JINさんの陽蜂農遠日記

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2020.10.27
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カテゴリ: 国内旅行
「本佐倉城跡」を後にし、次に近くにあった「伝説 酒の井」に立ち寄る。



「伝説 酒の井」は「酒々井(しすい)」の地名の元になった場所。
入口には木の門と立派な松の木が。



木門には「酒々井山円福院神宮寺」と書かれた寺号標が掲げられていた。
真言宗吉祥寺末寺、本尊は阿弥陀如来と伝わると。現在、建物はなかった。
室町時代には存在していた寺で江戸時代後期まで住職がいたのだと。
酒々井宿の麻賀多神社を支配していた神宮寺であったと。



「伝説 酒の井碑
ある親孝行の息子が、毎日酒を買って年老いた父親に飲ませ喜ばせていました。

「父に酒を買うこどかてきないことは、なんて親不孝なんだ。」ど、孝行息子は
ひどく心を痛めながら歩いていました。
井戸水をくみ上げ飲んてみると、それはなんと酒だったのです。孝行息子はたいそう喜び、
それからは毎日この井戸から酒をくんで帰り父親を喜ばせました。
この酒の井戸のうわさは、世間にも知られましたが、他の人がくんて飲んてもただの水でした。
酒の井戸かあることから村の名も「酒々井」と呼ばれるようになり、この碑が記念として
建てられたと伝えられています。

この碑は下総式板碑といわれ、﨨倉時代から室町時代に盛行した供養碑であります。
碑面をよくみると、蓮花ど梵字キリーク(阿弥陀如来種子)があります。」



正面に二基の石碑が。







こちらが、昔からの石碑であろう。かなり風化しており、ほとんど判読不能。
この碑が説明文の注にあるように下総式板碑といわれ、鎌倉時代から室町時代に盛行した
供養碑であります。
碑面をよくみると、蓮花と梵字キリーク(阿弥陀如来種子)があるとのことだが・・・。
「​ 種子(しゅじ)



当時の井戸は現存していないが、レプリカとして井戸が再現されていた。
緑のボタンを押すと音声案内がながれるのであった。
映画『酒の井伝説』 ​👈リンク も創られているようであった。



スイッチを押すと音声とともに、酒が!いや水が出て来ました。
これが酒だったら私にも夢の井戸なのであったが。



「酒の井しだれ桜」。



「酒の井しだれ桜
かって古井戸あり酒泉ごとく湧きいずると伝わりし故事をとどめんがため」と。



「伝説 酒の井」の手前の隣接した場所にあった石碑群。



古い墓や庚申塚のようなものなどが置かれていた。







この後にしばし歩いて県道137号沿いにあった「島田長右衛門家・島田政五郎家」を訪ねた。



「酒々井町登録有形文化財 島田長右衛門家・島田政五郎家

佐倉藩の城下町、旧成田街道の宿場町、佐倉七牧(徳川幕府直轄の野馬牧場)の野馬会所
(管理事務所)・野馬払い場の所在する地として栄えた場所です。
島田長右衛門家は江戸時代に幕府野馬御用を勤めていた家で広い敷地を有し、かっては
宅地裏に野馬会所と野馬払い場が続いていました。隣接する島田政五郎家は島田長右衛門家の
分家であり、やはり宅地裏に野馬払い場が続いていました。
現在の建物は明治10 ~ 20年頃に建てられた店舗兼住宅で、道路に面する店舗は南北棟、
住宅棟は店舗と直行する町屋づくりになっています。当時の商家の邸宅として
「日本博覧図千葉県編」(明治27年刊行)にも掲載されていました。
両家は現在においても歴史ある酒々井地区の中核的な建物として歴史的景観を
形成しています。」



近づいて。



交通量の多い道路の車に気をつけながら斜めから。



道路を渡り正面から。



そして道路沿いの黄色い樹を発見。



なんと金木犀の花が鈴なり!!香りも鈴なり!!



印旛郡酒々井町(しすいまち)の汚水マンホールの蓋。
町の木である大小の梅の木を8本 デザイン。中央に町章としすい、おすいの文字。
中央の酒々井町章の三角形は、千葉県を表し、円は、北総台地と人の和を表し、
県の酒々井町の位置に、町名の頭文字「酒」を配したものであるとのこと。
町名の頭文字「酒」は気が付かなかったのであったが。



そして「処宝山 勝蔵院」を訪ねた。
千葉県印旛郡酒々井町酒々井127。



「本堂」。
處宝山勝蔵院長現寺、真言宗文殊寺(廃寺)末寺、現在は真言宗吉祥寺末寺、本尊は不動明王。
もと東台不動山(現、中央台3丁目)にあった不動堂を佐倉藩主戸田能登守忠真が父忠昌の遺志を
受け継ぎ元禄十二年(1699)に現在の地に移転建立した。
今に残る本堂・木造不動明王坐像(町指定文化財)、仁王像はこの時に造られたものであると。
歴史を感じさせる狛犬そして石灯籠も。



「木造不動明王坐像」。



酒々井町指定文化財の「勝蔵院本堂」と「木造不動明王坐像」の案内板。

「勝蔵院本堂
本堂は宝形(ほうぎょう)造り、トタン葺きの「三間堂」で一間の向拝がつく。
向拝柱にかかる水引虹梁(こうりょう)には蟇股(かえるまた)が置かれ、
木階(もくかい)は三段てある。軒は一軒で半繁棰(はんしげたるき)である。
柱間は正面と側面は土壁囲いとなっている。内部は内、外陣に分かれ、いずれも天井は
棹縁天井(さおぶちてんじょう)とし、中央正面のみ板床とし、他は畳效きとなっている。
この本堂には、元禄十ニ年(一六九九)の棟礼(むねふだ)があリ構架(こうか)の手法、
構造材の風蝕度(ふうしょくど)、損壊状况等からみて、元禄年間の改築と観られ
町内では数少ない古建築として貴重である。」

「木造不動明王坐像
像高 一・三メートル
江戸時代初期のころ、江戸の仏師によって造像された大作て佐倉城主堀田上野介正信の
寄進によるとも伝えられている(『古今佐倉真佐子』)
この仏像は寄せ木造リの大作て江戸時代の様式が表現された力感の溢れている作であリ、
宿場時代はこの不動明王のある勝蔵院が中心となって繁栄したものであり、歴史的にも
大きな意義をもっていた。」



そして山門内の仁王像(金剛力士)・阿形像。
元禄12年(1699)建立。



仁王像・吽形像。



そして車に戻り、次の目的地である「大多喜城」に向かって県道77号を進む。



県道76号・国道409号に入り八街市の総武本線の踏切を渡る。



東金市に入り国道126号の高架下を走り台方ICを右折。



国道128号に入り茂原方面に向かって進む。



茂原市内を進む。



道路脇に「アマビエ様」が。



「アマビヱ様
江戸時代末期、肥後の国今の熊本。
疫病が流行ったとき海岸に現われ「私は海中に住むアマヒヱ様、
私の姿を写し人に見せよ」と言って海中に姿を消したという。
京都大学所蔵の互版には、疫病が治ったとの記載はないが、見た人の間で治ると
信じられたのかもしれない。
一日も早い新型コロナウイルスの収束を願いながらチェーンソーで膨りました。」



道路脇の草むらには彼岸花の赤い帯が。



大多喜町に入り県道172号の「いずみ鉄道」のガードを潜る。



そして「大多喜城 0.8km」の案内表示が見えて来た。




                              ・・・​ もどる ​・・・

                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2020.10.27 06:02:29
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