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■カミュ『異邦人』(新潮文庫・窪田啓作訳)

◎不条理という哲学
カミュの作品を読むとき、「不条理」について理解しておかなければなりません。解説を引用させていただきます。
――実存的な用語で、人生に意義を見出す望みがないことをいい、絶望的な状況、限界状況を指す。特にフランスの作家カミュの不条理の哲学によって知られる。(「広辞苑」第五版)
カミュは文学辞典だけではなく、「広辞苑」にまで掲載されています。それゆえ小難しい作家だなどと食わず嫌いをせずに、肩の力を抜いて読んでいただきたいと思います。私は向こう見ずにも、「広辞苑」に異議ありと主張させてもらいます。
『異邦人』の主人公・ムルソーは、けっして人生に絶望していません。限界状態でもありません。ヤボな芸人のように、「そんなの関係ない」と思っているだけなのです。養老院から母の死亡を知らせる電報を受け取ります。ムルソーは勤め先の主人に、休暇を申し込みます。不満そうな主人にムルソーは、「私のせいではないのです」といいます。
『異邦人』の冒頭の一文は、あまりにも有名です。「きょう、ママンが死んだ」。なぜか私は、「きのう」だとばかり思っていました。それは冒頭の一句を、あまり重視せずに読んでいたことによるものです。この一文のあとに続く「もしかすると、昨日かもしれないが、私にはわからない」の叙述に、まぎらわされてしまっていたのでしょう。
ムルソーにとって母の死は、今日でも昨日でも、どうでもいいことなのです。バスに揺られて養老院に着いたムルソーは、母の顔を見ようともしません。涙を流すこともありません。平気で煙草を吸い続けています。しかも葬式から戻り、喜劇映画を見て、女と情交までしているのです。
著者カミュは、これでもかといわんばかりに、ムルソーを非人間的に描き抜きます。多くの読者は腹立たしく思いながら、ムルソーの無軌道ぶりに唖然とすることになります。
そして第1部の結末を迎えます。ムルソーは友人の海辺の別荘に行き、アラビア人とケンカとなります。ムルソーは友人から預かった拳銃で、5発の銃弾を撃ち放ちます。
◎なぜ「無関係思想」が生まれたのか
呼称はどうでもいいのですが、私はムルソーを「無関係思想者」と表現したいと思います。ずっと「不条理」という哲学に呪縛されてきましたが、再読してみてひらめいたのです。
電車のなかで、若い女性が化粧をしていました。平気で携帯で会話をしている若者がいました。これらの場面には何度も遭遇しています。そのつど私は「非常識なやつだ」と心のなかで吐き捨てています。ところが当人は、いたって平気なのです。車内の冷たい視線は、まったく意に介していません。
殺人のたとえとして化粧では、あまりにも迫力不足かもしれません。化粧女は明らかに、批判的な視線は意識しているはずです。でも「そんなの関係ない」のです。時間がないから電車のなかで化粧をする。その行為に、常識などという論理が入り込む余地はありません。
ムルソーの葬式前後の行為も殺人も、世間の常識などとは無関係なのです。殺人の理由を明快に答えられないために、ムルソーは単に太陽を持ち出したに過ぎません。ではなぜ、カミュはムルソーなる主人公を描いたのでしょうか。それはカミュ自身の生い立ちが影響しています。このあたりは、専門家のいうとおりだと思います。
カミュはフランス領アルジェリアで生まれました。第1次世界大戦で父を失い、カミュは貧困生活を余儀なくされました。私は作品と作者の生い立ちを、極端な形で結びつけて書かないようにしています。これは意図的なことなのですが、結婚興信所みたいな展開を好まないからです。
しかしカミュだけは別です。カミュが生まれたとき、アルジェリアはフランスの植民地でした。亡くなった父はフランス系であり、母はスペイン系でした。つまりカミュは、フランスというよりどころを失った状態で育っています。
カミュは、地中海のきらめく光景を好みました。なにかに「私の怨恨のすべてを漂白してくれた」と書いているほどです。カミュの履歴に関しては、詳細はあえて書きません。『異邦人』(新潮文庫)には、白井浩司の懇切丁寧な解説が掲載されています。それを読んでもらいたいと思います。
◎自由になるということ
私の「無関係思想」は、どうでもいいことです。単なる思いつきで、薄っぺらなものです。だからもう少し本家の「不条理」について学んでおきたいと思います。愛用している辞典から引用してみます。
――不条理:人間が存在の根元から切り離されて、自分とも、周りの環境とも意味のある関係を結ぶことができずに、阻害状況にあるという意味。フランスの作家アルベール・カミュの『シシュポスの神話』に盛られた哲学である。(後略)(『最新文学批評用語辞典』研究社出版)
この辞典には「不条理」を作品に実践したのは、T.ビンチョン(推薦作『スローラーナー』ちくま文庫)、K.ヴォネガット(推薦作『タイタンの妖女』ハヤカワ文庫SF)などと書かれています。また、S.ピンター、S.ベケットなどの作品も「不条理」と向き合ったものだと書かれています。
人は阻害状況にあるか否かと問われたら、だれもが「はい」と答えるのではないでしょうか。もしも「いいえ」なる人がいたら、よほどノー天気だと思います。問題は阻害状況を脱出または克服する意思があるか否かだと思うのです。
サルトルのいう、「自由であるということは、なにごとも自分で決め、選び、自分についての全責任を一身に背負うということだ」(白鳥春彦監修『哲学は図でよくわかる』青春出版社新書)に注目したいと思います。
虐げられている。阻害されている。そう感じたら、脱出や克服などは考えられません。これらの対象物である組織や人などは、完全に無視してしまうのが関の山です。そこに「自由」が生まれます。つまり「不条理」なる人は、闘わないのです。自由」を手に入れるということは、組織や他人の存在を消し去ることなのです。
『異邦人』の第2部は、裁判の場面が延々と続きます。第1部のできごとが、くりかえし陳述されます。ムルソーの葬儀前後について、必要に問い詰められます。「なぜアラビア人を殺したのか。動機はなんだ」「なぜ5発も打ち込んだのか」。執拗な問いかけに、ムルソーは「太陽のせいだ」と答えます。
この答弁が簡単な事件を、複雑なものに変えてしまいます。神を冒涜している。人間性のカケラもない。検事側の態度が、しだいに頑ななものになってゆきます。ムルソーは、いかなる対応をするのでしょうか。第2部はあなたも化粧女となって、読んでみてもらいたいと思います。
(山本藤光:2009.08.11初稿、2014.09.04改稿)
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