JINさんの陽蜂農遠日記

JINさんの陽蜂農遠日記

PR

Profile

jinsan0716

jinsan0716

Keyword Search

▼キーワード検索

Comments

オジン0523 @ Re:3か月でマスターする数学・『モンティホール問題』(09/23) 最近は、難しいことをやっていますね! 私…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その5)(09/08) 矢張り有料席から見ると正面から見るので…
jinsan0716 @ Re[1]:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) オジン0523さんへ ありがとうございます…
オジン0523 @ Re:「市制70周年 佐倉花火フェスタ2024」へ(その3)(09/06) そして9:20になり、カウントダウンが始ま…

Favorite Blog

朝顔と田んぼ、虎杖… New! 隠居人はせじぃさん

伊勢原市の寺社史跡… New! オジン0523さん

【無花果を買いに ・… Gママさん

ビルトイン食洗機の… noahnoahnoahさん

エコハウスにようこそ ecologicianさん

Calendar

2020.01.08
XML

『旧東海道を歩く』ブログ 目次

旧東海道の「連尺通り」を進む。



連尺通り1丁目交差点を通過。



三菱UFJ銀行 岡崎支店前の『岡崎宿東海道27曲り』碑。



歩道の路面タイルにも表示がなされていた。



材木町1丁目の交差点の『金のわらじ案内柱』は『と』。
『これより次の材木町口角「ち」まで80m』と。
この交差点を右折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。



右手に折れる道の入口左にあった『岡崎城下二十七曲 岡崎城対面町前角』道標石碑。



細い旧東海道を進むと『岡崎城下二十七曲 材木町口木戸前』が正面に。



『金のわらじ案内柱』は『ち』。
ここを左折して『これより次の材木町角『り』まで100m』。



旧東海道・八幡通りを進むと材木座1丁目交差点にあった『金のわらじ案内柱』は『り』。
これより次の材木町角『ぬ』まで150m。
この交差点を右折し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。



木まち通りに向かって歩く。



この先が木まち通りで前方に「金のわらじ案内柱」が確認できた。



材木町1丁目交差点にあった「金のわらじ案内柱」は『ぬ』。
これより次の柿田橋角『る』まで350m。
この交差点を左折し次の「金のわらじ案内柱」に向かって進む。



木まち通りを進む。



柿田橋の2本手前の道を左に入ると『白山神社』の前にあった『常夜燈』。



そして『白山神社』を訪ねた。



再び木まち通りに戻ると正面にあった古民家。



『唐弓弦(とうゆみづる)の看板』が軒下に。



『唐弓弦の看板』
かつては岡崎は、三河木綿の特産地として知られ、この辺りには三河木綿に関する
職人や商店が多く存在したそうです。
「唐弓弦」とは、江戸時代使用されていた、綿を打つ道具のことで、これを扱って
いた店の看板が当家に現存しており、当時の面影が残る看板です



柿田橋手前の路地に立つ『金のわらじ案内柱』は『る』。
これより次の三清橋角『を』まで190m。
この交差点を左折し伊賀川に沿って南下し次の『金のわらじ案内柱』に向かって進む。



『岡崎城下二十七曲り』地図入り案内板。



『岡崎城下二十七曲 下肴町角』と。



伊賀川に沿って桜並木を南方面へ進む。
ここからはようやく岡崎城方面へ向かう



小高い所に先ほど訪れた白山神社が。
「白山大悲観世音菩薩」の幟が。



右手前に伊賀川に架かる『三清橋(さんせいばし)』。



橋の袂にあったのが『岡崎城下二十七曲 下肴町より田町角』。



『岡崎市立中央図書館』が道路の先に。



『三清橋』を渡った交差点先にあった『金のわらじ案内柱』は『を』。
これより次の路地まで45m。



『岡崎城下二十七曲り 田町北角』道標石碑。



二十七曲りはこの先の路地を左に。



進むべき『二十七曲り』の詳細な案内図。
この場所は、クネクネと曲がっており迷い易いのであった。



マンホール蓋は岡崎城と百万石船。



『岡崎城下二十七曲り 田町角』道標石碑。



この日の二十七曲り散策はここまでとしホテルまで歩いて戻ることにする。
前方に岡崎城の天守が。



龍城(たつき)橋西交差点を東に向かって進む。



再び岡崎城天守をズームで。



見事な夕焼けが広がり始めていた。



岡崎公園前交差点の先の歩道橋に上り夕景を楽しむ。
岡崎城 大手門の後ろに沈む夕日。



ズームで。



しばし、刻々と変わっていく夕景をカメラで追い続ける。



西康生通りを伝馬通りへ向かいホテルへ。



店頭の自販機に「オカザえもん」の姿が描かれていた。
岡崎市の非公式キャラクター「オカザえもん」は、2012年11月1日から12月2日まで
岡崎市で開催された現代美術展「岡崎アート&ジャズ 2012」に現代美術作家の
「斉と公平太」が出展した作品で身長180cm。サインは本人が、2014.1.31と。



昔の変圧器をテーブル代わりにと提案そして販売?



東康生通りからホテル近くの伝馬通りにたどり着いたが、今日の歩行数は46,000歩で
旧東海道歩きでは最高の歩行数。
このため今夜の夕食はホテルの部屋で反省会を兼ねてやることとし、伝馬通1丁目交差点角に
あったコンビニ・MINISTOP岡崎伝馬通店で宴会用アルコール&食料を調達。

コンビニの敷地内に建つ「西本陣跡」石柱。



コンビニ前からホテルまでは、再び「伝馬歴史プロムナード」。
ホテルまでの伝馬通りの北側歩道に並ぶ残り残り10基の石彫をカメラで追いかける。



『本陣・脇本陣』。



「本陣・脇本陣
参勤交代時代から大名や公用旅行者の宿泊所を本陣・脇本陣と呼ぶようになった。
伝馬の本陣は正徳3年(1712)頃は中根甚太郎、浜島久右衛門の2軒であったが、
後に中根甚太郎、服部小八郎、大津屋勘助の3軒が本陣、脇本陣は鍵屋定七、山本屋丑五郎、
桔梗屋半三郎の3軒と推移している。岡崎東本陣(服部家)は、現在の伝馬通り
2丁目交差点辺りにあり、建坪209坪半で部屋は二百畳以上、脇本陣を勤めた桔梗屋は、
総坪数百二十五坪半のうち、建坪百五坪とどちらも玄関や書院を持つ豪壮な建物であった。」



『駒牽朱印(こまびきしゅいん)』



「駒牽朱印

宿駅ごとに

この岡崎に限らず各地に伝馬の地名が残っていますが、それらは江戸時代に伝馬役を
務めた町で
あることが多いです。「駒牽朱印(こまびきしゅいん)」は徳川幕府が公用に
伝馬を使用する時に
用いた権威ある印鑑で、この印が押された朱印状が公用旅行者の
伝馬使用許可証となります。

「伝馬」の文字と馬を引く人物がデザインされた趣のある印です。



『二十七曲』。



「二十七曲
東海道の中でも三番目に規模の大きい宿場として栄えた岡崎宿は「岡崎の二十七曲がり」と
呼ばれ、屈折の多いその街並の長さでも有名であった。
二十七曲がりは欠町、両町、伝馬通りから籠田を抜け、連尺通、材木町、田町、板屋町、八帖町、
矢作橋とつながっており、二十七曲がりを示す碑が現在の町並にもいくつか置かれている。」



『矢作橋(やはぎばし)』



「矢作橋
矢作橋は公儀普請の重要な橋であり、岡崎宿を行く旅人にとっても、まだ見ぬ岡崎を
思い浮かべる人々にとっても街道一の規模を誇るこの橋の勇壮さは関心の高いものであった。
広重の東海道五十三次「岡崎」にも描かれ、東海道を行く当時の紀行文や道中日記には必ずと
いっていいほど矢作橋が登場する。
ドイツ人ケンペルは「江戸参府紀行」で、スウェーデン人ウィルマンは「日本旅行記」の中で
矢作橋の大きさを記述し、岡崎宿を訪れた朝鮮通信使の日記にも登場するなど外国人にとっても
印象深いものであった。」



『あわ雪茶屋』。



「あわ雪茶屋
江戸時代の岡崎宿の名物といえば、石製品、八丁味噌、鍛冶物、木綿などが挙げられるが、
名物の食べ物といえば「淡雪豆腐」が挙げられる。当時、あわ雪茶屋で出されていたのは
葛や山芋をベースにした醤油味のあんをかけた「あんかけ豆腐」で、岡崎宿を通行する旅人に
親しまれていた。天保13年の記録に「茶飯壱膳、あハ雪豆ふ・香之物付弐拾文、引下ヶ拾八文」
とあり、ご飯、おしんこ、淡雪豆腐のセットメニューで18文であった。
現在のあわ雪は江戸時代の淡雪豆腐にちなんでつくられたお菓子である。」



『作法触れ』。



「作法触れ
勅使、朝鮮通信使、大名行列等がやってくると宿場全体に、町奉行から出迎えのための
通達が出た。「作法触れ」とは街道や宿場内での諸注意で、道路に盛り砂を行う事、手桶、箒を
出しておくこと、決められた場所に提灯を出すこと、ほら貝、鐘、太鼓、拍子木など
鳴らさないこと、街道では通行の前日から田畑などで下肥を施したり、ごみ焼をしないこと、
通行に際し土下座をすることなど細かい点まで指示された。
また、応接接待の作法についての「御馳走触れ」も出され、出迎え支度は大変なものであった。」



『往来手形』



「往来手形


それによって発展していった。一般庶民の旅行では通行許可証となる往来(通行)手形を
発行してもらわなければならなかったが、信仰のための旅ならば往来手形を容易に
受けられたので、庶民の間には伊勢参りなど、娯楽的要素も加えた寺院神社参詣の旅が広まった。
斡旋業者も現われ、旅行のための積立をする「講」と呼ばれる組織ができるなど、旅行は徐々に
民衆のものになってゆき、観光旅行の原点となった。」



『一里塚』。



「一里塚
徳川秀忠は家康の発案により、東海道・中山道・北陸道の三街道に一里(約四キロ)ごとに
工程の目印となる、一里塚を設けた岡崎の一里塚は東より本宿、藤川、大平、矢作にあったが、
現在、大平に南側の一里塚が残っていて国指定史跡となっている。
他の一里塚同様、大平の一里塚にも榎が植えられており、この榎は、家康が総監督大久保長安に
「塚にはええ木を植えよ」と言った言葉を「えのき」と聞き違えたという話が残っている。
参勤交代で大名の通過があると藩の使者が送迎の礼をした場所でもあったとされる。」



『市隠亭(しいんてい)』。




「市隠亭
伝馬町の塩商人、国分家は代々学問を好み、国分次郎左衛門衡(伯機)は岡崎藩の儒学者、
秋本嵎夷に詩文を学び、屋敷内に「市隠亭」という書斎を作った。 
ここでは岡崎だけでなく旅行者など多くの文化人たちの交流が行われ、市隠亭は文化サロン的な
役割を果たしました。文化人の中には民族学の先駆者の菅江真澄もいた。
主に漢字や漢詩と親しみ、その蔵書も多く、庶民レベルを超える高い文化が身分を問わず
広く温められた。
他に伝馬の旅篭、柏屋の主人金沢藤右衛門も金沢休と名乗り、文人として活躍した。」



最後に宿泊ホテル前にあった『旅籠屋』。




「旅籠屋
天保年間( 1830 年~ 1843 年)の記録によれば、岡崎宿には伝馬町を中心に本陣 3 軒、脇本陣 3 軒、
旅篭屋が 120 軒あったとされ、東海道五十三次中 3 番目の規模を誇る宿場であった。
旅篭屋はその規模により大宿、中宿、小宿と区別され、その他に庶民が泊まる木賃宿、休息をする
茶屋もあった。正保・慶安の頃( 1644 年~ 1651 年)からは飯盛女という遊女を
置く旅篭も現われ(岡崎は岡崎女郎衆で有名な宿場ともなった)、
庶民の旅行が増え始めた江戸中期頃になると各旅篭屋とも競争が激しかった。」



ホテルの部屋に戻り、コンビニで買ったビール・酎ハイを飲みながら部屋で反省会。
そしていつの間にか?爆睡。

                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2020.05.01 15:39:37
コメント(0) | コメントを書く


【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! -- / --
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: