全23件 (23件中 1-23件目)
1
立川談四楼『声に出して笑える日本語』(知恵の森文庫) 悲惨な事件を伝えた女性キャスターがまとめのコメント。「ご遺族は今、悲しみの<ズンドコ>に沈んでいます......」アナウンサーの致命的な言い間違いから、思わずニヤリの上品な下ネタ、そして愛すべき落語の世界の味わい深いセリフまで。酒場で飲んでいても昼寝中でも、行き交う言葉に耳を澄ませて集めた「笑える日本語」の数々。落語家にして作家でもある著者ならではの「耳の付け所」が冴え渡る! 確実に笑えてタメになる傑作エッセイ。(内容紹介) ◎急に朝降る雨は? 本業の落語が上手いか下手かは、本を読むまでは聞いたことがないので知りません。しかし立川談四楼の文章は一級品です。立川談四楼は耳をダンボにして、世の中の言い間違いを拾いまくります。言葉の専門家であるアナウンサーの言い間違い。師匠である談志のとんでもない思い違い。落語界の師匠たちの楽屋ネタ。女子校生のやりとり。とにかく面白ネタ満載の絶品です。一例を示すとこんな具合です。 NHK女子アナが、中継中に夕立に見舞われます。以下引用してみます、――「夕方に降る雨を夕立と言いますよね」/ここでよしゃよかったんだが、このあとのセリフが命取り(生きてます)になった。妙齢のご婦人の口から「では朝降る雨は朝立ちと言うんでしょうか?」というお言葉が発せられたというのだ。(本文P37) こんな話が延々とつづきます。一話が3ページほどですので、私はにやけながら1日1話を楽しみました。 立川談四楼は1951年生まれの落語家です。1983年に二つ目に昇進し、談四楼と改名しています。その後1983年に真打ち昇進試験を受けるのですが落っこちてしまいます。これに怒り、師匠の立川談志は日本落語協会と袂(たもと)を分かちます。立川談四楼の作家デビューは1990年に発表した『シャレのち曇り』(ランダムハウス文庫)です。その後たくさんの著作を上梓しますが、私は『声に出して笑える日本語』(光文社知恵の森文庫)が、最高傑作だと思っています。本書は『もっと声に出して笑える日本語』『もっとハゲしく声に出して笑える日本語』(ともに知恵の森文庫)へと書きつなげられます。 ◎伝家の宝刀「のようなもの」 『もっと声に出して笑える日本語』(知恵の森文庫)の巻頭(前口上)に面白い文章があります。 ―― 一部では熱く支持されたものの、大して売れなかった単行本『日本語通り』が文庫化され、『声に出して笑える日本語』となった途端、売れ出しました。まるで村上春樹を思わせる売れ行きです(笑)。(本文P3) 『声に出して笑える日本語』は文庫化されたから売れたのではなく、斎藤孝の『声に出して読みたい日本語』にタイトルを似せたのがよかったんですね。こういうおもしろ本は、ハードカバーよりもお気軽な文庫の方が似合います。それも売れた要因のひとつでしょう。 私が最もおかしかったのは、P211の「のようなもの」です。今から40年前に、私は「のようなもの」を連発して難関を切り抜けました。当時の私は外資系製薬会社の購買課長でした。自己申告のたびに、営業への転籍希望を出していました。それがかなえられたのは、33歳のときでした。製薬会社の営業マン(MR)は入社後半年間の研修が義務づけられています。33歳の私は10歳ほど若い新人に混じって、導入教育を受けました。医学、薬学の基本を徹底的に教え込まれるのです。そして毎朝、知識確認テストが実施されます。 そのときの答案用紙に私は「〇〇のようなもの」と書き続けました。同期の研修課長が笑いながら「△」をつけてくれました。本書を読んで、懐かしい時代のことを思い出しました。では本書の「のようなもの」を引用させていただきます。 ――「のようなもの」という言い回しが私は好きだ。これは落語『居酒屋』に出てくる小僧のセリフ「できますものは汁(つゆ)、小柱(はしら)、鱈(たら)、昆布(こぶ)、鮟鱇(あんこう)のようなもの……」からきていて、哀れ小僧は「のようなものって鮟鱇じゃねえのか」と客にツッコまれてしまうのだ。(本文P213) 本を紹介したのだからと、落語の方もネットで聞いてみました。師匠の談志にはかなわないでしょうが、面白かったです。おあとがよろしいようで。山本藤光018.09.11
2018年10月11日
コメント(0)
瀧井孝作『無限抱擁』(講談社文芸文庫) 男と女が出会ったのは吉原。春に出会い晩秋に別れた。それから三年目の春、二人は再会する。そしてその年の冬、男は求婚し結婚した。…出会ってから六年目、一月に雪、二月の或る朝、女は息を引き取った。血を吐き死んだ。―著者のストイックな実体験を、切ない純粋な恋愛小説に昇華させ、「稀有の恋愛小説」と川端康成に激賞された不朽の名作。日本近代文学史上屈指の作品。(「BOOK」データベースより) ◎ まるで、だだっ子 瀧井孝作は、1894(明治27)年に飛騨高山で生まれました。13歳で母親を失い、15歳で魚問屋の丁稚となります。このころ俳句に興味をもち、河東碧吾郎に師事します。 その後、芥川龍之介の知遇を得て、佐佐木茂索や小島政二郎らと知り合い、創作への道を踏み出します。また志賀直哉を慕い、その転居先を千葉県我孫子からはじまり、京都、奈良と追いかける執拗さをみせます。 小町谷新子『一生の春 父・瀧井孝作』(蝸牛社、初出1990年)を読みました。著者は瀧井孝作の次女です。非常に暖かな眼差しで、父親やそれを取り巻く人々を活写していました。また瀧井孝作が愛した風景を、実にていねいに描写しています。 ――父は勝手に毎日出て歩き、勝負事に徹夜や朝がけ、坐のあたたまるときがない。たまに帰って来ると、他人の持ち物が気に入ってそれと同じものがほしくなったりする。ストーブがほしいという。今すぐ三十円が必要だという。一日三十銭の石炭代がいる。それはあまりに今の生活からは贅沢だと母が云うと、「俺の云うことに何でも買わせまいとする」と父は怒る。まるでだだっ子である。(本文より) ――父は、高山のものは何でも自慢した。高山から送られた塩せんべいをたべると、「これには高山の空気が入っているヨ」と嬉しそうだった。(本文より) 『一生の春』は文人としての瀧井孝作と、父親としての瀧井孝作がみごとに書き分けられています。そしてその落差が、何ともいえないおかしさを誘います。 ◎芥川賞の選者 瀧井孝作は、芥川賞の第一回から第八十五回までの選者でもありました。瀧井孝作は第一回の芥川賞の選評でこういっています。 ――こんどの候補者選出の責任はぼくにある。この五人のほかにもっとよい候補者があったかも分からない。もし洩れていたらぼくの識見の至らない点で、はなはだ相済まないことだと思うし、ひたすらお詫びするわけだ。(「芥川賞全集・第一巻」より) 私はこの文章を読んだ後、書棚に並んでいる「芥川賞全集」の中から、瀧井孝作の選評をたどってみました。やさしいのです。芥川賞の候補作をきめ細かに読み、前作からの成長を見極めています。また作者の出身地まで考え、作品の中にその影を見出します。ていねいでもあります。 ◎生真面目と正直 主人公の竹内信一は、小説家を志す二十三歳。吉原の遊郭で二十一歳の松子と知り合います。彼は松子の正直な性格と美貌に一目惚れし、一緒になりたいと切望します。信一の生真面目な性格を熟知している周囲の人は、心配します。 結婚を迫る信一に、松子は我が身の不浄さを考えて拒絶します。それからの信一は、抜け殻のような状態になります。 そして約一年後、二人は再会します。松子は信一の申し入れを受諾して、結婚します。しかし新婚間もない松子は、結核に罹患してしまいます。 喀血。松子の死。物語は単純なのですが、研ぎ澄まされた文章が臨場感を与えます。瀧井孝作の文章について、触れている論評があります。 ――瀧井孝作の散文は俳文に端を発している。また、私小説は日本の文学伝統のうちでは随筆文学にも根をもっているにちがいない。(松原新一ほか『戦後日本文学史・年表』講談社P331) 本書は瀧井孝作の自伝小説です。タイトルの「無限抱擁」は、「夢幻泡影」をもじったものです。夢幻泡影(むげんほうよう)は、人生や世の中の物事は実体がなく、非常にはかないことのたとえです。(むげんほうえい)とも読みます。 ◎塩せんべい美味いだろう 川端康成は『無限抱擁』を、希有な恋愛小説として絶賛しています。川端康成の『雪国』の冒頭文は、本書の影響を受けているという説もあります。 ――浅川駅よりトンネルもなくなり空は夜明であった。/車室の窓ぎわで一人、信一は、靄(もや)の間から麦の穂の赤んで居る有様に向いて、「もう麦が赤む」と呟いた。(『無限抱擁』冒頭文) 小林秀雄は瀧井孝作の文章を引いて、次のように書いています。 (小林秀雄の引用箇所)――街角の裂目に、しのばずの水面が光って居た。松子は惹かれるような気がして、供れの信一に一寸目を呉れた。彼も一緒に水面の光っておる方へ踏出した。/平に伸べた水が明るく、池べりの広っぱの上には疎らな砂利が残っており、二人が踏む其僅な礫が折々音を立てた。(本文P76) 引用文はもっと長いのですが、割愛することにします。以下、小林秀雄の文章です。 ――何と正確な拡張をもった溌剌たる文体であろう。この文章から光と陰とが同時に在る様な映像が浮かび上がる。(小林秀雄『全文芸時評集・上巻』講談社文芸文庫P37) 過日、友人家族と飛騨高山へ行って、自分たちで塩せんべいを焼いて食べました。瀧井孝作の自慢げな声が、聞こえたような気がしました。 (山本藤光1998.12.05初稿、2018.01.06改稿)
2018年01月07日
コメント(0)
高見順『如何なる星の下に』(講談社文芸文庫) 昭和十三年、自ら浅草に移り住み執筆をはじめた高見順。彼はぐうたらな空気と生存本能が交錯する刺激的な町をこよなく愛した。主人公である作家・倉橋の別れた妻への未練を通奏低音にして、少女に対する淡い「慕情」が謳い上げられるのだった。暗い時代へ突入する昭和初期、浅草に集う人々の一瞬の輝きを切り取り、伊藤整に「天才的」と賞賛された高見順の代表作にして傑作。(「BOOK」データベースより) ◎軍需景気にわく浅草 高見順は1907(明治40)年に、私生児として福井県で生まれています。実父は当時の福井県知事でしたが、会ったことはありません。高見順は東大英文学科卒業後、1933年に治安維持法違反で検挙されます。その後、転向して釈放されますが、妻は男と失踪していなくなっていました。 高見順の作品には、こうした経歴が大きな陰を落としています。1936年『故旧忘れ得べき』(新潮文庫)で文壇デビューします。本書には「転向」した心境が、自嘲気味に書かれています。 1939年に『如何なる星の下に』(講談社文芸文庫)を上梓します。本書は浅草に暮らす人々と時代を活写した、ノスタルジックな作品です。主人公の「私」こと倉橋は、うだつの上がらない文筆家です。彼は浅草の盛り場に近いアパートの一室を、仕事部屋にしています。浅草の活気を原稿用紙にノリ移させたい。「私」はそう気合いをこめているのですが、筆は一向に進みません。そんななか「私」は、K劇場の雅子という踊り子に恋心を抱きます。「私」は芸人たちが集まる、お好み焼き屋に出入りしています。そこの店主である美佐子は、倉橋の素性を知って態度を豹変します。彼女の妹は、倉橋の元妻に夫を奪われたことが原因で、病死したというのです。 時代は1938年ころ。世の中は軍需景気にわき、社会の底辺にいた人たちに元気が生まれています。お好み焼き屋・惚太郎には、落ち目の芸人や売れはじめた芸人などがやってきます。彼らは浅草を語り、そこで暮らす人たちについても語ります。 ◎ひ弱な気質 本書には、浅草が丸ごと写しとられています。倉橋が通う惚太郎は、似たような名前で現存しています。倉橋は友人の差配で、K劇場の楽屋で雅子と対面します。舞台上の雅子と違い目の前でみた彼女は、華奢で陰鬱な感じがします。のちに知ることになるのですが、雅子はお好み焼き屋の美佐子の妹だったのです。 倉橋の元妻に夫を寝取られた美佐子の妹。そして倉橋から恋慕されている美佐子の妹・雅子。倉橋は浅草に、運命を感じはじめます。 倉橋は、自分のひ弱な気質を知っています。それゆえ、活気のある浅草に仕事部屋を求めたのです。しかし近辺の人たちは、みな貧しく一様に悩みを抱えていました。町の活気と人々の貧しさのギャップを、高見順はみごとに描き分けています。 物語に大きな起伏はありません。高見順は淡々と、浅草で暮らす群像を描いてみせます。浅草の華やかさのなかに、芸人や踊り子を置くことにより、高見順は舞台の表と裏の世界を描こうとしました。舞台の上では華やいだ衣装をまとい、観客に明るく振る舞う芸人や踊り子たち。彼らが舞台を離れたときの悲しみやその境遇を描くことで、小説に光りと陰を生み出そうとしたのです。 本稿を書き終えてから、次のような論評に巡り会いました。いいなと思いましたので、紹介させていただきます。 ――浅草における倉橋の観察記録が映し出すのは、実は倉橋自身の姿なのかもしれない。(安藤宏・編『日本の小説101』新書館P109) ◎樗牛の歌 これぞ浅草。そんな記述は、随所にありました。磯田光一は著作のなかで、次のように書いています。さすがに鋭い指摘だと思います。 ――作中の「私」(倉橋)はその映画をさきに銀座で見ていたのである。善良なブリキ屋の親父が、大晦日に勘定を貰えず、心痛ゆえに家族の前で暴れ廻るという一瞬を見て、銀座の観客はその暴れ方の滑稽さに、どっと笑った。ところが同じ映画を浅草で見たとき、そこにはまったく違った現象が起こったのである。(磯田光一『昭和作家論集成』新潮社P153) 磯田光一が書いている場面で、浅草の観客はすすり泣くのです。高見順の細やかな筆裁きの妙を、磯田の指摘で再確認することができました。 ――「如何なる星の下に生まれけむ、われは世にも心よわき者なるかな」(樗牛)作者はその心弱き魂のエゴイズムを、可憐な踊子への淡い慕情を独特の饒舌体によって内面からつづることで表現した。(小田切進・尾崎秀樹『日本名作事典』平凡社) 樗牛の歌については、小林秀雄は著作のなかで引いています。いいなと思いましたので、全文を書き写してみます。――如何なる星の下に生まれけむ、われは世にも心よわき者なるかな。闇にこがるるわが胸は、風にも雨にも心して、果敢(はか)なき思をこらすなり。花や採るべく、月や望むべし。わが思には形なきを奈何(いか)にすべき。恋か、あらず、望みか、あらず(小林秀雄『全文芸時評集・下巻』講談社文芸文庫P254) 本書を読んで、浅草へ行ってみたくなりました。高見順が描いた浅草を探しに。山本藤光2017.12.27
2017年12月27日
コメント(0)
田辺聖子『私的生活』(講談社文庫)辛く切ない大失恋のあと、剛から海の見えるマンションを見せられて、つい「結婚、する!」と叫んでしまった乃里子、33歳。結婚生活はゴージャスそのもの。しかし、金持ちだが傲慢な剛の家族とも距離を置き、贅沢にも飽き、どこかヒトゴトのように感じていた。「私」の生活はどこにある? 田辺恋愛小説の最高峰。(「BOOK」データベースより)◎きっと結婚する 田辺聖子『私的生活』(講談社文庫)は、「乃里子シリーズ」(「言い寄る」「私的生活」「苺をつぶしながら」)の2作目にあたります。シリーズのなかでは、本作がベストだと思います。もちろん第1作から読む方が好ましいのですが。『言い寄る』(講談社文庫)の「あとがきに代えて」で、田辺聖子はシリーズの抱負を次のように語っています。――男の子と女の子が、互いに、どこが好きか、どこに魅かれたか、ということを発見していく小説、会話がぽんぽんとかわされて、頁をめくるいとまも惜しいというような小説こそが、恋愛小説だと思っていたから。(同書「あとがきに代えて」)『言い寄る』での乃里子は独身。財閥の御曹司・剛とのちぐはぐな関係が描かれています。ここでの剛は妻がありながら、誰とでも寝る独善的で鼻持ちならない男です。常に相手を見下し、金持ちを鼻にかけています。平気で乃里子を殴ります。嫉妬深く、ときどき幼さが顔を出します。 そんな剛と乃里子は、結婚することになるだろう。確信のなかで、この2人が結婚したらどんなことになるのだろうか。第1作を読み終えたとき、第2作の『私的生活』では、もっとはちゃめちゃになるだろうとの予感はありました。◎かわってゆく人の心 田辺聖子は『私的生活』のあとがきに、次のように書いています。――私にとって男と女の関係は尽きぬ興味の源泉である。それも波瀾万丈の運命よりも、日常のただごとのうちに心がわりしてゆく、という、そのあたりのドラマが私の心を惹きつける。白い布に一滴の水が落ち、静かにしみ(・・)がひろがってゆくように、また夕焼けの色が褪せるように、かわってゆく人の心というものは、なんとふしぎなものだろう。(文庫本あとがき) 田辺聖子は引用の心意気を、みごとに小説として表現しました。主人公の乃里子は32歳。どこにでもいるタイプの細身の女性です。頭はよく、仕事はてきぱきとこなします。そんな乃里子を、大会社社長の長男「剛」が見初めます。剛は乃里子よりも年下で、ハンサムで気位が高く幼稚な性格です。剛は乃里子を神戸の海の見えるマンションへ誘います。そして乃里子はそこで、求愛を受諾します。――私は、このベランダの光景が好きで、剛と結婚してうれしかったのは、このマンションからの眺めのせいだ、といったら、叱られるかしらん。(本文P10)◎別れ方 結婚により、乃里子の生活は激変することになります。服はオーダーメイドになり、欲しいものは電話一本でデパートの外商が届けてくれます。第1作『言い寄る』に登場する乃里子の仕事場兼住居マンションは、そのままになっています。 剛はここに忍びこんで、乃里子の古い日記を盗み読みします。それが露見してのやりとりは、2人のちぐはぐさの頂点といえます。(引用はじめ)「すまん、いうてるやないか」 剛は、さっきの、機嫌のいい顔に戻ろうとしていた。「そやけど、考えてくれよ、好きやからそんなん、すんねん、乃里子が好きやから、何考えてるか知りとうなるねん――」(引用おわりP135) このあたりから、乃里子は別れの予感を抱きはじめます。冷めてしまった関係を修復しようと、剛は乃里子を旅行に連れ出します。しかし乃里子の心境は、次のようなものでした。――このまま、剛とつづけていくこともできるし、「殺すなら殺せ」の心境で、剛の一族と折り合いよく、暮らしていく才能も、私にはある。しかし、いつかは、「散髪にいくよ」と出ていくことになるだろう。(本文P268) これ以上ストーリーには触れませんが、川上弘美が本書のラスト部分に言及している記事があります。――田辺聖子さんの本を、恋愛小説と思って読んでいると、「あっ、油断した」いう瞬間があるんです。『私的生活』という話の、最後のほうで恋人と別れるにはどうしたらいいかを主人公の女の人が知り合いの男の人に訊くんです。そうすると、その男の人がお金をもらって別れるんですね、払って別れてもらう場合もあります、と言うんです。(糸井重里との対談。2006.01.20) 田辺聖子に「びっくりハウス」(『鼠の浄土・田辺聖子コレクション7』ポプラ文庫所収)という短編があります。百目鬼恭三郎は次のように解説しています。田辺聖子しか書けない世界。3部作を読むのはしんどいという方にお勧めです。――浮気がバレても一向に平気な妻と、はじめは腹をたてていても、いつの間にかその浮気相手の青年と意気投合してしまうアカンタレの亭主、というケッタイな夫婦の話をあっけらかんと書いて、この作者のほかにはだれも描き得ない独特の世界を展開してくれているのだ。(百目鬼恭三郎『現代の作家一〇一人』新潮社P127-128)「山本藤光の文庫で読む500+α」では、すでに田辺聖子『今昔まんだら』(角川文庫)を紹介させていただいています。田辺聖子は古典に誘う名ナビゲータですが、関西弁の小説にも味があります。 (山本藤光2017.07.28)
2017年07月28日
コメント(0)
高樹のぶ子『光抱く友よ』(新潮文庫)奔放な不良少女との出会いを通して、初めて人生の「闇」に触れた17歳の女子高生の揺れ動く心を清冽な筆で描く芥川賞受賞作ほか2編。(アマゾン内容紹介)◎34歳でデビュー 高樹のぶ子は1946年生まれですから、古希を越えています。38歳(1984年)のときに、『光抱く友よ』で芥川賞を受賞しています。デビューはその4年前に発表された『その細き道』(初出は『文学界』への転載、文春文庫)でしたから、遅咲きの作家といえます。『その細き道』は男女の友情が、三角関係に変化する過程を描いた作品です。単行本の「あとがき」には、次のような文章があります。この「あとがき」こそ、高樹のぶ子のその後の作品を生み出す原点になります。――人間が人間に及ぼす影響のなかで、もっとも深い部分を揺り動かすものは何だろうと考えてみるとき、友情や信頼、無償無私の行為といった、人間の美質がもたらす抗いがたい力を、思わないではいられません。(単行本あとがき) 高樹のぶ子にこの思想をもたらしたのは、短大時代のキリスト教学や美学の授業にあるとされています。そして高樹のぶ子を、本格的な創作に向かわせたのは離婚でした。高樹のぶ子は、離婚に関して「一方的に自分が悪い」と語っています。 当時の彼女には、一人の息子がいました。子どもは絶対に会わせないという条件つきで、前夫に引き取られています。したがって彼女の書く小説は、会うことのかなわない子どもへのメッセージなのかもしれません。 作風は地味ですが、最近では『マイマイ新子』(新潮文庫、ちくま文庫、初出2004年)が映画化されて話題になっています。◎勝美の「今」 主人公の相馬涼子は高校二年生。担任の三島良介先生に密かな恋心を抱いています。ある放課後、三島先生が同級生の松尾勝美を、強い口調で叱責している現場を目撃します。普段温和な先生の口汚い言葉に、涼子は強い衝撃を受けます。 その後涼子は、勝美と親しく話をするようになります。勝美は1年留年して同級生になっており、クラスでは完全に浮いた存在でした。いろいろ話をしていて、くだんの三島先生とのできごとは、彼女の母親が書いた手紙にあることを知ります。勝美は母が書いた稚拙な手紙を、担任の三島先生に渡しました。それを見て三島先生は、勝美がふざけて書いたものだと決めつけ、激怒したのが事件の真相でした。 勝美は涼子に、手紙の代筆を依頼します。そして戻された手紙が母の書いたものであることを、絶対に公言しないように念押しします。 それをきっかけに、二人の友情は急速に深まっていきます。冬休みに涼子は勝美の誘いに応じて、彼女の家に行きます。一階は小さな居酒屋で、2階に勝美の部屋がありました。部屋の壁から天井まで、天体写真で埋めつくされていました。そしてアルコール依存症の母と勝美の、取っ組み合いの騒動を目撃します。 いっぽう、涼子の父は大学教授です。恵まれた家庭しか知らない涼子にとって、勝美の「今」は壮絶なものに感じました。そしてタバコを吸い彼氏と寝る勝美は、小さな身体で一家を支えているのだと思いいたりました。さらに勝美の母に対する、深い愛情をも感じとりました。 ここから先の展開には触れません。物語は感動のラストへと一気に向かいます。◎「水」と「光」 三島先生に、密かな恋心を抱いていた涼子。おっとりとして、物怖じするタイプの涼子は、勝美を知るにつれて愛情を深めていきます。悪い噂が耐えなかった留年生の勝美は、根からのはみ出し者ではない。涼子のなかにそんな確信が生まれたとき、彼女に対する愛情に火がついたのです。 そして天体写真で飾られた部屋で、妙に大人びた語らいをする勝美に、違う一面を見ます。その場面を拾ってみます。――こういう写真を見てると、何ていうのかすごく虚しい気分になってくる。人間はとことん無力だと思えてくる。(中略)自分の力が本当に何も無いんだって。チリかゴミみたいなものでね、(本文P39-40) 涼子は若くして人生を諦観している勝美に、希望を与えたいと思います。そして心づくしの準備をして、勝美を自宅に招きます。この場面も、みごとな筆致で表現されています。 本書に関する書評を、いくつか紹介させていただきます。――この小説をモラリスティックな小説一般に回収してはなるまい。何が人のモラルの芯になるのかを問う小説だからである。いつも倫理がモラルを支配してはいない。ときに破倫がモラルたりうることを、高樹のぶ子のその後の小説は、きっと教えてくれているだろうからである。(今村忠純・文、『知っ得・現代の小説101篇の読み方』学燈社P115)――勝美の姿は微光を放つ大きい玉のようなイメージとなって、涼子の頭の中いっぱいに溢れる。作者の作品ではしばしば「水」と「光」とが独特のイメージを構成するのだが、本作の涼子も「水」と「光」に包まれた切ない記憶を胸にとどめることで確実に成長していく。(栗坪良樹・編『現代文学鑑賞辞典』東京堂出版P214) この文章に触れて、作品のなかで「水」に関する記述があったのだろうか疑問に思いました。「光」はこれまでの作品のなかに満ちあふれていました。結局、3度目の再読を余儀なくされました。そして発見しました――雨滴がぬくもりを含んで落ちてきた。高い樹木のてっぺんから木の葉伝いに落下してきて、地表の病葉(わくらば)に注がれる。一滴が土に染みこむまでに、幾通りもの細かい音を発する。(本文P170) なるほど、うまいなと思います。高樹のぶ子の作品に、「水」の強烈なイメージを抱いたことがあリませんでした。勉強になりました。(山本藤光2017.07.23)
2017年07月23日
コメント(0)
田口ランディ『コンセント』(幻冬舎文庫)ある日、アパートの一室で腐乱死体となって発見された兄の死臭を嗅いで以来、朝倉ユキは死臭を嗅ぎ分けられるようになった。兄はなぜ引きこもり、生きることをやめたのか。そして自分は狂ってしまったのか。悩んだ末に、ユキはかつての指導教授であるカウンセラーのもとを訪ねるが…。彗星のごとく出現し、各界に衝撃を与えた小説デビュー作。(「BOOK」データベースより)◎『コンセント』を含む3部作は優れている「山本藤光の文庫で読む500+α」執筆のために、わざわざ文庫本を買い求めています。一度単行本で読んでいながら、このプロセスをふむのは、加筆修正などの箇所を知りたいからです。また、誰が文庫解説を書いているのかを、知ることも楽しみのひとつです。 田口ランディには、盗作騒動などいろいろありました。しかし『コンセント』『アンテナ』『モザイク』(幻冬舎文庫)の3部作は優れています。私は幻冬舎文庫で再読しましたが、新潮文庫からも出ています。問題の箇所はすべて、書き直されているようですので、後発の新潮文庫の方がお勧めかもしれません。 田口ランディは何度も直木賞候補になりながら、受賞できないでいました。不思議だなと思っていました。どうやら盗作騒動で、直木賞受賞は幻になってしまったようです。 田口ランディは、ずっと高く評価していた作家です。 田口ランディは、インターネットでメールマガジンを発行していました。読者数は6万人。それが一躍売れっ子作家となったのです。現代版シンデレラ物語のようです。田口ランディは、1996年にエッセイ『忘れないよ!ヴェトナム』(幻冬舎文庫)を出版しています。それから4年後、処女小説『コンセント』を出版します。 ◎家族のだれかが突然に消える 田口ランディが小説に挑んだ動機については、『鳩よ!』(マガジンハウス2001年4月号)の「特集・田口ランディ・魂を救え」でのインタビューを中心に紹介したいと思います。聞き手は永江朗です。(引用はじめ)田口:ある仕事で鈴木光司さんにロングインタビューに伺いました。そのときの雑談で、鈴木さんが豪華なクルーザーと熱海にリゾートマンションをお買いになっている話が出て、帰り道に編集者と居酒屋でお酒を飲みながら、(中略)「鈴木さんが『リング』『らせん』『ループ』(補:いずれも角川ホラー文庫)なら、私ならどんな三部作かな?」というと、彼は「うーん、田口さんは電波系がいいんじゃないですか。そっち系が得意そうだし」という話になったんですよ。(後略)(引用おわり) 酒の席で編集者の意見を受けて、田口ランディが羅列したのが「コンセント、アンテナ」だったのです。つまり3部作は「電波系」と名づけてもいいものであり、タイトルが先に生まれていたのです。『コンセント』は、傑作でした。その後『アンテナ』『モザイク』と読みつなぎましたが、それぞれが独立した作品と認識を改めることになります。3つの作品の共通テーマは、「家族」です。作品の登場人物は異なるものの、「存在」と「喪失」という軸にブレはありません。そのあたりのことについて、田口ランディ自身が、『アンテナ』(新潮文庫)の「あとがき」に次のように書いています。――私の最初の小説作品「コンセント」は、妹が兄を探す話だった。二作目の「アンテナ」は、反対に兄が妹を探す話だが、これは意図したものではない。書き始めたとき、この構図に気がついていなかった。描きたかったのは、「家族の誰かが突然に消える」という喪失体験であり、そのような体験をした機能不全家族の再生を描いてみたかったのだ。 引きこもりの果てに、40歳の兄がアパートで孤独死します。悪臭を放つ腐乱死体の傍らには、コンセントに差し込まれたままの掃除機が転がっていました。妹・朝倉ユキは、死臭の呪縛から逃れられません。多くの批評家がいうように、この作品のラストは気に入りませんでした。◎身体と精神の同化 第2作『アンテナ』は、『コンセント』と主客が逆転しています。主人公「僕」は、消えた妹・真利江の幻覚に悩む兄です。妹は15年前に忽然と姿を消しています。「僕」には真利江が消えた直後に生れた弟・祐弥がいます。祐弥は触覚みたいな「アンテナ」をもち、真利江と交信できます。 父親が脳溢血で死に、母親は宗教にのめりこみます。弟・祐弥の情緒は、しだいに不安定になります。消えた妹の呪縛から逃れられない「僕」。「僕」は自分がひどく無力でちっぽけだと思います。そしてSMの女王・ナオミとの出会いがあります。真利江失踪の謎とともに、封じこめてあった性欲が暴発します。 ばらばらに存在していた、身体と精神の同化。外部との共鳴を起こす装置との決別。田口ランディは『コンセント』同様に、多くの登場人物を物語にはめこみます。それぞれの人物造形に荒さが残るものの、主人公「僕」の恐怖は十分に描かれています。◎「家族」「心の病」にこだわり 第3作『モザイク』の舞台は渋谷です。「僕」は高校時代に学校をサボって観た、映画「カッコーの巣の上で」が忘れられません。刑務所から逃れるために、精神病を装って精神病院へ逃避する主人公。そこは刑務所よりも、ひどい世界だったのです。 『モザイク』は超常現象みたいな世界で、私の好みではありませんでした。田口ランディ「電波系3部作」のなかでは、図抜けて『コンセント』がいいと思います。田口ランディは、「家族」「心の病」にこだわりつづけています。「コンセント」から「アンテナ」へ。一般的には、前者が受動的な存在だとしたら、後者は能動的な装置です。しかし作品では両方とも、外との「感応装置」として意味づけられています。 田口ランディが立ち直り、デビュー作のようないきいきとした作品を、発表してくれることを期待しています。(山本藤光:2010.06.21初稿、2014.12.05再稿、2017.05.07改稿)
2017年05月08日
コメント(0)
王朝末期、妻の不義を知った刑部丞がくやしさ、苦しみを経ていきついたある妙案とは―「王朝の不倫」。死んでしまった最愛の子に会いたくて父はえんま大王に願いをかける―「死児に逢いに」。戦乱の世に咲いたはかない恋。姫は白菊の精と契ったように身ごもるが―「白菊の契り」。今昔物語をはじめ様々な古典の中から、愛とユーモアと知恵にみちた十八話を選び、田辺語訳した、軽妙で奥が深い物語の花束。岡田嘉夫の華麗な画と共に愉しめる贅沢な今昔絵草紙。(「BOOK」データベースより)田辺聖子『今昔まんだら』(角川文庫)◎古典文学のナビゲーター 田辺聖子は『感傷旅行・田辺聖子コレクション3』(ポプラ文庫、初出1964年)で芥川賞を受賞しています。田辺聖子が35歳のときですから、遅咲きの文壇スタートといえます。以来恋愛小説を中心に、数多くの小説と随筆を発表しています。 しかし私は、日本古典文学のナビゲーターとしての、田辺聖子に、スポットをあてたいと思います。古典文学にかんして田辺聖子が最初に発信したのは、『舞え舞え蝸牛 新・落窪物語』(文春文庫、初出1977年)でした。すでに50歳を超えていました。新境地をひらいたのは、この時点からだといえます。それからは実に多岐にわたる、古典文学の紹介をつづけています。ざっと代表作をあげてみます。『文車日記・私の古典散歩』(新潮文庫)『田辺聖子の古典まんだら』(上下巻、新潮文庫)『新源氏物語』(全3巻、新潮文庫)『むかしあけぼの・小説枕草子』(上下巻、角川文庫)『田辺聖子の小倉百人一首』(角川文庫) 『田辺聖子の今昔物語』(角川文庫)『蜻蛉日記をご一緒に』(講談社文庫)『とりかえばや物語』(文春文庫)『わたしの古典1・田辺聖子の古事記』(集英社文庫)『竹取物語・伊勢物語』(集英社文庫) いかがですか、この幅の広さ。まだまだたくさんの著作があります。そのなかから「山本藤光の文庫で読む500+α」推薦作として、『今昔まんだら』(角川文庫)を選ぶことにしました。なんといっても、本書は岡田嘉夫の絵が彩りをそえています。◎お聖節が炸裂『今昔まんだら』(角川文庫)は、「今昔物語集」からの抜粋ではありません。さまざまな古典から、選りすぐったものです。単行本(発表時の題名は『うたかた絵双紙』文化出版局)あとがき(文庫本にも収載)に、田辺聖子は次のように発表の意図を書いています。――しんみりした話。おかしい話。かなしい話。とりどりに、花を活けるようにアレンジしたつもりであるが、さてこの古典の花束が、読者の皆様のお心に叶ったかどうか……。(あとがき) 田辺聖子が書いているように、本書にはさまざまな話が18話とりあげられています。「第1話:王朝の不倫」から、いきなりお聖節が炸裂します。――妻の不義を知ったとき、世の夫たちはまず、(信じられない……)と思うのではあるまいか。刑部丞(ぎょうぶのじょう)がそうだった。(本文P8) この話は『沙石集(しゃせきしゅう)』巻9の「刑部丞ナサケアル者ニテ、相節ナンド常ニ訪(とぶら)ヒケリ」と解説があります。『沙石集(しゃせきしゅう)』は読んだことがありませんし、「ビギナーズ・クラッシックス・日本の古典」(角川ソフィア文庫)にも所収されていません。 田辺聖子『今昔まんだら』は、未知の世界へいざなってくれる貴重な著作です。本書は単に古典の紹介にとどまらず、変幻自在に筆が飛びます。最初の4話までの出典は、次のとおりです。第2話「獅子と母子」(『今昔物語』巻5第2話)第3話「相撲女房」(『諸国百物語』)第4話「母という花」(『日本霊異記』)◎ダイエットの話 第9話「中納言のご馳走」は、なかでも秀逸です。こんなお聖節からはじまります。――ダイエットに励むのは現代人ばかりではない。王朝貴紳もそうであった。今は昔、三条の中納言という貴族がいた。元々上背もあり大柄な所へ、ずいぶん太っちょで起ち居も苦しいほどだったから、医師に相談すると、ダイエットをすすめられた。(本文P161) 田辺聖子はつづけて、「この話は『宇治拾遺物語』にも『今昔物語』にも、ほとんど同文で載せられている」と説明したのち、2作のちがいに触れてみせます。思わず書棚から2作を引き出して、読み比べてみました。 さらにこの中納言の名前は、「藤原朝成(あさひら)」であると筆を進めてみせます。そして中納言の父親に筆がとび。父親の歌を『百人一首』から紹介してくれます。私は古典の世界を、はとバスで移動しているような心地になりました。左をご覧ください。前方には……。 第9話は、笑ってしまうくらいおもしろい話です。岡田嘉夫の絵も、みごとに太っちょのお腹を表現しています。田辺聖子の弾むような名調子と絵のコラボ。たまらないほど楽しい1冊です。 古典の世界に誘う、はとバスのツワーへの搭乗券を、あなたにそっと差し出します。よい旅行を。(山本藤光:2013.08.21初稿、2015.12.09改稿)
2015年12月10日
コメント(0)
主人公の「ぼく」こと坂本が、ロサンゼルス・オリンピックにボートの選手として参加するために搭乗する、太平洋を渡る船の上が主たる舞台である。「秋ちゃん」という呼びかけで始まり、主人公は陸上の選手として同船している熊本秋子に淡い恋心を抱いているが、仲間の男たちの冷やかしを受け、秋子も気づくけれど、遂に恋心を伝えるにはいたらない。 田中自身が1932年に経験した事実に基づいた私小説で、2人の間にほとんど何も起こらない純然たる片思い小説である。帰国後、坂本は学生運動をへて結婚するが、「あなたは、いったい、ぼくが好きだったのでしょうか」というつぶやきで終わっている。秋子のモデルは相良八重である。 戦後、田中の小説があまり読まれなくなる中で、新潮文庫に収められて読み継がれた。(文庫案内より)田中英光『オリンポスの果実』(新潮文庫)◎元オリンピック選手が手がけた小説 手元にある『オリンポスの果実』(新潮文庫)は、昭和61年51刷となっています。この作品は、ずいぶん長いこと読まれつづけているのです。元オリンピック選手が手がけた小説は珍しいと思います。田中英光は漕艇(ボート)選手として昭和7(1932)年、ロサンゼルス・オリンピックに出場しました。『オリンポスの果実』は、そのときの実体験をもとにした青春記です。 当時のことですので、ロサンゼルスまではもちろん船旅でした。その船上で主人公は、走り高跳びの女子選手・熊本秋子に恋をします。このあたりのことにふれた記事がありますので、引用させていただきます。(以下はじめ)――師・太宰治の墓前で自ら命を絶った田中英光に『オリンポスの果実』という作品がある。ボートの選手として参加した昭和7年のロサンゼルス五輪での体験をもとにした青春小説だ。かつて胸をときめかせて読んだという方も多いだろう。(中略)ロスまではむろん太平洋の船旅だった。途中でハワイにも寄港している。その船上やオリンピックの会場で主人公は走り高跳びの女子選手に恋をし、外国の選手たちからさまざまな刺激を受ける。そんな話が、まるで潮の香りを感じさせるように叙情的に描かれている。(中略)昭和7年は五・一五事件が起きた年である。前年には満州事変が勃発(ぼっぱつ)している。日本全体に、きな臭く重苦しい空気も漂っていたはずだ。だが選手たちは思いのほか、五輪への旅や異国情緒を楽しんでいたことがわかる。ちなみにこの大会での日本の金メダルは7個だった。(「産経ニュ-ス」2008.7.19ネット 配信より引用おわり)『オリンポスの果実』の主人公は、読んでいていらいらさせられるほどピュアです。「根性」なるニュアンスが皆無なスポーツ小説は、非常に珍しいと思います。 昭和7年のスポーツ界は、どんな状況だったのでしょうか。文庫版あとがきを読んで、愕然としてしまいました。――スポーツというものは何といっても実生活の中で「遊び」に過ぎないのだから、生命を賭けた文学の対象にはなり難い筈のものである。(川上徹太郎「文庫版あとがき」より)◎情けないスポーツ小説 『オリンポスの果実』の冒頭は、印象的な投げかけで滑りだします。(引用はじめ)秋ちゃん。と呼ぶのも、もう可笑(おか)しいようになりました。熊本秋子さん。あなたも、たしか、三十に間近い筈だ。ぼくも同じく、二十八歳。すでに女房を貰い、子供も一人できた。あなたは、九州で、女学校の体操教師をしていると、近頃風の便りにききました。(引用おわり) こうして長々と、一方的な独白がつづけられます。詳細については、ふれないでおきます。主人公はオリンピックに向かうという緊迫感がないまま、ハイジャンパーに恋焦がれます。独りよがりの妄想だけをふくらませ、足はすくんだまま一歩たりとも踏みだせません。 情けないスポーツ小説。それが『オリンポスの果実』なのです。林真理子は、田中英光『オリンポスの果実』を卒論のテーマに選んでいます。林真理子の長編小説『本を読む女』(新潮文庫)の章立てにも、「斜陽」「放浪記」などとならんで、「オリンポスの果実」をとりあげているほどです。林真理子は『林真理子の名作読本』のなかで、つぎのように書いています。 ――「オリムピアへ向かう酩酊」の中で彼は対象は誰でもよかった。ただ恋をしたかったのである。スポーツ青年でありながら文学青年の彼はひとり酔い、ひとり憂いの世界に入っていく。皆に呆れられたり、嫌われたりするのも当たり前だ。最後には彼女からも無視される……と書くと、何の取り柄もない小説のように思えるが、この不器用さこそ、神から祝福され、選ばれたオリンピック選手だと、読者はいたるところで胸を締めつけられるはずだ。(林真理子『林真理子の名作読本』文春文庫より)『オリンポスの果実』を書いた、田中英光に関する論評を紹介したいと思います。元オリンピック選手。共産党員。太宰治の墓前で自殺した人。無頼派。そんな田中英光の一面を、垣間見ることができるでしょう。――『オリンポスの果実』以来『野狐』にいたるまで、かれは、実在のモデルたちを、自由自在に変形し、かれらに、相当の客観性をあたえるという揺るがぬ自信をもっていたようである。したがって、『オリンポスの果実』のような作品をみて、かれを、感傷的な作家のように思い込んでいる読者があるとすれば、それは、いささか性急すぎるというものだ。かれは、感傷的な仮面の背後に、つねにかれのほんとうの顔をかくすことを好んだ。(『花田清輝全集第3巻』より)――最後期の小説にみられる彼は、我がままで、理屈ぬきで、得手勝手で、あばれん坊の甘え子である。ホメるやつなら誰でも好き、苦言は一切嫌い、自分のなかの理性の声にも一切耳をかさない。この点は坂口安吾の晩年と似てみえる。(本多秋五『物語戦後文学史・上巻』岩波現代文庫より) ◎ちょっと寄り道 田中英光の息子であるSF作家・田中光二に、『オリンポスの黄昏』(集英社文庫)という著作があります。絶版になっています。私は単行本(1992年、集英社)で、それを読みました。『オリンポスの黄昏』は小説仕立てで、父親のことを書いた作品です。主人公は田代英二、父親は田代重光とされていますが、赤裸々な自伝といえるでしょう。――私の父親もまた物書きでした。田代重光といって、昭和の文学史にいちおう名前を留めている作家です。いわゆる無頼派作家のひとりで、戦後の混乱期に売り出し、まあいちおう流行作家となったわけですが、その前から酒と睡眠薬に溺れており、女にも溺れていて家族との板挟みになり、煩悩の泥沼地獄をのたうち回るような生活の果てに、師事していた作家の墓前で自殺しました。(『オリンポスの黄昏』P12より) 田中光二のSF小説は、読んだことがありません。しかし『オリンポスの黄昏』は、冷静な筆致がきわだっており、すばらしい著作だと思っています。 田中英光は、太宰の墓前で自殺した作家。または元オリンピック選手の無頼派作家。こんな形容で語られています。しかし日本共産党体験を生々しく描いたという文壇評価のほうが、はるかに勝っています。高価なので入手できないのですが、田中英光には『地下室から』(八雲書店、初出1949年)という作品があります。花田清輝が絶賛しています。本多秋五も著作のなかで、つぎのように書いています。――この小説を読むと、楽屋裏から意地悪くアラさがしばかりしているようでありながら、二・一ストへともり上がってゆく革命運動の基礎部分を、深層の近似値において描いたという感銘を禁じえない。(本多秋五『物語戦後文学史』上巻、岩波現代文庫P300) 本日(2015年11月29日)に角川文庫から『田中英光傑作選』が発売されます。期待していたのですが、残念なことに『地下室から』は所収されていないようです。(山本藤光:2013.07.01初稿、2015.11.29改稿)
2015年11月30日
コメント(0)
仕事にも恋にも疲れ、都会を離れた美容師の明里。引っ越し先の、子供の頃に少しだけ過ごした思い出の商店街で奇妙なプレートを飾った店を見つける。実は時計店だったそこを営む青年と知り合い、商店街で起こるちょっぴり不思議な事件に巻き込まれるうち、彼に惹かれてゆくが、明里は、ある秘密を抱えていて…。どこか懐かしい商店街が舞台の、心を癒やす連作短編集。(「BOOK」データベースより)谷瑞恵『思い出のとき修理します』(集英社文庫)◎シャッター街の小説 主人公の仁科明里28歳は、大手チェーン美容室に勤務していた美容師でした。職場の恋人の裏切りに合い失意のもとに、むかし過ごしたことのある田舎へと転居してきます。たまたま明里が小学生低学年のときに、2度ほど泊りにきたことのあるヘアーサロン由井が、賃貸に出ていたのです。 そこは津雲神社通り商店街の中にあり、斜め向かいには飯田時計店があります。津雲神社通り商店街は、駅前の開発が進み、おいてきぼりになった寂れたところです。ほとんどの店は、シャッターを下ろしています。 飯田時計店は2代目の秀司が、営業をしています。しかし小売りはしておらず、もっぱら修理を専門にしています。この店のショ-ウィンドーには、祖父の代から飾られているプレートがあります。そこには「おもいでの時 修理します」と銀文字で刻まれています。本当は「時計修理します」だったのですが、子供のいたずらで「計」の文字を失ってしまったのです。祖父はそのまま、飾りつづけていました。 谷瑞恵は、ライトノベルの作家でした。本書は一般向けに書いた、初めての作品です。それが大ヒットしました。何となく癒されるほのぼのとした作品。『思い出のとき修理します』(集英社文庫)は、片田舎の小さな物語です。 そのあたりについて、著者自身のインタビュー記事を紹介させていただきます。――コバルト文庫でずっと長編シリーズを書いてきたので、頭を切り替えて違うものを書いてみたくなって、それで一般向けのお話を書いてみたい、こんなのはどうでしょう、と文庫編集部さんに相談したら書かせてもらえることになりまして。(『ダ・ヴィンチ』2013年11月号より) 祖父の年代からある、プレートの文字に違和感がありました。「おもいで」ではなく、「おもひで」としてもらいたかったと思いました。父親ではなく、祖父が置いたプレートです。 主な登場人物は、時計店の飯田秀司と津雲神社の息子の太一だけです。ストーリーはわかりやすく、披露するまでもありません。『思い出のとき修理します』は、現在シリーズ3冊まで文庫出版されています。第3作は膨らみの少ない、パンのようです。発酵時間が不足しているのかもしれません。したがって推薦作は、第1作に限定させていただいています。 シャッター通り商店街なので、賑わいがないのは仕方がありません。私がシリーズ第2作『思い出のとき修理します2・明日を動かす歯車』(集英社文庫)を手にしたのは、ガラガラとシャッターが開く音を聞きたかったからです。ねじめ正一『高円寺純情商店街』(新潮文庫)のような、賑わいの兆しを求めていたのです。ところが期待は裏切られました。 仕方がないかな、と思います。谷瑞恵が描きたかったのは、商店街ではなく若い2人の主人公だったのですから。谷瑞恵は現在、「異人館画廊」シリーズ(集英社文庫)を発表しています。まだ第1作しか読んでいませんので、断言はできません。ただし「思い出の時」シリーズよりも、ずっと手ごたえを感じています。(山本藤光:2015.05.07初校、2015.11.20改稿)
2015年11月21日
コメント(0)
北海道の広大な自然を舞台に滅びゆく民族の苦悩と解放を主題に展開する一大ロマン。アイヌの風俗を画く画家佐伯雪子、アイヌ統一委員会会長農学者池博士、その弟子風森一太郎、キリスト者の姉ミツ、カバフト軒マダム鶴子など多彩な登場人物を配し、委員会と反対派の抗争の中で混沌とした人々の生々しい美醜を、周密な取材と透徹した視点で鮮烈に描く長篇大作。(「BOOK」データベースより)武田泰淳『森と湖のまつり』(新潮文庫)◎故郷・標茶町塘路が舞台 武田泰淳の代表作は『ひかりごけ』(新潮文庫)とした、書評はたくさん書かれています。もちろんすばらしい作品なのですが、個人的には故郷を描いた『森と湖のまつり』(新潮文庫)を推薦させていただきます。 なにしろ本書の舞台の中心は、私が筆名にしている標茶町塘路なのですから。作品中ではトウロと書かれています。標茶(しべちゃ)から塘路へは、JRの駅で3つ。映画の撮影を見たという同級生もいました。もちろん本は、高校生になってすぐに読みました。高倉健主演の映画(1958年公開)も観ました。 武田泰淳は1947(昭和22)年から半年ほど、北海道大学法学部の准教授だった時期があります。そしてアイヌ民族を書くために1953(昭和28)年に再び道東を訪れています。しかしすぐには書けず、先に仕上げたのが、羅臼のひかりごけと遭難船長の人肉事件を組み合わせた作品『ひかりごけ』だったのです。◎見る側と見られる側 純潔アイヌの統一を願うアイヌ研究家の池博士は、若い女画家の佐伯雪子をともない、阿寒湖を訪れています。雪子は美幌町の依頼で、北海道の先住民族アイヌを描くことが目的です。池博士はかってアイヌ女性の千木鶴子と結婚していましたが、彼女に逃げられて現在は独身の40歳ちょっとくらいの年齢です。池博士は秘かに雪子を愛していますが、告白できないままでいます。 雪子は阿寒湖で、アイヌの老翁と池博士のやりとりを耳にします。。(引用はじめ)「今のままだったら、うまくねえわわ。先生の言う通りだわさ。そんなこた知ってるさ。言われねえでも知ってるさ。だけんど俺たちは酒を飲むし、若い者はアイヌであるのを厭がるのさ。だから、ほんもののアイヌは、どうしたってなくなるんさ。もう誰も、止ことはできねえよ」「なくなって、いいのかね」「いいにも悪いにも……」老人は、はげしい呼吸音で咽喉を鳴らしながら、赤茶けた手拭いで額の汗を拭った。(引用おわり、本文P14) 池博士と佐伯雪子の会話のなかに、池博士の苦悩の様子が色濃くでてくる場面があります。まずはそこをおさえておきたいと思います。(引用はじめ)「世の中にはまあ、二つの立場があるんだ。見る側になるか、見られる側になるか。和人は見る側、アイヌは見られる側、今のところ、そうなってしまったんだ。見られたり、いじくられたりする側は、どうしたって見る側、いじくる側とはちがった立場なんだ。タヒチへ行ったゴオギャンは結局、最後まで見る側だったんだ。島の土人たちは見られる側さ。(.中略)」「その見る者と見られる者のあいだの壁をぶちこわすのが、池さんの仕事でしょう」「そうでなければならぬはずなんだが。どうも僕のは、その壁をなぜまわしてるだけかも知れん。時によると、わざわざ自分で壁を作っているような気がする」(引用おわり、本文P122) 2箇所を引用しましたが、『森と湖のまつり』のポイントはこの会話のなかに凝縮されています。アイヌ民族はいまや消滅の危機にあります。しかし老いたアイヌたちは民俗衣装をまとい、観光客の見世物になっています。働き盛りのアイヌ民族は、出自を隠して和人のなかに紛れ込んでしまっています。◎消滅と再生 見る側の池博士や雪子と対極にいるのが、アイヌの若者・風森一太郎やその姉・風森ミツとなります。一太郎は池博士の弟子として、統一委員会の仕事を手伝っています。知性豊かですが、すこぶる野性的な若者です。ミツはある事件をきっかけにキリスト教に入信しています。 池博士と別れた雪子は、アイヌの絵を描くために単身で活動を開始します。その過程で雪子は、池博士が主導する純粋アイヌを守るべきとの意見と、対立するシャモ(和人)と同化すべきという意見があることを知ります。統一委員会の運営のために、一太郎が網元などから、強引に寄付を集め回っていることも知ります。 いっぽう雪子の描いたアイヌの絵は、老翁たちに酷評されます。思い悩んだ雪子は、アイヌの裸を見たいと思います。その思いは実現されます。雪子が見た裸体は、一太郎の姉・ミツでした。 ある日釧路のバーで、雪子は一太郎と出会います。バーの経営者は池博士のもとから逃げ出したアイヌ女性の鶴子でした。やがて雪子は、一太郎と肉体関係を結びます。また雪子は泥酔していたときに、池博士に犯されます。そして雪子は一太郎のこどもを身ごもります。 ストーリーを追うのは、このくらいにしておきます。『森と湖のまつり』は、池博士の側面から読むと悲劇的なロマンとなります。アイヌの純潔を願いつつ、膝元から妻に逃げられます。片腕として頼りにしていた一太郎も、池の仕事の限界を悟ります。そして秘かに想っていた雪子を犯してしまいます。崇高なビジョンは地に落ちてしまいます。 雪子の側面から見ると、アイヌの女性がたくましく生きていることに心を動かされます。自分の絵に心がこもっていないことを、実感します。そして一太郎への愛を成就させます。 結末部分で一太郎は、アイヌであることを隠している青年と決闘をします。そして姿を消します。一太郎が姿を消したとき、雪子の体内にはアイヌの種が残されたのです。 武田泰淳は渾身の力で、滅びゆく民族を描きました。そして結末部分に、そっと再生の物語を添えたのです。(山本藤光:2011.11.09初稿、2015.11.13改稿)
2015年11月14日
コメント(0)
ザ・リッツ・カールトン・ホテルの日本支社長が語るのはおもてなしの極意だ。よくありがちな従業員と顧客との心温まるエピソードなどではない。欧米の上流社会で脈々と受け継がれてきた最高のサービスとは、設備でもマニュアルでもなく 人の価値だと言い、その育て方を指南する。教育は入社面接時から始まっていると言う。面接会場はホテルの大宴会場。ドアマンとピアノの生演奏が志願者を迎える。たとえスタッフの面接だろうと、宿泊客と同様にもてなすことで、同社の理念やサービスの質を伝えるのだと説く。(書籍案内より)高野登『リッツ・カールトンが大切にする・サービスを超える瞬間』(かんき出版)◎感、感、感 最初に2005年11月22日に発信した「藤光日誌」を転載させていただきます。これは高野登さんとお会いする以前に、書いたものです。 高野登『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』(かんき出版)を読んでいて嬉しくなったことがあります。私が『世界一ワクワクする営業の本です』(日本実業出版社)に書いたことと、符合する単語がたくさん出てくることです。それが本日の表題の「感、感、感」となりました。 ホテル業界も営業現場も、人間が人間に与える極限のサービスの世界です。極限のサービスとは、へりくだることではありません。本書では随所に、「心のこもったおもてなし」についての実例があげられています。「感、感、感」は、「感性、感動、感謝」の意味です。感性を磨く。感動を与える。感謝をもらう。この3つの単語は、「心のこもったおもてなし」により循環します。 感性を磨けば、お客さんに感動を与えられます。そしてお客さんから「ありがとう」の声が返ってきます。私はそう信じていますし、「ザ・リッツ・カールトン・ホテル」も同じ気持ちでした。 個性(パーソナリティ)について、同じような考え方を示している2冊の本があります。まったく同感である。――個性は変えられないが、変えられるものがある。それは何かというと、能力です。能力というものは変えられる。これはあとからついてきた、すなわち後天的な性格のものですから」(西堀栄三郎『新版石橋を叩けば渡れない』生産性出版・P87)――サービスの技術や技能は訓練すれば習得できます。知識もキャリアを積めば自然に身につくものです。しかし、その人の人格や価値観は長い時間をかけてつちかわれてきたものであり、あとからそう簡単に変えられるものではありません。テクニックはあとから訓練できたとしても、パーソナリティは鍛えられないのです。(高野登『リッツ・カールトンが大切にするサービスを超える瞬間』かんき出版・P143) 個性(パーソナリティ)を容認し、能力(感性)を磨くべき。これが南極大陸(西堀栄三郎)と優良ホテル(高野登)の共通点でした。◎おもてなし=ホスピタリティ「おもてなし」は、滝川クリステルによってがぜん注目される言葉になりました。国際オリンピック総会でのスピーチは、世界中の人びとの心に響きました。滝川クリステルが「お・も・て・な・し」のプレゼンテーションをしたのは、2013年のことです。「おもてなし」は、英語のホスピタリティに該当します。日本語では「お持て成し」と書き、「持て成し」に接頭語の「お」をつけたものです。「おもてなし」は日本特有の精神、と思っている方は多いと思います。ところが「ホスピタリティ」という英語は、ずっと以前から大切に考えられていました。 げんにベストセラーになった、高野登『リッツ・カールトンが大切にする・サービスを超える瞬間』(かんき出版)は、2005年に出版されています。外資系のホテルのサービスの原点として、「ホスピタリティ」は、リッツ・カールトン・ホテルの代名詞となっているほどです。 高野登『サービスを超える瞬間』は、永遠に残る名著です。高野登とは、いっしょに食事をしたことがあります。山田隆司、高野登、阪本啓一(推薦作『ゆるみ力』日経プレミアムシリーズ新書)、松山真之助(推薦作『マインドマップ読書術(ダイヤモンド社)と私で、「おもい会議」という、ただ語り合うだけの集まりをしています。 高野登は、背筋の伸びた紳士です。最近の高野登は、あっちこっちの講演に引っ張り出されて、ゆっくりと食事をする機会がありません。◎感謝を超えた感動へ「サービスを超える瞬間」とは、どんな状況なのでしょうか。高野登は、相手の心に<感動>が生まれたときだといいます。簡単にいえば、<感謝>が<感動>に変わる瞬間のことです。感動が生まれるのは、<まさか>の瞬間においてです。善意が相手の心のヒダに入り込むときに、初めて感動が生まれます。――市場において圧倒的に強いブランドを確立するためには何が必要なのでしょうか。それは、お客様に「満足」していただく百パーセントのサービスを超えて、「感動」を生み出すホスピタリティの舞台にステップアップするということです。心がワクワクするディズニーマジックの様に……。(本文P180) リッツ・カールトンには「クレド」という従業員マニュアルのような存在があります。見せていただきましたが、実に細かな顧客への配慮が記載されています。しかしこれを忠実に実施したとろで、感謝にとどまるだけだと思います。私は「クレド」をマニュアルのようなもの、と書きました。しかし社員が肌身離さず持っているクレドは完璧に読みこなされ、それぞれの身体知となっています。ナレッジマネジメントの用語でいえば、形式知が暗黙知に昇華してしまっているのです。 私はマニュアルなんてナンセンス。と吐き捨てたSSTプロジェクトを経験しています。彼らは合意したことをSSTハンドブックとして持っていました。しかしそれはマニュアルとはまったく別次元のものでした。昔マメタンと呼ばれる英語の辞書がありました。覚えたページは破り捨ててしまいます。「SSTハンドブック」は「クレド」と同様に、ほとんどのページは身体知化されているので、破り捨てられていることでしょう。――クレドは心で納得して実践するものです。同じ感性と価値を共有した人が本当に心からクレドに納得していれば、マニュアルのように細かい決まりを定めなくても、自然に同じ振る舞いができるというのがクレドの基本的な考え方です。(本文P45)◎従業員への権限移譲 高野登が書いている世界は、感謝ではなく感動が生まれる瞬間です。それには次のエンパワメント(権限移譲)がなされているためです。最近パーティでも「サプライズ」の演出がなされるケースが多くなってきました。 特筆すべきエンパワメントは、「従業員自らの判断で1日2,000米ドルまでの決裁権が認められている」ことだと思います。 お客さんが大切な書類をホテルに置き忘れました。その書類は緊急性を要しています。お客さんが取りに戻る時間はありません。郵送では間に合いません。従業員は上司に相談することなく、書類を抱えて新幹線に飛び乗りました。 ここまでのことを、1従業員の判断でできるのです。本書にはお客さんに感動を与えた、さまざまなエピソードが紹介されています。すべて紹介してしまうと興ざめになりますので、引用は控えます。これらのことを可能にしているのは、リッツ・カールトンが従業員に次の約束をしているからです。――従業員への約束リッツ・カールトンではお客様へお約束したサービスを提供する上で、紳士・淑女こそがもっとも大切な資源です。 信頼、誠実、尊敬、高潔、決意を原則とし、私たちは、個人と会社のためになるよう、持てる才能を育成し、最大限に伸ばします。 多様性を尊重し、充実した生活を深め、個人のこころざしを実現し、リッツ・カールトン・ミスィーク(神秘性)を高める…リッツ・カールトンには、このような職場環境をはぐくみます。 最後に高野登からの、日本企業へのメッセージを紹介させていただきます。――地味な現場の仕事の大切さ、それらの仕事が会社のビジョン達成のためにどういう意味があるのか、それを明確に納得できるように伝えるということ。企業が犯す最大の罪は、従業員にビジョンなき仕事をさせることだ(本文P153)(山本藤光:2013.09.14初稿、2015.08.24改稿)
2015年08月25日
コメント(0)
2030年。玉井潔は、60年前の<あの事件>のために死刑判決を受けた後、釈放された過去を持つ。死期を悟った彼は、事件の事実を伝え遺すべく、若いカップル相手に、自分達が夢見た「革命」とその破局の、長い長い物語を語り始めた。人里離れた雪山で、14人の同志はなぜ殺されねばならなかったのか。そして自分達はなぜ殺したのか…世を震撼させた連合赤軍事件の全容に迫る、渾身の長編小説。(「BOOK」データベースより)立松和平『光の雨』(新潮文庫)◎代表作『遠雷』は4部作なので 訃報を知って、あわてて「立松和平ホームページ」にアクセスしました。なんの情報もありませんが、更新されていました。いつものように、はにかんだ写真はそのままでした。朴訥な口調で、今にも語りかけてきそうな気がしました。立松和平が亡くなったことが信じられません。 62歳。多機能不全だといいます。風邪を引いたと病院に行ったら、そのまま入院。あっけなく逝ってしまいました。行動する小説家として、立松和平を知らない人はいないと思います。しかし作品を読んでいる人は、意外に少ないようです。 私は立松和平の処女作『途方にくれて』(初出1978年、集英社)以来の愛読者です。書棚には40冊を超す著書がならんでいます。ただしテレビに盛んに登場するようになってからは、読むのをやめていました。あの独特な語り口には魅力を感じていましたが、作家は書かねばなりません。 そんなわけで最新作は、意図的に読んでいませんでした。「山本藤光の文庫で読む500+α」でとりあげるのも、ずっと先になるはずでした。立松和平は、私と同年代の作家です。いつもともだちみたいな感覚で、作品を読んでいました。 本稿の執筆にあたり、書店で買い求められる立松和平作品が、ないことに驚きました。文庫のほとんどは、絶版になっていました。立松和平は読まれる作家から、現場を報告するレポーターになっていたのだな、と寂しく思ったほどです。 立松和平の代表作といえば、映画にもなった『遠雷』(河出文庫)だと思います。しかしこの作品は、4部作のうちの1つなのです。『遠雷』(1980年)を発表して以来、立松和平は『春雷』(河出書房新社1983年)『性的黙示録』(トレヴィル1985年)『地霊』(河出書房新社1999年)と20年かけて書きつなぎました。全部読んでもらうにはあまりにも長いので、推薦作品からはずすことにしました。『遠雷』は、土地と人間の荒廃を描いた作品です。立松和平には『境界線上のトマト・「遠雷」はどこへ行くのか』(河合ブックレット)という著作があります。そこには、ビニールハウスのトマトの役割について、詳しく語られています。トマトを食べると『遠雷』が思い浮かんでくるほど、私には強烈な印象でした。 興味がある方は、4部作ではありますが、『遠雷』だけでも読んでもらいたいと思います。私は立松和平がもっとも苦労し(顛末については、のちほどふれます)、奮起した作品『光の雨』を推薦作に選ぶことにしました。◎連合赤軍リンチ殺人事件を題材に 古ぼけた小さなアパートの、薄い壁を隔てて住む2人。予備校生の阿南満也と、80歳の玉井潔。玉井は夜な夜なうなされて嬌声を発します。 その声に悩んだ阿南満也が抗議のために、隣室を訪れるところから物語は動き出します。『光の雨』は、連合赤軍リンチ殺人事件を題材にしています。玉井は刑期を終えて、生き延びた幹部の1人です。彼は「総括」と称して、なぶり殺した14名の同志をかえりみます。『光の雨』は、正しくは「新」と題名の前につけなければなりません。なぜなら、同名の作品は、5年前に雑誌に連載されていました。その作品が「死刑囚の手記に酷似している」と抗議されました。立松和平は「安易だった」と謝罪し、連載を中止しました。 その後、著者は「すべてを捨てて、軽トラック一台分の裁判資料を読みこんだ」(朝日新聞1998年7月30日)結果、生まれたのが今度の『光の雨』なのです。当時の私の「読書ノート」を引用してみたいと思います。 (引用はじめ)「無断引用」事件はショックでしたが、店頭で分厚い『光の雨』を手にしたとき、心の中で大きな拍手をおくりました。久しぶりに手にとった立松作品でした。立松作品を最後に読んだのが、42冊目の『光線』(初出1989年、文藝春秋)でしたから、約10年ぶりということになります。それも「無断引用」事件がなかったら、おそらく読まなかったでしょう。連合赤軍を取り上げた作品では、私の友人である大泉康雄が『氷の城・連合赤軍事件・吉野雅邦ノート』(新潮社)を出版しています。親友吉野雅邦がなぜ連合赤軍にのめりこみ、非道な殺戮をくりかえしたのかを丹念に辿った作品です。『光の雨』と『氷の城』をあわせ読むと、連合赤軍事件がより鮮明になります。『光の雨』の主人公・玉井潔は、消えかける命を代償に忌まわしい過去を語りつづけます。 ――「もう話さなくていいのよ、お爺ちゃん。これ以上苦しまなくていいわ」(本文より)――「爺ちゃん、もう静かにしてなよ。俺たち、図書館へいって古い資料を調べるから。そうしたら爺ちゃんたちのこともっとわかるだろう」(本文より) 予備校生の阿南満也と恋人高取美奈は、何度も話をやめさせようとします。『光の雨』はこの構図がきわだっています。重い過去をひきずりながら、今にも消え入りそうな魂。そんな過去とまったく無縁な若い2人。古ぼけた安アパートでくりひろげられる戦慄の回顧録。この作品で、立松和平は恥辱のときを乗り越えました。 ただし、だれにも明らかにできないことがあります。玉井潔にも、『氷の城』の吉野雅邦にもわからないことがあります。それは「総括」の意味するところです。 何人もの作家が挑み、連合赤軍の当事者が語っても、読み手や聞き手には理解できない「総括」。連合赤軍事件はまだ「総括」されていないようです。 (引用おわり) 那覇のナイトクラブでのアルバイト経験を描いた『途方にくれて』(集英社)からきっちりと20年間、立松和平を読んできました。最後に読んだ作品が『光の雨』でした。盗作事件で謝罪行脚をし、謹慎までした立松和平の魂の叫び。それが『光の雨』なのです。ありがとうと結んで、合掌させていただきます。(山本藤光:2010.02.12初稿、2015.08.17改稿)
2015年08月18日
コメント(0)
万葉集もなんのその、与謝野晶子以来の大型新人類歌人誕生。(「BOOK」データベースより)俵万智『サラダ記念日』(河出文庫)◎売れない。歌ではない。 最初にニュース性のある文章を、紹介させていただきます。―― 一九八七年を振り返ると、予兆に満ちた出来事はあまりにも多い。五月、前年に短歌の芥川賞といわれる第三二回角川短歌賞を受賞した歌人、俵万智(当時二四歳)の『サラダ記念日』が、河出書房新社から初版三千部で出版されると、直後から問い合わせが殺到し、ベストセラーリストのトップに躍り出た。(尾崎真理子『現代日本の小説』ちくまプリマー新書) 当時角川書店の社長だった角川春樹を「人生最大の失敗だった」と語らしめた、俵万智『サラダ記念日』は、河出書房から出版されました、自ら俳人である角川春樹は、俵万智を高く評価していました。しかしもう一つの肩書である出版社の社長が、出版したところで売れるはずはないと決断したのです。 それが出版と同時に大きな話題となり、『サラダ記念日』はミリオンセラーとなりました。斎藤美奈子は著作『文壇アイドル論』(文春文庫)のなかで、次の3首を取り上げています。――愛人でいいのとうたう歌手がいて言ってくれるじゃないのと思う――「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの――「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日 そして斎藤美奈子は次のように、俵万智の華々しいデビューを紹介しています。――「言ってくれる」「言ってしまって」「言ったから」。書き写しながら、ああ、どれも軽い媚を含んだ「言って」の歌だったのかと認識した次第ですが、ともあれこの三首によって(といっていいでしょう)「サラダ現象」と呼ばれるほどのブームが起こり、高校の一国語教師だった二五歳の女性は、一夜にして、「国民的なアイドル」になってしまったのでした。(斎藤美奈子『文壇アイドル論』文春文庫) 戦後の女性短歌の第一人者・河野裕子はサラダが嫌いだったようです。孫引きになりますが、新鮮なサラダにフォークを突き刺す文章を紹介させていただきます。――『サラダ記念日を』を書評した河野裕子は、歌にある「生活者の手ざわりの実感」を評価しつつ、「ハンバーガーショップ」の歌を含めた四首を掲げて、述べた。「席を立つように捨てられたり、カンチューハイ二本で茶化されたり、ボトルなみにキープされたりしたら、男としてはたまらない。こういう風に歌われて、『言ってくれるじゃないの』と面白がるのは、短歌のほんとうの味わい、うまみを知らない気の毒な読者というほかない。見立ての面白さや、冗談めかしてカラリと言ってのける小気味のよさはあるだろう。しかし、それだけの歌である」(阿木津英著。江種満子・井上理恵・編『20世紀のベストセラーを読み解く』学芸書林より)――ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう 角川春樹や河野裕子のように、短歌の世界はきわめて保守色の強いところです。読者からの大きな賛辞の嵐のなかで、2人は地団太を踏んでいたのでしょう。 短歌の世界はどうあれ、多くの読者は短歌を身近なものに感じるようになりました。河出書房新社の英断と俵万智の功績により、その後に林あまりや桝野浩一などが続きました。もっとも林あまりは過激すぎますけれど。1首だけ紹介させていただきます。――生理中のF**Kは熱し血の海をふたりつくづく眺めてしまう[わいせつ、もしくは公序良俗に反すると判断された表現が含まれています]と出るので、UCは*印にしています・◎放置されたままの誤植 私の手元に2冊の『サラダ記念日』(ともに河出文庫)があります。なぜ2冊所有しているのかというと、初版にはなかった巻末の解説が重版に追加されているからです。いつから川村二郎の解説が、追加されたのかはわかりません。初版では「跋・佐佐木幸綱」があっただけでした。初版(1989年):巻末解説なし31刷(1999年):巻末解説・川村二郎 どのくらい刷数が増えているのだろうと、書店で奥付を見ようとしました。そのときに、「解説・川村二郎」の文字が飛び込んできました。立ち読みしてから、思わず買ってしまいました。――『サラダ記念日』には、大体上等な飲食物は出てこない。それはたとえば二本のカンチューハイであり、三百円のあなごずしであり、また一山百円のトマトであり、ケチャップ味のオムライスであり、そして何より、手作りのサラダである。ごくありふれた、まずは平均的「庶民」的な生活の細部が、そうした小道具の数々を通じて、読書の目の前に次々に披露されるわけである。(『サラダ記念日』河出文庫31刷、巻末解説・川村二郎) 解説を立ち読みしながら、「誤植」を発見したのです。「読書の目の前に」は、明らかに「読者」でなければなりません。2015年8月、書店で『サラダ記念日』を確認しました。45刷でしたが、誤植はそのままでした。――こんなふうに歌が作れるというのは、大発見だが、発見だけで魅力的な歌はできない。この人の特徴は、普通の人がどうしてもうまくいえない(でもどうしてもいってみたい)気持ちをズバリ31文字にまとめあげるうまさにある。(金原瑞人「朝日新聞」1987.6.28。尾崎真理子『現代日本の小説』ちくまプリマー新書から転載させていただきました) 俵万智の登場は、日本の文学史上のひとつの革命だと思います。その後俵万智は、『あなたと読む恋の歌百首』(文春文庫)を編んでいます。そこには穂村弘志、阿木津英らに混じって、河野裕子の1首も添えられています。――たとへば君 ガサッと落葉すくふやうに私をさらって行ってはくれぬか(河野裕子) 『あなたと読む恋の歌百首』には、1首につき2ページを割いた俵万智の鑑賞が添えられています。味わい深い文章で、大切な著作として、時々読み返しています。(山本藤光:2012.07.24初稿、2015.08.04改稿)
2015年08月06日
コメント(0)
なぜ、高学歴の人物が、深い知性を感じさせないのか?目の前の現実を変革する「知の力」=「知性」を磨くための田坂流知性論。(「BOOK」データベースより)田坂広志『知性を磨く・スーパージェネラリストの時代』(光文社新書)◎勇気ある断定形 田坂広志は学者としては珍しく、豊かな詩心をもっています。田坂広志には、数えきれないほどの著作があります。そのなかから『知性を磨く・スーパージェネラリストの時代』(光文社新書)を紹介することにしました。珍しく詩心を抑制した、真っ向勝負の著作だったからです。 本稿を書く前までは、『知的プロフェッショナルへの戦略』(講談社)を推薦作としていました。ところがこれは単行本であり、「山本藤光の文庫で読む500+α」の対象外の判型でした。例外的な扱いで書き終えたときに、『知性を磨く・スーパージェネラリストの時代』を読んで共感しました。そこで急遽、原稿の差し替えをすることにしました。 私の著書に『人間系ナレッジマネジメント』(医薬経済社)があります。システム系ナレッジマネジメントに、「人間力」を加味させた世界を描いたものです。私は営業畑しか知りませんので、営業現場で役に立つスキルやノウハウにフォーカスをあてました。 田坂広志の著作は、はるかに広域のマネジャーを対象にしています。そして感性豊かな表現で、ぼんやりとしている単語に光をあててくれます。本書から引用してみます。本章では引用文のように、国語辞典のような田坂流解釈がなされています。――「知能」とは、「答えの有る問い」に対して、早く正しい答えを見出す能力。――「知性」とは、「答えの無い問い」に対して、その問いを、問い続ける能力。(田坂広志『知性を磨く』光文社新書P15) 東野圭吾のインタビュー記事を、読んでいたときのことです。同じような問答がありました。東野圭吾は理工系大学に通っていましたが、学校の実験が大嫌いでした。ところが社会人になって、仕事で行う実験は好きでした。この違いは何でしょうか。前者は結果が分っている実験で、後者は結果のわからない実験です。このあたりについては、「山本藤光の文庫で読む500+α」の東野圭吾『秘密』で紹介しています。 田坂流の解釈で翻訳するなら、東野圭吾は「知能実験」を嫌い、「知性実験」を好んだことになります。もう少し、引用を続けてみます。――「知識」とは、「言葉で表せるもの」であり、「書物」から学べるものである。――「智恵」とは、「言葉で表せないもの」であり、「経験」からしかまなべないものである。(田坂広志『知性を磨く』光文社新書P54) この解釈も、違う言葉で私は理解しています。以下は私の著作の柱にしている概念です。「知は2種類あります。意識の世界でいう顕在意識のように、文字や言葉で表された知を形式知といいます。形式知の代表格は、マニュアル、テキスト、データベースなどです。いっぽう潜在意識と合致する知を暗黙知と呼びます。代表格として、スキル、ノウハウ、名人芸などがあげられます」 私の使用している言葉は、ナレッジマネジメントがベースにあります。田坂広志は学会からの言葉の借用を避けて、自らの詩情を独特な言葉で表現してみせます。そこが私の好みなのですが、時々突っ込みたくなります。 たとえば記憶しているはずの知識で、テスト問題に解答できないケース。これは田坂流にいうと、知識ではないわけです。田坂広志の著作を読んでいつも感心するのは、断定してしまう勇気です。私は手軽に言葉を借りてしまいますが、田坂は頑固です。だから読んでいて、圧倒され、こんなのもありだよな、と思ってしまうのです。◎詩情あふれる言葉のシャワー 私が多摩大学院で「人間系ナレッジマネジメント」の講義をさせてもらったとき、隣室では田坂広志が講義中でした。私が語るのはドロドロの営業現場ですが、田坂はもっと高い立ち位置から魅力的な言葉のシャワーを降らせているのだろうな、と思いました。『知的プロフェッショナルへの戦略』の第8話では、「メタ・ナレッジ」という概念を説明しています。この章は、知識や智恵を学ぶための方法に言及したものです。あなたなら、どんな方法を思い浮かべますか? 私は単純に、本から学ぶ、先達や師から学ぶ、自らの経験から学ぶ、と考えました。田坂広志の説明は、私が思い浮かべたことと完全に一致していました。しかしその説明が、まさに田坂流だったので、大きく頷いてしまいました。(1)書物や映像などの知識や智恵を伝える媒体から、その知識や智恵を学ぶための方法。これは、「探索力」と呼ばれる「メタ・ナレッジ」である。(2)識者や師匠などの知識や智恵を持った人物から、その知識や智恵を学ぶための方法で、「傾聴力」と呼ばれる「メタ・ナレッジ」である。3)仕事や生活などの自分自身の主体的な経験から、その知識や智恵を学ぶための方法。これは、「反省力」と呼ばれる「メタ・ナレッジ」である。 恐ろしや田坂広志。私の短絡的な想起を、「探索力」「傾聴力」「反省力」と深堀してくれたのです。 私はブログで「人間力」についての回文を発信しています。田坂広志なら、はるかにきれいなものを作るだろうな、とうらやましく思います。私の回文を披露させていただきます。田坂著作をたくさん読んでいるせいでしょうか、田坂語録の切り貼りの感があります。人間力のある人には意欲がある意欲のある人には夢がある夢のある人には目標がある目標のある人には努力がある努力のある人には失敗がある失敗のある人には反省がある反省のある人には経験がある経験のある人には智恵がある智恵のある人には人間力がある(山本藤光:2014.12.05初稿、2015.08.01改稿)
2015年08月02日
コメント(0)
サル学の世界では、日本の学者たちによって[常識]を覆す新事実が次々と解明された。ヒトと動物の境を探る立花ファン必読の一作!(文庫案内より)立花隆『サル学の現在』(上下巻、文春文庫)◎サルなんぞに学ぶことはない?『サル学の現在』(上下巻、文春文庫)は、絶版になっているようです。もったいないと思います。探し出してでも読んでいただきたい、著作なのです。 下巻の巻末には、おびただしい「参考文献」が紹介されています。数えてみると、180冊ありました。これらのエキスを吸い上げ、多くの取材でそれらを掘り下げてみせる。立花隆の力技に頭が下がります。立花隆の著書は、『田中角栄の研究』(上下巻、講談社文庫)『日本共産党の研究』(全3巻、講談社文庫)や『臨死体験』(上下巻、文春文庫)など、徹底した取材と幅広い研究テーマで有名です。 本書は文庫化される前に、店頭で見ています。そのときはボリュームに圧倒されて、手を出しませんでした。そして文庫化されたとき、迷わずに購入しました。当時の私は分厚い本を買うときに、通勤電車のなかで読めるか否かを基準にしていました。四六版(通常の単行本)で300ページ前後が限界でした。片手は吊革にあるため、空いているもういっぽうで支える限度が、このくらいなのです。 今回「文庫で読む500作品+α」で取りあげることにして、ひさしぶりに再読してみました。『サル学の現在』は、読んでいて飽きがきません。妙におかしいし、ときには深く考えさせられる部分もあります。著者は20人を越える、サル学に関するインタビューを試みています。 本書は素人にもわかりやすく、まとめられています。著者のインタビューの巧さもさることながら、京大を中心とした学者たちの気の長いフィールドワークにも胸を打たれます。たとえば「ハーレムと同性愛・ゴリラ」の章でのやりとりは、こんな具合です。 ――「同性愛というのは、このグループ以外にもあるのですか」「カリソケの三つのグループを八年間観察した記録のよると、二十三例のホモ行為と六例のレズ関係があったようです」(本文より)「ヴェールをぬいだ新世界ザル」の章には、こんな逸話があります。 ――「大人のオスがオッパイを飲むなんて、このサルだけですよ」「それは人間のおとなのオスと同じで、本当はオッパイを飲むのが目的なんじゃなくて、性行動なんじゃないんですか」「その可能性もあるんです。今オッパイ飲み行動と交尾行動がどう関連しているかを、西邨君が調査しているところです。実はこのウーリーモンキーは、性行動に熱心なサルで、交尾のとき、ペニスを挿入したまま十数分も念入りなスラストを続けます。」(本文より) サルといえば、人間の祖先として余りにも有名です。サル学の学者たちは、長期間の観察を通して様々な発見をします。同性愛あり、乱交パーティあり、チンパンジーとゴリラの比較あり、先に引用した新世界ザルありと、サルの特性のオンパレードです。 オラウータンの日常は怠惰ですが、セックスは濃厚であったり、ピグミーチンパンジーのセックス社会の紹介があったり。ボスザルやババザルの分析があり、子殺しの話まで出てきます。『サル学の現在』には、人間に最も近いサルのすべてが語られています。この本は何人にも紹介しましたが、読んだ人は少ないと思われます。ケッ、サルなんぞに学ぶことはないよ。みんなそうした冷ややかな反応をするのです。 まずは読んでみていただきたい。凡人にはわかりにくい専門領域の話を、インタビューという形式で、ここまでまとめあげた立花隆の世界を、実体験してもらいたいと思います。動物園の猿しか知らない私にとって、『サル学の現在』は刺激的なものでした。サルの世界を通じて、人間社会が見えてくる図式になっていないのが、この作品の特徴でしょう。 サル学者たちは真摯な目でサルだけを追いかけており、著者も「サル学」のはんちゅうを逸脱することなく、学者の業績を上手に引きだしています。立花隆の仕事には、賛否両論があることは知っています。 否定論で目立つのは、現場にも行かず資料と小手先だけで書いている、というものです。しかしそうした意見は、本書にはあてはまらないと思います。立花隆の著作は、時代の変化とともに色あせてしまう類のものが多々あります。ただし本書は、時代を超えて、読みつがれることになるでしょう。 (山本藤光:2010.07.06初稿、2015.07.15改稿)
2015年07月16日
コメント(0)
「…私はひとを呼ぶ/すると世界がふり向く/そして私がいなくなる」(『六十二のソネット』所収「62」より)。時代を超えて愛される谷川俊太郎の詩作のすべてから新たに編んだ21世紀初のアンソロジー。第1巻は処女詩集『二十億光年の孤独』『愛について』『日本語のおけいこ』『旅』『ことばあそびうた』など17冊の著作と未刊詩篇より、1950~70年代の代表詩を厳選。巻末カラー付録に初版装幀選も。(「BOOK」データベースより)谷川俊太郎『谷川俊太郎詩選集』(全3巻、集英社文庫)◎国民的な詩人 谷川俊太郎をひとことでいうなら、「国民的な詩人」ということになるでしょう。詩は難解なものという通説を、谷川俊太郎はいとも簡単に否定してみせました。私が詩を読めるようになったのは、谷川俊太郎との出会いからです。 谷川俊太郎は、1931年に生まれました。詩人であり、翻訳家であり、絵本作家であり、作詞家でもあります。ただし小説家という肩書だけは、つけられていません。詩の世界から小説の世界に、参入する作家は数多くいます。しかし谷川俊太郎は、かたくなに詩の世界にとどまっています。 そのあたりのことに、ふれられている文章があります。大江健三郎は著作『方法を読む・大江健三郎文芸時評』(講談社)のなかで、「谷川が小説を書くことへの期待があったが」としたうえで、「かれには詩の形式をつうじてあらゆることが表現できるし、かつ詩の形式をとらぬかぎり、なにひとつ確実には表現できぬと、かれ自身確信している」(P175より)と結んでいます。 谷川俊太郎の作詞による歌で、いちばん有名なのはレコード大賞にもなった「月火水木金土日のうた」です。フランク永井が、松島みのり、真理ヨシコといっしょに歌っていました。また「鉄腕アトム」の「空をこえて ラララ 星のかなた」というのも谷川俊太郎の作詞によるものです。『谷川俊太郎詩選集』(全3巻、集英社文庫)によせて、沼田充義はつぎのように書いています。――このたびこの詩人の半世紀以上にわたる業績を見渡せるような詩選集が、簡単に買える全三巻の文庫本になって登場した。編者は、中国人の谷川研究者であり、谷川詩の中国語訳者として大きな業績のある田・原さん。まる一年を費やし、全作品を周到に調査して編んだ。まさに入魂のアンソロジーだ。(毎日新聞「今週の本棚」2005.10.22より) 谷川俊太郎の詩について、鶴見俊輔が著作のなかでつぎのように書いています。――日本人の日常生活そのままに、その生活にそうて歩いてゆき、じれて日常生活の切断をはかることなく、どこまでも普通に歩いてゆこうとする。彼の詩は日常の言葉でどこまでゆけるかの実験である。(鶴見俊輔『思想をつむぐ人たち』河出文庫P187より) 正直なところ谷川俊太郎の、どの著作を紹介すべきか迷いました。『マザー・グース』(全4巻、講談社文庫)も好きですし、『詩めくり 』(ちくま文庫)も捨てがたい著作です。 でもいちばんたくさんの詩にふれられるからという理由で、『谷川俊太郎詩選集』(全3巻、集英社文庫)を選ぶことにしました。『谷川俊太郎詩選集1』の巻末にはカラーで、「収録詩集装填選」がつけられています。どの詩集も、うっとりするほど味わい深いものがあります。これだけでも、本書を選ぶ価値がありそうです。 谷川詩集は、ページのどこから開いてもかまいません。そのページをじっくりと、読んでいただきたいと思います。えいやっとめくってみました。こんな詩にであいました。(引用はじめ)(「わらべうた・続」より)あしたあしたのしたは どんなしたああしたこうした にまいじたゆめをみるまに だまされるあしたのあしは どんなあしぬきあしさしあし しのびあしかおもみぬまに にげられる(『谷川俊太郎詩選集1』P141より)(引用おわり)◎紹介しきれない著作 ちなみに『マザー・グース』(全4巻、講談社文庫、谷川俊太郎訳)は、和田誠の絵が表紙になっていて、巻末には「原詩と解説」がそえられています。「1.あそばせうた・こもりうた」の最初のページを紹介させていただきます。(引用はじめ)おやゆびこぞうが なやにおしいりひとさしゆびが むぎをぬすみなかゆびじいさん そいつをはこびくすりゆびくん すわってみてただけどこゆびは おかねはらった(引用おわり) 原詩はもちろん英語で掲載されています。Thumbikin,Thumbikin,broke the barn.Pinnikin,Pinnikin,stole the corn.Long,back’d Gray carried it away,Old Mid-man sat and saw.But Peesy-weesy paid for a’. そして解説にはつぎのような説明がなされています。――手指遊び。幼児の手指を、親指から順番に、この唄に合わせてつまんであやす(後略)。「マザー・グース」は、英米を中心に親しまれている英語の伝承童謡の総称です。私は大学卒業後に、外資系製薬会社に入社しました。そのときに語学力をあげるためにと、先輩から紹介されたのが「マザー・グース」でした。『詩めくり』(ちくま文庫)には365日の暦と短詩がのせられています。たとえばこの原稿を書いている11月14日のページをひらくと、つぎのような短詩があらわれます。(引用はじめ)生まれたその日から一人の女の顔を(できれば自分の顔を)毎朝一コマずつボレックスで撮って二十分前後の短篇に仕上げ<お早よう>という題名をつけるそんな映画を見たいと思うのは何故かしらというスクリプトをさっき読んだ(引用おわり) 大江健三郎は著作『方法を読む・大江健三郎文芸時評』(講談社)のなかで谷川俊太郎の文章を引用しています。孫引きさせていただきます。大江は谷川を「平明な音楽性とともに、よく制御された言葉をかきつける詩人」(同書P173より)と評価しています。――自分の貧しさにくらべて、いかに日本語の世界が深く豊かであるか、そのことに気づき始めてから、私は自分がずっと自由になったように感じている。(『谷川俊太郎詩集・続』思潮社) 私の孫たちは「鉄腕アトム」を歌っています。母になった私の娘たちは「月火水木金土日のうた」をそらんじて歌えます。くたびれた妻は老眼鏡ごしに、「マザー・グース」を読んでいます。川上弘美は「夜のミッキー・マウス」への思いを、『大好きな本』(文春文庫)のなかに書いています。そして私は、毎朝暦がわりに『詩めくり』(ちくま文庫)のしおりを、1ページ分だけ動かしています。(山本藤光:2010.02.05初稿、2015.07.13改稿)
2015年07月14日
コメント(0)
マンガ・アニメが席巻し、世界はいま空前の日本ブーム。しかし理由はそれだけではない。食文化、モノづくり、日本語、和の心、エコ―あらゆる日本文化に好意が寄せられている。それなのに自分の国を愛せなくなったのはあまりにも悲しい。なぜ『ミシュランガイド』は東京に最多の星を付けたのか?どうして「もったいない」が環境保全の合言葉に選ばれたのか?「クール・ジャパン」の源流を探ると、古代から綿々と伝わる日本文明の精神、そして天皇の存在が見えてくる。(「BOOK」データベースより)竹田恒泰『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(PHP新書)◎元気をもらった タイトルに魅せられて手にしました。買ってきてから著者のプロフィールをみました。竹田恒泰は旧皇族のようです。これまでの仕事ぶりをみると、天皇や皇族に関するものばかりでした。失敗だったかな、と思いました。でもそんな懸念は、あっという間に吹き飛んでしまいました。――日本人の日本に対する評価は肯定が四三パーセントと極めて低調である。一方、中国人の中国の評価は肯定が八一パーセント、韓国人の韓国の評価は七六パーセントと高く、米国六〇パーセント、英国六二パーセントなどと比較しても、日本の数字は異常である。(本文P28より) 本文は豊富なデータに裏うちされており、著者の現地での体験談も随所に披露されています。日本人はもっと自国に誇りをもちなさい。日本人は外国から、こんなにも評価されているのです。なぜ国の伝統や文化を尊重しないのですか。 これらのことを著者は、次のような章立でていねいに解き明かしてくれます。・「ミシュランガイド」が圧倒的に東京を支持している理由。・世界中に愛されている日本のモノづくり。・世界語になった「もったいない」の具体的な事例。・大自然と調和する日本的な思考。・安全な国である日本。京都御所にはお堀がない。 久しぶりに元気のでる本に出会いました。元気がでた記述を少しだけ紹介したいと思います。――土器の出現が文明の出発点であると考えれば、四大文明が成立するはるか前に、日本文明が成立していたことになる。(本文P45より)――日本が二千年以上国家を営んできたことは世界中の奇蹟に違いない。その歴史がいかに長いかは、他の国と比較すると分かりやすい。日本に次いで長い歴史を持つ国はデンマークである。デンマークは建国から千数十年が経過したが、それでも日本の半分以下である。(本文P179より) ともすれば絶叫型になり、上滑りしてしまうテーマです。著者は抑制をきかせた文章で、事実だけを開陳しています。日本人が日本の未来を不安視しているなか、本書はこんなに世界から愛されているのだから、自信を持ちなさいと戒めています。 政治家が日本という原点を忘れて、足のひっぱりあいをしています。暗い世のなかにあって、本書は日本人に向かってメッセージを発信してくれました。それは「和の心」なのです。 巻末の北野武との対談も、すばらしいものです。この2人に日本をひっぱってもらったら、まともな政治になるだろうなとすら思いました。本書の帯には「最強の日本論」とあります。私はそれを実感しました。お薦めです。◎『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』もお薦め 竹田恒泰『日本はなぜ世界でいちばん人気があるのか』(PHP新書)を紹介させてもらったのは、2011年3月でした。同年11月に『日本人はなぜ日本のことを知らないのか』(PHP新書)が出て、それを追いかけるように発刊されています。いつの間にか、竹田恒泰はひっぱりだこになっていました。タレントとのうわさが、テレビに流れるようにもなりました。 本書は「日本がわかる」3部作の2作めにあたります。すでに完結編『日本人はいつ日本が好きになったのか』 (PHP新書)も発売されています。まだ読んでいませんので、ひょっとしたら本稿にさらなる手入れが必要になるかもしれません。 本書の冒頭に著者の手書きのメッセージ「本書を手に取った方へ」が掲載されています。およそ達筆にはほど遠い文字なのですが、最初の1行でガツンとやられました。――今、世界に現存する国のなかで、日本が世界最古の国であることを知っている人はどれだけいるでしょうか。 竹田恒泰は一貫して、日本人はもっと日本のことに関心をもつべきであると説きます。本書のなかでもっとも興味深かったのは、日本は中国の「冊封(さくほう)体制」(朝貢体制)から離脱して、はじめて独立をなしとげたというところです。「冊封体制」とは簡単にいえば、中国側からみた思想で、自分たちは特別である。守ってもらいたいのならば、貢物を提供せよというものです。遣唐使とか遣隋使という言葉はご存知だと思います。彼らは中国の先進文化を吸収するために送った、朝貢使なのです。私はそうとばかり思っていました。――聖徳太子以降、日本は中国に対して、対等外交を原則とするようになった。遣隋使と遣唐使の派遣により、日本は「朝貢すれども、冊封は受けず」の立場を築いてきた。これにより日本は完全なる独立を実現させた。(本文P151より) 私は、冊封イコール朝貢だとばかり思っていました。本書を読んで、はじめて2つには別の意味があったことを知りました。竹田恒泰は終章で、日本の教科書問題をとりあげています。日の丸や君が代を拒む先生は、たくさんいます。教科書をうんぬんする前に、この問題をかたづけなければなりません。マスコミに露出する機会がふえた竹田恒泰をめぐって、ぼつぼつと論争の火種がでてきました。 しばらくは目が離せない人、それが竹田恒泰という皇族の玄孫なのです。この点についてもすでに「自称」と横槍をいれている論客がいるほどです。「愛国心」をこんなにやさしく語ってもらったことはありません。それだけに竹田恒泰の、「日本がわかる」シリーズには触発されました。(山本藤光:2011.03.06初稿、2015.06.03改稿)
2015年07月04日
コメント(0)
10頁読めば一見識が生まれる。一夜にして書物の見方をあらためさせる。日本人全体の読書術の師範となるにふさわしい。…数々の喝采を浴びた文字通り恐るべき1冊、コラム書評のまさに金字塔だ。書物とその周辺の鬱蒼たる世界を語りつづけて15年、現行流布本に150篇を加え総項目455篇、ゆるぎない完全編集成る! (「BOOK」データベースより)谷沢永一『紙つぶて(全)』(文春文庫)◎欲のふかい企図『紙つぶて』は昭和44年から、「大阪読売新聞」月曜日の夕刊で連載されました。谷沢永一はユニークな書評コラムをもうけたいとの相談に、親身になってアイデアをだしました。アイデアとその後のてんまつについて、すこし長いのですが「後記」から転載させていただきます。――書評頁の一角に位置する以上、話題を新刊書に発すべきは動かぬにしても、できれば時間の流れを自由にさかのぼって様ざまな旧刊書と結びつけ、各種既刊書への回顧と連想をかねた新刊案内を試みながら、姿勢としては広く出版活動全般および書評趨勢の検討を心がけ、同時にまた、十分にはまだ知られていない価値ある出版物の発掘紹介検証にも意を用い、あいなるべくは書物好きにとって耳寄りな一寸した文化史的エピソードを挿入する、というような案はいかが、と気楽な他人事のつもりで口走ったところ、そんな欲のふかい内容が実現する筈は絶対にないにしても、そういう企図そのものはいちおう結構であるようだから、へらず口をたたくだけでなく、見本をすこし自分で書いてみよ、との予期せぬ指示が返ってきた。(『紙つぶて(全)』の後記より) 谷沢永一は1929年生まれで、2011年に没しています。その間にたくさんの著作を発表しました。谷沢永一の著作の特徴は、白黒を明確につける点にあります。たとえば『悪魔の思想』(クレスト社)では、著名な文化人批判を過激に展開しました。大江健三郎、加藤周一、丸山真男、鶴見俊輔などがばっさりと切り捨てられています。いっぽう司馬遼太郎や開高健にかんしては、絶賛する著作を残しています。『司馬遼太郎の贈りもの』『回想・開高健』(ともにPHP文庫)は、代表的な著作です。 ちなみに『紙つぶて(全)』(文春文庫)のなかでも、加藤周一や丸山真男への批判が掲載されています。大江健三郎は本書では無視されています。 私にとっての谷沢永一は、読書のナビゲーターの役割でした。『紙つぶて(全)』は、いまだに大切な蔵書のひとつです。すっかり黄ばんでしまい、当時引いた赤線が薄れてしまっています。455の作品に言及した本書は、書評コラムとしてゆるぎない評価を受けています。谷沢永一は書評の現状を憂いています。――現代の書評は空砲である。実弾をこめずに音だけ聞かせる儀式にすぎない。何故そうなったのか、書評が高尚になりすぎたからである。本来はスーパーやコンビニの如く直ぐ間に合う気易い店であった筈の書評が、貴金属店のように瀟洒で豪華な店構えとなり、容易には近寄りがたくなったからである。(谷沢永一『人間通』新潮文庫P118より) 新聞に掲載されている書評は、どれも学問の世界のものです。私のような平凡な人間には、まったく無縁な本ばかり紹介されています。谷沢永一『紙つぶて(全)』には、社会の匂いがあります。あるいは喜怒哀楽が露骨にあらわれています。丸谷才一は谷沢永一の訃報にせっして、こんな文章を書いています。――谷沢永一は、近代日本文学の学者としては珍しく文学がわかる人だった。いはゆる近代日本文学研究は、文学の魅力に対して鈍感と言ふよりもむしろ無感覚な人士によっておこなはれるのが普通だけれど、彼は極めて稀な例外に属してゐて、文学の美的な局面にも長けてゐた。まづ第一に文学作品の読者としての資質に富んでゐた。さういふ人物が精力的に探究したのだから、瞠目に値する成果をあげたのである。(丸谷才一『別れの挨拶』集英社より)◎大家巨匠にも容赦のない筆誅『紙つぶて(全)』はわかりやすい言葉で、1冊の著作から広く深い世界へと導いてくれます。1例をしめしてみます。――わが国のSFの開拓者の一人星新一に『人民は弱し官吏は強し』(昭和四十二年三月・文藝春秋)と題する異色作がある。これは小説ではなく、著者の父、星製薬社長・星一の回想風評伝であるが、日本の近代社会史研究の文献としても興味深いものだ。こんど新しく角川文庫に入って安価で広く読まれることになったのは喜ばしい。アメリカ帰りの、楽天的な理想主義者が、大正期の政党支配の官僚制と戦って敗れてゆく、一篇の悲話だ。(本文P133より) 谷沢永一は「星新一はSF開拓者の一人」と書いています。知識をひけらかしたいのなら、戦前の空想科学小説の開祖・海野十三や押川春浪などの名前をあげています。さらに小松左京、半村良、筒井康隆の名前をならべ、さらに手塚治虫にまで言及するところです。それを「〇〇のなかの一人」と書くところが、谷沢流なのです。読者に考えさせる余地を残すのが、谷沢の文章の味になっています。 これは600字という、コラムの制限から生まれたのでしょう。谷沢はどの部分を読者の想像力にまかせるべきか、どの情報はしらせておくべきか、を的確に判断しました。私は谷沢永一の本書コラムと、「日刊ゲンダイ」に連載されていた「狐」(山村修)のコラムを高く評価しています。狐の書評は、『水曜日は狐の書評』『もっと、狐の書評』(ともにちくま文庫)で読むことができます。「山本藤光三の文庫で読む500+α」では、山村修の『遅読のすすめ』(ちくま文庫)を推薦作にしています。 最後に向井敏の文章を、引用させていただきます。まさにそのとおりなのです。――書物随筆とはいっても、これはあたりさわりのない自家用の読書感想集のたぐいではない。身銭を切って本を買う読者のために、責任をもって明確な評価をくだすという姿勢でつらぬかれていて、世に埋もれた名著があれば慈眼をもってその美質をたたえ、名のみ高くて内容の乏しい著作に対してはどんな大家巨匠の作であっても容赦なく筆誅を加える。わけても愚書駄本を糾弾する筆鋒のきびしさはほかに例を見ず、はじめてこの本に接した読者をたじろがせるかもしれない。(向井敏『本のなかの本』(中公文庫より)(山本藤光:2013.12.01初稿、2015.06.17改稿)
2015年06月18日
コメント(0)
陰翳礼讃/懶惰の説/恋愛及び色情/客ぎらい/旅のいろいろ/厠のいろいろ 人はあの冷たく滑かなものを口中にふくむ時、あたかも室内の暗黒が一箇の甘い塊になって舌の先で融けるのを感じ、ほんとうはそう旨くない羊羹でも、味に異様な深みが添わるように思う。(本文より) -西洋との本質的な相違に眼を配り、かげや隈の内に日本的な美の本質を見る。(「BOOK」データベースより)谷崎潤一郎『陰翳礼讃』(中公文庫)◎床の間を知らない生徒たち 日本の伝統美は陰翳のなかにある、と谷崎潤一郎はいいます。昔の家屋はいちようにほの暗かったし、街並みも薄明のなかにしずんでいました。縁側がベランダに、厠がトイレに、台所がキッチンに、障子がガラス戸なりました。欄間や床の間すら、ない家がめだちます。『陰翳礼讃』(中公文庫)は教生だった私が、中央大学附属高校で教えた作品です。それゆえ繰り返し読んでいますし、教則本も熟読しました。教科書に載っていたのは、「日本座敷」の章でした。私は「わらんじゃ」「吸い物椀」「昔の女」の章が好きだったので、いつも脱線してこれらの章を紹介したものです。 教壇に立った私は黒板にむかって、積み木のような単純な家と太陽の絵を描きます。長方形の上に大きな台形をかさねます。「これが昭和8年当時の、代表的な日本の家屋です」 いっせいに笑いがおきます。絵が稚拙すぎるようです。私はつづけます。「きみたちもノートに家と太陽の絵を描いて、影をつけなさい」 一瞬静寂がおとずれますが、お互いの絵を見せ合って、ふたたび笑いがおきます。「影を美しいと思いますか?」だれもうなずきません。つぎに「家に障子がある人?」と質問します。さらに「家に床の間のある人?」と質問します。どのクラスでも手をあげるのは数人ぐらいのものでした。障子はほとんどの生徒が知っていましたが、床の間のイメージができない生徒もけっこういます。これでは教科書の冒頭部分が理解されません。――もし日本座敷を一つの墨絵に喩えるなら、障子は墨色の最も淡い部分であり、床の間は最も濃い部分である。(「日本座敷」より) しかたがないので黒板に向かって、さらに「床の間」らしい絵を少しだけ立体的に描きます。――そこにはこれと云う特別なしつらえがあるのではない。要するにたゞ清楚な木材と清楚な壁とを以て一つの凹んだ空間を仕切り、そこへ引き入れられた光線が凹みの此処彼処へ朦朧(もうろう)たる隈(くま)を生むようにする。にも拘らず、われらは落懸(おとしがけ)のうしろや、花活の周囲や、違い棚の下などを填(う)めている闇を眺めて、それが何でもない蔭であることを知りながらも、そこの空気だけがシーンと沈み切っているような、永劫不変の閑寂がその暗がりを領しているような感銘を受ける。(本文P35より) 生徒が教科書を朗読します。朗読がすんだら「落掛」(おとしがけ)などの意味を「床の間の正面上部の下り小壁を受け止める横木のこと」ですなどと注釈します。これでは日本家屋の微妙な美しさを理解してもらえません。 そこで「舞妓さんって、顔から首筋まで真っ白に塗るけれど、なぜだか知っている人?」となげかけます。このあたりの展開は指導要領にはない、私のアドリブです。「吉行淳之介って、作家はしっているよね」と念押ししてから、私はつぎの文章を紹介することになります。――『陰翳礼讃』を途中まで読んだときに気がついた。芸者のあの化粧は、わが国の照明がまだ燭台とか行燈によっていて部屋が仄暗かったときのものにちがいない、ということだ。つまり仄暗さのなかで効果が出て、美しく見える化粧である。(吉行淳之介『自家謹製小説読本』集英社文庫P229より)「吉行淳之介は『陰翳礼讃』を読んでいて、自分は大発見をしたと早とちりしたのです。この文章の後段には、谷崎潤一郎はそのことにまで言及している、ときちんと書いているんです」◎暗さを尊ぶこと 高校生に『陰翳礼讃』の一部だけをきりとって、指導するのはたいへんなことでした。しかも蛍光灯の明かりのしたでの授業です。できれば教室のカーテンをしめて、燭台のもとで教科書を読ませたいと思いました。男子生徒ばかりでしたので私の脱線はエスカレートしてゆきました。 ――日本の厠は実に精神が安まるように出来ている。それらは必ず母屋(おもや)から離れて、青葉の匂や苔の匂のして来るような植え込みの蔭に設けてあり、廊下を伝わって行くのであるが、そのうすぐらい光線の中にうずくまって、ほんのり明るい障子の反射を受けながら瞑想に耽り、または窓外の庭のけしきを眺める気持は、何とも云えない。(「京都や奈良の寺院」P11より)――殊に関東の厠には、床に細長い掃き出し窓がついているので、軒端や木の葉からしたゝり落ちる点滴が、石燈籠の根を洗い飛び石の苔を湿おしつゝ土に沁み入るしめやかな音を、ひとしお身に近く聴くことが出来る。まことに厠は虫の音によく、鳥の声によく、月夜にもまたふさわしく、四季おりおりの物のあわれを味わうのに最も適した場所であって、恐らく古来の俳人は此処から無数の題材を得ているであろう。(「京都や奈良の寺院」P12より) 厠は田舎に実家がある生徒にはイメージできたようです。ドッポン式のトイレの臭気など、生徒たちも脱線をはじめます。脱線を沈めるために冗談で、「金隠しと金閣寺のちがいがわかるかい?」などと、笑わせてもいました。――日本の漆器の美しさは、そう云うぼんやりした薄明りの中に置いてこそ、始めてほんとうに発揮されると云うことであった。「わらんじや」の座敷と云うのは四畳半ぐらいの小じんまりした茶席であって、床柱や天井なども黒光りに光っているから、行燈式の電燈でも勿論暗い感じがする。が、それを一層暗い燭台に改めて、その穂のゆらゆらとまたゝく蔭にある膳や椀を視詰めていると、それらの塗り物の沼のような深さと厚みとを持ったつやが、全く今までとは違った魅力を帯び出して来るのを発見する。(「わらんじゃ」より) 鎌田浩毅が『座右の古典』(東洋経済)のなかで、つぎのように書いています。――陰翳礼讃とは暗さを尊ぶことである。明るい光の中ではわからない物の魅力が、陰の中に置くと格段に栄える場合があり、これこそ日本における美の神髄であると大作家、谷崎は主張する。英語で陶器をチャイナ、漆器をジャパンと言うが、まさに漆器の魅力は日本的な陰翳の内にこそ浮かび上がるのである。(鎌田浩毅『座右の古典』東洋経済P140より) 大きな脱線をしてから、教科書にもどります。「山本藤光の文庫で読む500+α」では、近代日本文学の代表作として『痴人の愛』(新潮文庫)を紹介させていただいています。批判的な書評を書いている人もいますが、私は「陰翳」を掘り下げた感性を高く評価しています。(山本藤光:2012.07.26初稿、2015.05.21改稿)
2015年05月22日
コメント(0)
蒲団に残るあのひとの匂いが恋しい―赤裸々な内面生活を大胆に告白して、自然主義文学のさきがけとなった記念碑的作品『蒲団』と、歪曲した人間性をもった藤田重右衛門を公然と殺害し、不起訴のうちに葬り去ってしまった信州の閉鎖性の強い村落を描いた『重右衛門の最後』とを収録。その新しい作風と旺盛な好奇心とナイーヴな感受性で若い明治日本の真率な精神の香気を伝える。(「BOOK」データベースより)■田山花袋『蒲団』(新潮文庫)◎自然主義文学の記念碑的な作品 田山花袋は島崎藤村(推薦作『夜明け前』全4巻、新潮文庫)とならび、自然主義文学の代表作家といわれています。田山花袋は泉鏡花(推薦作『高野聖』新潮文庫)とともに、尾崎紅葉(推薦作『金色夜叉』新潮文庫)の弟子でした。泉鏡花の方は早くに頭角をあらわすのですが、田山花袋の不遇な時代はつづきました。そのあたりのことは、坪内祐三(推薦作『考える人』新潮文庫)の著作を引いてみます。――もともと尾崎紅葉の門下だった花袋はロマンティックな文学に憧れていた。けれどそのロマンティシズムは、やはり紅葉の門下だった同世代の作家泉鏡花と違って、板についていなかった。花袋は野暮で無骨だった。その「バタ臭い」、「泣蟲の」、「世間見ずの」小説は嘲笑の対象だった。(坪内祐三『近代日本文学の誕生』PHP新書P26より) 田山花袋は芥川龍之介(推薦作『羅生門』新潮文庫)から「感傷的風景画家」(花村太郎『知的トレーニングの技術』JICC出版局P195より)とあだ名をつけられていました。そんな田山花袋が花開いたのは、私小説に傾斜した作品『蒲団』(新潮文庫)だったのです。 そして『蒲団』は、島崎藤村『破戒』(新潮文庫)がなければ生まれていません。これは文庫あとがきで、福田恆存が断言しているとおりです。さらに田山花袋は「文章世界」の主筆になってから、自覚が生まれたという説もあります。いずれにせよ『蒲団』は、田山花袋本人にとっても、自然主義文学にとっても、記念碑的な作品であったのです。 その後の展開を語る、記述を紹介します。――『蒲団』は『破戒』よりも、読者に人気があった。ことに『蒲団』は、作者の花袋本人の体験をもとにした自伝的要素の強い小説だったので、そのセンセーショナル性も手伝って人気が出たし、文学として妙に説得力があった。人気が出れば、作家たちだって「これで、いいのダ」と思い込んでしまう。(長尾剛『早わかり日本文学史』日本実業出版社より)『蒲団』は日本の近代文学を知るために、絶対に避けて通れない作品です。夏目漱石(推薦作『吾輩は猫である』新潮文庫)が大嫌いだった自然主義文学を、『吾輩は猫である』と比較して読んでみてもらいたいと思います。 日本近代文学は、大きな節によって流れが分断されています。節目とは、田山花袋・島崎藤村、森鴎外・夏目漱石、谷崎潤一郎・永井荷風となります。さらに流れを下れば、芥川龍之介・志賀直哉とつながるのです。 私小説の先駆けとして、森鴎外『舞姫』(岩波文庫。標茶六三の推薦作)が存在していました。しかし『舞姫』にはドロドロ感がありません。先に引用した「これで、いいのダ」は、そのまま後続の作家たちの胸のうちにも通じます。島崎藤村が姪との近親姦を描いた『新生』(上下巻、新潮文庫)も、そんな影響下の産物かもしれません。◎退廃的な日常に一条の光『蒲団』の主人公・竹中時雄は36歳。彼には妻と3人のこどもがいます。小説家ですが、あまり売れていません。生活を維持するために、地理書の編集の仕事をしています。ある日ファンだという読者から、1通の手紙が届きます。弟子にしてほしいという依頼でした。 依頼者は、岡山の名家の子女・横山芳子19歳でした。現在神戸の女学院に在籍しており、小説に一生を捧げたいといいます。両親の承諾も得ているという芳子にたいして、時雄は断りの返事を送ります。しかし芳子からはひんぱんに、懇願の手紙が送られてきます。結局時雄は、弟子入りを許可することになります。父親に連れられて、芳子が上京してきます。 ――時雄は芳子と父とを並べて、縷々として文学者の境遇と目的を語り、女の結婚問題に就いて予め父親の説を叩いた。(本文P17より) 時雄の退廃的な日常に、一条の光が差しこみました。彼を「先生」と慕う芳子は、美しく華やいでいました。古いタイプの妻を疎んじていた時雄は、いつしか芳子に心を奪われてしまいます。最初は内弟子だったのですが、2人の親密さを周囲が心配しはじめます。結局1人暮らしの妻の姉のところに、芳子を預けることになりました。 芳子の帰宅が遅くなってきます。芳子には恋人ができました。それからの展開については、読んでのお楽しみとしておきます。「蒲団」という言葉は、とんと耳にしなくなってきました。 私ごとになるりますが、東京に下宿がきまったとき、蒲団と柳行李(やなぎごうり)をチッキで送ってもらいました。こんな記憶を語っても、若い人には意味が通じないと思います。私の記憶は、1970年代のものです。『蒲団』はそれよりも、半世紀前に書かれています。『蒲団』が書かれた時代を眺めておきます。 ――『蒲団』の主題は、日露戦争後の国民的目標喪失とともに捨てられた旧道徳、そしていまだ生まれ得ぬ新しい規範、その谷間に落ちた「中間世代」の悲哀であった。(関川夏央『本よみの虫干し』岩波新書P61より) 時雄は偽善者であり、嫉妬深く、猜疑心がきわめて強い。読んでいて吐き捨てたくなるほど、ちっぽけな男です。それでいて倫理観や道徳心を兼ね備えています。それらがかろうじて、自己抑制のレバーを握り締めさせているのです。 一方芳子は、当時としてはハイカラな女性です。しかし恋人との交際では終始「純潔性」を主張してみせます。時雄は猜疑心のかたまりになっており、涙ながらの芳子の主張を信じられません。 いまどきの重量計では、測り切れない道徳という重み。これが日露戦争後の世の中だったのでしょう。うんと過去にネジを巻いて、文壇を刷新した『蒲団』を堪能してもらいたいと思います。(山本藤光:2010.06.10初稿、2014.10.15改稿)
2015年03月27日
コメント(0)
25年前に別れた恋人から突然の連絡が。「あなたの息子が重体です」。日本を代表するコンピュータ開発者の「私」に息子がいたなんて。このまま一度も会うことなく死んでしまうのか…。奇しくも天才プログラマーとして活躍する息子のデータを巡って、「私」は、原発建設がからまったハイテク犯罪の壮絶な渦中に巻き込まれていく。(「BOOK」データベースより)■高嶋哲夫『イントゥルーダー』(文春文庫)◎落選から奮起して『イントゥルーダー』(文春文庫)は第16回サントリーミステリー大賞受賞作であり、読者賞もダブル受賞しています。これ以前に高嶋哲夫は、1990年「帰国」にて北日本文学賞、1994年「メルト・ダウン」にて小説推理新人賞を受賞しています。 そして1996年には「ペトロバク」が江戸川乱歩賞の最終候補となり、このときは渡辺容子『左手に告げるなかれ』(講談社文庫、「標茶六三の文庫で読む400+α」推薦作)に受賞を奪われています。そのときのことを、著者自身はつぎのように書いています。 ――以前書いた小説が、ジャンルでいうと国際謀略物で、江戸川乱歩賞の最終候補になったのですが、その際、選考委員の皆川博子さんが、「主人公が男性の場合、警察、新聞社などの大組織からはみだし、心に傷を持つ中年という設定が多い。既成の人物像を越えた新鮮な作品にめぐりあいたい」と選評で書かれていたんです。その時の僕の応募作の主人公が、心に傷を持つ新聞記者でした。(「本の話」1999年5月号)『イントゥルーダー』は、この教訓を活かして書かれています。主人公・羽嶋浩司は、有名な大手コンピュータ会社の超エリート副社長兼研究開発部部長。社長の大森とともに、裸一貫で巨大な会社を築きあげました。 会社は資本金320億円、従業員8200人、子会社15社、東証一部上場と大きなスケールです。その主人公に深夜、一本の電話がかかってきます。 ――脳裏には一人の女性の姿が鮮明によみがえっていた。昔、一緒に暮らした女性だった。そのときから、二十五年近くがすぎている。/一瞬の沈黙があった後、「あなたの息子が重体です」と奈津子は言った。(本文より) 物語は主人公「わたし」が、大学病院の集中治療室を訪れたところからはじまります。何本ものチューブにつながれた、患者は23歳。身長も体重も血液型も、「わたし」とほぼ同じ。患者の名前は松永慎吾。今まで、その存在さえ知らなかった息子との対面。 そして元恋人との25年ぶりの出会い。「わたし」は意識不明の息子が、コンピュータのソフト会社に勤めていたことを知らされます。現在、「わたし」の会社は、社運を左右する夢のコンピュータを開発中です。 高嶋哲夫は、見えない糸を、巧みにくりだします。突然の息子の出現。その息子は自分が父親であることを知っていた事実。そして父親を尊敬して、同じ業種の会社に勤務した経緯。一方「わたし」の会社では、電子の網の目に潜むバグ(コンピュータ・ウィルスのこと。これがいるとコンピュータ・ソフトが破壊されます)と格闘中です。 救命治療室で死と闘う息子と、迫りくる発表会に向かってバグと闘う研究開発室。著者は2つの闘いをていねいに描き分けています。2つの闘いの場を行き来する「わたし」に、社長の大森が思いがけないことを告げます。 原子力発電所を建設中の大手電力会社から、開発しているコンピュータの大きな予約がとれたということでした。物語はここから一気に加速します。見えない糸が複雑にからみ合いはじめます。 ダブル受賞にふさわしい、素晴らしい完成度の高い作品でした◎社会派作家としても活躍 高嶋哲夫とはお会いしたことはありませんが、何度か手紙のやりとりがあります。私が藤光伸という筆名でPHPメルマガ「ブックチェイス」に書評を書いていたとき、出会ったのが『イントゥルーダー』だったのです。どうしても初期作品を読んでみたくて、さがしましたがみつかりません。お願いして、コピーを送っていただきました。 そのなかに『カリフォルニアのあかねちゃん』(三修社文庫)がありました。あかねちゃんとママが異郷の地で、明るくたくましくすごす日々をつづった心温まる著作です。私は高嶋哲夫のミステリーに温かみを感じています。その原点はまさに、『カリフォルニアのあかねちゃん』にありました。 そして現在は『風をつかまえて』(文春文庫)や『塾を学校に』(小篠弘志との共著、宝島新書)など、社会派作家としても活躍中です。この2作には心をうたれました。◎『ミッドナイト・イーグル』もお薦め 『ミッドナイト イーグル』(文春文庫)には、度肝をぬかれました。スケールの大きな舞台、登場人物の繊細な描写、迫力満点のアクションシーン。どれをとっても、水準をはるかに超えていました。『イントゥルーダー』をしのぐほどの完成度といえるかもしれません。 主人公・西崎勇次は、有能なカメラマンです。世界中を飛び回って、悲惨な現実を写しつづけます。彼には別居中の妻の妹・慶子と優という六歳の独り息子がいます。慶子はフリーのルポライターです。在日米軍基地問題を手がけています。 謎の物体が、北アルプスに墜落します。たまたま穂高連峰にかかる月を撮影していた、西崎勇次はそれを目撃します。西崎は高校時代の山岳部の友人・新聞記者の落合とともに、不審な物体を追ってふたたび北アルプスにはいります。 いっぽう慶子は、何者かが横田基地に侵入し、銃撃戦となった事件の取材を依頼されます。青木という若いカメラマンとともに、負傷したまま逃亡した、謎の人物を追います。 墜落した謎の物体は、米軍機ステルス。謎の人物は、北からの侵入者です。2つの事実が明らかになったとき、別々だった事件が1つに重なりはじめます。 高嶋哲夫は二つの追跡劇を、交互に描き出します。厳寒の北アルプスを舞台に、米軍機ステルスの塔載物をめぐり殺戮が繰り広げられます。純白の世界を、銃弾が飛び交います。新雪に鮮にが染まります。猛吹雪に視界を遮られ、新雪に足をとられます。遅々として進めない行軍。北の軍隊が、自衛隊が、そして西崎と落合が入り乱れて、危険きわまりない塔載物に迫ります。 慶子の取材にも、邪魔がはいります。日本政府とアメリカが、取材の行く手をさえぎります。高嶋哲夫は自然の猛威にも、政府の圧力にも屈しないジャーナリストの勇気を描き上げます。やがて、離れ離れだった慶子と心がつながります。事件の渦中から、切れ切れの無線を通して、家族の声が聞こえます。 高嶋哲夫は「家族の再生」というテーマを、みごとに紡ぎあげました。タイトルの意味は最後に明かされます。ラストシーンには、こみあげてくるものがありました。脇役が光る作品は、読み応えがあります。『ミッドナイト イーグル』は、今年最大の収穫である。 (この章は、藤光 伸として2000年5月3日、PHP研究所「ブック・チェイス」掲載したものを転載させていただきました) (山本藤光:2009.10.23初稿、2015.02.25改稿)
2015年02月26日
コメント(0)
生真面目なサラリーマンの河合譲治は、カフェで見初めた美少女ナオミを自分好みの女性に育て上げ妻にする。成熟するにつれて妖艶さを増すナオミの回りにはいつしか男友達が群がり、やがて譲治も魅惑的なナオミの肉体に翻弄され、身を滅ぼしていく。大正末期の性的に解放された風潮を背景に描く傑作。(「BOOK」データベースより)■谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫)◎自然主義から耽美派へ 明治30年代の後半から文壇を支配していたのは、「自然主義文学」でした。島崎藤村『破戒』(新潮文庫)、田山花袋『蒲団』(新潮文庫)などが代表的な作品です。夏目漱石は、自然主義文学を嫌っていました。森鴎外とともに、日本の自然主義文学の流れをせき止めたのが夏目漱石だったのです。 谷崎潤一郎は永井荷風とともに「耽美派」としてくくられています。これらの流れを整理しておきましょう。 1.明治18年:坪内逍遥『小説真髄』(岩波文庫、近代文学はいかにあるべきかを述べた論文)2.明治20年:二葉亭四迷『浮雲』(新潮文庫、坪内逍遥の理想を実現。口語文で書かれています)3.明治23年:森鴎外『舞姫』(新潮文庫、写実主義よりも美しい小説を描くことを主張。浪漫主義文学の代表)4.明治25年:幸田露伴『五重塔』(岩波文庫、欧州文化吸収に急ぐことに疑問を抱きました。擬古典主義として、あえて古典的文体に固執しています)5.明治38年:夏目漱石『吾輩は猫である』(新潮文庫、自然主義文学を嫌悪していました)6.明治39年:島崎藤村『破戒』(新潮文庫、自然主義文学の代表作)7.明治40年:田山花袋『蒲団』(新潮文庫、自然主義文学の代表作)8.大正5年:永井荷風『腕くらべ』(岩波文庫、耽美派文学の代表作)9.大正13年:谷崎潤一郎『痴人の愛』(新潮文庫、耽美派文学の代表作) 谷崎潤一郎文学の源流にあるのは、「女性への憧憬」と「マゾヒズム」です。谷崎潤一郎文学は母・セキの存在をぬきにしては語れません。母は評判の美人でした。女性への崇拝の基点となるのが、母・セキの存在だったのです。 谷崎には『母を恋ふる記』(『金色の死・谷崎潤一郎大正期短篇集』講談社文芸文庫所収)という作品があります。興味のある方はお読みください。この作品や『吉野葛』『少将滋幹の母』(ともに新潮文庫)などには、その影響が強くでています。「マゾヒズム」に関しては、初期作品『刺青』(新潮文庫)からその兆候は認められます。そして顕著に「マゾヒズム」があらわれているのが、『痴人の愛』『卍(まんじ)』『春琴抄』『癇癪老人日記』(いずれも新潮文庫)などです。 集英社文庫として『谷崎潤一郎マゾヒズム小説集』(「少年」「幇間」「魔術師」など所収)『谷崎潤一郎フェティシズム小説集』(「刺青」「悪魔」「青い花」など所収)の2冊があります。興味のある方はお読みいただきたいと思います。◎「女性への憧憬」と「マゾヒズム」『痴人の愛』には「女性への憧憬」と「マゾヒズム」が、コインの裏表のようにくるくるだしいれされています。『痴人の愛』には、冒頭から読者を作中に引きこんでしまう力があります。谷崎潤一郎は、人間の「のぞき」願望を熟知しています。それゆえこのような書きだしを思いついたのでしょう。――私はこれから、あまり世間に類例がないだろうと思われる私達夫婦の間柄に就いて、出来るだけ正直に、ざっくばらんに、有りのままの事実を書いて見ようと思います。それは私自身に取って忘れがたい貴い記録であると同時に、恐らくは読者諸君に取っても、きっと何かの参考資料となるに違いない。(本文P5より) 谷崎潤一郎には、有名な「小田原事件」という騒動があります。谷崎潤一郎が志賀直哉の媒酌で結婚したのは、1915(大正5)年29歳のときでした。その後、妻・千代と不仲になり、親しかった佐藤春夫に奪われてしまいます。谷崎潤一郎は佐藤春夫と絶交し、そのことを公開してしまいます。谷崎の居住地が小田原にあったことから、この騒動は「小田原事件」と呼ばれています。 谷崎潤一郎には、「公にしてしまう」という性癖があったようです。「小田原事件」と『痴人の愛』の冒頭文はつながっているのです。谷崎の2度目の結婚も破綻してしまいます。彼にはずっと船場の御寮人・根津松子の存在がありました。松子こそ、谷崎が求める女神だったのです。『痴人の愛』のナオミは、写真で見る根津松子のイメージと重なります。 東京で電気会社の技士をしている河合譲治28歳は、富豪の息子で堅物でとおっていました。ある日カフエエ(本文の表記にしたがっています)の女給をしていた15歳のナオミを見そめます。彼は自分の手元におき、理想の女性にしたいと願います。彼は西洋的な美人のナオミを、ゆくゆくは妻にしようと考えています。 英語とピアノを習わせ、給料のすべてをナオミの衣装に費やします。田舎娘だったナオミが、少しずつ豹変してゆきます。毎日ナオミの身体を洗い、着せ替え人形のように新しい衣装を着せてみます。ナオミは理想どおりに成長します。河合譲治は「育児日記」のように、成長の過程を記録しています。 ――彼女の骨格の著しい特長として、胴が短く、脚の方が長かったので、少し離れて眺めると、実際よりは大へん高く思えました。そして、その短い胴体はSの字のように非常にくびれていて、くびれた最低部のところに、もう十分に女らしい円みを帯びた臀の隆起がありました。(本文P44より) ナオミの肉体的な成長は、目を見張るものでした。しかし習いごとの腕は上らず、しだいに男友だちの姿が見え隠れするようになります。やがて、主客が逆転してしまいます。 谷崎潤一郎は、「思想のない作家」といわれてきました。「小田原事件」の渦中にあった、佐藤春夫がいったものです。これについては後年、伊藤整がきっぱりと否定しいます。また谷崎潤一郎は、芥川龍之介とも論争をしています。興味がある方は、芥川龍之介『文芸的な、余りにも文芸的な』(「侏儒の言葉」と併載、岩波文庫)の2章「谷崎潤一郎氏に答ふ」をご覧いただきたいと思います。 ◎ノーベル文学賞候補だった 谷崎潤一郎を初期作品から順序良く読むと、小説家の苦悩と変化がみえてきます。そのあたりについては、『文豪ナビ・谷崎潤一郎・妖しい心を呼びさますアブナい愛の魔術師』(新潮文庫)を読んでから、作品を選んでいただきたいと思います。また河野多恵子は『谷崎文学の愉しみ』(中公文庫絶版)を書いています。引用してみましょう。 ――谷崎文学の何よりの魅力は、溌剌とした生命感に溢れていることである。人間性と人生との底知れない秘密、不思議さ、意外性を強烈な個性で一作ごとに新しく認識し、力強く表現している。谷崎文学の分つ感動は、読者の人間性の最も深いところに引き起こす感動なのである。(本文P10より) 私は大学のときに、教生として中央大学付属高校で『陰翳礼賛』(中公文庫)の授業をしたことがあります。そのときに、谷崎文学はひととおり読みました。そして「谷崎潤一郎に思想はない」というのは、とんでもない言いがかりだと思いました。また「およそ文学において構造的美観を最も多量に持ち得るものは小説である」に、「戯曲」であると反論した芥川龍之介も言いがかりに思えたものです。 『陰翳礼賛』は、構造美に満ちあふれた著作です。芥川龍之介のいう「戯曲」よりも、この著作には顕著に「構造美」が認められました。 朝日新聞朝刊1面(2009年9月23日)に、「谷崎、ノーベル文学賞候補だった」という活字が躍っていました。1958年の選考資料が明らかになったのです。谷崎潤一郎は41人の候補者リストに名を連ねていました。推薦人として、三島由紀夫は谷崎文学をつぎのように書いています。――古典的な日本文学と現代的な西洋文学の融合に最高水準で成功した作家。――主題は限定されているように見えるが、その核心は常に理想主義者の批評的感覚がある。その美の世界に顕著に現れる、人間の本質への洞察の鋭さは驚きをもたらす。繊細だが輝かしく、はかないが重みのある、芸術と呼ばれる仕事を続けてきた。 谷崎潤一郎は、日本を代表する作家です。ノーベル文学賞の価値は十分に備えています。ぜひいくつかの作品を読んで、あなたの評価を与えていただきたいものです。(山本藤光:2010.06.03初稿、2014.08.10改稿)
2014年12月09日
コメント(0)
破滅への衝動を持ちながらも<恋と革命のため>生きようとするかず子、麻薬中毒で破滅してゆく直治、最後の貴婦人である母、戦後に生きる己れ自身を戯画化した流行作家上原。没落貴族の家庭を舞台に、真の革命のためにはもっと美しい滅亡が必要なのだという悲壮な心情を、四人四様の滅びの姿のうちに描く。昭和22年に発表され、<斜陽族>という言葉を生んだ太宰文学の代表作。(文庫案内より)■太宰治『斜陽』(新潮文庫)◎波乱に満ちた生涯 だれもが知っている日本の代表的な作品のひとつが、太宰治『斜陽』(新潮文庫)でしょう。しかし私は、ていねいに読んだことがありませんでした。太宰治については、さまざまな情報はもっていました。「生まれてすみません」「私に芥川賞をください」「グッドバイ」などの発言。そして入水自殺、薬物中毒、桜桃忌などのできごと。「桜桃忌」は太宰治を偲ぶ会として、いまでも三鷹市禅林寺に熱烈な読者が集まっているようです。太宰治作品は、近ごろ「人生論」のひとつとして読まれているらしく、人気はいまだに健在です。太宰治は1909年、津軽の大地主のこどもとして誕生しました。成績優秀で東大仏文科に入学し、文学に夢中になり、井伏鱒二(推薦作『山椒魚』新潮文庫)に師事しています。このあたりの履歴が、私に拒否反応をおこさせていたのでしょう。ボンボンで頭がよく、大好きな文学にも師匠がいた。恵まれ過ぎているのです。ところが文学にのめりこむにつれ、太宰治は満たされなくなってしまいます。 誕生したばかりの芥川賞では、石川達三『蒼氓(そうぼう)』(新潮文庫)に栄誉をさらわれてしまいます。その後も太宰治は、受賞という評価に恵まれることはありませんでした。作品ではなく生き方が評価できない、と発言した川端康成とひと悶着をおこしました。酒と薬に溺れます。何度も自殺をくりかえします。 太宰治は、石川淳(推薦作『普賢』講談社文芸文庫、芥川賞受賞)、坂口安吾(推薦作『堕落論』新潮文庫)、織田作之助(推薦作『夫婦善哉』新潮文庫)らとともに「無頼派」に位置づけられています。戦後間もなくの混乱時期、彼らはこぞって「戦後への強烈な不信ないし反抗の意欲」を示しました。坂口安吾が小林秀雄を、太宰治と織田作之助が志賀直哉をこきおろしていました。坂口安吾は、夏目漱石や島崎藤村も大嫌いでした。◎『斜陽』を真直ぐに読むと『斜陽』は、1997(明治22)年に発表されました。入水自殺をする1年前の作品となります。先に太宰治作品を、まともに読んだことがなかったと書きました。生い立ちもひとつの理由ですが、暗すぎる印象があったので、一方的に避けていたのでしょう。「山本藤光の文庫で読む500+α」の執筆にあたって、太宰治は不可欠な作家です。『斜陽』(新潮文庫)を再読しました。 没落貴族の3人家族と小説家が、主たる登場人物です。主人公のかず子は病身の母とともに、追われるように伊豆の山荘へ居を移します。敬愛する母を守りながら、かず子は慣れない畑仕事などに精をだします。生活は苦しく着物や宝石を売りながら、懸命に生活を守っています。 そんなところに、弟・直治が戦地から戻ってきます。直治は薬物中毒で飲んだくれ。あちこちで借金をしまくります。かず子には、たったひとつの夢があります。直治が尊敬している作家・上原二郎の愛人になって、子を生みたいという屈折した夢です。かず子は、上原に愛を伝える手紙を送りつづけます。返信はありません。 ものがたりの詳細は、これ以上明らかにしないでおきます。太宰治は戦争から戻った直治(弟)を自分自身と重ねます。この作品は、姉・かず子の日記や手紙形式で書かれています。前記のとおり、弟・直治は飲んだくれで薬物中毒。直治が慕う小説家は破天荒。2人の生きざまこそ、太宰治そのものでした。 太宰治はこのころ、作品のモデルとなった愛人・太田静子に女児(作家・太田治子)を、正妻には次女(作家・津島佑子)を誕生させています。さらに入水自殺の道連れにした、戦争未亡人・山崎富栄とも懇意になっています。 そんな作品背景を学び、『斜陽』を2度読んで、私はさらに暗くなりました。太宰治作品を読むなら、『富岳百景』(新潮文庫)や『女生徒』(角川文庫)あたりからがいいのかもしれません。つまみ食いなので大きなことはいえませんが、精神的に安定していたはずの時期(1939年、太宰治30歳、結婚)の作品ですから。『斜陽』は、1週間ほどかけて2度目を読み終えました。途中で文献をあさったり、初期作品に目を通したりの道草と匍匐(ほふく)前進の連続でした。語り手である姉・かず子の立場で読んだので、結構苦しい道行だったと、正直に吐露しておきます。 太宰治の代名詞でもある道化の部分は、この作品にはありませんでした。エンディングで、姉・かず子が未来目線になっていました。それが唯一の救いでした。◎この人はこう読んだ 最後に『斜陽』へのメッセージを、いくつか紹介させていただきます。――『斜陽』は、初めから計算ずくで元華族の家庭を設定して、一人ひとりがそれぞれの仕方で破滅していくことを意図的に描こうとしたものだと思う。作品の中の真実らしさは、小説家と弟直治に分け与えたデカダンスの性格と言動、自分の夫人への配慮、それに太田静子を素材に描いた姉かず子にあるのではなかろうか。(吉本隆明『日本近代文学の名作』新潮文庫より) 吉本隆明は「『斜陽』はチェーホフ『桜の園』(岩波文庫)が下敷きだった」と書いてもいます。なるほどと思いました。没落貴族のてんまつを参考にしたのかもしれません。 10代半ばで「けっ」と放り出した角田光代は、30代半ばになってはじめて気づいたことにふれています。――読み手が抱きやすい「めめしくて甘ったれ」という部分も、無意識に垂れ流された作家の性質なのではなくて、じつに老獪(ろうかい)に計算され、わざと表面に押し出されたものではないか。自身の持つ繊細さや敏感さ、臆病さや卑怯さ、そういったものを、ていねいに自身から切り離し、笑えるくらい距離を置き、客観的に矯(た)めつ眇(すが)めつして眺め、そうしてから作品に落としこんでいるのではないか。(角田光代『私たちには物語がある』小学館文庫より)――『斜陽』は実に美しい小説である。最後まで静謐(せいひつ)を保ち、主人公のイメージをマリアに近づけようとしているのである。この小説を読むと、現代のシングルマザーの生き方など甘っちょろいと思えてくるはずだ。(林真理子『林真理子の名作読本』文春文庫より) おおとりとして、中国からの留学生の感想を引用させてもらいます。おそらく、かず子の「人間は恋と革命のために生まれて来たのだ」というセリフを意識してのものでしょう。――価値観の崩壊から立ち直るには、新たな価値を見つけるしかない。その新たな価値となるものは、ありふれた自然と平凡な日々。私はかず子のつぶやきを何度も読み直したのだ。(重松清・編著『百年読書会』朝日新書より) 戦後間もなく発表された『斜陽』は、さらに存在感を増してきているようです。まだまだ紹介させてもらいたかったコメントがたくさんあります。(山本藤光:2012.10.23初稿、2014.08.05改稿)
2014年11月27日
コメント(0)
全23件 (23件中 1-23件目)
1