PR
Keyword Search
Comments
Calendar
『旧東海道を歩く』ブログ 目次
『弥勒歩みの跡(案内図)』。
近くにある石塔、石碑等が示されていた。
「江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で
「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗(げんぞく)して
安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を“安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の
由来となった」と記されています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『ほどなく弥勒と
いへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に
花やかなり』と著され“弥勒茶屋”と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
弥勒町は、駿府の城下町の西の見付けの前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けて
いました。近代の安倍川は、徒歩(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられて
いました。しかし、明治4年の渡し船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水
(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく
変化を遂げてきました。弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、溺死や
劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行
(とくこう)を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る
多くの歴史の跡が残されています。」
『駿府キリシタン殉教之碑』が本通り(県道208号線)の右側に。
「 慶長17年(1612)年3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアら
直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時2つあった駿府の協会を破壊した。
禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、8名が
逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。しかし、あらゆる責め苦を耐え忍び、いかなる
甘言をも退けたそのうちの6名は、同年11月1日、額に灼熱の鉄で十字架の焼印を押され、
市中引き廻しの後、正念寺(当時は安倍川原千日堂)に着いた。両手の指、足の腱を切られた
彼らは、そこにそのまま放置された。このうちジョアン道寿は同夜、ペドロ角助は翌朝早く
息絶え、駿府キリシタン殉教者の先達となった。」
石碑の両脇には、白きユリの花が手向けられていた。
そして三角形の弥勒緑地には『安倍川の義父の碑』が。
「この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文三年(一七三八)初秋の頃、
紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を
頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。
しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、
その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人の
あとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。
旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」
といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。
そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、
その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(一九二九)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、
安倍川の近くのこの地に碑が建てられたのである。
碑文 難に臨まずんば忠臣の志を知らず。
財に臨まずんば義士の心を知らず。 」
『由井正雪公之墓址』
「軍学者として名高かった由井正雪は、1651(慶安4)年7月26日、市内梅ヶ崎の旅籠で
捕り方に包囲され自刃した。江戸幕府の武断政治による浪人の増加をうれい、
江戸・駿府・大坂で幕府転覆のため蜂起する計画であったという。
この慶安事件は、その背後関係も含めて不明な点も多く、さまざまな憶測をよんでいる。
正雪は駿府宮ヶ崎の出身(由比説もあり)といわれ、この時宮ヶ崎に住んでいた両親や親戚も
捕らえられた。河原では、正雪の親類ほか43人も処刑されたという。
河原にさらされた正雪の首を埋めた塚は、はじめ正念寺にあったとも伝えられる。」
安倍川餅の老舗『 石部屋(せきべや)
』⬅リンク を訪ねたが既に?この日は閉まっていた。
時間は16:36。
石部屋の創業は文化元年(1804年)。
「安倍川もち」の誕生は慶長年間(1596-1615)だという。安倍川上流では、金の採掘が
盛んであり、検分に訪れた徳川家康にきな粉をまぶした餅を「金粉餅(きんこもち)」と
称して献上したところ、いたく気に入り「安倍川餅」と命名したのが始まりという。
元々の「安倍川もち」は餅に、きな粉をまぶしたもの。のちに餡をまとった餅が作られる
ようになる。「安倍川もち」の名を世間に知らしめたのは、砂糖がまだ貴重品であった頃に、
駿河特産の白砂糖を上に乗せたことで評判になったそうだ。
本来ならば・・・。
【 https://www.travel.co.jp/guide/photo/10024/3/
】
歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』。
左手には「石部屋」の中で餅をつく姿が描かれているのだ。
杵でついているのは、女性のようだ。
旅人はリラックスして大きな口を開けて、そして後ろにぶら下がっている扇子?は
蝿避けであろうか?
石部屋のこだわりは、絵にもあるように、毎朝ついた餅を注文を受けてから仕上げるという、
作り立ての味!もち米100%のつきたての餅に、こしあんを絡めたものときな粉をまぶし
上から白砂糖をかけたもの、2種類の味を楽しむことができるのだと。
しっかりとした米の旨味のある餅に、滑らかでほど良い甘さのこしあんときな粉の香りが広がる、
とても上品な味であると。
この味を楽しみたかったのであったが・・・・・。
きな粉の上に砂糖を乗せて。
現在の15代目店主。
そして安倍川に架かる安倍川橋(あべかわばし、別名弥勒橋)を渡る。
安倍川橋は、安倍川に架かる静岡県道 208
号藤枝静岡線の橋。
『安倍川橋の歴史』。
1871
年) 6
月 -
安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する
ことになったが、秋冬期( 10
月〜 2
月)は川の流量が少ないため、
この期間に使用するための木製の仮橋を架設した。
1874
年(明治 7
年) 3
月 24
日 -
本設の木橋が完成し、「安水橋」と命名。全長 509m
。
総工費は当時の金額で 7,000
円。渡り賃は一人金4厘。
これが県内で最初の橋。
その後、大井川、天竜川、興津川、富士川と橋が架けられる
ようになった。
1896
年(明治 29
年) 10
月 -
県に移管され、通行料が無料となる。
1903
年(明治 36
年) 4
月 -
架け替え(木橋)。総工費は当時の金額で 14,900
円。
1923
年(大正 12
年) 7
月 23
日 -
鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称。
総工費は当時の金額で 594,000
円。
1968
年(昭和 43
年) 4
月 -
歩道を新たに設置。
1990
年(平成 2
年) 3
月 -
右岸側一部( 2
径間分)架け替え。
1923
年(大正 12
年)の安倍川橋の工事風景の写真が示されていた。
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.14
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.13
藤澤浮世絵館・「御上洛東海道と幕末の浮… 2020.08.12