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人に認められたいというのは、誰でももっている願望でしょうね。私もこの度、県の児童センターから、指導者セミナーの講師依頼の打診を受けて、舞い上がっている自分を発見して、この思いは、いったいどういうもんなんだろう、って自己分析しているところです。古川市では、ほとんどの地区公民館や、児童センターで名前は売れてきています。(おこがましいですが)で、これからは、県かな、って勝手に思っておりました。ですが、私が本当にやりたいこと、ワクワクすることって、有名になることではないよなあ。人に、ウンいいことしてる、ってほめられることでもないよなあ。ほめられて悪い気はそりゃしないけど、それだけで満足できないよな。お金?もちろん、それもあるけど、お金を貯めたから、うれしいってんでもない。そうなんだ、よりダイナミックな面白いことを企画できるか、面白いことと出会えるチャンスが広がるか?っていういのが、楽しみなんだ。だから、県から話があったとき、うれしかったんだ。面白いことができていれば、誰に認められなくたって、一人でニタニタしているのが、これまた、いいんだなあ。意味のあること、正義を実現したからって、逆に、意味のあることができなくったって、自分にとって、面白いテーマを見失わないで、取り組んでいられれば、これに勝るモノはないんだよな。
2005.11.25
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学校が面白くない原因の一つが、解釈の押しつけがあると思います。たとえば、塩水で卵が浮くとします。そこから何がわかるでしょう?実は、何もわからないんです。いろんな解釈が成り立ち得るのです。塩水でなければ浮かないのか?他の水溶液でも浮くのか?水溶液以外でも浮くのか?真水では本当に浮かないのか?塩水でも、どんなときでも浮くのか?こんなにいろいろ考えられるのに、たった一つや二つの事実から、学校では、こう考えるんだよ、と教え込まれてしまうのです。実は、科学をするとは、この世の法則を覚えることではありません。全然違います。たとえ、理科のテストで100点を取ったって、科学の力がゼロだということが、往々にしてあるのです。科学とは、事実から豊かな想像を膨らまして、それが正しいかどうかを確かめるには、どうしたら良いかを考え、そして試してみる。その繰り返しです。この陰には、様々な意見の人との自由な討論がなければありえません。いろんな考えがありえることを、まず確認して、それらの人をも納得させる実験は、どんなものだろうかと考えるのです。ですから、どんな冗談っぽい意見でも、安心して発言できる風土が必要なのです。それなのに、学校教育は、異色な発想を奨励する空気があるとは、とてもとても言えません。世の優等生は、先生が何を求めているかを先回りして、当てる能力に優れている子どもたちのことになっています。こんなの科学でも何でもありません。事実をいくら覚えても、科学する力には、全くならないのです。これからの日本は、前例の無い社会です。そんな中をこれから、子どもたちは、新しい道を自分たちの仮説でもって、試して進んでいかなければなりません。どの道がいいのか、先生が指導してくれているわけではないのです。いろいろありえるのです。総合が良いとか、厳しくしなければならないとか、授業内容を高度にとか、いうよりも先に、授業の空気を、何でも言えるものにしていかねければ本当の人材を育成できないと思います。そう考えると、日本の期待の星は、きっと日本の教育では落ちこぼれているだろうことは、想像に難くありませんね。だって、そういう自分のアタマで考える子にとっては、教科書の一言一言が、「本当にそうだろうか」「こうも考えられるのではないだろうか」とひっかかってばかりなのに、授業はドンドンすすんでしまうからです。そして、恐ろしいことには、優等生のノーミソは、あまりにも、非科学的な思考スタイルに慣れてしまって、社会に出てからも、科学することができなくなってしまうことです。
2005.11.22
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悲しいことに、ハンディキャップのある子を平気でバカにする子がいます。そういう子ほど、実は、心に負い目や劣等感をもっているものです。私は、特別支援教育に関係することが多いので、そういう場面に遭遇すると、人間が変わったように怒鳴ってしまいます。しかし、学校で道徳の時間に、「どんな子も大切な人だ」「誰もが無限の価値がある」と、言葉で教えられることは、どうも白々しいものがあるのではないでしょうか?美しい言葉で正義が語られれば語られるほど、学校で教えられる言葉が、どうしても「建前」にしか聞こえず、「本当は、クズの連中はいない方がよい、ということを隠しているんだ」と思っちゃうメッセージも、同時に流してしまいます。これを克服するには、実際の人間関係の中で、どんな子も、価値があることを、身をもって体験させるしかないと思うのです。優等生も、正しいばかりじゃないこと。どんくさい子も、いいことを言うし、またみんなを救う能力があること変わった子も、彼がいるからこそ、クラスに塩味が利いて、うまみが増すこと、それらを説教じゃなくて、体験させることに全力を挙げるべきです。たった一度の体験でも、人生のあるタイミングで、ふっとよみがえって、その子の方向を指し示してくれるものです。おこがましいですが、私の実験教室では、優等生ほど間違う問題を、できるだけ選んで出しています。ほんの小さな機会ですが、人間を見る目、社会を見る目が豊かになれれば、と願っています。また、貿易ゲームなどは、モロにそういうことに焦点を当ててプログラムを組むことができます。これも、余裕のない学校の先生に代わって、地域が提供するべき分野だと思うのです。
2005.11.19
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科学寅さんのお手伝いをしている中学校でも、生徒は先生の言うことを聞きません。特に、授業中の態度は、がっかりするものです。親が見たら、どう思うんだろう、て思っちゃいます。ほとんどの人は、この光景を見て、日本の将来は暗いと思っちゃうでしょう。でも、私は、そう悲観することも無いのではないか、と思っています。と言うのは、面白い授業やイベント、関心のある話には、集中して取り組んでいることも見えているからです。そうなんです。授業がつまんないんですよ。で、昔の生徒や、優等生は、つまんない勉強もガマンして、嫌々ながらも取り組んでいたのです。しかし、今の子どもたちは、そこまでする意義を見いだせないんですね。そりゃ、ガマンは私も大切だと思いますよ。でも、どうしてこんなこと、強制されて、怒られ怒られ、アタマに詰め込まなくちゃいけないんだろう、って思うこと、あるでしょう。昔は、ある意味、自分の本当の心を押し殺して、勉強していたのです。それに対して、今は、正直に表現しているとも言えるのです。これも、自発性や主体性を大切にする教育を展開してきた「成果」でなくて何でしょうか?もちろん、礼儀に反する行動が良いとは思いません。しかし、子どもたちのレベルが、ある意味、昔よりアップしているのだ、という意識も、持っておくことが、教師の側の研鑽のためにも、絶対に必要なことだと思います。教育の型に生徒が合わせるのか? 生徒のニーズに教育が合わせるのか?という問題も含んでいますね。私はマクロの時代の流れから考えて、教育の方が変わるべきだと信じる立場のものです。迎合をすすめているのではありません。生徒の中に、時代を超えて、変わらずに存在する知識欲、あらゆる面で、「もっと良くなりたい」という意欲を信じるものです。それを神様としてあがめて、それを輝かすべく働きかけるのが、教育です。その意味で、生徒たちの反抗は、明るい未来を予感させる、とっても頼もしいものだと考えたいものです。そう思えば、学校が楽しくなります。生徒に余裕をもって、対することができるようになります。「楽天」日記ですね。
2005.11.17
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ボランティアの遊び人から学校の先生を見ていると、どうしても、本来の資質が殺がれているように思えてなりません。なぜなのか、と疑問にいつも思っていました。先生の資質向上が叫ばれています。もっとプロになれ、ということのようです。たしかに、自己研鑽が足りない先生がいます。成績によって、クビになる心配がほとんどないことを批判する向きもあります。しかし、アマチュアという言葉を趣味・道楽の世界、自発性の基準で動いていると置き換えれば、アマチュア精神こそ、教育界のバックボーンにあるべきだと思うのですがどうでしょう?だって、もともと、学問は、趣味道楽から生まれたんですもの。また、人対人を扱う教師は、その人間像として、規則で動くんじゃなくて、自発的な思いで生徒と対してこそ、子どもたちを導けるんじゃないでしょうか。もし、プロ化の意味することが、上からの目的に添って、一元的に動く集団を作ることなら、「プロ化」こそが、資質を殺す元凶であるとも言えると思うのです。その意味でも、地域のボランティア講師の存在意義が見えてきます。義務や規律ではなく、いつでもケツをまくれる覚悟で、教育現場に入れるのですから。スポーツ界やビジネス界は、年俸の多さで感動するでしょうが、教育界は、やはり、アマチュアリズムでこそ、感動を呼ぶのではないでしょうか。もちろん、アマチュアと自己研鑽の深さとは、全然関係ありません。アマチュア精神で、深い研究をするべきだということです。
2005.11.16
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学問は遊びだ! 科学はイタズラだ!をモットーに活動を展開している私ですが、実は、大きな声で、学校などで言えませんが、寅さんは、人生そのものが、結局は遊びだと思っているのです。仕事をしてお金をかせぐのも遊ぶためなんだけど、その仕事そのものが、遊びになっちゃっているんです。よく、世の中のためになる、とか、何か立派な仕事をするため、とかもいいんでしょうが、寅さんは、ちょっと違うような気がするのです。そう、ただ遊ぶため、だと思うのです。
2005.11.10
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