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『旧東海道を歩く』ブログ 目次
旧道の途中に名残松があったが、現在は切株だけが残っていた。
日本橋から434km地点を通過。
前方に地下道入口が。
先に進むと、右手筋角に大正5年(1916)の鳥居と明治27年(1894)の常夜燈が建っていた。
この鳥居は昔はもっと南側にあったが、国道1号線の拡張工事で道路脇に追いやられたものだと。
鳥居の柱の下部は地面に埋まっている模様。
文字が刻まれていたが・・・・。
街道左手には廃業した『山賊茶屋』があった。
その昔、鈴鹿峠の一帯は山賊が出没し、往来する旅人はを金品を奪われる等して
難儀したようだ。そんな昔話にあやかって名付けた店名なのだろうが、国道1号と化した
峠道に山賊が現れるような雰囲気は今はない。
茶屋の前には、「鈴鹿峠の馬子たちの俚謡 「のぼりくだりの おつづら馬 さても美事な
手綱染かいな 鈴をたよりに 小諸節 坂は照る照る 鈴鹿は曇る 間の土山 雨が降る」 と
記された看板が建っていた。
山中交差点を通過。
山中交差点の左手に『馬頭観音』と『男女双体道祖神』が建っていた。
右手に行くと県道187号線。
『熊野神社』バス停。
長閑な山里の風景。
山中交差点の直ぐ先、左手に『熊野神社鳥居』があり、ここから100mほど参道を進むと
『熊野神社』があった。
旧東海道に面して建つ『熊野神社 一の鳥居』。
『明治百年記念樹』碑。
参道右手には茶畑が拡がっていた。
珍しい形の注連縄。多くの稲穂がぶら下がっていた。
石燈籠が並ぶ狭い参道。
二の鳥居の扁額には『熊野神社』と。
境内にあった『山中老人憩の家』。
境内を見る。
『熊野神社拝殿』。
かなり新しい拝殿であった。
拝殿に掛かる『熊野神社』の扁額。
境内社の『愛宕神社』・『津島神社』。
『稲荷神社』。
扁額には『正一位 稲荷大神』と。
『内陣』。
東京より435km、大津まで50kmと。
更に土山宿に向かって進む。
国道1号線の東京より435㎞ポストを過ぎると、左手の国土交通省土山スノーステーションが。
隣にポツンと『山神』社の石祠が。
先の進むと、右手に『一本松緑地』があった。
常夜燈があったが、近くに解説もなく不明な公園?であった。
遠く前方右側に高架橋が現れた。
左側にあったのが浄土宗の『清浄山 二尊院 十楽寺』。
『甲賀四十三番観音札所 十楽寺』
寛文4年(1664)の『南無阿弥陀仏』名号碑。
『山門』。
『山門』前の右側には天保3年(1832)の常夜燈が。
『水子地蔵尊』。
『歴代上人墓』。
『鐘楼』。
『十楽寺本堂』。
十楽寺は、寛文年間(1661-72)巡化僧広誉可厭大和尚が万人講を勧募し本堂、庫裏等を
完成し、念仏道場と定め、浄土宗総本山知恩院の直轄末寺となった。文化財案内にると、
本尊は日本最大級の丈六阿弥陀仏如来坐像で、ほか十一面千手観音、救世観音坐像、
摩耶夫人立像などが安置されているのだと。
『故陸軍伍長墓碑』。
『忠霊の碑』。
『十楽寺の文化財』
『石仏半跏像』。
国道に戻ると『十楽寺』バス停。
十楽寺バス停の北側にある熊谷板金の駐車場脇に『山中城址碑』らしき碑が建っていた。
山中氏は、橘諸兄の後裔橘義清が鈴鹿峠山中に住して山中氏を称し、山中俊直の代に
鈴鹿山麓の山中村地頭に任ぜられ、建久5年(1194)此処に城を築いたのだと。
左手の杉の木の下に『山神』碑が、そしてその周囲には注連縄飾りが。
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