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この日は辻堂の散歩に出かけた。
辻堂駅南口の階段を下りると、目の前に小さな神輿が。
この日は辻堂諏訪神社の祭礼とのこと。
交番の横には辻堂駅開設記念碑が。
1872年に新橋-桜木町間で開通した鉄道は1887年7月に国府津まで延長された。
辻堂駅は国府津迄延長された26年後の1913年に先ず、信号所が設置された。
しかしながら、客扱いをするまでにあと3年待たねばならなかった。
信号所か開設された翌年に地元に停車場設置期成同盟会が発足し、駅設置運動が始まった。
1916年12月に用地と建設資金を地元が負担して駅が開業したと。
記念碑の右前には辻堂駅開設記念碑の由来が書かれた石碑が。
辻堂駅の開設は全国でも類のない地元請願駅で駅舎用地と建設資金を
地元有志が提供し、当時の鉄道院総裁に強力な設置運動を展開した結果実現したと。
辻堂駅開設記念碑。
記念碑は全て漢字で刻まれていた。
「相模之地西北負山箱根足柄丹澤雨降蜿蜒起伏東南直臨干太平洋為
一大湾曲而其沿海自三浦半島到鎌倉郡江之島為東部高座中両郡為
中部足柄下郡為西部而東部曲折如屏西部亦其一半岬磯参差獨中部
而其所属干高座者海濱長汀相連陸上地廣産亦豊也古来稱此南端一
帯之地區日砥上原後方遥控富嶽於長空碧落之表面近望伊豆七島
於煙波蜿蜒之間白沙靑松風光明媚而其氣候之順良宣於避暑宣於凌
寒可謂湘南之一勝地矣是為辻堂此地延干東海鐡道之線路在藤沢茅
ケ崎之間而官未至設停車場也地方人士有深惜於此捐資獻地以請官
遂為其所納矣大正五年十二月一日停車場竣工開通而稱辻堂驛嗚呼
此勝地而加以鐡路交通之便自今而後此地方之繁榮可立而待也茲列
記捐金者之氏名干碑陰併録其由云爾 牧野精處撰又書」
その意味は
『相模の地は西北に山を負い、箱根・足柄・丹沢・雨降(大山)がうねうねと長く連なっており、
東南は直接、太平洋に臨み一大湾曲をしている。
その沿岸、三浦半島から鎌倉郡江の島に至るを東部と、高座郡・中郡を中部と、
足柄下郡を西部としている。 そして、東部は屏風のように折れ曲がり、西部もまたその一半は
岬や磯が入り混じっている。 ただ中部のみは其の高座といわれるように、後方、はるかに
富士山が晴れ渡った大空に控え、前面の近くには伊豆七島を太平洋の波の向こうに見える。
白砂青松、風光明媚にして気候は避暑にも寒さを凌ぐのにもよい。 湘南で一番景色が良いと
いうべき所が辻堂である。 この地は東海道線の線路に沿って藤沢と茅ヶ崎の間にあって、
鉄道院では未だ駅を設けるには至っていない。 この地方の人達は大変に残念がり、
ここにおいて資金を出し、土地を提供して鉄道院に請願をし遂にそれを受け入れて
貰う事と成った。
大正五年(1916年)十二月一日停車場が竣工・開通して辻堂駅と云う名前になった。
今後はこの地方が繁栄して行くのを待つだけである。
ここに資金提供者の名を碑の裏に列記し、併せて由来を記録する。』と。
そして線路に並行して茅ヶ崎方面に歩いていくと線路横に『地蔵堂』 が。
大正末頃、この踏切で家族を事故で亡くした老婆が、毎日線路脇で供養をしていましたが、
突然その老婆の姿を見ることがなくなりました。神谷三吉、トミ夫妻がこの事に気付き
老婆を気の毒に思い、相談して老婆家族の供養のため、お地蔵さまをまつりました。
以来、お地蔵さまは休むことなく見守っていて下さいます。
マンションの一角にあった小さな熊の森権現社。
昭和の初めごろ、一帯に松の木が根を張り、強い南西風にさらし出されて
熊の森根上がり松と呼ばれていたと。
西行歌碑
「柴松のくずのしげみに妻こめてとかみが原に牡鹿鳴くなり」。
近くの「砥上が原」がありその縁で、ここにこれが選ばれたのだと。
これは、西行が文治2年(1186)に東大寺再建のため、勧進に奥州平泉を
目指した折の歌だと。
双体神祇道祖神。
文化五年(1808)と刻まれていた。
ここの道祖神も、摩耗しているとは言え人為的な損傷無し。
住宅街を八幡神社方面に進んでいくと左手に伏見稲荷神社。
多くの狐様が。
昭和4年9月の銘のある馬頭観音塔。
馬頭は、一切の魔をうちふせると。
気が付かずに通り過ぎてしまうところに。
迷路のような路地を通り、小さな社の辻堂八幡神社に到着。
この八幡神社は辻堂諏訪神社の末社の一つで、昔から「西町の八幡様」と呼ばれ、
辻堂の住民に親しまれ尊敬されて来たとのこと。通ってきた境内左の細い道は旧鎌倉道で、
当時は主要の道で、武士が馬に乗って往来したと。
こちらが本社殿?
切り妻造りの社殿は平成13年2001年に改修。
ご祭神は品陀和氣命/誉田別命(ほんだわけ)
『三ツ又』 の説明板。
古道(鎌倉道と光明真言道場道)がここから3本に分かれていた場所。
三叉路で山車に乗り祭囃子を奏でる子供たちの姿が。
辻堂諏訪神社のお祭りのポスター。
『奉献諏訪方大明神』と書かれた幟が。
八森稲荷神社。
入り口の両脇の手すりには、何故か白の覆いがかかっていた。
八森稲荷神社 本社。
この社は旧諏訪神社本殿とのこと。
「源平盛衰記」には寿永2年(1183年)佐々木四郎高綱が木曾義仲追討のために上洛の折に
「十七騎にて稲村、腰越、片瀬川、砥上が原、八松原馳通し・・」と記してあり、高山遺跡や
諏訪神社建立の時期を考えると、前述の「八松原」は、「源平盛衰記」の記述や「八松稲荷」、
宝珠寺の山号「八松山」等から考えると、ほぼこの場所を指していると考えられると。
鉄板と下瀬火薬の説明板。
『明治二十一年(一八八八年)に旧海軍技手の下瀬雅充(しもせまさちか) が、
ドイツから持ち帰った新火薬を、大砲を使って辻堂海で試射しました。
試射は成功し、「下瀬火薬」と命名。後の日露戦争で実戦に使用され、
その威力で威名をはせました。
試射には、何枚かの鉄板が標的や砲台に使用されましたが、これは その内の一枚と。
この度、鉄板をここに設置するにあたり、専門家に時代考証をお願い しましたところ、
この鉄板は当時英国で製造された戦艦三笠やタイタニックの 鋼板と化学成分が
類似していることから、英国で製造されたものであることが分かりました。』と。
多くの屋台や露店が営業準備中そしてお巡りさんが出店に指導する場面も。
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