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土の犬人形、丑紅の牛--走馬燈のように廻る、子供の頃の想い出は、ひっくりかえした宝石箱のように鮮やか。誰の記憶の中にでもある〈銀の匙〉。大人のための永遠の文学です。平岡敏夫/郷原宏。(文庫案内より)
■中勘助『銀の匙』(角川文庫クラッシックス)
◎ 夏目漱石が絶賛
中勘介が夏目漱石の推薦で、東京朝日新聞に『銀の匙』(前編)の連載をはじめたのは28歳(1913年)のときです。それまで長詩にうちこんでいましたが、その限界をさとりはじめて書いた散文が『銀の匙』(角川文庫クラッシックス)でした。
岩波文庫『銀の匙』で、和辻哲郎はつぎのように書いています。少し長いのですが、引用させていただきます。
――この作品の価値を最初に認めたのは夏目漱石である。漱石はこの作品が子供の世界の描写として未曾有のものであること、またその描写がきれいで細かいこと、文章に非常な彫琢(ちょうたく)があるにかかわらず不思議なほど真実を傷つけていないこと、文章の響きがよいこと、などを指摘して賞賛した。(中略)漱石がこのように高くこの作品を評価したのは、この作品の独創性をだれよりも強く感じたからであろう。実際この作品には先人の影響が全然認められない。それはただ正直に子供の世界を描いたものであるが、作者はおのれの眼で見、おのれの心で感じたこと以外に、いかなる人の眼をも借りなかった。(岩波文庫、和辻哲郎の解説より)
私は最初に『銀の匙』を、角川文庫クラッシックスで読みました。本書にはたくさんの、風物や地名や玩具などの単語が登場します。読みながら立ち止まって、巻末の「注釈」で意味を確認しなければなりませんでした。そこで再読を、kindle(岩波文庫)でおこないました。こちらはわからない単語をクリックすれば、すぐに「注釈」にとんでくれます。意味を確認したら「戻る」をクリックするだけで、本文がよみがえります。したがって再読はスムースでした。
本書は前編と後編からなり、前編では幼年期から小学生時代まで、後編は高等小学校と中学校の思い出がつづられています。前編には2人の女の子が登場します。お国ちゃんは、はじめてともだちになった女の子です。お恵ちゃんはいっしょに通学した女の子です。伯母さんはさまざまな工夫をして、引っ込み思案の「私」を2人に引き合わせます。後編では「私」のほのかな、初恋の場面が描かれています。また後年伯母さんを訪ねたときの、思い出がつづられています。
◎銀の小匙からこぼれだした思い出
書斎の本箱の引き出しに、昔からの小箱がはいっています。
――なかには子安貝や、椿の実や、小さいときの玩(もてあそ)びであったこまごましたものがいっぱいつめてあるが、そのうちのひとつ珍しい形の銀の小匙のあることをかって忘れたことはない。(本文P6より)
「私」は中から銀の小匙取りだし、曇りを磨きながら眺めます。懐かしい記憶が、銀の小匙からこぼれだしました。
「私」を産んだあとの母は産後のひだちがよくなく、「私」は伯母さんに育てられます。生まれて間もなくの「私」は、腫瘍(できもの)ができていました。銀の小匙は伯母さんが、水薬を飲ませてくれたときに、使われていたものです。「私」は病弱で、意気地なしで、人見知りのはげしいこどもでした。いつも伯母さんに背負われ、泣いてばかりいました。伯母さんについて、的確に紹介している著作があります。引用させていただきます。
――伯母さんはたいへん信心深く、また迷信家です。記憶力もよく、いろんな迷信や通俗的な物語をこの子に教え込んでいきます。惣右衛門さん(補:伯母さんの夫)が死んだあとは、/「私を育てるのがこの世に生きる唯一の楽しみであった」/というくらい一所懸命に「私」を育てます。そのことが「私」を甘やかし、ある意味では非常に偏った子供にしたのですが、(後略)(十川信介『中勘助「銀の匙」を読む』岩波現代文庫P27より)
中勘助『銀の匙』を読んでいて、伯母さんと亡き夫(惣右衛門さん)が、『若草物語』のオールコットの父親と、重なる部分がありました。まずは『銀の匙』から引用します。
――国では伯母さん夫婦の人のいいのにつけこんで困った者はもとより、困りもしない者までが困った困ったといって金を借りにくると自分たちの食べるものに事をかいてまでも貸してやるので、さもなくてさえ貧乏な家はまたたくうちに身代かぎり同然になってしまったが、そうなれば借りたやつらは足ぶみもずに、あんまり人がよすぎるで」などとあざ笑っていた。(『銀の匙』P9より)
オールコット『若草物語』について、私はつぎのような文章を書いています。(「標茶六三の文庫で読む400+α」より)
(引用はじめ)
ルイザ・メイ・オールコットの父親について、知っておかなければなりません。『若草物語』(新潮文庫、松本恵子訳)の解説では、つぎのような説明がなされています。
――オールコット氏は哲学者で、非常な理想家で、四海同胞主義を実践的に行い、豊かでもないのに、困窮している人々を見ればだれ彼の差別もなく、行路病者でもなんでも家に引き取って世話をしたので、オールコット家は常に無料宿泊所の観を呈し、親子水入らずで暮らすなどということはほとんどなった。(本書「解説」より)
ルイザ・メイ・オールコットは、そうした父の理想と母の愛情のなかで育てられました。引用文中の「四海同胞主義」は。「超絶主義」「超越主義」などと書いてある解説書もあります。しかし主義の中味は、引用文のとおりです。
(引用おわり)
『銀の匙』の主人公は「私」ではなく、伯母さんなのかもしれない。そんな錯覚をおぼえるほど、作中にしめる伯母さんの存在を大きく感じました。本書は「私」の成長物語です。そして伯母さんが、残りの人生のすべてを賭した物語でもあるのです。
――伯母さんは決して彼を責めない。安易に慰めたりも励ましたりもしない。ただ自分も一緒に泣くだけです。ここに、伯母さん独特の愛情の注ぎ方があらわれていると思われます。母親とも違う、先生とも違う、伯母さんにしかできない愛し方です。とにかく今は、彼の悲しみに寄り添ってやろう。自分にはそれしかできないのだから。そんな伯母さんの声なき声が聞こえてくるようです。(小川洋子『心と響き合う読書案内』PHP新書P74より)
◎「心に残る3冊」ナンバーワン
富岡多恵子は『銀の匙』を高く評価しています。そしてこんな文章を書いています。
―― 一九八七年に、創刊六十年を迎えた岩波文庫が「心に残る三冊」というアンケートを行った時『銀の匙』をあげたひとがいちばん多かった。それが「心に残る」理由として回答者たちが記したコメントは、「不思議なほど鮮やかに子供の世界が描かれている』(和辻哲郎)、「少年時代をなつかしく思い出さざるを得ない」(小宮豊隆)、「これほど慰めと力を与えられる愛情に充ちた作品は稀有」(河盛好蔵)というそれまでになされていた批評とおおかた一致していた。(富岡多恵子、『私が選んだ文庫ベスト3』丸谷才一編、ハヤカワ文庫より)
詩人で童話作家の岸田衿子は、朝日新聞社学芸部編『読みなおす一冊』(朝日選書)のなかで、『銀の匙』の魅力を3つあげています。
・作者の幼年時代の感性、これに一点のくもりもないこと
・手あかのついていない文体
・作品のなかに散らばっているユーモア
そしてつぎのように結びます。
――こうした幼年期の感受性をそのまま、肌で覚えている作者は再現する。童話を書く人間は、子ども時代を何度も生きなければならないから、この作者に共鳴するところが多い。(岸田衿子「読みなおす一冊」より)
雑誌『オール讀物』(2012.11)で、「美の快楽」という特集が組まれました。そのなかで「作家28人が選ぶもっとも美しい小説」という、アンケートがなされています。窪美澄が選んだのは『銀の匙』でした。
――『銀の匙』は、私が今まで読んできた本のなかで、最も美しい小説である。くりかえし描かれる、子供の目から見た世界。できたばかりの網膜に映される花や草、星空の美しさ。薄い膜を震わせる不可解な大人の言葉。自分を守ってくれる人の手の温かさ。自分は美しい世界に生きているのかもしれない、と、もう一度信じさせてくれる、そんな力がある作品だと思う。
『銀の匙』はいまなお、多くの人に感動をあたえてくれます。
(山本藤光:2011.06.24初稿、2015.01.30改稿)
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