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それが「死」をもって人生の完結とするかは人によって捉え方は様々であるが、自分がどのような舞台を踏んで来たかによって故人が人々に与える影響は大きく、死後も尚その舞台があたかも魂を得たかのように存在しているのは間違いないだろう。
先日10日に肺炎による心不全でこの世を去った女優の森光子さん( 92 )は、激動の昭和と平成の時代を70年に渡り生き抜いた偉大なる女優の一人である。
彼女の芸歴やこれまでの活躍などをこのページだけで語り尽くせるものではないが、わたし個人としてみた女優「森光子」を語ってみたいと思う。
先に亡くなった大滝秀治さんが、「名脇役」と知られているように、彼女もまた脇役からのスタートだったようである。
70年という長さを省みれば、日本に於ける戦争の歴史をある程度紐解く必要があるだろう。1937年に勃発した日中戦争の影響もある中、当時の映画製作が激減した事などにより、歌手を志望し1941年に上京。
戦火の拡大が本土を超えて中国大陸など各地に飛び火して行く中、藤山一郎、田端義夫、淡谷のり子らと同じステージに立ち、戦地慰問なども経験している。
わたしはもちろん年代的に言っても彼女の歌を一度も聴いてはいないが、戦後は進駐軍などの施設でジャズやアメリカン歌謡などを歌っていたようである。
この様に若い頃からの様々な経験や体験によって現在の「森光子」が誕生した訳であるが、彼女の女優デビューは決して楽観的なものではなかった。
彼女の名を最もポピュラーにしたのが言わずと知れた「時間ですよ」である。わたしと同期の年代の方たちであれば皆そう思う筈。
わたしの見た「時間ですよ」は、1970~1973年に渡りTBS系列で放映されたものであり、この人気ドラマの中で女将さん役が大当たりし一躍彼女の名がお茶の間を賑わすようになり、一般視聴者にまで知れ渡る事となった。
「おかみさん時間ですよ」で始まるこの愉快なドラマからは多くの人気タレントや歌手が誕生しており、わたしの青春時代の一ページを飾ってくれている。
堺正章を始め、悠木千帆(樹木希林)、天地真理、そしてわたしが最も好きだったタレントの浅田美代子が「赤い風船」でデビューしたのもこの番組だったと記憶している。
国民的人気番組の主人公として森光子はお茶の間に欠かせない存在となったが、やはり本業はブラウン管の中ではなく、舞台女優と言うことだったのだろう。
それは「放浪記」との出会いによって確立されたものに成長して行く事となるが、彼女がエンターティナーと呼ばれる所以は舞台だけでなく映画、テレビドラマ、バラエティショーなど数多くの場面で培われて行ったその芸風にあるのだとわたしは思う。
病床にあっても尚、舞台に立つ事を諦めず、生涯現役を貫いた役者魂は多くのファンや後輩たちの心を熱く揺さぶるものであった。
時を同じくして亡くなった政治評論家の三宅久之さんや、そしてまた治療の甲斐も虚しく亡くなった桑名正博さんのお二方の分も含めて心よりご冥福をお祈り致します。
千代子だよ、おっ母さん。 2013.11.13
アンパンマンからの伝言。 2013.10.19 コメント(1)