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ここのところつづくイギリスの歴史シリーズ。どれも楽しくておもしろくて、今回のヴィクトリア女王も、期待してみにいったのですが、今回のものは、いまひとつでした。ヴィクトリアとアルバートがいかに仲のよい夫婦だったかは、有名だけど、実のところどんなだったのかと、楽しみにしてました。 でもね。映画みているとね、どの人がアルバートなのか、わかんなくてさぁ。もう一人いるヴィクトリアの側近と見分けがつかなくて。しかも、アルバートが全然魅力的にみえなくて、いつヴィクリアがアルバートに惚れたのか、アルバートのどんなところに惹かれたのか、ぜんぜんわかんないのです。みていても、アルバートがぜんぜんステキにみえない。頭のいい人物らしいんだけど、セリフで行ってるだけで、見ている読者には、ぜんぜんピンとこない。アルバートの聡明さがわかるようなエピソードとかもないのですよね。唯一アルバートが活躍するのは、ヴィクリアが銃で撃たれそうになった時に身をていして彼女を守った時だけです。 ヴィクリアの話でも、主役はヴィクトリアだけれど、それ以上にアルバートがステキにみえて、そのアルバートに惚れていく、ヴィクトリアの恋心とか、共感してはらはらどきどきしながら、みたかったのですが、そんな感じがぜんぜんないのです。 しかもしかも、だいじな結婚式のシーンなんか、あっというまに、おわっちっゃて、あれ?って、かんじ。そんなーーーー。 最初にでてくる戴冠式のシーンは、なかなか荘厳で感動したのに、なんで大英帝国のクイーンの結婚式があっというまに、終っちゃうのですか。 物語全体が冗長で、結構退屈。途中で飽きてきてしまいました。劇場も混んでいて、窮屈だったし、劇場の中に高低差もなくて、みずらいし。今回はがっかりでした。 さて、次の大英帝国ヒストリーシリーズは、どの部分をやるのかな。次回に期待。
2010年01月29日
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去年のことだけど、ずーっと膝が痛いといっていた母が、とうとう決心して、膝の手術をしました。人工間接をいれる手術です。でもなにしろ、足を切り開いて、骨を入れ替える。それを両足、つまり、二回やるわけですからね。母は、もう高齢で80近い都年だったのです。80をすぎたら、もう手術はやらないものだそうですが、ぎりぎりの年齢、自由にうごけないことの辛さに決心したのです。手術は、ものすごく痛くて、辛かったようです。しかも、手術のあと、まだ痛いのに、すぐにリハビリが始まる。まだ痛い足で、歩く練習をするわけで。それでなくても、膝だけじゃなくて、高齢と肥満のせいで、いろんなところが、もう、使いにくくなっているのに。 しかも、手術のあと、病院でうっかり転んでしまって、腰をうってしまったそうです。病院内なのに、病院はそのことに対しては、あまり対処してくれなかったそうです。家族がかけあって、なんとか診察してもらっても、様子を見ましょうということだけだ、特になにもなく。そのあと、退院後の診察で、腰も、手術しますかといわれたらしいです。 あれだけ、痛い思いをしたのに、結局、母は、さくさく、歩けるようにはなっていません。逆に、障害者の申請をして、タクシー券をもらって、あまりであるけず、家にいることが多くなりました。 高いお金を払って、すごくつらい痛い思いもして、結局、母の望んだ痛みのないさくさくと軽快に動ける生活は、返って来ませんでした。なんだか、釈然としない気持ちてです。病院には母と同じような、高齢の足の痛い女性たちがたくさん入院して、手術していました。あの人たちのどれくらいが、動けるようになったのか。 結局うごけるようにならないのに、病院はどうして、手術を勧めるのでしょう。自分の治した患者さんたちの結局動けるようになっていないその後をみているはずなのに、医師は、なぜ次から次へと、やってくる患者たちに、どんどん手術を勧めるのでしょう。 トシをとってくれば、体のあちこちはいろいろと老朽化して壊れてくるのだから、一部を直しても、また別のどこかが、壊れてくるのだし。もともと人間のからだなんて、50年くらいしか使えないものだとか。耐久消費は、もともと50年なのに、文明の進化で、それより30年も長生きするようになって、いろんな痛みや不便と戦いながら、生きていくのもたいへんだと、思うこのごろ。です。 ちなみに、うちの夫も、去年から膝がいたいらしく、接骨院通いです。夫の場合は、特に故障はないらしく、整形外科にいっても、ぜんぜん直らない。でも、痛い。というわけで、今は、接骨院が良い。西洋医学では、直らないので、東洋医学に頼っているところ。 私も、五十肩で、いま、接骨院通い。 トシとると、話題が暗くなってまいります。わはは。ごめんごめん。
2010年01月25日
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年が明けてすぐにお葬式がありました。姑の兄嫁に当たる人。なくなったのは、年末でしたが、やはりお葬式はね。年があけるまで、保留。 夫の代りに出るようにいわれて、いってきました。 なんかね。最近の都市部は、もう昔のように家で葬式のできる状況ではないので、お葬式専門の業者の斎場で、全てやるようになってきました。お葬式の段取りもみんな、お料理もみんな業者さんが用意してくれます。ラクではあるけれど、なんか、味気ないような気がしてしまいました。通夜の翌日に告別式、火葬場に行く時も業者の人がついてきて、アレもコレも面倒見てくれます。そのあとまた、斎場に戻って、地下の会食室で、初七日もやってしまいます。この二日間でお経を聞くこと三回。ちょっとげんなりしてきます。なんかね。ほんとにすごく形骸化してきてますね。毎度のことながら。業者の係りの人がまるで、ツアーコンダクターのようにみえました。旅行業者とほぼ同じ。とっても、きれいなお姉さんがきびきびと働いていて、その姿は美しかったのですけど。家に帰ってみて、なんだか味気なかった気がしました。私自身が年のせいでもう何度かのお葬式にでてきたせいで、なれちゃったのでしょうか。それでも、父の時は、家で納棺もしたし、一晩お線香をつけてみていたり、もう少しなんかこうあったのですが。 今回のお葬式は、女性のだから、来る人も少なかったし、なんか味気なかったし、さびしかった。 お葬式ってお金かかるし、自分の時もこんなお金のかかることやるのはいやだなっと、いつも思い出します。白洲次郎のように、「戒名不用」なんていえるほどの勇気もないし。でも、二日間で三回もお経ってもうさすがにいやだと、思った。年をとると、お葬式でる階数もふえるし、いやにならないのかな。 私の時は、休日に一回だけ、みんなでお食事して、お線香上げておしまいとか、簡単にならないものかなとか、つくづく考えてしまいました。まあ、自分の死んだ後まで心配してもはじまらないけどねえ。
2010年01月13日
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今年はとうとう、うちの長男も成人です。区役所から成人式の案内もきたけれど、出席はしない予定。なんだかね。いっても、区長の話をきいて、どっかのグループの歌を聴くくらい。私の時はそんなだったので、行くこともないじゃないかなと、思ってしまい、あまり息子に勧めておりません。親がこんななので、本人も行く気なし。しかも、最近の成人式は、へんな中身お子様の新成人による乱闘まがいの状況までニュースになったりしてたし、いく意味が感じられません。 それと、うちは、私立の中高一貫だったのだ、いっても、同級生もいないし。もちろん同じ区内に同じ学校の友達もいるんだけど、みんな地方の大学にいってたりして、こないじゃないかとか、思うらしいです。 そしたら、ちょうど成人式の日に高校の同窓会の案内がきました。なんでこんな日にやるんだろうと、おもったら、やっぱり、私立中にいってると、地もとの成人式に行っても、同級生がいなくてさみしい思いをすることへの配慮なんですね。区の成人式より、母校の同窓会のほうが成人式っぽい。そういうことで、去年なかった同窓会が、今年はおこなわれるわけですね。それも、同期会ですから。 なるほどなあっと、思いました。でもねえ。ホテルでやるから会費が高いんですよね。出してあげるから、行けばっていったんだけど、結局申し込まなかったみたいです。もっと、強く言っても良かったかな。案外みんな来たんじゃないのかな。 でももう、遅い。 それでも、夫の母と、私の母が成人式のお祝いをくれまして、昨日は、お赤飯を持って、スーツを着て、夫と一緒に夫の実家にご挨拶に行かせました。息子の進学のことでいろいろと助けてもくれたのですし、ずーっと心配してもくれたのですから、ちゃんとお礼しにいかなくちゃだめだよと、言い聞かせもしました。 まあせめて、コレくらいのことはしないと、成人になったという自覚は、意識されないですねえ。これでもまだまだだし。就職して働いて、世間の本当の厳しさをしらないと、だめかもしれないけれど。 とにかくとうとう、うちの息子も成人です。親もとして、やれやれです。成人の仕度してるのも、結局親だしねえ。
2010年01月10日
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かってのローランド・エメリッヒ監督が描き出した『インデペンデぺンス・ディ』においてえがきだされた、侵略される側の心理、恐怖。 今回の『アバター』もまた、侵略される側の立場の視点での、心理、恐怖、戸惑いが描かれている。 かつて、アメリカ大陸には、もともとの先住民族が住んでいた。けれどそこに、ヨーロッパから、利益をもとめて、白人たちがやってくる。もともと住んでいる側の都合もなにも関係なく、侵略者たちは、殺戮し、侵略し、アメリカという大陸を自分たちのものにしてしまった。当時の侵略した側にとっては、もともといるネイティブアメリカンや、マヤ文明の人々は、ただのじゃまな存在であり、敵でしかなかった。 けれど、長い時間のはてに、実はもともと住んでいた、ネイティブ側に対して、配慮できるところまで、認識が進んできたようだ。 アバターの物語にでてくる、もともとの民族ナヴィは、、パンドラの星で自分たちの生活と文化と文明を築いて暮らしていた。そこに突然やってきた機械文明を持った他の星からの侵略者「スカイピープル」は、自分たちの利益のために、パンドラの地を侵略していく。映画の中のパンドラの人々ナヴィの姿は、ネイティブアメリカンか、マヤの人々にそっくりなデザインになっている。 そして、そこに、侵略者スカイピープルが、アバターとよばれる人工の身体に精神をおくりこんだ技術によって、 主人公ジェイクは、アバターの身体で、先住民ナヴィの中に入り込んでいく。パンドラの土地にあるレア鉱石を採集することを目的に、鉱石の上に住んでいる彼らと交渉するために送り込まれたはずの主人公ジェイクは、やがて侵略される側の先住民たちの中に入り込み、侵略される側の立場にたち、彼らを助けるために、エイリアンと戦う側となっていく。 アメリカ大陸を侵略し、占領し、先住民たちを殺戮したヨーロッパの白人が、ネイティブアメリカンになって、もともとの侵略される立場のネイティブアメリカンの側につく物語の状況を、パンドラという星を借りて、描き出している映画なのだと、思う。 侵略される側の気持ちを理解して欲しい。自分たちのいままでの行動や歴史は、いったいなんだったのだろうか。 それが、監督ジェームズキャメロンの語るところだろうと、思う。 それにしても、ドラゴンや空飛ぶ生き物に乗って、空を飛んでみたいという夢は、だれでもが一度は、望んだことではないだろうか。飛竜にのって、空を飛ぶ、先住民ナヴィと、主人公ジェイクのシーンは、一番の面白いところ。 けれど、足を怪我して、歩くことのできなくなったジェイクが、アバターとなって、パンドラの大地を冒険し、ナヴィたちの世界に入り込み、恋をして、いくうちに、もともとのリアルの自分より、アバターの自分の方が意識としてメインになっていくあたりは、オンラインゲームにはまりこんで、リアルがだんだんどうでもよくなっていく状況に良く似ていて、ちっょと怖い。オフラインゲームでは、ここまではまり込むことは決してない。物語としては、面白いけれど、ジェイクが最後にアバターの身体に入り込んで、パンドラの地で生きていくことを選択したラストは、一昔前なら爽快であるけれど、コンピュターグラフィックを駆使したこのての映画で、この結末を見るのは、微妙に是非を戸惑う。 さて、その一方で、地球人と先住民ナヴィとの侵略戦争戦で、ジェイクと戦うマイルズ大佐は、「人類を裏切るのか」と、ジェイクにいう。人類のために戦うという大佐の言葉は、見事に洗脳されたものなのか、戦い侵略を正当化するためのものなのか。けれど、実際のところ、パンドラ侵略は高額で売ることで莫大な利益をえるためにパンドラに鉱石採掘と侵略軍を送り込んだ企業のためでしかない。そんな描写に今のアメリカの戦争の真実が語りこまれてもいる。 単純に冒険者としてみれば面白い映画でもある。現在の映像技術ならではの違和感のなさ。ネットのサイトの予告編などで見ている時には、人形のようにもみえるナヴィやパンドラの動物たちが、映画館でみているとすこぶるリアルで、みごとだ。物語にはまり込んで、美しいパンドラの自然の中で、主人公ジェイクとともに、冒険するのも悪くない。 そしてまた、続編の作り安そうな話しでもある。 もういちど、スカイピープルがやってきたら、次はジェイクはどうするのかな。 アバター@ぴあ映画生活
2010年01月07日
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あけましておめでとうございます昨年中は私のブログを読んでくださってアリガトウございました。更新の滞りがちな最近ですが、今年もよろしくお願いいたします。 2010 元旦
2010年01月01日
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