JINさんの陽蜂農遠日記

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2019.05.03
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『旧東海道を歩く』ブログ 目次

『弥勒歩みの跡(案内図)』。
近くにある石塔、石碑等が示されていた。



「江戸時代の地誌「駿河志料」には、現在の弥勒町一帯は、古くは安倍川の河原で
「正保年間に開かれ、江戸時代のはじめ慶長年間に、弥勒院という山伏が還俗(げんぞく)して
安倍川の河原で餅を売るようになった。この餅を“安倍川餅”という。これが「弥勒町」の名の
由来となった」と記されています。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」には、『ほどなく弥勒と
いへるにいたる ここは名におふ安べ川もちの名物にて 両側の茶屋いづれも奇麗に
花やかなり』と著され“弥勒茶屋”と呼ばれた茶店の賑わい振りをうかがうことができます。
弥勒町は、駿府の城下町の西の見付けの前面に位置し、駿府96ヶ町に準じた扱いを受けて
いました。近代の安倍川は、徒歩(かち)渡りの川として川越のための川会所が設けられて
いました。しかし、明治4年の渡し船と仮橋、明治7年の宮崎総五の手になる安水
(あんすい)橋の架橋からの安倍川の通行形態の移り変わりと共に、弥勒の町も大きく
変化を遂げてきました。弥勒の町には、近世以降の歴史の中で、「由井正雪墓址碑」、溺死や
劔難者のための「慰霊碑」、幕末から明治にかけて広く社会に尽くした宮崎総五の篤行
(とくこう)を称える「頌徳の碑」と「安倍川架橋の碑」をはじめ、近世以降の弥勒を語る
多くの歴史の跡が残されています。」



『駿府キリシタン殉教之碑』が本通り(県道208号線)の右側に。
「 慶長17年(1612)年3月、徳川幕府はキリシタン禁教令を発して原主水、おたあジュリアら
直臣のキリシタン武士や侍女を駿府から追放し、当時2つあった駿府の協会を破壊した。
禁教は次第に強化拡大され、慶長19年3月には町人キリシタンの中心として、8名が
逮捕牢送りとなり、棄教を迫られた。しかし、あらゆる責め苦を耐え忍び、いかなる
甘言をも退けたそのうちの6名は、同年11月1日、額に灼熱の鉄で十字架の焼印を押され、
市中引き廻しの後、正念寺(当時は安倍川原千日堂)に着いた。両手の指、足の腱を切られた
彼らは、そこにそのまま放置された。このうちジョアン道寿は同夜、ペドロ角助は翌朝早く
息絶え、駿府キリシタン殉教者の先達となった。」
石碑の両脇には、白きユリの花が手向けられていた。



そして三角形の弥勒緑地には『安倍川の義父の碑』が。



「この碑は、正直な川越人夫の顕彰碑である。元文三年(一七三八)初秋の頃、
紀州の漁夫が仲間と貯めた金百五十両の大金を持って、安倍川を渡ろうと川越人夫を
頼んだが、渡し賃が高いため、自分で川を渡った。
しかし、着物を脱ぐ際に、大切な財布を落としてしまったのである。たまたま、
その近くにいた人夫の一人(川原町彦右衛門の息子の喜兵衛)が財布を拾い旅人の
あとを追い、宇津の谷峠で引き返してくる旅人に出会って財布を渡した。
旅人は喜んで礼金を払おうとしたが、「拾ったものを落し主に返すのは当たり前の事だ」
といって、喜兵衛はどうしても受け取らないので、駿府町奉行所に礼金を届けた。
そこで、町奉行が喜兵衛を呼び出し、礼金を渡そうとしたが受け取らないので、
その金を旅人に返し、代わりに奉行所からほうびの金を喜兵衛に渡したのである。
昭和四年(一九二九)、和歌山県と静岡県の学童や有志の人々の募金によって、
安倍川の近くのこの地に碑が建てられたのである。 
  碑文         難に臨まずんば忠臣の志を知らず。 
             財に臨まずんば義士の心を知らず。 」



『由井正雪公之墓址』
「軍学者として名高かった由井正雪は、1651(慶安4)年7月26日、市内梅ヶ崎の旅籠で
捕り方に包囲され自刃した。江戸幕府の武断政治による浪人の増加をうれい、
江戸・駿府・大坂で幕府転覆のため蜂起する計画であったという。
この慶安事件は、その背後関係も含めて不明な点も多く、さまざまな憶測をよんでいる。
正雪は駿府宮ヶ崎の出身(由比説もあり)といわれ、この時宮ヶ崎に住んでいた両親や親戚も
捕らえられた。河原では、正雪の親類ほか43人も処刑されたという。
河原にさらされた正雪の首を埋めた塚は、はじめ正念寺にあったとも伝えられる。」



安倍川餅の老舗『​​ 石部屋​(せきべや) ​』⬅リンク を訪ねたが既に?この日は閉まっていた。
時間は16:36。
石部屋の創業は文化元年(1804年)。
「安倍川もち」の誕生は慶長年間(1596-1615)だという。安倍川上流では、金の採掘が
盛んであり、検分に訪れた徳川家康にきな粉をまぶした餅を「金粉餅(きんこもち)」と
称して献上したところ、いたく気に入り「安倍川餅」と命名したのが始まりという。
元々の「安倍川もち」は餅に、きな粉をまぶしたもの。のちに餡をまとった餅が作られる
ようになる。「安倍川もち」の名を世間に知らしめたのは、砂糖がまだ貴重品であった頃に、
駿河特産の白砂糖を上に乗せたことで評判になったそうだ。



本来ならば・・・。


          【 https://www.travel.co.jp/guide/photo/10024/3/

歌川広重『東海道五十三次之内 府中 あへ川遠景』。
左手には「石部屋」の中で餅をつく姿が描かれているのだ。



杵でついているのは、女性のようだ。
旅人はリラックスして大きな口を開けて、そして後ろにぶら下がっている扇子?は
蝿避けであろうか?



石部屋のこだわりは、絵にもあるように、毎朝ついた餅を注文を受けてから仕上げるという、
作り立ての味!もち米100%のつきたての餅に、こしあんを絡めたものときな粉をまぶし
上から白砂糖をかけたもの、2種類の味を楽しむことができるのだと。
しっかりとした米の旨味のある餅に、滑らかでほど良い甘さのこしあんときな粉の香りが広がる、
とても上品な味であると。
この味を楽しみたかったのであったが・・・・・。



きな粉の上に砂糖を乗せて。



現在の15代目店主。



そして安倍川に架かる安倍川橋(あべかわばし、別名弥勒橋)を渡る。
安倍川橋は、安倍川に架かる静岡県道 208 号藤枝静岡線の橋。



『安倍川橋の歴史』。

1871 年) 6 - 安倍川の川越人足が廃止になることに伴い、渡し船を配置する
             ことになったが、秋冬期( 10 月〜 2 月)は川の流量が少ないため、
             この期間に使用するための木製の仮橋を架設した。
1874 年(明治 7 年) 3 24 - 本設の木橋が完成し、「安水橋」と命名。全長 509m
              総工費は当時の金額で 7,000 円。渡り賃は一人金4厘。
              これが県内で最初の橋。
              その後、大井川、天竜川、興津川、富士川と橋が架けられる
              ようになった。
1896 年(明治 29 年) 10 - 県に移管され、通行料が無料となる。
1903 年(明治 36 年) 4 - 架け替え(木橋)。総工費は当時の金額で 14,900 円。
1923 年(大正 12 年) 7 23 - 鉄橋(トラス橋)に架け替え。「安倍川橋」に改称。
                総工費は当時の金額で 594,000 円。
1968 年(昭和 43 年) 4 - 歩道を新たに設置。
1990 年(平成 2 年) 3 - 右岸側一部( 2 径間分)架け替え。
1923 年(大正 12 年)の安倍川橋の工事風景の写真が示されていた。



1968
年(昭和 43 年) 4  -  歩道を新たに設置したと。
現在の年齢は96歳であると。



1968
年(昭和 43 年)月に完成した歩道橋を歩く。



下を流れる川は『一級河川 あべ川』。

清流としても有名で、その伏流水は静岡市の水道水にも使われている。
大河川でありながら本流・支流にひとつもダムが無い珍しい川であると。



橋の入口の道路の反対側の奥にあった『関東大震災供養塔』を訪ねたかったが、交通量が多く
道路を渡れなかった為諦めたが、振り返ってカメラの望遠で何とか確認できたのであった。
写真中央の2本の石碑が供養塔。



更に安倍川橋を進む。



下流側。流れが全く確認できず。



上流側も同様に。



上流左に見える山。
この裏を流れているのが藁科川で安倍川に流れ込んでいるのである。



『東海道五十三次之内 府中 安部川 / 歌川 広重』。

山を背景に川を広く描き、川渡りの様子がよくわかるように描かれている。
輦台渡しや駕籠に乗った女性、肩車で渡る姉さんかぶりの女性、荷をつけた馬を引く人足(にんそく)
などを丹念に描き分けています。女性の旅人の緊張感も表現されている。」
山の姿が、上の写真にそっくり!!広重もこの方向からの安倍川の川渡りを描いたのであろう。



輦台に乗せた駕籠に乗る女性が人夫を振り返り「大丈夫?チャント渡してよ!!」と。







この日の安倍川はひたすら砂利の世界。
実は今年の1月下旬?のニュースで、安倍川では雨の少ない状況が続いたため、水の流れが
途切れる「​ 瀬切れ ​」⬅リンク が発生しているとの報道があったことを想いだしたのであった。



砂利の採石場にもなっているのであろうか?



そして下流側には新幹線の姿が。



そして安倍川橋を渡り終わる直前で、川の流れを発見したのであった。
これも春になり雪解けが進んだためなのであろうか。



安倍川を渡り終わり振り返る。



『千手(せんじゅ)の里 手越(てごし)』案内ボード。
『千手』とは千手の前(せんじゅのまえ、永万元年( 1165 年) - 文治 4 年( 1188 年))で
平安時代末期の女性。『平家物語』によると駿河国手越長者の娘。
源頼朝の妻北条政子に侍する。寿永三年(1184)捕らえられ鎌倉に送られた平重衡は身柄を
狩野宗茂に預けられたが、身の回りの世話をしたのが千手前であったと。
ただし『平家物語』や『吾妻鏡』は捏造部分も多いため実在については怪しまれていると。



手越地区の『史蹟案内』。



現国道1号線の手越原東交差点を通過。



道路脇の表示。
R1は国道1号線、数字184.258は日本橋からの距離であろうか?



旧東海道を離れ、JR安倍川駅に向かう。
東海道新幹線のガードを潜る。



JR東海道線沿いに安倍川駅に向かう。



そしてエスカレーターで改札口に。



橋上駅から藤枝方面を。



そして安倍川駅から帰路に。



JR東海の『休日乗り放題きっぷ』。
熱海~豊橋間で利用可能と。我々が使うコストメリットはあるや?



安倍川は『あべかわ』であり『あべがわ』ではなかった。



そして17:29発の電車で熱海駅に向かったのであった。



この日の自宅からの『歩数』です。40,000歩超え、頑張りました。





                              ​​ その11 ​  に戻る。

                  ・・・完・・・





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Last updated  2020.04.28 15:00:29コメント(0) | コメントを書く


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