JINさんの陽蜂農遠日記

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2021.07.29
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カテゴリ: 鎌倉市歴史散歩
『​ 鎌倉散策 目次 ​』

「光明寺」の「開山堂」の渡り廊下から見えた対岸の建物は「書院」。



池泉庭園「記主庭園」の石製の太鼓橋にいた野鳥はコジュケイ(小綬鶏)であろうか。



「開山堂」裏の「書院」への渡り廊下を見る。



池泉庭園「記主庭園」の古代ハスの花。



「開山堂」の周り廊下の奥から「本堂」への渡り廊下を振り返る。



「観蓮会」が7月24日、25日に開催されると。



「本堂」脇の石仏の後ろ姿を。
中国唐代の人、浄土念仏の高祖「善導大師」像。

法然上人はこれに帰依して浄土宗を開かれ、三祖良忠上人もまた帰依を厚くされたと。



この正面からの写真は以前に訪ねた時のものであるが。



再び「大聖閣」をズームで。
「観蓮会」の時には抹茶席が設けられ、本尊も拝観できるのだと。



「阿弥陀三尊像」をズームで。



この日は本堂修理に伴い、拝観が出来なかったが「 三尊五祖の石庭 」が本堂南側にあるのだ。
再び境内配置図を。



以下の三枚の写真は、「 三尊五祖の石庭 」を以前に訪ねた時のもの。
三尊とは、極楽浄土の阿弥陀仏とその脇士たる観音・勢至の二大菩薩を表し、五祖は浄土教を

この三尊五祖が、庭園の中に石で表現されていると。
庭園全体の構図は、煩悩多いこの世(此岸)と救われていく彼の岸(彼岸)とを明らかに示して
いるのだと。



「三尊五祖の石庭」案内板。
秩父青石のうち、奥の三石が阿弥陀三尊(阿弥陀如来・観音菩薩・勢至菩薩)を表し、
手前の五石が五祖(釈迦・善導・法然・鎮西・記主)を表すと。
植えられている「サツキ」は煩悩具足の衆生を表し、「敷石」は紫雲を表しているという。



手前左から「鎮西」・「法然」・「善導」各上人と「サツキ」の中に「釈尊」。




境内に戻って「法然上人八百年大御忌鑽仰」。



開山堂の左前に建つ石碑には、「ここに 鎌倉アカデミア ありき」
〈これからの教育は、自分の頭で考える人間づくりにある。教育に携わる人間は、大胆に
思い切った教育を進める野人の中から選び、学校は寺子屋でもいいから、文部省の
中央集権的な教育統制は無視すべきである〉(一部略)
鎌倉アカデミアは、こんなコンセプトをもとに昭和二十一年(一九四六)、材木座の光明寺を
使用して開校されました。学長の哲学者・三枝博音をはじめ、作家・高見順や演出家・
村山知義といった個性あふれる教授陣は、教育の理想を求めて、ユニークで自由な実践を大胆に
押し進め、「楽しい学園」を目指し、作家・山口瞳、作曲家・いずみたく、映画監督・
鈴木清順など多くの逸材を輩出。



「寺務所」。



「寺務所」玄関の毛筆による書き物には、鎌倉光明寺の良忠作の御詠歌が。
「おしえおく このことの葉の ゆく末を おもいわすれず われをとぶらえ」



以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十八番 光明寺」の「如意輪観世音」の御朱印。



そして次に訪ねたのが「光明寺」の隣・南側にある「蓮乗院」。
鎌倉市材木座6丁目16−15 。



「本堂」。
「光明寺」より早い時期にこの地にあった寺で、はじめは真言宗だったと。
「光明寺」がこの地に移されてきてから、子院となり「蓮乗院」と名を改めたと。
良忠(りょうちゅう)上人が光明寺落成までここに住居して建築を督励(とくれい)したと
いわれ、「光明寺」の新住職になるとまず「蓮乗院」に入ってから改めて「光明寺」の本山方丈
(ほうじょう)に入るならわしになっているとのこと。
蓮乗院の本尊は阿弥陀如来立像。この立像は、寄木造(よせぎづくり)像で高さ81.5cmあり、
仏像の調査で、造像は「正安元年(1299年)」、作者は「大仏師播磨法橋宗円」という造仏銘が
胎内に残されていると。



「​​ 本堂内陣 ​」👈リンクの「阿弥陀三尊像」をネットから。


 【https://www.kcn-net.org/senior/tsushin/ttemple/y05/0506taka/syasin.htm】より

「本堂」の天水桶と鎖樋。



屋根には蓮の花瓦と獅子の巴蓋瓦(ともえふたかわら)。



「蓮乗院」境内から「光明寺」の「鐘楼」を見る。



「光壽無量」と刻まれた五輪塔。



「福徳地蔵尊」。



「諸願成就 水子供養 福徳地蔵尊」碑。



墓地にはこんな墓石も。



「蓮乗院」山門を出て「光明寺」の山門を横から見る。



この植物は「い草」に似ていたが。



以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第十九番 蓮乗院」の「十一面観世音」の御朱印です。



そして次に訪ねたのが、「光明寺」の北側にあった「千手院」。



「鎌倉三十三所観音第二十番 千手観世音菩薩」碑。



「浄土宗 千手院」。



朱の「山門」の扁額も「千手院」。



境内へ。



「坂東三十三所観音巡拝満願攸」碑。



「西国 秩父 坂東 百観世音霊場巡拝結願記念塔」。



「松尾芭蕉 句碑」。
「春もやゝ 気しきとゝのふ 月と梅 芭蕉翁」
「春」、「梅」と季語が重なり、更に「月」まで加わっていて、季語が3つあると
言われる句であると。



文学案内板「松尾芭蕉句碑」
  春もやゝ 気しきとゝのふ 月と梅   芭蕉翁
碑裏には次の文面が刻まれている。
「子産は安房国 安房郡大網村にして、明治八年より錫を ここに止無 此営みは 十九の
天五月なり 法名 一蓮社念誉上人祐禅定賢和尚 田中安太郎書 当十四歳 酒好 
教へ路の碑は顯れり曼殊沙花」
この千手院は浄上宗で、天照山千手院と号し、羌明寺の塔頭の一つであり、もとは光明寺の
寺僧寮であったと伝えられる。本尊は千手観音。江戸時代より寺小屋のあった所で、境内には
梅の古木があった
碑裏に記されていみ定賢和尚は、明治八年に千葉から旅の僧として当地を訪れ、、千手院の住職
となり、明治八年に千葉から旅の僧として、当地を訪れ、千手院の住職となり、寺子屋の先生を
していた。明治ニ十五年に亡くったが教え子の一人であった田中氏が和尚をしのんで芭蕉の俳句を
選び、当塒十四歳の子息安太郎に書かせて、この句碑を建てたものである。
芭蕉のこの俳句は、芭蕉七部集の中「続猿蓑」に収められている。句意としては、春とは
名ばかりで、まだ寒い寒いと思っているうちに、いつか梅が咲き、月もおぼろにかすんで、
ようやく春らしくなってきた、というものである。
田中氏がこの句を選んだのは、境内にあった梅の古木にちなんだものであろうか。」


「子恵地蔵」は祠の中に。



「本堂」
千手院は、光明寺の支院。専修院と呼ばれていた時期もあった。
開山・創建年は不明。
本尊は千手観音で鎌倉観音巡礼第20番札所。
千手院は、光明寺の僧坊だったと伝えられ、各地からの学僧の修行道場として栄えた。
江戸時代中頃になると学僧が減少し、住職が子どもたちに読み・書き・そろばんを教える
寺子屋となり、明治時代には桑楊学校と呼ばれていたと。



寺務所。



御詠歌「かづかづの のそみもとむる もろひとの ねかひをはたす ちかひをそきく」。




明治三十六年十月二日の篠つく如き雨は忽ち山津波を起して當材木座崖を突き崩し人家三軒を
土中に埋め住民九名の命を奪ひたり その内二名は由井濱小学校の生徒にして尋常科一年なるは
髙林重吉といひ同四年なるは安田元次郎と呼へり 朝に机を並へ夕に手を取りかはしたる學友の
無残の最後を吊はむとて職員生徒發起して爰に哀悼の碑を建つるものなり」



墓地内の聖観音菩薩像。



現在位置はここ。



以前に頂いた「鎌倉三十三観音霊場 第二十番 千手院」の「千手観世音」の御朱印。



そして「光明寺」の「総門」、「山門」を振り返りながら、「光明寺」を後にしたのであった。




                              ・・・もどる・・・


                  ・・・つづく・・・






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Last updated  2022.05.19 16:04:30
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