JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.16
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』 👈リンク

「青蓮寺」を後にして、次は裏にあった「熊野神社」に向かう。
「鎖大師」バス停の横に名所案内があった。



「青蓮寺」の脇の道を100m程西に向かって行くと正面に石鳥居が現れた。



石段の上に「熊野神社」拝殿が姿を現した。



狛犬・阿形(右)。



狛犬・吽形(左)。



「拝殿」。
鎌倉市手広5丁目1−1。

   事解男神(ことさかのおのかみ)
   速玉男神(はやたまのおのかみ)。
手広の鎮守。もともとは青蓮寺支院の宝積院が管理していたとされ、本地仏は如意輪観音で
あったという。このことから青蓮寺の鎮守であったのかもしれないが、宝積院が江戸時代
に廃寺になったので詳しいことはわからない。慶安元年(1648)の棟札には「別当宝積院」と
見え、『新編相模風土記稿』にも「宝積院持」とある。
またこの棟札には領主大岡氏・年寄和田氏・名主内海氏の他、官途衆(かんどしゅう)・百姓衆が
見える。
例祭の日に社殿の鰐口(社殿や仏堂につるされている金属製の音響具)を叩くと、「どんどん」と
いう音がして神様が出てくるという伝説がある。
社殿に棲みついた「てん」が音に驚いて飛び降りてくるので、このような伝説ができたと。







境内の石塔。



石祠が並んでいた。



「拝殿」前にはイチョウの老木が。



「拝殿」前から参道を見る。



そして同じ道を引き返し、「青蓮寺」前の県道304号線・腰越大船線まで戻り横断歩道を渡る。




道路を渡った場所にも「鎖大師」と刻まれた石碑がポツリと。



そして直ぐ先あったのが「歓廣稲荷大明神(よしひろいなりだいみょうじん)」。



足場パイプで出来た仮設の手摺を利用しながら慎重に石段を上って行くと
朱の鳥居と「社殿」が。
比較的新しい「鳥居」と「社殿」であった。



扁額は古く「正一位 歓廣稲荷大明神」。



「内陣」。
祭神:稲荷神(宇迦之御魂神( うかのみたま )/ 五穀豊穣の神)。



そして県道を西鎌倉方面に向かって、擁壁の下の歩道を進み、カーブを過ぎると坂の頂上に
なるが、その手前に左手に戻るような急坂があり、ここを進む。



左手にあったのが鎌倉景観百選の一つ「谷戸坂の切通し」であったが・・・。
残念ながらバリケードが設置され「危険 落石のおそれがあるので通行を禁止します」と。



フエンスの隙間から「谷戸坂の切通し」を。
昔はこの切通しを歩いた記憶があるのですが。
いわゆる「鎌倉七口」とは別の切通しであるが、原型のよく残っている切通しの一つ。



鎌倉では一番迫力のある切通しだと思うのですが、残念ながら。



写真の石碑には漢字だけが刻まれていた。
「惟時維安政年間我郷有篤志家細谷久兵衛 内海津左衛門 和田茂左衛門之三氏 大奨励
実業転計公益当時於隣村津有荒野氏等斡旋 而共村民開拓之五町三段有歩称字猫池
台大井窪于仝?仰其福徳爾来星移物変?恨?其功績不垂竹帛茲同志者相謀鏤石而顕彰之
明治卅三年十月建之 当村 齋藤政吉作並書」であると「​ ネット ​」👈リンク より。
安政年間(1854~1859)に細谷久兵衛、内海津左衛門、和田茂左衛門等有志が、隣の津村の
荒野氏等を斡旋して、字猫池の辺り5町3段(反)を開拓した功績を称える顕彰碑の様である。



一番迫力のある切通し・「谷戸坂の切通し」を意地でもカメラでとフェンスの隙間から。
切通しの下の道は小竹が生い茂ってしまっていた。



そして再び車に戻る為に、擁壁のある県道の坂道を、往路とは反対側の歩道を下る。



そして途中にある「トンネル」は「ヤマノイハイツ手広」というアパートの居住者用のトンネル
なのであった。何故かこの入口部分だけが黒変しているのであった。
入口には「ヤマノハイツ手広」と「私有地につき関係者以外通行禁止」の看板が。



そして歩道から、先ほど訪ねた「青蓮寺」の境内を望む。



「本堂」を高見で正面から。



そして「青蓮寺」の駐車場に戻り、車で次の目的地の鎌倉山にある「普賢光明寺」に向かう。
民家の入口の様な「普賢光明寺」、表札には名字も。
鎌倉市鎌倉山4丁目8−2。
「普賢光明寺は平成19年に建立された新しいお寺です。
故に、古来のお寺のように檀家やお墓を持たず、信徒の方々のご協力によって成り立っている
お寺です。」とネットには。



「山門」と「本堂」。



「本堂」の「内陣」。



次に徒歩で近くにあった「靈元根本道場」に向かう。
途中、民家の生垣にはピンクの「トキワマンサク」の花が満開で迎えてくれた。



「靈元根本道場」
鎌倉市鎌倉山4丁目11−8−4



「南無妙法蓮華経 靈元根本道場」碑。
通称銭洗大黒天。
開山は大本山本圀寺68世久村諦道上人(松葉谷長勝寺54世)とのこと。
単立寺院であると。



「銭洗大黒福聚尊天
法華総本寺大本山本圀寺六十八世久村日鍳猊下により開眼された銭洗大黒聚尊天に、
天・地・人を司る福禄寿無量の御利益を授け下さる神様てす。
その御本地は久遠実成本師釈迦牟尼佛です。(大黒天神)。
俗世の銭は、沢山の人々の欲念、執着心が凝り固まって災いを起こします。
この悪想念を大黒天即ら釈迦佛・日天の威神力に依って洗い流し、清浄な神の銭に替える
作法が銭洗なのてす。
一心に大黒様に祈りながら、銭に御水を掛けて、己の邪悪な欲心と銭に憑いた執着心を
共に大黒天に御供養するのです。
銭洗い供養した銭のうちの一部を浄財・福銭としていただき、お守りとして次の機会まで
身につけて幸・福を呼ぶのです。
欠かさず大黒様に供養した人は必ず現世安穏後生善処と佛の世界へ行けるのです。
大黒天神授文
寿福増進安穏楽 除病延命息災我
福我円満重果報 衆人愛敬従恭敬 
入来衆人得七寳
南無妙法蓮華経
(大黒徳自在円満菩薩陀羅尼呪)
法華総本寺大本山圀寺別院
靈元根本道場 謹告」



台座に「知法思國」と書かれた像は日蓮上人像であろうか。



そして鎌倉山ロータリー。
鎌倉市鎌倉山4丁目1-5。



鎌倉山ロータリーには「鎌倉山」碑が建っていた。
関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の鳥居の石柱を再利用したものであると。



そして道を間違えながら、徒歩にて「夫婦池公園」の前まで行く。

ヤマザクラにツツジ。里の情景を思いながら 花と自然の鎌倉さんぽ「4月・卯月」編 | アマナとひらく「自然・科学」のトビラ | NATURE &  SCIENCE

その先に「しのぶ塚」。
しのぶ塚は笛田山佛行寺の「源太塚」と対になる塚である。
この「しのぶ塚」は昭和48年(1973年)に建立されたもの。
「しのぶ塚」は、梶原景季の妻・信夫のもの。
景季の父景時は、御家人66名の弾劾に遭い、景季とともに謀反を企てて駿河国で討死した。
信夫(しのぶ)は嘆き悲しみ自害したと伝えられている。

新緑の鎌倉:源太塚・信夫塚,常磐文庫跡を巡る(1) - 中高年の山旅三昧(その2)

そして再び車に戻り、次に訪ねたのが「鎌倉山さくら道」。

「鎌倉山さくら道」道標。

「鎌倉山さくら道」沿いにあった「佐佐木信綱文学碑」。
鎌倉市鎌倉山3丁目21−11。



「日ぐらしに 見れどもあかず ここにして 富士は望むべし 春の日秋の日」
歌碑がある所に住んでいた弟子の要望により詠んだそうだが、今は竹林が迫っていて
富士山の姿は見えなかったのであった。
昔は案内プレートが石碑の裏にあった記憶があるが・・・撮影を忘れたのか?



そして右手にあったのが「ル・ミリュウ 鎌倉山」。
高台にあり鎌倉の景色が一望できる人気のカフェであるようだ。



「鎌倉山記」に到着。
「夫婦池公園」碑。
ここからも「夫婦池公園」に行ける山道があるようだ。



「夫婦池公園」案内図。
「夫婦池公園」は、鎌倉山(鎌倉市の西に位置する)の山合いにある2つの池(上池・下池)と
桜が有名。豊かな自然が残されており、ヨシの群生地、イワボタン、ツリフネソウ、
ハンゲショウなどの貴重な植物が自生し、カワセミ等も生息する場所として鎌倉でも隠れ家的な
公園となっているとのこと。
開園時間  8:30 ~ 17:15(通常)
休 園 日   12月29日 ~ 1月3日



「夫婦池」への「山道」が確認できた。
「【夫婦池の由来】
約330年前の江戸時代天領の頃に代官(成瀬五佐衛門重治)が笛田村に灌漑用水として現在の
下池を掘らせました。その後、笛田・手広の住民により中央の堤が建設されて上池と下池が
できました。上下一対の池のため、現在「夫婦池」と呼ばれています。」とネットから。



そして大きな石碑が道路脇にあった。



「鎌倉山記
「天慶の乱に平貞盛が将門を夷滅してより平氏の威勢漸やく東国に張り其孫直方鎌倉邸に在りて
幾多の荘園を領有す、後冷泉天皇の世、源頼義相模守に任ぜられて鎌倉郡に入るや直方の
婿となり源氏の根據を東國に植ゆ、當時京都奈良に於ける山門の豪僧が朝廷に迫るや頼義、直方
等源平二氏相連引して朝廷を守護す、後頼義、義家の前九年、後三年の役に従事したる将士は
實に此地方の荘園より抬頭したるものなり、當時鎌倉郡を周匝したる群峰を概稱して鎌倉山と
言ふ、此等の丘岳は文献に記録せられたる以外に豪族闘爭の古戰場なりしことは親不知の嶮、
戰道が峯等の地名が今猶ほ存するを見て之を知るを得べし、治承四年源頼朝が兵を相模に起し
一勝一敗の後、漸やく房總の地に勢を張るや安達平九郎盛長の説に從って府を鎌倉に開き、
之より荊棘の地變じて大都となる 昭和三年七月廿七日菅原通濟君同志と協力して鎌倉山を闢き
道路を通じて住宅地となす、鎌倉が義貞の為に壊滅したる後六百年にして嶮峯の上に彩瓦の
新屋起り戰道變じて自動車道となり朽創を裏む苔土に吉士の笑語を聞き釵玉の埋もれたる
短草に妙婦の衣裙飜へり昇平の氣蒸々として山谷の間より湧く、昭和十年七月余此地に遊び
菅原君と共に風物の變化を語り歩して鎌倉山神社の石磴に昇れば富士山、箱根連峰、天城山等
の遠岫交も濃淡の色を示し斜陽陰裡に來徃する船影の彼方に大島を見天地双碧人と家と
皆な畵中のものたるを覺ゆ、嗚呼、曽て鎌倉の大都が鬱然として荊棘の中より湧き出でしことを
回想すれば百年の後鎌倉山の形勢それ如何ぞや之を思ふて感慨限りなし乃ち茲に此事を録して
以って後世の語り草となす
昭和十年七月   竹越與三郎 撰
         菅原通濟  題
東京青山 石勝刻 」
と碑文には鎌倉山の由来が「延々と」記されていたのであった。




                            ・・・​ もどる ​・・・

                 ・・・​ つづく ​・・・






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Last updated  2022.05.19 15:23:46
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