JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.05.23
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

「成福寺」を後にして「成福寺」背後の山(亀甲山)にある小袋谷の鎮守・「厳島神社」を
目指して先程の道を引き返す。
正面に「厳島神社」の石鳥居と石段が見えた。



石段を上って行くと左手に石碑が3基と手前に「戌子九月吉日」と書かれた石柱があった。



「市指定有形民族文化財 庚申塔(寛文十年銘)」



庚申塔(寛文10年(1670年)銘)。下部に三猿の姿が。



「鎌倉市指定有形民俗資料 石造庚申塔
この塔は寛文10年( 1670・江戸時代)の舟型塔で上部中央にキリク(阿弥陀)、
それより下方右にサ(観音)、サク(勢至)の種子(しゅじ)が刻んである。
阿弥陀三尊の種子を塔につけた庚申塔としては鎌倉では最も年代が古い。
塔身には願文と思われる文字が刻んであるが風化がはなはだしく全体は判読できない。
下部の壇には、三猿が正面向きに右から「雄のいわざる」「雌のきかざる」「雄のみざる」が
横に並び、悪いことは「いわない」「きかない」「みない」と教えている。
厳島神社の参道へ移すまでは、小袋谷の「水堰橋」の北側にあった。
平歳17年( 2005年)  小袋谷厳島神社氏子会
注:庚中塔は干支(えと)の庚中(かのとさる)にあたる日に、人の体内にいる虫が天の神に
 その人の罪を告げようとするためこの日に限って徹夜するという信仰にもとづいて
 建てられたものといわれます。
 また、庚申様は豊作を祈り、病や災いを防ぐ神としても知られています。」
種子(しゅじ)とは密教で、仏・菩薩(ぼさつ)の象徴として書き表す梵字(ぼんじ)。種字。種子字。




青面金剛童子(安政7年(1860年)銘)。



更に「小袋厳島神社」の石段を上って行った。



そして左側に「二の石鳥居」が現れた。



狛犬(阿形像)(右)。



狛犬(吽形像)(左)。



「拝殿」。
かつては「弁天さま」と呼ばれていた社で、成福寺の南側にあった(JR横須賀線の踏切の
向こう側)。
しかし、関東大震災で崩壊したため、周辺の吾妻社、八幡社とともに合祀され、厳島神社として
現在地に移された。
現在地は八幡社があった所で、成福寺の鬼門除けの宮だった。吾妻社は現在の小袋谷公会堂の
場所にあったという。
なかなか変遷された経緯が複雑である。八幡社は応神天皇、吾妻社は橘姫命、厳島神社の祭神は
市杵島姫命で現在の祭神も同じである。
祭神:応神天皇、橘姫命、市杵島姫命 
例祭:七月二十二日以降の日曜日 
神事芸能:鎌倉神楽、子供神輿渡御(例祭) 
宝物:石造庚申塔寛文十年(1670)銘)



「拝殿」正面の彫刻。



境内から「拝殿」を見る。



そしてJR横須賀線沿いを歩き踏切・第一鎌倉踏切が右側に見えて来た。



湘南新宿ライン・横須賀線の逗子行きの電車が北鎌倉駅方面に。



この踏切を渡らず手前を左手に折れ少し進み、県道21号線との交差点の先を右に入って行った。




右手に現れたのが、JR横須賀線へ抜ける素掘りの隧道。



「台の手掘隧道」と呼ばれているらしい。
坑口は周囲が金網で養生されており、シダが密集して若干ワイルドな雰囲気。



この出口側には横須賀線沿いに道はあるが、途中で終わっており、ここを通過し
回り込まないと先程の踏切には、辿り着けないのであった。




そして暫く進むと左手に「八幡神社」への石段が現れた。



石段の上に石鳥居が見えた。



石鳥居を潜り更に石段を上る。



「庚申塔群」。



「青面金剛像」
六臂で、手に、輪宝、鉾、羂索、蛇、弓矢、金剛杵、日月、劒などを持つ。



「文字庚申塔」。



下部の「三猿」。



正面石段上に「本殿」。



狛犬(阿形像)(右)。



狛犬(阿形像)(左)。



「奉納記念碑
氏神に祈る心を心とし氏子皆幸あれと願うなり。われ長寿を感謝しこれを記念して
左記を奉納する。
一、石垣 玉垣
一、石段
一、狛犬壱対」
以下略」



「本殿」
元禄十一年(一六九八)、将軍綱吉、小坂郷台村を石野、別所両人に領ち賜う。
別所氏の領地は藤沢、鎌倉間。及び戸塚、鎌倉間の要路に当れるを以て、毎月五、十日の
両日に市を立て諸物を売買交易し漸時股賑を来たし、小名を市場と称するに至りき、
ここに領主別所氏享保二〇年(一七三五)八月十一日を吉日と撰び、字亀井なる高地を神地と
定め平素敦く尊信せし石清水八幡宮を勧請し鎮守とす。「相模風土記」に「稲荷社、八幡宮二社
ともに村の鎮守とす。とあるは当八幡神社を言えるなり」とある。又「神明、春日を合祀す」
とも記されている。
 社殿は関東大震災で全潰し、大正十五年十二月十日、再建し現在に至る。



「内陣」。



境内の「稲荷社」。



多くの狐様が。



「本殿」前から石鳥居、石段を見る。



そして石段を下り、再びJR横須賀線に沿って進む。



こちらは線路の反対側が崖。



そして左前方に素掘りの隧道に赤い門の如き物が現れた。



「好々亭門 (こうこうていもん)」。


あった会席料亭「好々亭」の店主が駅から料亭への近道として開削したものであると。
中央に「好好洞」の文字が。



右側に「好々亭門」、左側に「御会席 成吉思汗料理」の文字が。
好々亭は2007年に廃業し、現在この隧道は地域の生活道路として活用されているのだと。



「好好洞」のトンネルを抜け向こう側の道路に行く。



「好好洞」を抜けて振り返る。
会席料亭「好々亭」は10年以上前に閉店したようだ。



そして「好好洞」を戻らずに、右手に進むと前方正面に神社らしき建物が現れた。



その手前右手5、6段の石段の上、左側にあった「庚申塔群」。



「市指定有形民俗資料 庚申塔(寛文五年銘)一基」。



その右側には「角柱型庚申塔」
正面に「堅牢地神」(けんろうじしん又はじじん)と刻まれていた。
文政十一年(1828)と刻んである。
「堅牢地神」とは、バラモン教の中の12の神が仏教に取り込まれ、それぞれの方位や位置を
守る十二天の一つ。



「舟型庚申塔」
上辺に梵字の「キリーク」(阿弥陀如来を表す)を刻み、中心に「奉供養庚申所願成就也 敬白」
と刻まれているとのこと。
右脇に「寛文五年(1665)」、左脇には「乙巳(きのと・み)十月十五日」と。
下には三猿が彫られていますが、中央は「めす」、両側は「おす」とのこと。
塔身は高さ136センチで、市内で最大といわれている。



「自然石型庚申塔」
中心に「青面金剛」と刻み、裏に「万延元年(1860)」とある。



奥から「庚申塔群」を見る。



「御嶽大光〇〇」。
木曽の御嶽山(おんたけさん)を信仰する「起立講(きりゅうこう)」の碑であろうか。



右が「尖頭角柱型庚申供養塔」
 正面の上のほうに、よこ書きで「庚申」、その下にたて書きで「供養塔」と刻み、
 下辺にはー猿が彫られていまる。
 寛政十二年(1800)の銘が
中央が「舟型庚申塔」
 中央に「奉造立庚申供養」、右脇に「二世」、左に「安楽」と願文を刻んでいます。
 下辺に三猿が彫ってあります。造立年代は不明」
左が「尖頭角柱型庚申塔」
 正面に「庚申供養塔」と。。
 右側に寛政九年(1797)とある。


奥の右側に「舟型庚申塔」
 上辺に「日月」を付け、中心に六手合掌の青面金剛像を刻みます。
 造立年代は不明
中央に「唐破風付笠塔婆型(現在は、笠がない。)」
 上辺に「日月」を付け、中心に六手合掌の青面金剛像を刻み、
 下辺には、三猿が彫られていますが、左右のものは横を向いている。
 享保十二年(1727)と彫られている。
左側に「尖頭角柱型庚申塔」
 中心に「青面金剛童子」と刻み、
 右側に「嘉永二年(1849)」とある



そして「八雲神社」境内へ。



扁額「八雲神社」。



「本殿」。
鎌倉市山ノ内585。
山ノ内の「八雲神社」は、鎌倉時代、疫病が流行した際に、村人が京都の祇園社
(現在の八坂神社)の神霊を勧請したと伝えられ、「午頭天王社」と称されていた。
室町時代に関東管領上杉憲房が武運長久を祈願して勧請したとも伝えられる。



拝殿向拝に、一弦琴を弾く中国の伝説上の女性・玉巵と龍の彫刻が施されている。
玉巵弾琴(ぎょくしんだんきん)。
玉巵(ぎょくし)は、正式には太真王夫人(たいしんおうふじん)といい西王母の末娘である。
絶世の美女であったと。



「木鼻(右)」。



「木鼻(左)」。



そして北鎌倉駅方面からの正規の?参道である石段の先にある境内社の「稲荷神社」の
石鳥居と左に石碑が見えた。



石鳥居の先に「稲荷社」。



「稲荷社」。



「清瀧不動尊」碑。明治34年12月の建立。



前方の石は「晴明石」とも呼ばれ、火難・災難よけの神の石といわれていると。
「びっこ石」とも呼ばれる。むかし、鎌倉街道にあった鎌倉十橋の一つ、十王堂橋(今は暗渠)
の際にこの大きな石が埋まっていたと。
この石を知らずに踏めば足が丈夫になり、知っていて踏めばびっこになるといわれていた。
現在は、八雲神社の境内のここにに移されているのだと。



「趣意書 山之内稲荷社建立事業への御寄付お願い」。



「國常立尊大神  大己貴大神  少彦名大神」が刻まれた緒神は、明治22年建立。



裏に碑文があったが、難しくて読めなかった。
台石の左に「世話人 関戸祐一 栗田安◯ 山之井庄右ェ門 河内弥三郎 鈴木定次郎」
右に「発起人 関戸長左ェ門 桃田与惣右ェ門 伊藤喜三郎」などの銘が刻んであったが。



高台から「本堂」を見る。



狛犬(右)。



狛犬(左)。



石段を下りて行くと「村社 八雲神社」碑。



石段を振り返る。こちらが本来の参道なのであった。



そして脇の細道から「北鎌倉駅」のホームを覗く。



そして線路脇の細道を左に曲がり進み長い石段を上る。



階段の途中左には横穴が有り入口には扉が付いていた。民家への入口であろう。
ポストや玄関チャイムもあったので。



そして石段を上り切ると正面に山門が現れた。



扁額は「大機山」。



寺号標「雲頂禅庵」。



「境内の拝観はできません」とあり、「山門」の下には格子状の扉が閉まっていた。



ここは既に円覚寺境内であり、円覚寺境内の一番西にある塔頭・「雲頂禅庵」。
正面に新装なった「本堂」。
「「雲頂菴」は、もとは禅宗では五山、十刹に次ぐ寺格「諸山」に列せられていた大崎山 長勝寺の
塔頭でした。
長勝寺は1296年、大覚禅師 蘭渓道隆の法嗣 仏燈国師約翁徳倹により創建され、その後、
二世 空山円印が開山塔頭として雲頂菴を興しました。開基は、長勝寺、雲頂菴とも
つまびらかではありません。
鎌倉幕府の滅亡、南北朝の混乱、室町幕府の成立など激動の時代にもよく寺勢を保ってきましたが、
永享の乱(1438年)によりすっかり衰え、かろうじて命脈を維持していたところ、文明年間の
1460年前後から、主の関東管領 上杉氏をおさえて台頭してきた長尾氏 ― 長尾尾張守 忠景・
顕忠父子 ―が後ろ盾となって(中興開基)再び寺勢を盛り返し、戦国の乱世の時代に大檀那
長尾氏の厚い外護のもと寺勢を保ち、円覚寺において中心的な役割を果たしました。
その後、江戸時代に入って円覚寺の塔頭に列せられ、今日に至っています。」とネットより。



「本堂」の右手にある白壁の建物は「庫裡」であろうか。



「雲頂菴について」をホームページより。



「山門」前から南西方向の山の中腹には「北鎌倉女子学園中学校・高等学校」が見えた。



「雲頂禅庵」の境内の隅にあった石仏を見上げて。
水子地蔵菩薩(子安地蔵菩薩) であろうか。



「雲頂菴」の関係者専用の入口がその先に。
ここまでは車が入って来られるようであった。




                              ・・・​ もどる ​・・・



                   ・・・​ つづく ​・・・





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Last updated  2022.05.19 15:27:06
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