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どんなに家が貧しくとも、お正月になれば我が子にお年玉くらいはあげたいと思うのが親心ではないだろうか。
正月を迎えるとわたしは、よそ様の子どもたちがお年玉袋を持って嬉しそうにしている姿を、恨めしそうに見つめていた。
わたしの父は酒が好きだったので、家に金があるとその殆どが父の酒代に消えて行き、幼いわたしにまで回ってきたことはなかった。
父からお年玉を直接貰った記憶はなかったが、その代わり父の友人たちが遊びに来ると、必ずと言ってよいほどわたしにお小遣いをくれる。
それは10円玉だったり、時には100円札だったりと金額はまちまちであったが、その時だけは金持ちになった気分を十分に味わえたものである。
ただしそれは友人たちが帰ってしまった後に、父に巻き上げられるのが常だった。
先日、30歳になった息子が静岡から彼女を連れて年始の挨拶にやって来た。
8月に感激の再開を果たしてから半年あまり、その間はメールのやり取りなどをしてお互いの近況を報告しあっていた。
彼女に会うのは初めてだったので、どんな女性だろうと好奇心も手伝って内心わくわくしていたのも事実だった。
初対面の印象は、目がクリっと大きく、わりと小柄でとても可愛い女性だと思った。
気の強い息子だからきっと苦労しているのではないかと思ったりもしたが、包容力のある芯の強い部分もありそうだなどと、勝手に決め込んでしまった。
デリバリーの寿司を囲んで、和やかな食事が始まった時を見計らい、わたしはポケットからあらかじめ用意して置いたお年玉袋を取り出し、息子に渡した。
「父さんからの27年分のお年玉だ・・・」。
別れてから27年間、何一つ父親らしいことをしてあげることが出来なかった。
その反省も込めて、少ないけれども気持ちを受け取って欲しいと息子に渡したお年玉。
こんな機会に恵まれようとはおそらく神様でさえ考えもしなかっただろう。
お年玉が予想外のことだったらしく、息子は言葉を詰まらせ躊躇していたが、気持ちよく受け取ってくれたのである。
お正月の楽しみと言えば子どもたちにとっては一番待ち遠しいお年玉であるが、このお年玉に込められた真の意味は、お金の有り難さ、大切さを子どもたちが、そして大人がお年玉を通じて学んで欲しいと言う切なる願いが込められているのである。
現代人に失われつつあるものが、日本の古くからある風習の中には幾つも存在していることを忘れないで欲しいと思う。