しあわせのかたち

しあわせのかたち

2006/05/13
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カテゴリ: カテゴリ未分類
 朝起きてから偏頭痛がする。

 気圧の関係だろうか。痛いなあ。

     ※

 今日は寒いですね。東京はしとしとと雨が降っています。
「風光る」とか「山笑う」とかは春の季語です。そして東京に住んでいるかぎりそういう言葉にピタッと合うような春の瞬間に出会うことは少ないのですが、それでもこの5月の春の加減はちょっとヘンテコな感じがしています。

 寒い春の日は「冴返る」と言うそうですが、どうも春なのに寒い日ってのは「冬」とは違って、元気を奪っていくような寒さですな。何事も、始めから与えられないのと、一度与えられてから奪われるというのとでは、悲しさも切なさも違うもんです。

「僕たちはいつも、希望には鈍感で絶望には敏感だ」というのは、なんともまあ辛い話です。はい。

     ※



 ネットをウロウロしていたら、内田樹先生がブログで 『冬ソナ』と村上春樹の世界性 という記事を書いていた。要旨としては、どちらの物語も「父がいない世界で息子はどうやって生きるか?」という問いをめぐる共通点があるそうだ。

 冬ソナは見ていないのでよくわからないが、村上春樹の作品については、「父性の欠如」とよく言われてきたような気がする。実際読んでいて私もそう思ったし。

 そうか。
 私はエヴァンゲリオンという作品についても「父性の欠如」を読み取ったのだけども、これは村上春樹の作品観、世界観との共通点ともいえるのか。そういえば作品全体を流れる雰囲気も、両者は似ている。

「何かが欠けていたまま育ってきてしまった“僕”が、その代替物を求め彷徨う物語」ね。ふむ。

      ※

 気になって「エヴァ×村上春樹」で検索をかけると、大塚英志が怒っているテキストが引っ掛かった。

<以下引用>
 村上春樹が『アンダーグラウンド』執筆の動機としてこういう意味のことをいっている。自分はあちらこちらからサブ・カルの断片を引用してジャンクを作ってきた。それが自分の方法だ。それはオウムと同じである。ならばいかにすれば自分はオウムと異なるものを作れるのか。
 庵野のバカに聞かせてやりたい、とは言わない。だが、村上の問いは正しい。結果としての『アンダーグラウンド』は不満だが、出発点は正しい。

 <おたく>の問題とはつまりはそういうことだ。あんたもぼくもただのサブ・カルにすぎない。だが、幼女を殺さず、サリンをまかず、サブ・カルであり続けることは可能なのか。
 そこで、サブ・カルをやめて国家とか教科書問題に逃亡するのは反則もいいところである。
 そうではなくて、くり返すが、人はいかにして、幼女を殺さず、サリンをまかないサブ・カルでいられるかを考えること。そっちに行かないサブ・カルたること。


 別に考えたくなければ考えたくなくてもいい。秋だか冬になりそーな「エヴァ」の完結篇をカードでも集めながら待っていればいい。そうやってれば20世紀なんかあっという間に終わるのだから。



<「大塚英志のおたく社会時評 第三回」 あなたは「そっちに行かない」サブ・カルでいられるか より引用終了>

「幼女も殺さず、サリンもまかないサブカルでい続けること」なんて可能に決まっている。
 大塚の評論を読むような人はそもそも大丈夫だと思うんだけど、そうでもないのかな?
 あぁ、これって『おたくウィークリー』という、「そのまんま」のネットマガジン(編集長は岡田斗司夫)に掲載された文章なのか。ならまあ大塚の潔癖に過ぎる心配も、わからないでもない。
 しかしすごい名前のネットマガジンだなあ。
 紙化されて書店の棚に並んだら、ちょっと買う勇気はない。


 この件は気になってちょこちょこ検索してみたら、同サイトで大塚発言の総括っぽいものを見つけた。

<引用開始>
『エヴァンゲリオン』とサブカルチャーの限界

 話はやや脱線するが、オウム真理教をめぐる事件を体験したあとのサブカルチャーにおける象徴的な出来事として、例のSFアニメーション『新世紀エヴァンゲリオン』の存在がある。
 このアニメーションは創り手や支持者の傷つきやすさと、その裏返しとしての過剰防衛的(というよりは過剰攻撃的といったほうが正しい)な言説も含めて、オウムの忠実な反復だといえる。こう書くと、若いアニメーションのファンはひどく反発するようだが、「ジャンクの寄せ集め」によって創り手が自らの「自我の欠損性」を購う物語を創造し、受け手はその「欠損性」に同一化していく、という構図において『エヴァンゲリオン』は「オウム」のあまりにも無反省な再現にほかならない。
(後略)

<村上春樹と麻原彰晃 『アンダーグラウンド』は麻原の物語に対峙できたか>(文 大塚英志/Voice 7月号)より引用。全文は こちら 。左記サイトより孫引き>

 大塚英志、「エヴァは自己啓発セミナー」発言に続いて、「エヴァはオウムだ」である。

 こういう潔癖的な発言を繰り返す人を、岡田斗司夫は自身の編集するネットマガジンに使い続けた。唐沢俊一にしてもそうなのだけども、社会的に成功し、認知されるためには、「おたく」と言えども知性と器の大きさが重要なんだなあ、と思う次第だ。ちなみに私は、大塚の立ち位置やそこから出てくる論考は、けっこう好きだったりする。

 ただ大塚はそんなに庵野のやり方が気にくわないのであるならば、まずホストクラブあたりに怒鳴り込むべきじゃなかろうか。現代日本社会において、庵野がエヴァで使った手法をもっとも効果的かつ社会的に発揮しているのは、「恋愛」である。


 あぁ、最後に。
 村上春樹や庵野の作品、またそれらについての大塚の評価で登場する「ジャンク」(ここでは「旧来に作られてきたものの寄せ集めで作成された二次的作品」という意味で使用)について、私は「ジャンクでなにが悪いんだ?」と思ってる。

 内田樹によれば、「孔子も『論語』でそう言ってる」らしい。
 以下に一部引用する。

(引用開始)
 まず前提的なことを申し上げるけれど、繰り返し申し上げている通り、私は「オリジナリティ」とか「コピーライツ」とか「オーサーシップ」ということについては原則的に懐疑的な人間である。
 ある意味で私たちが日々作り上げているすべてのものは先行する何かの「コピー」である、というのが私の持論である。
 別に持論と言ってオリジナルを誇るほどのことではなく、孔子が今から2500年前に「述べて作らず」(私の申し上げることは先人のコピーであってオリジナルではありません)と宣言しているので、私はそれをコピーしているだけである。

(中略)

 孔子の「述べて作らず」(私はコピーしているだけで、オリジナルではありません)という立ち位置のうちに、国家の伝統の「創造的回帰」の秘密があります。孔子は遠く紀元前六世紀にその秘密をみごとに道破してみせました。それは「国の起源の栄光」なるものは、「あの黄金時代はもう失われてしまった」という泣訴を発する人によって遡及的に創造されるものだということです。
「周公の理想」というのは、はっきり言えば、孔子の「作り話」です。孔子以前にはそのようなものをありがたがって回想する人なんか魯の国にはいなかったのです。それを孔子が出てきて、「かつて理想の統治が行われていたのに、それはもう失われ、現代の政治家はすっかり堕落してしまった」と苦悩してみせたら、みんなも「それ」がかつてあったということを信じ始め、そのうちに「それ」が失われたことを孔子ともども嘆くようになったのです。

(中略)

 創造の力は、「私は創造の主体ではなく、模倣者である」という名乗りによって担保される。
 これは洞見である。
 ロラン・バルトが「作者の死」で言おうとしていたのも、おそらく本質的には同じことである。

(以上、「内田樹の研究室」 オリジナリティについての孔子の教え より引用抜粋)


 探しものは見つかっていない。
 本当に頭が痛い。むう。





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Last updated  2006/05/13 06:11:11 PM


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