと生きることにつながります。今日はそれ以外のやる気を高める方法を考えてみたい。私の取り入れていることです。1、 ライバルを持つ。私たちは負けず嫌いです。同じぐらいの力の人か少し上の人をライバルとして意識するようになると、途端にやる気に火がつきます。2、 目標を持つ。それも小さな目標を持つ。こまかい雑用をきちんとこなしていくようになれば、仕事の回転がよくなります。小さなトラブルも未然に防ぐことができるようになります。仕事を追っていくようになると仕事が楽しくなります。弾みがついてきます。3、 人に評価される。自分のやったことを上司や同僚から評価されると、さらにやる気が増してきます。4、 見返りがある。報酬がある。評価が給料やボーナスなどに跳ね返ってくればますますやる気になります。また何か達成すると自分に自分がプレゼントを考える。5、 やる気のある人やグループに参加する。自然にやる気がみなぎってきます。集談会でも治った人の側にいて薫陶を受ければそれだけ自分も早く治ることができます。6、 心身をいったん弛緩状態に意識して落とす。これは森田理論の緊張と弛緩状態のリズムを作るという応用です。人間の行動は波のようにあがったり下がったりを繰り返しているという現象を利用するのです。
2013.09.07
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以前集談会に来ていた女性の人から「人間はなんで生きているんでしょう」と言われました。その時はとっさなことで返事ができませんでした。今考えると人間は誰ひとり目的を持って生まれてきた人はいないと思います。親の種族保存欲求か、強い性欲の結果として生まれてきた人が多いのではなかろうか。大体こうゆう質問をするのが神経質らしい。多くの生存競争の果てに、宝くじよりも高い確率を乗り越えて生まれてきたのだから、これからどう生きるかということに注意を向けたほうがよいと思う。私は人間が生きるということをこう考える。生きている限り、次から次へと難題が降りかかる。問題がないという人は一人もいない。それに対して、なんとか解決の手掛かりを模索して乗り越えようとする生き方、その意気込みを持ち続けることが人生なのではなかろうか。乗り越えることができれば自分も成長できるし、自信にもなる。生きる楽しみがでてくる。また次の課題に対して前向きにとり組むこともできる。自分ひとりでできないときは、人の応援を頼む。今できなければ時期が来るまでじっと待つ。今どんなに苦しくても、そうゆう方向に目を向けているという気持ちが大事なのではなかろうか。
2013.08.29
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